今週の1枚(03.05.26)
ESSAY106/お金がないと不幸になっちゃう病
写真は、夕暮れのWatoson's Bay からシドニーハーバー、シティ方面を望む。左下を航行しているのはWatoson’s Bay行きのフェリー。
前回のエッセイに対して何通か感想メールを戴きました。そのなかで、今、日本で「お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方」という本が流行っている旨教えていただきました。
僕は、この本は初耳で、読んだこともないです。が、今さっきインターネットを巡回して大体のサマリーはわかりました。賢い資産形成のための人生哲学&戦略について書いた本のようで、特に何かにつけ社会構造的に搾取されざるを得ないサラリーマンに照準を据えているようです。
垣間見る内容に、僕自身も異論はありません。以前にも書きましたが、僕自身、年金にも、生命保険にも、不動産にも有用性を感じていませんでしたし、これは性格的に好きになれないのと同時に、「クールに考えれば考えるほど、アテにならないから」と思ってました。もっと言えば、日本において本当に意味での「資産」なんか存在しうるのかな?という根本的な疑問もあります。そういう意味では、資産形成に関する日本の社会構造の諸問題を指摘しているのであろうこの本は、読んで損はない啓蒙書だは思います。
しかし、そうかといって、この本を「おおー、素晴らしい」と絶賛するかというと、実はあんまりそうでもなかったりします。なんというのか、そもそもの原点が違うんじゃないか?という違和感を抱いてしまうからです。この本の立脚点は、人生にはお金が必要だ→人生の幸不幸はお金の有無によって大部分が規定されるということ、ぶっちゃけて言えば「お金が無ければダメでしょ、お金さえあればOKでしょ」といったところにあると思います。
もちろん人生にお金は必要ですし、あるに越したことはないけど、それはこの本が前提にするほど人生において決定的な意味を持つものではないと僕個人は思ってます。これは「お金よりも大事なモノがある」という倫理的な意味で言ってるのではなく、もっと論理的な、実践的な意味で言ってます。また、腐っても鯛の経済大国(”超”は付かなくなったかもしれないけど)の日本で、なんでそんなに「お金、お金」と騒ぐのだろう?という素朴な疑問もあります。だってさ、日本人の言う「お金が無い」というレベルというのは、世界的にはとんでもなく高いですよ。平均的な日本人の資産は、世界平均でいえば目もくらむような大金だったりするでしょう。ハタから見たら、「貯金が18億円しかないのよ」「それじゃ老後が心配よねー」みたいな感じなんでしょうね。「なんなの、それ?」って。これで不幸になるんだったら、世界人類、ほとんど不幸のどん底にいなきゃ嘘です。本当にそうなんですかね?
どうも、「お金がないと不幸になっちゃう病」という病気があるんじゃなかろうか。
これは精神病です。不安神経症の一種みたいなもの。ベッドに入ってから、戸締りをちゃんとしたかが異様に気になり、何度も起きては鍵がかかってるか確かめずにはおれない人がいます。はたまた、バイキンが気になって1時間くらい手を洗ってないと気が済まない人がいます。やってる行動の何分の一かは合理的なんだけど、非論理的に too much なんですね。お金も無ければ困るのは当然なんだけど、貯めても貯めてもまだ不安というのは、いささか too muchなのではないかと。
でも、日本人がこうなってしまうのは、分からんでもないです。というか(ちょっと性格変わってるかもしれないけど、それでもやはり)同じ日本人として、身につまされて分かる部分もあります。でもって、これは複数の要因が絡み合っていると思います。考えてみましょう。
@そもそも日本人には不安神経症的なところがある。なんでも水も漏らさぬように完璧になっていないと気が済まない。「ま、ええんちゃう?」というラテン気質は少ない。こういう性格は不良品率ゼロの優秀な工業製品を作るには向いているでしょうが、生きてて疲れるでしょう(ちなみに英語を習得するにも向いてません)。日本人が不安に思うのは、お金だけではなく、言うならば生活全て、人生全てについて不安。全くなにも情報がない、真っ白で未知な状態をもって不安と感じる。多分、心理テストかなんかで、真っ白な紙を見せて「どう感じますか?」と聞いたら、「希望」「可能性」「出発」というよりは、「不安」と答える人が多いのではないかな。
