今週の1枚(07.08.27)
ESSAY 325 : 「望外の果実」の法則
写真は、Rose Bay。フェリー乗り場のあたり。この人達は何をやってるかというと、釣りです。餌や仕掛けをつけているわけですね。
仕事柄、ワーホリさんや留学生さんと付き合う機会が多いです。この文章を書いている日にも、渡豪を計画している人とメールで相談しつつ、数日前から来られている人がシェア先に移動し、1年を終えた人が遊びに来ます。ある意味、タイムマシンにいるようなもので、ワーホリ前・中・後のそれぞれの時点の人とリアルタイムに接触しています。
このような日常を過ごしておりますと、面白いことに気付きます。皆さんの意識変化のパターンが大体似通っているのですね。色々な変化があるのですが、例えば、お金/予算です。お金のことをあれこれ心配するのは着いた当初がピークであり、時間がたつにしたがって「何とかなるさ」と腹が据わってきて、最後にはお金なんか話題にすらならない。「ゴハンでも食べに行きましょうか」で美味しいレストランとかに連れて行くこともありますが(昨日はレバノン料理を食べに行きました)、着いたばかり人の場合、一人10ドル以上払わせないように気を遣います。しかし数ヶ月以上経ってる人の場合は、一人20ドル30ドル予算でも「あ、いいですよ」と言うという。
そのような意識変化の中で大きな法則性みたいなものを抽出すると、「最初に狙っていたことは段々どうでも良くなり、その代わり思ってもいなかった部分が重要になっていく」ということです。例えば、最初は英語を習得するために渡豪されているわけですが、もちろん英語も習得していくのですが、そんなことよりも世界中の人と触れあうなかで大きく目が開かれ、人間性が豊かになっていく部分の方が遙かに大事に思えてきたりする、などです。
よくよく考えてみると、海外経験に限らず、こういうことって子供の頃から繰り返し繰り返し体験していることだったりするのですね。Aを狙ってたら、もっと巨大なBが手に入ってしまったという法則。あまり馴染みのない日本語でしょうが、「望外の果実」という言葉があります。望んでいたものと違う収穫です。しかし、この望外の果実は、「ついでに○○もゲットしました」なんて付録的サブキャラレベルではなくて、最初の目的が10だとしたら、100くらいに巨大なものだったりします。ワーホリ体験談で誰かが書いてましたが、「考えていたことの半分も出来なかったけど、思っていたより100倍くらい楽しかった」という。これは名言だし、真実だと思います。これはワーホリに限らず、なんだってそういう部分はあると思います。
望外の果実の法則=「Aをやりにいったら、考えてもいない巨大なBをゲットしてしまった」という法則ですが、これは、重要なものほどよく適用されるように思います。
ここで、あなたのこれまでの半生を振り返って、非常に大事な出来事、very importantなイベント、死ぬ前の走馬燈劇場に登場するような記憶を思い出してください。大切な恋人に出会ったとか、今の配偶者に出会ったとか、現在の仕事や業種を選ぶキッカケになったこととか、今の自分の世界観を作る基礎になった出来事とか。それらのことって、計画したり、狙ってそうしましたか?
