ということで、続きます。
前回までの殺伐として「無理やりやらせる」方法論ではなく、今回は相手に自発的に「その気になってもらう」方法論です。
この方がはるかに難しいと言えます。無理やりやらせるパターンは、要は「力」があればいいわけです。相手が逆らったら「ひどい目」に遭わせられるだけの実力---それは暴力でも、権力でも、人脈力でも、知識でもなんでもいいですけど、それを持っていればいい。そしてそれを身につけるのは、多くの場合は自分だけの作業で済みます。山ごもりをして気が狂ったような鍛錬をして世界最強の男になればいいし、ひたすら地味な勉強を重ねて難関資格や技術を身に付ければいい。もちろん大変な作業ではあるのだけど、しかし、自分が黙々と頑張りさえすれば何とかなりそうだという意味では楽ですよ。
量的に積み重ねれば良いものは、積み重ねればいいだけ。1万時間練習して負けたなら2万時間やればいい。大雑把にはそう。方法論的には、もう少し巧緻にこうやると効率的とか、こうすると却ってダメとか掛け算があったり、割り算があったり、微積分があったりもするけど、いずれにせよアバウトには計算しうる。なぜなら人間個人の「力」の向上というものは、とどのつまりはバイオケミカルな変化に収斂されるからです。それが身体能力であれば反復継続する刺激(つまり練習)によって筋・心肺・反射などを細胞の新陳代謝時にヴァージョンアップさせることですし、知的能力であれば、これまた継続的な変化(勉強)によって、脳内の神経細胞やシナプスをぶっ太くしたり結節させたりに尽きる。いずれにせよ生化学的な変化、サイエンティフィックなものです。ペンを持ってる時間が長いとペンだこができるのと同じ原理。
ところが、他人を「その気にさせる」のは、自分ひとりがいくら頑張っても無理です。「相手の自由意思」という決定的な「変数X」が入ってくるから計算出来ない。「こういう刺激を与えると人はこう思う」という心理学や精神医学的な所見もないわけではないが、諸説入り乱れているし、前提条件や外挿条件(趣味嗜好や過去のトラウマなど)がやたら多すぎて基本的には計算不能です。「他人のこころ」というのは、計算しようにも、それがプラスなんだかマイナスなんだか、そもそもそんな演算法則とかアルゴリズムがあるかどうかすら分らないし、明日になったらもう気が変わってるかもしれない。100年努力してでも、「やだ」と言われたらそれで終わり。
だから難しいし、だから面白い。
これって一種の「魔法」ですよね。無理矢理・力系が10年かかるところを5分でやってのけられるかもしれないし、逆に宇宙の終わりまで努力してもダメかもしれない。ある種の呪文を唱えたら天使が出てきてくれるかもしれないけど、悪魔が出てきて地獄に連れて行かれちゃうかもしれない。
なにをクダクダ述べているかというと、無理矢理系(いわば努力系)とは
成り立っている原理が全く違う、ということを強調したいがゆえです。「頑張ればいい」という論理則ではなく、それとは別の原理がある。
では、どうすれば良いか?ですが、あれこれ考えた末に、結論的に凝縮していってしまえば、やっぱりここでも「頑張ればいい」なんです。
あれ?!と、ここでズッコケたり、当惑されるでしょう。結論は同じなんです。確かに同じなんだけど、だがしかし、作用原理がまるで違います。順次説きます。
「その気になる」研究
他人が「その気になる」になるというのはどういう場合か?
どういう条件が整えば、人は「その気」になってくれるのか?
