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今週の一枚(2013/10/28)




Essay 642:使い倒せ!法制度(システム)を。マシンのように!

〜喧嘩道入門(3)他人を動かす(1)
 写真は、Ultimo。
 最近のオーストラリアはまだ春先(日本でいえば4月相当)なのに既に山火事で大変ですが、それだけに晴天が多く、新緑と青空のコントラストがめっちゃ綺麗です。

 この写真を選んだのは、「なんかどっかで見たような、、、」と思ったからです。
 なにかというと、新築マンション等の完成予想図、いわゆる「パース(perspective drawing)」みたいだと。例えば、木々の感じ、影の感じ。よくこんな感じで街路樹とか描かれたの見たことありませんか?これ、実際に見たときにそう思ったのですね。「なんかパースみたいな風景だな」「こんな風景、本当にあるんだ」と感心して撮ったものです。いや、ありそで無いですよ。木々や葉っぱの感じ、壁の白、そして太陽光の進入角度や強さがズレるとこういう感じにならないんじゃないかな。



 今更ですが、日本に帰省する前にシリーズものをやってました。
 既に忘れてしまった方もおられると思うのですが、「喧嘩道入門」という物騒なタイトルで書いてました。
  第一回(Essay629)「喧嘩論」入門〜自他の超克
  第二回(Essay630)自力救済と自分史編纂委員会
 と二回に分けて自分で解決する方法をやり、で、次回は「動かない他人を動かす方法」をやりましょうというところで、日本に帰省し、以後延々帰省記を書いていたという経過です。

 「やる」と言いつつやらないのは、どっかの政府みたいでイヤなので、やります。

 一瞬復習しますが、前二回で書いたのは、他人というのは、それが個人であれ組織であれ、なっかなか動いてくれないということ。これが第一原則で、つまりは他人に何とかしてもらおうなんて思うな=自分で何とかしろということ。そして自分で何とかする場合にはタイミングが大事だというのが第二原則。時期を誤ったら難易度は格段に上がる。多くの場合は「その場」です。その場で押し切られて、あとでムカついてひっくり返そうと思っても、大抵の場合はまず無理。だからその場で根性キメて頑張るしかない。

 この二点を合体させれば、後で誰かに助けてもらおうなんて思わず、現場で自分が頑張るしかなく、さらにさかのぼって準備をするなら、常日頃からいざというとき現場で頑張れるように自分を鍛えておくしかないよ、という話でした。多くの場合、それが身も蓋もない現実であろうよ、と。

 とは言うものの、後になって気がついて(orどうにも納得いかなくて)ヘルプを求めたくなる場合もあります。むしろこっちの方が普通かもしれない。そして他人のヘルプが絶対に無いわけでもないです。あるところにはありますし、それを今回は書くわけですけど、それとて「無いわけではない」という程度で、常に万全のサポートを期待してはいけない。それに、事後的救済といっても、第一現場でヘタレてしまったツケは大きく、いくら有能な助っ人が辣腕を振るっても、第一現場で失点してたら基本的に負け戦でしょう。いくらサポートがあるといっても、それを言い訳にして第一現場で頑張らない人は救われない。絶対ダメかというとそうでもないだろうけど、ダメ確率は格段にあがる。ある意味、すごい勿体無い。英語の諺でも、”a stitch in time saves nine”と言います(時宜にあった一針は、あとの九針の労を省く=やるべき時にちゃんとやってないと、あとで9倍大変になりまっせ、という意味)。

 他人のヘルプですけど、そりゃリップサービスや、あるいは衷心から同情はしてくれるかもしれない。でも、だからといって物心両面に力強く支えてくれるかというと、それはあんまり期待しないほうがいい。あなただって、今現在、そんなに誰かを力強く支えているわけではないでしょう?「まあ、お気の毒に」と心から他人に同情することはあるでしょうが、その人の全人生を背負ってまで助けようとは中々思わないでしょう。細かいヘルプくらいだったらするけど(迷ってる人に道を教えるとか)、失業して自殺寸前の人をどうやって助けるというのか。だもんで、基本は「見殺しにされる」くらいに思っておけと。

