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今週の一枚(2013/07/29)


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Essay 629:「喧嘩論」入門〜自他の超克

 〜自分がやること・他人がやること

 写真は、先週、Wahroonga駅裏公園にいったら、見事に咲き誇っていた木蓮の大木。今が満開。毎年この時期になると木蓮を載せているような気がします。が、しかし、寒〜い冬、いち早く春の到来を告げてくれるこのゴージャスな花が咲いているのを見ると、やっぱり嬉しいのですね。「おお、もう春がきたぞ」って気になります。

 日本は酷暑、真逆なオーストラリアは酷寒の筈で、それは間違ってはいないのだけど、でもシドニーの春は早いです。日本でいえばまだ1月下旬なんだけど、既にちらほらとツツジが咲き始めているし。これから初夏のジャカランダまで花の連続ラッシュです。

 さて、Wahroonga(ワルーンガ)はUpper Northの地域で、北の玄関口ホーンスビー(Hornsby)の2駅シティ寄り。ホーンズビーの手前は、「W三連発」で、Waitara - Wahroonga -Warrawee と耳慣れないアボリジニ系の名前の駅が続きます。沿線に住んでる人には常識だろうけど、エリアが違うと意外と知らない。



 これから話そうということには、幾つかの論点があります。
 一つは他人をアテにしない自助努力・自力救済の内容と限界
 もう一つは、逆に他人を上手に使うことです。

 内容的には違うのですが、いずれも「自他の線引」「自他の超克」という意味では同じですのでまとめて書きます。

喧嘩論序章〜対立・闘争過程の重要性

 この世間で生きていくと、いろいろなトラブルに巻き込まれたり、不愉快な思いをすることもあります。
 あるいはドツボのような状況にはまりこんでしまう場合もあるでしょう。

 このような問題状況をいかに解決したら良いのか?
 そこでは、優れた問題解決能力が求められます。

 「問題」というのは他者と対立構造になる場合が多く、その場合の「解決」とは何かといえば、闘争での勝利でしょう。ぶっちゃけていえば「喧嘩に勝つ」ことです。
 ということで、まずは喧嘩論を書きます。

 喧嘩ごときに何を語ることがある?と思われるかもしれませんね。まあ、「喧嘩」という表現が悪いのかもしれないけど。
 イェーリングの「権利のための闘争」を持ち出すまでもなく、「対決」「闘争」というのは近代市民社会の根本原理とも言えます。対決や闘争を避けていたら、より良い社会は築けないし、より良い人生も築けない。

 これは何も、ガツガツしろとか、やたら攻撃的になったりエゴイストになれという幼稚なこと言ってるわけではないです。もっとディープな構成原理にまつわる話です。

 なぜ対立や闘争が必要なのか?

 世間にはいろいろな価値観の人がいます。人の好みは十人十色、千差万別。それぞれが思い思いの人生を好きなように生きていけば良い。しかし、個人バラバラに生きていくことは出来ないし、それだけの空間もないし、あったところで効率が悪いし、そもそも一人じゃ寂しいし。だから人と人は何らかの形で接触し、つながって生きていくことになる。でも、趣味嗜好はバラバラ。当然、いろいろな局面で対立が生じてきます。それは個々人のキャラが立ってれば立ってるほど、あっちこっちでケンケンしてきますし、それは別に悪いことではない。

 まず違うことを認め、その違いがどういう形で共存できるのかを模索し、共存できないならどちらをどう優先させるかを決めなければならない。その決めていく過程が、公正で、透明で、誰もが納得できる合理性をもっていればいるほど皆の不満も少なくなる。ハッピー度があがる。

 ではどうやって決めるかといえば、これが対立であり闘争です。それぞれが自分の主張を明確に行い、何が違うのかを冷静に比較し、ではどうすれば良いのかを考える。解決案をいくつも考え、交渉し、相互に妥協し、最後は握手する。

 それって「喧嘩闘争」ではなく、普通の平和な「話し合い」じゃないかって思われるでしょう?
 でも、対立、闘争、喧嘩、話し合いというのは、ぱっと見た目のニュアンスやテイストは全然違うんだけど、「自他の相違を超克する」という本質は同じなんです。

 だってさ、対立しているからこそ話し合いが行われるのでしょう?対立してなかったら最初から話し合いなんか要らないもんね。そして、「話し合い」といっても、その主張の過程で、当然のことながら相手の主張の欠点も指摘するわけですから、その限りでは「悪口」にも聞こえるだろうし、自分の主張を声高に言う段になれば「自己中」「ワガママ」にも見えるでしょう。

 それを「話し合い」というか「喧嘩」というかは、単に言葉遣いがぞんざいか丁寧かの違いと言えなくもない。「お言葉を返すようで恐縮ですが」といえば話し合いっぽく見え、「ざけんじゃねえ!馬鹿かてめえ」といえば喧嘩に見えるだけのことで、いずれにせよ相手の主張に異議申立てをしているという意味では同じ。

 暴力を使うかどうかがキーポイントなるという見方もあるでしょうが、それすら必ずしも決定的ではない。
 なぜなら、世の中には暴力以上に相手を畏怖屈服させる手段は幾らでもあるからです。例えばビジネス交渉での資金援助の打ち切り、許認可の取り消しなどは、暴力以上の死刑宣告的な攻撃になりえます。また、強大な軍事力を背景にし、決裂したら即戦争という和平交渉も「話し合い」といえば話し合いです。

 対決・闘争過程においては、さまざまな攻撃防御手段があります。
 暴力のほか、資金力にモノをいわすとか、世間体をタテにとった恫喝(事を公にして面目を失わせるとか)もある。ポーカーのようなブラフもあろうし、スパイのような情報収集、さらにエグく卑劣な手段もあるでしょう。何でもアリです。その中で、「これは禁じ手」というルールを作り、純粋に主張の正当性と優劣を議論しあい、妥協するのが好ましいとされています。つまりは闘争対決、喧嘩のやり方を洗練させていくことです。

