今週の1枚(02.07.08)
ESSAY/ ファーストネームの境界線
実際に体験された方でないと奇異に映るかもかもしれませんが、こちらでは日本人同士でファーストネームで呼び合うのがわりと当たり前になったりします。日本人同士で、「タカシ」とか「ケイコ」とか呼んでるわけです。
もちろん全てがそうなるわけではありません。実際、僕はラストネームで呼ぶのが普通ですし、僕自身もラストネームで呼ばれることが多いです。おそらくは、日本企業の駐在員としてこちらに来られた方で、職場環境が日本人メインであれば、ラストネーム中心にことが運ぶと思います。反面、こちらの学校に通われたり、日本人が少数派になってるようなところでは、ファーストネーム中心になるでしょう。
これは意図的に計算してそうやってるわけではなく、自然とそうなります。ある人間関係において、他人をファーストネームで呼ぶ習慣の人の比率が多くなり、あるいはその場のリーダー的な人(英語学校の先生とか)がファーストネームで呼ぶようになると、そこで日本流にラストネームで呼んでも誰のことだかわからないのですね。だから相手に通じさせるためにファーストネームで呼ぶようになる。
もっと言えば、英語学校などの場合、最初からファーストネームで紹介されたりしますから、ラストネームを知る機会がないまま過ぎていってしまう、別段それで不自由ないというケースが多いです。だから長いことつきあっていて、かなり親しくなったとしても、未だにラストネームは知らない、聴く機会もあったのだけど普段使わないから忘れてしまったという感じになります。ひいては、日本に帰ったあと久しぶりに連絡とろうとして、ハタと気づくのですね。「あ、苗字知らない、、、」と。
一般に日本人同士の場合、呼称はラストネーム中心であり、ファーストネームで呼び合う場合は、ある種「特殊」な関係だったりします。あなただって、職場の上司からラストネームで呼ばれたら奇異な感じを受けるでしょう?「ちょっと、タカコさん、これやっといて」とか言われたら。ましてや「さん」抜きで、「ねえ、ヨーコ」とか言われたら、「あんたは私のダンナか?」という感じになるでしょう。銀行の窓口で、「ヨシヒロさん、どーぞ」とか呼ばれたら、なんか親戚の家や、カミさんの実家に遊びに行ってるみたいですよね。「ヨシヒロさん、ゴハンができましたから、どーぞ」って言われてるみたい。
それはすなわち、親しすぎちゃって変、という”ニアミズ’みたいな違和感があるからでしょう。そう、日本でファーストネームで呼び合うのは、ある種の家族共同体的な親しさがベースになってる場合が多いです。最も典型的なのは、親兄弟・親族のような場合。この場合は、そもそも皆さん同じラストネームだからファーストネームでないと区別のしようがないというテクニカルな側面もありますが、やっぱり「親しい」というファクターが大きいと思います。
本当の家族じゃないけど、擬似家族的な結びつきをベースにしている集団でもファーストネームは多様されます。不思議なことに反社会的な団体に多かったりしますよね。暴力団なんかそうですね。下っ端の舎弟クラスだったら、「おい、アキオがパクられたぞ」みたいにファーストネームで呼びます。もっとも上層部になると苗字になりますけど。そもそも暴力団の場合、親分・兄貴・叔父貴・舎弟・兄弟という、擬似家族そのまんまの呼称が普通だったりします。暴走族なんかでも、ファーストネームが多いようです。ただエラクなると苗字で呼ばれるという。
こういった日本人独特の「名前の使い分け」は、いったいどういう原理でできているのでしょうか?ちょっと興味深い部分があります。よく、「外人さんがファーストネームで呼ぶのは個人主義の表れで、日本人がラストネームなのは家制度の名残である」とかいう話を聞きます。そういう部分も確かにあるでしょうが、それだけではないと思います。だって暴走族や暴力団が個人主義的に進んでいるか?って言われたらギモンですしね。
大きな原理でいうと、一般に対人関係の距離が遠い方がラストネームで、近くなるに連れてファーストネームになる傾向があります。これは実は英語でも同じですし、おそらくどの言語でも似たような傾向はあるんじゃないかと思います。