 あの〜、さっきからやたら意地になって「血も涙もない冷たい現実」を嬉々として説いているようだけど、考え方の基本としては、まずゼロベース地盤を作っておきたいからです。そう考えたほうが分かりやすいから。

 物理学のベースみたいに、ある質量のある物体は、なんらかのエネルギーの作用を受けなければ、それが動いたり変化することはない、と。「動け」と念じたり、動いたらいいなと祈っていても、サイコキネシス(念力)でも無い限り(てか、それ自体が一つのエネルギーの作用なのだろうが)、動かない。面倒くさくても、自分で動いて運んだり、エンジンを取り付けたりしないとならない。

 同じように、他者のヘルプを求めること=他人を動かすことは、それ相応のエネルギーが必要です。
 ここでいうエネルギーとは、知識・技術と人間性だと思います。これも言うは易しで、実際に自由自在にエネルギーを捻出できるくらいの技術と人間力があったら、ほとんど「人生の達人」といってもいいくらいでしょう。というか、それがあるなら最初っからヘルプを求めるような事態にならないのかもしれないけど。

 なかなかに難しいエネルギー捻出=他人を動かす魔法ですけど、系統だって考えていく場合、とりあえず大きく2つのパターンにわけられると思います。すなわち、

 @、その他人の意思に反して動かすパターン
 A、他人が自発的に助ける気になるパターン

 です。

意思に反して動かすパターン


 本当は動きたくない他人をして、動かざるを得ないようにもっていくパターンですが、言うまでもなく簡単ではないです。

 考えてみたらわかるように、他人に「やりたくないことをやらせる」「他人の意思を制圧する」わけですから、簡単なはずがない。一歩間違えれば「強要罪(刑法223条)」ですし、この強制力が強くなれば「脅迫罪」、さらに金銭的給付がくっつくと「恐喝罪」「強盗罪」になったりもする。他人の自由意思を制約するということは、本質的にそのくらいの毒性をもつといっていい。

 他人(or あなた)が意思に反して何かをやらされる場合、一つの法則性があります。
 それは「逆らったらもっとヒドイことになる」ということです。

 Aをやれ、と言われる。そんなことしたくない。でも、やらなかったらBというもっと悲惨の事態になりそうで、だったらまだAの方がマシだと思うという「利益衡量」があります。人はだれでも頭のなかに秤をもっていて、それでどっちが重いか比較判断する。

 例えば、宿題なんかしたくないんだけど、やらないと先生やお母さんから烈火のように怒られる。めっちゃ恐い。怒られる苦痛と、宿題をやる苦痛を比較したら、まだしも宿題がダメージが少ないということになれば、宿題をやる。ところが、家庭内暴力や校内暴力の常習者で、先生も親もビビってて全然怖くなかったら「舐める」という心理状態になる。利益衡量がカシャッと変わる。宿題なんかやってられっか、文句あっかという態度になる。

 これを応用すると、他人に助けを求める場合、こういう利益衡量的な関係環境(やった方がマシ的な)に既にあるか、自分でそういう状況を構築できるかです。

ゲームのルールを知る=法制度を知る

 まず環境的にこういう関係が既に出来上がっている場合ですが、どういう場合か?