 そんなにしてまで角つき合わせなくてもいいじゃないかという説もあります。出来れば対決など無い方が良い、波風は少なければ少ないほど良い、それが平和で、それが良いことだと。しかし、それは違うと思う。人が自然のままの自分であろうとするなら、必ずやどこかで意見対立は出てくるし、それをスルーしようとすればもっと大きな弊害が出てくる。

 表面的に対決を少なくしようとするならば、絶対的な身分社会にしちゃうのが一番手っ取り早いです。身分の上の者が言うことが絶対的に優越するというルールにしてしまうわけですね。上の人間が「カラスは白い」と言えば、下の人間もカラスは白いと言わねばならない。そうすれば波風は立たない。でも、それでいいのか?です。

 身分というのは、形を変えた恒常的な暴力だと僕は思います。ナイフを突きつけられて、文句を言えないように追い込まれているのと同じように、身分関係に逆らって何かを言おうとすればボコボコにされる。身分制度に内在する強制力、それは煎じ詰めれば凶悪な暴力ではないのか、最初に強力な暴力が全てを支配しているから、小さな波風が立たないだけの話で、そんなものの何が「平和」か?と。

 大事なことだから何度でも繰り返しますが、自分が自分らしくあろうとすれば、必ずやどっかで誰かと対立する。それは避けがたく、また自然なことであるのだから避けてはいけない。対立を不可避の前提として置いた時、なすべきは対決闘争のやり方を出来るだけ洗練させることでしょう。クリーンで、透明で、合理的で、正々堂々と戦って、あとはノーサイドで後腐れなくガッチリ握手ができるような文化を作り、また自分自身でも実践することでしょう。

 社会全体においても、いろいろな立場、いろいろな利害関係が錯綜しています。大企業を誘致して、あるいは原発すらも稼働させて、破綻寸前の自治体財政を回復させて、住人の生活を楽にさせるべきだという主張もある。一方で、国土を荒廃させてはならないという主張もある。それぞれに皆真剣に考えて真剣に主張している。それらが相容れず、激しい対立を招くのも、これは止むを得ないことであり、ある意味では称賛すべきことでもある。帝王的な地方のボスの一存ですべてが決まり、誰もなんにも言えないのに比べれば遥かに良い。ゆえに対立があるのは、その社会や人間集団がある程度マトモに機能して”生きて”いる証左でもある。対立構造はより良い社会を作っていくための必須の過程であり、それは忌むべき病理ではなく、喜ぶべき生理である。

 以上の次第で、ちゃんと気持ちのいい喧嘩ができることは、一人前の大人にとって必要な基礎技能ではないかと思うわけです。ちゃんと自己主張が出来ることと、ちゃんと第三者に説得的なプレゼンができること、相手の主張の意味内容を理解できること、解決案をいくつも考えつくこと、交渉での駆け引きに通暁すること、攻めどころ、引き際、落としどころをわきまえること。できるだけ感情的なシコリを残さないこと、、、これは正しい喧嘩道だと思います。同時に、民主主義を標榜する社会の構成員の基礎技能でもあるでしょう。

 そこを何でもかんでも対立を避け、ナミカゼを避け、「穏便に〜」とだけやってると、社会内部の本質的なギクシャクや不備に目をつむることになる→新陳代謝は遅れて旧態依然としたシステムが温存され→全てわたって物事が停滞し→やがて静かに腐臭をたて、生きながら壊死していく。そっちの方がよっぽど怖い。

 これは個人の人生でも同じで、とにかく対立を避け穏便にやってると、ストレスが溜まりまくり、心の中が真っ黒なコールタールのようなものでベトベトしてきて、やがて発狂的暴発になる。喧嘩道を修めていない人が世間に出ると、テキトーに喧嘩して発散し、調整することが出来ないから、いざ出てくるときはバンザイアタック的になる。これ、本来的に心が優しい日本人の弱点でもあると思います。職場でストレス抱えて無理やり我慢しすぎるから最後にはココロが壊れて、罪もない幼児相手に通り魔をやらかすという発狂的暴発になる。関係ない人を傷つけるくらいなら、テキトーに上司でもぶん殴っておきゃあいいものを。喧嘩道未熟。

 さて、問題解決に戻りますが、ある問題、ある対決構造にぶち当たったとき、さて自分は、何を、いつ、何処までやるべきか、出来ない時はどうするか?という具体論に進みます。喧嘩道は奥が深いです。

 

後の祭り〜現場処理の重要性

 何かのトラブルに巻き込まれたり、不愉快な思いをする場合があります。

 そういった場合にどうするか?
 イチにも二にも、現場処理です。

 可能な限り「その場」で文句言ったり、反論したり、場合によっては喧嘩も辞さずに行うべし、です。
 その場は何となく引きがってしまい、後になって腹の虫が収まらず「なんとかならないか?」といってもかなり無理です。

 発生直後が一番勝率が高いし、解決率も高い。
 あとになればなるほど勝率が落ちるし、コストも労力もかかるので、むしろ被害は拡大する。
 さんざん苦労して、結局報われず、無力感、屈辱感、徒労感が数倍増になり、よって不快感も数倍増になる。
 それどころか「世を拗ねる、恨む」というネガティブな世界観と人格形成が進み、その後の全人生において大損をし続ける。

 以下具体例とともに「なぜそうなるか?」というメカニズムをみていきましょう。

設例

 すご〜い簡単な事例、「釣り銭を間違えられた」というケースです。
 お店で買物をして釣銭を受けとった時、「あれ、足りないんじゃ?」と思う。20ドルのものを買って100ドル札を渡したら、相手は50ドル札だと勘違いして(本当は80ドルくれるべきなのに)30ドルしかお釣りをくれなかった、、、というとき(まあ、今どきレジの計算機で釣り銭を勘定するから釣り銭ミスも珍しいですが、それでも預かった金額の入力を勘違いして間違えられたら同じ事です。)