英語でも、親しくないうちは「ミスタースミス」と呼び、相手から「ジョンでいいよ」と言われて、ジョンになるという。そういえば思い出しましたが(以前どこかで書いたと思いますが)、アメリカで刊行された就職読本に、「上司がファーストネームで呼んでくれと言われても、ミスターは省かない方がいい。多くの場合、こういったことをいう上司は、”気さくな人格者”である自分を演出したいからそう言ってるだけで、本当にファーストネームで呼ばれると内心ムッとしているものだ」なんて書いてあって笑ったのですが、似たような感覚ですよね。あるいは、ずっと前に、こちらのトークバックラジオを聞いていたら、「ファーストネームで呼ばれてむっとする場合はどういう場合か?」とかいう話題でリスナーとやりとりしてました。覚えてるのは、セールス電話なんかでいきなりファーストネームで呼ばれるのはちょっとイヤだといういう回答くらいですが、「やっぱ、そーゆーことってあるのね」と思いました。だから、事情は洋の東西を問わず似たようなものなのでしょう。
このように、ラストネームは距離の遠さは表し、距離の遠さは敬意を暗喩する。逆に、ファーストネームは、距離の近さと親しさを表す。そして、「敬意」と「親しさ」は両立する場合もあるけど、相反する場合もある。敬意を十分に確立する前に親しさを強調することは、敬意の存在を疑わせて失礼だということでしょう。
「距離の遠さが敬意を表す」というのは、英語における丁寧表現・敬語などにも見られます。これは別の個所で、英語敬語の段階的展開を詳しく述べてますのでご参照ください。相手の自主性を尊重すればするほど、表現はモヤヤンとしてきて、軍隊における部下など自主性をまるで無視してる場合は、クリアになります。単純に "Do it !"ですよね。「やれ」です。これが、相手の自主性(人格)を尊重し、その尊重の度合が強くなればなるほど、相手が自分の言うとおりにやってくれるかどうか分からなくなるわけです。その「相手次第という分からない感じ」を表現すればするほど敬意の現われになると。Can you, Could you, さらに、Would you mind? とかなんとか。
ちなみに、Canだけではなく、CouldとかWouldとか、なんで助動詞が過去形になるのよ?という疑問を持たれた方はいませんか?僕も疑問でした。というか、最初のころは、would、couldの助動詞の使い方そのものが謎だったのですが、これは「Can の過去形が could」とか考えてる限り絶対分からんと思います。これは過去というよりも「仮定」の話をしてると考えたらいいんじゃないかと思います。「もしそういう事態になったら〜する」という、直接現実ではなく仮想現実というか、100%クリアな現実ではなく「仮定のおはなし」というボヤヤンとした感じを出したいときに使うのだろうと。
敬語でも、「やれ」と短切に言うのではなく、「もし僕が頼んだらキミはやってくれるかな?」という回りくどい言い方をするのであって、その回りくどさのボヤヤンとした感じが、相手の人格尊重とリンクして、敬語的に響くのだろうと思います。依頼だけではなく、普通の場合でも、I like to よりも I would like to の方が丁寧だとされるのは、「もし私に意見を言わせていただけるのなら」という仮定のお話として言ってるからだと思います。が、こんなものはイチイチ現場でそういう形で認識しているわけではないでしょう。もうネィティブにとってはただの口癖だと思います。ただ、構造分析というか、言葉の組み合わせによる化学変化のパターンを解析していくとそうなるんじゃないかな、と。
これは日本語でもまるで同じだと思います。「やれ」→@やってくれ→Aやってくれない?→Bやってくれるかな?→Cやってくれないかな?という具合に、@よりもAの方がかすかに丁寧ですよね。なんで「〜ない?〜ませんか?」と否定疑問文で尋ねる方が丁寧な感じがするかというと、直接疑問文よりも、相手がNOという場合をより多く考慮に入れてるから、すなわち相手の拒否の自由をそれだけ尊重してるから、だと思います。もちろん、日本語ネィティブである僕らは、いちいちそこまで考えてません。ほとんど口癖レベルだと思いますが、それでもそういう化学変化は無意識にわきまえているように思います。ちなみに、BCは、wouldに対応するような感じで(完全対応してないですけど、もちろん)、「もし頼んだら」というボヤヤン感が多少強めになってると思います。もっとこのボヤヤン感を日本語で明確に言うとしたら、「やっていただけませんでしょうか?」くらいになるのかな。
