今週の1枚(06.11.27)
ESSAY 286 : 「非モテ」について(5) 「たまたま」の自分、「どうせ」の自分
写真は、Iced Coffee。オーストラリアでは、日本にある「アイスコーヒー」はありません。アイスド・コーヒーはありますが、この写真のようなコーヒーフロートのような物体になってしまいます。すごい甘いのですが、製造過程における特徴的な違いは、「氷で冷やすことはしない」「そのかわりアイスクリームで冷やす」ってことです。こちらでは、マクドナルドやチェーン店などでは別ですが、基本的にコーヒーでもジュースでも氷で冷やす、氷で増量するということはしません。日本にきた外人さんが氷で増量されたジュースを見て激しく怒る(ウォルフレンの著作にも書いてあった)ことがよくあるそうですから、これは別にオーストラリアだけではないのでしょう。
氷を使わず、エスプレッソの濃いコーヒー(オーストラリアのコーヒーはイタリア系のエスプレッソ系がメイン)とアイスクリームを混ぜて冷やして作るのがこちらのアイスドコーヒーです。さらに、クリームのトッピングも"じゅわんくりむ?Do you want cream?"って聴いてきたりしますので、YESと答えるとこの写真のようになります。クリームトッピングは大体無料です。
最初は「ゲゲ!こんな甘ったるいもの飲めるか!」と思うのですが、これはもう最初からこういう飲み物なのだと割り切るべし。そう思って飲んでると大好物になります。オーストラリアにいるとなぜか甘いものがOKになります。酪農大国だからアイスクリームなどの乳製品が美味しいってこともありますし(安いし)、なんだかんだで身体をよく使うので栄養補給として美味しいということもあるのでしょう。苦いのを飲みたいときはパブにいってビールを飲みましょう。真昼間っから飲んでても誰も何もいいません。
姉妹品にアイスド・モカ、アイスド・チョコレートというのもあります。最初にグラスの内側に(ブラック)チョコレートを塗っておくのですね。これも美味。ただ、これらのアイスド系は、普通のカプチーノ以上に店によって当たり外れが大きいです。まずエスプレッソの良し悪しがありますが、それ以上にアイスクリームの良し悪しがあります。イタリア系の町ライカードあたりにいくと、コーヒージェラートとチョコレートジェラートをミックスしてくれたりもします。美味しいですよ。長い注釈ですみません。
この種の話を始めたらネタなんか無限に出てくることがわかりつつあります。ダラダラ続いております。過去の分は、第一回、第二回、第三回、第四回です。
前回は、C「消費」ではなく「生産」であること、「需要」ではなく「供給」であること、「購買」ではなく「栽培」であること、D自分の人格のストレッチをして柔軟性を増すこと、どのようにでも変わりうる自分になること、Eその為には経験量が必要だけど、それは何も恋愛経験である必要はないこと、について書きましたが、まだまだ入り口くらいで終わってます。続きです。
恋愛体験が浅い人の方が、なにかと相手について選別高くなるというか、あれこれ注文をつける傾向にあります。やれ太っている人はダメとか、ファッションセンスがダサい人はお呼びでないとか、ボクより先に起きて朝ゴハンの支度をしてくれる人でないとイヤとか、非常にピッキー(好き嫌いが激しい人)だったりします。なぜか?というのは、前回推測したように、おそらくはコドモだからでしょう。概してコドモはストライクゾーンが狭い。お子ちゃま向けの甘ったるくて分かりやすいものを好む。じゃあ、何故コドモはそうなのか?それは、経験量が絶対的に乏しいので、この世の楽しみ方のバリエーションをそれほど知らないからでしょう。
この原理は、今回に限らずこのエッセイでしばしば書いてるテーマでもありますし、APLACという「多元生活文化」のコアの部分でもあるのですが、「この世界の楽しみ方は無限にある」ってことであり、それはやってみないとわからないし、考えていたって思いつかない事(だけどメチャクチャ楽しいこと)は無限にあるってことです。
