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今週の1枚(2010/08/16)




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Essay 476 : ここんとこ、世界は詰まらなくなってないか?

   「そこそこ」ってどこ?(2)


 写真は、EastwoodとEppingの間に突如出現する異様な風景。調べてみると、1900年代初頭に建てられたレンガ工場だそうです。世界大戦前、19世紀から20世紀に向う頃の世界の雰囲気がなんとなく分かります。「産業」って感じ。

 で、この風景ももう見納めで、2007年以降、この敷地に大規模な宅地開発が行われており、既に小ぎれいな建て売り住宅が建築されています→
 でも、なんかチマチマしてて、あんまり魅力を感じないんですけど。100年前に比べて世界は面白くなっているのか?というと微妙な気がして。



 前回から続きます。
 「そこそこでいい」というフレーズをこねくり回していますが、今回は妥協的で何かをあきらめてしまったような「そこそこ」ではなく、もっと積極的にベストを狙う「そこそこ」、つまり「イケイケになって、そこそこを目指そう」という矛盾しまくりの話をします。

 なんでそんな妙なことを考えているかというと、一言でいってしまえば「最近イマイチ面白くないから」なのですが、それが個人的な話でも日本だけの話でもなく、世界史的にそうなんじゃないかと思うのですよ。もう数千年スパンの話。人類史の流れからすると、いわゆる「近代」に入ってから凄さまじい上昇カーブを描いてイケイケで盛り上がってきたわけですが、それが1970年代以降頭打ちになり、全般的にまったり詰まらなくなってきているのではないか?ということです。ということで、打って変わって今回はドワ〜っとスケールの大きな話をします。

人類史の流れ  エネルギーと技術とイケイケ成長主義

 生産量が増え、科学技術が進歩すればするほど人間は幸せになれるという確信があります。「頑張れば豊かになれる。豊かになれば幸せになれる」という確信です。人類史の大部分は、この原則が適用されるのですが、しかし一直線に頑張り続けて来たわけでない。そこには革命的な転換点があり、紆余曲折もありました。詳しくは過去に書いたエッセイ( #245/ 『時代が変わった』 物財幸福主義は1970年代に既に終わっていた#246/物財主義から主観主義へ#247/「好き嫌い」で物事が動く時代世界史シリーズ(6)中世封建社会のリアリズムなど)をごらん下さい。

 といってもまず読まないでしょうから、簡単に要約しますと、人類というのは「頑張って豊かになれる時代には頑張ったけど、豊かになれない時期には頑張ってなかった」ということです。つまり頑張るためにはその為の前提条件がいる。それは例えば約1万年前とされている農業の発見です。しかし、当時の人類の技術と知識ではあまりにも気象天候に左右されすぎた。飢饉や洪水で大打撃を受ける。当時の人間の対応としては神様にお祈りするくらいであり、だからシャーマン的な原始宗教になる。ところが紀元前4000年に「農業革命」が起きます。今から思うと当たり前だけど、治山治水です。灌漑用水とか堤防など「インフラを整備する」という発想と実行力が出てくる。これで飛躍的に生産量が増え、「頑張るとイイコトがある」時代になり、世界各地に大集落が生じ、文明が起きる。余剰生産物で兵隊を養えるようになったので強大な国家が作られ、人類の大規模な戦争が始まる。

 次に革命的な転換点になったのは「鉄」です。それまでの青銅器に比べ、硬度に優れ大量生産のきく鉄器は、「火の発見、ゼロの発見」に次ぐ人類史上かなり巨大なことだったそうです。優秀な武器にもなるし、鍬の先に鉄をカマすだけで農耕効率は飛躍的に伸びる。当時としては夢の技術であり、超ハイテクだったのですが、それだけに製鉄は難しい。そもそも自然界に鉄はなく、砂鉄など酸化鉄としてあるから、当時の常識からはありえないくらいの高熱&長時間処理し、酸素を奪い、還元鉄を作らないとならない(製錬)。その次に不純物を除去する精錬という工程がくる。紀元前15世紀頃、鉄を最初に使いこなしたヒッタイト人という謎のハイテク集団が登場し、古バビロニア(メソポタミア)を滅ぼし、エジプトすらも制覇します。しかし、彼らは製鉄の技法を秘密にして絶対に外部に漏らさなかったそうです。まさに鉄を制する者は世界を制する。しかし強勢を誇ったヒッタイトもやがて滅亡。製鉄技法も徐々に世界に知れ渡るようになります。この技術革新でさらに人類は前に進みます。ちなみに日本に製鉄技法がやってきたのは6世紀くらいというから、なんと2000年近く遅れています。世界史的にみればいかに日本が辺境の後進国だったか、です。