話を呼称に戻します。このように、距離感の遠さ=相手の人格尊重=敬意表現という具合につながってるのは、日本語も英語も原理的には同じだと思います。なんで?WHY?というと、結局、これは動物的な本能じゃないんでしょうか?要するに相手のテリトリーを尊重するかどうかの問題だと思います。
じゃあそういった一般原理は同じでも、日常レベルで英語圏の方がファーストネームを多用するのはどうしてなのか、逆に言えば日本の方がよりラストネームを多用するのは何故なのか?です。
これは多分、一概には言えないんでしょうね、理由はひとつだけではないような気がします。いろんな遠因、近因、習慣がごちゃ混ぜになっているのでしょう。
例えば英語圏というよりも西欧の場合は、日本には無い、ミドルネームというのがありますし、クリスチャンネームというものもある。だから日本のように単に「氏・名」ではないのですね。だから単純に比較できない部分もあると思います。これは夫婦別姓とかいう問題とも絡んでくるでしょう。
それと、西欧の場合は、いろんな民族、文化、国家が入り乱れています。歴史的にみれば、征服したり・されたり、民族移動したり、分割したり、統合したり、もう何がなんだか分からん感じです。異民族も近くにいるし、混血もいるしで、だから社会習慣も入り乱れるしで、「名前のシステム」もまた統一的に理解しにくいのだと思います。どこだったかな、東欧のどっかの国では、日本と同じように姓が先にくるところもあるという話を聞いたこともあります。
そうなってくると他人の名前を正確に覚えるというのが面倒くさいって事情もでてくると思います。極端な話、名前が6つも7つもあるような人だっていたりします。あるいは、同じスペルだけど、読みが違うというのも多いでしょう。マイケル=ミカエル=ミヒャエルとか、リチャード=リヒャルトとか。また、時々洋画かなんかで出てきますが、「○○というのは私のアイリッシュネームで」とか、本来の民族の名前と英語名前を別にしてたりします。ユダヤ系のヘブライ語も発音が難しいので英語名を作ってるとか。これはKISSというバンドのジーン・シモンズのインタビューで読んだことがあります。
結局、日本と違って、相手の正確な名前を知ったり、覚えたりするのが難しい、あるいは面倒臭くて実用性が無いという背景事情があるのでしょう。だったら誰にでも分かりやすく、覚え易い名前でいきましょうか、ということで簡略化される傾向があるのではないでしょうか。相手の人格を十分に尊重しようと思うのならば、名前は100%きちんと呼ばなければならないでしょうが、「そうもいってられない」というプラクティカルな事情があるのではないか、ということです。
で、プラクティカルに考えるならば、ラストネームよりもファーストネームの方が楽でしょう。だって、ラストネームってどれがラストネームなのかはっきりしなかったりしますもんね(父方の姓と母方の姓を並立して名乗ってる場合とか)。とりあえずファーストネームは、その人だけの名前だし、一番間違いが少ないということで。
このように「簡略化した記号に過ぎない」ということ割り切ってやってるうちに、呼称と敬意のリンクがある程度切れちゃってるんじゃないかな?と、推測したりします。
で、こういった事情は、まさに英語学校の多民族教室のなかで生じることでもあります。異民族の名前は覚えにくいです。英語名前だったらまだ馴染みはありますが、他のアジア系とかインド系とか、言われても分からないです。リン・シャウピンとか、ジョ・フィェン・シャウとか、覚えるのが難しいです。だから、もう、リンさんとジョさんでいいじゃないかと、ジョなんか言いにくいから、もうジョーにしちゃえとか。日本の名前も、母音がやたら多いから、他の連中にしたら覚えきれないでしょう。ファーストネームすらそれ全部を覚えるのは大変だから、ファーストネームのそのまたファーストな部分、つまり信一郎だったら「シン」になったりするわけでしょう。そんなわけで、そういう環境においては、「名前は記号」という感じで物事が進み出し、「距離と敬意」とか考える感じではなかったりもします。
