今週の1枚(06.10.30)
ESSAY 282 : 「非モテ」について
写真は、シティのタウンホール。”オーストラリアの桜”ともいうべきジャガランダが咲き誇ってきています。
最近日本では知らないうちに「非モテ」という言葉が市民権を持つようになっているようですな。わはははは!いや、いきなり笑って失礼。その昔、「負け犬」なんて言葉が流行ってると聞いたときも笑ってしまったけど、「非モテ」はもっと笑える。
なんで笑っちゃうかというと、こんなことイチイチネーミングをしてうざうざ考えたり、自己規定してみたりするようなことかい?って。「ヒマなんだなあ」って部分で笑ってしまったわけです。いや、真剣に悩んでいる人だって多数おられるだろうから、笑い飛ばすのは不謹慎だとは思いますよ。でも、笑い飛ばした方が救われる場合もあるわけで、これなんかその典型じゃないかと。
いや、しかし、ネットで「非モテ」で検索するとドドドと、まるで決壊した揚子江のようにこの種のサイトが出てきて、「うわあ!」と驚き、「おお、なんてこったい」って思ってしまいます。「電車男」とか「アキバ系」とかにはじまって、モテ系/非モテ系になり、さらにもてない男を「喪男」、もてない女を「喪女」、さらに独身男性のことを「毒男」というのだそうだ。ほお。
ネット上でレベルの高い書き物をしておられる団藤さんのサイト、「非モテ」意識と親同居独身者の増加が話のとっかかりとしては参考になります。この人の考察は、現役の新聞記者さんらしく、キッチリ調べてしっかり自分の頭で考えて書かれているので、刺激になります。僕の記憶が正しく、また僕の記憶にある人と同一人物だったら、僕はこの人と一回お会いしてます。異業種交流会の飲み会で同席させていただいきました。たしか京都かどっかだったかな。知的で穏やかな風貌をされていた方だと記憶してます。
ハッキリ言うと語弊があるかもしれないけど、ネットの読み物のうちその殆どが真剣に読むに足る水準をクリアしていない中、団藤さんのサイトと、あと田中宇の国際ニュース解説は読み応えあります。どちらもWEB2.0の先駆者のように、ネットに点在するリソースを調べ、統合し、考察していくもので、真剣に理解しようとしたらリンク先のものまで目を通すべきであり、一本の記事を咀嚼するのに数時間くらいかかったりします。田中さんの場合、主として海外の新聞記事にリンクするので、結構大変です。でも本来そのくらい大変な思いをしなければ、この世のことなんか分かるわけないんですよね。そんな数分でパラパラ読んで、それで世の中のことがわかったら苦労いらんです。CIAなんかいらないですよ。
さて、団藤さんの所見によると、現在20代男性の3人に一人は生涯未婚の恐れがあるとか、20代の二人に一人は交際相手の女性がいないとかいう数字も語られています。また、「『モテ』は第三者による評価だが、『非モテ』は自意識の問題といえる。その一方で、『モテるための努力を回避する』という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある」、「非モテの本質とは、投入リソースと試行の不足にあるのです(略)。非モテ男子は、女子への欲求が少ないのか、それともhesitateしているのか、モテ資本へのリソース投入が過少であることが多いのです」など、現象に関する諸所見への端的なリンクが張られています。また、20歳から39歳までの未婚男性の親との同居率が、どの世代でも70%を超える(10年前に比べて10%前後の増加)という衝撃の(僕にとっては)数値も紹介されています。やはり、ナニガシかの事態が進行しているようですね。
あと、ScarecrowBoneLog氏作成にかかる非モテMAP ver.003は、この非モテ界隈の人々の葛藤しまくってる心理や立場を「うわあ」というくらい精密に分類しようとしています。ご本人はまだまだ作成途上とおっしゃるのですが、咀嚼しきれないくらいの細密さであり、いちいち検討するまでもなくこの図を一目みるだけで、「うわあ、皆こだわってるんだなあ」という意識風景がわかると思います。
