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今週の一枚(2013/AUG/05)



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Essay 630:自力救済と自分史編纂委員会

 〜「喧嘩論」入門〜自他の超克(その2)

 写真は、La Perouse(ラペルース)。

 シドニー都心近郊で、だだっ広くて気持ちの場所のひとつ。
 イースタンサバーブの南端。映画"MIP2"の最後の方にも出てきます。
 ドライブデートのメッカでもあります。夕方ともなれば、夕陽と海は金曜ロードショー的にロマンチックだわ、遠望できる空港には飛行機が頻繁に離発着してまたロマンチックだわ(笑)。シティからは、バスで小一時間。394,L94,391番系統。google direction参照


前回の続きです。

 なにか日常的なトラブルがあった場合、出来れば現場でカタをつけてしまった方が良い。後に廻せば廻すほど解決が難しくなる一般的な傾向があります。その理由&メカニズムは前回書きましたが、証拠が散逸するとか「何を今更」で逆風度が高くなる等です。

 ここで、意外と見落とされがちな問題は、社会的な「救済」というのは一定レベルの深刻さを超えないと事実上機能しない(場合が多い)という恐しいギャップがあることです。前回の末尾にちょろっと書きましたが、改めて書きます。

救済ギャップと二つの方向


 一生のトラウマになるくらいボコられました、キツいイジメに遭いました、盗まれました、騙されました、、これまで平穏に生きてきた自分の基準でいえば「驚天動地の大事件」に思えることも、広い世間では「よくある話」「些細なトラブル」でしかない。そして、そういったトラブルを専門に扱う機関(警察とか)では、もっとトラブル慣れしているから、ちょっとやそっとでは驚かない。「ふーん」「あ、そう」くらいで、期待していたほど真剣に取り合って貰えない。全然やってくれないわけではないけど、ルーチンワークとして、ややもすると面倒臭げに事務処理されてしまう。

 ここで全国の犯罪統計の推移と検挙率、さらに「警察が被害届を受理してくれない」という不満が増えている背景事情などがあり、調べていたら面白くなってきて膨大になってしまいました。あまりにも長くなりすぎたので、今回はバッサリ割愛し、いつか別の機会に廻します。

 一方、弁護士その他の民間救済に頼むにしても、おおむね被害額が100万円以下だったら、コスト割れを起こすので、これまた事実上期待できないというツライ現実があります。一般的な他人においても、同情したり話は聞いてくれるかもしれないけど、だからといって会社休んで動いてくれるかというと、動いてくれない。あなただって、不幸な友達がいたとしても、だからといって今の仕事を投げ打ってでも一肌脱ぎますか?よっぽどのことでも無い限り、そこまでは出来ないでしょう?

 つまり、一定レベル以下のマイナーなトラブルは、自分で解決するしか無いってことになります。

 そしてこの「マイナーなトラブル」の基準が、何となく思っているよりもずっと高い。金額的には今言ったように100万以下(まあ、これも僕の大雑把な腰だめの数字ですが)、肉体的被害でいえば、ケースバイケースですけど、二〜三発殴られたくらいだったら全然基準以下でしょう。極端な話、自殺したとしても、一部の話題性のある例外を除けば、ひっそりと処理されてそれで終わりでしょう。

 ということで、もっと普通の言葉に翻訳すれば、たいていの場合、「他人は何もしてくれない」と思えということです。

 もっとも、これも注釈があって、実は他人はいろいろしてくれます。びっくりするくらい献身的にやってくれることもある。渡る世間に鬼はなしです。ほんでも、「天は自ら助くる者を助く」と言いますが、最初から「やってもらって当然」という他力本願な人間に、他人の助力は与えられない。その態度、その姿勢そのものがムカつくから、「甘ったれんじゃねえ」とビシャン!と言われて終わりでしょう。これは言われる方が正しい。

 物事には順番や段取りってのがあって、手順を変えたら全く意味がなくなるって場合もある。これは「場合もある」だけで、多少順番が前後しても終わり良ければ全て良しって場合もある。提出書類の追完補正にせよ、乗越し清算にせよ、できちゃった婚や認知準正にせよ、多少の前後はフォロー可能な場合もある。が、この場合は手順が違うとまるで意味が変わってくる。

 ここでは第一原則として「他人は何もしてくれない」とおき、その上で、じゃあどうするかを考えるのが正着だと思います。

 じゃあ、どうすればいいの?といえば、論理的には2つあるでしょう。
 
 @、自分で頑張ってなんとかする
     and/or
 A、動かない他人をあの手この手で動かす

 の二点です。

自力救済

 自分で頑張って何とかすること、自助努力ですが、法律的には「自力救済」といいます。

 一般論でいえば、近代刑法は、自力救済を禁止してます。江戸時代に奨励された「仇討ち」などのプライベートな復讐は許さず、およそ犯罪は司直の手によって解決しなさいということです。確かに、自力救済を自由に認めてしまったら、街角で誰かが誰かを殴ったり殺したりしてても、「これはOK、これはダメ」と判別しなくてはならず、やってられないですし、どこまでが許される範囲などが曖昧になって治安はグチャグチャになるでしょう。だから自力救済は原則禁止。例外として現場における正当防衛や緊急避難を認めている程度です。

