1. Home
  2. 語学学校研究
  3. ワーホリの部屋
  4. 体験談
  5. 畑中章さんのワーホリ体験談
2012年01月19日


畑中章さんのワーホリ体験記 本編(1)

 彼の体験談は歴代最長だと思います。えび取り漁船のヒマな「精神と時の部屋」で書きまくったこともあり、また貴重すぎるオーストラリア魚介情報など、膨大な分量になります。
 プリントアウトしたものは数十頁になりますが、ここでは読みやすくHTML処理をし、適宜レイアウトしました。

 原文は、本人の許可を得て、WORDファイルでUPLORDしておきます。まとめてダウンロードして印刷したい方はどうぞ。
 原本ファイル01-オーストラリア体験談 本編@.rtf
 原本ファイル02-オーストラリア体験談 本編A.rtf
 原本ファイル03-AUSの海へ憧れたいきさつ、自分自身への考察.rtf
 原本ファイル04-オーストラリア体験談 海難事故.rtf
 原本ファイル05-オーストラリア体験談 魚突き.rtf
 原本ファイル06-オーストラリア体験談 えび漁師.rtf

1. はじめに

 魚突き(素潜りで手銛を使用し魚を捕る行為)を生涯の趣味にしようと九州沿岸部を潜り歩いていたのですが人生に行き詰まっていました。

 そんな時に愛読マンガの「美味しんぼ」で手付かずの自然だらけのオーストラリアとそこに生息する巨大魚達のことを知り、ネットで"オーストラリア移住"で調べているとAplacの存在、ワーホリの制度を知りました。オーストラリアでは夢だった車に七輪積んで魚突きをしながら車中泊の旅がしたかったのもありますが、その時悩んでいた事全てがオーストラリアに行けば解決するような気がしていました。私は海外旅行とかした事がなかったので来る前はむちゃくちゃ不安でした。田村さんが1週間面倒みてくれるってサイト内に書いていた言葉を信じてそんなら大丈夫かもって思ったのでやってきました。AUSの海の良さ、魚の凄さ次第ではそのまま永住権を目指そうかとも考えていました。

オーストラリアの海に憧れたいきさつと自分自身への考察

 AUSの沿岸部は砂地ばかりだまた車でアクセス可能な範囲も限られている。私はよくパースの南西部で潜っていた。日本と比べて根魚達の住処となる根(海中にある岩場)が少なくそこにいる根魚の種類も少ないという印象だ。理由を考えてみたところ私がよく読むマンガ「美味しんぼ」の内容を思い出した。私のいい加減な記憶を頼りにすると"日本の陸地の8割は山岳地帯である。また豊富な広葉樹林による栄養に富んだ土壌があり、そこに雨が降り土砂となって川を伝い海へ流れ出ることで沿岸部の豊かな生態系が育まれている"

 とこんなことを書いていた様な気がする。オーストラリアに山は全然ないのに対し日本は山ばかり。日本の方が沿岸部の魚の種類が豊富だとすれば上記の事柄から説明がつくのではないだろうか。まあでも日本の方が魚の種類がいるといっても都心部から遠く離れた車で片道4、5時間かけて行くような海の話である。今の日本ではそうでもしないと大きい魚が捕れないのだ。

 よく魚突きやってますというと患者さん(日本では病院で働いていた)の中にも昔やってたよという人が結構いて、昔は都市部近郊の海でもでかい魚はいっぱいいたそうだ。彼等の話を聞く限り今とは桁違いなぐらい豊富な自然があったような印象をうける。今の日本の海の現状を知っている俺からしたら桃源郷のような話だった。これは20年前ぐらいの話らしく、たった20年でこんなに変わってしまうものなのかと自然のもろさ、開発することの怖さを感じた。
これも「美味しんぼ」からの引用で

"現在日本の海岸、河岸はほとんどコンクリで固められている。このせいで陸地の栄養を含んだ土が流れ出さないため海は痩せ衰える。沖に波除の意味合いで置かれたテトラポットのせいで潮の流れは変わり本来の海の循環作用が失われ海が澱む。また定置網を設置する事で海中の浮遊物が沖に流れ出ずこれも海の澱みの原因となる"
とこんな感じのことを書いていたと思う。

 今では開発があまり進んでいない相当な田舎に行かないとでかい魚は捕れないし、定置網も多く内海の瀬戸内海などは透明度がすごく悪い。都市部近郊の海では潜れたものではない。オーストラリアに来る前は日本でこんなことばかり考えておりなんだかこの先日本の海に未来はないかのような気がしていた。それと同時に昔の日本の自然、海に憧れをいだいており体感してみたいという欲望がこの頃生まれていたのだと思う。こっちに来る直前にはAplacのサイトに田村さんが書いていたように「太古の自然」というキーワードも相まって「美味しんぼ」に書いてある非汚染のオーストラリアの自然、海がどんなものなのかいっそう期待が高まっていた。

 実際のところAUSは建国後200年は経っているわけだしAUSに来る前に私が勝手に想像してたまっさらな太古の自然があるというわけでもなかった。それどころか私のAUSでの目標魚のクエを初めとするハタ科の魚は絶滅危惧種だった。昔はたくさんいたらしいが乱獲で激減したとフィッシングマニュアルにも書いていた。自然保護という意味合いではAUSは日本より進んだ考えをしていると思う。AUSでは魚介類採補について数の制限、細かいサイズ規定までされており、実際皆それを守っている。私が乗ったエビ漁船もエビ以外は捕ってはいけないみたいだったしこれらの違反の罰金もめちゃくちゃ高いらしい。罰金もあるがそれ以前にオージー達は自然保護への意識が高い。シドニーでブルーグルーパー捕って怒られた時にすごく感じた。皆自然が大好きなんだろな。

