今週の1枚(06.11.20)
ESSAY 285 : 「非モテ」について(4) 〜「周囲にいい異性がいない」とお嘆きの貴兄/貴女に
写真は、Bondi JunctionのWestfieldショッピングセンターのフードコート
第一回、第二回、第三回に引き続き、「非モテ」について思うところを書きます。
書くべき内容を簡単にリストアップしておきましたが、
@ まず、何らかの集団に入っていること、入っている集団は幾ら多くても良いこと。一目ぼれなんか事実上ありえないと思うこと
Aその集団の中で、どんな形であれ「ナンバーワン」「オンリーワン」になること。どんな基準でもいい
B自分の中に異性要素を取り込んでいくこと。ひきつけ合う本質は異質性だけど、とりあえずのインターフェイスは同質性
ここまでは前回までに書きました。以下、
C「消費」ではなく「生産」であること、「需要」ではなく「供給」であること、「購買」ではなく「栽培」であること
D自分の人格のストレッチをして柔軟性を増すこと、どのようにでも変わりうる自分になること
Eその為には経験量が必要だけど、それは何も恋愛経験である必要はないこと
F性欲関係、恋愛ごっこ系は切り離しておくこと
Gとにかく過大な期待はしないこと、短絡的に考えないこと
ですが、FGは別に説明不要でしょう。C〜Eは根は同じことなので、ひっくるめて書きます。
ものすごく大雑把に言っちゃうと、大体モテないとか、異性経験が少ない人っていうのは、自分で動こうとも、変わろうともしてない人が多いように思います。「いい男(女)が周囲にいない」という普遍的な悩みがあるわけですが、おおむね非モテ系の人ほどこういうボヤキをする傾向が高い。「いい異性が周囲にいない→だから異性関係が出来ない」と言ってる人は、Please, think twice、もう一回考え直した方がいいです。特に以下の二つの点でスクルータナイズ(精査)しなおした方がいい。
一番目は、そこでいう「いい男(女)」の意味です。なにをもって「いい」と考えているわけ?まあ、一般的にはルックスとか、性格とか、収入とか、知性とか、或いはそれらの総合評価なのでしょう。しかし、そんなもん、bullshitですわ。見た目で一体どれだけのことがわかるというのか。あなただって、自分のことを見た目だけで評価されたら不本意でしょうが。それに、「どういう人か」なんてのは付き合ってみないと分からない。それどころか付き合っても分からない。結婚するところまでとことん付き合ってもまだ分からない。分からないからこそ、世の中には離婚という現象があるわけでしょ。
それに、人間の欲求というのは刻々と変わります。冬になれば暖かいものが欲しくなり、夏になれば冷たいものが欲しくなる。激務で疲弊してるときは安らぎや癒しが欲しくなり、退屈で死にそうなときはエキサイティングなドラマが欲しくなる。茶飲み友達のような静かな関係が欲しいときもあれば、ひたすらケダモノのようなセックスがしたくなるときもあるでしょう。相手に対して家庭的な温かさを求めたい気分のときもあれば、お互い衝突しながらも高めあうような刺激的な関係が欲しいときもある。だから、「いい男(女)」の「いい」という基準もまた、刻々と移りゆきます。
また、仮にルックスも抜群、知性、性格、全てにおいて素晴らしい異性がいたとします。見た目ほど本当に素晴らしいかどうかは前述の通りアテになりませんが、それはさておき、「キター━(゜∀゜)━!!!!」と思える人がいたとします。でも相手にだって意思はあります。相手が「いい異性」であればあるほど、競争相手も増えるでしょう。あなたが相手から選ばれる現実的な可能性がいったいどれだけあるというのか?あなたがこの世界の絶対的権力者で、万人があなたに絶対服従してるというなら話はわかりますよ。ジンギス・カンとか、秦の始皇帝だったら、「いい女(男)がいない」とボヤくのも許されるでしょう。この世の全てのモノは自分のモノであり、存在=所有なのですから。そうでない人間がボヤいてたって、何様?ってなもんでしょう。