「人との出会い」など最たるものですが、最初から狙っているような場合はお見合いとか合コン系パーティくらいのもので、恋人夫婦100万組に「そもそものなれそめは?」と聞けば、なにげない日常の一コマだったりするでしょう。僕の両親は、父親が仕事で取引先に赴いたとき、そのビルの階段の踊り場で盲腸になって苦しんでいる母親を見かけ、救急車を呼んだりしたのがそもそもの出会いだったそうです。別に父親としては、「今日は一生の伴侶と巡り会おう」と思って取引先に出かけたのではなかろうし、母親にしたって出会いのために盲腸になってたわけではない。
あなたが通っていた小・中・高校・大学も、「何しに行ってたの?」っていえば、タテマエ的には「勉強をしに行ってた」ってことになろうし、「義務教育だから」「大学が就職のためのステップストーンだから」って穿った見方もあるでしょう。しかし、リアルに思い出して欲しいのだけど、中学とか高校なんか本気で「勉強しに」行ってました?多くの場合は勉強なんかしに行ってないですよ。「よーし、今日も数学を極めてやろう」なんて希望に燃えて登校している学生がどれだけいるというのだ。「義務教育だから」なんてのも、いちいち意識なんかしてないハズです。毎日、「ああ、面倒臭いけど、義務教育くらいは修了しておかなきゃな」とか意識して通ってる学生がいたら気持ち悪いですよ。じゃあ、ほんと、何のために通ってたんですか?っていうと、特に目的なんか無かったはずです。有り体に言ってしまえば、「なんとなく」でしょ。
それでも、学生時代で得たものというのは非常に大きいです。友達づきあいとか、部活とか、好きなマンガやCDの情報交換とか、恋愛とか、そういったことをしに行ってるようなもんでしょう。それらの経験を通じて、今のあなたのパーソナリティというのが出来上がってるわけです。人とのつきあい方、好きな音楽の傾向、スポーツその他の特技、自分にとって気持のいい生き方、将来の進路、その殆どがその頃に基礎付けられている。もちろんイイコトばかりではなく、イジメやら、シゴキやら、濡れ衣で罪人的に扱われるとか、裏切られたとかイヤなこともあります。あるけど、それもまた今のあなたの血肉になってる。良い意味でも、悪い意味でも自分という人格はあのときにほぼ形作られるわけです。
しかし、そんなことを目的にして通ってたわけではない。「よーし、今日は好きな作家を開拓しようかな」「今日も友情を深め合って」「人格形成をしよう」とかイチイチ目的意識として持ってるわけではない。「なんだか分からないけどとにかく行ったら、結果的に色々あった」って感じだと思います。逆に、「勉強しに」とクールな思いで通ってたとしても、今時点で一体どれだけの学問知識が頭に残ってますか?
だから最初の目的意識とか希望とかいうのも、極論をいえば別に無くたって構わないくらいです。逆に、あまりに目的意識が強すぎて、「高校なんて大学受験の通過点の一つさ」とクールに構え、クラスの誰とも口をきかない、部活もやらない、文化祭も出ない、運動会もやらない、修学旅行もいかない、、、なんてやってたら損でしょ。これは本当に「損」だと思いますよ。そりゃ、「通過点」としての本来の目的は果たせたでしょうよ。でも、多くの「望外の果実」をミスっている。交通事故の損害賠償の計算の仕方に、「得(う)べかりし利益」=「逸失利益」というのがあります。このまま事故がなく五体満足で働いていたら定年まで幾ら稼げていたという損害算定ですが、このクール君の場合の「得べかりし利益」たるや莫大なものがあると思います。
ところで、なんでこんなこと思ったのかというと、一つはワーホリさんなどの相談メールなどで「あんまり行く前から決めウチしない方がいいのになあ」って思うことが頻繁にあるからです。「英語の習得をメインにしたいのでラウンドはしません」とか「とにかく海外で働いてみたい」とか良くあるパターンなんですけど、そーんなに決めて掛からない方が良いと思うし、いつもそうお返事することにしてます。勿論そういった希望や夢を持つのは大事なことです。その種の夢を賞賛することはあっても、それをクサすような真似はしたくはありません。