 しかしこの鉄に頼った文明が、やがて停滞の中世を招くことになります。人類は、古代ギリシアやエジプト時代の方が科学的な技術や精神において賢く、次の1000年ほど続く中世においてはむしろ知的に退化します。アホになっちゃうのですね。古代に精密極まる測量や天体観測をし(でなければピラミッドなんか造れない)、ピタゴラスの定理やらプラトン、ソクラテスという知的巨人を生みつつ、中世になると魔女狩りとかやってるわけです。なぜか?なぜ頑張らなくなったのか?頑張”れ”なくなったからです。それは環境破壊=森林破壊=エネルギー危機だと言われます。製鉄には莫大な高熱エネルギーが必要で、当時は木材を燃やしてエネルギーを得ていたわけですが、これが無茶苦茶な森林破壊をうみ、ついにギリシアもレバノンもチェニジアの大森林もハゲ山になり砂漠になってしまいます。

 この環境破壊→エネルギー危機が、人類の精神面に影響を与え、進歩的なイケイケ主義から、精神主義的、ひきこもり的、そしてスピリチャルでオカルティックな中世になっていったと言われます。ねえ、これって現在とすっごく似てませんか?それが本稿のベースですが、それはさておき、まったり中世に浸ってた人類は、再び息を吹き返して近代を迎え、狂騒的な頑張りを示して現代に至ります。その転換点は何かといえば、色々な要素はありつつも「エネルギー問題が解決したから」だと思います。つまり石炭、そして石油という化石燃料の発見。さらには火薬、羅針盤、印刷という人類の三大発明という(より巨大には火、ゼロ、鉄だと思うが)技術革新がなされたからです。この革命がさらに次の革命(市民革命、産業革命)を呼びます。このようにエネルギーと技術革新は、近代から現代に至る人類の根源的な推進力になっています。

 ちなみに日本史の流れでいうと、前述のように日本はド田舎の後進国だったので青銅器と鉄器が一緒に伝わるというムチャクチャぶりでしたが、その代わり日本史は世界史のような停滞を経ずしてスクスク伸びていったと思います。

 山陰や中国山地(出雲砂鉄)を発祥とするいわれる(大陸からきた)製鉄技術&技術者集団によって日本史が変わっていきます。この「山と鉄の民」が日本列島を貫く鉄鉱脈によってネットワーク化していったのではないか?そして、鉄鉱石を求めて山に棲む異形&強力な者達=「天狗」のイメージの原型となっていった。だからこそ源義経は幼少の頃(牛若丸ですね)は「鞍馬の”山奥”で”天狗”に”剣”術を教わり」、そのネットワークを使って京都鞍馬から一気に東北は岩手県、奥州藤原氏にかくまわれるようになったのではないか?という日本史のロマンがあったりします。手引きしたのも”金”売吉次という伝説があるし。確かに奥州藤原氏は東北一帯に豊富な金鉱をもち、金をふんだんに使った文化(中尊寺金色堂など)が有名ですし、岩手県はいまでも南部鉄瓶など特産品がありますよね。

 日本史と鉄の関係は牛若丸だけか?というと、そんなことないです。日本はギリシャや韓国と違って温帯湿潤な森林大国で、製鉄にいくら森林を伐採しても、なおも強力な再生力があった。ゆえに森林破壊による歴史の停滞は日本史には無い。それだけではなく製鉄技術の庶民レベルへの普及は農具の発達を促し→新田開発に威力を発揮し→開発農村から地力を蓄えてきた板東武者を産み→武士階級が勃興していきます。同時に製鉄技術の普及は、強力な武器(日本刀)を豊富に供給することにもなります。かくして平安時代(藤原貴族、荘園経済)は、武士という新興勢力に滅ぼされ、以後明治維新まで(あるいは第二次大戦まで)、日本は武の国、サムライの国になっていきます。それを支えるメシと武器は、豊富で安価な製鉄によって裏付けられていたという。その意味で、米と日本刀はまさしく日本を象徴するのでしょうね。