 ぶっちゃけ社会全部がそうです。この社会の仕組み、ルール、システムその全てがそう。どんなにイヤな勉強・試験でも、やらないと入学・卒業できない、学歴スペックにハンディを負う。そのハンディ査定は人によりけり時代によりけりですが、20年くらい前だったら生涯年収で1億円単位で損をする。一生かかって1億円損するのと、今頑張って勉強するのと、「どっちがいい?」という「利益衡量」があるからこそ、泣く泣く勉強したりするわけでしょ。

 上司や顧客に無茶苦茶言われる。腹が立つ。しかし腹がたつのに任せていちいち反抗したり、ブン殴ってたらクビになって給料が貰えないばかりか再就職に影響を与える。だから「じっとガマン」です。離婚したいけど一人で自活していく自信がないから、嫌いな配偶者であっても、じっと我慢、、、。そんなの幾らでもありますし、誰でもやってることです。社会とはすなわち「我慢の体系」だと言い換えてもいいし、多くの場合、人生とはすなわち「我慢の歴史年表」だったりする。

 では、「他人を動かす」「ヘルプを求める」という局面ではどうか?

 このように社会が一定の法則性やルールで動いており、その関係性によって他人が動いたり動かなかったりするのであるから、何よりもその環境地形=ルールに精通するのが大事です。うまくスィートスポットにはまれば、ボタンをちょいちょいと押せば、勝手に他人は動いてくれる。楽です。確実です。

 とりあえず日本社会で誰でも思いつくのは、「お客様」的立場です。「お客様は神様」的風土があるから、客になればどんな理不尽やワガママでも言えると勘違いする人も多い。だからカスタマーサポートに常連のように電話をし、絶対に逆らえない担当者相手に言いたい放題。ヤクザの因縁のようなことをネチネチと言ってストレス解消をする。そして可哀想な新卒派遣のイタイケな若者が心に傷を負ったりする(ま、それも修行なのだが、修行もやり過ぎると健康を害するよね)。

 しかし、そんなのは日本だけの、それも過去の話になりつつある。とりあえず海外では通用しないし、特にオーストラリアでは、「お金で物事を解決する」という方法論が日本よりも通用しない。お金払ってもやってくれなかったり、「お前、馬鹿か?」的な("Because you are stupid"的な)言い方を平気でされるし、何よりも人間的に仲良くなってしまった方がマイトシップで献身的に助けてくれる。お金持ってるよりもチャーミングな人間性を持ってるほうがよっぽど役に立つ。人間本来でいえばこっちの方がまともで、大事な人間関係をカネの力でなんとかしようと思う方が人として歪んでるんでないかい。

 そんな低レベルの話はさておき、これら関係環境マップの中でもっとも確実なのは、明確にルールが定まっているもの、つまり法律や組織、システムです。システムというのは、最初から「そーゆーことに決まっている」ので、直接担当する個々人・組織が好むと好まざるとにかかわらず、やらざるを得ない。

 これらは予め明文化されていますし、解説も沢山出回っているし、幾らでも他人に聞ける。超簡単。超簡単なだけに、この方法に習熟するのはマストだと思います。

超簡単な法律

 話を日本に限ってみても、日本の法体系はさすがに一流国といっていいくらいよく整備されています。労働法だってよく出来ている。ただ惜しむらくは現場で全〜然守られていない(=そのことに労働者が怒らないので健全なパワーバランスが崩れている)だけで、制度そのものは結構ピカピカに出来ています。

 行政その他には、多くの救済システムがあります。特に国民の権利義務と激しく対立する刑事訴訟法では、あらゆる手続きに異議申立てが出来るようになっています。やれ即時抗告、準抗告、特別抗告。この裁判官はダメだから他の奴に変えろという申し立てすら出来る(忌避申立、通るかどうかはわからんけど)。

 あらゆる社会システム・ルールのなかで、法律というのは完全に建前の世界、論理の世界だから、ある意味ではこれくらいとっつきやすいものはないです。いやしくも憲法14条で「法の下の平等」が定められている以上、Aさんはいいけど、お前はダメということは許されない。それ相応の合理的理由がなければ許されない。実社会の悪夢のような理不尽を知っている一人前の社会人であるあなたからしたら、それは夢のような平等環境であり、ゆえにこれを存分に利用しない手はない。

