今週の1枚(06.11.13)
ESSAY 284 : 「非モテ」について(3)
写真は、Darlinghurstの裏通り。この通りをもうちょっと歩くとテイラースクェアという巨きな交差点で、シドニーの中でも最もトンガってて、ちょっと危険な匂いのする繁華街だったりするのですが、一本中にはいるとこんな感じだったりします。
前々回、前回に引き続き、「非モテ」について思うところを書きます。
前回の後半に、非モテ界隈脱出のためのサジェスチョンを思いつくまま箇条書きにしておきました。以下のとおりです。
@ まず、何らかの集団に入っていること、入っている集団は幾ら多くても良いこと。一目ぼれなんか事実上ありえないと思うこと
Aその集団の中で、どんな形であれ「ナンバーワン」「オンリーワン」になること。どんな基準でもいい
B自分の中に異性要素を取り込んでいくこと。ひきつけ合う本質は異質性だけど、とりあえずのインターフェイスは同質性
C「消費」ではなく「生産」であること、「需要」ではなく「供給」であること、「購買」ではなく「栽培」であること
D自分の人格のストレッチをして柔軟性を増すこと、どのようにでも変わりうる自分になること
Eその為には経験量が必要だけど、それは何も恋愛経験である必要はないこと
F性欲関係、恋愛ごっこ系は切り離しておくこと
Gとにかく過大な期待はしないこと、短絡的に考えないこと
まだ、@しか書けておりません。チャッチャといきます。
Aの「オンリーワン/ナンバーワンになれ」というのは、話は簡単。目立っていれば特別な存在として異性から認知されやすいからです。サル山に入るんだったらボス猿になれってことです。女性でもいわゆる「紅一点」状態になっていれば、とかく注目されます。
それが良いかどうかは別にして、ある集団の中でリーダー的存在、あるいは一際異彩を放っている人は男女を問わずモテます。周囲を見渡してみても、僕自身の経験範囲でいっても、これは大体そうだと思うのですよ。そりゃ、リーダーだったら絶対もてるのか?リーダーじゃなかったら絶対無理なのか?と話を極端にしていったら別にそんなことはないですけど、大雑把な傾向としては確かにあると思います。小中高校のクラスで、一番モテるのは、やっぱりクラスで一番スポーツ万能だとか、美人であるとか、そういう人たちでしょ。
じゃあ、なんでナンバーワン、オンリーワンだとモテやすいのか?です。当たり前のようでいて、改めて考えると難しいのですが、要は「結局一人しか選べない」ってところにあるのでしょう。まあ、同じグループ内で複数人を同時並行的に処理しているマルチタスクな人もいますけど、恋愛というのは多くの場合オンリーワンを選びます。人に好きなるプロセスはオンリーワンをセレクトする過程であり、オンリーワンをセレクトしたからこそ、一点集中式に意識が高まり、それが恋愛感情の燃料になるって部分はあると思うのですよ。そして「一つだけ選ぶ」という行為をする場合、やっぱりどこかしら他と違っていてくれないと選びにくいですよね。「その他大勢」の中に埋没してたらピックアップしにくいし、ピックアップしなきゃいけない動機付けも薄弱です。故に、何らかの集団に入ったとしても、その中でナンバーワン、オンリーワンの存在になった方が良い、というのは言えると思います。「雑魚キャラ」みたいになってたらダメだってことです。
さらに、ここから先に色々な注釈がつくのですが、まずナンバーワンといっても、そんなものは相対評価に過ぎないってことです。小学校のときに野球が上手くて四番ピッチャーでバンバン活躍してモテモテだった人も、中学の野球部に行けばもっと上手な連中が山ほどいて万年補欠に落とされるかもしれない。その中学で鳴らしていても高校に入ったら全然ダメ、仮にレギュラーになれたところで甲子園常連校と対戦したらサンドバック状態でボコボコにされる。甲子園で活躍して地元のヒーローになって毎日ラブレターが束になって届いていたとしても、プロにはいったら鳴かず飛ばず、たまに試合に出してもらっても三振ばかりで、スタンドからクソミソに野次られる。プロで一流になったとしても、大リーグにいったら、またただの雑魚キャラの一人に逆戻り。このように、世の中には上には上がいるわけです。真の世界最高峰まで登りつめられる人は、同時代、同分野でわずか数名、十数名でしょう。もう天文学的な確率でしょう。
だからナンバーワンといっても、その集団のレベルでのナンバーワンでいいです。他の集団にいったら最下級に落とされようとも関係ない。その場においてナンバーワンだったら良い。モテるという意味においてはね。もっとも、これが「生き方」の問題としてどうか?というと話は別ですよ。低レベルの集団にはいって、そこでお山の大将になるということは、「井の中の蛙」「小成に安んずる」というヌルい生き方でもあるわけです。言い方を変えれば、ある集団でナンバーワン的存在にある人というのは、本来はそんなところに居てはイケナイ人なのかもしれないです。もっと上にいけるんだから、上を目指せと。逆に、ある集団で最下位レベルで頑張ってる人というのは、必死にチャレンジしている人なわけで、実は一番カッコいい人だともいえます。