さらに言及すれば、素敵な異性に振り向いてもらえるという肝心な部分に自信がなかったり、フラれるのが恐くてトライすらしないのであれば、「いい異性」なんか居ても居なくても同じじゃないですか。居なかったら何も始まらず、居ても今度はこっちがビビって何もしないから何も始まらない。結局何も始まらない。
大体、モテもしない奴ほどストライクゾーンが狭い傾向があります。モテる奴ほど、わりと何でも来いって感じで守備領域が広い。もともと異性に好かれる可能性の高い奴が、女子高生から熟女までシャットアウトすることなく門戸を広げてれば、それは異性経験は豊富なるでしょう。逆に、もともと異性に好かれる可能性が低いくせに、あれはダメ、これはダメとストライクゾーンを狭めていけば、異性関係が発生する道理がないです。
大事なのは、なぜモテる奴はストライクゾーンが広く、モテない人は狭いのか?です。いや、本当にそうだという信頼すべき統計や資料があるわけでもないのですが、そのように言われる場合が多いし、僕の個人的な経験世界においてもそうです。そこの真偽はさておいても、モテない人ほどストライクゾーンが狭いという仮説には、多分こうなんじゃないかな?という説明原理があります。
ストライクゾーンが狭いというのは、要するに、食わず嫌いや好き嫌いが激しいということでしょう。モテに限らず話を一般化すれば、経験の浅い人間ほど、食わず嫌い、好き嫌いが激しいと言ってもいいでしょう。例えば、一般に子供のほうが大人よりも好き嫌いが激しいです。やれピーマンは嫌いだとか、ニンジンは食べられないとか、ウダウダいってるのは総じてコドモであり、30歳過ぎて「僕、ピーマンはちょっと、、」とか言ってる奴がいたら(アレルギーは別としても)、「コドモみたいな奴だな」と思われるでしょう。また大人が喜ぶ”珍味系”って、コドモは大体嫌いな場合が多い。ウニとか、数の子とかね。なんでコドモの方が好き嫌いが激しいのか?なぜ大人になると受容できる味覚が増えるのか?あるいは社会に出てない学生さんの方が就職に対する要求はシビアです。有名な企業じゃないとイヤとか、カタカナ系の仕事じゃないとイヤとかね。また東京や大阪に出てきたばかりの人の方が、賃貸物件について法外な要求をします。京王線沿線でないとイヤとか、駅から徒歩3分でないとイヤとか、5階以上の高層フロアでないとイヤとか、それでいて家賃は3万円以下とか夢みたいなことをほざく。
同じようにモテない奴の話を聞いてると、「てめえ、何様のつもりだ?」とブン殴ってやりたくなるような要求水準の高さだったりすることがママあります。超美形でなくてもいいから、目がパッチリして、可愛らしくて、ナイスバディで、料理が上手で、ボクの言うことには何でも従ってくれて、どんなときにもボクを立ててくれて、、、、大体このあたりまで聞いてるうちに阿呆らしくなってきます。男性に対する要求水準もまた同じで、有名大学を出ていて、友達に紹介しても恥ずかしくないだけのイケメンで、趣味も結構本格的で、でも将来が安定していて、家事も積極的にやってくれて、当然他の女の子からもモテるんだけど私一途で、、、とか。
もしもこの世に、そーゆー男と、そーゆー女が増えていけば、そりゃあカップリングは難しいでしょう。恋愛難民も大量発生するでしょうよ。接点ないもんね。確かに「周囲にいない」って現象も起きるでしょう。
要するに言ってることがコドモなんだけど、なぜコドモだと要求水準が高くなるのか?これは、前のエッセイでも書きました。えーとどこだっけな、ESSAY 244/原理的対等とオトナ・コドモ だったかな。簡単に言えば、「GIVE&TAKEで、自分と他人の関係において、与えるものの方が与えられるものよりも等しいかそれ以上になったらオトナ」だということです。コドモは、他人からもらうことばっかり考える。なぜか?弱いから、未熟だからです。弱っちーから、他人からよくしてもらわないとすぐ死んじゃう。それがコドモ。