 しかし、その理想や合理性は認めるにせよ、上でみたように司直が動いてくれず、結局自力救済するしかないって場合も現実には多々あります。だから、本当はこんなこと言っちゃイケナイんだろうけど、世の中では自力救済以外の解決法が無いって場合も結構多いと思われます。

 そして、何度も書いているように解決というのは後に引き延ばすほど難しくなること、加えて現行法でも正当防衛や現行犯逮捕が認められていることからすれば、

 多くの場合は、自分が × その場で 解決せよってことになるでしょう。

 つまりは、「その場で解決できる自分であれ」ってことです。

 しかし、「あれ!」と高らかに宣言したところで、あんまり意味ないです。
 まず「その場で解決できる自分」って具体的には何よ?って疑問が出てくるし、現場解決が出来ない、そういう自分になれない場合はどうするの?という問題もでてきます。このあたりを突き詰めて考えないと、本当の意味での対策にはならないでしょう。

 いくつかありますので分説します。

弱気と戦う

 これが一番大事だし、最も言いたいポイントでもあります。

 その場でバシン!と言えない/出来ないのは何故か?といえば、いろいろな理由はあるでしょうが、その大部分は「気が弱いから言えなかった/出来なかった」という精神面での理由に基づくように思います。

 しかし、「弱気だったから」と認識されることは案外と少ないのでは?とも思われます。
 多くの場合、「気が弱いから」「ヘタレだから」というでのはカッコ悪いから、格好の良い理由をつけたりします。「時期尚早だから」「十分な資料が整ってないから」「影響が大きすぎるから」とかなんとか。

 どっかで聞いたことあるフレーズですよね。そう、僕が日本を出る頃にやっていたバブル崩壊の後始末、ノンバンクや住専処理です。「影響が大き過ぎるから」ということでハードランディングさせず、穏便にソフトランディングさせようとする。「穏便に」って結局どうするの?っていえば、要するに税金ジャブジャブ使って助けるだけの話でしょう。こういうパターンが多い。「しょうがないから死んでね」みたいなドラスティックな白黒つけないで、玉虫色に、ウヤムヤに済まそうとする。

 上がそうなら、下もそれに習うかのように、とかく日本社会では「なあなあ」「穏便」が多い。
 僕だって日本人だから、その心情はわかるし、それら全てがダメとか言うつもりもないし、その種の”政治的決着”の有用性だってわかります。一概に否定はしません。

事を荒立てた方が良い場合もある〜早期発見・早期治療

 でも、世の中には、事を荒立てたほうが(結果的に)良い場合もあります。

 遅かれ早かれやらねばならない問題があるなら、早期発見・早期治療でしょう。
 そこを逃げ腰になって、無かったことにして、解決を先延ばしにしたって意味がないどころか、有害です。

 クレサラ破産なんか典型的にそうですけど借金して借金を返すようなことをしてたって金利が加速度的に増えるだけで、良い事なんか何もない。本人の負債総額はとてつもない額になり、ゆえに結果的に踏み倒されて迷惑を被る人や額もとてつもないオーダーになる。「ヤバイな」という段階で精算しておけば、せいぜい2−300万くらいで済み、このくらいだったら長期分割でなんとか返せる。しかし、自転車操業であれこれ頑張ってしまうと、給料手取り20万を切る人だって負債総額は軽く3000万円くらいいってしまう。僕がやった破産管財事件もまさにそうで、6畳一間のアパートで慎ましく暮らしていた工場の工員さんですが、最初に借りた30万円も、自転車操業を2−3年続ければ3000万円になる。こんな額になったらどうしようもない。債権者全員、全額、貸し倒れです。100%パー。一銭も返ってこない。大迷惑。将来的になにか確実な展望があるなら別ですが、借金で借金を返すようになったら、もう強制的にでも破産させたほうがいいです。

 同じように国債にしたって、虫歯の治療にしたって、夏休みに宿題にしたって、どうせやらなきゃイケナイことがあるなら、思い切って早くやってしまった方がいい。やらねばならないことをやらないで先延ばしにすること、それは端的に心の弱さでしょう。

 でも、それが難しい。そりゃ昨日まで平和でいたのに、何もかも上手くいってるかのようににこやかに談笑しているのに、いきなり「実は〜」で全てをぶち壊すようなことをするのはメチャクチャ勇気がいります。エラそげに書いている僕だって、その場になってみたら到底出来ないんじゃないかな。

 だからこそ!、早くやっちゃうべきです。
 後になればなるほど大問題になり、益々言いにくくなるのですから。
 そして、一定点を超えると「今さらそんなこと絶対言えない」になり、逆に全力でもみ消しを計ったりします。会社のお金を使いんでしまっても、まだ初期だったら何とかならないこともない。上司に告白すれば、叱責は当然としても、傷が浅ければ帳尻をあわせて復旧させたり、減俸、最悪でもクビで済む。しかし一定レベルを超えると、クビくらいでは済まないし、会社としても刑事告訴しなくては格好がつかなくなったりもする。さらに、ひた隠しにするために、思い余って関係者を殺害してしまうなど(富士銀行事件とか)、もう加速度的に破壊レベルが激しくなる。