 オーストラリアでは私の思い描いた「太古の自然」を感じてみたいという欲望は満たされていないのである。だいぶ前から世界遺産の屋久島に行きたいと思っていたのはこの「太古の自然」への憧れが原因だったのかということに気付いた。こっちで稼いだ金で屋久島に行くことにしよう。縄文杉が見たい。たぶん海中の世界もすごいと思う。

 色々ぐだぐだ書いていているのだが結局のところ俺は日本の海、九州の海が好きだという結論に至った。あととんこつラーメンもやっぱり好きだ。

2.最初の4か月のシドニー時代

シェア探し

 最初の方は同期生のアッコと一緒に周って一週間で16件ぐらい。途中でアッコと別行動している時に行ったAshfieldの$120のオウンルームに決めた。アッコはシェア探しからまだ帰ってきてなかったので先にシェア生活を始めることに。

 ロシア人で弁護士のバディムとの生活で最初彼の友人?彼女?の日本人のミハルさんがよくバディムのとこに遊びに来ていて三人で仲良くやっていた。シェア広告も彼女が日本語で出していて見学の時もバディムと一緒に彼女がいた。ある時を境にミハルさんが家に来なくなりチャイニーズの女の子が来るようになった。

 それからはバイトも始まり家に帰ったら皆寝てるためあまり絡みはなかった。気付くとそのチャイニーズの子がバディムと一緒に住んでいた。たまに彼等が二人でいる時に会うが私が英語へただしあんまり会話は弾まない。バディムにミハルさんの事を尋ねると彼女は元気だよとの事だった。しばらくすると日本人の女の子がリビングシェアでやって来た。週$80でお得だったそうだ。彼女は元美容師で今はビューティーセラピストになるため学校にいっているらしい。いろんな人もいるもんだと感心した。ここにはシドニーを出るまでフルで滞在。

バイト

 シドニー時代はジャパレス(スシトレインNEWTOWN店)でキッチンハンド週4、5日ぐらい。飲食店で働くのは始めてで最初は失敗しまくりで大変だったけどおもしろかった。注文殺到したときはマジ大変。いつも半切れで照り焼きチキン作ってた。賄いはかなり良かったです。売れ残りのスシ食いまくりで晩飯代助かってました。スシトレインのスシはうまいです。安い皿でも最低3ドルはするからプライベートでは絶対食わんけど。冬だったので翌日の昼飯にもスシ食ってました。ここのジャパレスで週30時間以上働いていたので自給$12(私の後に入った人達は$13だった)で約3ヶ月で$3000程稼いだが全てこっちでの歯の神経治療代に消える。AUSに来る前に歯医者に行って一通り治したはずなのに(泣)小学校の時にはめた銀歯の中が虫歯になっていたようだ。

語学学校 クルマ購入 日々の生活

 語学学校はSCE。最低の2Bから始めて順調にクラスは上がれず3Bで終わる。こっちに来るまで他の国の人間=よくわからない=怖い存在だった。いざ語学学校に入ってみると皆それぞれ事情があって学校にきてるし似たようなことを考えて似たようなことで悩んでるんだなということを知った。そう思うと親近感がわいて仲良くなれた。

 学校生活も1週間してなれた頃日系のサイトで"車関係なんでも相談受けます(Kサービス)!"との書き込みをみつけた。すぐに電話し、ラウンドのための車が必要で予算は$6000でワンボックスもしくは4WDが欲しいことを伝えるも$9000ないとまともなのがないと言われた。このKサービスの日本人Iさんはこのとき私が働くことになっていたジャパレスの店長Kさんにも車を売っていたらしい。私が世間はせまいですねとか言ってるとIさんが「せまいから悪いことできないんですよ」と言った言葉をとりあえず信用することに。彼の知人の車だという走行距離18万kmのTOYOTA99年式CAMRYワゴンを勧められたので2日間考えることにした。ネットカフェでCAMRYの相場を調べているとまったく同じ車を$3000で発見。そのことをIさんに言うとこれは整備前の値段だということで納得して言い値の$4500で購入することに。車の登録手続き関係とカーナビ(日本語対応。セール価格で$170だった)、ルーフボックス(バーとボックスで計$800)等のラウンド装備の購入にも付き合ってもらった。このIさんにも進められたのもあり車を使ってのバイトも考えたが学校との時間の兼ね合いがつかず結局ジャパレスで働くことにした。納車してすぐにエンジンスタックとか2回トラブルがあって2週間はまともに車を使用できなかったが全部無料で直してもらった。代車も用意してもらってたので海には行けていた。この後ワーホリ18ヶ月の期間中使用するが特に目立った故障もなく乗れていた。でもこのIさんは仕事マジ適当すぎ!な印象だ。

 やっと車が直り日本で愛用していた七輪焼肉セットも届いた頃、同じSCEの愛媛出身の野生児リュウジと友達になり「海部」を結成。他の友達も誘って海へ行くことに。その後同じクラスに入ってきたKoreanのHYUNと友達になり、彼も車を持っていたのでジャパニーズとKorean総勢10人車に詰め込み遠足気分で毎週海に行っていた。彼らは肉食文化だからか全員焼肉がとても上手だった。彼らからKorean流焼肉術サムギョプサル等色々教えてもらい、Korean食文化はおいしいということを学んだ。

 こっちは牛タンが安いです。Ashfieldのチャイニーズの肉屋の冷凍物で最安値キロ$6(ケアンズのWoolWorthでは生のタンがキロ$4でした)。大体舌一本1〜1.3キロあるので$7いかないぐらい。冷凍物を半解凍して皮を削いで薄くスライスして焼肉屋での牛タン6人前ぐらいはできます。しかもそのうち半分は上タンにあたります。ねぎとごま油とにんにくすりおろしで焼肉屋のねぎ塩タンができます。



3.ラウンド第一期 (シドニー出発〜ドニーブルックでのファームジョブ)

