今週の1枚(06.12.04)
ESSAY 287 : 「非モテ」について(6)
写真は、Newtownの裏通り。
何となく延々続いているこのシリーズです。
過去の分は、第一回、第二回、第三回、第四回、第五回にあります。
これまで自分の書いたものをパラパラと読んでて思うのは、この種の問題というのは、真剣に考えれば考えるほど道徳の教科書みたいになっていっちゃうなあと。要するに「魅力的な人間になれ」というだけのことです。別に難しい話でもなんでもないし、聞けば誰でも「ああ、そうだよね」と思うようなクソ当たり前のことの集積だったりします。ケチ臭い人よりは大らかな人の方が好まれるだろうし、他人の噂話やアラ探しに一喜一憂してる人よりは、ポジティブに自分の人生を切り開いている人、自己中心的なエゴイストよりは思いやりに満ちている人の方が好まれるでしょう。「なぜ○○さんを選んだのですか?」と聞けば、「やさしいから」「芯がしっかりしてるから」「自分というものを持ってるから」という答えがよく返ってきますが、どれもこれもいわゆる「人間的美徳」に行き着きます。「カッコいいから」という答えも、じゃあ「カッコよさ」の内容は何なの?とさらに問えば、やっぱり人間的魅力に行き着くでしょう。ルックスが良ければとりあえずモテるかもしれないけど、顔はいいけど頭はカラッポとか性格が悪かったら、やっぱり最後には軽蔑されるし、長続きはしない。
別に非モテに限らず、この世の真理とか原理とか呼ばれるものって、何か特別にトリッキーなものではなく、誰が聞いても「そりゃ、そうだわ」と頷くような、ぶっ太い原理原則なのでしょう。どうやったら就職が上手くいくかとか、どうしたら起業してビジネスを成功させることが出来るかとか、家庭内が円満になるかとか、周囲の人間関係を円滑に進めていくとか、テーマが何であれ、原理原則はクソ当たり前のことばっかりなのだと思います。
ビジネスなんかも、突き詰めていけば魅力的な人間になって他人に好かれたらいいのでしょう。なぜって、ビジネスって結局のところ所得(お金)の移転でしょう?お金というのは基本的にそこらへんに転がってるものではなく、誰かが持っているものであるから、その誰かのお金を自分のところに持って来させるイトナミだと言えます。その際、強奪したり騙したりすれば犯罪になるから、そのお金を持ってる他人の自発的な合意が必要です。つまり、全て他の人に「いいよ、お金あげるよ」と思ってもらわなければならない。端的にいって、お金稼ぎ=人づきあいです。会う人会う人から好感を持って迎えられるのと、敵対的に迎えられるのとでは、同じ事やっても効率が違います。僕だって、同じモノを買うんだったら、感じのいい店員さんから買いたいと思いますよ。長期的な取引をするなら尚更です。じゃあ魅力的な人間ってなに?っていうと、結局は道徳的なお話に回帰していくという。
だから、神様やら仙人がジャーンと登場して「この世の真理を授けるぞよ」といっておごそかに真理をのたまわったとしても、「へ?それだけ?」ってなもんでしょうね。非モテに関するサイトで、よく「あなたの非モテ度をチェック」とかありますけど、これらも個別的に質問を吟味していけば、結局は人間的に魅力があるかどうかを、個々の局面ごとに聞いてるだけだともいえます。
それだけのことなら20行くらいでこのシリーズも終わるわけですけど、それが終わらないのは、人間の魅力というのは一つじゃないからです。幾つもあり、それが相互に矛盾してたりするわけです。例えば確固たる自分をもっていて夢に向かって突っ走ってるという意味では魅力度高い人でも、そういう人って自分の夢に忙しく、ついつい他者に対する配慮が欠け、自己中になりがちで、そこで減点を食らう。しかし、周囲の他人のことばかり思いやってる人は、その面では良いかもしれないけど、自分というものが無さげに見えるからマイナス、という具合に人間の魅力というのは多種多様にあり、それら全てにおいて満点をとるのはどんな人間にも不可能だし、また相互矛盾したりするから
論理的にも不可能。すると各魅力の配合割合、レシピーということになるけど、これもまた一つではなく、千差万別。おそらくは絶妙なレシピーがいろいろあるのだろうけど、それは個々人の素材によっても全然違うのでしょう。その意味で料理に似てますね。素材×調理法×調味料という。
