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今週の1枚(03.12.15)
ESSAY 134/ 日本帰省記 (その3)
日本帰省記の第3回目です。
3回目にして、一番重量感のある感想を書きます。これがメインだという気がするのですが、ヘビーですよ。
何かというと、日本に帰ってしばらくの間、やっぱり日本がイヤになってました。そりゃ紅葉は奇麗だし、温泉は気持良いのですが、根本的な部分で「ああ、ここから脱出しておいて良かったわ」と心底思ったわけです。ただし、これは僕に限らず多くの人もそう言います(特に都会に戻った人)。「あー、もー、早くオーストラリアに戻りたい!」って思うという。実際、ワーホリ終わって日本に帰った人で、わずか1週間でオーストラリアに舞い戻ってきた人もいるくらいです。
皆さん、なにがそんなにイヤなのかというと、とりあえずとっ散らかっているし、密集してるし、ゴチャゴチャしてるし、妙になま温っかいし、緊張感ないし、TVや雑誌を見れば社会全体が痴呆症にかかってるみたいでうんざりするし、、、、、という生理的な不快感ですね。これはある意味当然で、そりゃ生活環境が違うんだし、日本の都会にスコーンと抜けた空間を求めてもそりゃ無いものねだりです。南国の島に行って「スキーができない」と言ってるようなものでしょう。それに生理的な嫌悪感は、それが生理的であるからこそ、逆にしばらくしたら慣れます。人間の適応能力は凄まじいものがありますからね。すぐに慣れちゃうでしょう。
でも、今回僕が言おうとするのは、そういうことじゃないです。上記のような感想は、過去の日本見聞録(雑記帳にあります)にも詳しく書きました。それに帰国も何度目かになると、そういうものだとギャップを予測してから帰りますから、それほどガビーンとはきません。それどころか歯を食いしばって覚悟してただけに、逆に「あれ、思ったほど悲惨じゃないな」とホッとしたりすらします。僕が感じたのは、そういうことではなく、もっと抽象的、もっとテツガク的なものです。すっごく分かりにくい微妙な感覚だと思うので、読んでもピンと来ないかもしれません。お覚悟なされませ。
僕が感じた最大の不快感は、閉塞感です。「なんだ、そんなの知ってるよ」と拍子抜けした人もいるでしょうけど、そうじゃない。今の日本で言われているような、景気が悪く、先行き不透明だから閉塞してるという閉塞感ではないです。そーゆーことじゃない。仮に、日本の日本の景気がメチャクチャ良くて、皆でベンツやBMW乗りまわして、30歳で冬のボーナス250万円とかいうバブルの頃に戻ったとしても、僕の感覚は変りません。それでもやっぱり閉塞してる。「閉塞」というとまぎらわしいから、より的確な言葉を捜すと「密閉感」「密封感」とでも言いましょうか。
日本って、あまりにも日本だけで完結しすぎちゃってるのです。世界から遮断されてしまっている。まるで海底都市とか月面基地みたいな感じ。日本列島の上からパコッとお椀をかぶせたような。だから、極端な話、日本以外全部水没したり人類が死滅しちゃったっていいんじゃない?とか、別に今の日本社会が「21世紀初頭の地球上」になくたって構わないんじゃないかと。シャボン玉のなかの世界のように、ふわふわ浮いてどっかに飛んでいっちゃっても全然OKなんじゃないかってくらい、密閉されてる感じがする。
そして、ここが分かりにくいところだと思うのですが、あまりにも密閉されているから、逆に現実感がないんです。確かなリアリティみたいなものが希薄になってる気がする。オーストラリアにいると、「ああ、俺は、今、地球のこのあたりに立っている」という体内時計ならぬ体内GPSみたいな機能が自然に作動してます。改めて意識しなかったけど、今回日本に帰ってそのことがよくわかりました。そして、僕の感覚では、リアリティ/現実感とは、まず@地球がドーンと存在してそれを皮膚感覚で感じること、A自分の肉体をほとんどケダモノ的な生々しさで感じること、B野生の獣がそうであるように周囲の環境への無意識的なサーチ感覚、などが備わってはじめて実感できるものだと思います。自分が今どこにいて、自分が今どういう身体状況にあって、周囲はどうなってるのか、これらの感覚がクリアに研ぎ澄まされて初めて「覚醒感覚」というものが芽生えるのではないか。オーストラリアをラウンド旅行したことある人なら、僕の言ってることの意味が身体的に理解できると思います。
その意味で、日本にいるとあんまり覚醒してる気がしない。なんだか夢をみてるみたい。悪夢というほど刺激的ではないのだが、どこだからわからないけど、密閉されてしまった空間を、ただひたすらアテもなく歩いていく夢。これが気持悪いんです。「あ、イヤだな」と思った最大の理由は、この半覚醒の気色悪さです。起きてる感じがしないから、生きてる感じもしない。
わかりますか?この感覚の落差。