常々思うのですが、この世界のいたるところに人が住んでいて、その場所を「かけがえのないホーム/故郷」と呼ぶ人がいるということは、どんな所にも素晴らしい味わいがあるということなのでしょう。僕ら日本人から見たら、「こんなところに住めるか!」と思うような所でも、住めば都で、それなりの良さがあるのでしょう。それは日本国内でも同じ事で、例えば都会育ちの日本人からしたら、いわゆるド田舎や離島になんか住めないって思うでしょう。そりゃ最初の数日は美しい自然に感動するでしょうけど、それも過ぎれば、コンビニもない、ろくな本屋もない、コンサートを見に行こうとしたら泊りがけの旅行をしないとダメという不便さに発狂しそうになるでしょう。で、「こんな所、とても住めない!」って思うでしょう。しかし、それでもさらに数ヶ月、数年住みつづけていくと、だんだん価値観が変わってきます。最新の流行を追いかけることに何の意味があるのか?大海原に太陽が沈んでいく壮麗な美しさ。その超弩級大画面のサラウンド・ライブショーを毎日見てしまえば、以前ほどコンサートも映画も観たいとは思わなくなるかもしれません。星明りの夜の嘘のような静寂。「人工的なノイズがゼロであること」が、これほどまでに人の心を癒すのかということをも知るでしょう。最初とっつきにくいかった村の人も、慣れてきたらブラッキラボーな優しさがあるのに気付くかもしれない。こういった心理変化は、前々々回かな?に述べた「長く接していると好きになる(良いところが見えてくる)法則」ともリンクします。
同じように、世界各国の料理も、風習も、その民族の人々にとってはかけがえのないモノだったりするわけで、それを好きだという人がいる以上、そこには何らかの良さがあるわけです。ただ、自分は未経験だからそれを味わう能力がないだけの話。どんな音楽だって、どんなスポーツだって、どんな作家だって、そこにファンがいて楽しんでいる人がいるということは、どこかしら「味わい」があり、ただ自分にはその楽しさ、味わい方をが分からないだけなのでしょう。
異性だって同じことです。その「楽しさ」がわからないうちは、勝手に思い描いた異性像、砂糖でまぶしたようなお子チャマ仕様の、わかりやすい、それだけ非現実的なパターンをひたすら追い求めるでしょう。ストライクゾーンが狭いというか、ストライクになる球筋が一つしか思いつかないというか、そもそもストライクなんてあるの?という。それでも手探りで滑った転んだを続けていくと、段々いろいろなタイプの異性の様々なイイトコロと悪いトコロがわかってくるでしょう。女性のタイプだって千差万別であり、ボーイッシュな人もいれば、いわゆるフェミニンな人もいるし、政治や哲学にのめるこんでるタイプもいれば、そのあたりはぜーんぜん考えていないタイプもいる。人生の酸いも甘いも噛み分けられる人もいれば、開花前のツボミのような人もいる。スリムな人も、ふくよかな人も、活動的なスタイルを好む人もヒラヒラ系を好む人もいます。
あんまり自分自身のことを書くと支障があるかもしれんけど(^_^)、大してモテもせぬ僕ですら、例えば年齢層でいえば下は10代から上は50代までつきあったことがありますが、しばらくしてると分かってきます。要するに年齢とかパターンとかタイプって問題じゃないのね、ということが。そーゆーことじゃないのね、と。そうなるとストライクゾーンが広がるというか、今度は全部ストライクゾーンになるというか、そもそもストライクゾーンという概念が無くなります。極論すれば、入り口部分に関しては別に誰でもいいんですわ。「○○なタイプでないとダメ」とかいう拒否事由がなくなってきますから。そして、今となってみれば、どんな人でもそれなりに付き合うことは出来るだろうなーって自信はあります。人間、ある程度の経験を積んだら誰でもそうなるんじゃなかろか。どんな人にもその人なりの良さがあるんだろうし、それを見つけるのはそんなに難しいことじゃないってことも分かってきますから。まあ、強制的にお見合いとかさせられても、「なんでもいいから、そっちで適当に決めといて」って感じなんでしょうね。結婚式が初対面という昔の風習になったとしても、結構なんとかなっちゃうんじゃないかなって気もします。まあ、本当のところはわからんけど、でも、なるほどね、だから昔はこれで何とかなってたのねという合理性に頷いている部分もあるのです。もっとも、そこまでいってしまうと、逆に恋愛幻想みたいなものが無くなってますから、別にそれを欲しなくなりますけどね。