 また、「法律による行政の原理」というのがあり、全ての行政手続、特に国民の権利義務を制限するような行政手続は、細大漏らさず国民の代表者である国会(つまり法律)によって定められなければならないという原則がある。だもんで、役所が「ウチ独自のやり方」で妙なやり方を押し付けようとしたら、「失礼ながら、法律上の根拠をお示しいただけますか?」とトコトン言えばいい。多くの場合、そんなもんないから、「だとしたら法的強制力はないですよね?要するに「お願い」「協力依頼」でしかないですよね?」と突き詰めていって王手をかけるという方法があります。よくやる手だけど。

 つまり法律やら何やらでパブリックにシステムが決まっているときは、もう完璧にアルゴリズム(作動法則)が決まっているのであるから、あとはパソコンと一緒で、適正な手順を踏めば、絶対ある程度のところにまではいけるということです。超簡単というのはそういうことです。これに比べて、他人の自由意思という変数Xが入ってしまう場合は、他人の気分次第で結論が右にも左にもいくから、すご〜く難しい(告白して成功するかどうか、など)。

訴訟マニア

 余談ですが、お知り合いに裁判所で働いている方がいたら、いろいろお聞きになったらいいですが、「うそ?」という話が沢山あります。どこのエリアにも「訴訟マニア」と呼ばれる人達がいて、ものすごい裁判をする。無茶苦茶すぎて受ける弁護士もいないので(そーゆー事件ばっかりやってると、業界内部で「そーゆー人」と思われてしまい、その営業的不利益は計り知れない)、たいていは本人訴訟(弁護士をつけないで自分でやる)です。

 「すごい訴訟」というのは、例えば「自分が内閣総理大臣であることの地位確認訴訟」とかです。本当は前回の選挙で当選していた筈なんだけど、国の違法によって当選が認められず、また総理大臣になるはずだったのになれなかったので、その地位の回復と、それまで1日あたり○○万円の損害賠償を求める、という。こんなこと本当にやる人がいるのか?と思ったあなたは世間が狭い。日本は広い、実に色々な人がいるのだ。そしてそんなものが適法な訴訟になりうるのか?というと、勿論なりうるのだ。

 常識的にありえないだろうって思うのだけど、「常識」というのは個々人の価値観であり、恣意主観であるから、数学のような論理性を誇る法律世界では、そんな曖昧なもので国民の権利を制限したらいけないことになっている。どんなにアホな主張でも主張は主張であり、それがアホであるかどうか、証拠があるかどうか、そして常識的かどうかすらも、適正な手続、つまりは法廷での裁判官の判断という形で示されねばならない。少なくともそれを受ける権利だけは保障されている(裁判を受ける権利)。しかし、こんな珍件を上(裁判官)にもっていったら、「こんな事件をやれというのか」と一喝されてしまうから、現場の事務官や書記官は必死に書類のアラ探しをする。形式的に不備があったら「訴状却下」「不受理」という手続で済ませられるんだけど、しかし敵もさるもの、訴訟マニアだけあって形式は完璧だったりする。形式が整っていたら、幾らイヤでも受理して手続に乗せざるを得ない。

 

マシンを動かすように

 何の話か?というと、社会的なシステムというのは、それを動かすための一定の様式・手順がキチンと定められており、それを形式的に守りさえすれば、システム側がどんなにイヤだとしても、受け付けて動かざるを得ないということです。

 つまり役所とか組織とか法律とかシステムというのは、一種のマシンだと思え、です。

 だとすれば、役所その他を動かそうと思えば、マシンを動かすように動かすこと。形式的に整えられるものは完璧に整えること。これが鉄則。マシンは、回線のわずか一箇所でも断線してたらそれでもう作動しない。それと一緒。だから手続には完璧を期す。相手が100求めているなら120揃える、それがコツ。書類に不備があったら、不備があることを恥じるべし。こんなの事前に調べれば分かるんだし、分からなくても何度も足を運べば出来るんだから。つまりは量的な問題であり、丁寧にやりさえすれば絶対できるわけで、なんも難しいことではない。