恋愛というのは、(なんでもそうだけど)理想なのは公正で対等であることです。そりゃ自分ばっかり相手に貢がせていれば、自分的には最高ですが、相手はたまったものではない。だから誰からみても公正なのは、対等平等ってことでしょう。つまり、GIVEとTAKEが等しいというのが、成熟した理想的な関係でしょう。また、一般的にGIVEとTAKEがトントンになって、バーター可能になり、話が前に進むというパターンが多いです。住居について、ステイタスのあるエリアで、駅から近くて、広くて、清潔で、、、と要求水準(TAKE)をあげたら、それなりに水準の高いGIVEをしないと契約成立とはならない。つまり、家賃30万円と聞いてポンと払えなければ、要求してても意味がない。異性に対して高い要求をつきつけるならば、相手に対して同等以上のGIVEが出来なければ契約成立とはいかない。
これ、クソ当たり前のことなんですけどね。多少の例外現象や運/不運はありながらも、大雑把に言っちゃえば、それがこの世のオキテでしょ。それを当然の前提として消化できて、物事を考え、実行していける人を「大人」と呼び、正規の取引では無理だから、なんとか掘り出し物とかバーゲンとか、ラッキーを期待してばかりの人は、まだコドモだと思う。余談ですけど、ラッキーを期待するようになったらもう終わりっていうか、敗北の始まりなんでしょうね。まあ、ラッキーと希望とは違うけど。ここを言い出すと話が長くなるからカットします。
経験が浅いとどうしてストライクゾーンが狭くなるのか?について、未熟なコドモはなんでも欲しがる「クレクレ君」だから、という理由のほかに、「世間知らずだから良さが分からない」って理由もあるでしょう。人間、知らない物事は想像力で補うしかないけど、想像はしょせん想像に過ぎない。イメージの世界で遊ぶようになる。でもって、このイメージというのが、商業主義の影響なのか、やたら小奇麗で非現実的なマンガみたいなイメージだったりします。イメージというのは極端な方が分かりやすいし、広告を打つにしても「絵になる」方が訴求力がある。「ホームステイ」とかいえば、緑の芝生に白い家、優しそうな一家の真中にあなたがピースサインをしている写真なんかがフィーチャーされるわけです。そういう局面もないわけではないけど、それが全てではない。というか、そんなのごく一部に過ぎない。非現実的に美しく撮影されたキャンパス写真をフィーチャーした大学のパンフレット、ありえないくらい魅力的な業界のスナップ写真を満載した専門学校やキャリア専門誌。「恋愛」についても同じです。しかし、未体験の人は、そういう「情報」をもとに美しいイメージを紡(つむ)いでいくのでしょう。それがどれだけ非現実的なのかは、あなたが行っていた大学なり会社なりの説明パンフレットを今再び手にとって見たらいいです。「嘘くせえ」って思うでしょう。
同じように恋愛経験の少ない人は、非常にわかりやすい、美しいイメージを描こうとする傾向がありますし、それだけを求めてしまう傾向があります。出会い系の商業広告の写真みたいな感じね。その理想モデルからちょっとでも外れると、「そんなのダメ!ありえない!」って激しい拒否反応を示したりもします。
モテる人はどうして何でも来い!的に全方位外交を展開しているかというとか、彼らは経験的に知ってるんですよ、物事や人物の両面性を。AにはAの良さがあり、BにはBの良さがあるという具合に、どんな物事、どんな人にもそれなりの「味わい」があり、それなりにチャーミングなところがある。また、Aという良さには、Aダッシュという欠点も不可避的について廻るということも知っている。例えば、年上の人には、しっとりした落ち着きや、包容力があり、それがギスギス自我ばかりを主張してる年下よりも魅力的に映る場合もあるでしょう。しかし、ピキピキした生命力に欠ける部分や、狂気のような純粋さが乏しいって感じられたりもします。それに実際に付き合いはじめてしまえば、年齢や見た目、その他分かりやすい客観的特徴なんか、それほど意味を持たなくなります。親兄弟、家族が好きな人は多いでしょうし、大切に思うでしょう。でも、自分の家族が好きなのは、その家族が美形だからとかいうレベルの話じゃないでしょ?恋愛だって基本的にはそれと同じことです。