なんでこんなに変わるか?ですよね。極小から極大へみたいに、最初は「○○じゃないとダメ」と極小一点のみを許容していた人間が、なんでもOKという極大化するか?です。
色んな理由が考えられますが、一つはもともと「好きなタイプ」とかいう考え方そのものが虚構だということです。嘘とまでいったら言い過ぎかもしれませんが、これもちょっと前に述べたように(その昔ベレー帽をかぶってる魅力的な女性を見てガビーンとなった経験のある人は、その後帽子をかぶった女性に惹かれるようになるという心理実験など)、一種のフェティシズムでしょう。過去の体験に基づく心の引っかかりです。楽しみ方というか、その「良さ」がわかったということです。
僕らの心のありようというのは、要するに脳内回路の形成と増減、消長なのだと思います。まあこう言ってしまうと、魂的なスピルチャルな神聖な領域はどうなるんだ?って人もいるでしょう。そういうこともあるんだろうけど、スピリチャルな部分じゃない心/脳の領域も多いですよね。というかそっちの方が多いでしょう。だって、掛け算の九九から仕事の手順、ゲームの裏技を覚えたりするのは別にスピリチャルじゃないでしょ。機能としての脳です。
そこでは、よく使われるシナプス回路はぶっ太くなり、ハイウェイのようになるけど、あまり使われない回路は原野山林のまま。記憶でも、よく使う回路、つまり自分の名前とか電話番号は太くなり、記憶喪失にでもならないと忘れない。しかし、あれだけ堅牢な記憶を誇っていた自宅の電話番号であっても、一回引っ越して使わなくなったらすぐに忘れてしまう。あなたは中学2年2学期のときの自分の席の場所を覚えてますか?その当時は絶対に忘れてなかった筈なのに。ピアノの複雑なパッセージ、空手の連続技なども、普段使わない筋肉を使わない順序と方法で使うから最初は全然出来ないけど、反復継続することによって、パターンをぶっ太くし、やがて一瞬の遅滞もなく滑らかに動けるようになる。全てのスキルの上達は、とどのつまりは反復練習であり、それは脳内回路をぶっとくするということでもあります。
しかし、人間の脳はコンピューターほど正確ではないです。その不正確さ、気まぐれさが人間の脳の真に偉大なところだと言われたりもするらしいけど(よう知らんけど)、単純に頻度順に回路が太くなるというものでもないらしいです。印象の深さというものもあるから、一回しか経験したことがなくても、千回分に相当するくらいガビーンとくることもある。また、正確性にも問題がある。学生時代彼女がいなくて悶々としており、クラスメートのセーラー服がやたら眩しく感じられた人は、異性への渇望感がセーラー服という象徴にすり替えられ、何年経ってもそれが抜けず、結婚生活でも奥さんにセーラー服を着てたりして盛り上がるとか(^_^)。前述の帽子の女性の例でも、最初にガビーンとなった女性が素晴らしかったのは別に帽子をかぶってるからだけではなく、容姿容貌や全体の雰囲気にガビーンとなったと思うのですが、それらがひっくるめて帽子という記号に象徴されてしまうのでしょう。
この種のすり替え、連想の拡大、飛躍、固着は人間の脳味噌のお得意な分野でもあります。Aということを思いながら、Aダッシュを連想するとかいうならまだ話はわかるけど、Aを考えるとどうしても何の関係もないBを思い出してしまう。例えば、新聞のクロスワードパズルをやってるとき、なんだか知らないけどなにかの曲、それは昔聴いた曲でもCMソングでもいいですけど、それがエンドレスで鳴り続けてしまうって経験はないですか?特定の物事を思うとき、必ずそれとセットになって出てくる風景ってありませんか?しかも、その風景というのが、小学校のときに通っていた通学路の風景とか、全く何の関係もないものだったりします。その飛躍や固着の激しさと非論理性は、例えば、あなたが睡眠時に見ている夢の「なんでそうなるの?」という荒唐無稽なシナリオを思い出してみたらわかるでしょう。かなりブラックボックスが入ってるんですな。