 よくお役所のカウンターで、ささいな不備で書類を突っ返されて激怒している人がいますが、公務員さんの弁護をするなら、あれは突っ返さないとならないんですよね。自分の恣意裁量で勝手に受け付けたり、却下したりということをすると、公務員の公平性、ひいては法の執行の適正すらも疑われる(てか破ってる)から。もっとも、そう思えば(突っ返されて当然と思えば)、日本の現場の公務員さんて、かなり柔軟に対処してくれてますよ。少なくとも僕の経験ではそうです。

意外に知らない蜘蛛の糸

 さらに応用編でいうと、組織やシステムはソフトウェアみたいなもので、自己流で勝手に使っているだけだと貴重な機能を見落とすことがあります。というか、まず見落としていると思った方がいい。あとになって「え、こんなことが出来たのか?」と思うという。

相談系

 相談では無料相談をいろいろなジャンルでいろいろな組織がやってます。市役所や消費生活センターに限らず、弁護士会でも、司法書士会でも、税理士会でも、ものすごい数やってますよ。法律相談では、昼間働いている人のためのナイター相談なんてのもあったな。僕の場合は(昔の話ですが)、割り振りがあって、毎月大阪市港区区役所の法律相談に原チャリ飛ばして行ってました。当番弁護士制度というのも会で自発的に作って、逮捕勾留された人が無料で弁護士を呼べる制度もあり(国選弁護人は起訴されてからの話なので、捜査段階では私選弁護しかありえない制度の欠陥を補充するため)、僕もときどき当番で行きました。あと阪神淡路地震のときは、地震相談のホットラインを作ったり、実際に被災地まで出向いて(寸断されているから4時間くらいかかった)法律相談やったり。そういうことは結構どの業界でもやってます。労働関係でお悩み(ブラックすぎるとか)だったら、労基以外に、民間の労組ないし類似組織・NPOはかなり力になってくれるケースもあります。

 交通事故の被害者側で、相手の保険会社から納得いく賠償額を提示されずにお困りの方には、交通事故紛争処理センターという全国規模の公益財団法人があります。損保会社もビジネスですから、当然ながらいろいろな値切ってくるし(不定愁訴はダメとか)。かといって弁護士に相談したり雇うにも敷居が高いし、、、という人はオススメです。話し合いの場を儲けてくれるのですが、担当相談員が現役の弁護士ですし、わりと被害者側にたって、リアルタイムの日本の判例に即しつつ調停案を提示してくれますし。

 今もやってると思うけど、各地の弁護士会では弁護士紹介をしてくれます。利用者側のメリットは、費用と活動内容が適正レベルで保障されることです。僕にも案件が回ってきましたが、やる側としては大変なんですよ。会内部の委員会に、いちいち活動報告を出さないといけないし、報酬も自分で決められないで委員会が適正な額を出してくる。ま、お金はむしろ決めてくれた方が楽なのですが(=弁護士業務で一番難しいのはお金を取る部分で、なんせどれもこれも可哀想な人ばっかなので、ついつい安いことを言ってしまって、あとで死ぬほど後悔する)、大変なのはレポート。あなたがどんな職に就いていても、自分の仕事ぶりを逐一同業者(それも数名の)に査定されるのってプレッシャーでしょう?やることビシっとやらないと「こいつは無能」というレッテルが業界内部で貼られるわけですもんね。なお、弁護士費用の立て替え(法テラス)なんてのもやってます。

給付系

 金銭的な給付や支給は、なにも失業保険や生活保護などの有名ドコロに限ったものでもないです。そんなのほんの一部に過ぎない。「え、そんなのあったの?」というのが結構あります。例えば、これは自治体により時期により(予算により)、さまざまですけど、高齢者住宅改修費給付事業とか、ひとり親家庭自立支援給付金とか、離職者住宅支援給付事業とか、近親者の葬儀費用が出ない場合に葬祭扶助制度とか。