さて、こういった状況を僕なりに言葉で再整理すると、@非モテはどちらかというと女性よりも男性サイドの話であるらしいこと、A「モテる」という言葉の意味が「異性と付き合うor過去に付き合ったことがある」程度の意味にまで押し下げられていること、Bモテないのが一時的な現象などではなく、大袈裟にいえばもって生まれた宿命のようにさえ受け取られ、強烈な自己規定になりかけていること、Cその不本意な状況を「どうしようもないこと」という諦念として、あるいはメインストリームに対する強烈な反発として受け入れているような感じがすること、という特徴があるように思います。
ここで一気に話を思いっきり源流に遡らせると、「非モテ」というのは要するに「モテない男(あるいは女)」のことで、別に現象としては珍しくも何ともないです。人類発祥の頃から、あるいは生命誕生の頃から(もっといえば雌雄生殖形態をとる生命体が地球に発生してから)、この種の「異性体との関係機会に乏しい個体」という状況はあったでしょう。
オットセイのハーレムが有名ですが、あれって一夫多妻制の典型で、一頭のオスで平均40頭、多い奴で100頭のメスと生殖活動に励んでいるらしいです。繁殖期の2ヶ月くらい、殆ど餌も食べずにひたすらやりまくるという。だから精力絶倫の象徴ということで、精力剤によくオットセイなんたらというネーミングが施されてたりします。しかし、オス一頭で40-100頭のメスを占領するということは、そこには熾烈なオス同士の戦いがあるわけで、戦いに敗れたオスは当然あぶれるわけです。一生童貞というオスも沢山いるでしょう。「非モテ」というのは、オットセイ君が言うならば分かる。
同じように、一夫多妻=ポリガミー(polygamy)=の動物は数多いです。また、イスラム世界の一夫多妻(4妻)制度もあります。なぜこういう「不平等」があるのかというと、それなりに合理性があったりします。生殖というのは、DNAのシャッフルであり、異なるDNAをかけあわせることによってより生存に適した改良型を生み出す=つまりは「進化」を促す=ための自然のシステムだといいます。その場合、「よさげなDNA」をもってそうな個体はモテます。特に食うか食われるかの過酷な環境にある動物界では、生存それ自体が至上目的であり、環境に適応して生き抜いていくためには、最も強大で生存に適しているオスだけがモテ、そうでないのはDNAシャッフル(SEX)からはじかれる、そのようにして選び抜かれたDNAの混ぜ合わせがあり、さらにその子孫同士でまた激しい闘争を行い、、、とやっているのでしょう。
イスラム世界の一夫多妻も、別にスケベだからそうなってるわけではなく、正統カリフ時代に戦争が相次ぎ、女性は寡婦として故郷に残され、そのための経済的補助のために、数少なくなった男達が手分けして部族の女性達を養ったというのが本来の姿らしいです。だから、4人奥さんがいたとしても順位をつけてはいけないし、全く平等に扱わないとならず、それを怠ると離婚や賠償の対象になるそうです。これ、かなりキツイですよ。
これは要するに「生存する」というシリアスな大目的があっての話です。日本でもつい先日まで、あるいは一部の社会では現在でも、奥さんの他に女性とセックスをして子供をもうけることが積極的に「よいこと」として奨励されていたりもします。家制度維持のためには、なにがなんでも跡取りが必要で、後継者を作ることは当主に課せられた重大な使命だからです。今だって、天皇家に生まれたら「避妊の自由」なんかないでしょう。「いやあ、俺、子供キライだから、いらないよ」なんて皇太子が言うわけにはいかんのでしょう。たまたま皇位継承権をもってる人間が性同一性障害だったり、ゲイだったりすることも、確率的には当然ありうるわけだけど、それをカミングアウトする自由もないです。だから、僕個人は天皇家の人権尊重という一点で天皇制反対なんですけどね。日本を成り立たせるために一個の人間の人権や人生をメチャクチャにしてもいいとは思わないし、それで日本が潰れるなら、そんな国は潰れちまった方がいいっす。それに、僕の母国はそんなことでコケるほどヤワじゃないと思ってます。
