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今週の1枚(04.08.02)
ESSAY 167/予備校について、ふと思うこと
毎度のことながらネタ探しのためにインターネットをふらふら巡回しておりました。ふと大学受験の予備校のサイトが目にとまって、「ふーん、どんなんだろ?」と思って読んでみたら、これが面白いのですね。受験や勉強のヒントなどのコラムやQ&Aコーナーがありまして、そこに書いてあることがいちいちもっともというか、鋭いというか、深いというか、要するに真実に近い。対象物をクールに捉えて、ファンタジーに遊ばず、徹底的に現実的に処理している。
受験なんかまったく関係ない人でも読んでいてとにかく面白いサイトは、東京凰籃学院 でした。ここの受験のQ&Aコーナーは、「おお、そうだったのか、鋭い」という文章が並んでいます。勉強の仕方や受験対策が、大学別分野別に異様なまでに実戦的であり、同時にリアリスティックです。
例えば、小論文対策について質問があると、「内容が濃く,説得力があればいいのですが,なかなか難しいものです。よい文章をたくさん読み込んでいけば,いい答案とそうでない答案の違いがわかるはずです。自力では全くわからないというのは,これまでに文章を読んだ量が足りない場合がほとんどです。読書量が少ないのにいい文章が書けるはずがありません」という非常に正しい(本当にそうとしか言えない)ことを述べつつ、次に、「さて,ここからが重要です。実際に小論文で合否が分かれるというのは少ないようです」とさらにリアリスティックで実戦的な話に向い、その理由を例えば東大文系後期の場合はどうかと問題傾向から論じ、さらに極めつけに、「一般的に,小論文ができる人は,同時に他の科目も優秀です。そして,英語や数学といった普通の科目で伸び悩んでいる人は,やはり小論文でも苦戦しています。小論文では,頭の内容が文章に恐ろしいほど現れてしまうので,英語や現代文や古文や数学などをさしおいて「小論文で挽回」ということは起こりにくいように思います。」と恐ろしいほどのミもフタもない真実を突きつけます。
「小論文→天声人語を読め」とかいう”ファンタジー”に遊んだり、逃げたりしてませんよね。あくまで客観的な事実をストレートに突きつけてくれます。とにかくいい文章を沢山読んだかどうかという量の問題であり、付け焼刃は通用せず、しかも小論文が出来る人は他も出来、小論文が出来ない人は他も出来ないから結局合否にはあまり関係しないという、言われてみれば「そうだよね」という事実をストレートに言ってくれてます。
このコーナーかなり量が多く、その一つ一つが面白く、全部紹介したいくらいです。興味のある方はリンクをたどってお読みください。なんか書き方というか切り口が、僭越ながらウチに似てるなーと思ったりして。だって、上記の小論文にしたって、小論文を「英会話」に置き換えたら僕がいつも言ってることと一緒ですもんね。つまり、英会話だけ出来ないんじゃなくて英語がそもそも出来ないだけ、英語全体に力がついたら英会話は出来るようになるし、そのためには圧倒的な「量」がないとどうしようもないという、ミもフタのない事実です。
ほかにもですね、「Q.早稲田は今後やばいのでしょうか 」という質問は、見た瞬間笑いましたね。おいおいこんな質問をHPに載せていいんか?という。そしてマジに回答しているわけですね、それも「A.一応ここは企業サイトなのでそういう質問には答えにくいのですが,附属校出身者と一般受験者の人数比・レベルの不整合や,債務問題,センターによる東大併願工作の失敗,医学部誘致の失敗,小学校開設を含む系列校の「帝国化」の遅れ……などが指摘されています。これらについては「中村忠一著『危ない大学』(三五館)」「島野清志著『危ない大学・消える大学』(エール出版)」などをご参照下さい。財務状況については,ちょっと古いですが,『週刊ダイヤモンド/1995年10月28日号』に記事があります」と、「おお、そうだったのか」という近況を客観的に伝え、同時に、「ただしこれはあくまで,外面的・制度的な部分を指しているに過ぎません。早大の出身者は実力派なので,在学生や卒業生の方が心配する必要は特にないでしょう」とバランスをとってフォローするという。