忘れえぬ風景も、印象も、フェティシズムも、そして好みの異性のタイプも、このようにブラックボックス経由でビヨーンと飛躍した脳内回路の産物なのでしょう。ということは、僕らが日頃思ってる好き嫌いも、「Aとはこういうもの」「Bとはこういうもの」という世界観も、ひいてはそれらの個別データーを処理する自分の演算パターン(「ものの考え方」)も、それらを統合して生じてくる自分の「人格」というものも、一つ一つ個別データーを検証していけば、「なんでそうなるの?」という飛躍や固着がいたるところに混入しており、早い話がかなりメチャクチャだったりします。
子供の頃に通った道にある家の犬がいつもうるさく吠えていたので「犬が嫌い」とかさ。しかし、考えてみれば、そんな一例だけで簡単に好き嫌いを決めること自体ナンセンスでしょう。人間と犬の接点は数千パターンの諸相があるのであり、それこそ「フランダースの犬」みたいな物語もあるかと思えば、飼ってた犬一匹一匹に全て個性があります。ブリーダーのように数百匹の犬を知り尽くした上で「犬が嫌い」というならともかく、数十年前の一時期の体験だけで「嫌い」という結論を出してしまっていいのか?っていえば、そこはまあ個人の趣味の問題ですので「良い」としても、その判断は論理的、合理的なのか?といえば全然合理的じゃないですよね。でも、僕らの頭の中ってそんなことばっかりでしょう?
ということは、僕らが何となく思ってる好みなんか、そんなに合理性がないというか、いろんな偶然が積み重なって「たまたま」そう思ってるに過ぎないってことになります。以前髪の長い女性と付き合ってヒドイ目にあったから、もう髪の長い女はコリゴリだとかさ。でも、髪の毛なんか切ったら終いだし、3ヶ月もあったらかなり伸びます。自分の髪を長くしようと思う女性は、往々にしてこういう人格特性をもっていて、、というのは、大雑把には言えるかもしれないけど、大雑把過ぎ。それって「日本人の女性は」と一括りにしてるくらい大雑把であり、そこまでアバウトになってしまったら基準としては無意味でしょう。
余談ですが、恋人を選ぶ際に「○○という女性は」というカテゴライズをすることに意味があるのでしょうか?カテゴライズというのは、大量処理や仕分け処理をするようなときには有効です。郵便番号とか、オーディションで数千人の応募者を振り分ける作業とか、マーケティングでのアンケート集計処理とか。しかし、恋人とか結婚相手なんてのはたった一人選べばいいわけですよ。全員を適材適所に振り分けなくてもいいわけです。一人だけ選べばいいです。目の前の一人を好きか嫌いかだけでしょうが。だったら別にいきなり「全体評価」「総合評価」でいいでしょうが。いや「俺はモテてモテて、恋人候補だけでも3650人くらいいて、毎日整理券を発行してるのでプリンターのインクがすぐに無くなって困るんですわ、ガハハ」という人もいるかもしれないけど、普通はそうじゃないよね。そもそも選べるような立場なの?ってところにいるのが普通でしょ。だから、「タバコを吸う女はどうも・・・」とか言ってる場合じゃないでしょ。またそんなしょーもないカテゴライズをしてるからモテないんだよって。
このように脳内ブラックボックスを通過して僕らの思考回路が「たまたま」作られているのだしたら、単なる好き嫌いだけではなく、自分自身の人格、世界観も、自分で思っているほど堅固なものではないと言えます。僕らは意識的/無意識的に、「自分はこういう人間」と思っているのですけど、それって正しいの?と。これもかなり思い込みと偶然で、「たまたま」そう思ってるだけに過ぎない。なんかの拍子にコロッと人格なんか変わります。そして、僕らは日々新しい体験を積み重ねています。僕らの人格や嗜好を決定する体験DATAはこうやってる瞬間にも増えていき、そして瞬間ごとにアップデートされているわけです。今日これから何かの出来事が生じて、今まで何の興味もなかった領域に目覚めているかもしれません。そうとは意識しないうちに、それまでと180度モノの見え方が変わっているかもしれません。180度とはいかないまでも、12度くらいは変わるかもしれない。