 会社や家計がいよいよヤバイとなったら、もう痛罵されようが恨みを買おうがなんだろうが生き残るためには大リストラをやらねばならない。それをやらずに「なあなあ」で済ませていたら、ある日、突然死をして全員路頭に迷うことになる。皆にいい顔をして、皆を傷つけないようにとやっていると、最後の最後には無理心中みたいな話になる。「大丈夫だよ」「心配ないよ」と言い続けて、最後に「痛くないからね」で殺すことになる。どっちが残酷か。

 しかし、早期発見・早期治療というのは、「治において乱をもたらす所業」でもあります。皆がにこやかに談笑しているテーブルを、突如としてひっくり返すようなもので、「事を荒立てる」のも極まれりって作業です。しかし、ここは一番、腹を括って事を荒立てなければならないのでしょう。

 それが出来るかどうかです。

 「断じてことを行う」ためには、ものすごい精神的なエネルギーを使います。半端な根性では出来ない。しかし、後になればなるほど大変になるのですから、かなり根性の座ってる人でも無理になる。だからこそ、早く、早く、出来ればその場で、です。

日常の人間関係でも同じこと

 今、色々なレベルの事例をゴッチャにして=「敢えて平和を乱す」という共通項で括って=話していますが、破産や不祥事のような大きな客観トラブルだけではなく、これは日常的な些細な人間関係でも同じです。

 例えば、クラスや職場にやたら口の聞き方が生意気だったり、無礼な奴がいる。あるいはお金にルーズな奴がいる。いっしょにランチを食べたら、会計のときに「ちょっと立て替えといて」って払わせておいて、あとでブッチする奴がいる。「ちょっとこれやっといて」と人をパシリのように使う奴もいる。

 「なんだ、こいつ?」とカチンときたら、もう最初の一回目で言ったほうがいいです。最初が一番カドが立たない。

 そこをズルズルやってると、段々と「そういうパターン」「そういう人間関係」になっていってしまう。相手もますます舐めてくる。そうなってしまえば後で「バシンと言う!」にしても言いにくい。やっぱり「何を今さら」って感じになっていくのですね。言われた方も「なんで?今までそれで良かったじゃん」と不満気だから、言っても話が通らない。

 だから、益々言い難くなり、フラストレーションが溜まりまくり、しまいには苦手意識が増大したりして、その人の顔をみたり思い出すだけで心臓がドキドキするようになる。いよいよ根性キメて文句いう時は、特攻隊みたいな、狂乱の大ブチ切れ状態になってしまう。そうなると単にこっちが錯乱して暴れているだけみたいに周囲からは見える。こっちが因縁つけているように見えるし、「なにこの人コーフンしてるの?」「変な人、恐い」になり、しまいにはこっちが「犯人」というフレームで語られるようになる。世間の犯罪事例なんて、大体このパターンが多く、最後の最後で被害者と加害者が入れ替わってしまう。

 そんな悲惨な末路になるなら、もう最初の時点で、軽く一本ジャブを入れておけばいいです。
 カチンときたら、「てめえ、喧嘩売ってんのか?」とボソッと言うとか。まあ、そこまでは立派な社会人たる貴兄は言えないかもしれないでしょうが、「あん?なんだって?」とわざとらしく聞き返したり、もっと省エネタイプだったら、「え?」と言ってじーっと見るとか。軽い威嚇ですし、軽いジャブみたいなものだけど、一本カマしておくと後が全然違ってくるでしょう。

「見せかけの平和」

 そんなに事を荒立てずに穏便にすればいいじゃんって思うかもしれないけど、その「穏便」というのは、要するに「見せかけの平和」であり、そんな幻想みたいなものにどれだけの価値があるのか?

 「見せかけの平和」とは、客観的な問題でいえば、みすみす虫歯が悪化するの放置するとか、借金で破綻するに任せるとか、要するに「早期発見・早期治療の放棄」です。

 人間関係レベルでの「見せかけの平和」ですが、これを保つためには、個人的な不満感情はグッと押し殺さなければならない。でも押し殺したところで消滅するわけではない。むしろ利息がつく。年月が経るほどにタールのような毒素になる。個人レベルでは人格が歪むわ、組織では派閥がキツくなるわ、陰湿なイジメが横行するわ。

 これら感情的シコリが大きくなると、何をやるにしても話が進まなくなる。誰もが良いと思える改革案でも、憎いAが提案したことだったら「意地でも潰してやる」みたいになる。誰かが何かをやろうと立ち上がっても、あーだこーだ重箱の隅を突くようなことを言ってイヤガラセじみたことをする。あるいは皆で力を合わせて!ってときでも「○○さんが来るなら行かなーい」みたいに足並みが乱れる。結果として、個人も組織も腐っていく。

 そして、じゃあなんでそんなことになってるの?と発端まで遡ると、これが実に下らない、くーだらない理由だったりするんですよ。カラオケで歌ってたら笑われたとか、ハゲとかブスとか陰口叩かれたとか、セクハラまがいに誘ったら断れたのを逆恨みしているとか、一生懸命頑張ったのに褒めて貰えなかったとか、とにかく生理的にキライとか。「マジかよ」というくらい本当に下らない理由なんですよね。いや、ほんとにそうだよ。

