今週の一枚(2016/11/21)
Essay 800:セーフハウスの話の続き
写真は、今がシーズンのジャカランダ。
既に桜で言えば「葉桜」に移行しつつありますが、尚も見応えあります。
既に桜で言えば「葉桜」に移行しつつありますが、尚も見応えあります。
基本コンセプト〜私的インフラ
オフ掲示板に、ちらっとセーフハウスの話をしたのですが、定期的に書いておいたほうがいいかなーと思ってまた書きます。「また」とか「続き」とかいうのは、以前にもちょこちょこ書いているからです。比較的近いところで且つまとまって書いているものは、このエッセイの761と762です。細かな理屈や、具体例などは、そちらを参照していただくとして、大まかに言ってしまえば、皆でシェアして暮せば安く住めるから、これから失業、介護、健康障害、老化その他、これからの人生で自分(+近親者)が苦境に陥りそうなとき、「ここに行けばなんとかなる」という拠点を作る話です。
本来そういうことは公的福祉(インフラ)でやるべきですが、悲しいことにあまりアテにならないので、私的なインフラを作っておいたほうがいいだろうという発想ですね。
一般論としてそういう苦境が将来的に増えるのか、こと自分に関してはどうか?というのは、政治経済、天下国家論になりますので、それを論じたい方はお好きになさいませ。でも、ここではその予想が的中するかどうかが問題ではなく、「備えあれば憂いなし」的な発想ですから、可能性がゼロではないなら考えて損はないでしょ。それは保険と同じ発想ですね。考えるだけならタダだし。
また「大は小を兼ねる」ように、「最悪は最善を兼ねる」とも思います。最悪のケースを想定して作っておいた仕組みは、そこまで悲惨にならなくても決して無駄にはならないだろうし、無駄にしないための仕組みは作りうると思いますから。
で、具体的な原理モデルは、762の最後の方に出したような出雲市の10DKの家(土地面積581.23m2(175.82坪)で、山林386m2も含んで350万円)。今見たらやっぱり売れて無くて300万円に値下げしてました(笑)。別にこれを買おうとかいうのではなく、このくらいの物件がこのくらいであるよいう話です。でもって、仲間内で使ってない空き家なんかがあれば、原価はどんどん安くなるでしょう。ともあれ、デカイ家があると。
そこに10人、ないし10世帯(一部屋二人くらい)で住むとして、家賃経費(固定資産税とか光熱費)が月間3万とか5万とかしても、10〜20人で割れば微々たるもんだろう。月間家賃3000円くらいでいけるんちゃう?と。で、あとはメシ代だけど、全部持ち回りで自炊すれば、一人1日千円もいらない。自炊というのは、人数多く作ったほうが割安だから、一人1日300円でもいいかも。だったら一人月間1万円食費で、1-2万あったら住める。プラスアルファで総額3万くらいあったらいいくらいの感じにする。
ただ、それだけでは食って寝てそれだけだし、強制収容所みたいな話になってしまうから、工夫はこれから。ここでは最低限の食住コストを切り詰めるとどこまでいけるかを考えてみる点に意味があります。これが安いと生活にゆとりが出来ます。そして、その「ゆとり」を原資にする。
今、リアルに困ることといえば、自分(or家族)が事故や疾病で倒れて収入途絶、ないし医療介護コスト(手間)がかかること、親や親族の介護、あるいは子供の託児所がないとか、ないまま働くから放置児童になるとかです。託児所や、デイケアのコスト、老人ホームのコストなどなど、膨大にお金がかかるし、それで財政破綻って話もあるでしょう。
何でもお金で解決しようという効率の悪い方法論
ほんでもって、これも掲示板に書いたけど、日本の場合「お金で解決する」って方向に過度に偏ってるように感じます。それは、オーストラリアには全くといっていいほど存在しないサラ金が、日本ではどこに行ってもあることからもわかります。こんだけサラ金の多い国って珍しいよね。もう駅前のテナントビルの看板には大体あるし、自販機でお金貸すってのは凄いですよね。それだけに、とにかく金借りて(お金を工面して)乗り切ろうという傾向が日本では強い。だから消費者金融があんなに隆盛なんだろうけど。逆に言えば、前にも書いた「お金がないと死んじゃう病」が日本では猛威を奮っている。