 学校も終わりAplac出身のリョウと私はファームを探すため、KoreanのHYUNは1stWHの期間が残り少ないため旅行目的でパースまで、同じく旅行目的でAplac出身のミズキはアデレードまで一緒にWAへ向かうことに。私とHYUNの二人ともアウトドアが好きで張り切ってそれぞれテントを購入したがこの旅中1回しか使わなかった。SAより西、外はハエが多すぎてキャンプするにはとても不愉快だったのだ。メルボルン、アデレードと見て周りアデレード市内でミズキと別れた。ナラボー平原を超えエスペランスと海沿いを、カンガルーを轢きたくないのでなるべく日中走るようにした。

 エスペランスからバッセルトンを目指しているときには日が暮れかかってきたのでナビであたりを調べてみるとドニーブルック(以下ドニー)という同じAplacのレイコが滞在している町が近くにあった。その日はその町に一泊してレイコに挨拶することに。翌日ドニーからさらに西の町、ワインで有名なマーガレットリバーで仕事がないか職業紹介所を2件回ってみた。そのうちのVINE POWERというマーガレットリバー周辺のファームジョブを管理しているところで私とリョウの二人ともに仕事があった。しかしHYUNが帰国を一週間後に控えていたので仕事はしなかった。

 その後HYUNは帰国し、ほぼ入れ違いに来たAplac出身のミカと合流し、3人で一週間西海岸をぶらぶらすることに。その間再びVINE POWERにいってみるともう仕事はなかった。この町は海から近いのでできればこの辺で仕事がしたかった。周辺のファームを10数件ほど直に聞いて回るも大体がVINE POWERにいけ、うちからは雇ってないという返事だった。その後ミカは日本に帰り、リョウも一時帰国するということで私は一人レイコの仕事あるかもという情報を頼りにドニーブルックにあるベティーズハウスに行くことに。レイコがベティーに話をつけてくれたみたいだ。このあともレイコには世話になった。美容師で手先が器用なので私のお尻の怪我の縫合部(後述参照)の抜糸を頼んだりしたこともあった。あの時はありがとうレイコ。

海難事故(28針)顛末記


ここでは私が魚突きをしている時に船にひかれた時の状況の報告と考察、反省を勝手に述べています。

1/1/2011
日本では毎年恒例になっていた初もぐりに出かけるもいつものポイントは大荒れ、透明度最悪、さらには波酔にて帰宅を余儀なくされる。

2/1/2011
 朝十時まで潜りに行こうかどうか迷うも前日が不完全燃焼に終わっていたので強行することに。心機一転ポイントを変えてルーウィン岬の北側のビーチ(岬北側のビーチでは最西端の場所)に行ってみると、、、あれ?全然波ないやん。そしてなかなかの透明度と魚影。どうやらルーウィン岬を境に外洋からのうねりの波はなくなるようだ。お土産用にブラックフィッシュとバンデッドスィープをゲットしてボンデン(手銛と15mのラインで繋げているブイ)の下にそれらをキープしてリップカレント(沖に行く流れ)にのってそのまま沖へでた。

 かなり速い流れが岬のほうに向けて流れていた。海底に魚影群を発見したので数回空潜りを繰り返していた。かなり流されるので海中の岩につかまって自分の位置を保持し、魚群の様子をうかがっていると急に手銛がグイッとひっぱられて腕が持ち上がった。なんか怖くなったので急いで岸に向かった。リップカレントに逆らって泳ぐためかなりがんばって泳いでやっと岸に着いた。さっき捕ったブラックフィッシュを見ると両面にくっきりとした歯形が付いていた。とりあえずバンデッドスウィープだけをフィレにして車に戻りクーラーバックに魚達をキープ。

 少し悩んだがやっぱりこれだけではしょぼいので再度お土産を捕りにもう一度沖に出る事にした。沖に出る途中水深5m付近にバンデッドスウィープを発見したので捕獲しようと何度か潜行を繰り返していた。海底にいるといきなりババババという船のエンジン音がすぐ近くに聞こえた。

 急いで浮上すると数mすぐ先に、、、船底!?、、、死んだ、、、
 同時に避けようと潜行を試みたが腰にドンと船底が当たる感触が。
 あれ?弾かれたから助かった?
 、、、が、すぐに右の腰のあたりをヴァンっとスクリューが当たる感覚が。
 やべ右側えぐれた?、、、あれ?動くわ、、、あれ?かなり出血してる!?
 てかさっきおったサメ(と思われる生物)寄ってくるやん!!ダッシュや!!
 、、、つーか岸とおすぎ!! 
 あれ? 結構足動いてるし、、、
 ババババと再びエンジン音が近づいて来て船がやってきた。
 Are you OK?
 んー出血、、、かなり出血、、、えーと、、、ノォ!、、、ヘルプ!へループ!!

 船上に引き上げられた私はとりあえず一安心。
 えーと、、、傷大丈夫?
 、、、パックリ!?
 右の腰の下の辺パックリ!?
 安心したせいか気を失いそうになる。
 も、、、いや!あかんがな!と立ち直り現状確認。
 フィンよし、手銛よし、ボンデン、、、!?流されてるやん(泣)。 ザッツマイン!ザッツマイン!! 

 私の必死の叫びも無視されビーチへ運ばれた私はそこにいたオージーのナイスガイ達に担がれて近くのホリデーハウスに運ばれる。そこにいたオージーの人達が止血処置をしてくれ、救急車を呼んでくれた。傷の状態が気になるのでとりあえず質問する。
「 ドゥーユールックマイボーン? 」あれ?こういうときはアーユールッキングかも(なんか妙に頭が働いていた)。

 No ,just Fresh. maybe you need stiching.
 「ジャスト スティッチ?」
 Yes.