もう一点、むしろこちらの方が大事なことなのかもしれないけど、ある集団でリーダー的な存在になると、ものの考え方から立居振舞いまでリーダー的になるということです。やっぱりリーダーってのは大変で、単に威張ってればいいってものではなく、皆を引っ張っていかねばならないし、誰にも弱音は吐けない孤独な存在であるし、色々なことを考えなければならないし、構成員の不満も苦情も一身に引き受け、場合によっては憎まれ役にならなければならない。本来のその人の資質がどうあれ、そういう立場に立たされたら、そういうものの見方をするし、そういう人間になります。リーダ的資質や意欲が全く無い人であったとしても、一時的に近所の子供達の面倒を見る羽目になったら、子供全員を常に見てないとならないし、あれこれ考えねばならない。リーダーというのは、楽しい集団の楽しい時間であったとしても、一人もっともシリアスでなければならない。それは忘年会の幹事でも同じことです。幹事が酔いつぶれてはいけないわけです。皆が楽しんでるかどうか気を使い、お酒を追加注文し、お開きの時間を気にし、会費を集め会場の精算をし、二次会に連れて行かねばならない。酔っ払ってるヒマは無いです。
このリーダー特有のハードシップが、その人を人間的に成長させます。計画性、洞察力、実行力、臨機応変な対処能力、人間関係調整力、もうありとあらゆるところで鍛えられます。大変なだけのようですが、発想を転換すれば、その人の人間的能力を発揮する見せ場にも恵まれているとも言えるわけです。まあ、立派になり過ぎちゃって近寄りがたくなって、敬遠されることもあるとは思うけど、でも、そこに惚れる異性の一人や二人出てきてもおかしくないでしょう?
その昔、高校進学した後に、中学時代の友人たちと再会する機会がありました。僕は東京都内の中学校でしたから、首都圏全体で選択肢の対象になる国公・私立高校は数百という単位であります。自分の出身中学からもっとも多く進学していた高校ですら十数人くらいでしかないわけで、みんなバラバラの学校に進学し、それなりの進路をいってました。中学時代学年トップクラスだった奴も、超進学校に行けば、そこではワンノブゼムに過ぎないわけで、そこで雑魚キャラ青春を謳歌してるわけです。でも、中学時代に一番成績的にパッとしなかった奴、彼はすべり止めの高校にイヤイヤ進学したわけですけど、再会したときには、そいつが一番大人びた口調になったましたもんね。いきなり全校トップクラスに入ってしまうわ、生徒会長はやらされるわ、教師団やPTAと交渉協議するわで、もう責任感バリバリ、経験値バリバリで、「これだから都の教育行政はダメなんだよ」とかしきりに力説してましたもん。それを能天気な高校時代を送ってた僕らはポカンと見てたわけで、しみじみ「お前、変わったなあ」と言ってたもんです。「ポジションが人を創る」ということを、僕は17歳で身近にヒシヒシと実感したわけです。
ですので、どんな集団でもいいですけど、リーダー役は買って出た方がいいです。長い人生、一度はどっかでやってみるべきですし、どんな人にもそのチャンスはあります。やってみたら分かるけど、やっぱりものの見え方がガラリと変わりますし、「大人」になります、大人になると、「成人個体」だけが発散するフェロモンを出すようにもなりますから。
一方、必ずしもナンバーワンでならなくても、オンリーワンになるってテもあります。今までこの両者を並列的に書いてましたけど、正確に言えばナンバーワンとオンリーワンは違います。ナンバーは序列的なタテ構造でいるけど、オンリーは「一人だけ違う」ってことでヨコ構造でもいいです。オンリーワンは、集団の中の「異物」であっても、極端な話「仲間外れ」であってもいいです。同じ「目立つ」にしても、リーダーは皆の前とか上にいるから目立つのだけど、オンリーワンは皆から一人外れたところにポツンといるから目立つ。目立つ=特別な存在として意識しやすい、ピックアップしやすいという意味では同じです。
ちょっと違う奴は目立ちます。「○○○○○○○○○○○○●○○○○○○○」になってたら、どうしても中ほどの黒丸に目がいくでしょう?「●●●●●●●●●●●●○●●●●●●●●」にしても白丸に目がいくでしょう?集団の中で一人だけちょっと浮いてるというか、違ってる人って妙に目立つんですよ。バンドの中でも一人だけ妙にカラーが違うメンバーっているでしょう?