なんでそうなるのか?というと、これは考え出すとキリがないのですが、やっぱり島国の箱庭国家で、しかも鎖国してたことによるのでしょう。つまり予想を超える外部からの波乱要因が少ないから、全てをコントールしやすい環境にあった。だから万事コントロール可能の状態でないと気が済まず、幕末の黒船のように、理解しえず、コントロールできない出来事が生じるとパニック的に大騒ぎになる。だから、日本人は、世界は、そして自分の人生は本来コントロール可能なものだという認識がある。言うまでもなく、全てがコントロールできるわけもなく、この認識は客観的事実に反するので、「認識」というよりはむしろ「こうあってほしい」という「信仰」といった方がいいかもしれない
反面、地続き国家で、年がら年中異民族に蹂躙され、あるいは異民族を支配してきた地球上の他の多くの社会では、「コントロールなんかできっこない」という本質的なクールな認識があり、同時に「完璧には出来ないのだけどできるだけダメージを低くするにはどうしたらいいか」という実質的、段階的、戦略的な発想が出てくる。結果として、状況変化にタフで、個人の資質として塩辛く、粘り強いシタタカな人物が生まれやすい。王朝が幾度となく興亡し、年中戦火に焼け出されてきた中国人、あるいはヨーロッパ人、そもそも祖国が無くなってしまっていたユダヤ人などは、環境変化にタフであると同時に、個人レベルでは盲目的に安全を求めず、ギリギリまでリスクを見極めようとするから、お人よしの部分が少なく、交渉相手にするとしたたかで手ごわい。
日本人はその逆で、コントロール不能状態に慣れてないから、破綻があった場合、全体のコントロールを復旧させようという意識は非常に強烈。だから災害や危機における復興、黒船が来た後の明治維新など、ほとんど宗教的な求心力で一丸となって成し遂げる強さがある。その代わり、個人レベルでは、絶対安全な母なる子宮に包まれた胎児のように、環境変化におけるタフさは乏しく、リスク管理における戦略性も少なく(ただ怖がって近づかないだけ)、ナイーブである。
ちなみに、アメリカ、イギリスなどのアングロサクソン系、そしてオーストラリアなんかも、ある意味では日本と同系統なんじゃないかなと思います。彼らは、日本と同じ「島国」だと思いますし、その証拠に英語でも「外国」のことを「海外=oversea」といいます。そしてなまじ「力」を持っているだけに、世界は力によってコントロール可能だと思ってるフシがあります。本土爆撃を受けたことがないアメリカは、時として日本以上にナイーブさをさらけ出したりもするのでしょう。オーストラリアの場合は、国内レベルにおいて、人口規模が小さく手頃だし、天然資源に恵まれてることもあって、大きな挫折を感じずに、未だに無邪気に理想を実現できると思ってるフシがあるように思います。それはそれで貴重なのですが。いずれにせよ、欧州や中華民族などのように、辛酸を嘗め尽くして、煮ても焼いても食えないようなシタタカさは無いような気がします。
A客観的事実として、日本社会のシステムでは、お金がないと不安になって当然なくらい社会保障が貧弱であること。あるいは貧弱であると国民が確信していること。
過去にもう何度となく言ってますが、オーストラリアの場合、失業保険は無期限で支給されます。一度も職に就かず、したがって以前に失業保険に加入してなくても出ます。また、年金も、厚生年金に該当するスーパー(アニュエーション)は別として、国民年金に相当する基礎部分は、年金に加入していなくても出ます。というか「年金加入」という概念がなく、年金は一般の税金から支出されます。もちろん、それなりに厳しい審査基準がありますし、資産のある人には最初から年金が出ないという側面もあります。しかし、職も無く、万策尽きたとしても、全く無収入ということにはなりません。
また、これら公的福祉と並行して、教会関係の慈善事業が充実しています。教会でも食料の無料配布をやってますし、駆け込み寺的なシェルター事業、ホームレス収容事業も多いです。また、これらの行為に対する一般の認識も高く、寄付も多いですし、またボランティア参加者も一説によると「5人に1人」というくらい多いです。
これだけの(日本からしたら)手厚い福祉をやってるオーストラリアですが、国家予算は東京都の予算と似たようなものです。東京都の予算があれば、人口1800万人、国土の広さ日本の23倍を統治し、陸海空軍を常備しイラクにも行き、かつ福祉もできます。国家レベルのでのお金の使い方と稼ぎ方が上手いのでしょう。