ところが近代社会になって生産力が上がるにつれ、一夫一婦制が当然視されるようになります。これはすなわち、そこまで異性を選び抜かなくても生存することが可能になったことを意味するのでしょう。なにかの拍子でまた原始時代に逆戻りしてですな、そこらへんにライオンとか虎とか熊がウヨウヨ歩いていて、今こうしている瞬間にもいきなり襲われて頭蓋骨を噛み砕かれてしまう、生まれてから死ぬまで1秒の休みもなくそんな状態が続く世界になったら、筋力や運動能力に欠ける女性は、生存のために逞しい男性を選ぶでしょう。というか、弱いもの同士いたわりあって暮らしていても、いずれも猛獣たちの餌になるだけでしょう。一夫一婦制になってるってことは、別にそんなに必死こいて選ばなくても生きていけるってことです。いい世の中になったもんです。
それによって、生殖(SEX)=生存というシビアな現実は薄れていってます。そもそも「避妊」という存在論的な大矛盾を、矛盾とも感じずにやってるわけですから、いまやSEXにせよ異性との関係にせよ、単に「気持ちいいから」という点、あるいは自己確認とか自己実現みたいな精神的欲求によっているのでしょう。もちろん、結婚することによって部族内部で一人前として扱われるというメリットがあったり、高収入の男性を選ぶことでより快適な人生を送ることが出来るという「生存」的な合理性も、薄まりながらも存在はしています。しかし、動物たちがそうであるように、ギリギリの生きるか死ぬかのレベルではない。だから、動物達から言わせたら、「非モテ」なんてのは「ヒマなこと言ってるなあ」って話なのでしょう。かなり精神的な問題、言い換えれば「贅沢な趣味の問題」だとも言えます。
しかし、今日のこういった傾向は、なんか病的なものをうかがわせます。生命エネルギーが感じられないというとか、「健康なケダモノ」の言うことじゃないです。
まず引っかかるのは、非モテにまつわるモノの考え方の特徴というか、テイストが、「負け犬」や「下流社会」と同じような肌触りを感じさせる点です。日本社会に「これだ!」という堂々としたスタンダードがあって、そのスタンダードに外れている人間が、周囲から一段劣等なものであるかのように扱われ、また本人もその外れ方を心の痛みとして感じてしまい、そのこだわりが人格や世界観にも影響を与えてしまうという。この構造が、まずもって気に食わないです。
「堂々としたスタンダード」というのは、例えば「負け犬」だったら「結婚して子供を産むこと」であったり、「下流」だったら「正社員になって一定額以上の収入を得ること」であったり、そして今の「非モテ」だったら「ちゃんと異性と付き合っていること」であったりするわけで、そのスタンダードを満たしていないと、いかにも下らない人生を送ってる低劣な人格であるかのように言われたり、自己規定してしまったりする。
仕事をし、異性とつきあい、子供をもうけるというのは、別にメチャクチャ努力しなきゃ出来ないどっかの偉人の偉業ではないです。普通の人だったら普通にやってることです。しかしながら、この「普通」ってのがクセモノで、あんまり普通、普通って言い過ぎると、そうなっていない人がいかにも異常であるかのような反作用を生みます。まさに今がそうなのでしょう。昔の人は皆このくらいのことは当たり前にやっていたわけですが、でも、それは昔の人が格段にエラかったわけではないです。それ以外の選択肢が事実上存在しなかったから、否応なく、というよりもあんまり深く考えずやってただけのことでしょう。例えば、江戸時代以前の日本の場合、家=企業みたいなものだったから、百姓にせよ町民にせよ武士にせよ、長男は跡取として家に残り、それ以外の女性や次男以下は家を出なければ生きていけなかった。家を出る以上働かないと死んでしまうわけで、だから小学生くらいの年齢で丁稚奉公に出されたりする。結婚は、周囲が「そろそろ」ということで勝手にお膳立てしちゃうし、結婚式当日まで相手の顔をみたこともないなんてケースもザラにありました。だから、就職、結婚、出産は、ボケーっとしてても周囲が勝手に整えてくれるから、別にそれでよかった。