第二に、他人の魅力というのは、そんなに何もかもが一気にクリアに分かるってものではない。魅力の種類によって、すぐに分かるものもあり、中々分からないものもある。例えば、非常事態になったときに初めて人の真価が分かるとか言われますけど、逆にいえば非常事態にならないと見えてこないものもあるということです。
第三に、見る側の人間の評価の基準がメチャクチャだということです。これは直近の回に書きましたけど、人間の脳味噌の作用というのは往々にしてビヨーンと飛躍するし、コンプレックスやフェティシズムに囚われたりするから、なかなか素直に他人の良さに気が付かない。
整理すれば、@もともと人間の魅力というのは一義明白ではなく、多種多様のパターンがあり、且つ星の数ほどあるミックス具合で存在している前提において、且つAそれらの魅力は、試験答案のように全てが手に取るように分かるわけではなく、見えにくい魅力もあり、観測自体が難しいという難点があり、さらにB評価する側の人間の評価能力が結構スカタンであるという難点がある、ということです。で、これらを掛け合わせるとどうなるか?というと、無限のバリエーションに分岐していって、結局のところ「よく分からない」ってことになります。
散々考えて出てきた結論が「よく分からない」というのでは、ズルッとコケそうなのですが、それでも対策はあります。すなわち、一人の人間の持っている個々の魅力を全体的に伸ばしていった方がいい結果になる確率が高いってことです。根性度が30の奴は35に伸ばした方がいいだろうし、洞察力度が50の人は55に伸ばした方がいい。当たり前ですけどね。料理においても、絶妙なレシピーが結局よく分からないとか、客の好みは十人十色だから結局は迷宮だとか考えていくと絶望しちゃいそうですが、そうであったとしても、素材も、調理器具も、調理技術も、調味料も、それぞれの分野でより良いモノにしていけば全体にレベルアップするだろうし、全体的にレベルアップしていけば結果も自ずからついてくるでしょうってことです。
これまでのエッセイで書いてきたのは、煎じ詰めればAとBの点についてです。つまり、人の魅力というのは理解されにくい部分もあるので、せめて理解されやすくしよう、少なくともギャラリーが多い方がいいだろう等のことであり、どうして他人の評価基準というのはこんなにいい加減なのか?ということの考察だったりします。巷で流れているモテ系の技術なんてのも、殆どこれらの点に尽きていると思います。
しかし、そんなトリッキーな個々の局面における、断片的真理や技術を積み重ねたって、あんまり意味ないんでしょうね。非モテ系サイトをパラパラと見てると、結局は出会い系商業サイトの前線基地だったりするわけですが、この種の「断片的真実」が沢山散りばめられています。例えば、今調べていて偶然開いたページには「人の話は肯定形で聞け」「会話の相槌は、できるだけ穏やかににこやかに打つべし」とかいうのがありましたけど、これだって煮詰めれば、「他者への包容力」とか「自己中になるな」ということでしょ。その包容力の具体的な現われとして、「他人の話を良く聞け」ってことになり、さらに小技として「相槌の打ちかた」というテクニックが出てくるのでしょう。しかし、こんなん小技に過ぎないし、断片に過ぎない。じゃあ、いつもにこやかに相槌を打っていればそれでいいのか?というと、「いや、もうおっしゃるとおりでございます」というゴマスリ人間になっていくかもしれないし、自分の考えはないのか?ってことにもなる。
だからこんな小技を積み重ねていても意味がないというか、要するに真に「包容力のある大きな人間」になっちゃえばいいんですよ。そうすれば、自然に相槌の打ちかた一つも変わってくるでしょうし。小技から入っていくと、本末転倒というか、相互に矛盾している無限バリエーションの迷宮に入るだけだって気もしますね。