この原理は、オーストラリアに来てシェアを探すときにも相似系のように現われます。大体シェアというのは最初の一軒目に難産します。なかなか見つからない。でも二番目以降のシェアになるとあっさり決まります。なぜか?最初は未経験で、かつヒヨワだからであり、二軒目以降になると物事がよく見えるようになり、また自分も強くなってるからです。一軒目のときは、シェア(住まい)に全てを求めようとします。立地も良くて、シェアメイトの人柄も良くて、英語が出来ない自分にも優しく話してくれて、清潔で安全で、家賃も安く、、と、メチャクチャ要求水準が高い。大体、まあ、数件から十件くらい見て廻っていけば、「そんなシェアねーよ」って現実がわかってきますから、適当なところで手を打つようになるでしょう。その「ねーよ」って現実を理解するまで時間がかかりますよね。
そして一軒目のシェア生活を通じていろいろなことを学びます。シェア探し入門のところでも書きましたけど、誰だって美しい家、清潔な部屋
の方がいいけど、出来れば自分の自宅の部屋と同じくらいの乱雑さの家がいいです。なぜなら、それが自分の自然なスタンダードだからです。自分の部屋は足の踏み場がないくらいとっ散らかってる人が、なまじ neat and tidy な家に同居しようものなら、それと同じだけの要求水準を突きつけられることになります。綺麗な家に住んでる人というのは、それだけ綺麗好きな人なわけで、怠惰なあなたが許せなくなるでしょう。食べたら食べっぱなし、読んだら読みっぱなしみたいにしてると、ガンガン文句を言われることになります。24時間文句を言われます。たまらんよ。だから、自分の部屋と同じくらい汚い家にするといいよというコツが出てくるわけです。
また未経験であるゆえに広告の文句からあれこれ推測を逞しくし、一軒電話するのに30分くらい熟考したりします。妙に安過ぎるから何かあるんじゃないかとか、値段が書いてないから怪しいとか、1対1のシェアだと息苦しいのではないか、5人以上のシェアだとうるさいのではないか、場所が非常に遠いのではないか等など。しかしそんなの考えるだけ時間の無駄です。30分必死に考えて電話したら"It's gone゛と言われてもう物件は誰かに取られてしまっている可能性もあります。というかその確率の方が高いです。だとしたら30分考えていた時間はまるで無駄です。だから考えるヒマがあったらもうバシバシ電話して、あれこれ想像を逞しくして悩むくらいなら、現物を見てしまった方が遥かに確実です。
これが経験豊かになってくると、いろんなパターンのシェアがあることがわかってきます。ちょっと頑固で飲んだくれのアイリッシュのおじいちゃんとの二人暮しは、一見とっつきにくいようだけど、慣れてしまえば「いい味」だったりするのも分かります。サーファーばかりの宿もそれはそれでスコーンと突き抜けていて楽しいこともわかります。男女だけのシェアでも、「この人だったら絶対に大丈夫」と思えるような人物もこの世に存在することもわかってきます。さらに学校や仕事が始まり、アクティビティが盛んになれば、シェアに全てを求めなくなります。自分自身が飲んだくれて帰宅して、バタンキューで寝るだけのことだということもわかります。これで友達や恋人のところに点々と寝泊りするようになると、自分のシェアなど荷物の置き場であり、コインロッカーに過ぎないというのもわかってきます。足腰も強くなり、30分くらいだったら鼻歌まじりに歩けるようになるし、土地鑑もバスの便もノウハウがわかれば遠く見えたエリアも至近距離に見えるようになります。
