今週の1枚(06.11.06)
ESSAY 283 : 「非モテ」について(2)
写真は、郵便配達のオジサン=ポストマン。こちらの郵便はバイクであったり、自動車であったりもしますが、実はバックパック+徒歩というすごい方法もあります。逆に自転車はないですね。これがいわゆる、スタンダードな名曲(ビートルズもカバーしてる)"Please, Mr Postman"の原風景なのでしょう。撮影場所は、ウチの近くのArtarmon。
前回に引き続き、「非モテ」について思うところを書きます。
前回の最後のくだりで、「@人間なんか普通にしてたらモテるし、A普通にしてたらモテない」というワケのわからんことを書いておきました。矛盾しているようですが、その趣旨はこういうことです。
まず、「@普通にしてたらモテる」という点ですが、普通の人間が普通に生きてて異性との交際機会が非常に乏しいのであれば、子孫が途絶えてしまうからです。現在地球の人口は60億人以上いるわけですから、(体外受精など例外を除けば)少なくとも60億回誰かがセックスをしていたことに疑いの余地はないわけです。そして、実際には「一発必中」なんてことはないし、避妊しているケースも数多い。避妊関係の産業(コンドーム会社とか)、世界中どこにいっても売春産業があることを考えれば、セックスの実数はその数倍、数十倍、数百倍あるでしょう。つまり、600億とか、6000億とか、6兆とか。セックス=モテとは必ずしも言えないにしても、数千億とか数兆回という規模で行われている物事が、「特殊な出来事」「限られたエリートだけに許された特権行為」であるはずはないでしょう。ネイチャーでいえば、人間なんかちょっと目を離したらすぐどっかでヤってる生き物だということであり、それが「一年ずっと繁殖期」というきわめて特殊な動物である人類の姿なのでしょう。
だからこそ地球にこれだけの人間があふれかえっているわけです。もし、極く限られた人だけがセックス、結婚、出産できるというのであれば子供の数が極端に少なくなるわけですから、この世に学校は要りません。ベビー用品も、子供服も、七五三も、童話も、子供関係の産業も行事も要りません。また、カップルも夫婦も極端に少ないのであれば、ダブルベッドというベッドサイズも、ホテルのダブルルームも存在しない筈ですし、ラブホテルもないし、エンゲージリングもないし、音楽からラブソングというものは消滅するだろうし、ラブコメというマンガのジャンルもないだろうし、恋愛小説系もないだろうし、何よりも人類は絶滅してるでしょう。とまあ、ほとんどSFみたいな世界設定になってしまいます。そうなってないのは、「モテ=異性交際」なんてのはメチャクチャありふれた出来事だということです。
それに、ほっといたら男と女なんかひっつきます。「ほっといたら」というのは、例えば無人島に一人の男と一人の女だけが漂着して、半永久的にそこで暮らすようになれば、まあ、まず間違いなくカップルになるでしょう。それは自然の本能です。そうなるように最初から人間(生き物)というのは作られているのでしょう。
でも、こんな無人島なんて荒唐無稽な設例を出して、「だから元気出せよ」と慰められても非モテ界隈の人はうれしくないでしょうね。「誰が無人島なんか行くんだよ」って。でも、「モテ」の本質って、この「無人島パターン」が原型だと思うのですよ。
「モテ」や恋愛がありふれたものだとしても、それでも相手は誰でもいいってもんじゃないです。単純にセックスだけなら、特にリビドーが盛んな若い男性だったら誰でもいいかもしれないけど、女性はやっぱり選びます。男性遍歴の多い女性でも、リアルタイムの一点においては「一名様限り」だったりする人も多いでしょう。また、男性においても、結婚とか一生モンの話になってくると、やっぱり選ぶでしょう。でも、どうやって選んでるの?なにをもって「世界中でこの人しかいない」と断定してるの?その根拠は何なの?