例えばですね、パックツアーで海外にいったとしますよね。パックツアーは楽です。なんでもかんでも添乗員さんがやってくれるし、宿も決まってるし、案内してくれるし、日本語だけでOKだし、食事はクーポン券までくれるし、皆と一緒にゾロゾロ歩いていりゃいいんだから。だから、緊張感が無くなり、表情も多幸性痴呆症みたいに弛緩してくる。これは誰だってそうなるでしょう。でも、町を皆と歩いていてふと気づいたらはぐれてしまって、知らない外国の町の中で完璧に迷子になったとしましょう。最初は「あれ?」とか思って探すけど、10分探しても、20分探しても見つからない。しまいには最初にどこに居たのかすらわからなくなってしまう。「うわ、えらいこっちゃ」と焦りますよね。ぶわっとアドレナリンが出てくるでしょう。パスポートも預けたままだし、ホテルの名前もうろ覚えだし、メモとか書類は部屋の中。「落ち着け、落ち着け」と冷静になろうとし、善後策を真剣に考えます。必死になってホテルの地名を思い出したり、日本領事館に駆け込むためにその場所を調べなければならなかったり、その調べる方法を考えたり、電話をかけたくてもそもそも公衆電話なんか見当たらないし、電話のかけかたもわからない。ここにいたって初めて「今自分はどこにいて、何をすべきか、周囲は大丈夫か」ということを必死に考えると思います。それまで舞台の書割のようだった異国の風景が、その時どっと現実のものとして自分の襲い掛かってくるのを感じるでしょう。サファリパークのライオンバスから外に出ちゃったような感じ。圧倒的な心細さとともに、世界のゴツゴツした質感がリアルなものとして認識されるでしょう。僕の言う「現実感」というのはそういうことです。おわかりですか。
じゃあ、日本では、なんでそんなに現実感が”無い”とは言わないまでも希薄なのでしょうか?問題はココにあります。それが密閉感に繋がっているように思うのです。
論理をポーンと飛躍させていきなり結論めいたことを言いますと、「塗り絵」みたいなんでしょうね、日本における生活や人生は。予め決められた線をはみ出さないように色を塗っていきましょうってやってるから、「絵を描いた」という実感がない。ましてや、「自己を表現した」という燃焼感も無い。自由のないところに燃焼感はなく、燃焼感のないところに現実感もない。
日本には沢山のキマリゴトがあります。正式な形で法令となっているものの数は諸国と大差ないとは思いますが、慣習が多い。それも慣習とすら感じない慣習で、且つ威迫的なものが多い。例えばファッション、例えば流行の曲などの話題、例えば携帯電話。「日本国民は必ず携帯電話を所持しなければならない」なんて法律は勿論ありません。また、「年末には除夜の鐘を聞いて」というほどの確固たる慣習ではありません。でも、皆さん持っている。なるほど確かに便利でしょう。持ちたくなる気持はわかる。でも便利なだけだったら別に昔の携帯でもいいはずで、何もそんなに買い換えなくてもいいでしょ。カメラなんて要らないでしょ。そもそもそんな小道具に興味を持たなくなっていいでしょ。でも皆さん持ってる。WHY?勿論、持たない自由はあります。しかし、本当に「自由」なのか?「なんで持たないの?」と数十回数百回聞かれ、その度にポリシーらしきものを答えさせられる状況を「自由」と呼ぶのか。むしろ、基本的には「持つべし」という暗黙の慣習があり、そのオキテを破った人間は質問攻めにされるという「罰則」があるのだと考えた方が自然じゃなかろか。オーストラリアには携帯はあるけど、持ってなくても誰もWHY?とは問わない。
自由とは、いろんな定義がありますが、例えばその行為をなすにあたって、なんら公的私的な制裁を加えられないことが保証されている状態であり、その「制裁」とは、本人がいわれなく不快に感じるもの全てを含むのだと思います。「別にいいんだけどー」と言いながらも、なんか変な目で見られることに不快感を感じたり、プレッシャーを感じたりすれば、それは既に「自由」ではない。だから、この世に、本当の自由というのは非常に少ない。見せかけの自由は沢山あるけど。
例えば、東京大学を卒業して、そのへんの路上で叩き売りやったりしてたら人は奇異の目でみるし、いろいろと変な推測もされる。面白がられて友達が増えるという面もあるけど、不快なことの方が多いでしょう。本人にとってみたら、勉強したいから大学にいっただけかもしれんし、学問と仕事は本来別でしょう?という極めてまっとーな感覚を持ってるだけかもしれない。しかし、学問独自の価値を知らず、大学を就職のツールとしてしか考えないアホな連中の中では、そいつはオキテ破りであり、それなりに不快な思いをさせられる。
そんな極端な例を出さなくたって、僕だってそうです。弁護士辞めてAPLACやってられるのも日本から離れたからこそです。日本に居ながらだって出来るっちゃ出来るけど、でも、実際問題出来ないですよ。少なくとも辞めてすぐには。誰しも「なんで?」って思うよね。でもって、理由不明なときには、だいたい良くない想像を嬉しそうにする人が残念ながら相当数いるから、なんか不祥事を起こして懲戒になったんじゃないかとか、ゲスの勘繰りをする人もいるよね。まあ、僕はもともとB型ですから、なんと思われても屁とも思わん体質ですし、聞かれたところで「よくぞ聞いてくれました」とばかり、質問した奴を逆に洗脳せんばかりの勢いで答えると思いますよ(^_^)。もちろん、オーストラリアにいたって同じように「なんで?」って聞かれますけど、その「なんで?」の質が違います。こっちで聞かれるときは、好意的な、少なくとも無色透明な聞き方だし、いわゆる興味本位な問われ方はしないし、セコい人生観押し付けられたりもしない。だから、幾ら聞かれてもなんとも思わない。カンバセーションにおける話題の一つです。