あと、読者投稿などの、「こういう男性(女性)が素敵」というのも、アテにしないほうがいいです。その投稿がやらせ/創作という可能性はさておくとしても、その人にどれだけ評価眼があるのか疑問だからです。同じものでも見方によっては良くも悪くも見えます。「会社の先輩の○○さんは、自分の信念というのを持っている貴重な男性。いつもわき目もふらず頑張っていて、とても尊敬できます」なんてのも怪しくて、同じ人物を悪意に評価したら、「独り善がりの思い込みで突っ走って、周囲が全然見えていない自己中のガキンチョ」「迷惑なんだよ」とも言えるわけです。それに、その人は、最初の一歩としてその信念部分に惹かれていったのかな?って疑問もあります。例えば、自分好みのイケメンだったとか、昔片思いしていた人に面差しが似てるとか、ぜーんぜん関係ない所から惹かれていって、あとは「惚れてしまえばアバタもエクボ」的に何でも良く見えているだけかもしれない。大体この種の「○○さんが素敵」系の指摘というのは、優等生的作文になりがちで、本音の本音をいえば「すぐにセックスさせてくれそうだから」「ファザコン趣味をくすぐるから」という部分で惹かれていたとしても、人間そうは言いませんからね。美化して、もっともらしい理由に換骨奪胎して言うんじゃないかな。意識的にせよ、無意識的にせよ。
というわけで、小技やテクニックに走ってもあんまり意味ないよってことです。でもって、「立派な人」におなりなさいな、と。面白くもなんともない結論なんだけど、大体面白くもなんともない結論が出てきたときは、それが最も正解に近いと思ったらいいです。「どうやったら英語が早く上達しますか?」と聞かれたら、真理は一つ。「たくさん勉強しろ」です。それが結局一番早いし、もっとも効率的です。人間っつーのは馬鹿だから、もうトコトン馬鹿だから、目の前にどーんと存在している巨山のような真実に気がつかない。というより薄々は分かっているのだけど、なんかこう抜け道はないか、なんか楽な方法はないかなと探すんですよね。で、時間を浪費した挙句、too lateになる。これはエラそうに説教垂れてるんじゃなくて、自分のこととして言ってるんです。僕自身、もう「何でもっとちゃんとやっておかなかったんだろう?」と後悔しまくってる物事は山ほどあります。「ああ、やっときゃ人生変わっただろうになあ」と。
さて、前回のエッセイは、付き合い始めた後の壮絶なバトルについてちょっと言及しました。しかし、付き合い始めた後の話は、「非モテ」という本来のテーマからは離れますよね。非モテというのは、付き合うところまでがモンダイなのですから、付き合い始めた後なんて「死後の世界」みたいなものでしょう。そのあたりの話も書くべきことは山ほどあるのですが(非モテの数倍はあろうかと思われる)、カンムリ(タイトル)を別にした方がいいでしょう。
その代わり、前回の補足をちょっとしておきます。「色々な人と付き合っていくと、その人なりの良さがあることもわかるし、結局好みのタイプなんて思い込みによる限定であり、そういう呪縛も解けてくる。そして、ストライクゾーンが無限に広がっていって、入り口部分ではもう誰でもいいって感じになる」と書きました。だったら、お前は、本当に誰でもいいんか?というツッコミが入りそうですよね。また、本当にそんなに達観してるのか?達観してたらこの先もう面白くもないんじゃないか?っていうツッコミも入りそうです。そのあたりについて。
「本当に誰でもいいんか?」って言えば、はい、誰でもいいですよ。だけど、同時に誰でもいいってことでも、誰でもダメだってことです。強制的に付き合わされたり、結婚させられたりしても、まあまあ適当にうまくやっていく自信はあるというに過ぎず、そんな自信は結婚生活を10年以上やってる人だったら誰にでもあると思います。忍耐力と自我破壊力は鍛えられますからね(^_^)。しかし、こちらから積極的にモーションをかけるという話になった場合、「誰でも良い」という状況は、逆に「この人だけ!」という特定が出来ないから燃えないです。恋愛というのは、distinctiveな排他性とでもいうか、「好きな○○さんと、その他の人類」というくらい、まるで「飛び出す絵本」みたいに、世界でこの人だけバキーンと抜き出て見えてないと中々成立しないものですが、似たり寄ったりに見えているとそういう心理にならない。
恋愛なんか誤解してるうちが華というか、あんなの一種の気の迷いですから、世間が冷静に見えるようになってからは成立しにくいんでしょうね。だから、若いうちに恋をしろってよく言われるんでしょう。なんで若いうちなの?というと、よく見えてないから、すぐにカン違いして、燃えるんですよ。火付きがいい。妄想パワーで月旅行が出来るくらいのエネルギーがある方がいい。エンジンはバリバリだけど、ブレーキもハンドルも視界も悪いくらいの方がいい。これが30歳、40歳になってくると、エンジンはショボくなってくる反面、ブレーキのききは良くなるし、ハンドルも微妙に切れるし、視界良好だから、あんまりワ〜っと突撃してドカーン!ってことがなくなります。誰かが言ってたよな、恋愛も結婚もしょせんは「事故」だと。若いときのほうが事故を起こしやすいんです。