しかし、夢とか希望というのは、A地点からB地点まで牽引していくエネルギー&原動力として存在すれば十分だと思います。B地点に着いたら、また全然想像もしなかったような広い世界が待ってます。例えば、あなたが何か買物をするために町まで出るとしましょう。何でもいいんですけど、まあ仮に旅行用のバッグを探し求めて、小田急豪徳寺あたりから新宿へ、あるいは京阪香里園から梅田やらに出ます。街に出れば色々なものが目に映ります。「お、これは」と思って予定していない買物をしちゃうかもしれないし、不思議な路地裏を発見して隠れ家的な感じのいい喫茶店を見つけるかもしれないし、プロダクションにスカウトされるかもしれないし、学生時代の級友にバッタリ出会ってお茶しているうちに恋が芽生えたりするかもしれない。そうなってくると、当初の目的=「バッグを買う」なんてことはどうでもよくなったりするわけです。すっかり話に盛り上がって、アルコールも入り、いい気分で帰ってきたら、「あ、バッグ買うの忘れた!」なんてことだってあるわけですよ。
このように予定外のハプニングがあるのが生きていく面白さだと思いますし、結局のところ夢も希望、目的というのは、「家から梅田まで出かける」という行動の原動力、牽引力になってくれればいいわけです。その後のことは行った先の世界で色々と起こってくれるから、それを適宜ピックアップしていけば良い、と。
したがって、「海外で働いてみたい」「英語を身につけたい」という希望や夢は、それはそれでお持ちになっていただいて構いませんし、そういう希望がなければそもそもオーストラリアになんか来たいと思わないでしょう。なんか「イイコト」がないと8000キロも離れたオーストラリアくんだりまでやってきはしないでしょうから。でも、それだけに限定してしまわない方がいいよってことです。来たら来たで思ってもみなかった喜び、楽しみ、ショック、学習、充実があります。そういった望外の果実が遙かに巨大ですから、それをミスらないように、くれぐれも最初から視野や可能性を狭めないように。常にドアをオープンにしておき、どんな可能性、どんなチャンスも拾い上げれるようにされたらいいと思います。
そしてこの法則は、前に書いたように、あなたの人生を変えてしまうくらい大事なものほど当てはまります。どーでもいい、些細なことほど計画通りことが進んでそれで終わりです。例えば、煙草が切れたから角の自動販売機まで買いに行くとか、コンビニに弁当買いに行くとか、オシッコしにトイレまで行くとか、小さなことほど計画通り進み、ハプニングは少ない。
しかし、巨大なことほど、この望外の果実で成り立ってたりします。
「私は○○です」といえるくらい自分のアイデンティティになっている重要なこと=例えば「私は医者です、刑事です、編集者です」とかいう職業、「私は○○の妻(夫)です、母(父)です」という身分関係、あるいは「私は”オーストラリアに住んでます””敬虔なカトリック信者です””筋金入りの鉄っちゃんです”」という物事は、最初から狙ってそうしたというよりは、色々な偶然やハプニングが積み重なってそうなっているケースが多い。そういえば、このあたりの人間の意思決定の不思議さは、このエッセイの第一回の「ガビーンの構造」にも書きました。
例えば僕がオーストラリアに来た最初のキッカケ、それだけで直ちに決断はしないけど「オーストラリアという選択もあるな」という発想が頭の中に芽生えたのは、忘れもしません、とある昼下がりのことでした。場所は京都。午後1時からの京都地裁での口頭弁論を終え、大阪に帰るため、河原町丸太町角あたりのバス停でバスを待っておりました。バスが中々こないから、ひやかしのつもりでバス停の真ん前にある古本屋に入り、乱雑に積み上げてある本を眺めているうちに、「ふーん、なにこれ?」と思って買った本が、オーストラリア在住の杉本良夫さんの「日本人をやめる方法」でした。バスに揺られてパラパラと読み始めたこの本がやたら面白く、「そうか、オーストラリアというのはそういうところなのか」ということが最初に頭に入ってきたわけです。でも、その日の朝、僕がマンションを出るとき、「よーし、今日は、将来のオーストラリア移住のためのキッカケをゲットするんだ!」なんて心していたわけでは、もちろんないです。偶然も偶然、大偶然。あのときバスがすぐに来ていれば、或いはあの本が一番上に積まれてなかったら、僕は今オーストラリアに居なかったかもしれません。そんなもんです。