でも、それ(お金の切れ目が命の切れ目)は錯覚ですよ。日本で破産とか民事再生とかやってた経験とか、オーストラリアのワーホリさんが財布には常に数百円しかない状況でもゴキゲンに暮らしている事実からして、カネで解決するというのは、一番芸がないというか、頭が悪いというか、その中でもお金を借りるというやり方は最悪に近い。お金というのは、事業資金や住宅ローンのように前向きな投資として借りるもので(せいぜいがツナギ融資)、足りない部分を補うという後ろ向きなことやってたら辛いです。なぜなら大体において「今月足りないものは、来月にも足りない」のであり、しかもそれに「金利」というミエミエに悪化するオマケ付きだから、普通に考えたら自殺行為だもん。ジョギングやってて疲れてきたら、休みを入れたり荷物を軽くしたりすべきなのに、そこをわざわざ鉄ゲタ穿くようなもんですからね。
本来なら足りなくなりそうな時点で抜本的なリストラをすべきなんだけど、それをやらない。なぜかといえば、これは国民性、、、というか、単に慣性だと思うけど、一つには「体裁」を取り繕うのが命よりも大事という見栄っ張りの精神性。ライフスタイルの変更に多大な苦痛を伴うという生活硬直性(転職や転居、転地をとにかく面倒臭がる)。さらに他者の困窮ぶりに、心を痛めて手を差し伸べるよりも、どこか見下したり、ほっとするという浅ましい精神性などが背景心理にあるのかもしれません。昔の貧乏学生さんのように、今月ピンチ!とかいって、毎日素うどん&着たきりスズメとかいうのを「立派な社会人はやってはいけない」みたいに思い込んでるね。
武士道とか倫理などの人間の行動美学みたいなものは、一種の「やせ我慢」ですから、それが一概に悪いとは言わないけど、ときと場合によるでしょ?って思う。破産もねー、「破産」という言葉が既に間違ってますよね。あれってただの「精算」「リセット」ですから。破産の要件である「債務超過」も、このままいっても最後までうまくいかない確率が高く、そうなるとある人にはお金を返せても、ある人には返せないという不平等が生じる。そしてその不平等は(権力的 or 暴力的に)強い人が勝って、弱い人は何ももらえないという宜しくない状態になりがち。だったら、早めに終わらせてできるだけ多く&平等に返済した方がいいという制度。敗戦処理って勝利と同じくらい大事なマネジメントなんだけど、そういうネガ処理をとにかく嫌がる、目をそむける、縁起でもないとかいって考えようとしない。
と同時に、成功率や方向性はともあれ、とにかく必死に頑張ること自体に価値を見出すという行動態度の美学(結果はガン無視)もあるのでしょう。それは「努力を素直に評価する」という意味では良いことでもあるのだけど、一歩間違えると(というか常に間違えるんだけど)、戦時中の万歳アタックの玉砕賛美のようになってしまう。間違っていようが、先に破滅しかなかろうが、一瞬の輝きに美を見出すという「思考停止」をやってしまう。するとどうなるか。常に被害は最大限にまで拡大する。会社や個人の倒産でも、よくまあこんなにってくらい、核爆発レベルにまで迷惑マックスになる。なぜなら、そこまで「頑張る」からです。最初サラ金で10万生活費の補助で借りた人が、3年後には負債2000万で破産する。単に複数社で借り換えて、やりくりしてるだけで、そこまでいく。それが金利の恐ろしさ。とまれ、10万レベルで済む迷惑が数百倍にまで拡大してバタンと倒れるという。そうなると家族、親類、友人達の「善意のヘルプ」の総額数百万円も全部パーです。「恩を仇で返す」の極致の大迷惑です。場合によっては「頑張ること」=「犯罪」くらいに思うべきなんだけど、そういう認識はないよね。相変わらず「一瞬の輝き」みたいなところで終わってるし。
そんなこんなで経済的合理性を超えて、破滅に(それも極めつけに悲惨な破滅に)向かいがちだと、そういう社会精神傾向にあるのだってのは、知っておいてもいいと思います。それは国家財政でも同じことで、予算が足りなかったら赤字国債発行で〜という借金経営は、もうマネジメントとしては本来的には失格であり、日本の場合1975-89年にそれをやって(オイルショックとか)、1990年以降やっとそれが無くなった思ったら、1994年以降またぞろ借金復活して、そのまま現在に至る。だもんで、1994年に日本国は一度終わってるんだ、そっから先はもう国家経営として狂気に入っているんだって考えてもいいくらいっすよ。その辺の事情もあって、1994年に僕はオーストラリアに来たんですけど。