また、「目立つ」といっても、奇抜な格好や、奇矯な言動に訴える必要はないです。エキセントリックに「ウギャー」とか叫ばなくてもいいです。雰囲気がちょっと違うって程度で十分です。というか、やや控えめなくらいの方がいいです。バンドの話で思い出しましたが、僕のギター修行時代の先輩がいみじくも教えてくれましたけど、「なあ、田村君。ステージに立ったときに、俺が俺がで前に出て行くと逆に客は引くんだよ。ステージのちょっと右側あたりで、目立たず黙々と弾いている奴の方が客席から見てると妙に気になって、逆に目立つんだよ。ステージが終わったときに結局一番印象に残るんだよ」と。言ってる意味、わかりますかね。中学高校のクラスでも、一人だけ窓際の席でポツンと離れて静かに校庭を眺めてる奴ってのが、妙に気になるのですね、恋愛的には。あるいは職場やサークルでも、俺が俺がで目立とうとせずに、物静かにニコニコしてるような人が、知らない間にサブマリン的にちゃっかり恋人を作ってたりするんですよ。心当たりないですか?
では、目立つと何故にモテ的に好都合か?というと、特定の個人として認識の対象になりうるからです。「クラスの男子の連中」とか「教室の後ろの方で騒いでいるいつもの連中」という具合に、戦闘シーンの敵のザコキャラのみたいに十把一絡(じゅっぱひとからげ)のままでいたら、いつまでたってもあなた個人を個人として認識してもらうことは困難です。個別に識別できないものに恋はできないです。好きにも嫌いにもなれない。異性愛/恋愛感情の本質はエコヒイキです。「全ての人類〜」という人類愛とか博愛の対極にあります。「他の奴はどうでもいいから、とにかくAさん」という具合にピックアップされないと話が始まらないからです。
そして、同じ目立つにせよ、ちょっとひとりぼっち的な雰囲気の方が恋愛的には良いでしょう。その理由は幾つかありますが、無意識的にもなんとなく競争率が低そうだから実現可能性があるんじゃないかってのが一つ。実現可能、射程距離に入ったと思うと、人間、熱の入れ方が変わってきますからね。あと、ひとりぼっち系の人の方が、そこに自分が寄り添えば「二人きり」になれそうでしょう?恋をした人間が最初の望むことは、「外界の遮断」ですからね。「二人だけの世界」です。その雰囲気を暗に示唆するところがあります。それに二人きりだと、正直になれそうでしょ?3人以上いるとそれは「社会」であり、社会には必ず「政治」が入りますから、色々なことを考えないとならない。二人きりだと言えることも、3人以上になると言えなくなる。一人でいる、ということは「誘い」になるのですよ。日本語で的確なニュアンスの訳がないけど、英語でいう"intimate"な=「心地よく暖かい親密な」関係を築きやすい。
この応用というか、傍証というか、今度ワーホリでラウンドするときには一人旅をされるといいです。ついつい心細いから仲間を集めて旅をしたがったりするのですが、友達なんか現地調達でいいです。なぜかというと、バックパッカーの宿のコートヤードでビール飲んでても、一人で飲んでるとやたら色んな人たちから「やあ、どっから来たの?」と声をかけらます。色々な人と出会えるから楽しいですよ。一人の人間には声をかけやすいんです。これが二人とかそれ以上のグループになってると、それだけで完結してるから外部から中々声をかけにくいんです。日本人はシャイだから、自分からそうそう声をかけることはしないでしょう。声を掛けられる方がずっと多いでしょう。だから声を掛けられやすい方が旅は面白くなりますよ。
同じように、「周りにいい男が全然いないんだもん」「彼女なんか出来るわけないよ」なんて言ってる奴に限って、何をするにも友達連れじゃないですか?買物に行くのも誰かと一緒。ゴハンを食べるのも友達と一緒。あんまり単独行動を取ってないのではないでしょうか?確かに同性と遊んでるのは楽しいですしね、僕も男所帯集団の方が気楽ですよ。でも、こと恋愛に関して言えば、ある程度単独で動く必要はあると思いますね。
そうそう、ここで誤解して欲しくないのは、「声をかけられる」ってのは別に街角でナンパされるって意味じゃないですよ。「一人で歩いてナンパされるのを待て」なんてチャライことを言ってるわけではないです。大事なのは、さっきのリーダーのところで言ったように「ポジションが人を創る」わけで、人間適当に単独行動をしていると、その人の顔つきやオーラが変わってきます。その人本来の地というか、素顔がオーラになって出てきます。逆に、いっつも仲間と一緒にいると、「仲間に見せている顔」というペルソナばっかりかぶってることになるから、あなたの個性が個性として立ち上っていかない。日本人の人間関係作法は基本的に「その集団で期待されている役割を果たす」ことですから、おどけ役とか茶化し役、イチビリ役で認知されちゃうと、年がら年中おどけているお笑いキャラでいなきゃいけなくなります。優等生として認知されたら優等生として振舞わねばならなくなる。でも、それは結局は「仮面」に過ぎないし、人は仮面に恋をしたりはしません。仮面にかぶってる人を好きになったとしても、その心情を解剖してみれば、仮面の下の素顔が私には見えるとか、仮面からぽろっと素顔が見えてしまったような瞬間にググッときてるわけでしょ。「皆の前では悪ぶってるけど、本当は心の優しい人なんだ」とか思ってたりするわけで、仮面それ自体が好きなわけではない。終局的に、人間は素顔だけにしか興味は無いし、あとの仮面劇は社会生活を送る上での手続きみたいなものです。だから、集団に埋没してばっかりいると、仮面がはずれなくなっちゃうよってことです。また、自分自身の個性を磨くキッカケにも事欠くことになる。