志望校が高すぎるのは問題か?という質問には、「志望を下げることなんて,願書記入の1秒前になってからでもできます。競争においては,たとえどんな小さな妥協であっても,それをした人から脱落していくものです」と答え、「Q.早慶に行きたいのですが,両親は国立大学(筑波か千葉大)にするよう言います。どうやって両親を説得したらよいでしょうか?」という馬鹿な親をもった受験生からの切実な問いには、「A.この手の説得は,きわめて難しいです。旧世代の人は国立全盛期の時代に育ったために,なかなか説得のしようがないのです。かくいう私も受験時代,「私立大学は大学じゃない。腐っても国立だ」と親にいわれ,高校受験でも,「進学校といっても私立は所詮ニセモノ。たとえ学区最低ランクの公立高校でも,トップレベル私立よりステータスは上」などと滅茶苦茶なことを言われ,結局私立高校は受験させてもらえませんでした」と自分の体験をもとに共感するという。
また、若い受験生だけでなく、社会人入試を考えている人々には、「社会人入試で入った人に対しては,大学は職安機能をほとんど発揮していません。面接などで,大学入学の動機を聞かれる場合がありますが,「より有利な就職」などと答えると,それだけで敬遠される可能性があります。その一方で,就職の動機がない主婦などはほとんどフリーパスの状態です」と、これも「なるほど」という明快な答えが下されます。「Q.東大に行くメリットは?」と聞かれると「A.特にありません(笑)」と答え、ただし、「「出世するなら東大は有利」と書きましたが,それは出世したい人の場合にのみメリットになるということです。東大に行ってしまうとサラリーマンになること自体に興味を失うかもしれません。これに対し早慶に行けば,周囲の影響もあり,ビジネスマンがかっこよく感じるかもしれません。また,研究者になるとしても,東大には確かに設備がありますが,他大学で個性的な教官と出会うことのほうがメリットになるかもしれません。つまり「有利・不利」(客観)と「メリット」(主観)は違う概念だということです」と書きます。
その他、今後医師の世界がしんどくなること、富や名声を求めて医師になろうとするなら(医師という職業そのものに使命感ややりがいを感じるのではなくして)、止めた方がいいといいます。これは日本の医師の現状について僕らも興味のあるところですが、「医師過剰ということは,病院経営者にとっては,人件費の面から見て都合のいいことです。「開業し医師を雇う側」と「雇われる側」の二極分解が進み,「勤務医」のステータスは地に落ちるでしょう。これはいわゆる「イソ弁」の問題と同じです。もちろん都市部では,新規開業の余地はほとんどありません。病院の倒産も増えています」という経済的現状が第一。病院の倒産は、10年以上前の段階で弁護士内部の機関紙「自由と正義」の特集に「病院倒産の実務」というのがあったくらいですからね。「これまで,医師や弁護士は資格試験に通りさえすればあとは一生安泰だ,と思われてきました。しかし人材が余ればそこに競争が発生するのは必然です。病院の中で頭角を顕わし,患者の信望を集め,診療実績も高ければ,たとえ多少の借金をして開業しても成功するでしょうし,支援してくれる人もいるでしょう。しかし,来る日も来る日も単調な診療業務を行う中で,やる気をなくしてしまう医師は数多いと聞きます。さらに,どんな仕事も完全にマニュアル通りとはいかないものです。思いがけず特殊な症例だったにもかかわらずマニュアル処理をして,医療ミスという黒星をつけてしまうこともあります。このあたりはサラリーマン社会と全く変わりません」と実情を述べ、さらに、ここが鋭いなと思ったのですが、「医療全般を統括してリーダーシップを発揮するのが医師の役割……というようなことが医学部の紹介に書いてありますが,現実は全く逆で,医師は医療機器メーカーと製薬会社のロボットだ,という指摘があります。これは医療の高度化に伴う現象としてやむを得ないことです。今後は「リーダー」という意識よりもむしろ,専門家や技術者の「忠実な手足」となる謙虚さが求められるという意見さえ聞かれます。このような先進の職場で,否応なく序列化されていくのが今後の医師の姿なのではないでしょうか」と述べています。
面白いからかなり長々引用してしまいました。「わはは、でも言えてる」と納得しながら読んでいたわけですが、読み進みながら幾つか思う点がありました。
一つは、「民間企業の凄み」という点です。客が来なければ即日潰れてしまうという民間企業においては、なによりも実力が問われることになります。もちろん経営の良し悪しや、広告宣伝の上手下手が大きく影響することはあるでしょう。しかし、それ以上に、消費者(受験生)に「ここは凄い」という強烈な訴求力を持ってないとやっていけないでしょう。だから、民間企業は企業努力をするわけで、それが良質な商品につながっていくという、それこそが資本主義経済の大きな利点なのでしょう。