しかし、日本にだって福祉政策も福祉事業もあります。確かに失業保険や年金は期限や条件がついてますが、その代わり生活保護があります。炊き出しだって、結構アチコチでやってますし、ホームレス対策もやってるでしょう。また、ボランティアで頑張ってる人も多いと思います。そうそう捨てたものではないと思います。
しかし、ただ一点、強烈に違う点があります。それは、日本国民が、公的・私的を問わず、福祉というものを全面的に信じてはいないという点です。日本人は、自分の社会のなかで困ってる人が存在することを許せない!何とかしなければ!と思ってないです。自分の社会の中で、困っている人がいることを、自分たちの恥だと思ってないです。困ってる人に対しては、ある種「マジメに働かないから、自業自得」と思ってる部分があり、「ああはなりたくない」と目をそむけます。助け合うのではなくして、目を逸らし、そして目を逸らす度に誰も助けてくれない貧困への恐怖が強く刻印され、それが生来の不安気質とリンクして、ドロップアウトすることへの恐怖が倍加します。
だったら、どんなに困りまくっても絶対に死ぬことはないという社会を作ればいいのですが、そういう発想は乏しい。日本で誰かが餓死したり凍死したりしたら、それは「弱者を救え得なかった俺たち社会の恥だ!なんとかしなければ!」と思うかというと、まあ、思わんでしょう。破産したり、生活保護を受けることは死に等しいくらいの屈辱であり、中々それを受け入れようとはしない。
そういった国民によって成り立ってる政府は、福祉行政をやろうといっても国民的追い風が無く、行革やリストラの名のもとにどんどん費用は削られる。これはもう悪循環で、そういう政府だから、国民もあまり信用していない。給付しますよと総論的には上手いことを言いながら、実際にあたってはワケのわからない条件不備を理由に却下されるんだろうなー、と達観してたりします。また、福祉に対する積極的認識も乏しく、「福祉=甘やかし」くらいに思ってる人が多いから(世間知らずにも程があると思うが)、ボランティアをやる人に対する共感的理解にも乏しく、偽善者、ええかっこしい的な見方をする人もいる。まあ、よってたかって安全ネットを潰しあって、それで安全ネットがないことを怖がっているという図式が成り立つようにも思えます。違いますか?
Bとしては、幸せへのなり方がヘタクソだという問題があります。言うまでもなくお金は幸福になるためのツールであり、イチ条件です。そして、条件といっても、必要条件でもなければ十分条件でもありません。幸福>お金。ここに異論がある人は、ちょっと話が噛み合わないと思うけど、そんな人はあんまり居ないと思います。「ハッピーでなくても、お金があればそっちの方がいい」という人。例えば、愛する我が子を死なせても生命保険金が入ってくる方がうれしいという人、交通事故で両目を失明しても賠償金が入ってくる方がいいという人、はそんなにいないでしょう。
お金はあくまでハッピーになるためのイチ手段、環境整備のための方策の一つに過ぎません。じゃあ、振り返って日本人が現在使ってるお金は、ハッピーになるためにどれだけ役に立っているのか?投資効率はどれだけ高いのか?というと、あんまり効率高そうにないです。どっちかといえば、幸福になるためにというよりも、不幸にならないため、最低限の水準をキープするためにやむなく支出するようなケースが多いでしょう。「なんか知らんけど、お金がかかる」という。
これは、ひとつには日本の高コスト構造という問題があると思いますが、この点は以前に長々書きました。Essay 84/ やたらお金がかかるのは何故?やEssay 85/ 高コスト構造分析小論をご参照ください。
結局思うのですけど、どうやったらハッピーになれるか、そのやり方を忘れちゃったんじゃないかなあと。 幸福なんて、別にそんな難しいことではなく、面白がったり、遊んでたら自然にハッピーになれちゃいます。子供の頃は誰でもそうなれた。原っぱを走り回ってるだけで十分楽しかったし、モノなんかそんなに要らなかった。犬や猫と遊んだり、虫をずーっと眺めていたり、木にのぼったり、、、ねえ?動物と遊んでると楽しいですよ。必要な物は遊び相手の動物と、遊ぶ時間。それだけだったらそんなにお金は掛らんでしょう?