まずはルール
ここは人間心理の妙味ですけど、あ、まず、最初にルールを設定しましょう。
他人を「その気にさせる」といっても、騙してその気にさせるのはダメ、洗脳もダメ、そして利益誘導もダメにしましょう。
なぜなら、これらは本質的に「その気」になってくれたわけじゃないからです。人の自由意思の形成過程に、何らかの(好ましからざる)干渉を加えている。「騙す」場合が典型的ですが、虚偽の事実を告げて、全く異なった前提でモノを考えさせて、ある方向に決意させているわけで、もし騙さなかったら違う結論になった可能性が高い。自由意思を「不自由」にすることで目的を達成しているわけで、これはダメでしょう。民法上の意思表示の瑕疵という項目で、詐欺と強迫を同一条文で書いている、、、えっと96条だっけな、、ことからも騙しというのは脅しと同列です。洗脳は、意思形成の自由性をもっと奪うから論外。
次に利益誘導ですが、こうするとお得ですよ、有利ですよというのは、別に詐欺でも強迫でもないし、普通のビジネスや営業トークは基本これですから、悪いことではない。それはそれとして「説得技法」「交渉技術」として知っておけばよいし、知っておく必要すらある。でもここで除外するのは、それってどっちかというと、最初の「無理やり努力系」に近いんですよね。だって、終局的には相手にちゃんと利益がもたらされるような客観的状況を頑張って作り上げられるかどうかに帰着すると思うのですね。商品やサービスを売り込むにしても、それ相応の商品力がなければ、利益誘導(お得でっせ)なんか出来ない。なんせ「利益」がないんだから。そこをなんだかんだ舌先三寸で丸め込んで、「しょーもない商品を素晴らしい商品のように思い込ませる」のであれば、それはもう「騙し」のカテゴリーに入ってしまう。騙したくなければ、相手にしっかり利益をもたらさないとならない。利益をもたらすためには、そういったリアルな現実をまず構築しなければならない。
ここで僕が対象にするのは、騙しでもなく、利益誘導でもなく、また表現技術に尽きるものでもなく、百パーセント自由意思で心底その気になってもらうことです。「おっしゃ、わかった!一肌脱いだる!」って、相手に「男気」を出してもらうことです。
言うのは簡単。「感動!」
人がそういう気分になるときは、どういうときか?
これを簡単にいってしまえば、
「感動したとき」だと思います。
「おおっ」と何らかの感動をするから、何かをしてあげようという気分になる。助けてあげたい、力になりたい、私にできることがあったら言ってくれ、となる。
じゃあ、他人に感動を与えるにはどうしたらいいか?ですが、これも簡単にいってしまえば自分が感動的な人間であったり、感動的な行動をしてればいいんですよね。自分が感動的なことやってれば、周囲の人間も感動してくれて、いろいろ助けてくれるよってことですね。ね?すごーい簡単でしょう?
いや、実際、超簡単なんですよ。言うだけならね。
「言うは易く行うは難し」といいますが、正真正銘、これがほんまにそうですわ。
そんな簡単に感動なんかできるかい!ってことですよね。じゃあ何か、シャンプーで髪の毛を洗う時でも「感動的な洗い方」があるんかい、コンビニで買い物するにしても「感動的な買い物」なんかあるんかい?って。感動、感動いわれても、なにをどうすれば感動するかなんか分からんわ!ってね。
んでも、漫才ノリで返せば、分からんのやったら考えたらええやん?キミの首から上についてるもんは何や?頭は何のためについてんねん、ただの飾りかい?ってことで考えましょう。
僕らはどういうときに感動するのか?
スパっとは分からないけど、ある程度の「あたり」はつきます。
ここが皆目見当がつかないんだったら、この世にアートなんか存在しえないでしょう。アートなり表現なりというのは、自分が感じた感動を他人に伝える作業一般なんだから、ここが全くダメならその種の活動が一切合切ありえないことになる。またビジネス的にも「感動の超大作」なんか作れっこない。とは言いつつも、カクテル作るみたいに「ウォッカを1オンスにレモンを少々」みたいに決まったやり方があるわけではない。だから感動の超大作という鳴り物入りの映画がよくコケたりもする。何らかの切り口はある、だけど確定的でないって感じ。「あたりがつく」というのはそゆことです。
さあ、考えよう、僕らはどういう時に感動するのか?
ブレストみたいにいくつかランダムに上げてみましょう。
嘘があってはならない
これ超大事だと思います。よく売れる映画を作りたかったら、子供か動物を出しておけばよいとか言いますよね。子どもや動物で売るのは「反則だ」とすらいわれたりもする。つまり、子どもや動物は、ほぼ確実に感動を醸し出すサムシングをもっている。子供と動物の真部分集合みたいな「動物の子供」は、もう鉄板に確実。壁紙でもカレンダーでも子犬とか子猫をだしておけば、一定レベルの好意的なアテンションは得られる。
なんでか?子どもや動物が持ってるサムシングとは何なのか?