自分は、明るい/暗い、社交的/内向的、書斎派/アウトドア派、洋風志向/和風志向、手先が器用/不器用、アートセンスがある/ない、料理が上手/下手、スポーツが得意/不得意・・・こんな分類は数百とあるでしょうし、よく適性検査やフローチャート式占いなんかにも出てきますよね。でも、こういうのって答えるのが難しいんですよ。最近はもう全然答えられないですね。どっちも50:50くらいになっちゃって、「どっちかと言われてもなあ」という。 しまいには「下らない事を質問するんじゃねえ」って腹が立ってくるという。まあ、これはその思ってる内容が正しいかどうかではなく、「自分は○○だと思ってる人は」ってことで分類していくんでしょうけど。
今この瞬間自分がどういうタイプかというのは直感的に答えられますよ。でも本当に自分はそうなの?と深く考えたら分からなくなります。それに人間長く生きてますと、「うーん、10年前はそうだったけど、今は違うな」とか「来月になったらどうなってるかわからんな」って気にもなってきます。なぜなら、自分の今までを振り返ってみても、やたら外交的社交的にバンバンやってた時期にあれば、書斎に篭もってるような時期もあるわけです。同じ人間が同じ会社に勤めている時期でも、出世頭でバリバリやってるときは明るく外向的だろうけど、ドチョンボをやらかして閑職に廻されてるときは暗く内向したりもするでしょう。このように同じ人間でも時期によって違います。
それにこういった二者択一というのも結構いい加減でして、例えば書斎派かアウトドア派かなんてのも、山岳好きな人って読書家が結構多いような気がします。僕の叔父も山男でしたけど、同時にバリバリの哲学青年だったらしいですし、自然が好きと読書が好きってのはどっか通じるものがあるのでしょう。外向/内向ってのも、内向してる時間がその人の人間性を熟成させるのであり、それがあるから外に出ても他人に好かれたりするわけでしょ。芸人さんなんかも、一人になったらじっと引き篭もってるタイプが多いというし。
さらに、得意/不得意って技術的な話になったら、益々わからなくなります。これもちょっと前のエッセイで書いたけど、今僕個人が得意だと思ってる事柄で、生まれながらに得意だったのは一つもないです。全て一度は「俺は○○はダメだ」と思ってた時期があります。でもね、歴史に残るような天才とか、それで生計を立てられるようなプロレベルではなく、素人集団のなかでそこそこ上手ってレベルだったら、人間ちょっと練習したら誰でもそのくらいはいけます。だからちょっとまとめてそれをやる時期があれば、不得意から得意になっちゃうんですよ。カラオケ嫌い、音痴だから、、、って言ってる人でも、友達にバンドに引っ張られて無理やりボーカルやらされて数ヶ月たったら、素人カラオケレベルだったら軽くクリアできるようになります。
それに、才能というのは色んなバリエーションで存在していて、例えば音楽的才能があるといっても、ゼロから生み出す作曲が得意な人も、編曲が得意な人も、楽器が上手な人もいるわけです。そのうちの一つの楽器、ギターにしても、バッキングは非凡なセンスをもってるけどリードを弾かせたら凡庸だったりします。歴史に残る三大ギタリストの一人、ジミー・ペイジはもっぱら作曲部分に天才的な才能を持ってますけど、イチギタリストとしては平凡というか、むしろヘタクソな部類に入ります。その下手なギターの、その中のリードギター部分では、あの人、四分音符系(8分、16分)はダメだけど、三連符系(六連符)は上手なんですよね。このように、音楽>ギター>リードギター>三連符という具合に、かなり細分化された形で人の才能って存在したりします。
だから、得意とか不得意とかいっても素人レベルにおいては、「これまで沢山練習したか」「沢山練習する機会があったか」どうかってことで結構決まっていきます。もちろん、もって生まれた才能の濃淡や方向性はありますよ。あったとしても素人レベルの才能だったら、沢山練習してる奴の方が大体において上手です。運動音痴な人でも1−2年必死に柔道の正しい練習をしたら、運動神経バリバリの人と組み合っても、それが柔道の試合だったらまず間違いなく勝てるでしょう。それが「技術」というものですから。