しかし、日本では、幾ら僕が気にしないといっても実際商売しにくいですよ。銀行からお金を借りたりするときも、日本の銀行なんかゴチゴチのスタンダード命の常識派だから、換言すれば「夢のない人たち」だから、そういう方々とお話をするのは面倒くさそうだなあって思いますよ。やっぱりそれなりに対世間的に「通りがいい」大義名分や旗頭、あるいは弁護士にかわる金看板をバーンと掲げないとダメでしょう。それはまあ戦略だから、そうとなれば嬉々として僕もやるでしょう。そういうのはキライじゃないですからね。ただ、「なんで、そんなアホなことせなならんのじゃ」という気分は払拭できないです。自然にやりたいようにやらせてくれないなあって思いますよ。自由がないなと。
今の20-30代で「誰からも後ろ指さされない日本人」をやろうと思ったら、大変でしょう。それなりにどこでもいいから大学は出てた方がいいし、カラオケも多少は持ち歌がないとダメだし、ファッションでもアクセサリーでも最低レベルってものがあるし。裸足で都心を歩いたり、ダイエーのビニール袋で出勤するなて論外でしょ。そこそこ仕事もしなきゃいけないし、そこそこ老後のことも考えないといけないし、政治のことを熱く語ってはダメだし、要するに皆と同じようにしてないとならない。
この皆と同じようにしてないとならないのは、慣れればどってことないのだろうけど、でもやっぱり苦痛だと思いますよ。だって、「皆」なんてどこにも居ないもん。架空の存在でしょ。ドラゴンとか座敷わらしみたいに誰でも知ってるけど誰も見たことがないという。だから、それは抽象的な存在なんですね。難しく言うと、具体的な物象性を持たぬ形而上学的な存在でありつつ、具体的な人々の行動や思考を規定するだけの規範性と強制力を持つものをなんというとかいうと、それって「法」ですわ。キマリであり、ルールであり、オキテです。オキテを破った者には制裁がある。制裁があるから強制力がある。
言葉的な感覚でいうと、「ルール」というと強すぎる感じがするので、「コード」くらいが丁度いいでしょうか。ドレスコードの”コード”です。ドレスコードというのは、ゴルフ場では衿のついたシャツや靴を着用し、サンダルはダメよという規則のことです。葬式では黒っぽい服で黒のネクタイとか、高級レストランだったらGパンはダメだよとか、「それなりの服装」をすることを要求されることですね。日本社会のキマリゴトは、この感覚に近いと思います。もっともドレスコードは明確に文章化されていたり(ゴルフ場の規則とか)、なるほどと思う理由があるけど、日本のキマリゴトは必ずしもそうではないです。でも、ルールというほど硬くはないけど、やんわりと、しかししっかりと強制力があり、暗黙のサンクションがあるあたり、コードの方がより近しい感じがしますね。
つまり、日本では、「実在しない”皆”のやるように”それなりに”振舞え」というコードがあるのでしょう。そしてゴルフ場とか葬式などのように局所的、部分的なことではなく、朝起きてから夜寝るまでの殆ど全ての行動、喋り方、ボキャブラリ、さらには外見から頭の中身、興味の方向性、思想信条に至るまで、「それなりにせよ」というコードがある。これは、もう、ほとんど無限に近いくらいありそうな気がします。スパイの暗視用ゴーグルで覗いてみたら、あちこちに縦横無尽にはりめぐらされている警報機の赤外線みたいに。これが”塗り絵”の線ですね。おっそろしく細密な線。
もちろん法律でも規則でもないのですから、破ったところで、それほど致命的に厳しい制裁が科せられるわけではないです。それどころかこの「制裁」というのが、また、チャラいというか、屁みたいなものなんだけど、それだけに余計に不愉快だというイヤらしい構造になっています。もっとドーンと制裁をしてくれたら(投獄されるとか、死刑になるとか)こっちも隠れキリシタンみたいに燃えるんだけど、そうじゃない。
ドレスコードの場合、それを破ったら、本人が恥ずかしく、場違いな思いをしたり、店の人にやんわり注意されたりします。日本のコードでもこの種のものも沢山あります。でも、それなら話はまだマシです。ハッキリとどこがいけないのか、その理由もわかるからです。でも、ドレスコードほど明確ではなく、もっと暗黙なコードの場合、話はさらに微妙に、隠微になります。たとえば最近のAERAという雑誌で読んだ記事だけど、女子中高生のスカートの丈が短くなってて、校則違反なんだけどもう「赤信号皆でわたれば」状態になってしまっている。そして、特にミニが好きじゃない人もいるわけですが、普通丈のスカートをはいていると、それだけで野暮ったいと馬鹿にされたり、なんとなく敬遠されたり、ひどい場合にはイジメにあう。イジメがイヤだから好きでもないミニをはいているって人も結構いるらしいと。