愛らしい?可愛い?たしかに可愛いです。でも、なぜ僕らは可愛いと感じるのだろう?
造形美としての麗しさもあるとは思います。でも、ちょっと違う気がする。たしかにビジュアルに感動を与えるんだけど、「美しいか?」と言われると微妙ですよね。たとえば動物の子供でもアンバランスに頭が大きく、顔だってブルドックとかクシャクシャだったりするし。成獣だけがもってる優美な美しさ、例えば草原を疾駆するチーターなんかため息がでるほど美しいけど、それは賛美するという感じであって可愛いって感じではない。だから造形美にポイントがあるわけではないのだろう。
やっぱ無垢でイノセントな感じがいいんでしょうね。
イノセントといっても天使のように「善性」に基づくものではないでしょう。子供って結構残酷だし、意地悪だし、「正しいか?」「善か?」と言われると、必ずしもそうでもない。動物だって、獲物を引きずり倒してハラワタとか食いちぎっているわけで、残酷っちゃ残酷ですもん。
ここでいう無垢でイノセントというのは、
狙ってやってない、計算して可愛い子ぶってるわけではない、あざとくないって部分になると思います。思ってることとやってることが100%一致している感じ、仮に一致しなくても、例えば「本当は欲しいけど意地はって我慢している」んだとしても、その我慢している感がアリアリとわかるから、嘘になってない。
つまりは
「嘘がない」ってことだと思います。
ヤラセでもなく、作りもなく、嘘がない、嘘が感じられない物事に対しては、僕らは時として他愛のないくらい感動してしまう性質を持っているのだと思います。
しかし、話はラッキョの皮むきのように無限に続くのであって、じゃあなんで嘘がないと感動するのか?と、また新しい疑問が出てきますが、それは次項以降でわかってくると思うので、次いきます。
胸を打つ態様〜ひたむきさ、真摯さ、誠実さ
これもツボで、ダラダラいい加減にやってる奴には誰も力を貸そうという気にならない。
「頑張らなきゃ」「勉強しなきゃ」って口ではいう。言ってることに嘘はないこともわかる。だから条件1(嘘がない)のはクリアしているのだけど、見てると結局何もやらない、やってもボチボチですぐやめちゃう。でもって、状況が〜、日本経済が〜、○○が悪いとか、「しょせん〜なんて」構文でものを言うとか、言い訳ばっかし、他人のせいばっかし、、、って、こんな人が近くにいたら、「いい加減にしろよ」って言いたくなりませんか?
でもって、あれこれ愚にもつかない言い訳を並べるだけ並べて、「悪いけど、ちょっと3万円貸して?」とか言われたら、あなたは貸しますか?