このあたりの感覚は異民族環境にもまれている方が割り切りが早いのでしょうね。こちらに住んでるチャイニーズはイングリッシュネームをちゃんと持ってますもんね。日本人でイングリッシュネームを持ってるの人はマレです。おそらくは、中国人、特に華僑の人などは、プラクティカルに考えるのに慣れてそうですから、ちゃっちゃと「覚えてもらい易い名前の方がなにかと便利」と割り切るのでしょう。そういう環境に慣れてない日本人の方は、どうしても名前と人格が融合してたりするから、そこまでプラクティカルに割り切れないのでしょうし、「僕はピーターです」なんてこっ恥ずかしくて言えない(^^*)というテライがありますよね。
これに関連して思うのが、日本独特の事情として、ポジションとそのポジションについている人の人格が融合しやすい傾向にあるという点です。
何をいってるかというと、日本の場合、部長、社長、先生、町長、市長などのポジションにある人を、名前ではあまり呼びません。役職名、つまりポジション名で呼ぶほうが敬意の表現としてより強いとされています。英語圏でも、これら目上の人に対する敬語はありますが、呼称に関していえばラストネームにミスターやミズ、マダムをつけるという形で言うケースが多いです。学校の先生に対する呼び方でも、ティーチャーとかはあまり呼ばないでしょう。また、そういって呼ぶことに敬意がより篭められるかというとそういう感じでもない。
なお、英語世界でも、バリバリの機能集団・職能集団では、ポジション名で呼ぶでしょう。例えば、軍隊であるとか。それは、その人の人格よりも機能がより重視されるという特殊な性格によるものだと思われます。いわば、野球やってて、「センター! もっとバック!」とか呼んでるようなものでしょう。
このあたりは面白い対比ですね。
日本の場合、なんでポジション名で呼ぶ方がレスペクト度が高い場合が多いのでしょうね?「田中さん、例の件ですが、、」「部長と呼びなさい」みたいな風景があったりするのでしょう。
これも色々な理由があると思うのですが----------
仮説@としては、日本人の方がレスペクトする・されるに敏感であること。
これは、そうかもしれませんね。韓国人ほどではないにせよ、儒教文化をひきずってる日本人では敬意の表現は社会生活のイロハであります。これは、もう暴力団とか暴走族でも同じですね。「口のききかたに気をつけろ」というのは、アンダーグラウンドの社会の方がより強く言われたりしますから。これに対して西欧社会では、儒教の代りにキリスト教文化があり、「神の前では皆平等」という意識が強いのかもしれません。確かに西欧では、わけても平等意識の強いオーストラリアでは、相手が社長だろうが、総理大臣だろうが基本的には対等だという意識は強烈にあると思います。
仮説Aとしては、レストペクトの表現方法として、日本人の場合はポジションでそれを表す度合が高いこと。
西欧でもレスペクトは勿論あります。それがなければ人間社会はやっていけないです。ただ、その表現方法は、必ずしも呼称だけに留まらない。「相手の意思を尊重する」「相手の話をよく聴く」「相手の意向に沿えない場合、理由を説明する」という姿勢によっても表現されます。
こちらに居て思うのは、オーストラリアは平等意識は非常に強いのですが、その「平等」の質ですが、日本でいう「1億総中流」みたいな平等とは違って、もっと能動的で戦闘的な平等であるよな気がします。日本の場合は、あれは平等とか対等とかいうのではなく、単に事実上「みな同じ」といってるだけじゃなかろうか?「平等であるべきだ」という強い理念があって、そのためには戦うという感じはあまりないです。
こちらでの「平等」の日常的な表現としては、誰にでもレスペクトを払うということであり、そのレスペクトはどういったところで表現されるかというと、「発言の機会を与える」「話をよく聴く」「理由を説明する」という部分に出てくるように思います。これは、英語下手糞でこちらで暮らしていると、その恩恵をモロに受けますから、実感として分かる部分があります。日本でこれだけ言葉ができなかったら、こんなに時間を割いて聞いてはくれないだろうな、と。