世界中の異性の中からたった一人だけを選ぶというのは、ロマンチックな響きがありますし、美しいです。が、ぶっちゃけ現実はそんなにロマンティックではない。こう言っちゃミもフタもないけど、「適当なところで手を打ってる」だけだと思いますよ。ほんと、こういう言い方をしたらブーイングを受けるかもしれないけどさ、「いや、私はちゃんと選んでる」って言う人も沢山いるだろうし、真実そう思ってることを疑ってるわけではないですよ。ただ、そういう具合に思い込む過程ってのがあると思うわけです。
どっかの心理学の本で読んだことがありますが、「接触時間と好意とは正比例する」らしいです。どんな物事でも、それに触れる時間が短いと、あんまり好きになれなかったりするけど、触れている時間が長くなればなるほど好きになっていくってことです。これは多くの場合真理だと思います。TVのタレントなんかそうです。TVに出てきたときは異様なキャラで、「大嫌い」「気持ち悪い」「エラそー」とか視聴者の人気はヒドかったりしますが、それが数多くの番組に出演し、CMでも見かけ、年中見かけるようになってくると、好きだという人が増えてくるそうです。しまいには人気スターになったりします。日本人が味噌汁や温泉などの日本文化が好きなのも、アメリカ人がアメリカ文化を好きなのも、とどのつまりは子供の頃から接しているから、つまりは「接触時間が長いから」だといえなくもないでしょう。新婚カップルの喧嘩ネタで、旦那が「オフクロの味」にこだわったりするのも、要するに接触時間が長いからでしょう。
僕の仕事は皆さんの学校選びやらシェア探しのお手伝いですが、学校見学の後にいろんなエスニック系サバーブにいってランチを食べたりしますが、知らない町でもその商店街のどっかの店に座って小一時間ゴハンを食べてると、その街に身体が馴染むのか、あとでシェアを探すときもそのエリアで探したりする人が多いです。接触時間が長いと好きになるという好例ですね。他にも幾らでも例はあるでしょう。最初はヤダなと思ったことでも、やってるうちに段々好きになるということは多い。むしろ、今ハマって大好きになってるものほど、最初は嫌悪感があったりすることも多いです。カラオケでも、「あんなもんやってる奴の気が知れない」なんて嫌ってる人に限って、一旦マイクを握らせたらハマってしまったりします。僕も大体そうですよ。ロックだって最初に聴いたときは「なんてクソやかましい音だ」と大嫌いだったし、「海外なんて行く奴の気が知れない」って思ってましたもんね。
なんで接触時間が長いと好意を持つようになるのか?ここから先は推測ですけど、これも結局は自然の本能だと思います。接触時間が短いものは、よく正体がわからない。未知の部分が多いものに対しては、基本的に動物というものは警戒します。何が出てくるかわからないから、恐いです。犬でも見知らぬ来客に対しては吠えます。しかし、接触時間が長くなるにしたがって、その対象についての情報が増えていき、それほど警戒すべきものではないことがわかってきます。で、警戒心が緩む。警戒心が緩むと、その対象を味わったり、楽しんだりする余裕が出てきます。最初は見知らぬ町の見知らぬ店で緊張していても、食べ終わる頃にはすっかり雰囲気に馴染んでしまって、リラックスしてきます。警戒を起こさせるものは不快であり、リラックスさせてくれるものは「快」として認識されます。つまり、わかってきたら楽しめるようになるし、好きにもなるってことなんでしょう。
子供の頃に、無理矢理親戚の家に連れて行かれて、お行儀よく正座とかさせられてイヤでイヤでたまらず「早く帰ろうよう」とか言ったのが、2−3時間もするとすっかりその家に慣れて、その家の子供と一緒になって大騒ぎして遊び始めてしまいます。いざ帰る段になっても、「いやだ、帰りたくない」とか言い張ったりするもんです。そんな経験ないですか?会社の転勤で、見知らぬ土地に飛ばされた社員が、最初はその土地がイヤでたまらなかったりします。一回イヤになったら何もかもがイヤになり、土地の人が田舎臭いといっては嘆き、方言が嫌いだとか、食べ物が口に合わないとか、文句ばっかり言います。ところが、2−3年住んでると、「いやー、いい所ですよ。人情も厚いし、魚も美味いし」とか言い出すようになり、本社に帰っても「○○は第二の故郷みたいなものです」とか言ったりする。