 そりゃ口では、もっともらしいことを言いますよ。やれ「経済基盤を欠いている」とかさ、「理想論に走り過ぎる」とかさ、「旧態依然たる体質」がどーのとか。でも突き詰めていけば、「虫が好かないから」「バカにされたから」とかそのあたりの理由、いわば「ガキの喧嘩」レベルだったりする。まあ、それが愛すべき人間ちゅーもんでしょう。

 逆に根底で人間的に信用しあい、お互い認め合っているなら「穏便に」なんて済ませないでしょう。机ぶっ叩いたり、灰皿投げ合ったりの大激論になるでしょう。これは人間的に認め合っていればいるほど、激しくなる。「そんな奴だとは知らなかったよ!」「見損なったぜ!」と。一番いい例が夫婦喧嘩ですよね。

見せかけの平和を維持してもよい場合

 では、そんなにまでして見せかけの平和を維持するのことに意味があるのか?心のなかに「怨恨毒素」を培養増殖しながらも、尚も見せかけの平和を保つべき場合があるのか?

 これは「ある」と思いますよ。
 どんな場合かというと、全く真逆な二つの事例。

 (1)機能が最優先にくる場合
 (2)どーでもいい場合

 (1)の機能優先は、生きるか死ぬかのレベルでやっている超真剣な仕事などです。最前線の軍隊とか、緊急病棟の手術室とか、巨額のビジネス交渉とか、一瞬でも気を抜いたらたちまち破滅的な事態になるような緊迫した場合であれば、「○○ちゃんがキライ」とか寝言を言ってる場合ではない。要するに客観的明白に「馬鹿なことやってる余裕が無い場合」です。まあ、それですら意地悪とかするのが人間なんだけどさ。

 (2)は真逆で、形だけの懇親会とか、まあ普通の学校やバイト先の人間関係とかです。そんなに自分の全存在をかけてコミットメントしているわけではないから、基本的に「どーでもいい」。多少気に食わない奴がいようがいまいが、結局のところ、どーでもいい。一過性のものだし、永遠につづくわけでもないし。適当に調子合わせて、時間が流れるのを待ってりゃいいのさ的な場合。

 こういう場合は、確かに事を荒立てる必要はないです。(1)については、そんなことやってる余裕も意味も無いから。(2)については、もともとが限りなく無内容なものなんだから、事を荒立ててまで正常化をはかる価値もないから、です。

 ただし、(2)の「どーでもいいから、どーでもいい」って場合ですが、心底「どーでもいい」と思えて、何を言われようがどうなろうが、心の中の怨恨毒素が生じないなら問題ないです。しかし、どーでもいい会合でありながら、いちいち○○の挙動がカンに触って、ぐっとこらえてニコニコしてるんだけど、家に帰ってからムカついてムカついてたまらなくなり、2−3日気分が悪いような場合。これ、全然「どーでもいい」ことになってません。そんなにしてまで、どーでもいい会合の見せかけの平和を維持する価値はない。カチンときたら間髪いれずに言えばいいです。

 でも、それが難しい。別に見せかけの平和を維持する価値もないし、言えばいいってのもわかっているんだけど、ついつい躊躇ってしまって「事を荒立てること」が出来ない。なぜその一歩が踏み込めないのか?その一言がいえないのか?といえば、やっぱり心の弱さだと思います。「ヘタレ」言ってしまったら可哀想だけど、でも、「弱気の虫」ってのはある。

 でも、それをやってると、以下のようなややこしい問題や、キツイ代償を払うハメになると思います。

弱気の虫の代償

 @、純粋にトラブル処理の技術面で言えば、問題提起を事後に回すのは自殺行為であること。なにか問題が起きた時は、「ちょっと待った!」て間髪いれずに異議申立てをしておかないと、あとで「何を今さら」という逆風に潰される。これは前回散々述べました。

 A、その場で言えないことは、あとで日を改めてもやっぱり言えない。要するに何にもできない。そうなると、結局グチグチ愚痴をいうだけという、生産性のないことをやることになる。これが繰り返されると、さらに二次災害として「そういうイヤなクセがつく」という人格グレードダウンが起きる。

 同時に「いつも愚痴ばっか言ってる人」という有難くないレッテルが貼られる。そして類友効果で、結局「愚痴ばっかり言ってる人」ばかりが集まり、こういう人々は通例「現実変革能力」が乏しいから(あったら愚痴なんか言ってない)、幾らつるんでも人生何も変わらない。てか、劣化する。「別にできなくてもいいよね」という傷を舐め合うことで、「敢えて一歩を踏み出す勇気」がどんどんスポイルされて、人生状況は悪化の一途を辿り、それがまた自己評価の低下生み、さらに、、というスパイラルになる。

 B、自己欺瞞による価値観や世界観の狂い
 下らない自己正当化を始めるので、それが世界観を歪め、人生スギルを歪める。つまり「ヘタレだから言えなかった」というダメな自分を受け止めきれない人は、「"言えない"のではない"言わない"のだ」「だってオトナだから」という自己欺瞞に走る。他者に対する欺瞞だったら、せせら笑われて終わりだから傷は浅いが、自分で自分を騙すようになってくると世界の見え方や価値観がそっちに引っ張られるので、これはかなりヤバイ。本質的に「どーでもいい」人間関係、単なる偽善的社交的な人間関係であっても、「大事な友達だから」みたいな美化を始める。さらには、言えもしないくせに「傷つけたくないから」なんて言い訳をはじめる。