このように西欧的な世界観は、神の前で皆平等で、その平等な皆は互いにレスペクトしあい、互いの発言の自由を尊重するという感じで物事が進んでいるようなところがあります。だから、ポジションとか呼称とかいう以前に、まず基本的なレスペクトがあり、そのレスペクトがあるから、それ以上屋上屋を架するようなレスペクト表現は少ないのかもしれません。
日本の場合、万人が万人に払うべきレスペクトということが、西欧ほど理念的に確立してないのかもしれません。もちろん、世間様とか他人様とか、ひと様とか、先方さんとか、一般的なレスペクトの観念は日本にもあります。礼儀作法も厳しいです。ただそれが洗練され過ぎているとでも言うのでしょうか、「人間であるがゆえに尊敬する」というドーンとした理念というよりは、ややもすると形式に堕している部分があります。「結婚式のお祝いは何万円が妥当か」とか。形式主義的発想は、容易にポジション崇拝主義に結びつきがちです。
つまりは、日本のいう「レスペクト」は、「平等」に根ざしているというよりは、「上下」に根ざしている部分が強いように思います。つまりは上下のケジメをはっきりつけることが、日本でいうレスペクトのメインの部分を占めてるのではないか。もちろん、同格同輩にもレスペクトはあるでしょう、見知らぬ他人に対するレスペクトもありますが、それは「擬似的に相手を目上として扱う」という手法を用いて行われているような感じがします。
社会中のあるゆるポジションが、マトリクスのように、曼荼羅のように絡み合い、且つ整然としきられている「見えない階級社会」のような日本の場合、ポジションこそが、もっとも良く敬意を表現する呼称なのかもしれません。
そして、そのポジションで呼ぶことは、よりその個人のパーソナルな領域に踏み込まず、「敬して遠ざける」響きがあるので、益々敬意表現として活用されるのようになっているのかもしれません。
そういえば、日本には「お客様」なんていう「ポジション」がありますよね。「お客様」なんて呼び方をしたりします。こちらでは、文章でそう書くときはありますが、面と向かって「カスタマー」なんて呼ぶことはないでしょう。「ミスタータムラ」って言います。だから、カスタマーは二人称にはなりえない単語だと思いますし、むしろ言う方が失礼な響きを与えるかもしれません。
なんというのか、「相手の名前を頑張って覚えること」が既にレスペクトの表現だったりしますし、相手を名前で呼びかけるのが敬意の表れである、と。これ、困るんですよね、日本人としては。そんなに一回会っただけの外人の名前なんか覚えられないです。でもこっちの人は頑張って覚えようとしますね。まるで一流料亭や一流旅館のようだ。日本だったら、名前忘れても「あ、これは、○○商事の、、、」とか言ってればいいんですけどね。ポジションで呼んでおけばそう失礼ではないという。
ところで、話は関連しつつも飛躍しますが、日本の性風俗は、コスプレだの、フェチだの、異様にその女性のポジションやら属性やらを強調するジャンルが多いですよね。これって最近の傾向ではなく、古くは日活ロマンポルノの頃から、やれ「未亡人」「後家」「女子大生」「スチュワーデス」などのポジションから入っていくコンセプトが多いです。これはもう伝統的にそうだという感じがしますな。で、それは、僕ら日本人の世界観そのものが、ポジション志向性が強く、僕らは無意識のうちにそういうフィルターをかけて世の中を見ているのでしょう。
あと、最後に一番核心の部分ですが、ファーストネームとラストネームだったら、ファーストネームの方がよりその人のパーソナルな部分に近いです。で、日本人の人の付き合い方というのは、「遠慮の文化」といいますか、相手のパーソナルな部分にはやたら近づかないで距離を置こうというメンタリティがあるのでしょう。「近づかないことが礼儀」なんだろうと思います。
一方西欧では、「近づくのが礼儀」みたいな傾向があると思います。そうはいっても、そんなにマンガみたいに白黒はっきり違うわけではないですが、傾向としてはそうでしょう。