また、個々人の「意思決定」だけではどうしようもない事項、意思決定なんか全然関係ない事柄もあります。「運命の出会い」なんてのもそうです。たまたま同じ職場だったとか、スキー教室で同じグループだったとか、最終バスに乗りそびれた同士だったとか、喫茶店で傘を間違えたとか、そんな類のことばかりで、「狙ってどうなる」ってもんじゃないです。それを「狙って」たりするのは結婚詐欺師くらいでしょう。
自分の天職、進路、配偶者、住む場所という超基本的で重要な事柄ほど、この「たまたま〜だった」という「たまたま」系イベント&ハプニングの集積でそうなってます。これは偉大なことを成し遂げた人ほど、ピンボールみたいにあっちにぶつかり、こっちで方向転換して、、という数奇な運命を辿っていたりします。この種の回顧録とかインタビューとか聞いていると、「そこにたまたま通りかかった○○会社の社長が」とか、「それが私の運命を180度変えた」とか、「このときの出会いが後の○○になろうとはこの時点では夢にも思わなかった」とかいう常套フレーズのオンパレードだと思います。まさに、たまたま×たまたま×たまたま×たまたま、で現在に至るって感じです。
「犬も歩けば棒にあたる」といいますが、犬ですら棒にあたるのですから、人だったらもっとビシバシ当たってます。学校であれ職場であれ、どっかに何かをしにいったら、誰かに出会い、何事かを見聞し、猛反発したり、ガビーンとなったり、突如として視界が開けたり、転落の一途を辿ったりしてるわけです。それが人生の正しい偶然性っつーもんだと思うわけで、この要素を無視して情報と計算だけで全てを決めていったら、なにかを致命的にミスってしまうように思います。
さて、なんでこんなことを書いているか?のもう一つのキッカケは、最近独身者が増えているという記事を読んだことです。
2005年の国勢調査では、30-34歳の男性の独身率は47.7%、女性で32.6%で、15年前より男性で1.5倍、女性で2.3倍だそうです。東京に限れば、30代男性の半分、30代女性の3分の1が独身だと。それはそれで良いのですし、人様の生き方ですから、僕ごときがあれこれ言うつもりもないです。
ただ、「むむ?」と思ったのは、「どうして独身でいるのか」という理由の中に、「好きな人がいない」「したくても出来ない」「仕事多忙」「金銭問題」「他人と暮すの難しさ」などがあがっている点です。特に結婚してしまった場合のデメリット、やれお金を自由に使えないとか、可処分所得が下がるとか(同じことか)、自由な時間が少なくなるとか、こだわりのライフスタイルが壊されるとか、その種の危惧を持っておられる場合です。
これを読んで、「うーん、なんか違うんじゃないかなあー」と思ったのですね。まあ、いってる意味はわかるんだけど、なにか根本的なところで違和感があるぞと。何がこんなに違和感を生じさせるのかな?と考えていたら、上のパターン、つまり「Aを狙って、副産物であるBをゲット」という望外の果実の発想パターンが全然ないことです。Aを狙ったらA、Bを狙ったらBと、始める前に大体の将来像は分かってしまうという感覚に違和感を覚えたのですね。なんでそんなに将来のことが分かるのさ?って。