 さて、話を近代以降の直近200年くらいに据えると、この間に人類の平均寿命は飛躍的に伸びています。古代において人類の平均寿命は20歳代だったといいます。まあ、新生児死亡率が高かったので一概に言えませんが、10世紀の頃まで平均して30歳前に死んでいた。その意味で女性が初潮をみたら即結婚というのも無理もない話で、ティーンエイジャーの間に産んでおかないと自分が死んでしまうという。1800年代になると西欧も日本も30-40歳くらいに伸びますが、まあその程度。寿命が飛躍的に伸び出すのは20世紀になってからです。1900年のイギリスは50歳、日本では44歳ですが、これが1960年代になると60歳になり、1990年代になると80歳前後になります。それまで寿命が10年延びるのに1000年くらいかかっていたのが、直近においてはわずか100年かそこらで30歳も伸びている。世界人口も同じで、1800年の世界人口はわずか10億人と言われています。それから100年かけて倍の20億人になり、それから60年かけて10億人増えたあとは、10年ごとに10億人増えるという無茶苦茶なペースになっています。200年で6倍、直近100年で3倍です。

 何を言いたいかというと、1万年スパンの人類史でいえば、18世紀以降の200年間、さらに直近半世紀というのは、急成長や激動なんて言葉では追いつかないくらいの上昇カーブを描いているということです。まさに発狂レベルのイケイケ度といってもいい。客観的にこれだけ成長すれば、主観においても成長が常態になります。このイケイケ感覚=人類は(急激に)成長して当たり前という感覚は、「頑張ればイイコトがある」という確信につながります。

 このような成長主義は、物質的な豊かさが生活や人生の質を決めていた時代においては正しく適合したでしょう。頑張る→豊かになる→幸せになるという図式です。せっせと努力を重ね、科学技術を発展させ、生産を増やし生活を向上させてきました。要は物質的に豊かになればいいだけのことで、生活水準そのものは現在から見れば悲惨ではありつつも、原理そのものはシンプルであり、主観的にはイケイケやってればいんだからむしろ悩みは少なかったでしょう。

1960、70年代の挫折と迷走

 ところが、いつ頃からか、先進諸国においてはこれ以上従来のイケイケパターンでやっててもあんまり幸せにならないんじゃないか?という感覚が芽生えてきました。論者によって諸説あるようですけど、僕は1960年代に転換点にさしかかり、それに失敗しはじめたのが1970年代以降であるように思います。よく若い人の間で「バブルを知ってるかどうか」が一つの分水嶺として語られる傾向があるようですが、80年代後半のバブルなど、日本の戦後史においてはそれほどエポックメイキングな時期ではないと思います。70年代以前・以後の方が大きく時代を分けると思います。70年代以前は、物的豊かさが人生の幸福に直結しており、その直結ぶりを誰もが疑わなかったという、精神的にはメチャクチャ幸福な時代でありました。「大きいことはいいこと」だったのですね。

 しかし、その無邪気さも70年代に入ると少しづつ不吉な影を帯びるようになります。オイルショックは、日本人に自分達の幸福が資源小国という極めてヘナチョコな基盤の上に乗っているのだということを教え、また資源は有限であるということを教えました。一方、イタイタイ病など全国で四大公害事件が起き、産業の進展が取り返しの付かない凶悪な副産物を産むことを教えました。「成長すればいいってもんなの?」という疑問が芽生えてきたのが70年代。

 この頭打ち現象は、アメリカにおいて先行的に生じます。
 アメリカの60年代は、人類の次の時代を模索する重要な10年だったのでしょうが、アメリカはここでコケたと僕は思う。
 60年代初頭のアメリカは、清新なケネディが選出され、経済も良好で明るかったといいます。成人に達したベビーブーマーが新しい価値観を模索してヒッピーや学生運動ムーブメントに至り、またこれまで無視されてきた黒人や女性の人権などの社会問題を積極的に取り上げるような運動も高まりました。国際関係においてもキューバ危機がありますが、ケネディはソ連のフルシチョフと協議し、めでたく危機は回避されました。