ここから先は推測なんですけど、「個人主義」という表現で呼んでよいのかどうかわかりませんが、西欧人の場合、どこまでいっても一番内側に自分の殻がガチンとあるように思います。家族であろうが、恋人であろうが、それでもまだ他人が入って来れない自分の領域があると。それは日本人にもあるとは思いますが、西欧人の方がそれが強い。これは子供の頃から一人部屋で寝かされ、自立を叩き込まれてきた社会慣習からして、貝殻のように後天的に出てて来るのだと思います。
ですので、この殻がある限り、ファーストネームで呼ばれようが、なんであろうが、まだ距離はある。失礼にはならなくて、むしろフレンドリーさの方が勝るのでしょう。
しかし、日本人の場合、そういった殻が少ないです。これは日本人に限らず社会基盤として大家族制みたいなところから出てきた社会はそうだと思うのですが、気を許せる仲間(特に家族)には、あえて仕切りを設けないで、ナマのまま接する。これは家の構造なんかにも反映していて、日本の家屋はフスマ一枚、障子一枚で仕切られ、独立性が薄いです。いわゆる日本の「ウチ・ソト文化」なんでしょうが、「ウチ」になったらかなりパーソナルな部分を共有する傾向がある。ちなみに、こちらのシェアの観念は、日本的には「一つ屋根の下で」という話になってしまって理解しにくいのでしょう。「一つ屋根の下」という言葉の意味するところは、要するに「セキュリティがゼロに等しく、強姦などしようと思ったらいくらでもできる」ことだと思います。ハッキリ言っちゃえば。つまりそれだけ、日本人にとって「ウチ」側は無防備であり、だからこそ、それ以外の一般的な人たち(ソトの人達)との間には、西欧人よりも遠いところにバリアを設ける必要がある。つまりより長い距離が必要なんだろうな、と。で、その距離に入ってくる人には、フレンドリーさというよりも、馴れ馴れしい無礼さを感じてしまう。
これがすなわちファースネームという境界線なんだと思います。
すごい下世話な比喩ですが、日本の場合、ファーストネームで呼び合える間柄の人は、(異性であっても)一緒に素裸で風呂に入れるくらいの関係、いわば一つ屋根の下の関係なんだと思います。家族とか、夫婦とか、恋人とか。つまりはファミリー。暴力団なんかも、ファミリーですよね。人間関係濃そうですもんね。だから、そう家族的な間柄でもないのにファーストネームで呼ぶというのは、かなり生々しい響きを与えてしまうのだと思います。
西欧の場合は、ファーストネームで呼び合っても一緒にお風呂入りません(^^*)。これは家族でもそうですよね。どんなに豪邸でも、風呂はシングル用ですよね。家族風呂みたいな概念がない。映画かなんかでお父さんが子供を風呂に入れてるときでも、親は服を着てますもんよね。最近、SPAとか、ジャグジーが流行ってますけど、あれだって水着着てますもんね、家族同士で。
つまりは、パーソナルとソーシャルの線引きの仕方や仕組が違うのでしょう。
で、そういう前提になる社会背景がかわれば、日本人同士であっても、普通にラストネームで呼び合えたりします。このあたりのマジックはなかなか面白いです。僕らが「当然じゃ」と思ってるようなことでも、ちょっと設定をズラすとガラリと変わってしまうという。文化や慣習なんてのも、壮大な虚構のお約束に過ぎないというのがわかって面白いと思います。
ところで、日本にいる日本人同士でも、そしてまた全くの第三者であっても、苗字で言われるとわからないこともあります。例えば、「鈴木代議士」というよりも、「ムネオちゃん」といった方がすぐわかるという。別にファミリーでもなんでもないんですけど。「政治家の田中さん」というのもそうですよね。田中真紀子なんだか田中康夫知事なのか、はたまた田中角栄なのか。これはフルネーム言われなれてるから、苗字だけ分解して言われてしまうとわからないという。
芸能人とかミュージシャンとか作家の場合は特にそうでしょう。最初からフルネームで聞きなれている場合は今更分解できないし、最初からラストネームが通り名になってる場合は、ラストネームでいわれないとわからないという。
だから、まあ、慣れの問題っちゃ、慣れの問題なんでしょうね、最終的には。
写真・文/田村
写真:Vaucluse House
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