かくして、一軒目のシェア探しのときは数日かけて半泣きになって探していた人も、二軒目以降になると、特にラウンドという武者修行帰りになると「平べったくて雨露しのげたらOK」くらいまで要求水準が下がってきます。考える前に身体が動くくらい獰猛な行動力を身につけてきています。だから、ほんと、30分くらいで探し出してきてしまったりします。道端を歩きながらバシバシ電話し、ラウンジシェアで寝袋で寝るだけ、1泊10ドルというようなシェアでも「全然OKですよ!」と日焼けした顔をほころばしたりします。
このシェア探しのパターンは、恋愛においても同じくあてはまると思います。経験が乏しいから勝手に想像を逞しくし、勝手にビビったり、勝手に憧れたりするのであり、慣れてきたらそんな不毛なプロセスはパスできます。経験が乏しければ乏しいほど、物事は恐ろしく見えます。その気になってみれば何でも恐い。部屋の壁の汚れや天井の木目すらも、幽霊の顔に見えたりします。美人で才女だったり、優秀でハンサムな男性がいても、最初は「私なんか相手にされるわけない」って尻込みしますが、経験を積んできたら「そんなん、わからないじゃん?」でどんどん声をかけられるようになる。40歳過ぎて独身だからきっと何かあるとか、バツイチだからどうのとか、きっと性格がキツそうとか、ルックスがダメだから許せないとか、そんな下らないゴタクも並べなくなる。なぜなら、そういうアサンプション(仮定)って端的に間違っているってことも分かるし、それもこれもコミュニケーションを取ってみないと本当のところは分からないからです。
かくして下らない「偏見」は少なくなる一方、行動力はどんどんついてきます。ここでいう「行動力」というのも、とにかくナンパして、親密な関係に最短距離で進むことだけを意味するわけではないです。偏見が薄くなれば、その人なりの良さが見えるようになるから、コミュニケーションすること自体に喜びを見出せるようになります。単に話をするだけでも楽しいし、一緒に飲みにいったとしても、別に恋愛関係にいたらなくてもそれでも十分満足できたりもします。要するに、目の前にいる人物をストレートに見ることが出来るし、恋愛関係なりベッドを共にすることが出来たら成功で、それ以外は失敗という視野の狭い基準も持たなくなります。
一個の人間が他の人間に求めることは、あるいは一個の人間が他の人間にしてあげられる最大のGIVEは、「正確な理解と受容」だと思います。目の前にいる人をちゃんと見つめること、その人となりを出来るだけ理解しようとすること、勝手に自分の基準を押し付けて断罪しないことでしょう。まあ、神様でもない限り完璧にこなせるわけはないけど、自然体で出来るだけその方向に近づけるようにしていたら、物事そう悪い方向に進まないでしょう。年齢が20歳くらい離れていてもしっくりいってるカップルはいるし、全然モテてる人もいます。同じような年齢層の二人がいたとしても、片や恋愛の対象としては論外のスケベオヤジとかくたびれたオバサンとして毛嫌いされ、片や「足長おじさん」的に慕われる人もいます。どこが違うか?というと、必ずしもルックスや身体的特徴という外部条件だけはない。自分の基準(偏見)を押し付けているかどうかって部分が大きいと思いますよ。「足長おじさん」が何故好かれるかというと、別に足が長いだけではないです(ちなみに西欧では足が長いことは必ずしも美点ではない)。それは夢見る少女の真摯な夢を、ちゃんと真剣に聴いてあげるからじゃないですか。