既婚者だったら大体分かると思いますが、結婚前に何考えて何を望んでいたかなんか、しばらくしたら忘れちゃいます。以前も「非モテ」のところで書きましたけど、結婚前に相手の長所と思えたところは結婚後に全部短所に転じるとか、ほとんど180度ひっくり返ったりします。そうでない方も多数いると思いますが、そういうケースは多いと思いますよ。だから即離婚!って人もいますが、多くの場合はそのまま結婚を続けていたりします。なぜか?この「思惑ハズレ」はマイナスだけではなくプラスにも発生するからです。それまで特に価値をおいてなかった点、考えてさえいなかった事柄において、「いいなあ」って思うことが出てくるからです。つまりは望外の果実に気付く。
例えばですね、「批判者を持つメリット」があります。配偶者=批判者ですね。
卑近なところでは、日常生活の立居振舞についてアレコレいわれます。特に男は、奥さんからやいやい言われるでしょう。やれネクタイが曲がってるとか、エリが黒ずんでるとか、濡れたタオルをそのへんに置きっぱなしにするなとか、蛇口はちゃんと閉めろとか、牛乳はちゃんとコップに入れて飲めとか、24時間なんかかんか怒られますよね。子供のころは母親に言われ、長ずれば奥さんに言われるという。これは確かに鬱陶しい。「あーもー、うるせーなー」ってキレそうになったりもします。端的に言って不愉快。勿論言う側だって「あーもー、何度言ったら分かるんだ」ってムカついているから不愉快でしょう。どっちも不愉快であるから、これが結婚生活のマイナス点としてカウントする人も多いでしょう。しかし、よく考えてみれば、本当にマイナスなのか?と思うわけですよ。そりゃネクタイは曲がってない方がいいし、犬食いや貧乏揺すりも直したほうがいいです。40、50歳になってまだ犬食いしてたら真剣に馬鹿に見えますもん。対外的印象って、結構こういうところで決まってきますから、恐いんですよね。対外云々はさておいても、人間なんかアホなんだからある程度誰かに怒られていた方が丁度いいんじゃないかな。
細々とした日常に限らず、人間性とかそういった根本的な部分でもそうです。夫婦というのはお互いに世界最強の批判者であり、数え切れない夫婦喧嘩を通じて、普通の人間関係だったら一発で終わってしまうような核兵器クラスの批判をしあいます。もう売り言葉に買い言葉って側面もあるから、思ってもないくらい辛辣な表現でいいます。ほんと、もう、「そこまで言うか?」「これだけ他人からボロクソ言われたのは生まれて初めて」ってくらいお互い言う。もちろん、これも不愉快です。腹が立ちます。「怒りに目がくらむ」「怒髪天を衝く」という表現の意味がはじめてわかったというくらい腹が立ちます。しかし、人間馬鹿ですからね。そのくらい言われた方がいいんですよ。夫婦喧嘩で出てくる10のうち9はただの悪口だったとしても、10%くらいは実のある批判であり、あとで「うーん、やっぱそうなんかなあ」って真剣に考え込んだりもします。
だから、独身でいるのは確かに自由で、全てをコントールできるから不快さはないです。しかし、そういった自由が人間にとってはたして本当に良いのかどうかは考えどころだとも思うわけです。「小人閑居して不善を為す」とも言いますが、僕らは凡人の悲しさで、自由を与えられても下らないことに自由を費消してしまったり、限りなく独善的になって妙な方向にいっちゃったりもします。真剣に腹がたつくらいの辛辣な批判者は、これはもう必要悪(?)といってもいいのではなかろうか。
「妻(夫)は全く理解してくれない」って不満は万人にあるでしょう。これだけお互い理解不能だったら結婚生活なんか絶対無理だと思う人もいるでしょうし、既婚者だったら一度はそう思ったことはあるでしょう。だけど、視点を変えたら「そこまで第三者に理解できない人間性(価値観)を自分は持っているのだ」という事実もあるわけです。理解できない相手が悪いだけではなく、理解できないようなモノをもってるこっちも大概変っているのではないかと。僕は、自我なんか定期的なメンテナンスとして多少ぶっ壊した方がいいと思ってます。スクラップ&ビルドです。自分の価値観、世界観、自己規定、こういったものは不変のようでありながら、実は案外たやすく変りますし、変った方がいい場合も多いです。年を取ると頭が固くなるといいますが、段々この種の保守点検が面倒臭くなり、自分の価値観を揺るがすようなものには最初から近寄らない、遠ざけるという心理もでてきます。これは「老化」でしょう。このように「理解のない夫(妻)」は、自我の保守点検のツールにもなりえます。