 もっと高度・複雑になると、土地収用法とか、道路の拡幅とか、交換分合などの手続での補償金や制度があります。これがまた、自治体により、プロジェクトにより様々なんだけど、制度のそのものが専門用語だらけで分からず、また手続も複雑だから、「とにかくここにハンコ押して」といわれるまま押してそれきり、みたいなケースもあります。キチンと手続をふんで請求したらそれなりに貰えるんだけど、知らないからそれきりだという。行政書士さんや司法書士さんなどの中には、こういうエリアに「営業」にいって、手続き代行をして手数料をもらうということをしている人もいるらしい(てか、会ったことがある)。

ちなみにオーストラリアの場合

 オーストラリアの場合も、かなり豊富にヘルプがあります。永住権者の場合は、例えばセンターリンク(職安みたいなもの)にいって、職業訓練を受けるためにTAFEを紹介されたら、その学費を全部出してもらえるとか。TAFEって、よく学生ビザで留学する人が多いところですが、コースによりけりですけど年間100万円以上します。それが無料。またマルチカルチャル的に母国語サービスもあるし、もともと教会というNPO組織が強い社会風土なので、NPO認定をしてもらったり、役所との相互乗り入れが結構スムースだったりもします。

 英語で書かれているから、ついつい引っ込み思案になりがちだけど、あちらこちらで色々なヘルプの手は差し伸べられています。オーストラリアに住むというなら、少なくとも消費者センター(賃貸での揉め事も含む)に相当するCTTT(NSW州の場合)、労働関係でのFairworkくらいは知っておきましょう。ただし、オーストラリアの行政組織は、年がら年中、改組・改称をやってるからすぐにリンク切れになるし、場所が移転したりします。移民局だって、僕が来てから何回名称やURLや実住所が変わったことか。いっときはなぜかRockdaleにあったもんね。

最大の問題点は「知らないこと」

 これらは「他人を動かす」というテーマからすれば、他人がもともと「動くつもりでいる」(そのために存在している)わけですから楽です。上に述べたように、マシンのように、所定の手続を所定の方式でやれば、誰であれそのベネフィットが受けられる、少なくとも手続には乗るわけです。

 ただし、問題点もあります。
 最大の問題点は、知らないことです。

 そんな制度があることを知らない。役所や組織も頑張って広報してますけど、限界あります。そんな何千万円も広告費使ってやれわけですし、せいぜいがポスター貼るくらいです。一般市民に届かないし、あなたが知らなくても不思議ではない。

 ということは、「なんかあるんじゃないかな?」とあたりをつけること、そして頑張って探すことです。ここが勝負の天王山だと思います。

 ちょっとネットで調べて「わかんないや」なんてぬるい探し方をするのではなく、もう丸一日、まる一週間くらいかけてでも探す。また、電話もかけるし、足を運んで話を聞いてみる。「やれることは全部やる」くらいの意気込みが必要でしょう。役所への手続でも言いましたが、ぞんざいにやらないで「丁寧にやる」。[どうせダメだろ」なんて決めてかかっていい加減にやってたら、見つかるものもみつからないし、上手くいくものも上手くいかない。
 

組織や制度は使ってなんぼ

 なお、こういう制度利用を奨励するようなことは、国民の依存性を増し、不労所得を増すだけだから宜しくないという意見もあろうとは思いますが、僕は真っ向から違う意見を持ってます。あるものはガンガン使え、と。すんませんね。

 なぜなら、そこに制度があり、法律があるということは、それが必要だからあるのであって、それを利用することに何も問題はない筈です。もし問題があるなら廃止・改正すればいいだけのこと。生活保護の不正受給も、「不正」がいけないだけであり、受給そのものは何の問題もない。