暗黙のコードというのはそういうことです。これはまだガキンチョの世界だから、ルールも話も見えやすく、サンクションもイジメというわかりやすい形で出てきます。しかし、これが大人になっていくと、もっと微妙に不分明になってきて、サンクションもわかりにくく、「真綿で首を締められるような」という日本語イディオムがありますが、そんな感じになる。たとえば、コードを破った人に対する周囲の対応というのは、「どうして?」と軽く聞かれたり、その理由を答えたら答えたで「ふーん、そうなんだ」というリアクションがかえってきます。それだけっていえばそれだけなんですけど、これが結構不愉快だったりします。その不愉快さの本質は何かというと、「自分の人格を簡単にわかった気になられてしまう不快さ」であり、ひいては「馬鹿に馬鹿にされる腹立たしさ」でしょう。
大体、何でもそうですけど皆と違うことをやってる人というのは、それなりに自分というものを持ってモノを考えている人でしょう。全てにわたって考えてはいないだろうけど、皆と違う一点に関しては、やっぱりオキテを破るだけあってよく考えている。周囲との違和感や疎外感を感じるから、自分を立て直すためにはイヤでも考えざるをえない。でもって、考えるから知識も造詣も深まり、ポリシーみたいなものも出てくる。だから、その人からみたら皆と同じだからという理由だけでやってる奴を見ると馬鹿に見えるでしょう。例えば、音楽を深く愛好する人は、ヒットチャートを賑わしている流行曲なんかバカバカしくて聴いてられないって思うだろうし、聞いてる奴のことを「わかってねえなあ」って思うでしょう。同じようなことはどんな領域にも言えるでしょうし、あなたにもひとつか二つそういう領域があるでしょう。「皆」がやってるのをみて、「バッカじゃねーの」と思うようなことありませんか?
そしてですね、コードを破ったあなたは、こともあろうに、その馬鹿に「えー、知らないの?」と驚かれたり、「ふーん、変ってるね」といかにも距離を置いての発言をされたり、「そっかー、○○さんって△△系ってやつ?」とか分かったようなこと言われるわけです。これキツいですよ。大概、腹立ちますよね。許されることなら、相手が言い終わらないうちに一発ポカリとやっちゃいたいです。
これは結構「制裁」になりうると思います。まあ、大したことないっちゃ大したことないけど、毎日毎日永遠に連続されたらイヤにもなりますよ。面倒くさくてしようがない。それに、「皆と違う」ということは、「ワタシって普通じゃないのか?」と自分のアイデンティティへ疑問を投げかけることになります。それが意味のない劣等感に繋がることもあるし、逆に優越感に繋がることもある。また、周囲と違う自分を守るために、必要以上に意固地になったり、攻撃的になったりもする。要するに、素直で自然で「そのまんまの自分」を壊されてしまうのですね。「人は周囲からそう思われているような人格に、自ら進んでなろうとする」と言いますから、これはかなりキツい人格アタックだと思いますよ。
よほど興味関心のある点については譲らずに自分の道を貫きますが、特に興味のない分野だったら、多少馬鹿馬鹿しくても、大勢に反抗する労力を考えたら適当に妥協しようかということになるでしょう。だから、バカバカしいとか思いながらも、ついやってしまうという。例えば年賀状ってくだらない風習だよなと思ってる人は、日本に少なくとも3000万人くらいはいると思いますよ(数字に根拠はないけど、カンです)。あんなもん、論理的には明治政府で前島密が郵便制度を創設して以後の風習の筈だから、日本の古来の伝統的な慣習でもなんでもないですしね。お歳暮とかお中元とかも面倒だし、バレンタインもそう。友達の結婚式への祝金にしたって、ほっといても一番ハッピーな奴に、ハッピーさにおいて劣る人々がなんで貴重な日曜日を費やした挙句金までやらなきゃならないんだ、泥棒に追い銭の逆じゃないかとか思いませんか?いずれ自分が結婚するときに戻ってくるからという互助会的な要素があるっていっても、ここまで晩婚化、非婚化したら根拠を失うでしょう。でも、やるんだよねー。なぜか?やらないととにかく面倒臭いんですよ。
そうなってくると、もう「面倒くさいから仕方ナシにやる」という行動で日常が埋め尽くされていくわけですね。どこに自由なんてあるんだという。そんなことやってしまう自分にも腹がたつけど、やらせる世間にも腹が立つし、その世間を構成しているであろうろくすっぽモノを考えていない連中にも腹が立つ。そして、面倒臭いけどやらねばならない行為の核心にあるのは、「馬鹿に対する腹立ち」だと思います。そして自分がガマンして協調的な行動に出てたら、今度はそのあたりのことをまったく理解してない本物の馬鹿が好き勝手やってるのを街角や車中で目撃し、それでまた腹が立つという。
「馬鹿に対する腹立ち」といえば、日本のTVですが、それほどじっくり見てる時間もなかったのですが、予想してたほどアホではないなと思ったりもしました。が、「あー、やっぱりアホだわ!」とムカついたのが二度ほどありました。一つは、丁度「ラスト・サムライ」のプロモーションに来ていたトムクルーズを取材してた(といっても記者会見にいっただけだけど)TVの女性レポーターの言動。なにが腹立ったかというと、いちいち「トム様」とか言うわけですね。ファンクラブの身内の会合やってるんじゃないんだぜ。レポートの内容たるや、ジャーナリズムの批判精神のカケラもないような、配給会社の資料を白々しく感情をこめて朗読してるだけ。まあ、この人個人がアホなのではなく、お仕事だし、そういう演出を要求されてやってはいるのでしょうから、個人的に責める気はないです。が、単純に横で聞いててイライラしますね。「なんだ?この馬鹿女は?!」と。