 この場合は、気づいた瞬間に言うべきです。
 いかに英語がダメだろうがなんだろうが、そんなこと言ってる場合ではない。身振り手振りでもなんでも、伝わろうが伝わるまいが「とにかく言う」。これが大事。

 なぜか?
 後になればなるほど解決不能になるからです。

 お釣りをもらった1秒後に言う場合は、まだ差し出した100ドル札がそのへんにあるわけだし(だからシステムとして預かり銭を別のトレイの上に置くようにしている店も多い)、向こうも覚えている確率が高い。「あ、ごめんね〜」で円満に解決するケースも多い。

 しかし10秒後になると、もうレジから離れて数歩歩き、レジには次の客の会計が始まってるから、「たった今100ドル札を渡したでしょ」という事実が曖昧になる。これはもう一秒ごとにどんどん曖昧になっていきます。それでもまだ10秒後だったら、行為(釣り銭間違いに気づいて文句を言う)を起こすアクションタイムとしてはまだ不自然ではないですし、もしかしたら100ドル札は珍しいから覚えているかもしれない。

 ところが、これが3時間後とかになると、もう相手も覚えてないでしょう。客の顔なんかすぐに忘れるでしょうから、「誰?」ってな感じでしょう。
 さらに半日後とかになると、レジの担当の人の勤務時間が終わって会えないという話にもなる。イチから説明しなきゃいけない。
 翌日になると、もう「昔ばなし」の世界です。
 そして半月後とか1か月後とかになると、こんなに時間が経ってから言ってくる事自体が既に「変」「あやしい」です。

 立場を逆にしてみたらよく分かると思います。
 あなたがバイトでレジに入っていて同じことが起きたらどうするか?
 1秒後だったら、「えっと今お札を受け取って、そんでもってココに置いて、、、」と記憶喚起をするのも容易でしょうし、ミスの確認もしやすい。10秒後でも、まだなんとか思い出せるかもしれない。しかし3時間後とか翌日とかになるともう思い出せないでしょう?

 するとどうなるか?確定的な証拠も、当事者の合意もないままこの問題を解決できるか?
 あなたとしてもいろいろな可能性を考えるでしょう。@本当に自分がミスをしていた場合、A相手が勘違いをしている場合、B相手は確信犯としていっている場合(釣銭ミスはないのにあると言いがかりをつけている場合)、@〜Bのどれかを考えなければならない。そして、もし間違ってお金を返した場合、給料から差っ引かれるとか、叱責を喰らうとかいうリスクをも覚悟しなくてはならない。そうなると、よほどの確証がないと迂闊に相手の言い分を飲めなくなる。

 あなたが店長だったらどうでしょうか?
 現場で埒があかない時は、"Can I talk to your manager please?"というのは「定番の定石」ですが、さてマネージャーとしてこのような場合どうすべきか?マネージャーになると、さらに高度な判断が求められます。単にお金の損得ではなく、もし断固拒否を貫き、それも「にべもなく」といった態度でやってしまうと、「誠意がない」「客あしらいが悪い」「客を見たら泥棒だと思えみたいにやってるのかこの店は」という新たなクレームを呼んだり、ツイッターで告発されて炎上したり、店の好感度を悪化させて売上減になるリスクもある。かといって、言われるままほいほい返していたら舐められる。ちょろい店ということで、小銭稼ぎのズルをする連中を惹きつけるリスクも出てくる。また、Aさんには返したけどBさんには返さなかったとかいうと、「客を差別するのか」というややこしい問題が出てくる。マネージャーというのは、お客さんの顔を見て、雰囲気を見て、全体の状況を考えて、「これなら返してよし」という「合理的な理由」があるかどうかを判断して、その上で返すなり、返さないなりするでしょう。

説得材料と合理的判断

 さて、ここまで考えてみて、問題解決をするにはどうしたらいいか?ですが、あなたと誰かの意見や利害が対立した場合、キモになるのは、相手が納得しやすい、折れやすい、妥協しやすいだけの「説得材料」をいかにあなたが多くもっているかによって決まってくるという法則です。

   あなた(説得材料)  →  合理的判断   ←  相手の事情

 無理やり図にすると↑のような形になると思いますが、あなたの説得材料と相手の事情を総合勘案して合理的な判断としてあなたが優勢になるならば、あなたの勝ちで一件落着になるということですね。

 そして「時間がたつほど不利」というのは、直後であれば、まだそのあたりに100ドル札があるわけだし、自分の記憶も相手の記憶も鮮度が高いから間違いにくい、だから証拠合致で即解決しやすい。つまりは説得材料が豊富にあるということです。また社会的な事柄の性質としても、直後だったら大事にならずに「些細なうっかりミス」という形で無難に処理しやすい。火事をボヤのうちに消し止めるようなもので、解決可能性も高い。この時点では「トラブル」「事件」になっていない。

 ところが!時間が経てば経つほど、証拠が減衰していきます。直後だったら新鮮な記憶という大きな証拠がありますが、時間が経てば記憶が薄らぐ。

 それに、直後だったら相手の記憶が曖昧で拒否されても、こっちにも確信があるから、結構突っ張れます。「いや、絶対間違いない。そのレジの一番上にある100ドル札はたった今私が手渡したものです」「信じられないなら、警察呼んでその100ドル札から私の指紋が出てくるかどうかチェックしてください。もし間違っていた場合、全費用と責任は私が負いますから」と強気に言える。でも、時間がたったらこれが出来ない。もうその百ドル札はどっかいっちゃってるだろうし、指紋も鮮明に残ってるかどうかも怪しい。防犯カメラで見てもらうにしても、確信があり、証拠が散逸してなかったらトコトン言える。