受験指導や進路指導ですが、僕も思うのですが、ここまでやらなきゃダメだろうと。ここまでミもフタもない現実を突きつけて、切れば血が出る実戦的なことを言わないと受験生はついてこないでしょう。だって、彼らにとっては一生のことですからね(本当は長い人生受験ごとき屁みたいなものなのだが、彼らはそう思い込んでいるし)。現実に自分の人生が決まってしまう岐路に立っている人間を納得させるのは、やっぱり現実しかないのでしょう。タテマエや、一般論や、希望的観測などのファンタジーではないと思います。
一般に予備校というと、小手先の受験テクニックや、受験のための知識の詰め込みだけをやっている機能第一主義的な「工場」のようなイメージがありますが、これを読む限り、必ずしもそういうわけでもないようです。大学受験を専門にマネージ&サポートする以上、入試問題を解くという実務作業と同時に、そもそもどの大学を受けるべきか、なぜその大学なのか、その大学を出てからどうするのか?という部分も並行的にカウンセリングしなければならないのはある種必然であり、そこで通り一遍のことをやってるだけだったら商品力が落ちるのでしょう。
しかし、こういった「どこの大学に行くか」「なぜ大学に行くか」という進路指導は、本来ならば予備校ではなく学校の役割だと思われます。教育は僕の専門でもないし、それほど深い関心があるわけでもないですが、公教育の理想というのは、いわゆる知育、徳育、体育ということで、単なる知識の詰め込みや受験指導に汲々とすべきではなく、青少年の全人的発達を指導するものでしょう。そこに異論はないのですが、ただ現実問題としてそこに受験がある以上これを避けて通るわけにはいかないから、何らかの対応や指導はしなくてはならない。あるいは受験対策や技術はやらなくても、これから現実の社会に出ていく生徒達に、この社会の水先案内はしてあげる必要はあるでしょう。それがいわゆる進路指導というものなのでしょう。でも、常々僕は思っているのですが、本当にちゃんと進路指導ってやってるのかなあ?と。
進路指導といっても、模試の結果と偏差値を表に突付き合せて、「キミのレベルだったらこの大学」みたいにやることだだったりします。実際に、僕が高校生のときの進路指導もそんな感じでした。でも、そんな機械的な作業は一人ででも出来るのですね。だから進路指導が役に立ったという記憶は、残念ながらあんまりないです。本当ならば、医者の世界は現実にはどうなっていて、今後どうなるか、サラリーマンの世界はどうか、海外に住みたいのだったらどうか、芸能界に行きたいのだったらどういう道筋を辿るのか、そして失敗するパターンはどういうパターンで、その末路は具体的にはどうなるかということを、出来るだけ正確に伝えてあげることだと思います。しかしながら、昔も今も、当の学校や教師陣に、それをなしうる意思も能力もないんじゃなかろか?もっと言えば、そもそもそんなに求められてすらいないのではないかと。
これは別に学校教育や個々の教師だけの責に帰すべきことでもなく、親や親族をはじめ、広く世間の大人一般(つまり僕ら)がなすべきことだとも思います。でも、やってますか?出来ますか?いみじくも、上記のQ&Aで出てくるように、「とにかく国立」のように「いつの時代の話じゃい?」というようなことを言ってる頑迷な大人も沢山いるでしょう。こういうのは、進路指導ではなく「進路妨害」というのではないか?同じように、とにかく名の通った大学へ、とにかく偏差値の高い学校へ、そして有名な企業へくらいのことしか言えない大人も沢山いるでしょう。これは他人事じゃなくて、自分自身もまたくだらない偏見を押し付けているんじゃなかろか。
自戒の意味も込めて書きますが、僕ら大人は、子供達に「こうやって生きろ」というこの現実社会の水先案内役を十分に果たしているだろうか?また、それをなしうる能力があるだろうか?その能力を高めようと努力しているだろうか?この日本社会がどういう仕組みで動いていて、どのような経済状況にあり、各業界の構造と将来性について的確な知見があるか?子供が、「カッコいい建物を建てたい」といった場合、日本の建築業界の将来性を語られるか。「建物を建てる」といっても、いろんなレベルがあるのであり、大工さんやとび職になるのもそうだし、一級建築士として設計管理をするのもそう、また建築士として一本立ちするためにはどのような努力をして、どのような苦労があり、どのような喜びがあり、そしてそこにおける最も大事な適性はなにか?各業界、生き方について、それぞれにビシッと語れるか。
そりゃ百科事典ではないので、そんなに完璧に答えることは不可能ではあるけど、大雑把な道筋を示したり、あるいは他業界からの類推である程度のことは分かるでしょう。分からなければ、各業界に散らばっている自分の友人知人から聞いたりすることもできるでしょう。そういう努力をしているか?