また、配偶者に限らず、社会や世間というもののは常に(自分からみたら)無理解なものであり、配偶者は「世間の最前線」でもあります。だから、相手が全く理解してくれなかったら、そこで世をスネるのではなく、さらに理解しやすいような表現を工夫しようとか、妥協して小出しにしようとかいう努力もまた必要なわけです。イイモノ作ってるんだからそれでいいんだってものでもなく、やっぱり売れるための努力もソコソコはしなければならないのがこの世のシキタリです。実際、世間の理解を得られないと現実問題何も進まないってこともあります。商品は売れない、銀行からも金を借りられない、家も借りられない、契約は打ち切られる。そこで誰しも戦っているわけです。アーチストなんか常にこの戦いに終始してるでしょう。クオリティとポピュラリティのバランスの取り方です。というわけで、てめーのカミさん(ダンナ)一人説得できないで、世間が説得できるかよ?って部分もあるわけです。
しかしですね、誰もこんなこと考えて結婚なんかしませんわね。結婚するにあたってそんな修行僧みたいなこと考えないって。だから、こんなメリットは想定外であり、「Aを目指してBをゲット」パターンのまさに「B」であり、望外の果実であります。でも結婚生活にはこの種の望外の果実が多い。
結婚生活も長くなるにつれ、「結局、話が通じるのは自分の奥さん(ダンナ)だけ」って状況も出てきます。人間の人格なんかどういう経験をしてどういう学習をしたかで変ってきますから、同じような体験をした者同士は同じような価値観になりがちです。自分の人格を作りあげるような強烈な体験をともにした人間同士は終生の友になるというのも、この原理によるのでしょう。多感な学生時代の友人、戦友なんかいい例です。
結婚当初は、自分と共通体験をしている人は沢山います。学生時代の友人とか、職場の知り合いとか、趣味のサークルとか。しかし、段々生活のベースが違ってくると疎遠にもなります。昔の友人ともそう頻繁には会わなくなります。また、久しぶりに会ったら話が全然合わなかったってことも珍しくないです。そうこうしているうちに、結局自分と一番共通体験の多い人間は誰か?となると、自分の配偶者だったりするわけです。なんせ一緒にいる時間が一番長いですからね。もっとも、これはどういう結婚生活をしてきたかによるとは思います。夫婦で自営業とかやってる場合などは、夫婦で共通体験をする機会は多いでしょうし、すれ違いばかりの生活だったら共通性がそもそも少ないかもしれません。
よく「夫婦は顔が似てくる」といいますが、結構当たってたりします。時には笑っちゃうくらい似てくる場合もあります。これは顔の造形が似てくると言うよりは、似たような経験をしているから、人格や価値観、ひいては仕草なども同じようになり、結果としてオーラも似てくるから会ったときの印象として「似てる」と思っちゃうんでしょうね。ほんと、顔かたちは確かに違うんだけど、受ける印象は双生児のような夫婦っていますから。
顔まで似てきてしまったら、もう一番話が通じる相手は自分の連れ合いでしょうし、一番話ごたえのある相手も配偶者ってことになるでしょう。もっとも、これは長期的熟成を要するので、3年やそこらでどうなるもんでもないです。「ともに白髪の生えるまで」という数十年規模になると、若かった頃の時代背景を知ってる人間が限られてきますし、子供を育ててきた苦労話などなど、自分の連れ合い以外に聞いてくれる人間などいなくなるでしょう。老人介護のボランティアの内容に「話相手になってあげる」というのがあったりしますが、「聞いてくれる相手」というのは貴重な存在だったりします。ましてやそれを理解してくれる人間など、あとになればなるほど希少な存在になるでしょう。