遊びがヘタクソなヤツ、柔軟で創造的な発想が出来ない人、素直な感性に乏しい人に限って、やたらモノや知識に頼ろうとしますよね。動物が好きだったら、ただ一緒に遊んでりゃあいいものを、やれ洋服着せたり、アイテムにこだわったり。こう言っちゃなんですけど、阿呆か?と思いますよね。なんつーのか、遊びの純粋性を汚してるんじゃないかって。
これも昔言いましたけど、日本にいる頃の自分がそうでした。同じ青く輝く海を見ても、涙が出るほど感動する人もいる反面、「このあたりは坪幾らくらい」とか考えてる自分に愕然としたって。これはアカンと。こんなクソみたいな感性のままだったら、何をやっても面白くないし、どう転んだって幸福になれっこないわと。味覚を失っているのに、やたら金かけて美食三昧やってるようなもので、全然無駄。幸福になるための感受性が麻痺してたら、いっくら金をつかって、何をやっても、いいとこ「まあまあ、おもしろい」くらいでしょ、暇つぶしに毛が生えたくらいのもんでしょ。本来、もっとドワーッと圧倒的な至福感ってのがあるんだけど、それを忘れて金稼いでも意味ないです、投資効率が悪すぎるもん。
村上龍の「愛と幻想のファシズム」に、「その男の価値は、そいつがどれだけ深い快楽を知っているかによって決まる」という一節が出てきますけど、これ、一面真理だと思います。
総じていえば、幸福のなり方を忘れた人、なるのがヘタクソな人は、幾ら金を稼いでも、貯めても、意味ないです。またそういう人に限って、お金お金という傾向があります。で、貯めたところで、使い方がわからない。そりゃそうですよね、海が無いのにクルーザー買ってるようなものだから、結局どこにもいけない。遊び上手な人、幸福上手な人は、どんな環境でもハッピーになれちゃうから、別にそんなにお金お金と言わない。無かったら無いなりになんとでもするもん。
ほいじゃどうすんの?ですが、また適当な与太話を書きます。今の日本をどうやって経済的に立て直すかではなく、「経済」とかまどろっこしいワンクッションを置かないで、もうダイレクトに、一人でも多くの日本国民をハッピーにさせるか
です。
やっぱりですね、ここは一発腹を括って、意識の整理をすべきだと思います。意識の整理は次の二条件の徹底です。
第一条件:一般ビジネス社会における優勝劣敗の徹底。強い奴、努力をした奴が勝ち、そうでない奴は負けるという透明で公平なゲーム論理の徹底。だから、リストラも徹底的にやります。潰れて当然の企業はどんどん潰す。法律を改正し、公務員もどんどん首を切る。失業者も数百万規模で増大するでしょうが、それがゲームである以上、当然です。資本主義というのはそういうものです。
第二条件:「しょせんゲームに過ぎない」という意識の徹底と、ゲームの敗者への尊敬と徹底したケア。常に社会に数百万人の失業者がいることを前提にして、それは決して珍しいことではなく、またアブノーマルでもなく、永遠に勝ちつづけられるゲームはない以上、自分もいつかはそうなるという意識を持つこと。
この二点を徹底させたらいいんじゃないかと。
つまり、気力体力才能の充実した連中によって、とことん熾烈な競争をやって国全体の経済レベルを牽引してもらう。そこでは生ぬるい「なあなあ」は通用せず、強力な弱肉強食の世界にする。同時に、試合がハードでハイレベルであればあるほど、反則に対するジャッジは厳しく、汚職、公正取引違反などについては、峻厳な罰則で臨む。なあなあで済ませないためのオンブズマン制度の充実と、同時に汚職・不公正取引についての摘発専門集団を作り、警察以上の捜査権力を付与する。これが社会のハード面です。このくらいやらないと、世界のトップレベルの連中に勝てない。とりあえずアメリカに勝て、と。
このように仕事があまりにハードであるから(=といっても今とハードさではそんなに変わらないと思うし、不正なことが減れば風通しがよくなるから理不尽ストレスもぐっと減ると思うけど)、それと均衡を取るべく、ソフト面も大幅に増大させる。アイスホッケーというスポーツは、あまりに過酷で連続してプレーできる時間も限られるから、野球やサッカーなどと違って、いちいち試合を停止しなくても随時選手交代ができるといいます。それと同じに考えたらいいです。あまりに過酷な仕事シーンであるがゆえに、連続して仕事ができるのは3年くらいが目処、いいとこ5年くらいとして、ギンギンに働いたら、ポーンと選手交代して、1年くらい生活の心配なくボケ〜ッと過ごせるようにする。これによってメリハリのきいた人生設計が可能になるし、充分に時間を取って大学にいってスキルを磨くことも、あるいは出産育児や家族サービスなど人生の折り目に力を集中することができる。