 つまり、自分を誤魔化すために、あたかも大切なモノを守るために尊い自己犠牲をしたのだみたいに思うようなると、今度は本質的に下らないものが下らないとは思えなくなる(そう思ったら論理破綻するから)。ひいては、何が守るべき大切なことで、何がどーでもいいことかの基準もおかしくなってくる。

 C、これは前回に述べたが、結局自分でその場で解決できないから、あとで誰かにやってもらおうとする。しかし、世間も他人もそんなんに甘くないから、誰も何もやってくれない。そこで、「け、世の中そんなもんよ」と思う。思うだけならいいんだけど、ここで「悟った気になる」という致命的な問題があります。ありていにいえば、「子供が拗ねてるだけ」「イジケてるだけ」なんだけど、あたかも「この世界の真実を見た」と思い(まあ、部分的には真実でもあるのだが)、そこでトチ狂った「悟り」を開くと、あとはもう大変です。

 例えば、やたらネガティブにみれば良いのだ、悪く悪く考えた方がより真実に近いんだという妙チキリンな世界観になる。真実、他人が善意でしてくれたことでも信じられず、「どうせ点数稼ぎだろ」みたいなイヤな見方をする。まあ「イジケたガキ」「ひねくれた子供」に相応しい世界観だけど。また、自分では何も解決できない、それは世界が歪んでいるからだとという正当化をしたり、自分が無力さを努力を回避する言い訳にしたり、他人評価も自分に優しくしてくれるかどうかだけで「良い人」だと思うという形で狂ってくる。早い話が、どんどん「イヤな奴」「ダメな奴」になっていくってことです。このあたりは、かつて書いた「弱さの罪」と大分オーバーラップしますので、このあたりで。

 なんでそうなるの?といえば、最初の一歩でバシン!と言えないからであり、そこで「言えなかった」ということが、あとあと大きな禍根を残す。その禍根のほうがむしろ恐い。


 引き続き、じゃあどうやって言えばいいの?言えなかった時はどうするの?です。

対策論

恥ずかしいけど「恥」ではない〜拡大損害を生じさせないこと 

 まず第一に、気が弱くて言えなかった、今一歩踏み込む勇気が無かったら、それはそれとして受け止めることです。それがいかにカッコ悪かろうとも、いかにヘタレっぽかったとしても、「ダメだなあ、俺」と落ち込むんだとしても、そこで留めること。

 気が弱いことは悪いことではないです。僕だって気弱いしね。誰だってそうだよ。そんなの程度問題だし、ケースバイケース。いつもブイブイ言ってるような人だって、自分よりも強大な奴がでてきたらヘコヘコしたりするもんだし。確かに恥ずかしいことかもしれないけど、でも「恥」ではない。

 それはもう「駆けっこが遅い」とか、「暗算が苦手」とか、「字が汚い」とかいうようなもので、カッコ悪いかもしれないけど、「悪い」ことではない。恥ずかしいかもしれないけど、別に人間として間違ったことをしているわけではないから、本質的に「恥」ではない。単なるパーソナリティや個性の問題でしょう。

 まかり間違っても、そこで妙な正当化に走ったり、言い訳カマしたり、自己欺瞞を弄したりしないことです。これをやりだしたら、上に述べたようにどんどんドツボにハマっていきます。被害を拡大させてはならない。最小限に食い止めること。

心の瞬発力とアイドリング

 カチンときたときに、すかさずポンと何かを言うのは難しいです。
 精神が弛緩しきっていると、どうしても反応速度が遅くなります。しまいには、その場ではカチンとすら来ずに、家に帰ってから思い返しているうちにだんだん腹が立ってくるという、まるで恐竜のような反応速度になります。これでは急場に間に合わない。

 そうなると、昔の武士のように、常在戦場とか、いつ何時斬りかかって来られても機敏に対処できるような気持ちの張り、テンションが必要でしょう。ご飯を食べているときに、いきなり障子を突き破って曲者が襲ってきても、少しも慌てず、抜き手も見せずバサーッと居合で返り討ちにするという。カッコいいですよね。

 そんなことが出来るのか?というと、まあ無理でしょう。
 でも、完璧でなくてもいいから、少しづつ精神のアイドリングを上げておいてもいいとは思う。かといってガチガチに緊張して力むことではないですよ。十分くつろいでリラックスしているのだけど、いざ事が起きたら、瞬時にスィッチが切り替わって、自然と身体が動くようにする。

 このくらいのことだったら僕らにも可能だと思います。なぜならクルマの運転がそうだからです。音楽聞いてノリノリだったり、助手席の友達とゲラゲラ談笑していたとしても、ハンドル握りながら絶えず安全確認はするでしょうし、いきなり人が飛び出してきたりしても対処できるようにしているでしょう?リラックスしながらも、テンションを保つというのはそういうことです。これはちょっと気をつけているだけで、出来るようになると思います。