 ところが、そのケネディが暗殺されてしまうあたりから話は暗転していきます。世界史シリーズでも度々書いてますが、戦後の世界史は1962年のキューバ危機回避をバネに、ケネディ=フルチショフラインで新しい世界秩序を模索するべきだったのでしょう。キューバ危機は冷戦構造の一つの終着点だったと思います。軍事力を拡大した米ソが核という最終兵器を持ってしまった時点(=トコトンやったら人類の死滅を招くからこれ以上先に進めない)で、冷戦という対立覇権ゲームは終るべきでした。これ以上やってもラチが開かないんだし。しかしケネディが暗殺され、フルシチョフが失脚することで、人類史的にあんまり意味のない冷戦ゲームを1989年にベルリンの壁が崩壊するまで、惰性で延々やり続けることになります。失われた30年といってもいい。

 方向性を失った歴史は混迷を続けます。アメリカはベトナム戦争や冷戦を改善するキッカケを見失います。戦費は膨大にかさみ、経済も悪くなります。盛り上がっていた学生運動や人権運動も国論を二分し、粗暴な方向にレベルが低下し、暴動を呼びます。ベトナム戦争の泥沼化は、それまで世界に正義と幸福を広める宣教師的な自負心を持っていたアメリカ国民に「本当に俺らってエラいの?」という深刻な疑念を植え付けました。また取るに足らないアジアの小国ベトナムすら制覇出来ないという自信喪失をも生みました。かくして暗い60年代末を過ぎ、70年代に入っても展望は開けません。アポロが月に行って多少は盛り上がるのですが、結局は一過性というか、大局的にみれば焼け石に水という感じです。

 というわけで、経済的にも軍事的にも豊かで強いことが人々の幸福を約束するという、いわゆる「富国強兵」パラダイムが60年代から70年代にかけて、かつての神通力を失っていったということです。
 この頭打ち感覚に呼応するように、70〜80年以降、世界でも日本でも画期的な新製品というのは開発されていないし、生活様式も飛躍的に向上しているわけではないです。それまでに登場してきた家電の大物=冷蔵庫、洗濯機、掃除機、TV、ステレオ、それに自家用車などは、それがあるのと無いのとでは生活様式が全く違うと言っていいです。人間の労働を大幅に軽減してくれたし、娯楽スタイルを一変させています。しかし70年代以降それに匹敵する革命的な新商品というのは登場していないのではないか。ビデオやウォークマンなどもありますが、所詮は繰り返し見れるとか、サイズが大きくなったり小さくなったりするだけの量的な微調整といっても良く、無から有が生じたかのような質的&革命的な変化ではない。強いて言えばパソコンとTVゲーム、インターネットやケータイの普及くらいですが、それで飛躍的に生活が変わり、幸福になれたのか?というと疑問が残ります。ベースとなってるテレコミュニケーションの発想と技術(要するに「電話」)そのものは19世紀からあるし、自動車や航空機の実用化ほどの大変化でもないでしょう。

 かつて日本において新幹線の次世代モデルとして持て囃されたリニアモーターカーは、一向にメジャー利用される雰囲気はないし、70年代にマッハの壁を越えた!と大騒ぎされた航空機もあれから速くなっていない。住宅にしても、戦後のバラック→マンションというほど破格の飛躍もない。食や健康についても、もっぱら農薬や添加剤の蔓延やアレルギーの激増という状況を招き、結果的に進歩してるのか退歩してるのかよう分からん。

 70年代の頃のSF小説を読むと、当時の人々が考えていた「21世紀」というのは、もっととんでもなく輝いていました。2010年ともなれば、月まで慰安旅行に行くのは当たり前、新婚旅行は火星、探査船は太陽圏外までガンガン行ってなければいけない。シティには地上500階くらいの超々々高層ビルが建ち並び、重力遮断装置をつけた個人用自家用車が空中をフワフワ浮いているという。当然、日本とオーストラリアくらいだったら1時間で行けているわけです。家庭に一台家事ロボットがいて、なんでもこなしてくれており、TVは完璧な立体ホログラフになっている。これら当時の未来予想図と比べてみれば、いかにそれから進歩してないかがよく分かります。