人手と時間というリソースで決まる
ただ、その呪縛にかかってしまえば、お金の切れ目が人生の切れ目で、あとは深いクレバスにはまって奈落の底に堕ちていくしかない。それは非常に恐怖だと思うし、精神健康に良からぬ影響を与えているでしょう。不安で夜も寝れないとか。実際、最近の記事で見たのですが、「1日の平均睡眠時間 成人の約4割“6時間未満”」なんてレポートも出てる。それじゃ慢性疲労になるし、睡眠不足は万病のモトだから、老化も早くやってくるし、結果的に身体が言うことをきかずドボン貧困って話にもなる。
このプランの目論見は、一つにはその呪縛を解くことです。それはオーストラリアのワーホリやら留学で、1年での資金が200万とか300万とか言われているのに、ワーホリでフルに4ヶ月学校行っても6-70万、学生ビザで1年でも100万程度出来るぞ〜、あとは働けばいいだけだしってのを実践してるのと同じことです。そんなにかかるワケないじゃんっていう。
介護にせよ、子供の世話にせよ何にせよ、高度に専門的な医療その他の領域はともかく、ゼネラルには人手と時間をたっぷりかけたら解決する問題が多い。一人で複数人のケアをすると時間や労力というリソースが希薄になるから、「手際の良さ」や精神のタフさが必要になるが、複数人で一人をケアするなら、手際が悪くてものんびりやればいいし、また時間をかけて経験を積めば誰でも上手になる。
しかしそんなに潤沢にリソースを浪費することは普通には出来ない。なぜならリビングコストが高いからです。やれ働きに行かなきゃいけないし、行ったら行ったで年々ブラック化搾取化してるから疲労困憊するしで、全然手間暇かけられない。出勤時間が迫っていれば、「早く食べちゃいなさい!」とイライラ罵倒するように言い方にもなる。よろよろ歩くのに付き合ってゆっくり歩いてたら日が暮れてしまうから、車椅子に載せてシューッと移動したほうが早い。でもそうすると筋力は衰えるし、なによりもそんな具合に「物」として扱われていたら自意識も自尊心も衰退し、ボケが早くなる。
そして、一人で切り回すのは限界あるから、お金をはらってヘルパーさんにやってもらったり、施設に入れたりってことでしょう?手間がかかる子供も、老人も、人類が集団生活を始めて数十万年の歴史においてはありふれた存在だった。そりゃ寿命が短く早く死んでたから老齢時期も少ないが、相対的な割合(一生における被介護時期や集団における被介護人口)はそんなに変わってない筈です。だが昔ではそうそう問題視されなかったのは、天災、戦乱、飢餓などより強烈な外敵があったからって点もあるけど、人手と手間暇で解消していたって部分が多い。子供なんか3-4歳くらいで歩いて喋れるようになったら、もう村の子供コミュニティで遊んで、近くに大人がいくらでもいるから面倒も見れたし、悪さをしたら自分の子供でなくても叱って躾けてたし、簡単な労務や弟妹の世話やらで被介護ではなく大人側に回っていた。甘えが許されない環境だから精神年齢の成熟も早かった。そうでなければ、あの生産性の低さ×寿命の短さで「腹が空くヒマがない」って言われるくらい多産なわけがないです。同時に、老人といえども、多少ボケようが、手足のいうことがきかなくなろうが、まだ働けるなら留守番でも、漁網の補修でも、子守でも、なんぼでも仕事はあったし、仕事と責任があったからボケなかった。日本でも昭和時代くらいまでは、おばあちゃんは煙草屋の店番やら、駄菓子屋やら、人によっては結婚紹介の鬼になってたりもした(笑)。まあ、それがナチュラルな形なのでしょう。DNA的にはそれがデフォルトだろうと。
でも、なんかしらんけどお金で解決する。人見知りしたり、社交性が減少したり、コミュ力がダメになったりするほど金がかかる。大部屋に泊まれば一泊安いけど、そんなの出来ないで個室に泊まれば、それは費用は数倍かかる。それと同じく、コミュ力が減って、他者と衝突して、理解しあって、、という自我がゴンゴン削られて彫琢される過程が減れば減るほど、自我はぬくぬくと無駄に肥大する。だから些細なことで「傷ついた」とかトラウマ化する。それが怖いから益々コミュ力が減り、どんどん金がかかりって悪循環ですわね。そっち方向に流れていったらリビングコストは上がる一方だし、お金なんかいくらあっても足りないです。ねえねえ、一体なに考えているの?馬鹿なの?って連鎖です。