明治以降の日本も家制度が厳然と残ってましたから話は江戸時代とそんなに変わってません。近代工業化で都市生活者が増えた分、丁稚奉公先が工場になったくらいのものです。戦後だって、新憲法のもと家制度が消滅したとはいえ、"Old custom die hard"(古い慣習はなかなか消えない)で、家意識は残りますし、未だに結婚式の「○○家」という形で残ってます。女性の社会進出も、戦後長い時間をかけて徐々に進展していったわけで、昭和30年代頃にようやく女性の一般企業のホワイトカラー職が出てきてBG(ビジネスガール)なんて言われてたくらいです。それでも当然結婚して退社するものだと相場が決まっていて、25歳で未婚だったらもう「売れ残り」「行かず後家」と陰口叩かれ、肩身が狭かったわけです。クリスマスケーキとか言われてたもんね(25日(歳)には売れ残り)。これ、昭和50年代あたりにも普通に言われてましたね。「二十二歳の別れ」という名曲は昭和48年です。あの頃は22歳で嫁いでいくのが普通だったともいえます。
というわけで、現代から考えると、信じられないくらい強烈な社会圧があったわけです。ほんのちょっと前までの日本人はまるで深海魚のようなものすごい水圧を受けていて、結婚しないとか、就職しないとか、子供がいないとかいう状況がまずもって許されなかった。それ以外の選択肢が事実上ほとんど存在しなかったから、逆にそもそも考えなかった。別に当時だって「やらない」という選択が出来ないわけではなかったのですよ。やろうと思えば出来た。でも、あんまり誰もやろうとはしなかった。その感覚は、現在における「外国で永住権をとって暮らす」ようなものでしょう。実際に永住してる僕から見たら、「なんで、皆はやらないの?」って不思議なんだけど、「そんなん出来るわけないだろ!」って言う人が大半だと思います。当時の非婚、フリーターなんかそのくらいの心理的&社会的な抵抗感があったのでしょうね。でも、資産家の家に生まれたとか、無理に働かなくても良いという境遇にある人、選択の自由を持ってる人は、昔だって働きもせず、結婚もせずに一生を終えたりするわけです。古典落語の若旦那なんて、酔っ払って、遊郭通って遊んでるだけだし。夏目漱石の「それから」に出てくる「高等遊民」も今で言えばニートみたいなものだし。
今はほんと仕事しなくても死にはしないし、結婚なんかしなくても別に生きていけるし、子供ももうけなくてもそんなにメチャクチャ叩かれることはないです。全員が高等遊民みたいなものです。社会的圧力は減少しました。だから、やってもいいし/やらなくてもいい、という意味では選択肢が広くなって、いい世の中になったのだと思います。基本的にはね。
一切の社会圧力を排除して、ピュアな目で見た場合、仕事も結婚、育児には人生における珠玉のような価値が詰まっています。仕事は、独立心や社会性、経済観念を高め、人間的に成長させるプロセスでもありますし、それは結婚/出産育児にしても同じことでしょう。僕でも、仕事や結婚は、した方がいいかしない方がいいか?って聞かれたら、断然した方がいいって答えますよ。素朴に、成長できるものはした方がいいでしょ。DNA的に身長170センチまで伸びるのに、わざわざ130センチで止めてしまう必要はないし、妙なところで成長を止めてしまうと弊害だって出てくるかもしれない。だから、ボケーっとしてるのは楽だけど、仕事はした方がいいよ。給料以上のものは得られるよ。結婚も、同じ理由でした方がいいよと思います。子供はついに恵まれなかったので何ともよういえないけど、いいんだろうなーって思いますよね。
だけど、そんなもんは「しなきゃダメ」ってことでもないと思います。僕個人はオススメはしますけど、別にそれは個人の自由でしょう。それを選択しなかったからといって、別に人間的にダメなんだとは思いません。それに、その人の個性からしたら、もしかしたら就職も結婚もしないほうがいいかもしれない場合だってあるとは思います。