 ここで注目して欲しいのは、いかに当時の人類が「技術の発展→輝ける未来と幸福」という図式を無邪気に信じていたかです。時代のパラダイムや空気感というのは過ぎてしまえば分からなくなってしまうものですが、あそこまで能天気に未来を信じ切ることが出来たというのは、本当に羨ましいくらいです。あのスコーンと突き抜けた能天気さに比べれば、その後の人類や歴史というのが、いかに頭打ちになってくすぶっているか、「どうしたんだ?」というくらいです。

国の時代→思想の時代→カネの時代

 政治的にも歴史的にも方向性を見出せない人類は80年代以降どうしたか?というと、結論的にいえば「復古主義とカネ」だと僕は思います。

 「犬が吠えても隊商進む」という言葉がありますが、混迷しつつも、それでも歴史は進みます。どう進んだかというと、70年代にニクソンが米ソ国交回復というウルトラCを演じたものの国内は治まらず、つづくカーターの人権外交も空振りを続け、80年代のレーガン政権になり、リバイバルの開き直りのような強いアメリカ戦略がとられ、軍事的にも経済的にも「強ければいいんだ」という路線を進みました。

 このアメリカの「強ければいい」路線に乗って、日本でも70年代に萌芽した「物的進歩への疑問」は一部の国民の間で深められはしたものの、全般的にはまた昔のように「豊かであれば良い」路線に戻り、80年代後半のバブルに突入します。公害にショックを受け、自然保護を訴えていた日本人も、リゾートブームやゴルフ場の乱開発、会員権の投機売買に狂奔するようになります。

 80年代のレーガン以降を「開き直りのような」と書きましたが、60年代に萌芽した新しい人類の方向性を孵化しえずグチャグチャになり、何をどうやっても手詰まり状態になって、いい加減疲れてきたときに登場したのがレーガンで、彼の斬新さは「もう考えるの、止め!強くて豊かだったらいいんだろ」というシンプルな19世紀的な富国強兵策でした。逆に言えば、人類の「思考停止」はここから始まったようなものです。

 確かに軍事的にはアメリカが勝利します。ソ連が、義理と惰性でアフガン侵攻を延々やってて遂にポシャってしまったことで冷戦は終わり、軍事的にはアメリカの一党独裁になります。しかし、巨視的にみれば「それがどうした?」てなもので、相変わらず人類には「やること」も方向性も見つからない。そこで「今度はカネだ」とばかりに経済主義に邁進します。その経済の潮流でいえば、80年代のレーガン以降の新自由主義経済というのは、ベースになっているのは新古典派経済学であり、専門的なことは分からんのですが、要は資本主義原理の一種の先祖返り、リバイバルでしょう。市場原理による調整を第一義におき、これを阻害する構造改革を志向し、レーガン、サッチャー、中曽根トリオ以降、小泉改革、さらに現在まで受け継がれてきています。

 まあ、これも悪いばかりではなく、「平和な時代に商業が繁栄しました」と美しくまとめることも出来ます。また、市場原理崇拝主義は、戦後しばらくしてブクブクに肥大した国家社会のオーバーホールには格好のツールでありました。日本においては、利権の巣窟と化した古い構造をリニューアルするという効用から受け入れられ、「構造改革」という名で今日でも続いています。その効用は確かにあります。

 しかし、経済原理のそのものは「市場がなんとかしてくれる」という無邪気な市場主義でしょう。確かに国家が全てをリードするのを止めて、国家の行きすぎを是正するという主張には意味があります。しかし、国家に代わるべき市場が必ずしも期待通りには動いてくれなかった。それどころかどんどん一人歩きして、実体経済から金融経済に移行し、マネーゲーム化していった。世界経済は、合併を繰り返してやたら図体がデカくなる企業やら、"経済的合理性”の名のもとで産業の空洞化や弱肉強食が進んだり、格差が拡大していきます。そして頼みの綱の市場も、マネーゲームの果てにサブプライム破綻(リーマンショック)でドカン!です。急場しのぎに国庫から大金をブチ込んだ各国はそのツケで財政が悪化し、ギリシアがコケているという。思うんですけど、これって「進歩」してるのですかね?