さらに突っ込んでいくと、情報が少ないと何故ネガティブな反応になるのかといえば、勝手に先入観や偏見でモノを見てるからでしょう。ろくに知りもしない、体験もしたこともない、何も知らないのも同然なんだけど、勝手に「こういうものだ」と思い込んで、勝手に嫌いになっているという。食わず嫌いといいますけど、そういうケースは多いと思いますね。笑っちゃうくらいマンガみたいな典型的なタイプ、例えばアフリカ人と聞けば、半裸姿に槍持ってウホウホ言ってるようなイメージです。「関西人はガメつい」とか、「東京モンはカッコつけてる」とか。それがどれだけ合ってて、どれだけ間違ってるかは、洋画に出てくる日本人のイメージを見たらいいです。背が低くて、足が短くて、出っ歯で、眼鏡かけてて、カメラもってて、セカセカ歩いて、話し掛けても卑屈な笑いを浮かべて逃げ腰になり、たまに近寄ってきたと思ったら「ハウマッチ?」しか言わないという。それがどれだけ当ってて、どれだけ外れているか?ですよ。それと同じくらい、ほとんど暴力的といっていいくらいの偏見を僕らは持って、世の中を見ているわけでしょ。大体こういう典型やステレオタイプというのは、実像よりもネガティブに描かれます。似顔絵でも長所を強調して描くのは難しく、短所を強調して描いた方がはるかに簡単だといいます。鼻がでかかったら実際の3倍くらい大きく描いたら似るんですよ(だからプロの似顔絵描きは長所を強調して似せるわけですから=でないと客が怒っちゃうから=凄い腕をもってるのですね)。ということは、よく知らないでステレオタイプでモノを見てるということは、実際よりも3倍増くらいで悪く見えてるってことでもあります。だから、最初はなんでもイヤに思えちゃうんでしょうね。
それが「モテ」とどう関係するのかというと、要するに長いこと接触している人には好意を持ちやすいということです。もっと言えば、その人に対する色々な情報を知るにしたがって、好意を持つ機会が増えていくってことでしょう。職場だって、あんなに最初はイヤだったのに、いざ退職する頃になると、寂しくなったりします。最初は無愛想に見えたり、冷たく感じられたあの人、この人も、実は優しい人なんだみたいに思えたりもするわけです。
要するに接触時間が長くなると、その対象に関する情報が増える。しかも、色々な種類の情報が増える。社員旅行が「親睦を深める」とかいうのも、あれも満更タテマエだけではなくて、いつもと違った角度で同僚上司の人間像を見ることができるからでしょう。いつもは眉間に皺を寄せて近づきがたいAさんも実は酒が入ったら愉快な人だったり、恐そうな上司のBさんから新人時代にどれだけ大失敗したかを聞かされ親近感を抱くとか。TVのタレントでも、いつもの番組ではブチ切れキャラで奇声を発してるだけだったりするのが、じっくりインタビューとか見てたら非常に理知的で賢そうな人だったりして、意外な一面を見たりします。
そしてまた、この「違った角度の情報」「意外な一面」ってのが結構大事だったりすると思うのですね。
会社でもイヤな奴だ、なんて傲慢な奴なんだと思って人が、偶然家の近所で見かけて、しかもそのへんの空き地で野良猫にエサをあげてる優しい一面なんぞを見たりすると、「あ、そういう人だったんだ」と急に評価が変わったりもするものです。
そして、人間というのは感情の生き物で、冷静に評価出来ているようで出来ていないのでしょう。例えば、仮に「一発大逆転の法則」とでも名付けましょうか、ずっとクロだと思いつづけて人が、実はシロだったという一面を新発見してしまうと、いきなり全面シロみたいになる。それまでイヤだ、嫌いだと思ってた人が、実はいい人だったみたいになると、いきなりいい人に思えてくる。逆に、今までいい人だ、優しい人だったと思ってた人から、意外にイヤな一面を見てしまうと、「なんだそんな人だったのか」と全面クロになってしまいがち。純粋に割合で言えば、前者のケースだと99クロで1シロだから、いくらシロがあろうとも圧倒的にクロと評価すべきであるし、後者のケースでもクロがあったとしてもそんなのは一部なんだから依然としてシロ評価すればいいものを、最新&意外な情報に触れると、全面的に評価が逆転してしまったりします。だから、かなりいい加減に人を好きになったり、嫌いになったりしてるってことです。余談ですが、会社の人事評価とか、能力給とかいうのは、だから難しいのでしょう。