天才的なアーチストとか、科学者とか、浮世離れした想念に取り付かれて自分の作業に没頭してるわけで、それが世間的に「偉業」に見えるか「道楽」に見えるかなんか本質的にどうでもいいことです。生きている間は全然売れなくて貧乏生活を強いられ、死んだあとに天才として褒め称えられた人は沢山います。シューベルトとか。こういう人が、ありあまる天才性を押し殺して、無理やり普通人の生活を送ったら発狂しちゃうんじゃないかな。実際、この人結婚しなかった方が良かったんじゃないかって思える人だっているもんね。モーツアルトとか。ソクラテスもそうね。そういうタイプの人ってやっぱりいると思うし、僕らが今現在人類の遺産としてエンジョイさせてもらってる文化というのは、そういうエキセントリックな人達が、神様からもらった才能に引っ張りまわされ、不幸にのたちうちまわりながら創作していったものでしょう。アーチストってアンハッピーな生涯を送る人が多いです。すぐ死んじゃうし。神様からイジメのような試練が課せられるし。ベートーベンは耳が聞こえなくなるわ、スティービー・ワンダーは視覚どころか味覚や臭覚までも失ってしまうわ(一時的だけど)。「普通」の奴ばっかりだったら世の中詰まらんのですよ。「普通」でない人が、世界に奥行きと彩りを添えてくれるのです。
彼らは天才、偉人だったから、偉大な業績を残したから、就職&結婚をしなくても許されるってわけでもないと思うのですよ。これは人間のタイプの問題であり、別に全然なんの才能もなくても、何一つ業績を残していなくても、就職や結婚が向いてない人はいると思います。向いてないことを無理にやることはないし、人類なんかあり余ってて増えすぎてることがむしろ問題なんだから。
だから、本来は、"suit yourself"(好きにすれば)って問題だと思います。上にも書いたように、人類が「快楽のためのSEX」「避妊」ということをやり始めた時点で、もう生物界からは「外道」な存在なんだから、外道同士でなにがスタンダードとかいったって、オットセイに笑われるだけだって思うもん。本当のことを言えば、地球は人間多すぎるから減らした方がいいんでしょう。人間が高密度に存在すると、やっぱり生存環境としてはストレスがかかって良くないですよ。シドニーの人口は急上昇してますが、やっぱりどんどん住みにくくなってるし、暢気なオージーもそれなりにストレスがかかり、人格的にゆがみつつあるように思いますからね。だから、「減らした方がいい」というのは大自然の号令なのかもしれないです。非婚・晩婚、少子化、セックスレス、精子数の減少なんてのも大自然のメカニズムといえないこともない。
しかし、「好きにすれば?」って完全自由状態に放り出されると、「自由になると途方に暮れる」とでも言うのでしょうか、どうしていいのか分からん、なにか寄りかかるスタンダードが欲しくなるのも、また人情なのでしょう。そこでまた亡霊復活ではないけど、「仕事して当たり前」「結婚して、子供を作って一人前」というスタンダードが出てきたんじゃないかなって気がします。
選択肢の豊富さ、自由をちゃんと使いこなすためには、自由な精神がまず必要であり、自由な精神を成り立たせるためには、強大な自我とシャープな実務処理能力が必要です。360度何処に行っても良いという無限の選択肢の中から「俺はこうする!」とたった一つの方向を選びとるには、豊かで力強い自我がなければ出来ることではないです。これが欠けている人間は、右往左往して「皆どうしてるの?」と周囲を気にする。周囲を気にする人間に自由は要らない。あっても使いこなせない。まずこれが一つ。第二に、それで自分の方向性を選んでも、その道を成就するためにはそれなりのハードシップがあるわけで、それをクリアするだけの現実的な実務処理能力なければ絵に描いた餅にすぎません。金がいるんだったら稼ぐ。資格が必要だったら取る。知識が必要だったら徹夜してでも勉強する。人脈が必要だったらせっせと走り回る。言語が必要だったら習得する。ビザが必要だったら石にかじりついてでも取る。ブレイクスルーの一点においては何百回でも機械のようにトライしつづける。
「健康なケダモノ」だったらこのくらいできるでしょう。獲物を待ち構えるために、何時間でも木陰に潜み、葉っぱ一枚動かさないでじっと辛抱している能力がなければ餌は取れない。ただ水を飲みにいくというためだけに、1日15時間も歩きつづける象。夫がエサをもって帰ってくるまで厳寒の南極で何ヶ月も足元の卵を温めつづけるペンギン。最後の受精をするためだけに、何千キロにも及ぶ行程を泳ぎつづけ、故郷の川の激流を遡っていく鮭。「生きる」ってそういうことでしょ。本来「生命」にはそのくらい超絶的なパワーがある。そのくらいのパワーがあるからこそ、動物達は「何のために生きているのかわからない」「何をすればいいのかわからない」なんて下らないことは言わない。