思うに、お年寄りというのはいわば情報の宝庫であり、映画数万本を蔵する巨大なライブラリーみたいなものなのでしょう。縁側の日だまりに座りながら、頭の中のスクリーンに上映していれば結構飽きないのかもしれない。だって、40代の僕ですら「うわ〜、大分コレクションが増えたな」と実感しますし、思い出してるだけでもいいヒマツブシになります。また、過去の膨大な記憶のストックから何かの要素を抽出したり、組み合わせたりするだけで、あれこれ考えつづけることも出来る。今このエッセイも300回を越えてますが、20代の頃だったらここまで書けなかったと思います。手持ちのネタのストックが少ないですから。
今から50年後、あなたがいい年になって、「私の若かった頃にはインターネットというのがあってね」とか言おうとすると、「インターネットってなーに?」とか言われると「あーもー、そこから説明しなきゃいかんのか」と面倒臭いでしょうし、「しらねーよ、そんなもん」って冷たく言われちゃったらとりつく島もないでしょう。まあ、寂しいでしょうね。今のお年寄りだって満州時代の思い出話をしたいでしょうけど、その話に付き合ってくれる人間など限られているでしょう。
はたまた、「他人を喜ばすよろこび」というのもあります。料理の腕に覚えのある人が自慢の手料理を作って、それを自分一人で食べる。それなりに美味しいしシアワセでしょう。でも、自分の作った物を他人に食べさせ、「美味しい」と言ってくれた喜びはそれに勝るでしょう。この喜びの組成成分は複雑で、「どうだ、すごいだろう」という能力の顕示というナルシスティックな部分もありますが、純粋に他人が喜んでくれると自分もうれしいという利他的な喜びもあります。ハッキリ言って、僕らが仕事をしてる喜びなんかこの二つに集約されるといっても過言じゃないでしょう。看護婦だろうが、シェフだろうが、店員さんだろうが、自分の仕事で他人が喜んでくれたときが一番嬉しいでしょう。また、自分の能力を遺憾なく発揮できた喜びもまた大きい。本当に100%金のためだけに働いている人って、意外と少ないかもしれません。特に日本のような国においては。
しかし、そういった喜びを得るためには相手が必要です。作家には読者が、ミュージシャンには聴衆が必要なように、あなたの能力、営為、努力、善意、WORKSが成立するためには相手が必要。配偶者というのは、あなたの自己実現のために不可欠なオーディエンスであったりもするわけです。もちろん、このオーディエンスは、あなたの意向どおりには絶賛してくれません。下手の横好きで頑張って油絵を描きあげ、喜び勇んで連れ合いに見せたりしても、「まあ、すごい」と言ってくれるとは限らない。「また、ワケのわからないものを描いて」とゴミ扱いされることもあるでしょう。でも、まあ、それでいいんですよ。配偶者というのはタイコモチじゃないんだから。
僕も自分で料理します。献立の選定から買い出しから調理、配膳、後片付けまで全部僕がやります。だから一般的な主婦の感覚はよく分かるし、日常的には面倒臭くてたまらん時も多いです。また、双方の食事の嗜好などで食べたいものが食べられないという制約もあります。だから、カミさんが日本出張などで家を空けるときは好き勝手出来ますのでかなり楽チンです。しかし、この「自由の謳歌」も数週間にわたってくると空しい。一人でリキ入れて調理しても詰まらんし、栄養のバランスもヘチマもなく、テキトーに食えればいいやみたいな雑な食生活になるのですね。ましてや鍋料理なんか一人でやる気も起きない。5食連続でカレーを食べる頃には、「やっぱ、オーディエンスはいるな」「早く帰ってこないかな」と思ったりするわけです。
「パートナー効果」というのもあります。西欧社会、オーストラリアでもそうですが、旅行するときも夫婦同伴が当たり前で、B&B(ペンション)などでは全室ダブルルームというのも珍しくないです。シングルもツインもないという。こちらの部屋料金は「一人幾ら」ではなく、「一部屋幾ら」ですから、ダブルをシングルで泊っても料金は同じ。だから損なんですけど、損ということを越えて旅行しにくいって部分もあります。