「自分はかなりいい加減な評価をしていたんだ」ということを、多くの人は結婚生活を経てから思い知ったりします。大体アレですよね、結婚する前にその人の長所に思えていたことは、結婚後に全部逆転してイヤな面になったりしますよね。決断力があって、果敢に行動し、ウジウジ悩まないと結婚前には「男らしいわあ」と惚れていた部分も、あとになってみれば独り善がり、思慮浅薄、デリカシーがない、乱暴なだけという具合に評価が変わります。優しくて、思いやりが深く見えたのも、単に気が弱くて、優柔不断なだけだったり思えたりもします。長所と短所は表裏一体であり、多くの場合は同じ物を右から見るか、左から見るかの違いだけです。「知的なロマンチスト」は「現実離れした甲斐性なし」になるし、「繊細な心遣いにあふれた女性」は、後になってみれば「やたら細かいことに口やかましい女」になってしまう。
以上、何が言いたいかというと、人間というのは、かーなり適当に、かなり感情的に、かなり不公正に人物を見ているわけです。ネガティブ3倍増の暴力的な偏見でネガティブに見ているわ、でも意外な一面を見せられたらコロッと評価は180度変わるわ、好きになったら積極的にいいところしかカウントしようとしなくなるわ。
恋愛なんかも、そういうことが積み重なって、「この人だけ」と思えるようになるのでしょう。良い人がいて好きになるのではなく、好きになったから良い人のように見えるってのが実際のところなのでしょう。どんどん自分で盛り上がって、情報の足りない部分を勝手に美しく補っていくから、相手はどんどん素晴らしく見えていくものです。スタンダールの恋愛論だったかな、「あたかも木々が樹氷に彩られるごとく」と表現してたと思いますが、やたら美しくデコレートしていき、その美しさに自分で酔いしれるってアホアホな面があるのでしょう。それが人間という生き物のチャーミングな愛らしさだとは思うのですけど。でも、それで好きになって付き合い始めたら始めたで、付き合いも長くなり冷静にモノが見えるようになると今度はまた180度評価が変わって「騙された」とかいって騒ぎ、別れたら別れたで「でも、あれであの人もいいところがあって」とか思うという。なんかこうして冷静に見てると、ヒドイですよね。もっと真面目にやれって気もしますね(^_^)。
それから、人間というのはどんな環境にも適応します。過剰なくらい適応します。恋愛/結婚相手を探すにおいても、環境に適応し、「現実的」になります。本当は、美男美女のスターみたいな相手が欲しいんだけど、そんなこと考えてもムナしいし、非現実的だから、手近なところで物事を考えます。自分の半径3メートル以内に存在しない物事は、無いも同じ。これは、政治なんかもそうで、今こうしている瞬間にも戦争や飢餓で多くの人々が苦しんでいるわけですけど、日本にいるあなたには、ぶっちゃけた話「関係ない」でしょ?とりあえず今日明日の日常生活に何か関わってくるわけでもない。目の前に無いものは無いのと同じです。だから、遠く離れたスターがいたところで、こと現実の恋愛に関して言えば居ないのと同じ。同じ会社のセクションにイケメンがいて「わあ、いいわあ」と思ったり、密かに好きになったりしてるけど、いくらイケメンだといっても所詮素人。本物の美男美女は他に幾らでもいます。横に並べてみれば一目瞭然というくらい、ルックスもオーラも違うでしょう。でも、そんなこと言ってても始まらないから、そういうことは考えないようにする。
「今の自分に、現実的に手の届く範囲内」というのが、その人の全世界です。地球の人口が60億人いても関係ないです。自分の働いているセクションに異性社員が3人しかいなかったら、それは3人なのだ。世界の60億人いようが、300兆人いようが同じことです。
ということは、勝手に自分で世界を狭くして、また物凄いエコヒイキの人物評定をやるから、どんどん「無人島」状態になっていくのだと思います。手の届く現実世界の中ではこの人が一番マシ→いい人だと思う→好きになればアバタもエクボ→もうこの人しか居ない!→結婚→こんなハズではなかった、というパターンになっていくのだと思います。
はい、分かってます。全部が全部そうだとは言ってないですよ。どんな物事にも例外があります。大雑把に「こんな感じちゃう?」って言ってるだけのことです。だけど、そういう心理メカニズムがあるからこそ、人間社会ではオットセイみたいに一頭のオスだけがモテて、99頭は全部モテないってことになってないわけです。人類の雌雄個体が均等に散らばって、適当にカップリングしてるのは何故なのか?といえば、こういった分散繁殖メカニズムのような自然のシステムがあるんじゃないでしょうかね?