さらに、水先案内人として最も重要なことは、希望に満ちたビジョンを伝えることでしょう。「大変かもしれないけど、こんなに素晴らしいことがある」という。つまりは、素敵な生き方、素晴らしい人生についてどれだけ沢山のヴァージョンを自分で持っているのか。これがなかったら、非常に暗い水先案内になってしまいます。これから生きていこうという人間に、「所詮、○○なんか」みたいな言い方をしたらアカンと思うのですね。「所詮世間なんか、見てくれや学歴でしか判断しようとしない」とか、「しょせん、なんだかんだいってもお金を握ってる奴が一番強いんだから」とか、そーゆー夢のないビジョンを呈示して、だから無難に有名大学に入りなさいとか言われたら、いかにも詰まらなそうな人生になりそうで、絶望的な気分になってしまいます。「しょせん」なんて言い方しか出来ないってのは、結局その人自身のこれまでの人生の貧しさの裏返しだと思います。自分自身で、「めっちゃ楽しい」「すっごくやり甲斐ある」「本当にやってよかったと思う」という生き方をしてきたら、そういうネガティブな言葉は出てこないんじゃなかろうか。
なんだか、世の中の大人がだらしないから、結局、利潤追求集団である民間企業の予備校が一番マトモな活動をしてるかのようにすら思えます。「青少年の健全な発育」という、それ自体は正しいけど曖昧過ぎて実態に乏しく、霞のようなファンタジーになってしまった視点からは、予備校というのは「本来存在しない方が良いもの」と忌み嫌われ、その実効性を認められてもなお「必要悪」のように語られがちです。そして、ファンタジーではない現実路線では、「しょせん世間なんて〜だから、無難に有名大学へ」という、人生に対する深遠な哲学もなく、詳細な分析もなく、「世間知」というほどのキレもなく、南無阿弥陀仏の念仏のようなことを言う。そういう大人って、要するに、子供たちからみたら「使えない」わけです。
そこで「使える」ものを求め、予備校に出会う、と。主義主張でもなく、愛情も哲学も前面に出さず、ただ資本主義における経済原則=「良質な商品を提供し、適正な報酬を得る」というシンプルな原理にのっとっている予備校が、一番まっとーだったりするというのは、皮肉というべきか、必然と言うべきか。
ただし、誤解してほしくないのは、予備校がひとり優れていて、学校や世間の親や大人はひとしくダメだと言ってるわけではないことです。予備校と一口にいっても色々なところがあるでしょうし、中にはしょーもない所もあるでしょう。詐欺まがいのところだってあるかもしれない。参考のために引用した上記の予備校も、よく読んでみると、受講生の8割以上が開成・桜陰の生徒という東大受験のための少数精鋭校であり、このように最初から生徒のレベルが高かったら、教える方も遠慮なく難しい現実をビシバシぶつけられますし(生徒に消化能力があるから)、ある意味では楽なのかもしれませんし、そのくらい突っ込んだことをいわないと生徒も納得しないのでしょう。その意味で、平均的な予備校とはちょっと違うのかもしれません。また、学校や教師でも、真摯で且つ有益な進路指導や受験指導をやってるところもあるでしょうし、大人の全てがボンクラであるわけでもない。いずれにせよどっちかが常にシロで、どっちかが常にクロであるというものではないです。
言いたいのは、「健全な発育」などの公教育の理想は理想としてレスペクトしますし、失ってはならない理想だとも思いますが、この種の美しい理想は、すぐにタテマエとして形骸化し、無能と怠惰の隠れ蓑になりうる危険があるということです。だから理想を持つなといってるんじゃないですよ。理想は持つべきなのだけど、それ以上にそれを実現化していくための自己検証やチェックというものが大事だと言ってるのです。
予備校というのは、その存在自体、社会からやや白眼視されている可哀想なところですが、それだけにその組織が存続するためには、イチにも二にも「使える」という機能性・有効性にあると思います。要するに、「わかりやすい授業」「試験に役に立つ授業」をやるかどうか、進路指導についてもテンパってる受験生を「なるほど」と納得させるようなガチンコ勝負の指導をし、そして実際に皆が合格しているという実績があるかどうかです。これをやらない、あるいは消費市場で認めてもらえない予備校は、経営難に陥り、潰れることになります。同時に予備校の教師も、消費者のニーズを満たせなかったら即クビだったりします。自動的に検証システムが作動しているわけですね。