もう一つは、マイケルジャクソン逮捕ニュースに関して、みのもんたがエラそうに解説していたわけで、これもキレましたねえ。なにがキレたかというと、逮捕されても保釈金をつんで釈放されることに関連して、「アメリカでは司法取引というのがありますからね」とか言って、つまり保釈金を払って釈放されること=司法取引=なんでも金次第という堕落した司法みたいなことを口走ってるわけですね、この馬鹿者は。スタッフもなんでこんな基礎的なこと教えないんだよ。保釈金つんで釈放されるのは日本だって同じでしょ。田中角栄が3億円積んで保釈されたの忘れたのか。そもそも逮捕や勾留は刑罰としてあるのではなく、裁判の日に逃げてしまわないように身柄を確保するためにあります。逃げたり、証拠隠滅する恐れのない人間は最初から逮捕勾留しちゃいけないの。それは違法逮捕になるの。だから辻元議員の逮捕だって、ギリギリ詰めれば違法っぽいです。あれだけの立場の人が逃げるわけないし。保釈金は、逃げたら没収という重石をかけて逃げないよにするための保証金です。これらの制度は、アメリカの司法取引とはぜーんぜん関係ないです。司法取引というのは、警察や検察庁での取り調べで、立証できそうもない別の犯罪事実を自白してくれたら、その代わりに強盗致傷を強盗罪だけにして起訴することにするというネゴシエーションです。これは日本では賛否両論あるけど、司法取引を認めなかったらそもそも証拠不十分で無罪になるかもしれないリスクを回避したり、連続殺人などで罰が多少軽くなってもいいから容疑者に自白してもらって死体の場所を教えて欲しいという遺族の気持に応えるとか、この取引のメリットは実際にはかなりありますし、日本でも明確な形ではないけど、それに近いことがなされることもあります。
こんなの専門的な話で分からないかもしれないけど、素人だったら別にわからなくてもいいです。しかし、卑しくもジャーナリストとして他人に解説する以上、こんなのド基礎中のド基礎でしょう。入社1年目の新聞記者でも知っている。それを、なんでこいつはこれだけ長くマスコミ界にいながら知らないんだ。また、こんな素人同然の奴がなんでエラそうにニュースのコメントなんかやってるんだ。聞けば「ふーん、そうなんだ」と思ってしまう人だっているだろうに。大嘘を公共の電波で垂れ流していいのか。
とまあ、腹が立ったのはこの二点だけでしたね。十分かもしれないけど、他はわりあいと楽しく観ていられましたけど。
なんの話かというと、直接自分に関係がなくても、「そこに馬鹿がいる」というだけで、結構インパクトがあって、腹が立つもんだなあという話でした。
もしかしたら、日本人くらい、世間の他人の馬鹿さ加減に腹を立ててる民族はいないかもしれない。だって、日本のマスコミや人々の話題って、大体そうじゃないですか? 煎じ詰めれば「こんな馬鹿がいる」論でしょう。最近の若者は馬鹿で、政治家は言うまでもなく馬鹿で、中高年層はパソコンひとつ使えない馬鹿で、おばさん層はみのもんたに心酔してる馬鹿で、「馬鹿ばっかりだから世の中良くならないんだ」「馬鹿が増えたから世の中住みにくくなったんだ」論じゃないですか?これだけ24時間他人の馬鹿さ加減をあげつらってる民族というのも珍しいかもしれない。それは、おそらくは「馬鹿の制裁」に常日頃晒されているから、鬱憤が溜まっているんでしょうねー。僕が安心して、こんな日本の悪口(本当は悪口ではなく建設的提言のつもりなんだけど)書けるのも、その鬱憤晴らしに協力してるからでしょう。日本が住みにくいのは、部屋が狭いからでも、道路が渋滞してるからでもなく、馬鹿が多い(と感じている)からなのかもしれません。
だけどこれだけは言っておくけど、日本人馬鹿じゃないですよ。人間の能力を民族単位で語ることの過ちも恐さも百も承知であえていいますが、日本人は決して馬鹿ではないです。オーストラリアにきたら、もっともっと馬鹿が沢山います。そんなに腹もたたないけど。そして、今回帰って、遠慮のないガイジンの目で日本の人々と直接接してきた印象でいえば、前回書いたように温順で、思慮深くて、愛想のいい人が多かったです。ただ、後にも書きますが、環境が悪いし、社会のフォーマットが悪い。
ここで余談です。
年をとってくると、この年賀状的な馬鹿馬鹿しい慣習行動にもそれなりに意味があるのが分かってきます。スレてくるというか、要するに、「人間は(私は)そんなに他人のことが好きではない」というのがわかってくるのでしょう。好きでもない人々の間にもまれてないと生きていけないとしたら、どうするか?出来るだけその関係を骨抜きにして形骸化してしまおうと。いつもホンネでぶつかりあっていたら、気の合う奴もいるけど、その数倍くらい気の合わない奴が出てきて、「こいつは、もう、殺すしかない」くらい煮詰まったりするから、もう適当なところでほどほどに切り上げるという「大人の知恵」が出てきて、だから「年賀状さえ、お歳暮さえおくっておけばとりあえずOK」という”外形標準説”みたいなスタイルになっていくのでしょう。形を整えることを強制するけど、整えさえすればそれ以上実質は問われないで済むという大きな恩典があるわけです。
