今週の1枚(06.02.20)
ESSAY 247/「好き嫌い」で物事が動く時代
写真は、シドニーから車で南西に1時間ほどのSouthern Highlandの牧場風景。まあ、このテの風景は、都会を一歩出たらオーストラリアでは至るところにありますが。
前々回、前回に引き続き、堺屋太一氏の「時代が変わった」に触発されて書きます。
物財という客観的なモノサシが段々薄れていって、主観的なものがハバをきかす主観社会になっていくのではないかというのがベーシックなコンセプトですが、「主観社会って何よ」「移行するって具体的に何がどう変わるのよ?」というあたりを今回書きます。
「モノの時代からココロの時代へ」などと昔から言われていました。物質文明が頂点を極めると、より精神的なものにシフトしてさらなる高みを目指すようになる、、、てな感じで、モノ→ココロは必然的な移行であると理解されがちです。実際、「マズローの欲求五段階説」(人間の欲望は最初は食欲とか性欲のように原始的なものだが、それらが満たされるに連れ、だんだん名誉や虚栄など自己承認欲求、自己実現欲求に変わってくるという説)なんかも、似たような発想だと思います。それはそれで正しい部分も多分に含むでしょう。
しかし、今回の視点のユニークなところは、モノかココロかという問題は、実はエネルギーや環境などの地球資源の問題と関連しているのだ、とする点にあります。
モノを大量に生産するというのはイイコトだという産業革命以降の「正義感」があったわけですが、後先考えずにエネルギーを消費し、環境をガンガン破壊することは良くないことだという新しい「正義感」が地球全体に広まりつつある中、これらの古い正義は新しい正義に覆されつつある、というところがキモなのですね。モノを豊富に産出するためには、限界のある人間の手作業を機械に置き換えた方がいい。農業だったら、手作業で全てやるくらいなら、飛行機で種を播き、農薬を散布して、巨大なコンバインで一気に収穫した方が沢山収穫があがるわけだし、価格も落ちる。あるいは遺伝子組み替えをして虫が食べたくなくなるような品種に変えてしまえばいい。大量生産こそが正義である世界では、効率こそが正義です。しかし、その結果、土壌が汚染され、生態系を破壊するという環境問題が出てくる。また作物それ自体も「自然の恵み」というよりはただの「工業製品」みたいになってくる。そうなると今度は全部シコシコ人間の手作業でやる有機農法や自然農法に価値が移ります。つまり多少効率が悪くても、環境破壊をしない方が良いという新しい考え方が生まれてきます。これは、効率最優先だった産業革命から200年ほどの人類を価値観を根本的に変えるものです。
しかし、それもこれも「資源」という問題あってこその変化だということです。
もし、常温核融合などの技術が画期的に進化し、コップ一杯の海水から全人類がこれまで使ってきた全エネルギーを引き出せる、しかも100%環境破壊をすることもないクリーンエネルギーだということになったら、話はまた変わってくるでしょう。常温核融合は、現時点では実用化など夢物語ですが、物理学の常識くらいたやすく覆されるものはないので、今後100年、500年という単位で考えていった場合、なんらかのブレイクスルーがあるかもしれません。エネルギーというのは、この宇宙に無限にあるといってもいいです。巨大な太陽が燃えているエネルギー、太陽系全体が自転、公転しているエネルギー、そもそも宇宙自体が光の速さで膨張しているエネルギーを考えてみたらいいです。これら途方もなく巨大なエネルギーからしたら、微細な破片(地球)に生息する超微生物(人間)が必要とするエネルギー量など微々たるものです。エネルギーそのものは実在しているわけで、それを僕らのレベルまで落とし、コントロールすることが出来たら、、、って思っちゃいますよね。いつまでも化石(石油石炭)を燃やして熱エネルギーを出して、、という原始的なエネルギー変換方法に固執することもない。原子力は、現在の原理と技術ではコントロールに不安が残るわけですが、これが飛躍的に発展したらどうなるか分からんです。電気というものを知らなかった19世紀までの人類が、電気を利用することで成り立ってる20世紀以降の人類の生活を夢想することすらできなかったように。
このように環境的に完璧に無害、しかも人類があと1兆年使用しても0.001%しか減らないというエネルギーのコントロールが可能になったら、またモノの時代になると思いますよ。「人類は物質文明の頂点に達した」なんて言ってますけど、全然達してないですよ。達してたら今尚地球レベルで餓死者がゴロゴロしてるわけがない。ドラえもんが不思議なポッケから取り出す数々の未来ギアの何一つ実現していない。タケコプターくらいそろそろ実用化してもいいんじゃなかろうか。もう21世紀なんだし。日本とオーストラリアも、いつまでも直行便でチンタラ10時間もかけて飛んでないで、3時間くらいで結べないのか。東京もセコいビルばっかりつくってないで、容積率無限×建蔽率5%にして、霞ヶ関の全官庁を収容する400階建てくらいのビルを建てて、95%の敷地を市民に緑の公園として開放したらいいじゃないか。同じように、東京のオフィスビル敷地の95%を緑化して、あとは上に伸ばしたらどうか。宇宙開発も無人探査衛生が、(今どこですか、土星までいったのかな?)心細げに漂ってるだけではなく、ガンガン人類が安全に進出していってもいいはずです。通信だって、1兆ギガ/秒くらいの伝送技術が実用化され、映画千本分のデータ−が0.001秒でインターネットで落とせるとかさ。立体ホログラフも全然実用化しないさ。リニアモーターカーも塩漬けだしさ。東京=大阪くらい、そろそろ10分くらいでつないだっていいんじゃないの?