 そこでトコトン頑張れるということは、「なるほど確かに証拠はありそうだ」「これだけ言うというのは、ズルや冗談ではなさそうだ」という「合理的判断」をこっち側に寄せられるということであり、そうなれば相手としても折れやすくなるのですね。

 余談ですが、思い出したけど、僕もシドニーのBroadway Shopping Centreの駐車場で、3時間まで無料な筈なのにチケットを出口で挿入してもゲートが開かず、数十ドル払えという法外な表示が出たことあります。「げげ!」と思って、ゲートのところにあるインタホンのブザーを押してクレームしたところ、「あなたの車は昨日に入ったという記録があるので2日分の料金になります」とか言われて押し問答になりました。「あ〜こりゃ発券機の初動設定がミスってたんだな」「向こうだって記録がそうなっている以上そう言うしか無いわな」と事情は理解しつつも、あれこれ言いました。「そんなの絶対間違ってる。絶対だ。嘘だと思うなら防犯カメラで2時間前に僕のクルマが入ってきたことを確認してくれ」「そもそも今日の朝にはハーバーブリッジを通ってETCで通行料を払っているんだから、ETCの使用記録をみれば今朝この車が他のエリアを走っていたことが証明される。つまり昨夜からずっとこの場にいたというのが間違いだということが立証できる。だからゲートをあけてくれ、この会話を録音して、もし僕の言ってることが間違っているならあとで言ってきてくれ。必要なら車のナンバープレートと僕の名前、アドレス、携帯番号全部ここで言うから控えてくれ」とか言ってたら向こうが折れてくれました。ちなみに海外に住むなら、これだけのことを現地語で言えて初級合格だと思います。でないと、泣く泣く数十ドル払うハメになる。一事が万事で、いちいちこんなことで損してたら金が幾らあっても足りないです。語学力=生命力です。

 あと、押し問答を数分間やってたわけで、当然後ろは長蛇の列になったのですが、誰からも警笛を鳴らされたりしませんでした。そのあたり、こっちの人(てか西欧一般なんだろうけど)、「戦う権利を認める」「戦っている人を邪魔しない」って部分はあると思います。日本だとすぐに文句をいう人とか居るんだけど、こっちでは少ない。人にはそれぞれ価値観があり、それぞれの戦場があるんだろうから、自分の価値観だけで良し悪しを判断しないし、押し付けたりもしない。また波風を立てることを悪いことだと思わない、むしろ社会の健全さや新陳代謝をはかる大事なステップだくらいに思ってるんじゃないか。

 思うに、戦ってる人をうざったがる人、「下らないことでいちいち文句言ってるじゃねーよ」という人は、それって「下らない」という自分の価値観が無条件で世間に通ると思っている人=世間と自分の価値観がリンクしている人=世界からの乳離れが出来ておらず、この世界で自分は一人ぼっちであるという覚悟も自覚もない幼稚な人格なんだと僕は思います。ホモジニアスな同質的な社会でレッドネック的なおっちゃんによくある人格類型で、要するに人間存在に関わる本質的な修業が足りないんだと思う。いっぺん海外に来て「自分だけが異物」という完全孤立環境で24時間×3年くらい修行したらいいです。

行為としての不自然さ

 一方では、時間が経つほど、致命的な弱点が出てきます。
 「何を今さら」「なんでその時に言わなかったの?」という弱点です。

 素朴におかしいんですよね。そんなに文句があるなら、なんでその時に言わなかったのだ?という、その事実(アクションを起こさなかったという行為不存在の事実)そのものが、強烈な反対証拠になってしまう。どんなに正当なこと、どんなに真実に即していることを言っても、主張時期がズレただけで、すごーく胡散臭いものに見えてしまう。

 クレームやら、喧嘩というのは「旬」があるのです。それをするにふさわしい「合理的な時間帯」がある。その時間帯を外れてしまうと、証拠の散逸・記憶の曖昧化などにプラスして、「あやしい」「変だ」というネガイメージを持たれてしまう。全体の構図もおかしなものになり、いかにも「因縁をつけてきた」という構図にはまっていくから、相手としてもおいそれと妥協できなくなってくるのです。

 民事裁判の事実認定では「当事者の合理的意思解釈」など色々な手法がありますが、「そういうつもりがなかったら、普通こんなことはしないよな」って経験則を当てはめて当時の事情を推測していきます。僕も研修所の民裁起案で覚えているけど、「被告が喧嘩腰で怒鳴りこんできた」という主張や証言があるのですが、一方ではその被告が当日おみやげに柿を持って行っているのですね。柿についての事実には争いはない。すると、「喧嘩腰で怒鳴りこむ」のと「柿のお土産」というのが微妙にズレるんです。普通怒鳴りこむような人がお土産なんか持っていくか?という。な〜んか釈然としない。だから最初は穏便に話をしにいったんじゃないか?だから柿の一つも持っていったんじゃないか?って認定するほうが「素直である」と。

 同じように「当然やるべきことをやっていない」というのは、あとでメチャクチャ不利に働くのですね。「不自然な行動」になってしまう。「不自然な行動をしているのは何故か?」となり、その不自然さの理由を十分に説得できなかったら、、結局のところ「その主張が嘘だからだ」になっちゃう。どうしてもそっちに転がってしまうのですよ。だから、やるべきときにキチンとやってないと禍根を残す。後になってそれをひっくり返そうとすると死ぬほど苦労するし、ただその一点だけが致命傷になり、敗訴になってしまうということも、これは本当にザラにあります。