とりあえず大手術にならないようなので一安心(皮膚移植とかになったらえらいこっちゃと思ってた)。オージー達の内、一人のおじさん(トムだったかな?)が「大丈夫だ。一晩病院に泊まるだけだから安心しろ。君の車は明日病院まで届けてやる」と言ってくれた(と思う)。でも「国に帰ったら君は英雄(船に轢かれたことが)だな。ハッハッハ」て言いながら頭をなでてきたのはイラッとした。

 救急車でバッセルトン(BUSSELTON)の病院へ搬送されるも上手な外科医がいないからとの理由で6時間待たされた。バンバリー(BANBURY)の病院へ再び救急車で搬送され、さらに1時間待ってやっと尻(切れたのは腰だと思っていたけど実際は腰と右の尻だった)を合計28針縫ってもらえた。実際糸で縫ったのは4針で残りはホッチキスのような金属芯で留められた。(後日抜糸の時は手伝ってくれたレイコと共にとても苦労した。金属の芯をニッパーで切ろうとしたが切れなかった。結局でかいプライヤー買うことに。)でも縫ってくれた女医さんは美人だった。
 一通りの処置が終わった後、ダンディな看護師さんに今日ここには泊まれないから帰ってくれと言われる。足がないから無理だと言うとタクシーを使えと言われたのでとりあえず外にでるものの夜中なのでタクシーはいるはずもなかった。どうしようかと思っているとさっきのダンディナースがやってきてしょうがないから泊まっていいよということになった。車のことが心配になったのでトムに電話すると明日届けてやるから眠そうにしながら言ってくれた。夜中に電話して不謹慎な行為だった。

 病室はインスタントコーヒーとかシャワー、トイレ、ツインのベッドがあり完全個室で病室といういうよりはビジネスホテルみたいなとこだった。翌日このトムの知り合い夫婦という人達が病院まで車を届けてくれた。彼らも昨日ホリデーハウスに泊まっていたらしくトムに頼まれたのかな?お礼を言って帰ろうとすると自分達はパースに家があるから君の傷が癒えるまで私達の家に泊まっていいよと言われた。しかし仕事(アップルシニングのコントラ)のことが心配だったのでお礼を言って断ることに。ドニーブルックに戻ってからも彼らからSMSで心配なので家に来いといわれたが、丁重にお礼を言って断り傷が治ったら挨拶しに行くからと返信した。実際はこの後仕事が忙しくていけてないが親切な人たちだった。

 病院代$160、救急車は別途$400(救急隊員の女性は救急車一回200$だと言っていた)の請求書が後日BPに届き電話してクレジットカードで支払った。助けてもらったオージー達に止血処置をしてもらう時にウェットスーツとウェイトベストをハサミで真っ二つに切られた。後日買いなおすことに。ウェットスーツ、ウェイトベスト合わせて60000円の出費。あとグローブ、チョッキ銛先等が無くなった。たぶん普通の人が見たらゴミに見えるし捨てられたんだと思う。 WAでスピアフィッシング、ダイビングをするときにはダイビングフラッグ(ブイに青と白の旗が着いてる奴)を使用することをお勧めします。というか使用しなさいと書かれた看板が海辺にあったような気がする。私もこの事故の後ダイビングショップにて60$ぐらいで購入。

 今回の事故は私のボンデン(オレンジ色で目立つ)に旗がついていなかったため船からは確認し辛く、このときは夕方で私は太陽を背にして船からは逆光で私を確認できなかったため起こり得たと思われる。またダイビングフラッグを使用していなかったのは私の方にも過失があるのでレジャーボートの運転手に対し治療費の請求はしなかった。治療費があまり高くなくて助かった。

 この事故の後、違う場所で潜っている時に水中ですぐ近くにエンジン音が聞こえた。今度はすぐに上がらずしばらく水中で様子を見た。その後だんだんエンジン音は遠ざかって行った。これ以降船の航路になりそうなところでは潜らないことにした。
 ドニー・ブルークに着いてベティーに会うと実際に仕事が始まるのは1週間後だと言われた。しかもベティーの家ではなく彼女の友達の持ち家をシェアハウスとして週150$で住むことになった。すぐにでも仕事がしたかった私はそこで出会ったKoreanのYUNと日本人カップルのユウスケ君とメグミちゃんを誘い翌日から自分たちでファームを探すことに。20件ぐらい周りそのうちの一件で私とYUNの二人だけ翌日からリンゴの間引き(アップルシニング)のコントラクトの仕事がもらえることに。ユウスケ君達は1週間半待って仕事がベティーからまわってきた。

 ちなみにこのユウスケ君はベテランのバックパッカーである。私が覚えている範囲で言うとヨーロッパ周辺を旅してスペインに二年、南アメリカを旅してオーストラリアには金を稼ぎにきたそうだ。その金で南アフリカを旅してワールドカップ見てからオーストラリアに戻って来てとかれこれ5年は日本に帰ってないそうだ。すごい人も世の中いるもんだ。

 ここのファームでは$2500程稼いだ。クリスマス、ニューイヤーと休みが多く、年始早々海で船にひかれてケガ(詳細は「海難事故」に記載)をした事もあってあまり稼げなかった。ケガのため仕事ができなくなった、というかアップルシニング自体終わりみたいだったので相方のYUNもしばらくして仕事がなくなった。YUNは韓国の大学生で2ヶ月限定でこっちに来ていたのでその後パース周辺を旅行して韓国に帰っていった。

 全治10日の尻のケガが治りかけたときにユウスケ君のバックパッカー友達の北斗君という人がドニーにやってきた。彼も仕事を探していて翌日から一緒にファーム探しに出かけることに。結局その日は仕事が見つからず、翌日私達が住んでいるシェアハウスのマネージャー、ブライアンが力になってくれて一緒に前日周ったファームを除いてさらに10件ぐらい周ったが仕事はなかった。北斗君もフリーマントルに帰っていった。その翌日一人でファームを探していると前日に行かなかったファームがあったことを思い出した。駄目もとで行ってみるとアップルシニングの1週間だけの仕事があった。ファーマーはちょうど二人欲しいとの事で北斗君に連絡して一緒に仕事をすることに。きっかり一週間後には仕事がなくなり北斗君はまたフリーマントルに帰っていった。

