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今週の1枚(10.03.08)






Essay 453 : 「海外」という選択(その2)

                   〜日本離脱の理由、現地永住の理由


 「なにしてるんだにゃ?」
 オープン・インスペクション(不動産物件の一般公開見学)を待ってる人々と近所の猫君。場所はGlebe


 住み慣れた祖国を離れて、見知らぬ異国に移り住むには、人それぞれに思いもあろうし、胸算用もあるでしょう。
 でも、日本を離れようという理由と、オーストラリア現地で生きていこうと思う理由は、実は微妙に違うのではないかという気がします。密接に関連しつつ、本質的には全然別個の事柄ではないかと。

 「日本よりもオーストラリアに暮したい」と思って来るのですから、「オーストラリア>日本」ということで理由は同一の筈ですが、実際に細かく見ていけば、そんなに話は単純ではないと思われます。

STEP 1 : 日本における現状の欠落感、閉塞感


 日本→オーストラリアという一連のプロセスを追ってみていけば

 まず最初に、

@、日本における自分の周囲の現状を何とか変革したい

 という思いがあると思います。

 ここで、「現在HAPPY度100%、毎日が最高!」と思えるのでしたら、そもそも何かをしよう、変えようとは思わないでしょう。仮に現在もかなり満足すべきセンをいっていたとしても、「もっと良くなる可能性がある」というのであれば、やはり「変えたい」というカテゴリーに入るでしょう。

 なぜ日本を離れようと思ったのか。これは人によってそれぞれ個人的な事情はあるでしょうし、僕もそんなに立ち入ったことは聞かないようにしていますのでよく分かりません。子供の教育に今の日本が良いとは思わないという人もいるでしょうし、職場や人間関係に閉塞感を抱かれた人もいるでしょうし、それか何だかよく分からないけど「だー、もう!」でちゃぶ台ひっくり返したくなった人もおられるでしょう。

 僕自身の個人的理由は、過去のエッセイに色々書いていますが、別に社会的経済的に不満があったわけではありません。僕がこちらに来たのは、司法試験を合格し→修習インターンも終え→下積みイソ弁修行も6年もやり→いよいよ独立じゃあ!という時期でした。人間関係も上手く廻ってましたし、むしろ絶頂期といっても良かったです。だからよく「なんで?」って聞かれるのですが、やっぱり「もっと良くなる可能性がある」と思えたからでしょうね。

 それに良いというのはハタから見ての話であり、本人(僕)的にはかなり不満はありました。それは収入とか社会的地位とかじゃなくて、もっと抽象的でメンタルな理由。もう十数年も経っているのに、未だに正確に言えませんが、やっぱり「だー、もう!」って感じはありましたねえ。どういえばいいのかな、何か、こう、「決まっちゃう感じ」が堪らなくイヤだったです。ここまま看板掲げて独立して、固定客も増やして、なんだかんだ経営に苦労しながらもやっていって、そこそこのステイタスと収入をキープしつつ一生を終えるという、ね。「いいじゃないか、何が不満なんだ?」って言われる人もいるだろうけど、不満ですね。「それでええんか?」とは強く思いましたね。その思いの強さは今でも覚えてます。

 もっとも、そうやって地道に仕事をし続ける生き方も全然アリだと思いますし、それを馬鹿にしたり、軽蔑したりってことではないのですよ。むしろ、「えらいなあ」と賛嘆の目で見ていましたし、今でもそう思ってます。ただ、自分の性には合わん、と。「ほう、俺はそーゆーヤツだったのか」と再発見もしたのですが、未来は不透明なほど望ましい、10年後の自分なんて全く想像が出来ないくらいの環境にいるとゴキゲンなんです。もう、そういうタイプとしか言いようがないのですが。