そりゃあ困ってるのもわかるよ、真剣に悩んでいるのもまあ善解しましょう、嘘はないんだろう、本気で他人のせいだと思ってるんだろう、でも、「その気」にはなれないよな。「おっしゃあ、俺にまかせとけい!」って「男気分泌ホルモン」は刺激されない。
なぜか?やっぱ、真摯ではない、必死ではない、ひたむきではない、根本的に誠実ではないからでしょう。
男気ホルモンというのは、理屈では刺激されない。言ってる内容がいかに論理的で、いかに正しくても、そーゆーことではないのだ。内容よりも「態様」なのだ。その人の「姿勢」や「たたずまい」によって、一種の「場の理論」みたいな、波動関数みたいな、オーラみたいなものに刺激されるのだと思います。
かつてAPLACに来られた方で、ブルーハーツの歌詞のような素朴な体験談でも人気の高い方がおられます。まだ高校出たばかりの19歳の好漢ですが、彼はオーストラリアでめっちゃくちゃ人に助けられてます。チャリンコでオーストラリアを2周だか1周半だかしてますが、その半分以上の行程は、通りがかりの見知らぬオージーに助けられてます。高校生に毛が生えた程度の世間知でガムシャラにいくから、すぐに挫折。筋肉や関節が炎症になり、脱水になり、もう指一本動かせないくらい疲労困憊して人里はなれた峠道でぶっ倒れていると、通りがかった陽気なオージーが「お!」とか思って、荷台に乗せ、家に連れて帰り、メシを食わせ、病院に連れて行き、チャリも直してくれ、おまけに餞別までくれたという。そんなことが延々と続く。
なぜかといえば、かれの「ひたむきオーラ」は半端じゃないんですよ。ここまで獰猛な動物オーラを出してたら、今のヒヨワな日本社会では浮くだろうけど、こっちは彼に輪をかけた獰猛な動物王国みたいな連中ばっかだから、彼のようなキャラの方が分かりやすいし、好ましい。ドンと受け止めてくれる。だいたい、彼が僕のところに来る前には、「僕は田村さんを信用していません。なぜならネットやメールだけで人を判断できないからです」なんてメールを直に送ってくるくらい直球勝負でした。「普通、書くか、こんなこと」なんだけど、僕も動物系だから「おお、よく言った!」とばかりに受け入れ、来た後は高校生レベルの実務処理能力をビシバシ鍛え、毎日深夜まで反省会して、そのたびに大粒の涙をボロボロ落としていた彼ですが、もう男気刺激されまくりですよね。
今は、日本に帰って、職場の高齢の方から酒の飲み方なんぞを教わっているらしいのですが、さもなりなんという。今の日本で本当の修羅場を踏んできているのは高齢者だけだろうし、波長は合うでしょう。たくさん学んでください。お年寄りは国の宝と言いますが、一面真理で、あの昔話にめちゃくちゃ滋養があります。介護の仕事も、「介護してあげる」というよりも「学ばせていただく」という、一種の学校機能としてパラダイム転換する手はあると思います。ま、同じ話を延々聞かされるのは堪らんだろうし、完全にボケちゃったら教育機能も微妙ですけど、でも、人の話は聞くもんだべ。本を数冊読む以上のエッセンスを得られる場合があるから。
それはさておき、「ひたむきさ」が人の胸を打ち、男気を分泌させるのでしょう。
盆地的世界観
また別に実例を。
これは弁護士時代のビジネス案件や破産事件などでもよく見聞しました。大阪は中小企業の町であるから、起業家、アントレプレナーの町でもあります。海千山千の中小企業のおっちゃんの話が面白いし、学ばせていただける。例えば、いっときはフェラーリで湾岸線をぶっ飛ばすくらい成功したおっちゃんの若かりし頃の起業話では、当時の今のブラック以上の”丁稚奉公”のような仕事を終えた後、アパートであれこれアイディアを考え製品開発をやる。「よし」と思っても、試作品をつくる算段がない。そこで、チャリをキコキコと10キロくらい漕いで、町工場のメッカ東大阪までいって、シャッター半開きでまだ裸電球がぷらんぷらんと灯ってるようなところに行って、格安で作ってもらうようにお願いする。一升瓶さげて一軒一軒訪ね歩いて、訪ね歩いて、訪ね歩く。来る日も来る日もそれをやると、なかには、「お、おもろいやんけ」とやってくれる業者も出てくる。それで試作品を作り、また改良し、改良し、改良する。で、今度は売って歩いて(※Repeat 10 times)で、ついに”着火”する。木々を摩擦でこすって火をつけるようなものです。でも、いったん着火したら、それがだんだん大きくなる。でもって、フェラーリ。しかし、そこがビジネスの恐ろしさ、一瞬気を抜いたら奈落の底で破産案件になってしまい、そこで僕が出てきて話を聞いていた、というなりゆきになります。