 公的な手当を受けること全てが何やら後ろめたい、一人前の社会人として恥ずべきだという意識は、日本の健全な自立心や克己心というレベルにおいては理解できるけど、それは個人の「かくありたい」という心情/信条であって、制度の問題ではない。レベルが違う。

 それにもし本気でそれを言うなら、エコポイントだって、住宅減税をはじめとする優遇税制だって辞退すべきだし、公教育そのものが莫大な国の支出によってなされているし、私立大学だって膨大な私学助成金が出ている。直接か間接かの差でしかない。直接目に見えたらダメで、間接的にわかりにくかったらOKだというのは、まっとうな知的水準の人が言うべきことではないでないかい?「税金にたかっている」という意味では国民全員がたかっているのだ。それがすなわち国家の重要な存在理由である「所得の再配分」というやつでしょう。そもそも「たかっている」という表現そのものがクソなのであって、単に税金を払うのが良くて、もらうのが悪いなら、要するに奴隷は良くて市民はダメだというに等しく、近代国家組織のなんたるかという立脚点からしてもう間違っている。「慈悲深い名君と忠節心あふれる臣民とによる、古き良き封建制度」みたいなものを恋焦がれるのは個人の勝手だけど、そういう統治形態をおこなっている政治組織は、現行法上、日本列島の上には存在しない。

 税金というのは取るために取るのではなく、再分配するために徴収するものです。それがインフラや制度に投資されようが、個々の事業や個人に支援金として給付されようが話は同じです。いかに取るか(消費税を導入するかとか)も大事だけど、「いかに使うか」はもっと大事。ゆえに予算案というのは一国の一年の政策決定の肝心カナメの部分になり、オーストラリアの新聞ではバジェット(予算)が発表されると、新聞数ページにわたって徹底的に解説がほどこされ、winnerは誰で、loserは誰かと事細かに解説してくれます。日本ではあんまりやらないんだけど、もっとやるべきだと思います。

 そして生活保護をいくら出すとか、援助資金を出すとかいうのも、「可哀想だから」という感情的理由だけでやるわけでもないし、ましてや「施しを与える」「乞食に投げ銭」みたいな脈絡で理解すべきではない。そういうお金の使い方をした方が結局は皆にとって良いからだという合理的理由があってこそです。教育関連支出は、国家の人材を育成するという長期的メリットがあるわけだし、不動産減税は経済効果や居住環境の向上を計ってのこと。そして貧困が種々の波及災害を長期的に生み出し続けることから、それを未然に防ぐという投資効果がデカい。因果関係は無限に連鎖する。先の先まで見なければならない。

 第二に、現実問題でいえば、自分で法律などルールを作って、自分で利得をうけるような、インサイダー的、お手盛り的なものは厳しくチェックされなければならないけど(関連制度・組織を作って、自分らが天下りするとか)、公的扶助を必要とするような困窮世帯の庶民がそんな立法過程に影響力を発揮できるわけはない。そこまで強かったら最初から困ってないのだ。真に問題にすべきは、個々の国民のセコい不正よりも、あまりにも大規模&巧妙すぎてわかりにくくなっているもの、例えば、大企業優遇の税制であるとか、救済のための公金支出、為替誘導。さらには医療や農業など各業界への補助金その他の金の流れとシステムでしょう。

 「違法で不正」なんか言わば可愛いもので、個別的に取り締まれば済む。「合法だけど不正」なものこそ問われなければならない。それは犯罪と戦争の違いのようなもので、前者は粛々と法を執行すればよく、そこに「議論」の余地はそれほどないが、後者(戦争をすべきかどうか)は国家全体の決定事項であるがゆえに大いに議論されねばならない。スケールもレベルも違う。難しいことはわからないから、とりあえず分かりやすそうな手近なところから叩こうなんて態度は、これも論者の知的水準を疑われるだけでしょう。