要するに、今の日本の良くないのは、別にいなくてもいい奴が、別に無くても構わない会社で、別にやらなくてもいい仕事を、ダラダラ無駄にやってることに基づくのではないか。それを促しているのは「働いてなければ一人前ではない」という、ある意味では健全でな勤労観念・淳風美俗でありながらも、別の面では「とんでもなく偏った物の見方」でしょう。その悪しき観念に支配されて、日本列島上から下までミソもクソも一緒にグシャっと標準化し、中庸化し、凡俗化してしまって、その過程で大事なものを取りこぼしているんじゃないかと。人生の選択肢を狭め、フレキシビリティを損ない、大切なものをみすみす見逃させているようにも思えますので、まず徹底的にメリハリをつけること、その前提として悪しき標準化を叩き壊す。
人生の一時期に能力精力ピークに研ぎ澄ませた一部の超仕事人集団が、国民の中で常に一定割合で存在し、こいつらが透明なリングで、オリンピックのように自分の限界に挑戦するようにガンガン働く。だから、ペイも良くする。月給200万、年収3000万なんか当たり前くらいの高給を払う。それで日本の国際競争力を高めてもらうのだから、そのくらい払っていいです。そして、そのかわり税金もがっぽり取る(^_^)。
でもって、あまりにハードなので、体調を壊したり、別のことをしたくなったり、家族を大事にしたくなったり、あるいは単純に「飽きた」でもいいですが、そうなったら、とっとと休養する。休養しないヤツは、自己調整の下手な馬鹿だと笑われるくらいの風潮にする。
さて、そうなると日本国に膨大な数の失業者・休業者があふれ返ります。そこをどうフォローするか。これが、ハードヴァージョン日本と同じくらいリキをいれて構築すべき「ソフトヴァージョン日本」だと思います。これも発想を変えたら可能だと思います。例えば-----。
日本では過疎の村が多いです。多いどころか、日本の奥地は急速な勢いで死の村がひろがっていると言います。また、もともと日本には土地が余りまくってます。これも何度も何度も言ってますが、国土の3%に大都市に、人口の70%が住んでいるから、国土の97%はガラガラです。これを有効利用します。
といって、インフラを鬼のように完備させる必要もなければ、高層マンションやショッピングセンターをガンガン作ることもないです。だって、そもそもがソフトヴァージョン、憩いと癒しのエリアなんだから、別に効率的にやることもないのです。極端な話、自給自足できる農地と、物々交換できる市場と、あとはログハウスやキャンプ場でいいんじゃないかと。水道も引いてたら環境破壊するし(ダムとか)、井戸を掘る、と。
超ハードに3年仕事をしたあとは、鋭気を癒すために、1年くらい山里で畑でも耕してたらいいわけですよ。メチャクチャハードに仕事をしたあとというのは、逆にそういう原始的なことがやりたくなったりしませんか?そこでは、ソフトヴァージョン世界だから、癒しと安らぎこそが正義です。一日中寝てても別に構わないです。誰もなんにも言わない。言うのは反則。そうなると、かえって人間働きたくなったりしますし、お金のためではなく、もっと本質的な動機で働いたりします。また、子供が大事な年齢になったら、1年くらい一家そろって住むのもいいでしょう。自然に親しませ、大事なことを学ばせるという(親が一番学んだりして)。
日本人の何割かが常にこうして地方に分散し、平和的に暮らすとすれば、そこにはそれなりに経済需要が生まれます。人が多ければ需要も出来るし、また供給(仕事)も出来る。それに、一種のヒッピー村的なエリアも生じるでしょう。その昔も色々ありましたが、そのエリアでの文化の中心地、アートを好む人が交流する場。なんせヒマだから、この機会に絵でも描こうかという人も出てくるでしょう。世界文学全集を読破しようとか、バイオリンを習おうとか。そうなってくるとそれを教える人というのが求められるわけで、、、ほら、もう仕事が出来た。
そんなこんなで結局そのエリアが一つの経済圏として成立していくこともありると思います。所得は勿論低いでしょうが(詩集を売ってるとかさ)、同時に支出もべらぼうに安いから成り立ってしまうという。そこで成り立つのだったら、別にイチイチ年金だの保険だの払わなくてもいいでしょうから、国家支出も随分助かるでしょう。
また、こうやって一定比率でソフト=ハードの人の出入りがあるならば、大都市の過密問題も解消し、常に選手交代があるわけだから求人も絶えることがなく、また田舎に引っ込む人が絶えずいるので住居問題も解消するかもしれません。