 実践的にいえば、「ちょっと意識的になる」ことです。
 でも、ピリピリしたり、力んだりしたらダメです。その種の無駄な緊張は長続きしませんし、過度の緊張は反動として弛緩を生みますから。感じとしては「緊張するための準備」レベルにとどめておく。

 そして、これは別に、喧嘩をするためだけではなく、多くの場合に役に立ちます。要は「急場においても、瞬時に対応できるようになる」わけで、歩道歩いていてチャリンコが突っ込んできても、通り魔が襲ってきても、会議でいきなり指名されても、瞬時に精神を立ち上がらせることは、災いを未然に防ぐことになるでしょう。

 あ、そだ、海外に来たら少しはそうなるかも。やっぱりナチュラルに緊張してますから、「何が起きても即座に対処」という消防署の職員みたいなメンタルになる(人もいる)。日常的なコツというか、訓練でいえば、普通に町を歩いていても、ごく自然に、今自分の後ろに、どのくらいの人がどんな感じでいるかを何気に把握しておく。クルマを運転している時に、背後の状況をごく自然に把握しておくのと同じです。見るともなく見る、見てないようで見てるってやつです。

事を荒立てる技術

 敢えてテーブルをひっくり返して問題提起をしたり、他者と険悪な関係になりつつ、これを上手に切り回すには、それ相応のテクニックがあります。弁が立つとか、単純に腕っ節が強いとかいう個々の技術のほか、いわゆる「喧嘩上手」といわれる駆け引きの良し悪しもあるでしょう。

 しかし、善良なる一般市民である貴兄に、「えぐりこむようにして打つべし!」的な技術系の話題は相応しくないでしょうし、またその技術体系は膨大なので、それらを書ききる能力も僕にはありません。個々人がいろいろ研究してみてください。

 ただ、市井の一般人が、今日からでも使える簡単なコツでいえば、「丁寧な言葉づかいで」「物柔らかくにこやかに」「でも内容はクリアなことを」「スパイス程度の殺気をこめて一歩も退かずに」言うと良いと思います。カチンときているときは、どうしても言葉遣いも荒くなりがちだし、険悪オーラを自分で出してしまうのですが、言っている内容そのものよりも、険悪オーラのトゲトゲに相手が呼応して、どんどん険悪度が増していくように思います。思いっきり喧嘩をやりたいならそれでもいいです。しかし、先ほど書いたように、「軽くジャブを放って相手の出足を止める」程度のことで事態が改善する場合も多いですから、必要以上に事を荒立てる必要はない。事は荒立てるんだけど、荒立て過ぎない。必要な限度で荒立てておけば良い。

 やたら生意気で無礼な口を聞かれた場合、例えば「オバサンなんかに、これが分かるの?」などと言われると、カチンときますよね。「てめ、誰に向かって口聞いてんだ、あ?」くらい言いたくなりますが、まあ、そう言ってもいいんですけど、それだとさすがに大人気ないし憚られる場合、「オバサンって誰のこと?」という普通の言い方でもいいし、ニッコリ笑って「うーん、ボクちゃんよりは分かると思うわよ」でもいいし、無表情に「不愉快ですね」でもいいし。

 こんなの幾らでも答え方はあるでしょう。そして、これは英会話と同じでどれだけフレーズのストックを持っているかによって決まります。知ってるか知らないかです。当意即妙に気の利いたことなんか言えっこないから、その場で考えてたら間に合わない。満面の笑みをたたえながら「イヤです」「お断りします」と言うとか、「あなたはご自身で召し上がった食事の代金を、ご自身で支払わないのですか?」「どうして私がそれをやらなければならないのか、ちょっと理解し難いので、すいませんが、納得のいくご説明を頂きたいのですけど。いや手短で結構です、どうぞおっしゃってください」とか。

見極め

 敢えて一歩踏み込んで事を荒立てでも言うべきか、それともやらずに放置するか。この見極めは大切でしょう。と同時にとても難しいです。

 この場合に基準になるのは、これも二つあって、@やる価値があるか、A勝てるか(得るものがあるか)です。

やる価値があるか

 @の価値ある/無いは、それが大事なプロジェクトであるとか、しっかりした嘘の少ない人間関係が望まれる局面(恋人や親友とか)であるかどうかに関わってくるでしょう。それが大事なものであればあるほど、事を荒立てようが、大喧嘩になろうが、キッチリ意見の対立や、感情の放出はしておいた方がいいです。雨降って地固まるとも言いますし、誠意や真情のあるドンパチは、やった方がいいです。変に抑圧するとなにかが腐っていきますから。

 しかし、どーでもいい局面だったら、ほんと、どーでもいいんだから、後で述べるように「気にしないで流す」という方法論でいいと思います。

勝てるかどうか

 A勝てるかどうかですが、あからさまに勝てっこないものは、やるべきではないでしょう。
 幾ら「事を荒立てろ」というのは、何が何でも玉砕せよと言ってるわけではないです。「いずれはやらねばならないこと」「ちょっと勇気を出せばできること」については、そこで逃げないで一歩踏み込もうと言ってるだけです。最大限に勇気を出したところで客観的に全然無理って状況についての話ではありません。