どんな人にもその人なりの良さがあり、それがわかるようになるということは、同時にどんな人にも悪いところがあり、その悪さもまた見えるようになることでもあります。また物事も360度視界で捉えるようになります。例えば、バリバリのファッションに身を包んで、お化粧も気合の入ってる女性は、確かに女性的魅力って意味では素敵ですよ。でもね、女性と一緒に十年以上暮らしていれば、女性を見て化粧を落としたときの顔なんか容易に想像できますよ。「はー、こう化けるわけね」という舞台裏見てるから。それに付き合ってるうちはまだしも、結婚するとなると基本的に見るのは舞台裏「だけ」ですからね。自分のカミさんが気合入れて化粧するのを見るのなんか、それこそ他人の結婚式に参列するとか、他の男とを浮気するのを尾行しているときくらいになります(したことないけど)。それに、あの外観を保つために一体どれだけの努力と金力が必要なのかもわかりますし、そのための資金と時間を稼いだり、費やしたりするのは他ならぬ自分じゃないの?というのも容易に推測がつきます。長い買物につき合わされるのもアナタ、その支払いをするのもアナタですね。そのあたりが見えてきちゃうってことです。
それともう一点、「人はトシを取る」という当たり前の事実にも気が付きます。そして「トシをとるとこうなる」というのもわが身のこととして分かるようになります。うら若い女性なり男性を見て、リアルタイムには魅力的に見えても、10年後、20年後にはこうなるという「未来予想図」も透けて見えるようになります。ルックス面で言えば、皺が増えるとかいうことよりも、とりあえず太りますね。普通に健康であり、今の日本(ないしオーストラリア)の社会に普通に暮らしていれば、普通に太りますよね。また健康に対する認識や、その実行力(意思力)が普通程度であれば、これまた普通に太ります。それは自然の摂理です。20代の頃と努力と節制で体重をキープしていたとしても、同じ努力では30代では通用せず、40代になるとさらにハードになります。ちなみに僕とカミさんが映ってる20代の頃の写真がたまたま出てきたとき、二人とも唖然とし、爆笑しましたもんね。「誰、これ?」という。
あと、顔だけでいえば、なまじ美形な人の方が年取ったとき結構無惨だったりするケースはあります。若いときにパッとしない人の方が、年取ったときに妙に「味」が出てきたりもします。人の顔の「味わい」というのは、造形のアンバランスさに宿る陰影みたいなもので、ちょっとくらいアンバランスなくらいの方がいいと思いますね。例えば、素朴な手造りの陶器って、フチが波打ってったり、表面が凸凹してるけど、それだけに使い古せば味わいが出てくるでしょ。でも、なまじ造形が整ってると皺が味わいに転化せず、単に皺は皺として刻まれてしまうので、無惨さが逆に際立つという皮肉な側面があります。ですので、美形の人は上手にトシをとるようにお気をつけ下さい。若い頃美形であっても、トシをとったらとったでさらに深みがでて魅力的になる人はいますから。
加齢現象はなにもルックスに関するものだけではないです。性格だって変わりますし、趣味志向も変わる。もちろん成長もするだろうし、逆に堕落もするだろう。社会的に成功するかもしれないし、落ち目のときもあるだろう。もし基本的なその人となりが変わらないのだとしたら、平均的な20代の女性は、20年後平均的な40代の女性になるということです。さらに、人生や社会の摂理みたいなものもオボロに見えてきますから、20代という「成長期」にこれだけヌルい生き方をしてたら、おそらくは40代になったときにこうなってるだろうなってのも見えます。何となくなだけどね。
というわけでリアルタイムの一点だけではなく、その裏側も見えるし、その将来像も見える。四次元的に見えます。もちろん、神様じゃないんだからそんなに全てがクリアに見えるわけではないですよ。またそれが正しいという保証は何処にもないです。でも、そういう「視座」というか、物の見方をするようになります。