 こういった流れからつらつら考え、率直に思うのですが、米ソを始めとする世界(先進諸国)は、1970年代以降、やることが無くなっちゃったのではないか。少なくとも、それまでの時代にあったような方向性や確信みたいなものが相対的に見えなくなってきた。だからリバイバルのように昔の古典的資本主義や市場原理を持ってきたりしてお茶を濁そうとし、しょせんはお茶濁しだからそれだけのものでしかなかった。というわけで、時代は進んでいるのか停滞しているかといえば、むしろ後者ではないか。

 ここで、もうちょい歴史のスパンを長めに取れば、19世紀は「国家の時代」だったと思います。近代国家という新しくて強力なオモチャを見つけた人類は、これを「たまごっち(懐かしい)」のように育てた。元祖富国強兵のイケイケ時代です。国威発揚であり、「坂の上の雲」であり、「国家」のために命を捧げるのは、日本に限らず世界的にみても当たり前のことだと思われていた(でなきゃ、あんなに戦争ばっかりやってないって)。ところが国家主義の行き着く先は、凄惨な世界大戦であり、世界で3000万人という膨大な死者を生んだ。ここでイケイケ人類も我に返った。「これって愚行じゃないの?」と。

 それに続く、戦後20年間はイデオロギーの時代だったと思います。共産主義対資本主義ということで、日本でも労働運動や学生運動が激しく展開されます。この点、日米で微妙な差がありますよね。いずれも旧体制 VS 新思想という構図は同じなんだけど、日本の場合は新しい潮流にもっぱらコミュニズムが乗っかった。単語的には、労働とか革命とか搾取とかいう文脈。ところがアメリカではコミュニズムは伝統的に流行らないから、その代わり人種差別の是正であるとか、ヒッピームーブメントという形で起きています。激しく熱い時代でしたが、カネとか保身ではなく理念理想がメインテーマになっていた時代です。

 しかしこの熱い時代も長くは続かず、新勢力も内部崩壊を起こすようにしてスタれていき、保守体制は惰性のように冷戦を続けた。結局何が残ったかというと「カネ」でしょう。日々の生活が豊かになっていくと「いいじゃん、別にこれで」ということで、イデオロギーや理想はそのパワーを失った。かくして革命の拠点であった筈の日本の大学は、レジャーランドと化し、人々は豊かな生活を謳歌するようになっていった。でも、それって結局のところ「思考停止」であることに変わりはないです。「豊かだからいい」というのは、何が「いい」のかといえば、「深刻なコトを考えなくてもいい」わけでしょ。もう疲れたから考えるの止め、と。

 でも、「豊かだからいい」というのは、豊かでなくなったら全てが崩壊するということでもあります。金ピカでお気楽な80年代後半は疑うことなく豊かだったからそれでもいいけど、バブルが弾けてしまえばそれも終わり。以後、方向性を見出せないまま沈滞の時代が続く。豊かなときもカネにしがみついたが、新しい方向性が見えないまま貧しい時代に入ると、さらに人々は「カネ」にしがみつくようになる。かくして結果的にカネと保身が時代精神のようになっていく。70年代以降、思考停止してきたツケが今廻ってきているとも言える。大体なんでここまで国の借金(国債発行残高)が嵩んだのかといえば、豊かな生活水準を落としたくなかったからでしょ。その軌跡は、生活水準を落としたくない個人が、サラ金から借金を重ねて自己破産に至るのと似てます。

 日本の場合、時代が転換したのは田中角栄の頃だったと思います。それまでの国家やイデオロギーの時代においては、私利私欲以外の「大義」のために命を賭けるような人間がわりと多くいた。普通のハタチくらいのお姉ちゃんでさえ、「革命の捨石になって死ぬなら本望」みたいなノリがあった。ところが角栄先生の政治手法以降、日本というシステムが変わります。金権政治と一言で言われますが、あれはロッキード事件に象徴されるように、政治家がワイロをもらったとかいうケチなレベルではなく、一種の「革命」に近いくらいのものです。田中角栄は、選挙民にも、そして官僚からも絶大な支持を得ており、だからこそ天下を取れたのですが、なぜか?といえば利権誘導です。国庫から地元にドンドンお金を落とすシステムを開発し、地元を潤わせた。また、道路族議員として各種特殊法人を山盛り作って官僚を天下りさせることで官僚の支持を得た。それを国民向けに言えば「日本列島改造論」になった。国家でもなく、理念でもなく、「カネによって人は動かせる」というメソッドを大々的に開発し、日本人そのものを変えた、という意味で革命的です。