そのあたりはやっぱり強いだろうなーということですね。学校の場合、私立はまだ経済競争の場にいますが、公立の場合、行政的な統廃合はあるけど、「質の低い授業をしているから潰れる」ということはあまりないです。質の低い指導をしている教師がクビになることもマレでしょう。いわゆる不祥事を起こせば別ですが、不祥事云々と、本来の業務遂行能力の高低とは別の問題です。一方、親にしたって、質の高い子育てをしてないから、クビになるということは非常にマレでしょう。一応親権喪失なり、親権者変更なり手続はありますけど、日常的に機能しているものではない。
だから何だということもないです。学校や親について市場原理を大幅に導入しましょうといっても、それは無理ですし、また市場原理が万能薬というわけでもない。また公教育の難しさは、生徒のレベルや資質、その方向性がマチマチであることで、「理想的な人格を作る」なんて段階のことを到底やってられないという現実もあるでしょう。進路指導のはるか手前で、「とりあえず社会に出るために最低限のマナーだけは守れ」というレベルで四苦八苦しているかもしれないし、さらには「とにかく犯罪だけはおかすな」で終わってしまったり、「人間として成立してくれ」ということで困ってたりもするのでしょう。学級崩壊なんかのひどいケースになったら、現場においては、とにかく何をどう教えても既に「人間として手遅れ」になってると感じるような子供もいるでしょうし、こういうガキはとりあえず一遍皆殺しにして「最初から居なかったこと」にした方がいいんじゃないかってマジに思ってしまうような現場もあるでしょう。こうなると進路指導なんて高尚なものではなく、動物の調教とほとんど同じになってしまいます。そのような現場から見れば、予備校なんか、タテマエに縛られることもないし、来る生徒は一応は受験という向学心に燃えているわけだし、レベルも予備校側で設定できるわけで、ほんの一部分だけに集中すればそれは楽だよってことにもなるでしょう。
というわけで、すべてのフィールドを一度に語ることは無理がありますし、ひとつのものさしで全てを計ってはいけないのだと思います。ただ、それを踏まえたうえで、子供の側に向学心も好奇心もあり、進路に対する真剣な疑問があるという状況も確かにあるのだろうから、僕ら大人の側もその疑問に答える義務があろうし、そのための研鑚を怠ってはならない、ということはいえるだろうと思います。そして、子供の側のこのような要求が叶えられなかった場合において、どのような救済手段があるか、その点をもっと突き詰めて考えてみてもいいだろうなと思います。市場原理は、確かにひとつの矯正手段でありますが、あくまで一つの、限られた条件下でしか成立しないものでもあります。ほかになんかないのか?と。
そのための方策は、僕は詳しく知るものではないですが、各地方各自治体によってばらつきはありながらも、徐々に実行されているでしょう。基本的に住民の意識レベルの高いところは、それなりに先進的な試みがなされるでしょうし、逆に十年一日のようにあまり試みがなされていないところもあるでしょう。
僕が思うに、市場原理の良い部分、そのエッセンスをもっと使っていくといいのかもしれません。市場原理のエッセンスとは、商品の個性があること、それに対する消費者の選択があることです。商品の個性がない、あるいは許されないところでは、消費者の選択の余地もありませんから、結局一種類の規格品だけが市場を支配し、それが優秀だったらいいですが、ダメだったら悲惨なことになります。でも、大体人間って競争がないと-----といっても「競争」にポイントがあるのではなく、頑張ったら報われ、怠けたら罰せられるという「信賞必罰」の因果関係がないと、ダレてくるものあると思います。そのために、公教育においても、学区制度を大幅に緩和し、ある程度消費者(親と子)に選択の自由を与えるとともに、各学校の商品力(個性)をもう少しハッキリさせたらいいのかもしれません。そのためには、こちらの学校がそうであるように、校長の裁量権限を増やし、個性ある学校にしたらいいかもしれない。極論すれば教師の任免権を与え、財務状態についての責任すら負わせると。文部省の指導要領においても「必須」と「オプション」とに分け、必須を少なくし、オプションをどう採用するかは学校に任せるとかね。