逆に、信頼できる誰かが常に近くにおって、その人らに任せていたら随分と楽になる。それが一人や二人じゃなくて、4人も5人もいたら、多少本人が奇声を発しようが、徘徊しようが、むづかろうが、対処もしやすい。朝から晩まで一人でずっと面倒見てたら精神的にキレるだろうけど、でも数人でやってたら感じはだいぶ変わってくるでしょう。一人が一人というマンツーマン割合でも、一人が一人だけをずっとやってるよりも、5人が5人の世話をする方がずっと楽。それもせーので同時に同じ場所でやってたらもっと楽。それに被介護5人といっても程度の差はあるから、程度の楽な方が重度の人の世話をしてもらえば、本人もやりがいあるし、そこはやり方次第です。
ずっと前に紹介したESSAY 593/Hogewey〜オランダの斬新な認知症ケアハウスでなるほどねと思ったことだが、いわゆる健常人の価値世界が唯一絶対だと思わないこと。僕らの感覚でまともでない部分はもう欠落だと捉え、その欠落を埋めるような形でやってるから、被介護者は常に「欠落している」という扱いになり、結果的にボケも早まるし、フラストレーションも溜まるから暴れる。僕ら的にはダメダメに見えても、それで結果的に大事にならなかったら、それはそれでありって認められたら、随分と話は違ってくる。そこでも引用したけど、施設の人の言葉で、「彼らがまだ何が出来るか?という点に焦点を当てて考えるのです、何が出来ないか?に焦点をあてるのではなく」という部分ですね。日本人的にとにかくキッチリしたい願望が強い人達の場合=ご祝儀袋の万札がピン札じゃないとダメで諭吉の向きが同じでないと「ダメ」だと思うような人達は、メシ食うのに6時間かかったり、味噌汁ひっくり返したり、ご飯投げつけたりするのは「ダメ」であるけど、別にそんなの後で掃除すればいいじゃん、掃除しやすいような環境にすればいいじゃん、あるいはその掃除も自分でやってもらったり、他の居住者にやってもらったりすれば、単に「ユニークな食べ方」にすぎないわけで、ダメ呼ばわりせんでもいい。
そのあたりはトライアル・アンド・エラーで詰めていくしかないし、個性に応じてフレキシブルにカスタマイズさせていくしかないけど、でもそれもこれも時間と人手の余裕あってこそです。少なくとも、なにもかも一人で対処して、対処しきれない部分はお金払って、、という方法論よりは工夫の余地はずっと大きい。ならば問題解決の第一段階は、リビングコストをどこまで圧縮できるか?である。圧縮すればするほど皆の「ゆとり」は増えるから、問題解決しやすいことになる。
リビングコストの超圧縮
さて、以前にも書いたけど、仮に一人月間3万円程度の費用で成り立つように設計するなら、年金がいかに減少しようが国民年金くらいでもいけるし、介護保険だけでもいける。あるいは、ちょっと前の無届老人ホームのところで書いたように、訪問介護という形にしてしまえば介護保険がおりやすい。一人プロの介護士の資格を取れば、「訪問」というカタチをとって(てか同じ家なんだけど)、現行の最高保険支給額が月間34万円出る。はっきりいって、そのパターンを一つ作れば、それで10人、20人は食えてしまうという(笑)。別に嘘言ってるわけじゃないしね。だからそのあたりの行政法規は徹底的に知悉しておくべきでもある。「ゆとり」を生み出すために。ちなみに国や自治体の介護などのシステムを見てると、あまりにも複雑でクラクラしてくるし、トータルでみて整合性が取れてないような気がします。まあ、詳しく知るものではないのだけど、ざっと見て、これ重複してない?これ無駄ちゃう?これ細かすぎない?ってのが多い。大体システムが複雑になってるときは、なにか基本設計とか前提に問題がある場合が多い。優秀なシステムだったらルールもシンプルな筈。それに、逆進的な場合もある。例えば、施設が経営のために介護報酬を沢山貰おうと思えば、早く重度になって要介護度が上がってくれた方がいい。先程の例では、ひとりでよちよち歩かせて時間がかかるくらいだったら、車椅子に載せた方が効率的に出来るだけではなく、介護度が上がって収入が増える。それによってボケの進行や老化が早まっても、です。やってる方々を非難するつもりは毛頭ないのだけど、システムとしてそうなっているということです。それはなぜか?といえば、これも理由があって、全国一律で、公平にって部分がアダになっている。そのシステム設計の話はあとでもやります。