ちなみに、オンリーワンになる基準は無限にあります。ある集団の中で、ひとりだけ「ちょっと毛色が違う」としても、その「毛色」の基準によって無限にバリエーションがあります。だから誰でもオンリーワンになれます。例えば、ある集団のなかで、彼だけ、地元出身ではないとか、血液型B型だとか、本格的なマラソンランナーであるとか、以前全然違う業種にいたとか、寡黙であるとか、運勢的に四緑木星であるとか、もう何でもいいんですよ。ギャグの波長が違うとか、何考えているのか分からないとか、シンプルに一人だけ性が違うとか、年齢が飛び離れて違うとか、一番髪が長いとか、ホント、なんでもいいです。
結局、これは見る人の主観の問題なんですね。Aさんの目からは、みんな団栗の背比べで、似たり寄ったりの集団にしか見えなかったとしても、Bさんの目からみたらある特定の人だけがグーンと浮き上がって見えたりするものです。「蓼食う虫も好き好き」とか、英語でも"There's no account for preference"(人の好みは説明できない)とか言われますが、「なんで、また、よりにもよってこの人を選ぶの?」と外野からは窺い知れないその人独自の好みの体系があります。思うのですが、人間というのは必ず何かの「フェチ」=偏愛とか、コンプレックス(劣等感ではなく複合観念=自分でもなんだかよくわからないコマ結びのようにゴチャゴチャになった感情的なこだわり)があるのでしょう。
心理学の本で読んだことがありますが、フロイトだったかな誰だったかな、ある被験者はずっと昔どっかの地下鉄の車内でとても素敵な女性に出会った。わあ、素晴らしいなと感動するわけですが、もちろんその場では何事も起きず、彼女は駅で降りてそれきりになってるわけですが、その女性の印象が非常に鮮烈で忘れがたい人になります。まあ、そういうことってあるよね。国木田独歩の「忘れえぬ人々」という小説がありますが、それも恋愛感情ではないけど、似たような人間心理の微すかなヒダを描いています。その素敵な女性は、これまた素敵なグリーンのベレー帽をかぶってたそうです。時は経過し、本人もすっかりその女性のことを忘れてしまった頃、実験で何十人もの女性の写真を見せられ、「この中で恋人に選ぶとしたら誰にしますか?」と問われたとき、ベレー帽をかぶってる女性を選んだといいます。なんでこの女性を?と聞かれても、本人もよく分からない。深層心理を分析していくと、本人も忘れていた過去にそのような経験があったことが分かるわけです。まあ、一種のトラウマというか、トラウマ(心理的”外傷”)ではないのですが、はるか昔に伏線が刻まれるということは、人間心理によくある話だそうですし、経験的にもうなずける話です。多分その写真の中にベレー帽が登場しなかったら、今度はなにかの帽子をかぶってる人、グリーンの服を着ている人を選んだかもしれない。
好みとかフェチとかいうのは、そういうことだと思います。いわゆる「萌え」というのも同じことでしょう。学生時代、同級生の女子を眩しげに見つめているだけの青春を送った人が、長じてからもセーラー服に萌えるとか、入院していたときに看護婦さんたちがやたら眩しく見えた人は看護婦というワードにピピピとなるとか。これは別に異常心理でもなんでもないのでしょう。誰だってそういうことはあるし、もしこの種の心理の起伏がまったくなく、説明不能な好き嫌いというものが存在しない人がいたとしたら、それこそ異常です。
昔読んだ短編マンガで、ある男性がある女性に熱烈に求愛し、もう死に物狂いでプロポーズします。紆余曲折の末、二人は結ばれるわけですが、女性の方はなんで見も知らぬ男性からここまで熱心に慕われるのかわからない。「ねえ、なんで?」って聞くと、男はあっさりと「名前」って答えるというオチなんですけど、要するに「名前萌え」ですね。名前がピピピと来たという、ただそれだけのことだったというわけで、「んなアホな」と読者は笑うわけですが、でも、まあ一面真理なんだと思います。恋愛も結婚も玉手箱ですからね。開けてみるまでは本当のところは分からず、勝手に想像して、勝手に燃えてるだけって部分はあります。
余談が長くなりましたが、どんな「毛色」であろうとも、それにピピピと来る人はいるってことです。それがサトル(微細)であればあるほど確率は減るけど、事実は小説より奇なりですから、何が起こるかわからんですよ。