起業といい、成功といい、あるいは永住権ゲットにせよ、普通に人生を進んでいくにせよ、結局はそーゆーことだと思うのですね。それが出来ないと何やってもダメかも。この世の中というのは盆地のようなもので、東西南北どこにいっても、どっかに必ずお盆のフチのような山脈があって、急峻な崖をよじ登らないとならない。どこにいって何をしても、やることは一緒。崖をよじのぼって盆地の外に出られるか、出られない=どっかに抜け道はないかと探しているうちに迷ったり、うだうだやってる間にタイムアップで人生が終わっちゃう悲しいパターンになるか、です。
そこで、お盆のフチを出られるか=”着火”するかどうかは、ケースバイケースで様々なパターンがあるでしょうけど、煎じ詰めれば「人の出会い」だと思います。それしかないんじゃないかな。人間一人ができることは限られていて、確かに量的には積み上がっていくかもしれないけど、やはり量的な変化に過ぎず、それを劇的に質的変化に転化させるのは触媒みたいな別の要素が必要で、多くの場合それは人であろうと。
そして、どこかで人と出会って良い関係になるかどうか、つまりその人に「その気になってもらう」かどうかがキモになるわけですけど、男気ホルモンを刺激するには、やっぱ「たたずまい」であり、姿勢であり、オーラであり、動物的なひたむきさ、だと思います。
男気は生理現象であること
なんだか話が宙を浮いてるみたいに感じるかもしれないけど、人間の情動というのは理屈では動かないです。どうでもいいようなことは理屈で動くけど、人生にかかわるような重大なことになればなるほど理屈だけでは攻略不能だと思う。
なぜそうなのか?は分からないけど、仮説や傍証はいくらでも出せます。
本気で「その気になる」こと、燃えてくるとかムキになるというのは、知性的な熟慮の結果というよりも、感性一発系でかなり感情的なものでしょう。左脳よりも右脳が強い。もっといえば一種の「生理現象」であって、食欲とか性欲に近い。食欲もリビドーも理屈では刺激されないでしょ?
そもそもなぜ「その気」になるか?といえば、その気になった方が気持ち良いからだと思います。食べた〜い!と思う、ヤリたいと思う、なんでか?気持ちいいからです。それは圧倒的で逆らえない本能的な快楽原則の支配する世界であり、その世界を律するオキテは、好き/嫌いであって、正しい/間違ってるではない。
「こいつを助けてやりたい」と思う気持ち(男気)も同じなんじゃないかな。
実際、毎日ひたむきにやってる人がいたら、ついつい応援したくなるでしょう?「頑張るねえ、あの子も」「おう、ここんところくすっぽ寝てないんだろ?」「身体壊しちゃうよね」「でもなあ、うまくいってほしいよなあ」「そうよね、あんなに頑張ってるんだから」「なんとかなんねえかなあ」って、他人ごとながら手に汗握ってしまうという。でもって何事が成就したら周囲の人も自分の事のように喜んでくれる。「良かったね!ほんとに良かったね!」と涙ぐんでさえいるという。
これはかなり幸福な人間関係であって、どうかしたらその物事が成就するかどうかなんてどーでも良くて、他者と幸福を共有できるような温かい関係になれることが尊くて、それが何よりも気持ち良いってことなんかなって思います。ね、だから、男気はなんのために出るのか?っていえば、気持ちいいからでしょう。
逆にいえば、その他人を動かす、自分を助けさせるためには、自分を助けることによってその人に気持ち良くなってもらわないとならないってことです。それが男気刺激ホルモンだと思いますし、その物質は真摯さ、誠実さ、ひたむきさだと思う。
ま、これもラッキョ皮で、なんで真摯だと男気が湧くのか?という問題があるんだけど、とりあえずはここまで。
さて、ここまでで@嘘がないこと、Aひたむき・真摯なことという2条件が出てきました。
でも、これだけでばない。まだあると思います。