 ちなみにこの北斗君、20歳のころより単身イギリスで生活し、そのあとヨーロッパ諸国を渡り歩き今では50カ国もの国に行ったそうだ。ユウスケ君とも南アメリカ、エジプト、南アフリカの三大陸で再開した仲らしい。最近ではアフガン、イラク、イランを回って一度日本に帰国。オーストラリアには金を稼ぎに来たと言っていた。私より1カ月程AUSに来たのは遅いがすでにこっちで仕事をいくつも転々とし北のジェラルトンという町で伊勢エビ漁師の経験があるらしい。パースのノースブリッジで変な帽子かぶって立ちションしてたらポリスにここから出て行けと言われ、彼は友達を待っていたらしくそのまま留まっていたらまたポリスがやって来てオフィスに連れて行かれ全裸にされて調べられ、さらにはその件で裁判所にいかなければならないそうだ。このときカルグリという金鉱山の町に仕事を探しに行くことを決めていたらしいのだが裁判の日まで動けなくなったそうだ。

 彼は政治家をめざしているらしい。30歳で北海道の参議院選に出馬(彼は北海道出身)し、当選して参議院になれる場合300万円を国に収めなければならないらしく、短期間でお金を稼げる方法としてオーストラリアで働くという選択をしたみたいだ。総理大臣を目指し、最終的には国連で平和憲法を打ち出すまでのプランはあるらしい。そして彼が首相になれた時には歌手の中島美嘉に結婚を申し込むそうだ。もし政治家になれなかった場合は北海道で筋子(鮭の卵巣の塩漬け)職人になるらしい。なんでやねんとツッコミをいれたくなるが、理由は彼は筋子が超好きだから。

 むちゃくちゃな経歴のため最初は信じられなかったが彼は全てに本気だった。この出会いは衝撃的だった。私は今まで人に優しくするにはまず自分が幸せでなくちゃできない、そのためには自分がまず幸せになることを考えようと思ってそれを追求してきた。このとき彼の話を聞いて自分のことばっかでいいのかと。彼は世界平和を実現したいという夢をもっており、私は個人が幸せになることばかりを考えている。同じ年でこうも考えが違うものかなと自分が情けなく思えた。

 その後二日だけのファーム($200稼いだ)、シェアハウスのKoreanの友達の紹介で1日だけのファーム($120稼いだ)を経て中規模のファーム、アイアンストーンバレーでトマトピッキングの長期の仕事がもらえることに。このファームはいろんな果物、野菜、を持っており、パッキングから販売まで自分達で行っている。作物の収穫時期をずらすことで絶えず仕事はあり、それを少人数のワーカーでまわしているようであった。男性は力仕事ができるのでレギュラーメンバーには毎日仕事がある。女性はパッキング班になるのでピッキングがないときは仕事がなかった。ここは以前ブライアンにファーム探しを手伝ってもらった時に周ったファームで、その時の印象ではもう少したてば仕事があるかも的な雰囲気だったことを思い出し、もう一度訪れた時にはちょうど翌週からトマトの収穫が始まる時期だったみたいだ。運よくここのレギュラーワーカーになれ、ここでは自給$18.15で2ヶ月半で$8500程稼いだ。この時点で1stWHの期間が残り3ヶ月で、日本に一時帰国するかどうか迷っていたこともあり1stの期間が終わるまではこのまま今のファームを続けようと思っていた。
 少し話は戻り、初めてパースに着いたとき私の中でオーストラリアで永住権を取って住み続けるという選択肢は無くなっていた。なぜならばこの時点でオーストラリア全州でハタ科の魚全般がほとんど絶滅危惧種に指定されており捕獲できないことに気付いたからである。NSWでもハタ科の捕獲は禁止で一番田舎であろうWAに期待していたのだがNSWとほぼ似かよった内容であった。私の魚突きライフにおいてハタ科の魚が捕れないという事はその面白さが半減してしまう事を意味するのである。この事実に気付いた時、私はこれ以上オーストラリアを旅する気が無くなっていた。さらにこれまでの海で危険な目にあってきた事も関係する。

 魚突きの最中に手銛で突いた魚(80cm)をブイに引っ掛けてあった。ほんの10分間程貝捕りに夢中で気付くと何かに2mmのプラスチックラインを食いちぎられて魚を持っていかれていたり、タコ捕りの最中にふと気配を感じ後ろを振り返ると巨大なエイが手銛で突いた魚を食おうとしていた。また、かなりの速い海流域の水深10mの岩に?まっていた時に手銛と15mのラインで繋いであるブイの先に引っ掛けてあった魚に何かが噛み付き、そのままくわえて引っ張っていったりしたことが続いた。


 オーストラリアはとにかくサメとその仲間達がめちゃくちゃ多い。ということはもちろん人食いザメも多いのだろう。さらに捕った魚を水中で保持するのはそれら危険な生物を呼び寄せる行為だということに気付いた。これらの事象があってからは最良の安全策として魚を捕ったらすぐに海から上がるようにした。まさに一本捕ったらすぐ上がる。一本勝負しかできない。小さいおかずサイズの魚をいくつか捕ってブイに引っ掛けておくいわゆる"おかず捕り"が安心してできないことも魚突きにおける楽しみが半減することを意味していた。

 オーストラリア全沿岸で魚突きをするという目標もあったがオーストラリア北部の沿岸部、WAブルーム以北からQLDロックハンプトンまでの緯度の範囲内(厳密には河口から半径2km)の沿岸部やビーチはクロコダイルの生息域のため実現不可能であった。

 また好きな女性がいて告白したが振られる。振られ野郎で魚突きの目標も達成できずワーホリ終了ということになりたくなかった。とりあえず働きながらラウンドしてという初期の目的を完結すべくファーム生活をしていたわけだがそれももう限界だった。これ以上ワーホリを続けることに意味があるのかと自問自答の日々だった。このまま1stワーホリビザが切れるまでは今のファームを続けてから日本に帰って今後について考えようと思っていた。