経験が乏しいと、偏見バリバリで勝手に想像して、勝手に自分で計画を立てて、勝手に自分で計画を遂行するようになります。目の前の相手はその計画を実行するためのワンピース、素材に過ぎません。つまりは目の前の人物をストレートに見ていない。自分の脳内世界に遊んでるだけです。これは対人関係としては最悪というか、相手に対する侮辱でしょう。嫌われたり、悪感情をもたれても無理はないですよ。「女子とはこういうスチュエーションに弱い」「こういう言葉を待っている」なんて、どっかの本で読んできたようなことを、目の前の現実も理解できないまま囁いたりしたとしても、感銘力がないです。逆に、「女は家庭に入ってるのが一番幸福なんだ」「タバコを吸う女は許せない」みたいなことばっかり言ってると、まず嫌われるでしょうね。で、こういう奴は嫌われた方がいいんですよ。下らない固定観念に取り付かれてる人は、嫌われてその愚かさに気付いた方が本人のためですから。
ことほど左様に、未経験というのはネックになります。全ての局面で物事が悪い方向に進んでいってしまう。そして、この段階を克服するのは、イチにも二にもキャリアであるということになれば、ぶっ太い行動指針が導き出されます。なにかというと、「とにかく、やってみ」ということです。ウダウダ言ってないで、身体を動かせ、経験を積めってことです。
妙な経験主義に陥っても却って良くないとかいうのもただの理屈であり、経験主義に陥るのはそれは経験不足だからです。経験というのは積めば積むほどこの世界が予測不能であるという真実に突き当たるでしょう。もし、「Aだったら絶対Bである」という経験上の法則を導いている人がいたら、それは経験不足なのだ。経験してたとしても同種反復の経験ばかりで、バラエティがないだけです。大企業にしか勤めたことがない人が、経験を振りかざしてもそれはこの世の一部しか見てないのだから法則化なんか出来ないはずです。まあ、経験至上主義に走るつもりはないですし、1の経験から10の智恵を引き出せる人もいるだろうし、100の経験を積んでも何も引き出せない人もいるでしょうが、同じ人間だったら学ぶ機会が多い方が賢くなる可能性は高いでしょう。当たり前のことですけどね。
ということで、「いい男(女)が周囲にいない」とお嘆きの貴兄/貴女に申し上げるべき、最初の一点は、そこでいう「いい」ってどういう基準で言ってるの?ってことです。独り善がりの思い込みや偏見でストライクゾーンを狭めて、自分の首を締めてませんか?ってことですね。
申し上げたい第二の点は、「周囲にいない」って点です。周囲にいなければ居る所まで出かけていけばいいじゃん。あなたは植物か?足がついてるんだから、どこにでも行けるでしょうが。「周囲にいる」ってのは素晴らしい環境のようで、言葉を変えれば、「手近なところで間に合わせる」ってことでもあります。それでいいの?
「仕事が忙しくて恋愛なんかできない」というのも、まあ事情は人それぞれでしょうけど、あんまり言い訳にならないと思います。個人的な経験でいっても、他人を見てても、忙しい人の方が恋愛経験豊かだったりしますからね。自分でも、一番忙しかった時期が、一番盛んだったように思います。ヒマな時期は却ってダメですね。「仕事は忙しい人に頼め」と言いますが、忙しい人はギヤが最大限に廻ってるから単位時間当りの仕事量が多い、もうチャッチャと片付けていってくれる。ヒマな人は、エンジンが冷えてるから、始動させて、暖機運転させるまで時間がかかるし、それ自体が面倒臭いから結局何もやらないって場合が多い。だから最初からエンジンが高速回転してる人に頼んだ方が早いという。恋愛だって同じ原理であり、「忙しいから」と言ってる人が、じゃあヒマになったら恋人が出来るのかというと、それは怪しい。
総じていえるのは、「周囲にいい異性がいない」というのは、「近所にいいスーパーがない」と言ってるようなショッパーズ感覚、なんかお惣菜みたいに、出来合いのモノをそのまま買ってくるかのようなニュアンスがあることです。「理想の恋人」という完成された商品がこの世のどっかにあって、どっかの店の陳列棚に飾られていて、あなたが来るのを待っているかのような感じ。そんなのオトギ話でしょ。