なぜなら@Aだけでいいなら、カルト宗教に熱心に勧誘されるような場合も入ってしまいますから。この場合だって嘘はないだろうし(勧誘者本人はそう信じているだろうし)、A真摯であるという点でも、真面目にやっておられるでしょうから@A条件は満たしているのですよね。でも、だからといって、「おっしゃあ」になるかというと、そういうものでもないでしょう。何かが足りない。ゆえに他にも要素があるはずだと。
でも、今回はこのくらいにしておきましょ。次回にひっぱろう(^^)。なるべく短くしようと思ってるんで。
補足と余談
補足でいうと、嘘がなく×ひたむきというのは、計算したらダメなんですよね。「あざとさ」になる。舞台裏が見えてしまったら、一気にしらける。それって「騙し」ですからね。もう、可愛さ余って憎さ百倍で腹が立つ。
一例をあげると、その昔に「ぶりっ子」という言葉があって、もっと大昔(江戸時代から)は「カマトト」とか言われてて、コンセプトは現代にも強く脈打ってると思いますが、要は「男に媚びを売る女」です。女性世界で最悪に嫌われるのはこのタイプらしく、それはなぜかといえば、男側からは見えない舞台裏が、女側からは見えるからでしょう。めちゃくちゃあざとい。嘘ばっか、騙しという。
時事問題で例をひけば、山本太郎議員が園遊会で天皇に”直訴”したとか問題になってますけど、これを強く支持する国民も多いと思います。僕も支持、てか手紙渡すくらいで何を騒いでいるのか、そっちの方が不思議なんだけど。で、支持する人々の心情が、まさにこの「ひたむきさに打たれた」んだと思います。そんなことして意味あるのかとか、何考えているのかとか、いろいろあるけど、それよりなにより「思い余って」という直情径行なひたむきさを評価する。だから支持する人というのは、生理的に感応してるんじゃないかなって思います。男気を刺激されている。そして、この動物的な領域に入ってしまったら、やれ天皇の国事行為がどうしたとか請願権がどうのとかいうクソ理屈は、こねればこねるほど言ってる人間が醜悪に見える。もう次元が違うんだろう。
ちなみに理屈で検討すれば、外形事象は「AがBを天皇に手渡した」ですから、ABをいろいろ変えてみたら良い。例えばAを「被災地の子供たち」にして、Bを「天皇がお見舞いに訪れてくれたことのお礼の手紙」にしたらどうか?これは美談ですよね。じゃあ、おなじAでBを「早く皆を救ってください」というお願いだったらどうか、ま、これもいいでしょう。現状を知ってくださいということで、子供が描いた絵を手渡したらどうか?じゃあ写真だったらどうか?じゃ、復興庁長官が復興状況を説明するためのレポート数値を手渡したらどうか?自治体の長が、皆が励まされるのでまたお越しくださいとお願いする文書を渡したらどうか?「また来てね」と書かれている子供たちの寄せ書きだったらどうか?安倍総理が復興に死力を尽くすことを誓って閣僚全員の連判状を手渡したらどうか。何が良くて何がいけないのか、どこに線引があるのか、その確定的な基準はあるのか、というとないでしょう。
じゃあ、直接なんらかのコミュニケーションをするのがダメかというと、それがダメなら最初っから園遊会なんかやらなきゃいいわけで。園遊会って「陛下が親しく国民各位とお話をされる場」ではないのか。結局なにがダメかというと、「山本太郎だから」という部分が結構大きく、それって近代法においては固く封印されている筈の人的違法(ユダヤ人だからダメとか)じゃないのか。Bの部分ですが、これも確か時系列的には、内容全文が明らかになる前から騒いでいるから、内容なんかどうでもいいってことなんじゃないかな。内容が分からない時点で問題にしてるんだからさ。そうなると手紙か写真かプレゼントかという物体形状の問題が残るけど、これって本質的な気がしない。手紙の場合には情報という内容が大事なんだけど、前述のように内容は不問。だから何が悪いのか、わからん。