社会的圧力や水路や秩序があれば、それがどんなに理不尽なことであっても人は迷うことはない。なぜなら「迷う」というのは選択する自由あっての話であり、選択のないところに迷いはない。もともと強大な自我や実務能力を磨いてこなかった人間に、「さあ君達は自由だ!どこにでも好きなところに行きたまえ!」と解放したところで、途方に暮れて立ち尽くし、周囲を見回して皆の行く方向にゾロゾロ歩いていくだけなのでしょう。それがか弱い人間だというであれば、今ほどの自由は要らないのでしょう。
「ラブ・ハラスメント」という言葉があるそうですが、恋愛経験の乏しい人を嘲笑したり、執拗に恋愛を強制したりすることで、「ラブハラ」とも言われるそうです。これがまたケッタクソ悪いんですよね。考えるだに、血中酸性度があがってきてしまいそうだ。
なんでこう、日本というのはすぐに教条的になってしまうのですかね。潜在的ファシズム社会とでもいうか、今更大した合理性も社会的圧力もなくなっているにも関らず、「あるべき人格像・人生像」というスタンダードを作りたがり、その鋳型から外れると「ダメ」評価をする傾向。人間の多様性をあんまり認めず、単一の価値観で物事を見ていこうという偏狭な精神ね。いい加減もうやめたらいいのに、頭では皆わかっているのに、ついついやってしまうという。その意味では北朝鮮とどっこいどっこいかもしれん。いや、あそこは軍事政権が武力で強制し、生まれたときから意図的に洗脳されてるからまだ止むを得ない部分があるけど、これだけ自由な日本で、これだけ皆して一本の価値観のロープにぶら下がろうというのは、ある意味北朝鮮以下かもしれないですよ。
普通の人だったら誰でもやってることをやってないから異常だ、ダメだ、負け組だというなら、そんなもん何でもアリですよね。オナニーだって、誰でもやってんだから、あんまりやらないって人がいたら、こいつ変態だってイジメられるかもしれないわけでしょ。焼き芋が嫌いといっただけで負け組かい?ファシズムってのはそういうことです。事の正否を冷静に論じるのではなく、また多様性をエンジョイするわけでもなく、自分と違ってるというだけで排除しようというゼロ・トレランスの幼稚な精神構造でしょ。いい年こいて「エンガチョ!」とか言ってるのと何処が違うのさ。
土台、「普通と違う」という意味では、世界の中の日本は、北朝鮮並に「ヘンな国」だと思われているわけで(特に西洋社会からは)、その一大変人集団のなかで、こいつが変とか、あいつがおかしいとか変人同士で変態競争やっててどうする?って思いますよ。普通これだけ経済的に成功して、余裕も出来て、平和な社会になったら、自然に「外はどうなってるんかな?」って思うもんですよ。それを内向きな話題ばっかり、たまに国際的な話題になってもピント外れでナショナリズムというよりもナルシズムばりばりの気持ち悪い話ばっかりで、これじゃ国際「引きこもり」って言われても仕方ないですよ。未だに世界=アメリカだし。それこそあんな世界一ケッタイな国だけ見てたら世界観が歪むでしょうが。もともと自然界からすれば変態である人間世界で、その中でまた変だといわれている日本社会なんだから、二重の意味で変なのですよ。その中でスタンダードもヘチマもないでしょう。俺もお前もみんな変態!くらいに思ってていいくらいです。
ただ、そういった変態競争が腹が立つのではなく、自由を自由として受け止められず、それを使いこなすだけの生命力パワーもなく、とにかく何かのスタンダードにすがりついてしまう、その生き物としてのヒヨワさが腹が立つんですよ。弱者の小狡さというか、卑小さに腹が立つ。大体、命がけで何かを選択して生きている連中は、そんな他人に構ってる余裕なんかありませんし、あったとしても「あーしろこーしろ」って言いませんよ。選択こそがイノチそのものだということを骨身に染みて理解してるはずだから、軽々しく他人に自分の物差しを当ててなんだかんだ言うはずないです。適当にヌルい生き方してる奴らが、どっかしら不安なもんだから他人にちょっかい出すわけです。逆に他人の動向がやたら気になるときは、自分自身がヌルくなってるんじゃないかと疑った方がいいです。必死にやってないんじゃないの?って。