というわけで、「自分はこういう人間だ」ということに、あんまりこだわらない方がいいと思います。これは、年を取るにつれそう思うようになって来てます。なんでもそうなんですけど、自分で一生懸命考えたり、これは○、これは×とそれなりに評価や決定をしますけど、同時に「どーせ、俺の考えることなんだから、多分間違ってるんじゃないかな」って思うようになってきます。この「どーせ」部分は年々強まってきてますね。それとパラレルになるのでしょうが、異性に対する好みのパターンなんてのもなくなってきます。自分の発想や考えを自分自身でそんなに信じてませんから。「たまたま今そう思い込んでるだけだろ」って。
話を本来の「非モテ」(そういえばこれがテーマだった)に戻しますと、「俺は非モテだ」と思ってる方に言いたいのですが、そんな自己規定は無意味ですよ。「どうせ」の理屈でいえば、どーせアナタの考えてることなんだから間違ってる可能性が高いんですよ。そんなに自分をアテにしちゃダメです。「たまたま」そう思わさせられるような出来事が相次いだから何となくそう思ってるだけです。
と同時に、同じことは他人を見る場合にも当てはまります。「○○はこういう奴だ」という人物評価もまた、「どうせ」です。「たまたま」そう思ってるだけって場合が多い。長年付き合っていたって、分からんもんは分からんですよ。だから、突然自殺なんかされて、その人物評価が一気にゼロリセットされて途方に暮れたりもするのです。たまたま虫の居所の悪いときに無愛想な応対をされたから「○○はヤな奴だ」と思ってたりするわけです。それでも別に普通は構わんですよ。他人を誤解していたとしても、だからといってどうということはないケースが多い。しかし、自分の恋人とか結婚相手とかになると、「へー、そういう人だったんだ、あはは」と笑っていられなかったりします。まあ、どんなに必死に理解しようとしても、それでも「こんな筈では」ってことは絶対起り得ますけど、それでも最初の入り口の段階で、「ああいうファッションセンスの奴は嫌い」とか足切りしちゃわない方がいいです。
あと、自己評価はアテにならず非常に不確実なものなんだけど、自己評価に沿った人間になっていくって部分は結構確実です。ここがコワイところです。自分が「非モテ」だと思う自己評価そのものは間違ってたりするのだけど、「非モテ」だと思い込んでる人間が本当に「非モテ」的な人間になっていってしまうってこと、これはバリバリありえます。これは経験的に分かる話でしょう?非モテだと思い込んだら、異性に声をかけること自体躊躇してしまうだろうし、そういう男女混合場面に出向く機会も減るだろうし、仮にそういう機会があったとしても自然に振舞えないでしょう。せっかくどこかの誰かさんから熱い思いで見つめられていても、全然気付かないでしょうし、気付いても「まさかね」と思っちゃうでしょう。どうせモテなんだから何やっても無駄じゃとばかり、身なりにも気を遣わなくなるし、フェロモンもオーラも出さなくなります。僕が思うに、フェロモンもオーラも結局は「気合」ですからね。大物スターなんか特殊なオーラを発散しているけど、新人タレントの頃の写真をみてると非常にイモ臭かったりするでしょ?あれって、「私はスターなんだ」って「気合」が彼らを美しくしていっているのでしょう。
これって蟻地獄のような悪循環です。悪循環にハマってると、利息が利息を生むように悪い方向に転がります。非モテだと思い込むことにより、気合が減じ魅力がなくなり、それによって他者から非モテとして扱われる機会が多くなり、それがまた自分の非モテ認識を深め、そして・・・って。だから、悪循環をどっかで好循環に逆転させたら、びっくりするくらい人間って変わります。「サナギが蝶になった」とか「化ける」とかよく言いますが、そういうことって本当にあります。ただ、20代前半くらいだったら、そういう実例が周囲にあんまりないからピンとこないかもしれないけど、30年以上普通に生きてたら、まずその種の事例の一つや二つには出食わしているでしょう。
自分の思うことも「どーせ」でアテにならないのです。他人の評価もまた「どーせ」なんですよ。アテになるものなんか何一つありゃしないです。だから、大事なのは、自分がどういう人間かではなく、自分はどうなりたいか?って希望の部分だと思うのですね。状況が認識を生じさせるけど、認識が状況を変えることもあるわけです。客観と主観は相互にフィードバックするのですから、そのフィードバックの方向性をどういう具合にもっていくかでしょう。