 角栄式方法論は、今もなお日本社会に強固に残っており、後の世代は角栄メソッドを忠実に履行するしかない。だからあれだけ国家のガン呼ばわりされている官僚が今尚強く、天下りに固執する。土地神話がバブルを生み、崩壊後もなおも銀行は不動産担保を金科玉条のように重宝する。日本人の発想そのものの変えてしまったから、いまどき大義のために死ぬ日本人など天然記念物なみにいなくなった。角栄失脚後の日本人が束になってかかっても角栄一人にかなわないという。これはもう、再び角栄レベルの大天才が出てきて、同じくらい革命的な新メソッドを作らないと治らんような気もします。
  

70年代以降、世界が詰まらなくなった

 こうしてみると、70年代以降、日本や世界はまったりしてきたというか、面白味に欠けるようになってきたと思います。それ以前の時代は、そりゃ生活水準などはかなり低かったし、騒がしかったでしょうが、今よりも確実に面白かった。生きてて楽しかったのではないか。

 だってさ、生きていく基本路線が、詰まるところは「保身とカネ」しかないんだったら、これは詰まらないですよ。

 バブルが弾け、それまでの「豊かな日本に乾杯」的なムードがぶっ壊れた以降の日本は、次に変わるべき時代精神がREADYになってない。起死回生の妙案も浮かばないまま、ズルズルと経済力は低下し、思考能力も活力も減退し、国の借金はどんどん増え、グローバリゼーションの嵐に晒され人々の生活水準もまた下がる。そうなると、ほんと「保身とカネ」が生きていく基本OSになっていくし、どんな仕事であろうが、職場環境で鬱になろうが、子供のアレルギーがヒドくなろうが、この生活水準に「しがみつく」って感じになっていっちゃうでしょう。コアラのように。

 でも、それって日本だけの話じゃないです。
 アメリカなど世界先進諸国は日本と違って、バブルの後始末も迅速で、すぐに立ち直り、その後豊かにドンチャンやっています。だけど「結局カネ」という基本路線そのものは日本と一緒でしょう。要するにカネが儲かればいいのだということで、高等数学を駆使したデリバティブを開発し、ハゲタカファンドが跳梁し、激しくカネを回転させることで富を生み出す。企業の社会的使命もどこ吹く風で利益極大化に走る。従業員の首を切り、消費者からぼったくりまくった、ごく一握りのCEOだけが株主(投資家)から”優秀”と評価され億単位の年収を得る。結局、カネじゃん、やってることは。ソリッドな資本主義に回帰したんだから、それも当然といえば当然でしょう。資本主義というのは、金持ちの、金持ちによる、金持ちのための制度なんだから。

 オーストラリアだって例外じゃないです。確かに、ほぼ一貫して不動産価格は上昇をつづけ、また賃金も、国民一人当たりのGDPも上昇しています。確かに豊かにはなりました。だけどね、個々のオーストラリア人が昔に比べて「幸福になったか」と言われると疑問ですよ。賃金も上がるけど物価も激しく上がってるし、不動産が上がるのも持てる者はいいけど持たざる者にはレント(家賃)が上がるだけの話で、実際問題、暮らしにくくなっていると思う。

 で、「何がイケナイの?」といえば、結局のところ、80年代以降に苦しまぎれに持ち出してきた「カネさえ儲かればいいんだ」的な、頭の悪いパラダイムだと思います。

 大体ですね、30年前に、考えるに疲れて急場しのぎのように持ち出してきたリメイク版富国強兵、新経済主義に、いつまでも律儀につきあってる必要なんかないんじゃないのか?いったんは挫折し、考えるのを止めてしまったけど、もう大分時間も経ったし、考え疲れも癒されただろうから、再び考えるのを続けたらどうか、と。

 だからといって、再びコミュニズムを復活させるとかいう話じゃないですよ。また、カネも保身もクソだから投げ捨てろなんて力任せな話をしているわけでもないです。カネも、保身も、大事ですよ。でも、それだけじゃない。「しかない」わけではない、ということ。

話は再び「そこそこ」へ

 はい、お待たせしました、ここで話は本題に回帰するのだけど、「そこそこでいい」という言葉の核心にあるのは、こういった「カネさえ、、」的なパラダイムに対する「そうなの?」という疑念の表明だったり、「違うんじゃないの」という異議申立だと思います。カネも保身も、それなりに大事だから、バッサリ斬ってしまうわけにはいかない。だけどそれ「だけ」と言われるとそれは違うという部分否定としての「そこそこでいい」です。意訳をすれば、「否定はしないが、そんなことは全体の一部でしかない」ということです。「そこそこでいい=そんなことは適当にレベル維持しておけばいい」と。