 第三に、オーストラリアの生活感覚でいえば、日本の低〜中所得者層の公的負担は重すぎる。オーストラリアで実年収が200万円程度だったら、所得税、住民税、国民年金、厚生年金、失業保険料、健康保険料、NHK(こっちはABC)受信料、その全てが無料であるのに対し、日本の場合(ケースバイケースだが)、月に3〜4万円にはなるだろう。なんせ国民年金だけで月1万5000円以上するのだから。だとしたら月3万で年間36万、月4万で年間48万円。年収200万の約4ないし5分の1。200万円の人の可処分所得(住居費、光熱費、食費など絶対必要な額を差し引いた純然たるお小遣い)なんて微々たるもので、月に3万円もあればいいところでしょう。つまり毎月の小遣いとほぼ同額をふんだくられているわけです。全部無料にしたら、それだけで小遣いが倍になる。かなり気分的に違ってくる。

 何を言いたいかというと、国民経済や国内消費・景気を考えてみたら、低所得者層は幾らでも優遇し、いくらでも支給すれば良いということです。なぜなら、彼らは貰ったそばから使うわけで、それが国内消費を増強させ、景気をよくする。小遣い3万ポッキリだから欲しいものがあっても泣く泣く諦めていたとしても、それが2倍の6万円になったら、彼女とたまには高いレストランに行こう、今日はお刺し身を買おう、カッチョいい服を買おう、一杯飲みに行こう、薔薇とワインで夫婦の時間を楽しもう、CDを買おうという消費に向かい、近所の商店街がそれだけ儲かる。儲かった商店は、それだけ新規に人を雇うかもしれない。一人二人では目立った変化はないが、とある私鉄沿線の町で、該当所得者が1万人おって、彼らがその月1万円だけ余計に地元商店街で使えば、もうそれだけでその月の地元商店街は1億円分の売上増になるのであって、幾分なりとも経営は助かるでしょう。

 逆に一番詰まらない公的支給は金持ちを優遇することで、資産10億円の人が100万円くらい増えたところで消費性向はそう変わらないだろうし、金持ちだから貧乏人の100倍メシを食うわけでもなし、国内消費に与える影響など知れている(高級嗜好品やマンション投資物件が売れるくらい)。でもって、だいたい、いきなり使ったりせずに(だからこそ金持ちになれるのだが)、ポートフォリオなんか組んで外国に投資したりするから、結局日本国内にお金が回らない。挙句の果てにリーマン・ショックみたいなことが又あれば(この種のことは絶対あるし)、それでパー。なんのことはない、税金でどっかの投資先の国の証券会社と不動産会社を喜ばせているだけではないか。

 ま、こんな「こども経済解説」の絵解きみたいに物事が簡単に進むわけではないのは百も承知ですけど、本気で日本経済をなんとかしたかったら、低所得者を中流に引き上げることだし、下にいけば下にいくほど、右から左にすぐ使うんだから、投資効果はあるということです。だからガンガン貰えばいい。ガンガンもらってガンガン使えば、金は天下の回りものという健康な状態に復する。ましてや逆進性バリバリの消費税を上げようというのだから、なおさらです。オーストラリアのGST(消費税)は10%だけど、生鮮食料品、教育費、そして居住用賃借料は例外措置で無税です(だから先週まで確定申告に四苦八苦してたのだ、面倒くさいのだ、でも意味のある面倒くささだと思って諦めているのだ)。



 以上、ここまで書いて今回は終わり。短くしましょ。
 
 まとめますと、他人を動かす場合の@意思に反して動かす場合のうち、動くことが制度化されている場合について今回は述べました。制度化されていない場合、ほとんど強要罪とか脅迫罪みたいな利益衡量の力学については次回述べます。今回の制度やシステムでも、意図的にサボタージュされる場合もあるし、受理はするけど全然やる気が無いって場合もあります。そうなると、やっぱりお尻を叩いてやってもらうことになりますが、それが出来る場合と出来ない場合とかあり、その構造原理はどうなってるの?というお話です。


文責:田村



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