ともあれ金勘定の話なんだけど、仮に健康体10人住むとして月間30万くらいは現金収入が欲しいとします。安い軽トラ一台ほしいし、そのメンテやガス代や車検もいるし(修理はメカの得意の奴を仲間に入れればいい)、不測の事態に備えて貯金も欲しいし、生活に潤いも欲しいし。で、10人で月間30万要るなら、一人3万円を払えばいいことになる。が、誰もお金を持ってないとしても、全員で稼げばいい。一人あたり月3万稼げばいい。ここで全員が働きに出て一人3万稼ぐのもいいし、月ぎめの当番制にして、月あたり3人が働きに出るようにしてもいい。それでも当番月に月間10万円稼げばいいだけだから、コンビニバイトでも10日かそこらで出来るでしょ?ちなみに、この種のマックジョブは、AIに仕事を取られようが、経済崩壊でどうなろうが将来的にも減らないとは思います。「人を低賃金でこき使う」ってのが一番安上がりだからです。だから仕事を選ばなければ何でもあるだろう。「これが男子(女子でも)一生の仕事かあ」とか思うと砂を噛むような気分になるかしらんけど、単に持ち回りの現金収入当番だと割り切ればどってこないでしょ。だって当番月に10日働けばいいだけだし、3ヶ月に1回くらいしか当番が回ってこないし。つまり100日中10日働けば良いだけ、比率でいえば10日に1日のペースで働く。このくらいの比率だったら結構楽でしょ?
助け合いの家事労働こそが本来の「仕事」
じゃあ残りの9日は何をするの?といえば「助け合い」ですわね。買い出しいってご飯作ったり、掃除したり、庭仕事したり、そして子供相手にキャッチボールやったり、一緒に絵を描いたり、お年寄りの話相手になったり(子供が話し相手になればいいんだよな、おばあちゃん子になると)、その種のことですわ。それが「公務」ね。そっちの方が遥かに大事で、遥かに真剣にやるべき。労働の(あらゆるアクティビティの)本当の報酬というのはお金じゃないよ。「正しいリアクション」だと思いますよ。仕事でも、お客さんの顔が見えて、お客さんが本当に喜んでくれるのを見るのが一番のご褒美だというのは誰でも言うことだし、真理ですわ。だからお客の顔が見えない仕事は辛いとか言われる。要は、他人の幸せに寄与している、自分のこの苦労は無駄じゃなかったんだ、意味あったんだってのが心底腑に落ちたら人は簡単に満足できるように作られている。それが人類の社会性であり、それを生来的にDNA的に持ってない個体は、数十万年の歴史のなかで徐々に淘汰されていったのだと思うし、今も淘汰されている過程にあるのでしょう。ま、難しい話はともかく、「人のために良かれと思ってなんかする」ってのが日常のメインであり、そこは精魂込めてやれ、と。やるだけの価値あるし。
が、それでも時間余るでしょうね。
さらに余った時間を何をするかは各自の問題だけど、そこでネットを使った起業をするとか、外貨取引で設けるとか、ブログ作るとか、詩作に励むとか、音楽を作るとか絵を描くとか、ひたすら読書するとか、なんでもいいんだけど、自分がいちばんやりたいことをやると。ライフワークの時間ね。単に人の話を聴くだけでも面白いんじゃないの?専門家が沢山いるんだから、初歩から手ほどき受けてもいいわけだし。どぶろく作りに精を出すやつもいるだろうし、いきなりカポエラやりだすやつもいるかもしれない。ま、なんでもいいんだけど。