 これは相手がいい人かどうかとは関係ないです。良い人であって、個人的に信じてくれたとしても、パブリックな事件処理としてはしにくいという絵柄があるからです。1ヶ月たって文句を言って、店長さんがいい人で、「うん、あなたは正直な人だと思う、多分本当なんだろう」と信じてくれたとしても、だからといって店長的な立場でいえばおいそれと返金できないでしょう。これもあなたが社会人だったら(いや小学生でもリーダー立場の経験をした子なら)分かるでしょう。いわゆる「世間にシメシがつかない」んですよ。いくら個人的に信じたとしても、そんなの個人感情に過ぎないわけだし、個人感情にしたがって物事を決めるということは、要するに「エコヒイキをする」「差別をする」のと同義ですから。やっぱり、世間に対して、なぜこの人を特別扱いするのか?という理屈が通らないとならない。

 この点は、一般的なクレームを付ける場合には、特にお役所相手に交渉する場合、キモに命じておくべきです。役所というのは公平であるのがDNAみたいなものですから、絶対に私情を挟むことは許されない。ヘタすれば収賄罪に問われかねないわけですから。いくら担当の人が可哀想に思ってくれたとしても、「可哀想だから」で物事決めること自体が「不正「汚職」と呼ばれてしまう世界です。だから無理をいって役所の人を困らせてはいけない。誰もが不愉快だし、誰もが損をする。

 だとしたらどうすればいいか?「いかに相手の顔をたてるか」です。どこに出しても文句を言われない、あとで本庁の監査が入ろうが「この措置は正当であった」と判断されるだけの「お土産」がいるのです。そのお土産はケースバイケースですけど(柿じゃダメだよ)。

 以上の次第で、多くの場合は現場処理が望ましい。必ずしも解決したり、勝たなくてもいいから、とりあえずコトは起こす。文句を言った、揉めたという事実はだけはこの世に残しておくべきでしょう。これはクレジットカードを紛失したとか、ATMにカードが飲み込まれたという場合も同じで、即行動!です。できるだけ早い時点で行動し、それを記録に留めておいてもらえば、あとあとの展開も有利になります。

捲土重来〜あとでリベンジできるのか

 次に、すぐにはアクションを起こせなかった場合、起こしたけどダメだった場合、あとで改めてリベンジ的な解決をすることが出来るか?です。

 これに対する一般論的回答は、残念ながら「ダメ」。
 現場で勝てないなら、余程のことがない限り日を改めてやってもまたダメでしょう。あとでやって勝てるくらいなら、その場で勝ってます。それに、上に見たように後になればなるほど条件は悪くなりますから。

 そこを上手くやるためには、一回目とは根本的に違うくらい条件を整えて増強させてやる必要があります。

 それは、例えば、
 @、緻密に証拠資料を収集して有無を言わさぬだけの堅牢な物的証拠を構築すること
 A、単純に自分の戦闘能力を増強させること。修業して強くなること
 B、強力な助っ人を味方につけること。

 などです。

自己戦力の増強〜巨大な果実

 @とAは、自分自身や手持ちの戦力を増強することです。これは頑張ってやってください。
 それが成功するか成功しないかを問わず、やるだけの価値はあります。

 証拠収集は、物事を360度あらゆる観点から見るとてもよいトレーニングになりますし、世の中の仕組みもよく分かりますし、本当に栄養分満点の行為です。オススメです。「○○を調べてみたら分かるはず」とか言っても、いざ調べだしたらすごく難しかったり、意外と簡単だったり、「そうなのか!」という学びの連続でしょう。たとえば、あなたは他人の車のナンバーから所有者を割り出すことが一般人に出来ると思いますか?それはどこにいって、どうやればいいのでしょうか?幾ら費用がかかって、どのくらいの時間で出来るものか?知ってますか。自分でやったら一発で覚える。また動くことによって一つ一つ積み上げていくことの大事さも覚える。

 以前、携帯電話を落として、他人に不正に使われた500ドル分も請求が来てしまったという人がいて、相談を受けました。もうキチンと主張しろと。何月何日何時何分どこそこ先路上で紛失とか、できるだけ詳しく書き、警察に届けた時のポリスレポートのコピー、さらに連絡した時の時間や通話記録、そして「無くした」「新しい携帯ゲットした」とかいう社会的事実を立証するため友達に証人になってもらえ、ステイトメントという一筆を書いてもらえ、JPのサインのあるスタチュートリィ・デック(Statutory Declaration)までは要らないとは思うが、枯れ木も山の賑わいで、少なくとも数通、出来れば50通くらい書いてもらって束にしてドサッと渡せ、「これでもか!」というぐらい徹底的に主張立証してみなさいな、いい勉強だよってお答えし、その通りやったら支払わないでよくなったそうです。これも、「洒落や冗談でここまで出来るはずがない」「これだけやったんなら、特別扱いするだけの言い訳も出来る」という合理的理由のレベルまでいったということです。

 シティで2000ドル騙し取られた(かも)という人(結構いる)も、相手の氏名が分からなければ警察にもいきにくいし、行っても埒があかないから、せめて顔写真でも取れということで、会ってる最中、マクドナルドでもスタバでも、周囲に友達を配置して携帯で顔写真取ってしまえ。自分の携帯も録音モードにして会話を録音してしまえ、とか。これは相手が一枚上で、危険を察知して出て来なかったようですが。

 30年以上前の話ですが、僕らが弁護団を組んでやったインチキ予備校の消費者訴訟では、当時18歳くらいだったら少年少女達が泣き寝入りしたくないってことで、消費者委員会まで出かけ、さらにはマスコミ(大手新聞社)にもコンタクトを取って頑張ってました。その新聞社の顧問をやっていた僕のボスのボスの事務所からお鉢が回ってきて、僕が事務所に入った時は自動的に弁護団に組み入れられてやったのですが、いい勉強になりました。若い連中と一緒に会議やったり、ときとして飲みに行ったり。今思えばあの楽しい経験が今のAPLACの基礎になってるのかもしれない。それはともかく、18歳かそこらの人達が、これだけ自分たちで物事を考え、自分たちで解決しようと頑張るというのは単純にエライですし、貴重なことです。その後、そのなかのお一人が、後日Aplacの頁を発見、コンタクトを取ってくれて、今でもお付き合いさせてもらっています。