以上、@「とにかく集団にたくさん属せ」、A「ナンバーワンorオンリーワン」になれということを一体化して言えば、多くの集団に帰属しつつも、その集団に染まりきることなく、常に自分を殺さず、自分の個性を大事にしてなさいってことになろうかと思います。世捨て人にならず、且つ自分らしくあれってことです。なんか道徳の教科書みたいだけど、でもそうとしか言いようがないよね。
あのー、モテに限らず何でもそうですが、いわゆる成功の秘訣というのは、クソ当たり前のことの集積ですからね。聞いて「なんだ、そんなことか」って拍子抜けするようなことが、結構真理だったりします。ずっと昔に読んだ星新一のショートショートにこんなのがありました。超高度な文明を持っていたとされる伝説の古代民族の遺跡がついに発見され、調べていくと住民達の平均寿命が120歳とこれまた超長命であることもわかりました。世界中の人々は驚き、それだけの長命を実現できた古代人の幻の健康法が注目され、急ピッチで発掘と研究、古代文字の解読作業が進みました。ついに長命の秘訣が解読され、全世界が固唾を飲んで見守る中で読み上げられたわけですけど、結局そこには「早寝早起き、腹八分目」としか書いてなかったというのがオチです。まあ、真理なんかそんなもんですよ。
次、「B自分の中に異性要素を取り込んでいくこと。ひきつけ合う本質は異質性だけど、とりあえずのインターフェイスは同質性」という点について言います。
電気のプラスとマイナス、磁石のNとSみたいなものなのですが、男も女も自分にはない異質性に惹かれます。違うところが魅力的。これはまあ同性間で親友になるマジックも同じかもしれないけど。しかし、ここがトリッキーなところなのですが、最初のステップとしては、異質なものには近づきがたいです。最初は、同質的なものの方が親近感や安心感を抱くから近づきやすい。第一次接触、インターフェイスとしては、同質的なものの方がいい。
女性は男性の男らしさ、オス的なフェロモンや世界に惹かれるのだけど、男100%!みたいなギンギンの人間には近づきにくい。お祭りの御神輿みたいに、筋骨隆々、フンドシ一丁、男ばっかりで「うおおお!」と野太い声で咆哮して、挨拶代わりに血ダラダラ流して殴りあったりしている集団があったら、まあ普通の女性だったら避けて通るでしょう。「素敵だわあ」とはあんまり思わない。男性社会の究極のヒエラルキー、強い!速い!上手い!というマッチョ的価値観に女性はあまり共鳴しない。逆に男性は、女性度100%の世界にいると発狂しそうになります。見渡す限り女ばっかりの喫茶店でクソ甘ったるいモノ食わされ、ファンシーショップでガラクタにしか見えないものを「かわいい!」という相手につきあったり、似たり寄ったりでしかない服のショッピングに付き合わされ、「どうでもいいけど、早くホテル行こうぜ」と言いたいのをぐっと堪えてニコニコしてたりすると、「何やってんだ、俺?」とムナしくなる。女性世界のヒエラルキー、可愛い!美味しい!素敵!が理解できない。
男も女も違う価値体系の世界に住んでるから、相手の価値世界がとりあえずは非常にくだらなく思えたりします。なんでそんなしょーもない事柄に一喜一憂するのか分からない。それは、自分の価値観がシングルトラックだからです。違う世界を理解できるだけのフォーマットが無いからです。幼稚園くらいまでは男女混合で遊んでたりするけど、小学校にあがって色気づいてくると逆に男子グループ、女子グループに分かれ、それぞれの同族社会で価値世界を育んでいきます。男は少年マンガで毎週ケンカシーンを見て、女は少女マンガで毎週キスシーンを見る。最近はそういったジェンダーの垣根も低くなったとか、無くなったとか語られることも多いです。男性でもグルーミングに気をつけて、フェミニンな要素を積極的に取り入れてとか言われますけど、本質は全然変わってないと思います。それが証拠にバリバリの男性雑誌、例えば峠のドリフトがどうのとかいってるクルマ雑誌や、ヴァーリ・トゥードがどうしたで盛り上がってるプロレス雑誌の女性読者の数というのは、昔からそんなに変わってないと思う。映画やマンガで女性の戦闘キャラが増えたとはいえ、女子高の教室で女子高生が皆してヌンチャク振り回してるわけじゃないでしょ。
逆に子供の頃から女の子にモテる男子というのは、3人姉妹に男一人という女系家族に育ったような人が多い。あるいは、女性に好感をもって迎えられるいわゆる「色男」というのは、ちょっとナヨっとしてるタイプが多い。刑務所に入ったらまず女役をやらされるようなタイプ。そういうタイプは、男社会の中ではそんなに出世しない。暴力団でも、企業社会でも、戦国武士集団でも、軍隊でも、ボスにまで登りつめる奴は大体において強くて、冷酷で、頭がキレる怪物的な存在だったりします。そもそもモテることを人生の価値だとはあんまり思ってない。どうやったらモテるかななんてことはあんまり考えない。織田信長がそんなことに一喜一憂してたとは思えないのですね。生理的に求めはするだろうけど、食事と一緒でそんなものは「力」で調達すればいいと思ってるし、実際それで間に合ってます。