公的になすべきは、そのソフトヴァージョンの仕組の精密さと巧みさ維持でしょう。一歩間違えればノホホン過ぎて、アナーキーなところになってしまいますから、それなりの秩序の維持は必要です。治安維持も当然。昔の青年団的自警団を作らせてもいいでしょう。同時に、日本の古い村落的固着状態に陥るのを避けねばなりません。古狸やヌシ的に居続け、妙な権力を構築するのを防止するために、人口の絶えざる流動を促進するとかね。
一言でいえば、日本において、ソフトとハードを峻別すること、そして一番大事なのは、全ての国民に、「あそこにいけばなんとかなる」という安全地帯的な場所を作ることです。そこでは勿論質素な生活になるかもしれないし、肉体的にはハードかもしれないけど、精神的に不愉快なことが少なく、自然と安らぎに満ちているところです。最終的には、日本にはドロップアウトなんて言葉は存在しない、それが日本の誇りであると言い切れるところまでですね。
というわけで、お金中心的な人生戦略ってのも、どうなんだかね?という気がするのでした。
だって、今の日本ではお金があるだけでは不安は解消しないし、どこまでいっても「安全」とは感じられないと思うのですね。あの本は、お金がないと不安ならば、お金を貯めて資産を作ろうというロジックで進みますが、そもそも「お金が無くても不安にならないようにしよう」というロジックもアリだと思うのですよ。というか、そっちの方が本命じゃないかと。
それに、資産形成という意味ではサラリーマンは損で、だから脱サラして自営して、賢い資産運用しましょうと書いてるようですが、どこまでいってもどっかで「稼ぐ」という行為がなければ話は成り立たないでしょう?節税も、投資も、全てはお金を稼げてからの話でしょう?でも、その「稼ぐ」ってことが致命的に難しいんじゃないんですか。この稼ぐということをクリアできたら、その後の節税や投資なんかはぐっと楽な話だと思うのですよね。大体、そのためのプロとして、税理士やコンサルタントだっているんだし。稼いでるんだったら雇えばいいじゃん。節税なんて儲かってる人だけが言う言葉ですし、儲かってから考えたらいいんじゃないっすか。
だもんで、稼げない人はどうすんの?というと、これには答えられてないわけです。別にこの本をケナすのが本意ではないですし、そんなに一冊の本に全てが書けるわけもなく、むしろある部分を示唆するだけでも充分に価値があると思います。しかし、根本的な立脚点に、「そうなんかなあ」という違和感は抱くのでした。
黄金の羽なんか拾わなくていいですし、お金持ちなんかならなくてもいいですよ。
要は幸せになれたらいいんでしょ?お金はそのためのツールでしょ。自分が幸せになれる方法を知っておく方が遥かに実戦的だと、僕は思います。というか、幸せになるための方法を知らずに、つまりそのためにどれだけ必要かどうかも分からずしてお金持ちになろうと努力することの方が無謀というものではないですか?
じゃあ、幸せになる方法って何なのさ?遊ぶコツって何なんだ?と問う人もいるでしょう。でも、そんなモンは自分で考えなはれ、ですよ。人それぞれなんだし。ただ、僕の場合は、どうもツラツラ考えますに、自分自身が確認できたり、自分の力や範囲がちょっとでも広がったときにハッピーになれるようですね。つまり、子供の頃、それまで全然ダメだった自転車が、ある拍子にひょいと乗れてしまったときの「嬉しさ」です。あの、幸福感、高揚感は今でも覚えてますね。要するに、ああいうことをすればいいんでしょ?と。
これまで生きてきて嬉しかったこと、楽しかったこと、沢山あります。それを一つづつ思い出していけば、「ああ、そういうことをすればいいのか」というのがすぐに分かると思います。でもねー、至福感が強かったときほど、お金いらなかったですよ。「好きだ」と告白してYESの返事をもらったときとかさ。あんなの無料だもんね。むしろ、不愉快なことを打ち消したりする場合にお金がかかったような気がする。ヤケ酒系ですよね。だから、僕の中では、なにかとお金がかかりそうだったら、俺はもしかして幸福になるのがヘタになってるのかな?と、そのときばかりは「不安」に思います。
最後に、サラリーマンは搾取されて損だとか、不幸だとかいう人もいるでしょうし、それはそれなりに理由はあるでしょう。でも、世の中にはサラリーマンが向いてる人もいると思います。逆に言えば自営に向いてない人。サラリーマンが損だからといって、向いてもいないことを必死になってやってストレス溜めて身体を壊すくらいだったら、少しくらい損した方が長い目では得ではないのか?という気もするんですけど。
(文責・田村)
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