まあ、そんなラブハラやって喜んでる弱虫はほおっておいて、血中酸性度を下げてですね、ココから先は「非モテ」界隈で葛藤している人に書きます。参考になるかどうかわからんけど、話半分に聞いてください。
まず、こーゆー男と女がひっついたり、離れたりって話は、あんまり考え込んだらアカンのだと思います。自然にやってれば自然に解決する物事って世の中には沢山あります。考えれば考えるほど動きがギクシャクしてきて、その自然な解決から遠ざかる。だから考えない方がいい。というかこれもバランスの問題で、10考えたら10行動するという、DOとTHINKのバランスが大事なんでしょう。それを、THINKの側に過大な労力を費やして、あまつさえ「非モテ」とか名前なんか付けちゃたらどんどんバランスが悪くなる。こういう「考えちゃイケナイ問題」をついつい考える過ぎる人というのはいつの時代にもいるし、あるいは考え過ぎちゃう時期というのは誰にでもあります。ハシカみたいなものです。多くの場合は、全体からみてほんの一部、ほんの一時期の気の迷いみたいなものだから、そんなにメインストリームに踊り出てくるようなことはないのだけど
仕事も結婚も出産も、冷静に計算して、ゴルゴ13の弾道のように正確にターゲットを射抜くってもんじゃなくて、多くの場合はなりゆきと勢いでしょう。たまたまとっかかりが悪くて仕事するのがイヤになっちゃう奴もいるだろうし、逆に仕事が面白くなって没頭しているうちに結婚や出産をミスってしまうこともあるでしょう。カラオケで盛り上がっていて終電ミスするのとあんまり変わらんですよ。それを、「負け犬」とかネーミングして論じるなんて、Bullshit!だと思います。でもって、スタンダードに即しているからOKで、即していないからNGだなんて思う必要は毛頭ないです。
単純に言えば、この世の半分がモテない(異性関係に恵まれない)のは、別に不思議な話でもなんでもないと思います。というか、20代で50%も異性関係があるというだけで、「うそお?見栄張ってない?」って思っちゃいますよ。ところで、「モテる」というのは、本来数多くの異性から追い掛け回されるくらいの状況をいうのであって、恋愛関係が一度でもある人のことを「モテる」とは別に言わないです。そして、行く先々で異性から注目されるような人は、絶対割合としては非常に少数です。レアです。というか、レアだからこそ注目されるわけでね、レアじゃなかったら最初から注目されません。だから、本来の意味での「モテ」でいうなら、この世の人間の99%はモテないといってもいい。
では、99%はどうしているのか?オットセイのあぶれたオスのように一生を寂しく過ごすのか?といえば、別にそんなこともないです。そんなことやってたら100個体のうち1個体だけがツガイになれるわけで、1ツガイが子供を百人もうけないと人口減少することになり、そんなこと人間の生殖能力の限界をこえてるから、当然人類は絶滅します。ていうかとっくに絶滅してます。一夫百妻制か、一妻百夫制度を認めても無理でしょう。それが20世紀以降、爆発的に人口が増えてるわけでしょ。ということは残りの99%もちゃんと相手をみつけられているわけです。
実際見つけられてますもんね。希望を捨てちゃダメよん。バスや電車に乗ったときに周囲のおっさん、おばはんを見てください。「わあ、素敵!」って心がときめくようなおっちゃん、おばちゃんってそんなにいないでしょ?でも、彼らだって殆どが結婚できているわけですよ。また、そのへんのファミレスや行楽地にいって、カップルや家族連れを見てください。美男美女の群れですか?PTAの保護者の皆さんも、粒ぞろいのイケメンばっかりですか?別にそんなことないよね。だから、その辺を歩いてるおっちゃん&おばちゃんに比べて、それでも自分は全然ダメだと思える人だけが「俺は非モテだ」と思ってくださいな。そんな人殆どいないよ。まずはルックス的に。というわけで、非モテに悩んでる人がいたら、電車に乗って、「このおっちゃんだって結婚できているわけなんだよな」と思ってください。あ、別に、僕を見ていただいても結構です。僕ですら出来てます。それも二回もやってます(^_^)。