 しかしですねって、ワタクシゴトの世界に入ってしまって恐縮ですが、弁護士ってなまじハイステイタスなだけに変えにくいのですよ。変わるとすれば、政界に打って出るとか、あるいは何か不祥事起こして資格剥奪されちゃうとか。後者は論外にしても、政界にも興味ないし。それに弁護士のような自営業は、地縁ネットワークこそが営業力だから、転勤なんかありえないです。「転勤がある」というただその一点だけで、「やっぱ裁判官や検察官になろうかな」と真剣に思ったこともありました。勧誘もされましたし。多動性症候群というか、動いてないと死んじゃうタイプ、動物界では鮫がそうらしいのですが、そういうタイプなんでしょうか。でも、今は別にそんなに多動欲求は強くないので、「そのときそうだった」ということでしょう。そういう年頃だったのかもしれません。

 勿論、過去のエッセイであれこれ書いたように、他にも多々理由はありますよ。人生戦略的にも、30代半ばでもう一発「暴挙」をなすべきであり、ここで暴れなかったら俺はもう一生去勢されてしまうぞ、という恐怖心もありました。また、94年時点ですら、世界情勢をみれば遠からず日本がヤバくなるのも予見できたし、出来るだけ早く日本以外に生活や生計の拠点を構築すべきだとか、少なくとも世界レベルで通用するとか、世界レベルって何よってことを体験すべきだとか。でも、それらは補強的理由であり、核心にあるのは、もっと生々しい動物的な「だー、もう!」って雄叫びのような感情です。

 この感情の核にあるものを無理矢理言語化したら、結局は、「未来のバリエーションの少なさ」であり、突き詰めれば「選択肢の少なさ」です。せっかく生まれてきたんだから、それも人類史上において千載一遇のチャンスとも言うべき、この平和で豊かで自由な時代に生まれてきたんだから、アレもやりたい、コレもやりたい。海を眺めながら暮したいし、深い山のフトコロに抱かれながらも暮したい、生き馬の目を抜くちょっとヤバめのストリートにも居たいし、人跡未踏なはるかなる土地に一人たたずみたい。善良な人達に招かれて夜の宴で痛飲もしたいし、乾坤一擲の大勝負にも打って出たい。まあ、実際にやるかどうかはともかく、やろうと思えば出来るという環境にいたい、あるいはそれを実感したい。そういうことだと思います。APLaCの「P」は「Pluralistic」であり、「複数の」「多元的な」という意味であり、APLaCという名前はそういう想いの結晶でもあります。

 弁護士時代に多くの人達と接しました。破産した人、離婚した人、失業した人、ときには犯罪を犯してしまった人もいます。僕の仕事は、彼らが勇気を振り絞って新しい人生を切り開いていくためのサポーターだったわけですが、同時に人の人生はこんなにも変わりうるんだということをまざまざと見せつけられる特等席でもありました。一旦人生の谷底まで降りた人が、しかし、それがゆえに逞しく再生していく様子は感動的ですらありました。最初事務所に来たときは、「死人か?」と思うくらいの土気色の顔色で、自殺未遂にまでいたった人も一人ではないです。それが正式な法的手続をカマして、バッサバッサと整理して、徐々に事態が好転するにつれ元気になり、一件落着してしばらくすると、電話しててもうるさいくらいに声が弾んでて、「先生〜!どうもっ、その節は。いやあ、もう、最近忙しくって忙しくって!あはははは!また、ご挨拶に伺います!」という声を聞くわけです。人間ってすごいもんだなって思いました。もう、これを見ることが出来ただけで、必死こいて勉強して弁護士になった甲斐がありました。もう十分モトは取れました。彼らから、熱い元気をいただきました。でも、同時に、他人には「頑張ってください」とか言ってる自分はどうなんだよ?、頑張ってんのかよ?って激しく思いました。出来る/出来ないではなく、やるかやらないかだと。

 その頃からですね、「オーストラリアなんか行っちゃったりなんかして」というヒマツブシの白日夢のようなことが、段々と顔つきがシリアスになってきて、真剣に考えるようになっていったのは。「やりたいんだったらやればいいじゃん」「なにビビってんだよ、このまま一生ビビりつづけて死んでいく気かよ」という感じで、もう一人の自分とあれこれ問答してましたね。でも、まあ、そんなに悩まなかったですね。「行くのもアリだな」と思えたら、嘘みたいにストンと腑に落ちて、自然と考えも180度変わってきて、「行くに決まってんじゃん」みたいになっていきました。