 これらの意味で、ちゃんと調べる、ちゃんと戦うってのは大事なことです。しっかりその過程をこなしていけば、段々本体なんかどうでも良くなっちゃうくらい、多くの学びがあるし、それ以上に多くのいい出会いがあります。「よい出会い」って運命的でもあると同時に必然的でもあると思います。メカニズム的にも簡単で、一生懸命何かに取り組んでいる人は魅力的だから良い人を引き寄せるし、良い出会いも多くなるだけのことです。ですので、いい出会いが欲しかったら、なんでもいいんですけど、とにかく「一生懸命やれ」です。やってりゃフェロモン出るから。DNA的に多分そういうことになってるんでしょう。

 また、自分の戦闘能力を上げるために、山ごもりして修行するとか、悔しくてたまらないから猛勉強するとかは、まさに王道中の王道であり、「人生の原動力は”こんちくしょう”だ」というのと軌を一にします。これらは過去にさんざん書いているので割愛します。

 いずれにせよ、捲土重来を期してあれこれやっていると、その過程でとてつもなく大きな果実をゲットできるし、ゲット出来た頃には、初期のリベンジなんか大した問題ではなくなっていきます。むしろ、大きな成長をするキッカケとして、些細なトラブルや屈辱があるに過ぎないという位置づけになっている。

 学校でイジメられているから悔しくてボクシングを始めたら、これにハマってしまい、思わぬ天分にも気づき、ムキになってやってたらいつの間にかプロになってましたってケースですね。プロになる頃には、もうイジメる奴もいなくなるだろうし、その頃にはリベンジなんか眼中になくなっている。こういう「Aを目指してたら、その百倍の価値のあるBが取れてしまいました」ってケースは多いです。以前のエッセイ「望外の果実」で書きましたが。

第三者による救済(1)〜救済適格

 自分が必死に努力してリベンジするのではなく、他人や第三者機関にやってもらう方法もあります。いわば「先生に言いつけて」「お母さんに叱ってもらう」みたいな一見楽チンでナイスな方法なんですけど、世の中そんなに甘くはない。

 「甘くない」というのは二つ意味があって、一つはそれ相応の「救済適格」ともいうべき条件が高いこと、第二は「その代償も高い」ということです。

 まず、救済適格ともいうべき点について。
 例えば警察に届け出る、関係機関に申し出る、あるいは裁判所に訴訟を起こすなどですが、もちろんその種の公的・法的救済の道はたくさんありますし、どんどん利用するように広報されていますし、その利用は一般論としては正しい。

 しかし、その種の救済機関は、だいたいどこも忙しい。似たような事案がひしめいていて、担当官は山ほど案件を抱えて駆けずり回っています。現場の刑事や警察職員の数に対して生じている事件や相談の数が途方もなく多い。正確な数は忘れましたが、一人で平均30件とかなんとか。数でいえば、ペーペー弁護士だった僕ですら常時30件とか多い時で50件くらい、地方のバリバリやってる弁護士だったら200件とか抱えているといいます。裁判官だって一人平均200件。1日24時間しかないんだから人間の限界超えてます。だからどうしても優先順位をつけて、定形処理をしていかないとこなせない。

 警察というのは何かあるとすぐに叩かれてますが、僕なんぞは敵対するような立場にいたんですけど、それでも第一線の担当官が一生懸命やってるのはわかるし、気の毒に思うこともあります。あれも役所だから組織の掟が厳しいし、やれ検挙率だのノルマだのに追われている。しかも選挙違反だの、VIP警備だの、著名事件だのに狩りだされては自分の事件をやる時間もない。「太陽に吠えろ」の刑事物みたいに埠頭の倉庫でバンバン拳銃撃ったりするようなことは一生に一度あるかないかでしょうし、事件処理の90%以上は地味な書類作成です。僕が現実に刑事さんのナマの捜査記録を見て感動したのは、捜査能力の高さよりも、むしろ書類作成能力の高さです。ちなみにネットで調べていて偶然見つけましたけど、別冊宝島:「被害届」はもみ消されている!?警察の検挙率ノルマの裏側という記事がありました。

 ストーカー被害で、警察に何度も言いに行ったけど全然動いてくれず、結局見殺しみたいにして殺されてしまいましたって「不祥事」があとを絶ちませんが、こんなん無理なんじゃないかなあ。一件あたりそんなに時間は割けないでしょう。そうこうしている間にも、どっかの飲み屋で割れたビール瓶振り回して喧嘩沙汰があり、子供や主婦は万引きし、自転車は盗まれ、どっかのバカ親が子供を炎天下の車に置き去りにしてパチンコやったり、朝から晩まで24時間こんなのばっかり。TV番組の「密着!24時間○○警察署」の世界です。

 税務署の脱税査察だって、労働基準監督署の調査だって、その人員の数と現場の数をみたら笑っちゃうような数字でしょう。うろ覚えの数字だけど、全国で労働基準監督官はたったの3000人。日本にある株式会社の数は100万社。全ての会社で労働法違反が行われているとは言わないけど(まあ、でも実際そうだけど)、3000人かそこらで何とかなるような話ではない(単純計算で一人あたり333社担当)。それに一件だけでもどれだけ大変か。現場にいって事情聴取しても「はい、すみません」と認めてくれる筈もないし、ひた隠しにするわ、強弁するわ、口裏合わせるわでしょう。