若いうちは強制される苦痛の方が恩典よりも大きいから、なにかと腹が立つし、慣習に盲目的に従ってる(かのように見える)世間の大人がみな腰抜けの阿呆に見えたりするのですけど、それは学生とかペーペーだから気の合った奴とつきあっていれば良いというお気楽な立場にいるからでしょう。ある程度社会に出ていくと、気に食わないけど「要領よく付き合わねばならない相手」というのが加速度的に増え、名刺交換だけでも年間1000人とかいう規模になってきます。いちいち本気でやってらんないですよ。人にはキャパシティというものがありますから。
若干敷衍するに、じゃあ西欧だったらどうなのかというと、個人主義という表現で言うのは誤解を招きそうですが、要するに「要領よく他人と付き合う」そのレベルが日本人同士よりも低く設定されていると思います。オーストラリアでも、今のシーズンは、クリスマスカードやギフトが盛んに飛び交い、郵便局は何時行っても長蛇の列で、あたかも日本の年賀状やお歳暮のようです。だとしても、もっともっと人と人との付き合いは淡い。職場の人間関係なんかも、日本ほど濃くないでしょう。数年もしないうちに上から下まで転職して総とっかえになっても不思議ではないから、まあ、たまたまスキー小屋やキャンプ場で知り合った者同士の親密さに毛が生えた程度でしょう。日本みたいに、誰かの残業に他の従業員が「人道的に」付き合ったりすることはまず無いです。楽といえば楽。寂しいといえば寂しい。だからいつか書いたように、西欧の方がカウンセリングとか「お金を払ってグチを聞いてもらうシステム」(こういうと語弊があるけど)が発達してるのだと思います。また、付き合いも大事なことは大事だけど、日本のようにカスタムというよりは、会ったとき他愛の無いことを延々ペチャクチャ喋りつづけるという、彼らのいう「ソーシャル/社交」が大事だったりします。よくもまあ、あれだけ無内容なことを熱心に喋るれわというくらい喋るけど。ただ、それも「その場限りのもの」ですよね。日本ほど人間関係の永続性を前提にしてないから、まだしも気楽でしょう。
さて、本題に戻ります。密閉感と、それにリンクした現実感の乏しさという話でした。
誤解のないように言っておきますと、密閉感があるのは日本だけではないでしょう。移民国家であるオーストラリアは、ここにいる奴全員が本国と、すなわち世界各地と、紐付きの関係になってますので、それを基点にして全世界に開かれている気がします。ただ、日本と同じように移民国家でない国も沢山あります。その土地生え抜きの連中だけで構成されている社会もまた沢山あります。そういう社会では、同じように密閉感が生じるでしょう。
ただ、そういう国や社会でも現実感までは失われることはないでしょう。なぜかというと、こういう国の多くは経済的に困窮しているケースが多く、のほほんとやってられない緊張感があることが一つ。また、部族内部の掟が厳しくとも、それは厳しい掟と言う形で明確に認識され、強制されます。また、厳しい環境で生じた掟は、それなりに磨きぬかれた合理性があったりもします。さらに、これらの国の多くは規模も小さく、それが故に外部から援助や圧迫を受けますし、いやでも外部を意識することになるでしょう。チベットなんかそれ自体完結した仏教王国だったのでしょうけど、中国がドドドと侵攻してきて、ダライラマは世界を流浪しているという。だから日本よりもはるかに国際関係にビビットにならざるをえないでしょう。ネパールも、年中世界からヒマラヤ登山隊が訪れ、観光で潤っているし、昔から強力なネパール傭兵は世界的に有名だし。だから結構開かれているんですよね、こういう国々の方が。
しかし、日本くらい経済的に成長し、生活水準も高く、教育レベルも高く、規模も大きい社会で、これだけ単一文化に染まってる国、つまりは自分達だけの世界だけで十分にやっていけてしまうという国は他にはないかもしれません。民族的傾向でいえばお隣りの韓国が非常に似通っていますけど、あそこは戦後ずーっと北朝鮮と”一時休戦”状態で、いつまた勃発するかもしれないという緊張感がありますし、男子には兵役義務があります。また、駐留米軍の存在感は、日本以上にあるでしょう。
もちろん日本だって、資源が乏しく世界とつながって貿易やってないと存続すら危ぶまれる国であり、その意味では物凄く世界とつながってます。イラク戦争だって、中東油田との絡みでいえば非常に緊密に結びついているといえるでしょう。しかし、そういう実感があるか?というと全然ないです。貿易とかそのあたりのことは、ごく一握りの商社マン達が頑張ってくれているから、一般的な日本人はそこまで外部の荒波に翻弄されている気がしないでしょう。