で、月一くらいの周期で夜の時間にライブをやるとか、小学校の頃のお楽しみ会みたいなの(笑)。自分でもやってたから分かるんだけど、オーディエンスって3−4人だろうが300人だろうが、演る側からしたらあんまり変わらんぞ。人数大きくなるとリアクションがわかりにくくなるだけだし。それに「動員が多いと嬉しい」というのは、もう「表現の歓び」ではなく、「事業的な喜び(プロになれるとか、人気が出て有名になれたとか)」に話がすり替わってるだけだろ。本当の表現の喜びは、鑑賞者が一人であっても満たされる。問題は客の数ではなく、理解の深さだもん。人気があるから、流行ってるからだけで、全然理解してくれない人が1万人来るよりも、ちゃんと理解してくれる人=「あれ?オリジナルと歌詞ちょっと変えましたね、◯◯って部分ってそういう意味だったんですね」とか言ってもらったほうが遥かにうれしいのだ。でもって月イチって結構忙しないから、「来月のライブには何をやろうかなあ」「新曲作らなきゃ」とか考えたり、ひそかに練習したりするだけでも結構楽しいよ。
というのが原案なんだけど、そんなに上手くいくわけないだろ?ってツッコミはありますよね。誰よりも僕自身が一番ツッコミをいれてます。そこで、あれこれと仕組みやら工夫があって、それを時々考え続けています。
人選と運営
これは何度も書いてるように、人選がほとんどを占めると思います。変な奴が入ってきたら全てぶち壊しだし、楽園変じて地獄の収容所みたいになりますから。集団運営と言うのは、構成メンツの粒が揃ってるかどうかで全然違います。揃ってたら、ほんと苦労フリー、トラブルフリーです。別にそんなに高い基準じゃなくてもいいんだけど、ある程度まっとーな判断が出来て、邪悪成分が少なかったらいいんですけど、これは明文化できないですな。だから「参加資格:◯◯であること」みたいに明記することはないでしょう。したらアカンと思うよね。
なんせ公的な存在でなく、あくまでホームパーティの延長みたいな感じだから、公平公正である必要もないし、いい意味で仲良しクラブでいいんだと思う。ここはハッキリさせないとならないんじゃないかと。なんで◯◯さんが参加出来て、俺はダメなんだよってクレームがつく余地がないように。仮についても「うーん、なんとなく」で通ってしまうくらい。
同じように運営規則やルールも、出来る限り作らないほうがいいね。全て皆の良識にまかせると。そんなんで上手くいくわけないだろ?って言うかもしれないけど、それで上手くいかなかったらメンツが悪いんだわ。そして、それで上手くいかないなら、なんぼ完璧なルールや法律を作っても多分ダメですわ。
僕自身、法律のプロだし、集団統治・政治やらは学んだり実践したり(弁護団やら住民集会やら)、だからこそ言うのだが、法律とかルールとか作ってる人間集団は、その時点でもうヤバいと思います。本当にうまくいってる人間集団=仲の良いカップルや友人、家族や企業は、いちいちルールなんか作らないよ。長年の行動で不文律みたいになることはあるけど、鉛筆舐め舐めイチから「第一条〜」とか作らんでしょう。そんな夫婦とか家族がいるんか?民主的に決めよう〜とかいうのも、大事なことなんかもしれないけど、でもそんな言葉が出てきた時点で、もう解散した方がいいのかもねー。それってイヤイヤやってるときに出てくる決め方だもん。
以前、異業種交流で仲間十数人で共同でマンション借りたとき、僕が憲法みたいなものを起草したけど、そこでも「全ての案件は、それが面白いかどうかによって決し、その判断は皆の良識によってのみ決する。それで決せられないときはすっぱり解散する」の一条だけにしました。その方が緊張感あっていいのよ。ルールを作ると、ルールに依存して、精神が弛緩するのよ。毎日新たに創造するってくらいの気合と緊張感のない人間集団は、自然と楽な方向(過去の自己模倣)に流れて、コピーはどうしても劣化するから、どんどんボルテージが下がってくる。「あらゆる集団は結成時に最高レベルに達し、あとは落ちていくだけ」という言葉がありますが、それを打破するためにも「毎日結成」くらいの新規創造性はいる。ルールはそれを腐食させる怖さがある。
何を言いたいかというと、こういうことをする場合、一番避けるべきは理屈とか理念だと思うのですよ。「エコに優しくサステナブルな生活環境を構築し、もって人間性を奪回し」とか理念や理屈に走ってはいけないと。なんでか?というと、それが自己目的化するからです。僕自身、理屈や論理構成だったら人後に落ちない自信はありますが、だからこそ言うのですが、理屈や理論というのは、物事の本質をすり替える副作用がある。もっともらしい正論というのは、それは正しいんだけど、でも本当の意図(それを声高に述べる理由)は別にある場合が多い。