 2ヶ月ぶりに北斗氏から電話があった。彼はあの後裁判が終わりカルグリまで金鉱山の仕事を探しにいったが仕事はなかったそうだ。そして今はフリーマントルで漁師の仕事を見つけて働いているらしい。今ジェラルトンでイセエビのシーズンだからすぐ行けば仕事があるかもと教えてくれた。以前私が彼に漁師の仕事をしたいと言っていたのを覚えててくれたようだ。いい話だったが今は行けないと伝える。このときユウスケ君達も私と同じファームで働いていており、毎朝彼等と一緒に車で通っていたため急に今のファームはやめることができなかった。その後ユウスケ君達は1stWHが終わりバリ島に行き、ほぼ入れ違いにAplacのコウタ、サユリ夫妻がドニーにやって来て彼等も宿を探しているとの事で私と同じシェアハウスに住むことになった。

 しばらくしてまた北斗氏から電話があった。今度は北斗氏の働いているエビ漁船で空きがでたらしく乗りたいならボスと話をつけてくれるという話だった。パースの北1500kmの町カラサ(KARRATHA)でエビの底引き網漁をするらしい。船に乗った場合車のことが心配だったのでそのことを彼からボスに伝えてもらった。するとカラサまでは車で行き、そこから船に乗り込み漁を開始するということになり、そこまでのガソリン代も出してくれるとの事だった。この頃ファーム仕事にもマンネリを感じていたため二つ返事でお願いする。なるべく速く来てくれということで急遽アイアンストーンバレーを辞めて翌週には彼の住むフリーマントルへ行く予定にした。

4.ラウンド第二期 (ドニーブルック〜フリーマントル〜カラサでエビ漁師)

 ドニー・ブルークを離れる当日北斗氏に電話すると、とりあえずパースに来てくれと言われた。パースに到着し彼に電話するとメインストリートに3時に来いとのこと。

 しばらくシティをぶらぶらし、3時になったのでメインストリートに行ってみるとHELP JAPAN!の看板を掲げ楽器を演奏する若い日本人達の中に彼を見つけた。先の津波による災害の復興支援金をつのるチャリティーバスキングをしているのだった。リーダーの人がパースのバスカー(路上のパフォーマー)達に声をかけてできた集まりらしく、震災の翌日から毎日路上での演奏を続けもう1ヶ月以上になるそうだ。しかもすでに$20000集まり日本に送ったらしい。あいかわらず彼はかっこいいことしてんなって思った。

 船に乗る前にお互い腹を割って話しておきたいことがあるとのことで日本酒と冷凍サバ、スルメ等を購入してシティから彼が現在住んでいるエビ漁船のあるフリーマントルまで帰って七輪でサバ焼いて日本酒飲みながら話すことになった。

 彼の言いたい事は「俺は政治家になるために誰になんと言われようがこの船に乗って稼ぐ気でいる。同じ日本人だからこそ中途半端な気持ちで乗られたら迷惑だ」ということだった。(後日彼がこの時こう言った理由を考えてみた。私が電話でエビ漁師の話をもらったときに「ファーム仕事に飽きてたんでちょうど良かったですわ。ありがとう。」という言葉を言った事を思い出した。彼は車を持ってないので全部港を歩いて周ってこの仕事をゲットしたと後から聞いた。彼に対して失礼なことを言ってしまった。彼が怒るのも当然だと思う。)私の事情も説明する事に。私には60歳でメーターオーバークエ(1m超えのクエ)を捕って孫に自慢するという夢があること、その夢をAUSでかなえようとしたがクエの種類全般がAUS全土で絶滅危惧種であるため実現不可能であった。また好きな女性がいて告白したのだけれど振られて、あきらめきれない私はなんとかそいつに似合う男になろうと思い、とりあえずは金を稼げる男になろうと思っていること。またAUSに来てから漁師をするということを口走っていたためそれを実行するまで帰れないということを伝えた。

 この話し合いがあり私は別に漁師の仕事を探しに行くことにした。その日は船に泊まらせてもらい翌朝出発しようとしたときに彼が「言いたいことは伝えたし別に一緒に船に乗ってもいいよ」と言ってくれた。その日の昼に船長のブルースに会って船での仕事が始まった。それからは同じ船室でほぼ毎日彼と寝食を共にすることになった。船での宿泊は無料だった。

 船はまだ漁の準備をしている段階で私達の仕事は船のペンキ塗りだった。仕事が終わるとバスキングに行く彼に付き合いシティまで一緒に行った。募金をしてくれた人達に渡す折鶴を折っていた女の子達がいたので私も何かしなくてはと思い演奏中ずっと折鶴を折っていた。この時ちょうどパースに来ていたAplac出身のカナコに会った。すごくたくましくなってた。オーラが違う。オーラは見えないけどそう感じた。探検家みたいな帽子も似合ってた。

 一週間後にはバスキングチームのリーダーの観光ビザがきれるためチャリティーバスキングも終わってしまった。仕事の後やることがなくなった為そのときパースに来ていたAplac出身のトモエも誘ってフリーマントルのビール工場"リトルクリエイチャー"のバーに飲みに行くことに。このバーに行く道中彼が「そういやあなたジェラルトンの漁師の話があったときいかなかったよね?」と言ってきた。この言葉から彼は私が彼を利用して楽して漁師の仕事を手に入れたと思っているのかと思ってショックだった。やっぱり漁師の仕事は自分で探そうと思った。とりあえずパブに着いたのでビールを飲んでトモエとしゃべっていたら急に北斗氏が「おまえはいったいなんなんだよ!!」と私にきれてきた。