そういえば、どっかの四コマ漫画でこんなのがありましたね。捨て猫を拾おうとした小学生くらいの女の子に対し、その捨て猫の子猫がこう言うわけです。「例えばオイラが20年生きたとする。20年といえばアンタも三十路を過ぎたいいお母さんだ。口ばかり達者な娘やいつまでも乳離れしない息子の世話。さらに仕事中毒の夫とは半年以上も夜がごぶさただ。そんな劣悪な環境でボクの面倒を最後までみられるってんなら、さあどうぞ、ボクを拾ってくれたまえ」と。諦めてショボンとして帰る女の子の後ろ姿に、その猫は「やれやれ、ひやかしかよ・・」とボヤくという。
あと、「本当にそんなに達観してるのか?」「達観してたらこの先もう面白くもないんじゃないか?」という点ですが、こんなのは達観でもなんでもないです。同種反復、近種反復をしてたら人間馬鹿でも学習するというだけのことです。別に僕だけではなく、普通に経験してたら誰でもこのくらいは言えると思います。ただ、僕のようにクソ長いエッセイを週イチに書いて、他人に発表するという機会がないだけのことでしょう。普通、こんなヒマ&ご苦労なことは誰もしませんもんね。
「面白くないか?」という問いに対しては、面白くないことはないです。あの、若い頃の恋愛みたいなドーンといってガーンって面白さは確かに少なくなるかもしれないけど、その代わり以下の二点で面白いです。一つは燃えたり、のぼせたりという恋愛沙汰だけが異性関係の面白さの全てではないことです。結婚生活なんか、傍目には幸福そうに見えたり、平凡に見えたりするのでしょうけど、実態はいまにも空中分解おこしそうなポンコツ飛行機を飛ばしてるようなもので、やれ第二エンジンが止まったとか、尾翼が千切れてなくなりましたみたいなことは日常茶飯事です。だから結構スリリング。気が抜けないです。だから平々凡々の日々のようでありながら、毎日が偉業達成だったりします。
なんでこんなに難しいかというと、同じようにやってたら失速しちゃうし、そもそも取りまく環境というのは日々変わるものだから同じようには出来ないからです。子供が出来たら全然生活環境も変わるだろうし、子供が長じるにつれ、教育だとか学資だとか課題は出てきます。と同時に親の面倒とかいう話も出てきます。そうこうしているうちに肝心の自分が糖尿病になって食生活が一変するとか、仕事が思わしくなくて欝になるとかいうこともあります。自分らは変わらなくても、環境が変わる。ファミコンのように次々に課題が出てくる。僕の場合は、子供もいないし、親もまだ健勝だし、自分らも幸いそれほど病気を煩うこともないですが、それでも細かいことで課題は出てきます。また、課題をこなしたりするうちに自分も変わるし、相手も変わる。変わった分だけ双方の関係もUPDATEしなくてはいけないです。このアップデート作業を怠ると、すぐにはどうなるというものではないですけど、長期的に亀裂が入ります。
第二に、達観してるからもう事故的な恋愛なんかありえないかというと、そんなことはないと思いますよ。人間そんなに賢くないし、僕なんかさらに賢くない。恋愛が持ってる独特の狂気や麻薬性みたいなものから完全に自由になりうる人間なんか滅多にいないでしょう。
すごーく良く見えていて、どう考えてもお先真っ暗で、何の展望もないし、何の生産性もないにも関らず、それでもやっちゃうってことは、ありうるでしょう。前回書いたように、個人史的なトラウマやコンプレックスに起因したフェチズムだって、「ああ、これはフェチなんだな」とわかったところで、そのフェチ性から自由になれるわけでもないです。知ることによって呪縛から解き放たれることはあるけど、常にそうなるわけではないし、別にそうならなくてもいいと思ってます。それに自分のトラウマ的な物事なんか自分では分からないもんね。知らないうちにどっかに引っ張られていってしまうことってあるとは思いますよ。