以上が、@普通にやってりゃ普通にモテるということのカラクリです。
次にAの「普通にやってりゃモテるわけがない」という点にいきます。上に述べたようにプロセスを経て人を好きになるのだとすれば、これをフル活用すれば、どんな状況下においても好きな人というのは出てきたりするでしょう。俗に「惚れっぽい人」というタイプがいますが、かなり円滑にこの人惚れエンジンが廻っているのでしょうね。でも、逆に言えば、これだけ複雑怪奇なシステムを動かさないと人が人を好きにならないわけで、そのシステムを動かすだけの諸条件が揃ってないといけません。すなわち、「世界が狭くないといけない」「その世界のなかでユニークな思い込みによって基準を設け、その基準でベストにならないといけない」という諸条件があるわけです。この諸条件が合致することは、実はマレです。相思相愛のようになるのは確率的に二乗になるから尚更です。
@「普通にやってればモテる=異性との関係機会はある」ということの趣旨は、実は20年とか30年のロングレンジの話であり、今日明日いきなりどうなるって話ではないです。20年とか30年、社会のなかで人々に接していれば、いずれは諸条件が揃ってGO!ってことも起こりうるだろうし、確率論的に言ってもそうだということです。ポーカーでロイヤルストレートフラシュが出る確率は、259万8960分の4、概算すれば65万回に1回という計算になるそうです。だから滅多に出ない。しかし、65万回やってれば1回は出るわけです。無限にポーカーをやりつづけているという前提でいえば、ロイヤルストレートフラッシュは「絶対に出る」と言い切って構いません。だけど次の一回で出るかどうかは65万分の1だから「まず絶対に出ない」ことになります。恋愛はここまで極端ではなく、ポーカーでいえばせいぜいストレートフラッシュかフォアカードくらいでしょうから、「あんまり出ないけど、やってればいつかは出る」ってなところでしょう。これが、@普通にやってればモテ、A普通にやってればモテないということの意味です。
前回の末尾にも書きましたが、そんなに四六時中新しい恋が芽生えてたら世の中大騒ぎになります。人間というのは、毎日毎時間、誰かを新たに好きになったりはしません。東京に住んで働いている人は、一日一体どれだけの人を見るのでしょう。通行人や同じ車両に乗り合わせた人も含めれば数千数万人と会っているかもしれません。これで誰かが目が合うたびにガビーンとなってた収拾つかなくなるよ。「私の恋愛経験は、片思いも含めれば237万6543人です」みたいな話になってしまう。だから、恋愛なんか滅多に生じないし、期待するだけ無駄です。そういうもんじゃないのよね。だけど、普通に生きてればそのうちポッコリ生じてしまうってなもんでしょう。
なお、単純にクラブで知り合ってそのままホテルに行ってしまって、翌朝になったら顔も覚えていないとかいう行きずりSEX系のナンパとか、その種のセックス本位、遊び主体のパターンは、上記のシステムには含まれません。上に述べたのは、あくまで「好きになる」という精神面の問題です。「別に好きでもないけどセックスしてもいいかな」くらいの付き合いは、それはそれで別の原理があります。10代から20代前半くらいの男性の場合、この領域こそが最大の興味関心の対象になるとは思いますし、本来の「モテる」というのはその程度の意味で使われる場合が多いでしょう。
このエリアの原理は、僕が思うに、一言でいえば「商取引」みたいなものなのでしょう。男と女と売値と買値が一致すれば商談成立と。つまり、男の欲求は「いい女とセックスしたい」だけです。女の欲求はもうちょっと複雑で、人によって様々でしょうが、「カッコいい男と素敵な一夜」「とにかく強烈なセックス」「美味しい物やお金や何らかの快楽供給」などがあります。だから、女の側で供給する商品は「いい女」であるという、ただそれだけです。ナイスバディであるとか、最大限に魅力的に見えるファッションと化粧(モテ服ね)とか。要するに「お守り」みたいなものですね。お守りというのは中を開けると木の札に字が書いてあるだけなのですが、綺麗に縫製された布袋に入れ、「家内安全」などありがたい言葉を縫い付け、社寺というしかるべき権威によって価値を高めているわけです。男女セックス商取引における女性商品の場合も同様であり、「女性の身体」というご本尊の周囲に小奇麗な布を巻きつけて装飾を施し(ファッション)、できれば何らかの権威で付加価値を高める(上流階級の女とか)と。基本的には人身売買における市場価値と同じですな。