 もうそのときには、不安もあんまり無かったです。ハイになってたんでしょうかね。全てのことは「行ってから考える」。英語?出来ないけど、行ってから頑張る。生計?全然わかんないけど、行ってから何とかするって。だって人がそこに生きて生活してるみたいなんだから、なんとかなるっしょ、というくらいのアバウトさだったけど、それが心地よくもありました。だから僕はそういうことがしたかったんでしょうね。

 、、、という自分の経験もありますので、こちらに来られた方に、「なんで?」とかはあまり根掘り葉掘り聞かないことにしてます。だって意味ないですから。言葉で言えるような理由は、しょせんそれだけの理由であり、本当のマグマのような原始エネルギーは、決して語り得ないことだろうからです。

 本題に戻りますが、日本を出るにあたっては、人にはそれぞれ事情はあろうが、それは決して言語化できない、なんらかのズシリとした想いであろうと。そして、内容は分からないまでも、因数分解してカッコで括り出せば、それは「いまある現状を良くしたい」という想いであろうと。「悪くしたい」と思ってくる人はいないと思います。たとえ客観的には全てを投げ打った自殺行為のように見えるかもしれないけど、本人的にはあくまで「改善」、右肩上がりでしょう。


STEP 2 : 海外という突破口  〜目的地主導主義と出発地主導主義


 さて、@において、日本における現状に何らかの欠落を感じた次のステップは、

 A海外に行こう、オーストラリアに移住しよう

 ということになります。

 そして、初動期における、この「そうだ、海外に行こう」「オーストラリアに行こう」という想いの本質は、実は上記の@が色濃く投影されていると思います。

 日本における自分の周囲の現状において欠落していたものが、海外やオーストラリアにはあるような気がする、と。だけど、多くの人の場合、この時点では、海外もオーストラリアもろくすっぽ知らないでしょう。既にワーホリや留学、あるいは駐在で住んでいたというならまだしも、一度も住んだこともないのに、中には旅行ですら行ったことがないのに、断片的な話だけを聞いて「そうだ、オーストラリアだ!」と思う人だっているでしょう。

 かくいう僕自身がそうです。前回にも書いたように、それまでオーストラリアはおろか、海外旅行すらろくすっぽしてなかったですから。一応、いろんな国の事情を調べたし、それが将来どう機能するかも考えましたし、性格的に合いそうかどうかも考えました。でも、僕の場合は、オーストラリアが良いから行くというより、主観的閉塞感の打破=「とんでもないことをする」という行為それ自体に意味がありました。新車を買ってドライブするみたいに、「どこに行く?」「どこでもいい」みたいな感じ。どうせなら、面白いところがいいなあくらいの感じですよ。極端な話、オーストラリアで野垂れ死んでもいい、それこそ本望じゃくらいの気分でもありました。「暴挙」というのは元来がそういうものですから。

 こんな暴挙願望の僕の場合は極端例にせよ、でも、オーストラリア移住を試みる多くの人達が、それほど緻密にオーストラリアにおける展望を計算しているとも思えないのです。そもそも計算なんかできっこないだろうし。ありていに言って、「なんとなくいいなあって思ってる」くらいじゃないでしょうか。いや、もう、別にそれで全然良いと思います。むしろそれ以上に細かいところまで考えすぎると、アテが外れたときに立ち直れなくなるから、アバウトに留めておくのがコツとさえ言えるでしょう。

 ここで言いたいのは、「オーストラリアの出店計画」というビジネスプランを練り上げるように、「儲かるから行く」という目的地が原動力となって物事を引っ張っていく目的地主導主義ではなく、まず@の日本の現状の改善欲求があり、その突破口としてオーストラリアを選ぶという出発地の推進力が強く物事を推し進めていく出発地主導主義なのではないかということです。

 したがってオーストラリア移住計画において、@なぜ日本を離れるか、Aなぜオーストラリアにするのかという二つの問いがあった場合、メインとなるのは@であり、Aは@エネルギーの照射先として選ばれているに過ぎないのではないか、という感じがします。