 この種の相談は時々受けるのですが、「うーん、それは、どうかな」という場合も多い。ウチの卒業生は根性座ってるのが多いので処理能力も常識も高いですが、「友達に困ってる人がいて」系の相談は、「はあ?」ってのがあります。ずっと前の話ですけど、こっちで恋人が出来て一緒にラウンドや旅行しようとか話になって、バイトしてその資金を貯めて彼女に預けていたんだけど、結局別れちゃった。でも彼女はその資金をもって日本に帰ってしまって、返してくれない。もう悔しくて、許せなくて、着服、横領ということで、警察に言えないか、裁判はかけられないか?という話を受けたことがあります。

 こんなの警察に届けて真面目にとり合ってもらえるでしょうか?
 この種の機関は、あたかも野戦病院みたいなもの。手足がもげたり、血だらけになった人々が次々に担ぎ込まれ、スタッフも殺気立って怒号が飛び交っているようなものです。そんななか、自分的には「こんなヒドイめにあいました」「こんなことが許されるのでしょうか」てな気分で申し出てみても、まあ、話は聞いてくれるだろけど、全ての事件をすっぱかして優先的にやってくれるかどうか?です。

 これはもう価値観の問題なんだけど、確かに可哀想ではあるのだけど、第三者が助けるべきようなことなのか?まあ、そうだとしても公的機関がやるべきことなのか?「公的」というと「無料」ってイメージがあるけど、要するに税金使ってやるわけだから、こういった相談に対処するために、納税者であるあなたはお金を出してもいいと思いますか?って問題なんです。

 これが公的救済における自ずと定まった線引になると思います。税金使って(あなたがお金を払って)救済するに値するかどうか?どこの国、どこの自治体も「金が余って余って」なんてところは世界に一つもないです。どこも大変。日本なんか言うまでもない。ここで優先順位が出てくるわけで、せっかくお金があるなら、世の中にはもっと可哀想でもっと救済が為されるべき人は山ほどいるんじゃないか?そんな恋人同士の痴話喧嘩みたいなことに税金突っ込んで助けるべきなのか?

 そのあたりが「見えている」かどうかです。
 小中学生だったらまだしも、いい年した大人が、学校や職場でいじめられています、シェア内で盗った盗られたで揉めてます、○○ちゃんが乱暴者で困ってますとかいっても、さてどれだけ救済すべきか?です。警察での救済を拡充するには、それだけの予算をつけて人員を増大する必要があるわけで、要するにお金の問題になり、消費税をはじめとして税率が上がるってことでもあります。

 民間救済である弁護士などでも、こっちはこっちでメシ食ってるわけですから、どこまでもボランティアでは出来ない。裁判所に訴えるにしたって、印紙もはらねばならないし、予納郵券もいる。無料ではない。弁護士費用だって、裁判沙汰にするなら最低20−30万はかかると思ったらいい。実際やってる立場でいえば、係争額(争っているお金の額)が1000万円以下ならまともなシゴトにならないです。プロとして利潤が出そうだなというのは訴額1億以上。数千万でまあまあで、数百万だと殆ど利益無しってか持ち出し、100万以下だったら完全ボランティアでしょう。20年以上前の話だから、片方で数億円の案件を何本も抱えて利益を出して、その余力で精力的にボランティア案件をやれました。可哀想だからという人情一発でやれた。数からいえば3分の1以上がそうです。100万以下の案件でもやったし、そのくらいになると弁護士費用なんか取っても微々たるものだし、数万円くらいだったら経費にもならないから「もうええわ」ってことも結構あった。でも、今は皆さん食えないみたいなので、そんな余裕ぶっかましてられないんじゃないかな?

 ちなみに「儲かって羽振りの良い弁護士」「勝訴率100%の弁護士」が良いというのは、まさしく「素人のあさはかさ」です。全然儲かってなくて貧乏所帯な弁護士、敗訴率の高い弁護士のほうが、(あなたの事件が1000万円以下ならば)力になってくれる可能性が高い。絶対そうだとは言わないけど、その確率は高いんじゃないか。なぜなら、儲かってる弁護士になるかどうかは、辣腕有能であるかどうかということ以上に、えてして貧乏人には目もくれない、どんなに可哀想でも1億以下の案件はやらない、ボランティア案件はやらないを徹底するかどうかってことでもあるのです。勝訴率を上げようとするなら負けそうな事件は見捨て、「強い者の味方だけをする」ということでもあるのですよ。そしてごく普通の中流層以下の場合、勝つ見込みが高くて、弁護士を儲けさせるような案件を持ってくることは難しい。

 この際だから、カドが立ちまくることは知りつつ敢えて言うなら、世間の評判とかTVに出てるとかいうことで弁護士選びなんかしている段階で、この世界では既にマズイのですよ。「普通に生きてたら自然と弁護士の知り合いがゴロゴロいる」という世界にいかなきゃ。高校時代の知り合いだけで医者と弁護士が1ダースいるとか、親の代から自分の家に顧問弁護士がいるとか、仕事やゴルフ仲間で普通に知り合うとか。そういう人達が億単位の案件を持ってくる。会社の金ではなく、自分自身のお金として、自分の裁量で億以上のお金を自由に動かせる人ということであり、そしてそんな人は意外と世間にゴロゴロいるのですね。

 以上、社会における救済適格というのは、なんとなく思っているよりも遥かに高いということです。

その代償

 次に第三者にやってもらおうとした場合には、キッチリその代償があります。
 費用がかかるとか、取合えってもらえないのでもっと悲しい思いをするというのは上に述べましたが、それ以外にもある。

 一つは相手にも攻撃機会はあるということです。
 こっちが証拠固めをして、理論武装をすることが出来るなら、相手にもそれが出来るのです。こっちが第三者機関に訴えることが出来るならば、相手もまた訴えることが出来ます。例えば誣告(ぶこく)罪(刑法172条)というのがあり、虚偽の犯罪事実を申告して誰かを罪に陥れる「濡れ衣を着せる罪」です。そして、それが濡れ衣かどうかは、相手の違法行為を立証できるかどうかにかかっているわけで、証拠が足りず、あるいは相手の証拠の方がわずかに優越してたら、結局は負けるわけで、それは単にダメだったというだけではなく、自分自身が犯罪者と訴追されるというカウンターアタックを食らうことをも意味します。同じように、お店でこんな対応をされた、詐欺商法だとか訴えるならば、営業妨害(信用毀損罪、偽計業務妨害罪/刑法233条)というカウンターアタックもあるわけです。