男の方も同じで、商品なのだから思わず手にとってみたくなるような包装とか陳列工夫(ファッション)は必要だし、お金を沢山もってるとか、カッコいい車に乗ってるとか、面白いところに連れて行くだけの知識と機動力があるとか、セックスが強そうだとか、要するに「快楽供給機能」が優秀強大であるかどうかです。あとは営業。セールストークですね。話が面白いとか口説くのが上手とか。
世間の男性雑誌、女性雑誌でやってるモテ系の戦略というのは、要するに商品販売のマーケティング戦略とそれほど変わりはなく、商品力×販売方法によって売上が決まるということでしょう。だから、逆に言えば戦略も立てやすく、また売れない商品は売れない、売れる商品は売れるというはっきりした格差が生じやすいです。
しかし、こんなこたあどーでもいいです。「好きになる」というマジカルな要素が入っていないこれらのイトナミは、一定の年代の頃には夢中になるけど、まあ、いわば子供の遊びみたいなものです。最初からルックスがよければ絶対優位ということで、遺伝子的身体的要素で大部分が決まってしまうって面もあるから、遊びとしてもそんなに面白くもないです。遊びというのは誰でも参加できるけど、誰がやっても中々勝てないってのが面白いんですよ。ある人は簡単に勝ててしまい、ある人は全然勝てない、その理由は最初の持ち点で決まってるというのであれば、遊びとしては面白くないでしょ。それに、快楽のピークもかなり低いです。本物の恋愛の、天国と地獄を行ったり来たりするグチャグチャドロドロの狂気もないし、幾星霜を経た人生の重なり合いと豊かな静謐さもない。一発やって、ほんで終わりっしょ?風俗行くのと大差ないよ。お金払ってやらせてもらうか、お金の代わりに商交換という多少スリリングなバーター交渉が入ってるくらいの差でしょ。
だから、まあ、このレベルでモテ/非モテで一喜一憂することなど馬鹿らしいです。モテたいのだったら、もう完全にビジネスと割り切って、なりふり構わず商品力と販売方法を磨けってことです。そこにはあなたの人格も気品もヘチマも要らない。原理は物々交換なんだから。先に割り切った奴の勝ち。間違っても「本当の自分を理解して欲しい」なんて精神的欲求を入れてはいけない。でも、「なりふり構わず」って部分で抵抗がある人も多いでしょう。というか、普通抵抗あるよね。例えば女性だったら、なんだかんだいって男に媚びを売るような女がモテるのは常道だから、頭悪そうに振舞ったりすればいいわけだけど、まあ、普通抵抗あるよね。これって自分がある程度の年にならないと言えないことなんかもしれないけど、このレベルでのモテ/非モテって、本当にどうでもいいことなんですよ。小学校のときに鉄棒で「逆上がり」が出来るかどうかなんてその後の人生に殆ど関係ないのと一緒。リアルタイムには人生の一大事のように感じるけど、後になってみれば、別にどうでもいいです。そんなことより、人生にはもっと面白くて、スリリングで、高難度で、快楽の極地のような営みがあるわけで、そっちの方がはるかに難しいから、考えるに価するのです。
ということで、話を「好きになるというマジックが含まれている局面」に戻しますと、今までルル述べてきた大雑把な原理を応用・演繹し、非モテ界隈にいると思っておられる男女に何らかの有益な(?)サジェスチョンをするとするならば、色々なことが言えると思います。
@ まず、何らかの集団に入っていること、入っている集団は幾ら多くても良いこと。一目ぼれなんか事実上ありえないと思うこと
Aその集団の中で、どんな形であれ「ナンバーワン」「オンリーワン」になること。どんな基準でもいい
B自分の中に異性要素を取り込んでいくこと。ひきつけ合う本質は異質性だけど、とりあえずのインターフェイスは同質性
C「消費」ではなく「生産」であること、「需要」ではなく「供給」であること、「購買」ではなく「栽培」であること
D自分の人格のストレッチをして柔軟性を増すこと、どのようにでも変わりうる自分になること
Eその為には経験量が必要だけど、それは何も恋愛経験である必要はないこと
F性欲関係、恋愛ごっこ系は切り離しておくこと
Gとにかく過大な期待はしないこと、短絡的に考えないこと
いや、挙げていくとキリがないのですね。当然今回だけで書ききれる量ではなさそうなんですが、どうしたものか。まあ、とりあえず思いつくところからチャッチャと片付けていきましょう。