 なぜ全部ではないか?カネがあったらそれでいいじゃん、それしかないじゃん?といえば、それだと「詰まんないから」というのが答になるのでしょう。生きてて面白くないから。また、それで世界が良くなるような感じもしないから。

 OK、わかった。カネも保身も人生の一部に過ぎない。じゃあ他に何があるの?ここでまた、もっと昔の、ホコリをかぶった国家への忠誠心とかイデオロギーとかを持ちだしてくる気か?それこそもっと生産性がないぞ。部分的にせよカネを否定するなら、それに代わるだけの新しくて魅力的な価値観やゲームパラダイムをもってこいよ、というツッコミは当然あります。

 それに対する答は、「だからそれを考えようぜ」ということでしょう。

 別に僕がここで呼びかけるまでもなく、70年代以降、人々は考え続けてきたし、僕らの中にもそういった「異なる価値観」は頭の中にかなり蓄積していってます。そして、21世紀になってから、そういう動きは徐々に増えて来ています。ただし、小党乱立状態にあるので、与党である「カネさえ」党を打ち倒すほどのパワーは、未だない。

 長くなったのでマトメに入ります。
 本稿で言いたかったのは、
 @「そこそこでいい」という言葉に含まれている、現状のパラダイムに対する異議申立という意味を積極的に汲み取ろう
 Aそれは70年代以降人類が見失ってきた原点に回帰するという意味で、歴史的な正しさもあるように思われ、
 Bただし100のパワーで異議申立をするなら、200のパワーで代案を出そう、無いなら考えよう、今ある代替案を改めて見直そう

 ということです。
 つまり、「そこそこでいい」という言葉にあとに続くべき、「なぜならば〜」以下を考えようということです。

 じゃ、どんな代案があるの、今どんなのが挙がっているの?は次回。
 簡単に触れておくと、まずこれは発想というよりも事実だけど、環境や資源問題ね。産業や経済発展で幸福になろうという方法論は、その前提となる地球規模で条件において先行きが暗い。だからクリーンエネルギーや、行きすぎた消費生活を是正しようというムーブメントがあります。世界的な潮流でいえばこれが一番大きいでしょう。

 ただし、それは「ブレーキをかける」という消極的な意味に留まるだけなら、あんまり効果は期待できない。つまりそれで「面白くなるか?」というと、もともとクソ詰まらん行きすぎた資本主義ゲームをやりつつ、さらにそれにブレーキをかけ、「ほどほどにね」と謙抑的にやっていくだけだったら、二重にも三重にもガマンガマンが続くことになり、単純に詰まらない。詰らない職場にガマンして出かけ、そこで省エネに協力させられ、取引先までタクシーではなく自転車で行けと言われているような。それだけじゃダメだと思うのですよ。

 もう一つの世界的な潮流でいえば、アルカイダみたいな民族的、宗教的原理主義です。彼らにとっては、新自由経済主義もグローバリズムもクソもないです。いまどき「大義のために死ぬ」なんてことを盛んにやってる人達。事の善悪は別として、あれ、単純に楽しそうですよね。あそこまで思いこめたら、そりゃ楽しそうだわ。だからといって皆でアルカイダになろうなんて話じゃないですよ、勿論。ただヒントは転がってると思いますね。

 あるいは精神主義、スピリチャリズム。こういうのって僕はそんなに得意ではないですが、冒頭に書いたように「エネルギー問題が生じると中世的に引きこもる」というのは人類のパターンです。オイルショック以降、エネルギー問題が出てきた70年代以降、進歩を捨て、中世的な精神世界に逃避するような潮流になってきているのは故のないことではないです。でも、僕は中世的なものが好きではない。あんまり楽しいとは思わない。魔女狩りとかさ、やりたくないもん。あるいは、なんでもかんでも精神病的にしてしまう傾向にも距離を置きたいなと思ってます。そうじゃない、過度にオカルティックでもメディカルでもない精神主義、「面白がり主義」みたいな方向性はないんかいな?と思ったりします。


文責:田村



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