でもってその本音はどこにあるの?というと、俺がリーダーとしてチヤホヤされたいとか、いいカッコしたいとか、少なくともあいつにデカい面されるのは腹が立つとか、くだらない、くだらなーい理由、ニーチェ流に言えば「人間的な、あまりにも人間的な」理由だったりするのですよね。本音はそこにあるのに、それをそのまま言ったら格好つかないから、「◯◯という理念に照らしていかがなものか」とか言ってるだけだったりするわけでね。だから、そういうのは最初っから封殺しておくにしくはないです。本当に皆が求める本質に関わる案件であるなら、そういう「人間的な」要素を注意深く排除していけば、そんなに大きく間違えないと思いますし。
まあ、そんな邪心が無くても理念理想を声高に唱えたい人がいます。つまりは「教条」「ドグマ」が欲しい人。換言すれば、世界観が、なんらかの「概念」で出来ている人。それが「神の御心」であろうが、「愛国心」であろうが、「民主主義」であろうが何でもいいんだけど、抽象的な概念が、具象的な現実よりも優越しちゃう世界観です。そういう人は向いてないだろうなー。
あと「ケツモチ」的な人材は要るだろうなって思います。(ヤクザ)業界用語で、水商売なんかでトラブルがあった場合、最終的に(暴力的に)話をつけてくれるバックがどの暴力団かってことで、それがケツ(最終局面)を持ってくれるという意味です。表には国家なんだけど、裏には最強の暴力組織がなるという、世の中の仕組み論です。で、この場合は、そんな競合するとかいう話ではないから、暴力云々の話ではなく、集団内部で揉めた場合、最終的に解決出来る人の事です。つまり、誰かを除名しなきゃいけないような事態の場合、引導を渡す役ですね。嫌われようが、罵倒されようが、殴りかかられようが、ガンとして言うことは言う、やるべきことは断固としてやれる人材です。全員にその覚悟があるのが理想なんだけど、そういう人材が一人もいない集団はダメダメになるよね。なあなあでやって、問題回避して、先送りして、そしてどうしようもなく腐っていくから。弁護士というのは表のケツモチみたいなものだったので、その種のことは多少は慣れてます。嫌われてなんぼ、憎まれてなんぼってことですね。「文句があんなら俺に言え」って世界ね。ま、でも、30歳以上の社会人だったら、普通に求められる資質だと思いますケド。
大事なのはソフトウェア
とは言っても、今すぐ直ちに何かを実現するってことはないです。機はまだ熟してないとは思うし。でも、具体的に一つの何かを作り上げることが目的ではなくて、「やり方」というソフトウェアを考え抜いて作っていくのが当面の課題です。これはシェアリング経済の本質でもあるのだけど、Uberという会社は自動車運行会社ではなく、テクノロジーの会社であり、ああいう仕組みを作る点、それを実行可能にするアプリの名前がUberで、そのアプリを作っている会社です。要はソフトウェアなのですな。ゲームのしくみを作る会社。それと同じことで、僕のポイントは、こうすればもっと楽に、逼迫しないで暮らせるんじゃないの?という仕組みを考えるのが面白いという点にあります。それを自分がやるかやらないかはともかく、またそれで儲けようとは全然思ってないし(それがあると条件が付加されて難しくなるし、難しくなる分だけ最適状態から遠のくがムカつくので)。
まあ、考えきって完成域に達したら、とりあえずやってみるでしょうけどねー。答え合わせをしてみたいというか、とりあえず走らせてみて、次のステップに進みたいというか。
てかね、完成形が一つあるんじゃなくて、メンツ次第、場所次第で数パターン、あるいは十数パターンはあると思ってますよ。何もど田舎の百姓家をゲットして、広い敷地でのびのびと〜というのが本質でもなんでもないです。それは、そういう環境に価値があると思う人(ストレス疲れとか、デトックス目的とか)向けです。そうじゃなくて、忙しい都会生活のサプリメント的なあり方だって可能だと思いますよ。場所も銀座のど真ん中とか、阪急梅田駅徒歩5分でもどこでも。一箇所でなくても、複数箇所(同じマンションの別の部屋とか、近所とか)をネットワークで結んで、、ってのもある。思いっきり自然回帰のナチュラルライフもあろうし、都会の隠れ家的なものもあろうし、その中間的に無数にあるでしょう。