 むろん人によって異なるでしょうが、@は確かな現実として周囲にあるのに対し、Aは遠い異国の話でもありますし、どこかしらメルヘンチックになりがちであり、エネルギーの切迫感という意味では結構違うのではないかと。


STEP 3 : オーストラリアの現実と欲求


 さて、A思いが盛り上がって、ついに憧れのオーストラリアに住み始めました。
 そこで出てくる次のステップは、

Bこのままオーストラリアに住み続けたいなと思うかどうか

 だと思います。

 当たり前ですけどオーストラリアに来ればオーストラリアの現実が待っています。
 何もかもが思っていたとおりではないでしょうし、少なからず幻滅する部分もあるでしょう。また、同時に、思ってもみなかったような心地よさや幸福感もあるでしょう。

 かくして一定期間暮してみたあと、「このままここに暮らし続けたいな」と思えるかどうかがこのSTEP3です。


 僕などはご機嫌に17年間暮してますが、「こんな筈では」という人だって沢山おられると思います。せっかく苦労して永住権を取りながらも、しばらくしてから帰国される方も存外多いです。

 さて、AからBへの以降ですが、当然ながら、これにも色々なパターンがあります。

 まず「思惑どおりだった」というハッピーパターンですが、これは事前にオーストラリアをどれだけ緻密にリサーチしたかにどうかに関係するかというと、実はそうでもないんじゃないか。一見関係するように思うんだけど、でも、あんまり関係ないかも。というのは、この問題は、「思惑」の内容によりけりだからです。

 例えば、思惑の内容が、「海外でキャリアアップ!」だった場合、いざオーストラリアに来たけどなかなか就職できないという現実にブチ当ったり、就職まで漕ぎつけたものの大してエキサイティングでもないし、先々のキャリアになりそうもないってこともありえます。そういう場合は、「緻密なリサーチが足りなかった」とも言えるわけです。しかしですね、僕の場合のように、「マルチカルチャリズムのなんでもアリの許容性」「だだっ広くてスカスカな感じが好き」という、緻密な計算もクソもなく、単なる生理欲求に近いような場合は、思惑は100%どころか300%くらい叶えられてます。だからケースバイケースじゃないかと。

 ただ、こうは言えると思うのです。
 オーストラリア(海外)に求めるものが抽象的で、生理的で、アバウトなものほど、失望するリスクは低くなると。逆に、求めるものが個別具体的に鮮明であるほど失望リスクは高まり、それだけに入念な事前のリサーチ次第だということです。

 一方、思惑とは違ったけど、考えてもみなかった良さに目覚めて住んでて楽しい、というパターンがあります。
 これは多いと思います。土台、オーストラリアの生活体験も乏しいのに、日本を出るときの@、それが投射されたAが、そのままBに結びつくわけがないとすら言えます。「アテなんか外れて当たり前」ってことです。だから、それまでオーストラリアを選ぶ理由として劣位にあったものや、全く想定外だったことが、いきなり浮上してきたりしても不思議ではない。

 例えば、最初は単純に「英語力上昇」というシンプルなスキル錬成のために渡豪したのだけど、生まれて初めてなにかに挑戦し、それにハマってしまったということもあるでしょう。あるいは素敵なパートナーに出会ってしまったということもあるでしょう。はたまた、ガンガン儲けてやる!とビジネスマインド全開でやってきたのに、オーストラリアのビジネスエリート達がいかに無邪気にビーチで遊び呆けており、且つ家族を心底大事にしているかを目の当たりにして(しかしそれでいて年収数千万)、仕事に対する姿勢がガラリと変わったり、あるいは「金がなんぼのもんじゃい」と人生観が変わるってこともあるでしょう。留学やワーホリでやってこられる人も、滞在中に充実の日々を過ごせば過ごすほど、当初の思惑などどこへやらで、一回りも二回りも大きなものの方が出来るようになる傾向があります。以前、エッセイで「望外の果実」という内容で一本書いたことがありますが、まさに望外の果実(当初予期してしていなかった大きな収穫を得ること)です。