異性性に惹かれるのだったら、それぞれ究極の男と究極の女を目指せばいいのだけど、話はそんなに簡単ではないってことです。とりあえずは導入部として、同質的な部分、価値観共有部分、「話が通じる」部分が必要だということです。それはすなわち、男性だったら自分の中に女性的な価値観を移植し、育むことであり、女性だったらその逆です。女系家族に育った男性は、(人柄やその他の条件にもよるけど)女性的な世界で育ってくるので、知らないうちに女性的な要素を身体に馴染ませてくるのでしょう。その同質性が、他の女性からみるとほっとするような安心感を与えるのでしょう。異性性を意識させずに、スッと入っていける、近づきやすい。だから本人的には別にモテてるって意識はないと思います。普通にお喋りしてるだけだし、ただのクラスメート、ただの友達だと思ってるだけでしょう。でもこの自然な感じがいいわけです。
この同質性の安心感というのは、もう体臭とかオーラみたいにかなり動物的なもので、こういう行動、こういう喋り方、こういう話題という具合に個別具体的なテクニックじゃないと思います。同じ話題を同じように喋っても、Aさんが語ると女の子は安心して近寄ってくるけど、Bさんが喋ると全然ダメって感じ。ほんと、マイナスイオンがどうしたみたいな、生化学レベルでなんかの反応が起きてるんじゃないかと思われるくらい、体質的なものです。それを身につけるためには、自分の中の女性性を育むしかないです。女性を理解し、共鳴できる部分を増やすことですね。
でもって、ここが究極のジレンマなんだけど、そうするためには女性と一緒にいる時間、女性と波長同調している時間が長ければ長いほど良いわけで、要するにモテる奴は女性性を身につけていくから益々モテ、モテない奴は相対的に益々モテない。彼女いない歴=物心ついてから0秒という奴は多分一生ゼロ秒のままだろうし、彼女いない歴=全人生という人は、ほっておけば一生そのままだったりもします。残酷ですね。これが、どんな世界にも生じるポーラライゼーション=二極分化=ってやつです。好循環と悪循環。
ずっと男子校/女子高で育って、異性との接点ゼロみたいな感じでやっていくのは、そういう意味ではディスアドバンテージだったりします。でも、学校だけの問題じゃないです。それに社会に出れば誰でも男女半々の世界に普通に入っていきますし。とりあえず実行できる実践的な
アドバイスとしては、あんまり自分の価値体系のなかに引きこもらないように、ってことですか。男性価値も女性世界も、この森羅万象の広い世界の中では半分に過ぎません。とりあえず男だったらとっつき易いところから始めて男性世界を身につけてきたわけですけど、そんなのはまだまだ成長途上に過ぎない。男にとって女は異文化であるのですが、異文化は何も異性だけとは限らない。オーストラリア文化、イスラム文化と民族の数だけ文化はあるし、同じ国内でも関西と関東ではもう違う。時代や世代が違うだけでももう違う。
つまりあなたが今身につけている価値観は、「たまたま」身に着けたに過ぎない。この広い世界からすれば、極く小さな点に過ぎない。画像のピクセルの1ドットに過ぎない。たまたま生れ落ちた時代と場所の近くにあったからそれを習得しただけの話。人間とは動物であり、動物とは「動く物」なんだから、植物と違って出生地点に死ぬまで縛られているわけではない。動き回れば、異なる世界を見る。ちょっと違った世界を見ただけでパニックになって人格崩壊をおこしてたら動物なんかやってられないから、動物には異文化を吸収咀嚼する先天的な能力がある。適応能力ってやつです。だから、たまたま身につけた自分の時代、世代、地域、性別の中にひきこもらずに、どんどん歩き回って異文化を
摂取し、自分を大きく豊かに育てていかねばならない。なぜなら、それはあなたの適応能力を磨き、複数の価値観を内蔵し、幅広く、深く世の中を見ることを可能にさせ、ひいては生存能力を向上させるからです。
だから、男女間においても、毛嫌いしないで異性価値観を取り入れていけばいいです。別に媚びろとか、100%成りきれっていってるのではないです。完全に理解できなくてもいいです(むしろそれは不可能でしょう)。ただ、理解しようとトライはすべきであり、最小限レスペクトはしろってことです。自分とちょっとでも違うものを見るたびに、ハリネズミのようになって拒否反応を示してたら、そいつに未来は無いよ。途中で成長をやめてしまっているのだから、繁殖に適した成長個体になりきってないわけで、そういう個体は繁殖ホルモンもフェロモンも分泌しないし、異性をひきつけることもないです。
とか書いているうちに、今回の紙数も既につきようとしています。こんな調子でやってたら何回かかるんだろう?