こんなことを言うと、公共教育がわかっていないと批判されるかもしれないわけですが、でもね、明治の昔から、私立学校というものが存在し、学費も公立よりも高いにも関わらずそこを選択する人間がいるという事実は、国民の全てのニーズを公的に満たしきれていないことを端的に意味するわけでしょ。だいたい皇室からして、学習院という私立学校に行ってるじゃないですか。住宅だって、国民だったら公営住宅に入れなんて馬鹿なことは誰も言ってないわけだし、ファッションにおいては「国民服を着ろ」なんて発想すら出てこない。電力とか原子力とかかなり基本的なインフラに属するものでも、東京電力とか関西電力などの私立がやってるじゃないですか。
公教育にせよなんにせよ公的なサプライの目的はいろいろあるとは思うけど、一番大事なことは、私立に通わせる資力のない人に安価で良質なスタンダード品を提供することにあると思います。お金がないから良い教育を受けられないという事態が問題だから、公的に採算を度外視しても提供する意味があるということです。選択の自由といっても選択するためには最低限の経済的余裕が必要ですからね。その根本からすれば、お金がなくても選択の自由がある方がなお好ましいわけでしょ。だから、選択の自由を与えることと、そのことの公共性とは一概に矛盾はしないと思いますよ。
話は変わりますが、予備校がもっぱらやっているとされる「小手先の受験テクニック」と「知識の詰め込み」です。これらの事柄は、ときとしてあまりにも過小評価されたり、卑しむべきことであるかのように思われたりするのですが、僕の意見としては、別にそんなに悪いことじゃないと思ってます。
先に「知識の詰め込み」についてですが、どんな分野においても一定レベルの知見や技能を修得しようと思ったら、最低限のベタ覚えは必要です。8割はそれだといっても過言ではないと思う。たとえば、あなたがインターネットがわからない、パソコンがわからないという人に教えてあげようとするとしますね。その場合、「カーソルってなあに?マウスってなあに?」っていちいち聞かれるでしょう。ブラウザとは、メーラーとは、プロバイダとは?にはじまって、ある程度のレベルにまで持っていこうと思ったら、TCP-IP設定がどうのとか、SMTP設定くらいは「最低限知っておけ」ってことだと思います。これらのことは、もう問答無用に「知っておけ」ということで、これすらも知らなかったら話になりません。ちょっとトラブったらもうお手上げになってしまう。
車の運転だってそうです。アクセルってなーに?ブレーキってなーに?というレベルから教えていこうと思ったら、とにかく基礎的な部分はツベコベ言わずに「知っておけ」でしょう?さっきの小論文にしたって、ある程度すらすら自分の思ってることを文章にして表現しようと思ったら、たくさん本を読んでおけってことだと思います。それも10冊とか20冊レベルでは話にならず、最低1000冊単位で読んでないと、日本語を自由に使えるだけの最低限のボキャブラリと言い回しのストックが蓄積されないでしょう。英語でも話はまったく同じで、1000冊とは言わないまでも、読書量最低1000ページ、会話通算1000時間というくらいの単位で積み上げないと、その世界が見えてこないと思います。
弁証法に量質転換の法則というのがありますが、スキルの上昇など「変化」というものは、まず量的な変化から始まり、量的な変化が一定レベルまでに達すると質的な変化になっていくものだと言われます。「水」はいつ「お湯」になるのか?でも、20度だったら水ですが、これが21度、22度と量的に増えていって、ある程度のところまでいったら「お湯」と呼ばれる存在になる。量の変化が質の変化を促す。単語一個知ってるだけだったら、単に一個知ってるだけだけど、これが3万個とか7万個知ってるようになると、その言語が出来るということになります。