 とりあえずトモエがいるので彼と二人で外に出て話すことに。(この時彼は私が魚突きのためにオーストラリアに来たということが信じられず、なんか裏があるんじゃないかとでも思っていたのかもしれない。)あの時ジェラルトンにいかなかったのはユウスケ君達と仕事をしていたため急には無理だったという事ともう一度私の事情を説明した。「そんなに魚が好きなんだったら漁師すればいいじゃん」と彼は言った。それは音楽が好きなんだからプロのミュージシャンになれと言っているのと同じだと言うと彼は納得がいったようだった。そして明日には船を出て行くことを伝えた。その晩トモエが帰った後船の前で北斗氏とビールを飲んだ。彼に「あなたのことを誤解していた。でもそんなに好きな奴がいるんだったらなぜその子の傍にいてやらない。エビ漁船に乗ってる場合じゃないだろ」と言われた。

 たしかに私もすでにこの時はもうAUSでの目標を失っており、好きな女性も日本にいる(振られてるけど)。漁師になると口走っていたことに対してのけじめ(というか見栄?)をつける為だけにこのままWHを続けていくことに意味を感じなくなっていた。翌日船長のブルースに出て行くことを伝え、仕事が終わってからパースのシティへ向かった。夜の街をぶらぶらしながら今後の予定について考える。翌朝にとりあえず日本に帰って考えようかなと思ったのでHISに航空券を見に行った。航空券を予約して今後の予定を考えようと思い店から出て歩いていると北斗氏からの電話が鳴った。彼は「俺は最近バスキングで疲れてておかしかった。こんな感じであなたと別れたら次会った時うまい酒が飲めねえよ。ブルースには話しといたから戻ってきなよ」と言ってくれた。私が自分で探した漁師の仕事じゃないしとか言っていると「んなもん関係ねえ。仕事なんて結局は運でつかむもんなんだよ。金稼いでその子に持っていってやれよ。」と彼は言ってくれた。その日の午後からまた彼との共同生活が始まった。

 船長(スキッパー)のブルース、エンジニアのアレックス、DECK BOSSのクリス、DECK HANDの北斗氏と私の合計5人でカラサのニコルベイ沖合いで漁をする事に。船長のブルースからは仕事をした日は100ドルもらってた。出港が近くなると仕事は忙しくなったが無給になった。通常は出港準備期間中に給料はでないらしい。1週間後には出港だということを聞いていたのだがなぜか出港準備は非常にゆっくり進み、出港はどんどん先延ばしになっていった。出港日は延びるし給料は出ない。

 夜は船にいてもつまらないので北斗氏が以前住んでたシェアハウス(フリーマントルのジェイソン邸、パースのナンナン荘)にしょっちゅう肉とビール持って行って七輪で宴会していた。また北斗氏が港で2kgのタコ見つけて私が突いてたこ焼き宴会したり、北斗氏がドラム缶拾ってきて五右衛門風呂大会兼宴会することになったり、北斗氏が音楽仲間とパブのフリーマイク制度を使ってゲリラライブしたりと宴会ばかりしていた。気付いたら私と北斗氏のそれぞれ$1500ずつ稼いだはずだが全部なくなっていた。やっと船がカラサへ出港した日には私がフリーマントルに来てから40日が経過していた。

 船はカラサに着くまで5日かかるらしく私は車を持っているので北斗氏とトモエ(北斗氏に説得され付いて来ることに)の三人で陸路でカラサまで向かうことに。途中ジェラルトン、エクスマウスと弾丸ツアーで周り、カラサに着いて北斗氏の友達と会い、その友達のシェアハウスで飲んで寝ていたら翌朝ブルースからの電話が入った。今カラサから20km北のデンピアーという港にいるからすぐ来いとのことでトモエを一人カラサに残しデンピアー港へ向かった。車はデンピアーのボートハーバーに放置し船に乗り込んだ。エビの底引き網漁船シーパール2号での漁師生活が始まった。(エビ漁の詳細な情報は別途「AUS海日記 エビ漁師編」に記載)

 このエビ漁師では漁の準備期間も入れて約5ヶ月(実際船に乗っての漁は約4ヶ月間)で総額$16000(フリアコ、メシ代込み)稼いだ。

 順調に北斗氏と11月のシーズン終了までエビ漁で稼げると思っていたのだが8月に入ってから北斗氏は2WHビザが下りず船を降りた。彼はセカンド申請の時にアフガン、イラク、イランに行ったことと立ちションして捕まった件について正直に申告した。そうすると前者の方に対してはレントゲンを撮影しろという指示があり、後者の方は詳細をメールで送れということになった。彼の1WHビザが切れるまで1ヶ月を切っていて船長のブルースに相談するとビザが下りそうになかったら船を降りろという指示がでた。寄港時にカラサの病院でレントゲンを取り指定のところに送付し、メールも送ったが結局は直前までビザが下りず彼は船を降りることになった。(※)その後彼はパースに戻りイミグレに行った。こういう場合はブリッジングビザになるらしく、1ヶ月以上2Whビザが下りないのはおかしいとのことでQLD州の本部に連絡してもらいその後何とかビザは下りたそうだ。それから彼は東南アジアに飛び、10月にまたジェラルトンでイセエビのシーズンが始まるので帰ってくることになった。

2WHビザは正直に申告しない方がスムーズに行くのかなという疑問が生まれたので田村さんに質問してみました。

ワーホリ申請ごときでイチイチ過去の来歴まで問わないだろうけど、後々永住権だのなんだのとなった場合、キチンと各国照会するかもしれず、そうなるとせっかく点数は足りていても、過去に嘘をいったからダメというトホホなことになるやもしれません。
だもんで、馬鹿馬鹿しくても正直にやったらいいと思いますわ。
その場かぎりで良いんだったらいいけど。

その時のメールの内容を一部抜粋して転載します。
> 日本人の場合セカンド申請は正直に申告しないほうがスムーズにいくんですかね?彼は1WHビザ申請のときにアフガン、イラク、イランに行ったことを申告しなかったそうですが。