さきほど書いた共同でマンション借りるってのをやってたのもオフ会やるのに便利だからです。もう激しくやってましたからね。楽しいからほぼ毎日とか(笑)。皆も仕事が過酷な人が多かったし(バブルで超多忙だったし)、バカやってないと精神がもたないという。毎回飲みに行くと金かかるし、集合時間とか面倒くさいので、一箇所作ってそこで集まれば(月5000円会費)、それでいいじゃんって。実際すごーいお金が浮いた筈です。と同時に、同じようなものが名古屋と東京にも出来て、そうすると出張先で無料で寝泊まり出来る場所が出来たと。月イチ出張の人はそれだけで元が取れるし、遠方の連中と酒酌み交わして、それが後日の起業の役に立って、、ってのもある。それを機縁に結婚というのも無数にあった。あれから25年以上たってるけど、まだ集まったりしてるしね。銭金以上に人生的に大きな意味あったんですよね
だもんで、具体的なメンツとニーズが揃ってきたら、ありあわせで作れるんじゃないかなーという気もします。そんなに完全にピースが揃うってことはないだろうけど、ラフにはできるだろうなと。足りない部分は金銭的に補助しなきゃいけないから、多少はお金がかかるだろうけど、それでも一人で苦しんでるよりもははるかに楽なはずですよ。
ゆくゆくは世界中に100箇所くらい出来るといいですよね。大体集団生活なんか、メンツが固定すると煮詰まるし、息苦しいから、1単位3ヶ月くらい、せいぜい1年くらいでいいとは思います。とりあえずの苦境を脱して、英気を十分養って、パワー充填でまた戻っていってもいいし、今度は「他のところ」に行くのもあり。それぞれにネットワークで結んでおけば、紹介状を持ってたら仲間になれるって形にするのもありでしょう。詳細なリファレンスレター書いて。それにある程度そういう生活してたら要領は分かるだろうから、今度は自分で立ち上げればいいし。
これが100箇所くらいあると人生楽しそうですよね。つい先日もスカイプでカウンセリングしてて、将来的にオーストラリアの永住権とったとしてもその後があるし、その後の方がずっと大事。例えば、子供にはやっぱ日本の良さを知ってもらいたい、美しい四季のフルコースは堪能してもらいたいって思うなら、定期的に気軽に日本に帰れて、そこでコスト安く、居心地良く一定期間暮らせる拠点インフラがあるのが好ましい。とりあえず楽しいし。それが100箇所あったら、半年づつ暮らしても50年は楽しめそうだし、老後の対策にもなるし。
人数的になにがなんでも10人集めてってことはないのよ。二人でも出来るし。例えば、西欧に昔っからあるハウス・スワッピングっていって、日本にいるAさんとオーストラリアにいるBさんがそれぞれ旅行に来るとして、お互いの家の留守番をすることで、滞在費無料、留守管理料無料で楽しめるという方式ね。これはこれでハードルはあるんだけど(結局は人選であり、信用性だが)、そういう方法もある。空き家管理だって、生活しんどくなったら、空き家管理の留守番代わりに住んでもらってという手もないわけではない。
要するに人間的に信頼できるかどうかが全てであって、そこがクリアしたら大抵のことは何とかなるようにも思うのよね。時期限定でやれば。永遠にやれって言われたら、結婚だって離婚があるくらいなんだから、無理に決まってる。でも短期限定だったら楽だし。また、掟破りをした人にはサンクションを課せばいいんだけど、それもこのネットワークから永久追放とか前科アリにして、且つ、この仲間同士のやりくりに価値が出てくれば、そこから排除される損失は非常にでかく、ひるがえって抑止力にもなるでしょう。
以上は概略に過ぎず、さらに細かな注釈をつければ山ほど出てくるのだけど、とりあえず今回はこのくらいにしておきます。完璧なのを作って一回だけあげるよりも、忘れた頃に不完全なのをポツポツ上げてた方が記憶喚起にも定着にもなるでしょうからねー。では。
あちこに「ここがきれい」というジャカランダ通りみたいなのがありますが(地元の桜の名所と同じ)、ここはKirribilliのMacDougall St。けっこう有名なので、写真を撮りに来ている家族連れなどが多かったです。
毎年同じような写真載せてますが、ブーゲンビリアの赤と、ジャカランダのラベンダー色が混ざった風景というのは、なかなかのもんです。
文責:田村