わからないけど、日本人的な感性で「礼儀知らず」「非常識」ということで非難する。いかにも日本的だよなって。要するに「空気読めよ」ってことでしょ?明確な理論的根拠もないまま、その場の雰囲気で善悪を決めようとする。そして雰囲気とはなにかというと、「何事もなかったかのように」「表面上はまるくおさめる」という。ブラック企業を内部告発しようとした従業員が周囲からボコられる、いじめ自殺した学校で校長が「問題はなかった」と記者会見している横で、別の教師が「いじめはありましたよ、皆知ってましたよ」と言ってしまって懲戒を喰らうとか。何事もなかったようにニコニコやってりゃいい園遊会に、原発だのなんだのナマい話を持ち出すんじゃねーよ、場をわきまわろよってことでしょ。早い話が「裸の王様」で、叫んだ子供を大人が半殺しにしているような構図でしょ。醜怪だってのはそういうことです。
そして、真実、ひたむきにやってるのか、それとも周到に計算し尽くしてのパフォーマンスなのかによっても評価はわかれる。つまりは「ぶりっ子」なのかどうかです。あざといと思う人は強烈に反発するし、いや、あれはあざとさじゃないよ思う人は受け入れる。
そんなもん、結局は本人の胸のうちにあるわけで結局は分からないけど、でも僕はどっちでもいいと思ってます。純粋ひたむきだったら、そのくらい直情径行な政治家がいていいと思う。逆にあざといパフォーマンスだとしたら、そのくらいあざとい政治家がいた方が心強いくらいにも思いますから。
でも、これパフォーマンスとしては秀逸だもん。「見て見ぬふり」とかご都合主義とか、日本社会のイヤらしい部分を開け放つパンドラの箱みたいなものでしょう。なにもかもが曖昧な今の世の中で、あなたはどう思うの?ということを、この行動に対する反応でリトマス試験紙のように顕にする効果がある。もともと天皇という存在自体が、象徴という分かったような分からんような(正直よう分からない)曖昧極まる立ち位置にありつつ、政治ってなんなの、普通の世間話と政治は違うの?でも普通の世間をなんとかするのが政治じゃないの?というそのあたりも曖昧なまま、臭いものには蓋をして、なんとな〜くニコニコ円満なまま過ごしていくという「大嘘」みたいなものを、ボヤヤンと炙りだして人々を非常に不安定な気分にさせる。既にニコニコしてる場合じゃないだろって状況認識に立ってる人は、よく言ったみたいな肯定的に反応に傾こうし、イヤなことは考えないでニコニコしてたい人には憎悪の対象でしょう。
ふと思ったのは、皆で飛行機に乗ってる時に、こましゃくれた小学生が、大きな声で「あのさ、これまで飛行機って何回落ちたか知ってる?」とか言い出して、これまでの事故例を得々をと大声で喋っているようなものなんかも。でもって、周囲の乗客がその小学生に憎悪を抱くという。知ってるんだよ、そんなこたあ、飛行機は落ちるくらいのこたあ。でもこの飛行機に限っては落ちないの!そういうことになってるの!そういうことにしたいの!無理やりみんな安心しようとしているんだから、余計なこと言って不安をかきたてるんじゃねえよ!みたいな感じなんかもしれないっすね。でもそうやって騒げば騒ぐほど逆効果になるという。
パフォーマンスとしては良く出来ている。それにパフォーマンスのパフォーマンス性を批判する輩には、じゃあ小泉劇場はなんだったのよ、橋下劇場はどうよ?それに喜んでたのは誰よってブーメランのように返ってくるという。与えた攻撃が全部そのまま返ってくる。天皇の政治利用と批判すれば、じゃあオリンピック誘致で皇室を担ぎだしたり、主権回復の日とかで皇室を列席させているのはどうなんだ?というのが返ってくる。山本太郎は鏡であり、彼を語ることは、そのまま自分の姿や性状を語ることになるという。
これを全て周到に計算し尽くしているなら、とんでもない大物だと思うけど、おそらくは半分は計算し、半分は直情径行だと思う。そして最後には直感で動いているんだと思うけど、実際に世の中切り開いていくのは、この直感が結構大事なんですよね。
でもって、なかったことにしたい勢力としては、最高の対応策はスルーすることでしょう。もうこの事件そのものをなかったことにする。報道もしないし、議会で問題にもしない。誰かに言われたら、「おや、そんなことがありましたか」「いやあ、人が多かったもんで」ってすっとぼけているのが最善の対処だったと思うぞ。それをこんな大騒ぎにして、海外でもバシバシ注目されて、この種の政治的対応の下手さ加減、劣化具合に「おいおい、大丈夫か」と僕はむしろ心配してするのでありました。
文責:田村