これはいつも僕が言うことですが、量を積み上げないと話にならないし、全ては量の問題から始まる。だから、「知識の詰め込み」は、これは必須過程とも言えるわけで、ここをオロソカにしたり馬鹿にしたり、どっかにもっと簡単な「質への近道」があるんじゃないかと探す人は、まあ、十中八九モノにならない。馬鹿正直に量を積み上げる奴が一番早いです。問題は、知識を詰め込んでそれで終わりにするか、知識を詰め込むことによっておのずと見えてくる世界を見ようとするかどうか、その次のステップをどうするかなのだと思います。たとえば、日本史にしたって、苦手な人は「暗記ばっか」といって敬遠しますが、それって要するに量的段階で挫折してるだけのことだと思います。日本史だって質的に理解することは可能ですよ。たとえば、「日本人の中流意識というのは、日本史を貫いて存在するのか」とか、いわゆる日本的な生活様式はいつごろその原型が成立するのかとか、農耕民族が武士階級を生むということはどういうことなのかとか。でも、こういった質的な深い理解は、「室町時代と鎌倉時代ってどっちが先だっけ?」とか言ってるレベルだったら理解不能だと思う。「マウスってなーに?」って言ってる人間が、「DivX形式のファイルをMPEG1形式に変換するフリーソフトに日本語パッチをあてる」とかいう概念は理解できんでしょう。
それとこれが大事なのですが、知識をより効率的に短期間に詰め込もうとすれば、手当たり次第に乱雑に入れてもダメです。スーツケースやバックパックに詰め込もうとしたら、「詰め込み方」というものが自ずとあります。いろんな詰め込み方がありますが、よくあるのが系統発生的な詰め込みと、あとリンク形式ですね。たとえば、英語で cent/centiがつく単語がありますが、あれはラテン語のcentumに由来し、「百」という意味があります。ここから系統発生的に、centenialといえば「百周年」であり、シドニーのセンテニアルパークは建国百年記念公園という意味です。ほかにも、century(センチュリー、100年、世紀)、percent(パーセント、100分の1につきという意味)、centigrade(摂氏=水の融点と沸点の間を100分割した温度単位)、さらに1メートルの100分の1がセンチメートルだったりとか系統的にボキャブラリが増えていきます。ちなみにムカデは、日本語では「百足」と書きますが、英語でも同じ「百足」です。つまりcentipedeです。ここで、系統が分岐して、pedisというのは「足」の意味で、だから「歩行者」はペデストリアンだったり、足につけるのはペディキュアになったりします。100がセンチだったら、10は?1000は?になり、10はデシ(デシリットルとかやったよね)、1000はミル、つまりミリメートルであり、ミレニアム(1000年)だったりします。このように、「1粒300メートル」のグリコ的系統発生をさせてやるのが、正しい(というか効率的な)「詰め込み」だと思います。
リンク形式は、たとえばシルクロードがあった場合、普通だったら、その昔シルクロードがありました、西方文化が日本に伝わり、ギリシア神殿のふくらみをもった円柱(エンタシス)の影響が東大寺などの柱などに伝わってますくらいで終わりでしょうけど、賢い奴はさらにリンクさせていく。シルクロードのいわゆる「西域」、孫悟空の舞台のエリアで、今は新疆ウィグル自治区のあたりですが、あそこが超乾燥しているエリアであるということを世界地理から知り、さらになんであんな乾燥しているところに人が住めるのか?というもっともな疑問から、なんでオアシスってあるのか?になり、そこで山脈に積もった雪が解けて水源になり、オアシスになるのだという地学的理解につながり、地理的にいえば中国、ペルシャ、ロシアやインドに接していることからトルキスタンとかウズベキスタンとか現代国際政治の関係論につながっていくという、これがリンク形式の「詰め込み」ですね。
でも、既にお分かりでしょうが、きちんと詰め込もうと思えば、理解しちゃうというのが一番早いのですね。「理解」というのはコンパクトに折りたためるので場所を取らないし、必要に応じていくらでもふくらませていける。MP3みたいな優秀な圧縮形式なのですね。「理解なき詰め込み教育」とか言われますが、あれは詰め込み方がヘタクソなだけだと思いますです。でもって、理解という「圧縮」が出来ない領域もありますよ。そういう領域は、もうベタ覚えです。問題は、ベタ覚えするべき領域と、圧縮がきく領域かを判別することであり、そこにメリハリを利かせることが出来れば出来るほど、速やかに量的レベルを通過できるということです。