誰の場合がどうというよりも、黙ってれば済む場合もあるけど、黙っててあとでバレたら倍返しでしっぺ返しを食らう場合もあります。
ヨーロピアンとかは別にビザ(パスポート)に傷がついても、彼らはEUの中は自由に行けるし、あんまり困らないけど、日本は海に囲まれているだけにビザに傷がつくと面倒臭いって側面もあります。
今回も、1回目の不備を二回目で補ってやろうというわけで、まだしも好意的ですよ。
本来だったら、1回目に嘘をついたということで不法入国扱いされても仕方ないんだから。

ようするに日本人の場合後々のことも考えたら正直に申告した方が良く、ビザが下りるまでの期間が長くなることも考慮すると2WHビザ申請は早めにした方が良いということだと思います。

5.ここまでのまとめ

 オーストラリアではクエ、その他大型になるハタ科の魚は絶滅危惧種のため捕獲禁止である。ジャイアントクイーンズランドグルーパーもジャイアントポテトコッド(カスリハタ)もブラックコッド(クエ)も捕ってはいけないのだ。もしオーストラリアの海で一生に数回あるかどうかのメータークラスのハタが突けるチャンスに出会ってもこれをスルーしなければならないのだ。そんな事になったらくやしくてたまらないだろう。オーストラリアでの私の夢は潰えた。

 しかしAUSに大冒険する気でやって来て毎回自分を追い込んで海に潜っていたので魚突き力は確実にレベルアップできたと思う。日本でメータークラスのクエと戦える自信もついた。オーストラリアでサメにびびりながら潜り続けるのは怖いのでもう嫌だ。私の60歳でメータークエ捕って孫に自慢するという夢は日本でかなえることにしたい。

 私が乗ったエビの底引き網沖合漁業船は一旦漁に出ると2〜3週間は陸に戻らない。戻ったとしても燃料補給と食料補給をしたらすぐにまた出港する。海に出ている間エビが獲れないと仕事がない。そのため暇な時間はたっぷりあり、これまでに在った出来事を咀嚼して考えるには良い機会だった。この体験談もその時にまとめたものである。時間はたっぷりある。周りは大海原。自由に動き回れるのは漁船内のみ。Aplacのコウタの表現を借りるとこの状況はまさにドラゴンボールの「精神と時の部屋」である。また漁船内に住むのでフリアコ、フリ飯でエビ獲れなくても金が減らないのは良かった。でも私は自由がないと生きている実感ができないので仕事とはいえエビ漁師はもうやりたくない。

 よく魚突きやってますっていうと言われる言葉「そんなに魚捕るのが好きなんだったら漁師やればいいのに」。えび漁師やってみてこれに対する答えができた。近代装備の船に乗ってウインチ動かしてエビや魚捕っても全然楽しくないのだ。魚を捕るという行為がただの作業になってしまい、そこには感動がないのだ。憧れの魚を初めて突いて手にした時の思わず雄叫びをあげてしまう程の歓喜と興奮と達成感、新しいことを発見した時の感動、新しいことを試す時、新しい場所で潜る時のワクワク感、いい魚を捕って皆で食う喜び。そういったものがほとんどないのだ。はっ!というかそういった事を味わいたいから魚突きをしていたのか!ということに今更ながら気付いた。これが「精神と時の部屋」効果だと思う。それとあともう一つ、漁師がクエ捕って孫に自慢してもそれはあまり自慢にならないという事に気が付いてしまった。

 オーストラリアでは面白い人間にたくさん出会えた。彼等にはいろんな生き様を見せてもらった。夢をかなえるために来た奴、夢を探しに来ている奴、なんかだかよくわからんけど常に楽しそうで見てて飽きない奴。夢を手に入れた人もいて、でもその後もやりたいことはしっかりあって楽しそうで、そんな感じで人生って死ぬまでおもしろいんだなって事なんだと思う。

 バスカーの天国パースであったチャリティーバスキングではめちゃくちゃ個性の強い日本人達に出会えた。皆ほぼ私と同世代で音楽やっててロンゲかドレッド、もしくはボーズで極端すぎる。普通の髪型してるのは私だけだった。バスキングリーダーの人は「革命おこしてぇ」って普通に会話で言ってた。どうゆう人生を送ってきたらそう思えるんだろう。ラーメンマンみたいな髪型で常に手の中で水晶玉がまわっている不思議な人(本人曰く彼は人ではなく妖精らしい)もいた。なんだか皆ただものではない。北斗氏を筆頭に今までこんな日本人達が存在していることも知らなかった。皆それぞれ自分の人生を謳歌してんなって感じだ。てゆうか私が知らなかっただけで面白いことをしている奴はいっぱいいる。他にももっといるだろう。彼等に負けないように私もおもしろい人生にしよって思う。

 特に北斗氏の今後の人生にはすごく興味がある。なんせ夢は世界平和だし。まじですげえ。彼はオーストラリアの後東南アジアを周り、日本に帰ったら日本文化を学ぶため京都に修行に行くらしい。また日本酒もって会いに行くことになるだろな。

 田村さんを通じて出会えたAplacの仲間達。「同じ釜(田村さんの作った)の飯を食った仲」、「戦友」、「良きライバル」、「田村チルドレン(語学学校でAplac出身者はそう呼ばれていた)」。

 彼等とはお互い感化され合いながら面白い人生を送ることを競い合いたい。



 →本編第二部に続く



★直筆体験談
★→語学学校研究へ行く
★→ワーホリの部屋に行く
★→一括パック現地サポートを見てみる
★→APLaCのトップに戻る
APLaC/Sydney(シドニー多元生活文化研究会)


tamura@aplac.net
禁無断転載/(但しリンクはフリーにどうぞ!)
Copyright 1996- APLAC. No reproduction or republication unless Copyright law allows.