 クラスのなかで完全にイジメの構図にはまりこんでしまって、多勢に無勢でどうしようもないとか、ガチガチの職場の構図があってどうしようもない場合、いたずらにジタバタしても傷口が広がるだけです。

 じゃあ、そういうときはどうすればいいのか?ですが、「逃げろ!」です。それはもう初期設定そのものが間違っているのだから、設定それ自体を組み換えるしか無いのだ。底なし沼にハマり込んでしまったようなもので、そこに居ること自体が間違っている。そこで「底なし沼でも泳げるようになる練習」をしても、あんまり意味も効果も無い。だから、とっとと逃げろ、基本的な構造そのものを組み替えろ、です。

 いま「逃げる」と書きましたが、そこには敗北的でヘタレ的なニュアンスはないです。クルマを運転して変な行き止まりの路地に入り込んでしまったら、元に戻るしかないわけで、それを「逃げる」とは言わないように。あるいは、猛獣や狂犬が前方にいるのを発見したら、これまた逃げるしかないわけですが、その「逃げ」は敗北でもなんでもないように。行き止まりの路地裏で「勇気を出して戦え」といってもナンセンスでしょう。

 この場合必要なのは、いかにしてデッドエンドにはまりこまないように事前に察知するかです。「あれ、なんかヤバイかも」と正しく危険を察知することであり、そのためには場数を踏んで、勉強して、覚えていくしかない。「勇気」云々が必要なのは、この早期段階です。早期発見早期治療です。「あれ?」と思った時に、ダラダラ惰性で走り続けないで、クルマを停めて地図を見たりナビを再チェックすることです。あるいは、高額商品を不本意に買わされそうになったりした時に、「あ、すいません、ちょっと確認したいんですけど」でタイムをかけることです。

 そして、いよいよニッチもサッチも底なし沼状態に陥ってしまったら、抜本的に対処するしか無い。借金がかさんで、ポイント・オブ・ノーリターン(不回帰点)を超え、コレ以上はどうやっても破綻するしか無いとなった時点では、潔く整理することです。雪山登山で、道に迷ったと思ったら、まだ体力の残っている時点で決断して下山することです。それは逃げではない。そこで自転車操業したり、そこで遮二無二突き進むことが「勇気」ではない。それはただの無謀な蛮勇でしかない。

結局同じこと

 つまりどっちが本当に勇気があるのか、逃げなのかという問題は、全体の構図を正確に見定め、どちらが正しいのか、どちらがより価値があるのかを判断することです。状況把握と価値観の当てはめですね。

 @価値の有無、A勝てるかどうかは、究極的には同じ事になっていくのですね。
 そもそも何のために勇気出して事を荒立てのかといえば、より価値のある現実を生み出すためです。喧嘩すること自体に価値があるわけではない。喧嘩や荒立てはただのツールであり、プロセスでしかない。問題は、それによっていかに価値あるものを生み出すか、生み出せるかでしょう。

 さて、そこであなたの価値観や器がビシバシと試されるわけです。

 この人との関係は、ガチで喧嘩してでも正すべきものなのか、「なあなあ」で腐らせてしまっても良い程度のものか。どんな仕事、どんな状況にも普通に生じる「初動期の困難さ」(部活の初日は超ハードに感じるの法則)に過ぎず我慢する価値があるのか、それとも単なる底なし沼なのか。ここまま忍の一字で我慢すべき修行期なのか、それとも抜本的に組み換えるべきなのか。いかなる価値を求めているのか、その価値実現の可能性はどのくらいなのかの判断であり、査定です。

 あるいは労働訴訟や行政訴訟など、敢えて勝算の低いこと、ありていにいえば「みすみす負けるに決まっていること」であっても、「せめて一矢報いる」ことに大きな価値を見出す場合もあります。日本における裁判沙汰は大体このパターンが多いです。僕も最初に相談を受けるときに、「意地を取るか、金を取るか、どっちですか?」と聞きます。両方は取れないと思ったら、最終的にどっちを取るか?です。一個の人間の「意地」を舐めてはいけない。どうかしたら1億円以上の値付けをする場合もある。

 でも、こんなの一概には言えるわけがない。そこが貴兄の器量でしょう?としか言えない。
 今回言いたいのは、価値があることだとわかっていながらも、ただ勇気がない、その一歩踏み出せないというだけで、みすみすそれを逃すことはないよ、そこで逃すと後が面倒くさいよってことです。


Rule of thumb〜「年表」に載るか


 「大雑把な法則・基準」のことを"Rule of thumb(親指の法則〜親指をあてがって大体の見当をつける程度の測り方って意味)”といいますが、ここでも僕が自分でやってるアバウトな基準を最後に書いておきます。

 僕の場合の、喧嘩すべきかすべきでないかの判断基準は、「こいつと刺し違えて死んでもいいと思えるかどうか」です。

 喧嘩というか修羅場的な局面やここ一番の交渉事などの場合、気合や気魄がモノをいいます。てか、本当にギリギリの現場になったら、それしか役に立たないと言っても過言ではない。それがえも言われぬ迫力オーラをまとわせるし、他人をして舐めさせないバリアになる。