そして、それ自体独自に完結してしまっている単一文化社会、モノカルチャーの悪いところは、外に向かって開放されてないから、精神傾向としては自閉化、内向化していくことです。だって外がないんだから内を見るしかないもん。で、”世界”が自分と似たりよったりの連中で埋め尽くされていれば、緊張感もなくなるし、「なあなあ」になりやすい。これは日本人が生来的にそうだと言ってるのではないです。そういう環境に置かれたら人はそうなる傾向があると言ってるのです。だから、西欧でもどこでも、密閉された社会では、大なり小なり日本と同じような内向きの世界が広がります。例えば軍隊、例えば刑務所。独自のカルチャーに支配された独自の人間関係と世界観が発達していく。
そういう空間においては、興味の焦点は全て仲間内との関係に集中し、仲間内で巧いことやっていけたら、それだけでそこそこ幸福な人生になれるということで、それはそれで恵まれたことなのかもしれないけど、でも自家中毒を起こしてニッチもサッチもいかずに煮詰まる危険もあります。
最初の方でパックツアーの話をしましたけど、パックツアーとか社員旅行で海外に行けば、目の前に大きく違う世界が広がっているのだけど、今ひとつ感銘が来ず、興味関心の中心は、「今日の晩ご飯は皆とどこに食べにいくか」だったりします。要するに、周囲が外国だろうがなんだろうが、仲間内の調整の方がはるかに大事なんですね。そしてまた、仲間内での調整といってもこれが前述のように無限とも思えるほどにコードが錯綜してますから、それをフォローするだけで疲れる。しかし、フォローさえしておけば大丈夫である。
だから、僕ら日本人は物凄く根本的なところで考え違いをしているのかもしれません。考え違いという言い方がキツすぎるならば、やや偏ったものの見方と言い換えてもいいですが、「生きる」ということの本当の意味を未だかつて体験させてもらっていないか、非常に機会に乏しいのではないかということです。僕らにとって「生きる」こととは、仲間内を見てそれと良好な関係を保つことでしかないんじゃないか。それを生きることだと勘違いしてないか。だから、日本人にとって、今自分が地球上の何処にいるかなんてどうでもいい。別に地球の上でなくてもいい。縦横に張り巡らされた細かい塗り絵を塗りつづけていればいいんだから、塗ってる場所が何処であってもいいのだ。また外部なんかどうでもいいのだ。海外なんか、遠い異星の話と同価値くらいに現実感がなかったりします。
しかし、これはAPLAC開始から一貫して言ってるけど、「外国」「海外」という名前の国はないです。必ずや地球上のどっかの一点にいるわけで、そこには国名があり、社会があります。オーストラリアにいるのも、日本にいるのも、球面座標上のどっかの一点にいることに変りはない筈であり、価値的に等価でしょう。だけど、オーストラリアでは世界が皮膚感覚で感じられるのに、なぜに日本では感じられないのか。それも完璧な防音システムのように、遮断されてしまうのか。
日本では昔っから「海外では、スープの音をたてて飲んではいけません」等という言い方がなされますが、オーストラリア人は間違っても「海外では」という曖昧な言い方はしない。「西欧は」「フランスでは」と具体的に言います。当たり前じゃん、国によって全然違うんだから、「海外では」なんて一口で言えるわけがない。オーストラリアだけが他の諸国から異質なことを言う場合は、「海外では」とは言わず、「オーストラリアは」という主語になります。日本人の場合、海外という「外」であれば、もうあとは一緒なんですね。そのくらい大雑把であるし、そのくらい興味も関心もないのでしょう。日本人の「海外」は、「死後の世界」と同じくらい現実感のない話だったりするのでしょう。実際、日本の町を歩いていて、「死後の世界から1週間だけよみがえったら多分こんな気持なんだろうな」という気がしました。
気心の知れた仲間内だけを見つづけて一生を終えるのも、それはそれで悪い人生ではないと思います。別に非難してるわけではない。しかし、ここが大事なのですが、「仲間内だけで気楽に暮らすことにしよう、そういう人生にしよう」という認識、選択だけはキッチリ持っていた方がいいです。数ある生き方のうちから、選んでか強制されてかは知りませんが、一つの選択をなしているのだということ。これ、メチャクチャ大事なことだと思います。もし、それがわかってなかったら、ヘタすれば人間自殺しますよ。これが世界の全てなんだ、これしか生き方がないんだと思ってしまって、それで挫折したら、もう救いがないですよ。
一つのチャンネルしか映らないTVしか知らなかったら、およそ「チャンネル」という概念は生まれないでしょう。だから選択という意欲も湧かないでしょう。そもそも、テレビというものの概念自体が変るでしょう。それに似てる部分があります。
僕が日本に帰ってまず感じたのは、この嘘みたいな書割ワールドに閉じ込められてしまったという密閉感でした。そして、こうしている間にも外の世界からどんどん取り残されていってしまうという恐怖感でした。まるで落盤事故で洞窟に閉じ込められてしまったときのような感じ。
そして、それを上回る恐怖感は、このワールドに自分の精神までが侵蝕されていくことでした。なんせ、日本ワールド、慣れたら居心地いいんですよ。楽チンだしね、電化製品を筆頭に何でもあるし。ゴハンは美味しいし。日本における幸福というのは確かにあって、それは自分もやってたからよく分かります。どっか適当に便利なマンションでもみつけて好きな人と暮らして、職場はキツいけど優しい人たちに囲まれて、レンタルDVDを借りて、思い切って休みをとって海外にも旅行したり、、、、、わあ、楽しいなあって。そう思うことでしょう。だんだんそういう風になっていきます。