ただ、積極的にそれを求めていくか?というと別に求めないし、欲しいとも思わないです。日々の無味乾燥な日常からの束の間の脱却みたいな欲求もないです。アバンチュール願望もないですね。これは僕という個人の特殊な状況なのかもしれませんが、やっぱりオーストラリアに居るってことが無意識的にもデカいんだと思います。これが日本に住んでたらどうなってるか分からないですよ。でも、こちらにいると、そういう願望は少ないですし、風俗に行きたいとも思わないし、飲みに行きたいとすら思いません。ねえ、あれだけ日本にいる頃散々やってたのにねえ。「ねえ?」と言われても知らないでしょうけどさ。13年もオーストラリアに住んで、今ではすっかり日常であり、外国であるという意識すらないし、日本が二重国籍を認めてくれるなら今日にでもオーストラリア人になってもいいと思ってる僕でさえ、やっぱり「冒険」なんです。未だに知らないことだらけだし、何かことがある度に新たな発見をします。また英語にせよ、何にせよ、やらなきゃいけないこと、やっておいた方がいいこと、これまた山積みです。だから、無味乾燥な日常生活になってくれないです。いや、日常生活にはなるのだけど、無味乾燥にはならない。未だにスーパーマーケットに行くと、「なんだ、これ?」という新発見があるし、新聞を読めば「おお、この国はこうだったのね」という発見があります。退屈しない。日常がナチュラルに「非日常」になってるから、これ以上非日常を求める気もしなくなるのでしょう。多分そういうことだと思います。
日本には出会い系サイトが花盛りですし、毎日数百通くらい届くジャンクメールの7-8割くらいはそれだったりします。僕はオーストラリアのメールアドレスも日本のアドレスも持ってますから、日本ジャンクメールも世界のジャンクメールも届くのですが、出会い系メールは圧倒的に日本のものが多いですね。英文(ときどき何語か分からんメールもきますが)のメールの場合、パッチもんの時計とか、株式投資とか、学歴とか、仕事とかその種のものが多いのですが、日本のメールの70%くらいは出会い系、セックス系であり、あとの3割くらいに一攫千金的なボロ儲け系があります。この日本における出会い&SEX重視傾向はいったい何なのでしょう?それだけ日々の生活が閉塞してるから、閉塞感を紛らわせたいという欲求が強いのですかね?
ところで、「非モテ」に対応する新語やトレンドは、英語世界ではそんなに見かけません。僕が知らないだけなのかもしれないけど、少なくとも僕の知る範囲ではないですね。世界にだってモテない奴は山ほどいるだろうけど、日本の「非モテ」みたいなニュアンスで語られたり、あるいはそれらしき実態があるようにも思えない。何でなんかな?と推測するに、世界の人、少なくともオーストラリアの人ってそんなに男女の出会いに不自由してないんでしょうね。男女の出会いに不自由しないというのは、その母集団として「人との出会いに不自由しない」ということであり、それを支えているのは、見知らぬ人とコミュニケーションを取る習慣、技術、機会が多いってことなんでしょう。道端で擦れ違っただけでも声を掛けてニコッと笑うこちらの社会では、他人と知り合うハードルが低いです。プライベートなパーティなんかでも、友達の友達の友達くらいの縁であっても平気で結構参加しちゃうし、見知らぬ人間がその場にいてもそんなに誰も違和感を感じない。女の子がシェア探しなんかしてても、結構声を掛けられますし、ナンパされてる人も多いです。ただ、どこまでが親切で、どこからがナンパなのかの境目がわかりにくいというか、おそらく声を掛けている本人もそんなに区別してないんでしょうね。「親切心」から声をかけ、話をして「好感」を抱いたらもっと話をするという。もっともシティあたりにいけば、最初から狙ってるケースも多いとは思いますが、ローカルサバーブだったらそんなこともないです。いずれにせよ、声をかけるという最初の一歩が日本からしたらメチャクチャやりやすい風土だとはいえるでしょう。
典型的な「非モテ」というのは、一種のひきこもりなのでしょう。対異性関係におけるひきこもり。ちなみに、ひきこもりも、英語で言えば"shut-in"とかありますが、日本ほど蔓延しているわけではないです。英語版のWikipediaで調べてみても、"recluce"って項目が一番近いと思いますが、そこでの解説を読んでも、一種の精神疾患やら、「世捨て人」的な説明やら、宗教上の理由など一般的なことしか書いてないです。
関連リンクに、日本の”Hikikomori"が出てきて、これを辿っていくと、アルジャズィーラ(ALJAZEERA)という中東発の世界向けの英語ニュースのサイトにいきます。Japan's secret epidemicということで、「日本でひそかに(疫病の)蔓延」と書かれているように、日本独特の現象なのかもしれんです。しかし、中東にまで知られているのね。
なんで日本なの?って、ここでも思っちゃいますよね。アナタはなぜだと思いますか?