「別に相手なんか誰でもいいわい」って極大志向、全部がストライク系の見方になる理由として、もう一つあります。それは、その相手が大切な存在になるのは、それまで自分が関ってきたコミットメントの量に比例するからです。好きだから付き合うのではなく、付き合ったから好きになるのだということ。
えーと、今回ももうそろそろページが尽きてきたのですが、ここでちょっとハッキリさせておきたいのは、@付き合い始める前、A付き合い始めた後、使用前/使用後みたいな区分があるとしたら、この区分はかなり重要だということです。もう全然世界が違う、位相が違う、論理が違う。付き合い始める前というのは、個人の脳内世界の話で、上にクダクダ書いてきたように、人間の脳味噌のケッタイな作用に右往左往させられるプロセスだといってもいいでしょう。要するに個人的に自己完結してるわけです。一人の人間の頭の中身の問題。
しかし、付き合い始めた後は、一人では完結しません。二人いるからインタラクティブになり、その相互作用というダイナミズムで話が展開していきます。また、それぞれが脳内世界と客観的外界とのギャップにパニックになります。主観と客観が激しく交錯します。付き合う前に勝手に思い込んでいて相手の人格像が、瞬間ごとに修正を余儀なくされ、修正しているうちに自分でも何がしたかったのか分からなくなったりします。その分からんもん同士が交際しているわけですから、話はややこしくなります。二人の狂人が光線銃をピーピー撃ち合ってるようなものです。かなりメチャクチャ。
しかしこのテンヤワンワっていうと古臭いから英語でいうと”ヘルター・スケルター”になるのかな、この狂躁的な競演こそが恋愛過程の醍醐味でもあるわけです。その動的なプロセスで、自我もガンガン揺さぶられるわけだし、揺さぶられることで成長もします。かくして地獄もみるけど天国もみるジェットコースターを乗りながら、二つの自我が自己修正を試みつつ、擦り合わせ作業をエンドレスで行います。この過程のダナイミズムに比べたら、付き合い始める前というのは「寝床の夢」みたいなもので、脳内にポッカリ浮いた雲みたいなものです。
だから付き合い始める前と付き合い始めた後とでは世界が違うし、物事が展開していく論理則も違う。足し算引き算だけでやってたところに、掛け算や割り算が入ってくるようなものです。もう全然違う。全然違うし、後者の方が圧倒的だからこそ、「入り口部分」なんか相対的にどうでも良くなってくるわけです。その証拠に、長いこと結婚生活をしてると、結婚前に何を考えてつきあっていたのか、あるいは付き合う前に何を考えてたのかなんか、あんまりよく思い出せなくなってきます。「なに考えてたんだろうね、俺?」ってなものです。あるいは、別れてしまってブレイクハートになっているとき、思い出すのは付き合っていた日々です。色々な楽しい時間が走馬灯状態で走り抜けます。でも、付き合う前に何を思ってたかというのは、あんまり出てこない。
というわけで前世と来世くらい違う二つの世界があり、それぞれに独自の法則で物事が進んでいくのだということを指摘して、今回は終わりにします。ここまで書いて思うのは、付き合い始めた後という第二段階に耐えうるようになってはじめて第一段階もパスできるのかもしれないなってことです。第二段階は、今書いたように、キングコングに力任せに揺さぶられるように自我を揺さぶられます。それなりに強靭で、それなりに柔軟な自我でないと乗り切れない。「俺はこういう人間!」と固定的に決め付けていると、一揺れきたらポッキリ折れてしまいます。それを折れないで持ちこたえられるくらいの自分になること、それだけフレキシブルなモノの見方や自己認識ができるようになると、第一段階のモテも上手くいくのかもしれないなってことですね。宇宙ロケットのパイロットになろうと思ったら、8Gの重力に耐えられるような訓練をしないとロケットに乗せてもらえないってことでしょうか。
文責:田村
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