前回末尾にも書きましたけど、なにもこれは「非モテ」という日本の今日的現象だけを書いているつもりはありません。その背景になっている一般原理みたいなものを考えているわけですね。
今回、多少仲間外れ気味でもいいから自分の個性を大事にしろ、目立てとか、偏食しないでもっと成長しなはれってことを書きましたが、ここで思い浮かぶのは、社会全体が発育不足だったら、そうもいかないだろうなーってことです。例えば、皆が成長途上で止まってたら、自然に発育できるものも出来なくなる。日本社会は地政学的にモノカルチャーだから、穴蔵みたいに居心地良い分、異物にガンガン接触してゴシゴシ人格を磨かれていく成長機会に乏しいという弱点があります。違うもの、異物に出あったとき、好奇心や面白がる以前に、警戒したり、ビビッたり、疎外したりする傾向が強い。だって、未だに帰国子女とかいじめられるわけで、それはむしろ年々酷くなってるという話も聞きます。子供だけではなく親もいじめられるという。だからオーストラリア人と結婚した日本人は子供を育てるときに死ぬほど悩んでやっぱりオーストラリアで育てようとする人が多い。日本人でありながら、日本で帰国子女やハーフの子供を育てるよりも、外国で外国人として住むほうが快適に住めるというのは、ある意味国辱ですよ。辺境エリアの小さな血統集団(風魔一族とか、平家の落ち武者とか)だったら話はわかるけど、1億人以上いて、国連の常任理事国になりたいなんていってる国でありながら、同民族に対してすらこれほど不寛容であっていいのか、これほど未成熟でいいのか?って気もしますね。
だから、「仲間外れ気味でもいいから目立て」というのを、今の中学高校で実践したらイジメの対象以外の何物でもなくなったりするかもしれません。なぜかといえば、周囲の連中が異物を許容できない未発達なコドモだからです。それも微細なミクロ的差異ですら許されないのであれば、それだけ未熟度が高いってことでしょう。
そしてまた、そんな中に育てば、益々自分の殻に閉じこもる人も増えてくるでしょう。なんせ個性を出してもイジメられたり、馬鹿にされたりするだけだったら、やってらんないですよ。人付き合いの歴史がすなわち不愉快な歴史だったら、人付き合いそのものがイヤになります。かくして、オタク系やらアキバ系だったらその部族内部でひきこもるようになり、そこから外に出なくなる。だから異なる価値観に接触し、その価値観を自分の中に取り込み、人間的に成長するというプロセスが奪われてしまうことになる。ゆえに益々モテなくなる。なぜモテないのか?それはモテないからだ!という死刑宣告みたいな事態になる。これは、考えてみれば、悲劇ですよね。
というわけで、「個性なんか出したら殺される」みたいに思ってる人達により実践的な処方箋を書くとしたら、まず@自分の限界の3センチ先くらいまで辛抱しろ、Aそれでダメならとっとと場所を変えろってことですね。
@限界3センチは、多分次回に述べる「自我ストレッチ」と重複するから簡単に済ませますが、未熟な人間が成長しようと思えば、昨日より今日、今日より明日でちょっとづつ自分の限界を拡大していくしかないです。「ぐわー、もう死ぬ!」とヒーヒー言ってたことでも、1週間もしたら慣れて、1ヶ月もしたら鼻歌まじりにこなしたりします。体育会系の部活の初日や、肉体労働系バイトの初日を考えてもらったらわかると思います。自分の限界以前ところで諦めてたら、いつまでたっても限界は伸びず、許容性は低いままです。ということは、生きていても不愉快なエリアは減らない。だから、ほんのちょっとでいいから、限界ちょい超えくらいまでガマンしてみる。それ以上はやらなくていいです。でも、そのくらいはやってみる。
それでも到底ダメだと思ったら、とっとと見切りをつけて別のところに行きなさい。世界は広い。死ぬほど広い。人間なんか氷原から砂漠にまで生きてます。どこでだって生きていける。「ダメだ、こりゃ」といかりや長介のように思ったら、とっとと河岸を変えたらいい。住む所も、会社も、その気になったら変えられます。また、思い切って一回変えておいた方がいいです。変えるのは、勇気もテクニックもエネルギーも必要ですし、若いうちにそのノウハウを学んでおくのはいい「老後対策」になりますよ。僕だってそう思ってオーストラリアに来るという「総とっかえプログラム」をやったんだし。また、「イヤならいつでも変えられる」と思うことは、あなたの忍耐力を増強することにもなります。絶対に変えられないと思うと精神的にしんどくなって、限界のはるか手前でギブアップしちゃうけど、「いつでも」と思ってると結構ギリギリまでいけます。
あと、義務教育の学区とかその他の理由、シガラミでどうしても変えられないようなときは、もう「プレイ・ポッサム」ですよ。"play possum"というのは、「死んだふりをする(仮病を使う、しらんぷりする)」という意味です。被害を最小限度に抑えて、死んだふりしてやり過ごせってことです。テクニックだけで生きろと。それはそれで、また、人生に必要な技芸の一つですから、いい機会だから学んでおいてもいいですよ。カメレオンみたいに完璧に同化して、騙せ。騙しぬけ。生き残るためにはそうしなければならない局面も、長いこと生きてれば何度かあります。そして状況というのは絶対に変わります。永遠不変なものなど何一つないです。学校だってガマンしてりゃ、自然に年を取って、卒業してバイバイだもん。状況というのは絶対変わる、常に変わる。