 僕の場合は、さきほど言ったようにマルチカルチャリズムや世界を感じたいということでしたが、これは十二分に叶えられてます。来た当初、やっぱりベトナム難民やパレスチナ難民のような難民系の人達と当たり前のように接するという環境がスゴイですし、彼らの底抜けに明るい笑顔に鮮烈な感動を受けましたし、「世界中から人が来ている」というのは頭で理解するのと現実に接するのとでは天地の差があります。それがもう、「うわ、すっげ〜」と単純に嬉しかったですね。

 これは思惑どおり系なんだけど、想定外系も沢山あって、例えばこんなにメシが美味いとは思ってなかったです。高くてマズイ店も沢山あるけど、当ればデカい。味覚の世界は数倍広がりましたし、今もなおトライ中です。それと、賢いヤツが沢山いるので楽ということです。もちろん、別の箇所でもいろいろ書いてますが、想像を絶するアホも沢山いますが、賢い連中も山盛りいます。TVのニュースとか見てても、進度が速いから小気味いい。最初は英語が不慣れだから早く感じるのかなと思ったけど、そうじゃなくて、かなり頭の回転を早くしてないと追いつかないのが気持ちいいです。オーストラリアのようにクレバーな移民政策をとってる国は、入ってくる連中は本国でもエリートだった連中が多いので、平均知能数がかなり高いんじゃないかという感じがします。日本に帰省する度に妙な「馬鹿ストレス」を感じてる悶々とする身としては(おそらく多くの日本人がそうだと思うが)、僕が全力でトバしても全然追いつけないというこっちの環境は気持ちがいいです。これは想定外。

 現実的には、100%思惑どおりにコトが進んだり、100%外れたりってことはありえず、(A)思惑違い、(B)思惑どおり、(C)思惑外、の3つの要素が、人によっては、2:3:5だったり、7:1:2だったりするというレシピーでミックスされているのでしょう。そしてそれがミックスされている以上、最初の@Aと、Bとは必然的にズレてこざるを得なくなるわけです。


日本離脱の理由、オーストラリア永住の理由

 ということで、主題である「日本離脱の理由(@&A)」と「海外永住の理由B」は、密接に関連しつつも基本的には別物だという話でした。

 基本的に別物だというのは@Aは日本という現実から派生して来るものであり、Bはオーストラリアの現実から生じて来るものであるから、同じ筈がないということです。発生構造が違う。しかし、それを感じる人間が同じである以上、基本的価値判断は同じであり(人生観が変わったりもするけど)、現実が日本であれオーストラリアであれ、良いと思うこと、悪いと思うことは同じ傾向を辿るはずです。その意味では通底しているのですよね。だから「密接に関連しつつも、尚も本質的に違う」と。

 この話の結論は、特にはありません。「で、それがどうしたの?」と言われると、「それだけっす」と答えるわけですが、ここまで思考が進めば、この先幾らでも展開していけるでしょう。

 幾つかの法則性や教訓めいた事柄を引き出すとすれば、

 (1)、日本離脱の欲求(現状変革の欲求)@が強ければ強いほど、Bがどうあれ、とりあえず日本を離脱した時点で何らかの満足を得るでしょう。なぜなら、何はともあれ現状は「変わった」からです。このカタルシスは馬鹿にしたものではなく、僕も最初にシドニー空港に降り立ったときは、「来ちゃった、、、」と感慨無量でありました。「きゃっほ〜!」ってやたら嬉しかったですね。だから、その後にくるBがいかにショボくて期待はずれであったとしても、だからといって来たこと自体はそんなに後悔しないように思います。

 (2)、日本離脱の欲求@が、多大な変革を求めるというよりは、現状のマイナーチェンジを求めるに過ぎない場合、Bの役割は重大であり、したがって綿密なリサーチが必要である。なぜならBがしょーもなかったら、そもそも来ること自体の意味がなくなるからです。例えば、日本で年収1000万円の人が、海外で年収2000万を目指すような場合、あるいは日本で住宅を買うよりもオーストラリアの方が大きな家が買えると思ってるような場合などです。前者は世界レベルのエリートの水準を甘く見すぎているし、後者は端的に調査不足(オーストラリアの住宅の方がずっと高い。但しテイストのある物件ははるかに多い)。