また、「一人だったら出来ないけど、二人だったら出来る」ということは多いです。レストランなんかその典型で、気合の入ったレストランに一人でいっても詰まらんです。また、一人だと食べられる量が限られているから、味わえるバラエティにも乏しい。ところで「お金がないから結婚できない」という回答には、「そうなの?」って首をかしげる部分もあります。昔から「一人口は食えないけど、二人口は食える=一人暮らしは出費が多くて無理だが二人だったら暮らせる」というでしょう。僕の最初の結婚なんてまさにこれで、「ビンボーだから結婚した」みたいなもんです。だから「お金がないから結婚する」という方が正しいんじゃないかと思ったりするのですけどね。
あれこれ書いてきましたけど、だから結婚生活は素晴らしい、と言いたいわけではないのです。「そういう側面もある」ということです。常にこんなに素晴らしいって言うつもりは毛頭ないです。僕だって離婚経験ありますから、そのくらいはわかっとりまんがな。言いたいのは、あくまで「望外の果実」です。そんなことを狙って結婚したわけではないのに、気がついてみたら、考えてもいなかった果実がそこかしこに転がっているよってことです。そしてその果実だけで、十分人の人生なんか幸せになれたりするよってことです。
それと、これは日本人の美徳&弊害(表裏一体なのだろう)だと思うのですが、他人にいうときにネガティブなことはよく言うけど、ポジティブなことはあんまり言わない。美徳に転ずれば、謙虚さであり、謙譲の美徳になりますが、一歩間違えると「愚痴っぽい民族」でもあります。結婚生活をしている人は、結婚のネガティブ面はわりと他人に言うけど、ポジティブ面はあんまり言わない。言うとノロケているとか、幸せを誇示しているとか反発を受ける面もあるのでしょう。でも、よく考えてみると、未経験者(未婚者)に対して、これはフラットで適切な情報提供なのか?って疑問もあるわけですよ。
「いやー、もう、キミね、結婚なんかするもんじゃないよ」「あれはほんと、人生の墓場だね」「もうダンナの顔見ただけで蕁麻疹が出そうよ」とか、そんなことことばっかり聞かされてたら僕だって結婚なんかしたくなくなりますよ。謙虚さの現れとして言っているのか、それとも単なる愚痴なのか、そのあたりは本当に表裏一体っぽいのですが、とりあえずはネガティブな情報が多い。かといってポジティブな情報になると、「トシ君(←ダンナのこと)がね、言うのよね、うふふ」とか、本当にノロケ以外の何物でもない馬鹿野郎情報だったりして、難しいところなんです。
だから、なんとかもっとフラットに、プラスもマイナスも等距離に客観的に伝えられないもんかな?って思ったりしたわけです。もっとも、結婚なんか冷製に考えてやることじゃないんですけど。
以上、この世には「望外の果実」というものがあるよと、その果実が実はメインになったりするよということです。
裏を返せば、所詮、知識も経験も乏しい段階でチマチマ計画たてても実はあんまり大きな意味はなく、逆に緻密すぎる計画によって果実をミスらないようにということです。「オープンプラン」でいくといいよと。
ここからもう一ひねり、二ひねりすると、@望外の果実を本能的に予知して行動するケモノのような生命力、「健康で逞しい行き当たりばったり」の重要性、Aそのケダモノ的なたくましさが減ってるのではないかという懸念、B望外の果実は計算できない。しかし巨大な成功は望外の果実によってなされる場合が多い。故に、計算して成功することは本質的に不可能であり、何事でも冷静に計算すればするほど失敗するとしか思えなくなる、、、などの緒論点が出てきます。しかし、これを書きだすと、もう倍くらいの分量になるので、またの機会に。ではでは!
文責:田村
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