まず@の何らかの集団に入っていること、です。これは簡単で、一目ぼれなんて出来事は滅多に起きないからです。一目ぼれって、英語で"love at first sight"って言うらしいのですが、こんなこと一生を通じて1度あるかないかでしょう。「好みの異性のタイプを見ていいなと思う」程度の感動だったら年がら年中あるかもしれないけど、それが恋愛関係にまで発展し、さらに結婚、一生の伴侶までつながっていくってことは滅多にないです。
逆に幸福な家庭を築いている人なんかに聞くと、実は一目ぼれだったってのはよく聞きますね。いわゆる「ガビーンとなる」ってことでしょうけど、ただ、そうであったとしてもその後の経過が大事です。道で擦れ違った瞬間にガビーンと稲妻に打たれて、そこらへんの通行人を突き飛ばしながらダッシュで駆けより、いきなりデートを申し込んだ、、、なんてドラマティックな展開になるケースは少ない。そんな奴、僕の知ってる限り一人もいない。一目ぼれであったとしても、「どこか気になる存在」になるという程度のいわば萌芽状態でしょう。そのまま通行人として通り過ぎ、一生再会することがなかったら、それきり忘れてしまうでしょう。「一目ぼれ」というケースは、多くの場合は結果論であって、ゴールインしたからこそ言えるのでしょう。いつから好きになったんだろう?と遡っていくと、どうも最初から好感は抱いていたよな、だから一目ぼれなのかなって程度なんだと思います。したがって、それなりの「発育期間」というものは必要なのであり、そこには単なる通行人以上の継続的な関係性がなければならないのでしょう。
一目ぼれですらある種の継続的な関係性が必要なのですから、ましてや「何かをキッカケにして気になる存在になっていく」「ひょんなことから」という一般的な場合、一定のスパンで「一緒にいる」という時空間が必要だと思います。ゆえに、会社でも、サークルでも、ボランティアでも、なんでもいいからどっかの集団に帰属しているのは第一歩だと思います。
この集団はほんと何でもいいんですよ。マンションの自治会だろうが、プライベートな飲み仲間であろうが、習い事であろうが。別に「会」というほど組織だってなくてもいいし、列車が故障して立ち往生したときたまたま同じ車両に乗り合わせたというだけの一過性のものでもいいです。だから、一人で20も30も加入することは可能です。継続的な会は、その気になって調べれば、ハイキングや、歩こう会なんてのもあるし、趣味のサークル、習い事なんか山ほどあります。これはオーストラリアでもそうですけど、パブリックの掲示板とかコマメに見てれば沢山あります。日本でも市役所とかいえばボランティア募集なんて常時やってます。月イチでも年に一回でも別にいいし。あとでも述べるけど、大体非モテになってしまう人って社会経験が乏しい人、生活圏が狭い人が多いと思いますが、要するに好きになる/なられるメカニズムというのは、ワケのわからん複雑なプロセスを経ますので、狙ってどうなるもんでもないです。「犬も歩けば棒にあたる」ということで、とにかくよく歩くしかなく、数打つしかないです。
あと、そういう集団に入る場合、恋人を探す目的をメインにしない方がいいです。何度もいうけどそんなのは狙ってどうなるものではなく、むしろ狙えば狙うほど外しますから、純粋に「面白そうだな」くらいの感じで入るといい。面白くなかったら、会に参加してても、あなたがイキイキと精彩を放つことはないわけで、ドヨヨンとした存在でいたらどっちにせよ誰も注目しませんから意味ないです。第一そんなことやってても楽しくないでしょう。
コツは「軽い気持ち」で入ることですね。本屋で面白そうなタイトルの本をみつけて、「ふーん」と思って手にとって広げるくらいの気持ち。ダメだったら別に他を当ればいいんですよ。入ったみたはいいけど、全然波長が合わず、ほうほうの態で逃げ出すようなことになっても構いません。「あちゃー」「いやー、まいったまいった」とか言って笑ってればいいんですよ。
ワタクシごとですが、今のカミさんと知り合ったのも、遡れば日本にいるときやってた異業種交流会が母体です。特にインターネットなんかが登場するはるか以前のネット草創期だったので、やたらトンガった面白い連中が集まり、会そのものが非常に面白かったし、自分も積極的に面白くしていきました。特に初期のメンツは波長が合ったということもあるのでしょうか、ヒドイときは2日とあけず飲みに行ってましたね。皆が仕事でバリバリ忙しいから、集まるのも夜の10時とか11時からでした。集団というのは、一旦面白くなり、ノリが良くなると、自家増殖的に面白くなります。もう「異業種交流」なんて建前なんかどうでもよくて、単に楽しい遊び友達であり、その頃の知り合いは小学校の同級生レベルに親しくなりましたし、今でもつきあいは続いてます。人生の宝物みたいな時間であり人々です。実際、あの母集団からカップルが出来て、結婚にまで至ったケースというのは、やたら多いですよ。でも、別に誰一人恋人募集意識で来てたわけではないです。既婚者も多かったし。ただ、やってることが本当に楽しく、盛り上がれると、人間というのはキラキラ輝いてくるのですね。童心に戻って、イキイキ動くようになる。それが結局、その人の人間的魅力を発散させるのでしょう。だからやってて自分が楽しいってのが第一だと思います。