 (3)、@AとBのマッチ度は、@Aが漠然として、曖昧で、生理的で、動物的であればあるほど高くなるように思われる。例えば、「もっと、ぶわ〜っと弾けたい」みたいな岡本太郎的な願望である場合、これは果されるんじゃないかな。まあ、これも動物的願望の方向性にもよりけりで、例えば毎日路上で喧嘩修行に明け暮れたいと思うのだったら、オーストラリア社会の暴力への忌避感は日本以上に強いからあんまりチャンスはないです。もしかして性欲系のことを妄想しているのでしたら、日本の方がそっちの産業は遙かに進んで(?)ます。でも、まあ、小さな島国から大きなオーストラリアに行くような場合、総じて「ぶわ〜っと」系が多いと思いますから、それは果されると思います。まあ、移住に限らず、何ごとも決断というのは、それが大きなものほど理屈でやるべきではなく、感性でなすべきだということですね。

 (4)、オーストラリア移住をもしお考えであれば、日本離脱の第一理由と、オーストラリアの現実に基づく第二理由とは、ハッキリと峻別しておかれると良いです。日本が住みにくいということと、オーストラリアが住みやすいということとは、論理的に何の関係もないです。もしかしたらオーストラリアの方がもっと住みにくいと感じるかもしれない。Aが減ればBが増えるというゼロサム構造ではないこと。

 (5)、実際に移住してしまえばBが全てになるのだけど、Bをどれだけ豊かに感じられるかは、移住した後のライフスタイルによります。これは長くなるので、また別の機会に。

 (6)、日本→オーストラリアで別に終わりではないこと。これはキャリア志向の人に申し上げたいのですが、オーストラリアは英語圏諸国の中でもアジア人の居心地が良く、のんびりしてるし、日本との時差も少ないので、ファーストステップには最適だと思います。幼稚園みたいな国ね。ここで海外というものを練習し、英語をしっかり学んだ上で、その先に進んでいくくらいの先見性を持ってください。日本→オーストラリア(基礎力錬成)→イギリス(ビジネスのための資格取得など)→アメリカで職をゲット→転職してスイスへ→支店長として中国へ、くらいのキャリアパスを夢見ていてください。別にその通りに行くかどうかなんかどうでもよく、「自分を育てるためには地球のどの部分を見ておくべきか」くらいのスケールで物事を考えること。このくらい転々としている人はザラにいます。というか普通。西欧人における国の違いは、日本人における都道府県の違いくらいにしか思ってない。こいつらとタメ張るために、まず発想で負けないこと。

 と同時にこれはキャリアに限ったことではなく、「自分らしさ」を追求したいなら、とことんやってみたらいいと思います。「ケニアなんかいいよね」「いやボリビアも捨てがたい味が、、」とか、想像するのは自由ですから。

 などなど、、、まあ、幾らでも発展しますよね。
 ということで、ここでは、日本離脱の第一段階と、オーストラリア生活の第二段階とではモチベーションの構造が変わってきますよ、という話でした。



文責:田村





 「”海外”という選択シリーズ」 INDEX

ESSAY 452/(1) 〜これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?
ESSAY 453/(2) 〜日本離脱の理由、海外永住の理由
ESSAY 454/(3) 〜「日本人」をやめて、「あなた」に戻れ
ESSAY 455/(4) 〜参考文献/勇み足の早トチリ
ESSAY 456/(5) 〜「自然が豊か」ということの本当の意味 
ESSAY 457/(6) 〜赤の他人のあたたかさ
ESSAY 458/(7) 〜ナチュラルな「まっとー」さ〜他者への厚情と冒険心
ESSAY 459/(8) 〜淘汰圧としてのシステム
ESSAY 460/(9) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(1)
ESSAY 461/(10) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(2)
ESSAY 462/(11) 〜日本にいると世界が遮断されるように感じるのはなぜか 〜ぬくぬく”COSY"なガラパゴス
ESSAY 463/(12) 〜経済的理由、精神的理由、そして本能的理由


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