同じオトギ話だったら、花咲かじいさんとか、触れるものみな黄金になるというミダス王の方がいいですよ。周囲に花が咲いてなければ、あなたが花を咲かせればいい。いい異性がいなかったら、「いい」異性に育て上げるのはあなたであるってことです。
僕自身ののべ17年の2回の結婚経験と、当然のことながらそれを上回る交際経験(人数&のべ期間)でいいますと、@恋人が出来るまで、A恋人から結婚まで、B結婚した後の3つの時期があるとしたら、エネルギーの80%以上はBに集中します。結婚してからが大変なんですよ。もう血みどろの死闘というか(^_^)。結婚がゴールインなんてのは大嘘で、結婚(入籍の有無はともかく)こそがスタートラインで、それ以前の段階は単なる「予選」に過ぎない。@Aの段階なんか、どうでもいいとまでは言いませんが、体育の授業のフォークダンスのペア探しというか、「適当にそのへんのをつかまえてくりゃいいんだよ」「話はそれからだ」くらいの感じです。さらにC子供が出来たあとの育児期間、さらにD離婚した後の育児期間と難易度の高いステージが待ってます。
これは何も@A期間を馬鹿にしてるわけではないです。全期間を通じて一番盛り上がれる時期でもあるし、振り返ってみれば「神話」「伝説」レベルの神聖な世界になりますよ。でも、実際に苦労するというか、エネルギーを真剣に注ぎ込むのは、それ以後のお互いの個性の「擦り合わせ」をする段階でしょう。そして擦り合わせをする過程で、お互いに人間的に成長していく過程でしょう。
人間なんかワガママ放題、夢満載、偏見バリバリな存在です。そういう個体が二個、一緒に暮らしましょうというのはハンパなことじゃないです。いたる局面で自我のトゲトゲが接触し、スパークし、核融合を起こし、爆発したりするでしょう。ウニとウニの抱擁みたいなもんです。近づけば相手を傷つけ、自分も傷つく。だから、そのままの状態では安定できない。故に、自分も相手も変わらねばならない。大変なのはこの自我変革プロセスです。トゲ抜き作業です。自分の大事な価値観や世界観を一部殺すわけですから、キツイです。でも、乳歯が抜けて永久歯が生えてくるように、成長とはそういうことなんでしょうね。
だから思うのですけど、人間的にBの段階に進めるだけに成熟した人間がAに進める、Aのステージに進めるだけ成熟したら@が成就するという具合になってると思うのですよ。だから@の段階においては、くだらない偏見を少なくし、自分の勝手なイメージの世界にだけ惑溺するのを止めるという準備段階が必要であり、そこがREADYになったら、うまくいくんじゃないのかなってことです。
なお、補足しておきますが、別に@→Dに進むにしたがって人間的にエラくなるとか、そういう序列的なことを言ってるわけではないです。Bは@よりもエラいとか、そーゆー下らない階級意識はないです。また、人はすべからくこれらの段階を踏めといってるわけでもないです。恋愛至上だとも思ってません。恋愛よりも大事な、あるいは同等レベルに大事なこともこの世に沢山あります。マザー・テレサなんか@−Dの段階どれも踏んでないと思われるのですが(少なくともB以降)、それが彼女の人生の価値を減じるものではない。
おそらくは、もっと大きな原理があるのでしょうね。人は最初、一人で夢見る存在だったのが、外界世界と接触することによって傷つきもするが成長もするというという物語があるのでしょう。恋愛関係というのも、その大きな原理のひとつの発現形態に過ぎないのでしょう。
以上が、C「消費」ではなく「生産」であること、「需要」ではなく「供給」であること、「購買」ではなく「栽培」であること/D自分の人格のストレッチをして柔軟性を増すこと、どのようにでも変わりうる自分になること/Eその為には経験量が必要だけど、それは何も恋愛経験である必要はないこと、ということの内容でした。内容というか、まだサワリくらいしか書いてないかもしれませんが。
文責:田村
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