それは悪いことではないでしょう。ただし、僕には恐怖です。自然洗脳されるというか、意に反して麻酔薬を打たれて段々意識が朦朧としていくような恐怖。もういいじゃん、世界なんか別に関係ないんだし。いいじゃん、別に、政治とか、関係ないし。「いいじゃん、別に」と「仕方ないじゃん」を交互に繰り返して終わっていくような生き方を僕はしたくはない。そもそも、それがイヤでこっちに来たのですから。日本の社会にどっぷり漬り切ってた自分が思ったことは、本能的な疑問でした。「今の自分がやってるのって、ぜーんぶ嘘じゃないのか?」という。こんなもんなの?生きるってことは?別に、カリブ海にいって海賊になったり、ニュージーランドで羊飼いになったりする人生だって全然アリだと思うのだけど、なんでこんなにも「そんなこと絶対にありえない」って思ってしまうのだろう?と。
どっぷり浸りきりながら、どうしてそこで「あれ?」と思えたのかというと、まあ性格とか転居続きの環境もありますけど、つまるところは「快感」を知ってたのだと思います。司法試験に無謀にも挑戦して、人生かけてバクチを打ってた、生きるか死ぬかのあの快感。あのとき垣間見たのは、自分の意思で生きているという強烈な充足感であり、鳥肌のたつような快感でした。「アレがないなら死んでるのと同じ」という具合に感じたのでしょうね。
ですので、「生きるとは?」とか、クサく、難解に考えるよりは、生きることに伴う強烈な現実感、覚醒感、そして快感を知ることが大事なのかもしれないし、その快感が日本社会に行き渡っていけばいいのだろうなと思います。立派なお説教では人は変らない。しかし、わずかな快感で人は簡単に転びますからね。
しかし、まあ、麻酔で朦朧とするのも気持いいちゃ気持いいですよね。また、生きることの強烈な快感といっても、それも麻薬的だったりします。まあ、麻酔で眠るように気持ちよくなるか、麻薬で強烈に気持良くなるかの選択なのかもしれません。なんか、ロクなもんじゃないですね。さんざん書いてきて結論がこれかい?って思われるかもしれませんが(^_^)、結論は他にあります。それは「選択の自由」であり、自分は選択できるのだという自己認識です。それさえあれば、あとはどう生きようとそれは個人の勝手だし、僕の知ったこっちゃないです。そして、選択という認識の乏しい社会は、僕にはやっぱりキツいなあ、気持悪いなあって思ったのでした。
「選択できるのだという認識」とは具体的にはどういうことかというと、うーん、今あなたが日本にいるとしますね。当然、自分は今日本に居ると思いますよね。でも、あなたは同時に「世界」にもいるのですよ。だって、日本だって世界の一部、一地方ですからね。「世界」とは、あなたが今立ってる場所です。今自分は日本に居るという感覚と、今この瞬間にも世界にいるんだという感覚が、50対50くらいになってきたら、とりあえず「選択できるのだという認識」に近いところにいるように思います。
もう長くなるからまた別の機会にしますが、イラクへの自衛隊派遣についてTVで討論会やってるを見ましたが、なんかピンとこなかった。いろんな意見があるのだけど、しっかり一つの共通点があって、それは「日本と海外は全然違うのだ」という二元論でした。なんかねー、世界という舞台があって、日本は今舞台のソデか観客席にいて、舞台にあがるべきかどうか、舞台にあがったらどう振舞ったらいいかを議論してたりするのですね。それって違うでしょう?日本はもう舞台にいるの。というか、最初っから舞台にいるの。もっといえば、観客席なんか最初から無いです。「お外ワールド」なんてものは無いの。そんなものは麻酔患者の夢なの。
また、どう振舞うべきかについても、どう振舞ったら「(世界の)皆」と同じに見られるか、という議論ばっか。「普通の国」になろうとか昔誰かが言ってたけど、もう構造から論理から、まんま一緒じゃん。「皆と一緒」以外に行動原理はないのか。さらに情けないのが、地元の政治家に献金を無心された商店街の寄り合いみたいに、あるいは結婚式に幾ら包んだら失礼にあたらないかを話あってる家族みたいに、「このくらいやっておいたら、まあ、カッコがつくんじゃないでしょうか」と。
だから、舞台の上に立ってるとは思わず、舞台の上の皆と一緒になることだけを考え、成功基準は「皆からどう思われるか」であり、とりあえずカッコがつくギリギリのラインを模索している以上、この問題は解決しないと思う。なんか、もう、イチから10まで違うんじゃないのか?って
かなり書いてしまいました。まだまだ書いてて消化不良ですが、長すぎるのもナンなので。今回は硬派に、写真もナシです。お疲れ様でした。
来週は、またくだけた感じで書きます。どうして日本にはこんなにベンチが少ないのか?とか、そういう話です。写真も沢山載せるつもりです。
文責:田村
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