もう一点、「非モテ」というトレンドは、ネット社会があってはじめて成立してる部分があるように思います。「オタク」や「ひきこもり」と「非モテ」の違いは、前者が当人以外の周囲から(やや揶揄や非難的なニュアンスで)命名されているのに対し、後者の場合、自らそう称している点です。非モテの語源はわからないのだけど、どっかの誰かのブログで、恋愛至上主義的な世俗の圧力に反発して、「革命的非モテ同盟」とかいう感じで出てきたらしいです。まあ、最初に言ってた人は、洒落半分、冗談半分だったのかもしれないけど、ネット社会の発達によってそれが広がっていったというのが経過のようです。非モテ人の連帯、みたいな。
逆に言えばネットがなかったらここまで広がらなかったと思いますね。一般的なインターネットの歴史なんか高々10年前後ですが、携帯電話の通信機能の進化と、日本で2002年から急速に広まったブログの存在が後押ししてると思います。普通の人が私日記的な内容を気安く情報を発信できるようになり、トラックバックリンクにより連帯性が出てきたのでしょう。あと2チャンネルのような掲示板、メールマガジン。さらに、MIXYのようなソーシャルネットワーキングサービスが登場してきます。これら一連の流れは、ネット上で個人と個人が出会うツールと場が整っていく流れともいえます。こういう技術的な背景があってはじめて、「非モテ」というのもここまで大きくなっていったのでしょう。20年前だったら、誰かが机に向かって自分のノートに「俺は非モテだ、何が悪い?」と殴り書きして、それで終わっていたかもしれない。
これら幾つかの事実、つまり@対人的・直接的コミュニケーションという面では世界的に見ても日本社会はハードルが高いこと、A「ひきこもり」という日本独自のトレンドがあること、B携帯メール/ブログ/掲示板などネット上でのコミュニケーションが盛んになってきていること、Cなぜか日本のジャンクメールは出会い系セックス系が多いこと、D非モテというこれまた日本独特のトレンドが存在していること、加えて言えばE去年あたりから書店で「コミュニケーション能力」本が山ほど売られている事実なんかもあるかもしれません。これらの傾向は、結局は根が一つのような気がしますね。
冒頭に書いたように、非モテだモテだとかいっても、原理原則は非常にシンプルで簡単なことです。「健やかな人間」であればそれでいいです。健やかに育てば、適当に人間的魅力も身につけるだろうし、適当に社会に出て行って人と出会うだろうし、社会で揉まれることで人間的魅力はさらに向上するだろうし、その結果として気にいってくれる人に出くわすのも、そう難しい話ではない、ってことです。だから、まあ、簡単に言っちゃえば、「普通にやってりゃいいんだよ」ってことに尽きます。
しかし、その「普通にやる」ってのが、実は難しいのかもしれませんね。ここが難しいんだったら、話は結構厳しいし、単に非モテがどうのという局地的な話ではなくなるでしょう。背骨がズレているとか宿便がたまってるから→頭痛が多い、慢性疲労になるようなもので、頭痛は単なる結果に過ぎない。だから、非モテも頭痛みたいな局地的な現われに過ぎず、そこだけ論じていても根本治療にはならないのかもしれません。
文責:田村
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