それとですね、キャーキャー言われるモテ男&女なんか100人に一人いるかいないかですが、その一人が幸福の絶頂にいるかというと、別にそんなことはないです。特に女性で美人で生まれてしまった人とか、電車に乗れば痴漢の餌食にされ、つきまとわれ、セクハラされ、嫉妬され、で、結構大変な思いをしてます。美男美女のアドバンテージは、「本当に大事なことはいかに他人から愛されるかではなく、いかに自分が愛するかだ」という真理を比較的得やすいことくらいでしょ。デメリットも多い。ルックスだけでモテても、そればっか続いたら虚しくなるし、もっと人格的に評価して欲しいと思うでしょうしね。その意味では、ブサイクで貧乏な奴の方がいいですよ。それでも好きだと言ってくれる人がいたら、それは人格以外の何物でもないのですから。また、美男美女カップルが幸福な結婚生活を永続させ、そうでない夫婦はすぐ破綻するというものでもないです。離婚事件を手がけた経験でいうと、美醜と結婚生活の良し悪しとは全く相関関係がないです。
ところで、99%の普通の人々はどうやって相手をみつけ、どうやって結婚できているかというと、上に述べたように、その昔は社会的圧力という大波があったので、波に乗っていれば自然と結婚できた。というか、させられた。だから、今の年輩の世代の人達だって、今の時代に若い時期を過ごしたら非モテになっていたという可能性は大アリでしょうね。
もう一つ、「勢い」と「なりゆき」でしょう。男女関係とか結婚とか、あんまり考えてやるような事柄ではないです。そんなこと不可能なんじゃないかなあ。あれはもう自然現象だから、いちいち考えながらやってると逆に出来なくなりますよ。例えば、人間の喉は空気を送り込む気道(肺にいく)と、食べ物を飲み込む食道があり、口という入り口は一緒だけど、内容物によって気道を開けたり、食道を開けたりしています。これは自然の身体反応なので、別に意識せずに出来ていますが、これを意識しながらやれといったら難しいですよ。あ、これは空気だから気道を開けなきゃ、あ、これは食道だなんて考え込んでたらムセてしまいます。歩くときだって、右足を出し、地面に着地した時点から徐々に体重を右足にかけ、左足の荷重を減らしつつ上にあげ、前方に振り出し、右足よりも先の地点を目指し、、、なんて考えながらやってたらコケてしまいます。
非モテもそうですが、考えすぎちゃう?って気がします。考えたり、こだわったり、頭でっかちになってるから、なにをするのもギクシャクして、それが異様に不自然なオーラになって身体から発散され、それで異性を遠ざけているのではなかろうか?
と、ここまで書いて、とてもじゃないけど終わらないことが分かりました。ここからが本題!みたいなもので、長くなるので続きは次回です。矛盾するようなこと書いて今回は終わらせときますね。
まず、人間なんて普通にしてたら異性関係なんかデキます。普通にしててデキなかったら人類絶滅してます。デキるように最初から作られてます。それに過去何千世代にもわたる強烈な自然淘汰の末に僕らがいるわけであり、僕らは一人残らずモテ系の子孫です。ただし、のべつまくなしデキるわけではないです。そんなの一生に何回もあるかどうかです。だから平常状態において異性関係が生じないのは、これはむしろ普通。そんなに男女が行く先々でデキてたら世の中ワヤになってしまいますわ。山手線が一周するとカップルが百組生じて、、なんてこたあないの。そんなことになったら、各家庭で浮気だ不倫だで血の雨が降ってます。どの家の押入れにも腐乱死体が隠されてたりします。そうなってないのは何故かというと、話は簡単、皆そんなにモテないから、です。というわけで、普通にしてたらモテるんだけど、普通の状態ではモテないのが当たり前という、なんのこっちゃ?みたいなところで終わっておきます。以下次号。
文責:田村
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