 民事訴訟でも、これだけの損害を被ったといって提訴したら、相手から「因縁をつけられて迷惑している」という損害賠償請求が「反訴」として提起されたりします。

 そこで出てくる次の手法は、知り合いの怖いお兄さんに出てきてもらうという手です。要するに「先生お願いします」の「用心棒」パターンです。でも、これも同じ事なんです。相手にだって同じ事が出来るんだから。こっちが怖い元暴走族あがりのお兄さんに頼んだら、相手はもっと怖い本職の人に頼んでたりする場合もあるわけです。用心棒同士で、「なんだ、お前か」「あ、○○さんどうも」という上下関係があったりして、それでこちらが負けた場合、あとが怖いです。「てめー、俺に恥かかせやがったな」ということで、きっちりオトシマエをとられる。

 それに第三者に頼むときに、きちんと事件の内容を伝えているか?という問題もあります。自分に都合のいいことばかり並べて、「こんなひどい目に」と言ってやってもらっても、用心棒的立場にある人は、相手と直接接触して相手の言い分も聞くわけです。そうなると「おい、全然話が違うじゃないか」ってこともよくある。交通事故の示談で、相手方から頼まれた見るからに怖いお兄さん(おじさん)と話をしたことがありますが、どうもかなり基本的な事実確認を怠っていたようで、話しているうちに、向こうが「え?そうなんか?」と驚き、「うーむ」と考え、これは勝つ見込みが無いわと察して、「え、えらい、すまんこって」と急に態度が変わり、そそくさと出て行きました。が、出て行く際はかなりご立腹なご様子で、「あのガキャ〜、ええ加減なことぬかしやがって、どないしたろか」とか呟いておられましたね。その後どうなったのか知りませんが。

 また、角度が違いますが、ブログやツイッターで「こんなヒドイ目に」とか書いたら、逆風を浴びることもあるわけです。「なに甘ったれてるんだ?」「自己中もいい加減にしろ」という罵倒を浴びるという。モンスターペアレンツだって、本人の主観世界では「こんな可哀想な私」「正義は我にあり」と思っているのだろうけど、世間は必ずしもあなたと同じ価値観ではない。


 ということで、他人にやってもらうためには、それ相応のハードルとリスクがあるわけです。決して楽ちんでも、イージーでもない。

まとめ


 以上のことを整理すれば、まず第一に、現場で対応できないものを、あとで取り返そうとするのはかなり難しいという点です。時間を置いて戦力を増強させようとしても、相手にもそれは可能なんだから差が縮まらない。そして、時間が経つほどに証拠や状況的には不利になるのだから、むしろ勝率は下がる。そんなことだったら、その現場で一気にカタをつけてしまえということです。

 この点を一言で要約すれば、

 ★その場で解決できる自分であれ

 ということですね。

 第二にその場で解決できなかったら、リベンジということになるのですが、これは十分に腹を括ってやれということです。かなり難しいのですが、別に泣き寝入りをしろとか、諦めろとか言ってるのではないですよ。「ちゃんと戦え」ってことを言いたいわけです。喧嘩するなら、ちゃんと根性決めてやらんかいと。そうすれば喧嘩なんかどうでも良くなるくらい他のことが充実したりする。逆にそこで楽しようとして安直に第三者を便利使いしようとすると、しっぺ返しが来るよと。

 付け加えておきますが、第三者の救済機関は、それはそれで懸命にやっているのですが、全社会を対象にするゆえに深刻なものから優先順位が高くなる。そうなると、どうしても軽い事件は劣後するようになり、事実上の救済がなされないケースも出てくる。つまりギャップがあるのです。本人にとっては驚天動地の大事件に感じられても、世間的にみたら「よくある話」「ちょっとしたゴタゴタ」という軽い扱いをされてしまうというギャップ。また一定範囲の軽微な(大体100万円以下程度のトラブル)は、他人の助力がアテにできない治外法権みたいな領域になっているというギャップです。だから、自分が、その場で解決するしかないし、そこで解決できなかったらもう後はないくらいに思っていた方が良いということです。

 そしてそれは残酷でも理不尽でもヒドイ話でもなく、合理的に世の中の資源を配分していったら、そのくらいになってしまうのですよ。それ以上に手厚い保護を完備しようと思うなら、消費税70%くらいにしてがっぽり税金取るくらいの財政基盤がいる。だから「どこで線引をするか」です。口では言わないけど、「ここから先は個々人の甲斐性でなんとかしてね」て自助努力や自力救済に振られてしまっているのですな。社会に出てオトナになるということは、そのあたりの厳しい現実を身にしみて理解することでしょう。

 そして、その現実を前提に、さてどうするか?です。
 長くなったので今回はここまで。

 次回はさらに問題を深めて、「その場で解決出来る自分になる」ということの意味であるとか、そもそもそれは本当に「解決」すべきことなのかという点、単に「悔しい」「ムカつく」という浅薄な動機だけで動いていて良いのかという問題、さらに本当にトラブルの名に値するのは生きるか死ぬかレベルのことであり、本当に戦うとは文字通り命がけの戦いであり、そんな機会なぞ一生に何度もあるものではない点。だからそれ以外のトラブルは、ある意味ではどーでもよいことであり、それは放置しても良いんじゃないか。それを「泣き寝入り」というなら、むしろ「笑い寝入り」とも言うべきことであり、リベンジではなくもっと良いものを取りに行くべきじゃないか、などなどを書きます。


文責:田村



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