「小手先の受験技術」という点もですね、「タスクの完遂」という実務能力を養うにはいいプラクティスだと思いますよ。それを「小手先」と呼ぶかどうかですが、「とりあえず一点でも多くとる」というシンプルな目的にしたがって、より有効度の高いものから順に採用し、粛々と実行するというのは、「とりあえず1円でも多く稼ぐ」という企業原理に通じるものがありますし、目的を鮮明にし、全てのことを目的に照らして点検していくというのは、非常に重要な生きていくスキルだと思います。
人が大体失敗するのは手段が目的化した場合であったり、行為それ自体に価値を求めたり、そこで酔いしれたり、ファンタジーを追い求めたりする場合です。受験というのは、冷徹な目的志向性を養うには、本当にいいトレーニングだと思います。「なんとなく勉強してるぞという自己満足」みたいなものに、人はすぐに浸りたがるのですが、「それって合格するためにどれだけ有効なのか?」というクールな視点で常に徹底的に検証していかないと、現実に物事を成し遂げるということは出来ないです。でも、これが本当に出来ている人は少ないです。僕だってよう出来ない。だから、トレーニングに必要があるわけですね。
ああー、もうこんな行数になってしまった。いいところなんだけど、このくらいで今回は打ち切っておきます。
予備校のサイトひとつから、いろいろなことが思い浮かんでしまいました。ただ、受験とか弊害ばかりが語られますし、それを語ることはとても重要なことだと思いますが、同時に受験が持っている「いいこと」もあるんだって視点もまた大事なのかもと思ったわけです。少なくとも、受験を避けて通れないのであれば、受験という行為を通じて価値あることを最大限学べるように考えたらいいんじゃないかと思った次第です。
「小手先の技術」「知識の詰め込み」についての否定的な意見は、これはこれでよくわかりますし、全然異論もないです。ただし、一概に否定し去ることもないでしょう。それと、もっとも言いたかったのは(書くスペースがなくなっちゃったけど)、技術と詰め込みを卑しむべきものだと排除するとして、「じゃあ何があるのよ?」ということです。そして、それってやってるの?と。今書いたように、合格するためには点を取らねばならないけど、最も効率よく点を取るためには、結局ちゃんと理解してるのが一番確実で一番簡単なんですよね。文部省の指導要領で、たとえば国語の学習目的を(なんだか知らんけど)、「豊かな言語的感性を養い、的確な言語表現ができるようになり、文芸作品を鑑賞できるようになること」だとします。まあ、香ばしい文化人たれみたいなもんだと思うのですけど、そういう観点からしたら、「とにかく一点でも多く取れ」という視点は卑しむべきことでしょうよ。でも、実際にやってることは一緒だったりするわけです。一点でも多くとるためには、結局、豊かな言語的感性と的確な表現技術が必要なんだもん。そして、それって、タテマエに縛られず、タテマエに守られず、単なる利潤追求組織としての予備校の方が、ときとしてストレートに本質にせまるものをサプライしていることと、ある種構造が似ているな気がするのですね。その点がなんだか面白いなあって思ったのが、この雑文を書こうと思った原点です。
ちなみに、僕自身は、小中高から大学、司法試験にいたるまで予備校や塾と名のつくところに通った経験はないです。中学のとき10日だけ短期講習を受けたことはありましたし、また学校でやってる(予備校とタイアップしてる)模試は受けました。予備校が出している出版物なんかもよく読みました。でも、定期的に通ったことはないです。だから、個人的体験でいえば、あんまり予備校について語る資格はないっす。よう知らんもん。自分の経験だけでいえば、予備校とか「必要なんかな?」って気もしますが(浪人すればペースメーカーとして必要だと思うけど)、ただ、あれは「道具」ですから、使い方が大事なんだろうなって思います。同じ領域を勉強してても、違う視点で言ってくれるから、ステレオになって、立体的になって、それで理解が開けるってことがあると思います。そこに効用があるんじゃないかって。しかし、聞くところによると、小学校の頃からガンガン塾に行ってるってのは、どうなんかな?って気もしますね。まあ行ってて楽しいんだったらいいけど。
文責:田村
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