だけど、「そうはいうけど、そんなに気楽に行けないよ」っていう人が大半だと思います。また、忙しくて時間がないって人もいるでしょう。じゃじゃどうするか?って話になるでしょう。
と、ここまで書いてページが尽きました。以下次号です。
書いているうちに自分でも段々わかってきたのは、非モテなんたらとかいうのは、結局は人間として健やかに育ってるかどうかなんだろうなってことが一つ。今の日本で非モテだなんだってのが話題になるというのは、あるいは出会い系というのがネットや産業になってるということは、あんまり人間が人間として健やかに育たない環境になっているんだろうなって気がします。実際、それはちょっと前に帰省したときにも感じました。赤ちゃんや幼児は地上最強にモテます。どこにいっても「可愛い!」って言ってもらえますし、チヤホヤされます。この地上最強が、なんで彼女居ない歴=全人生になっちゃうか、です。育っていく過程でなにかプロブレムがあるんだろうなと。だから、非モテの話をすることは、人間の話をすることなのでしょうし、だからこそ掘り下げると無限に話が続いていくのでしょう。
もう一点、非モテ脱出の話は、オーストラリアにきた日本人がいかに現地に溶け込むかという話とオーバーラップしてくるということです。日本人というのは世界平均からすれば、大体においてシャイだし、内気だし、引っ込み思案だし、自信不足だし、話は面白くないし(そもそも語学力もないし)、体格的にも小柄だし、陽気なラテン系、アグレッシブなヨーロピアン系の中に入ったら埋もれてしまいます。だから何かしら努力や工夫をしないと日本人同士固まったりします。韓国人も同じ傾向がありますけど。要するに、世界の舞台にたったら、日本人そのものが非モテ系だったりするわけです。俺は違うぞという人がいたら、例えば、あなたが海外旅行で乗ってたバスが事故を起こして、全員遭難したような場合、そして乗客30人が30カ国の出身だった場合、いろんな国の人達に率先してリーダーになる自信ありますか?その場の中心人物になって皆から一頭抜きん出ることが出来ますか?普通の日本人は、そういう訓練を育つ過程で受けてないです。雑多な人々の中で、言葉もろくすっぽ通じない中で、それでも「うまくやっていく」能力・技術・精神というものを教わってきてないし、また自覚的に訓練してもこなかった。そういう必要性があるということすら、あんまり気付かない。だから、社会性やら社交性に欠け、引っ込み思案のまま、「いや、もう私は別にいいよ」という非モテ界隈の感覚になってるのでしょう。
しかし、日本で非モテだった人でも、こちらに来たら非常に社交的になるってケースは結構あります。日本で不登校だった人でも、こちらにきたら快活になるパターンもある。多分、こちらの社会は、雑多な民族が集まってるから、人と人が付き合うにおいては、かなり人間的に普遍的なパターンになるので、親しみやすいです。それに素直に乗っかっていれば快活な日常を送れる。しかし、日本社会の独特の交際ルール(最新の流行に敏感でなければならないとか)に過剰適応してしまった人は、日本国内ではモテるし社交的かもしれないけど、その土俵が失われてしまうと、案外モロいです。立ち尽くしてしまう。でも、日本のローカルルールについていけないで、結果的に非モテ界隈に住む羽目になってる人にとっては、逆にありのままの自分でも受け入れてもらえるこちらの方が楽です。単純な話、日本人が多少太ってても、こっちでは太ってるって誰も思わないもんね。日本の流行なんか誰も興味も関心も無いもんね。それはあなたがスリランカの流行歌に関心が無いのと同じ。
というわけで、非モテというのは単純に日本の中の特殊なグループの人々の話でも、日本社会でのカレントアフェア(時事問題)でもなく、もっともっと裾野は広いのだと思います。続きます。
文責:田村
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