 でもこんなの長い修業が必要で、一朝一夕に出来るものではない。が、とりあえずは「死んだ気になる」という簡単な方法があります。これは文学的にいうのではなく、本気でそう思う。「俺は今日死ぬんだ」と。「今日が私の命日」「短いけどいい人生だったな」と思う。思うだけではなく、白い晒を巻いてってサラシなんかないから、清潔な下着をつける。儀式的に新しい下着をおろしてもいい。死装束をする。で、気分は片道切符の特攻隊です。そこまで根性キメて、目の前の相手と対峙し、「刺し違えて死ぬ」と思って見ると、これ、メチャクチャ迫力出ますよ。殺気が出るというか、本気で殺す気でいるから。

 これね〜、弁護士一年目にやらされましたねえ。まあこういう言葉や表現ではないですけど、めっちゃプレッシャーかけられて、上手くいくまで二度と事務所の敷居をまたぐな的な、大の字になって「さあ、殺せ!」ってやってこい的な。「は、はあ、、」と言って、地下鉄谷町線に乗ってさ、萎れた朝顔みたいにうなだれてさ、「もう、死にたい」「逃げちゃおっかなあ」みたいな(笑)。でもこのくらいやらないと身につかないものはあるのですね。これが本当のOJT(現場における職業教育=On the Job Training)です。どんな職業でも、それが本格的で伝統的でレベルが高いものであればあるほど、この種のイニシエーション的な、槍一本でライオンと戦ってこいのマサイ族の成人式的な、ことはあります。思うに、今となっては、日本における雇用の正規/非正規の差、正統・非正統の差というのは、ただこの一点、この経験ができるか、このコアになる教育課程を受けるか受けないかにしかないんじゃないかしら。

 で、慣れてきたら、瞬時にスイッチが入るようになります。「あ、俺、もう死んだ」みたいに。カッコよく言えば武士の魂であり、心はいつも穏やかな「覚悟」があるということであり、卑近に言えば「いつでもイケるっスよ!」のヤンキー魂ですねえ。アホみたいだけどね、でも、結構有効っすよ。

 逆に言えばこれが基準になるのです。
 このくらい根性キメれば大抵の事は言えるようになりますが、しかし、そこまでしてやる価値あんのか?です。

 目の前に生意気な部下がいたとして、クラスのなかでムカつく奴がいたとして、ほんでも、自分の生命や人生を投げ打ってでも、刺し違えるような相手か?それほどの出来事なのか?と。

 もし、ここで「NO!」という答が出た場合、つまりそれほどの事ではないな、命をかけてまでやる価値のある相手ではないなと思ったらどうするか?ですが、「じゃあ、ほっとけ、そんなもん」です。


 この基準に達しなかったら、もうどーでもいいです。どうせ死ぬ頃には忘れてるし、てかちょっと経ったら綺麗サッパリ忘れてます。

 つまり、目の前のイベントがどの程度の重みを持つかです。
 人は誰でも、世界史の年表のような自分史の年表をもってますが、「2013年8月○○の乱勃発」と自分史に記録できるような出来事は、これは大事なことだからちゃんと心をこめて、場合によってはイノチをかけて、やればいいです。でも、「こんなん、別にどうでもいいな」「いろいろあった」で済ませばいいな、それすら要らんなと思うようなことであれば、正真正銘「どーでもいい」出来事なんだから、それに相応しい対応をする。どーでもいいことは、どーでもよく処理する。ほっとく、忘れる。こんなの、にわか雨に降られて濡れましたとか、犬に吠えられましたとか、深爪をして痛いです程度の、日常的に些細な不愉快でしかない。いわば自然現象であり、そこに過大な感情移入をするべきではない。

 そう思えば腹も立たない。いちいち「泣き寝入りですか」なんか涙目で思うこともない。にわか雨相手に泣き寝入りもヘチマもないのだ。もし本気でムカつくなら、根性キメて、槍一本もって戦ってこい、そこまですること無いと思えば、もう流しちゃえってことです。もう無理矢理にでもどっちかに分けてしまえと。

 一見無理っぽいけど、でも出来ますよ。それに日常的にそういうクセをつけてくると、メリハリがきいてくるし、結果として「行くときは行く」という気魄オーラがナチュラルに出るし、テンションもかかるから、そもそもトラブルに遭わない、事前に避けられるという大きな特典もつきます。

 ということで、自分史編纂委員会みたいなものを立ち上げてですね、「これは載せる価値がある・ない」で判断したらいいです。もうちょっと身近なパターンに変換すれば、いまこっちに来てるワーホリ・留学生の皆は、あとで体験談を書くときに「これはネタになるかどうか」で判断すればいいかもしれない。それか、将来生まれてくる自分の子供に語って聞かせるだけの物事であるかどうか。「そりゃあママだってやるときはやるわよ。そのときね、、、」って武勇伝や神話になるかどうかです。

 ならんのだったら、ほっとけ、です。


 さて、以上は自力救済編でした。
 次回は、いかにして「動かない他人を動かすか」論です。
 もっとも、来週から2週間ほど日本に帰省(5年ぶりだ)しますので、書けるかどうかはあっちでの状況次第です。一応買ったばかりのノートパソコンを持って行こうとは思っているのですが、どうなることやらです。



文責:田村



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