だけど、「死んだふり」をするだけですからね。本当に死んだらダメですよ(笑)。でも、本当に死んじゃう人がいるんだよね。擬態としてやってるうちに、それが本体になってしまう人。人間の適応能力は凄まじいものがあるけど、そこまで過剰適応しなくても宜しい。
で、外界にはカメレオンやってる間、カイコのようにコクーン(繭)に包まれている中で、せっせと自分の世界を掘り下げてればいいです。それが後で必ずあなたの魅力になりますから。その昔、筋肉少女帯というバンドがあって、その看板メンバーだった大槻ケンヂ氏は、学校時代今の非モテ男の元祖みたいな青春を送ってます。コアな音楽やマニアックな映画にハマってて、そういうことやってると話題の合うクラスメートなんかいなくなる。教室で一人沈んだ暗い青春を送ってたわけで、「パンクでポン」という曲なんだかお笑いなんだか分からん曲があるわけですが、「馬鹿野郎!俺はなあ、俺は、学生のとき、女の子と話したかったんだよおおお!」と悲痛な声で絶叫するという(必聴です(^_^))。彼にとっては、そういう時代こそが栄養の蓄積時期だったのでしょう。それがあったからこそ、怨念叩きつけ!みたいなバンドをやり、しかもただの怨念をエンターティメントにまで昇格させ、「最初は爆笑するけど、聞き終る頃にはしんみり感動している」という楽曲を産み、それを超高度なテクニックでサポートするメンバーに恵まれ、ブレイクするわけです。いっときは「抱かれたい男」のベストテンにも入ったという。
「醜いアヒルの子」という童話がありますけど、その種の状況ってのはいたるところにあります。音楽でも小説でもスポーツでも、もともとその天分に恵まれている人にとって、その分野に関しては凡人だらけの中学高校時代は、周囲と全然話が合わないから、結構地獄だったりします。将来その道のプロになれるような人間になればなるほど、一般人世界では極端に特異なポジションに立たざるをえない。それだけ一般人との距離が広がっているからこそ、その人の技芸がプロフェッショナルとして評価され、お金も稼げるわけです。そういった分野は、日本だけでも数千という単位であると思いますが、人が社会市場に出て、自分の力や才能を売り、お金を得る、生計を立てるということは、それだけ極端に特異なポジションにいるからこそです。普通の人間が逆立ちしても出来ないことが出来るからです。要するに「異常」なんだわ。異常者が一般社会でそれなりの迫害をうけても不思議ではない。特に平均化圧力の強い日本だったら尚更でしょう。だから、自分の名前と力量で仕事をしようと思ったら、どっかで「醜いアヒルの子」状態になるというのは、ある種不可避なんでしょうね。もちろん、天才でも世間ズレしていて、如才なくて、波風立てない人はいますけど、やっぱり心の中は風が吹いてるでしょうねー。
もし、そういう「特異なポジション」に立つこともなく、迫害もされないのであれば、逆に言えば「何の取得もない人」です。常に常に集団のマジョリティに属している人もそうです。「皆と一緒」だからといって安心していても、「皆」というのは永遠にダンゴになって一緒にいるわけではないです。いつかは一人で自分を市場に出して、一人でやっていかねばならない。マジョリティにいるから、皆と同じだからと安心してると、いつしか一人去り、二人去りで気が付くと一人ぼっちになってる。そして年を取ったあと「何者にもなりえない自分」を抱えて立ち尽くすことになる。こっちの方がはるかに残酷であるし、はるかに地獄だと思いますよ。
だからそんなもんなんですよねー。暗い時期が無ければ人は本当に魅力的にはなれない。なぜなら深味がないから。プレイポッサムやってる間がいいチャンスだから、自分を掘り下げていくといいです。
さきほど、同質性に惹かれる、同質性がインターフェイスになるといいましたが、インターフェイスは所詮インターフェイスに過ぎない。インターフェース、導入部だけ良くても、中身が無ければ意味がないです。宣伝広告と入場門だけがあるディズニーランドみたいなもので、門をくぐったらただの空き地だったりして、そーゆー人って結局一番軽蔑されるでしょ。
それに、相手が成熟した異性だった場合、別にインターフェイスなんか要らないですよ。バリバリの男臭さ100%の男性にも連れ合いがいるように(「極道の女たち」みたいに)、異性世界を理解できるだけの大人だったら、別に口当たりのいい導入部なんか要りません。もっと言えば、口当たりのいい導入部が必要なのは、10代20代のガキンチョだけって気もします。子供用の薬みたいに、苦くしないでシロップにするようなものです。まっとうに成長してたら、30越える頃にはそんなシロップはいらない。
でも、シロップ不要の大人の世界では、今度は中身を厳しくスキャンされますからね。未熟なままだと、それを一瞥しただけで見抜かれ、「ボクは早くオウチに帰りなさいね」って言われちゃう。「小便臭い小娘」以上の扱いは受けない。厳しいっす(^_^)。だから、どこまでいっても、テクニックとか、秘訣とか、誤魔化しの世界じゃないです。どこまでいっても、「道徳の教科書」なんですよね。真理ってそんなもんでしょ。
文責:田村
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