何を言ってるかといえば、物質文明は頂点を全然迎えてないってことです。まだまだやること、いけるところは山ほどあります。科学技術なんか開発される前は全てが夢物語なんだし、夢ですら思いつきもしないことが現実に起きてます。幾らでも発展可能性はある。だから、モノ→ココロになったのは、必然でもなんでもなく、僕らが意図的にブレーキをかけたからなのでしょう。これ以上やったら資源破壊のデメリットの方が大きくなるってことでしょう。というわけで、あたかも当然のように「モノからココロへ」変化しているわけではない。外への可能性が資源的に閉ざされているように思えるから、自然と内向きになっているってことだと思います。外に出て友達と遊ぼうとしても仲間はずれにされて面白くないから、部屋に閉じこもってTVゲームをやってるようなものかもしれない。
というわけで、ココロの時代といっても、世界史における中世がそうであったように、ある種の強制された内向き指向なわけで、本質的にどっか不健康なものを含んでいるのだと思います。「不健康」云々とは、堺屋氏の書物では書いておらず、完全に僕個人の私見ですけど、モノからココロへと順調に発展を遂げてそうなったというよりは、精神の時代、主観の時代といっても、どっかしら「陰(かげ)」「翳り(かげり)」があるように思います。そこがちょっと気になるのですね。
人が精神的な価値を求めるようになるのは、二つのルートがあるように思います。一つはアッパー系/貴族系で、物質的なことはもうやり尽くしてしまった、比較的贅沢な暮らしもし、ステイタスにも恵まれてきた人が、これ以上同じ路線でやっていくことが「つまらん」と思うようになり、よりワイルドでよりクリーンな精神的価値世界に行くような場合。西行法師のようなパターンですね。西行法師は、もともとは武家の嫡男であり、物財的にも名誉的にも当時の水準からしたらかなり恵まれていた。しかし、23歳にしてぜーんぶ捨てて出家し、72歳で没するまで全国を放浪し、優れた和歌を詠んだわけです。この種の「全てに恵まれている人の出家」というパターンは至るところにあり、源氏物語の光源氏も位人臣を極めたあと出家します。まあ、なかには後白河法皇のように、出家したあとも俗世の権力闘争に埋没している人も沢山いますけど、それでも行くところまでいった人が、自然に枯れて、精神世界に赴くというのは、日本人にとってはお馴染みのパターンだし、わりと理解しやすいと思います。瀬戸内寂聴さんなんかもその系統でしょうか。
これらの貴族系に対してダウナー系/庶民系の場合、物財的な栄光などとても望めないと諦めてしまって、それで精神世界に遊ぶようになるパターンです。学校でイジメられている子供がオカルト系に凝るようなものです。いつかUFOを呼んで皆に仕返ししてやるとかね。筋肉少女帯というバンドに「蜘蛛の糸」という曲があり、「最近皆が僕のことを笑ってる気がする/気にするな、眠れよ/蜘蛛の糸を登っていつの日にか見返してやる!」と歌ってますが、その種の世界ね。
ただ、しかし、ダウナー系が悪いわけではないです。
というか、絶対数でいえばダウナー系の方が圧倒的に多い。そんなに何もかも恵まれて生まれてきた奴なんか100人に一人もいないし、この世の99%は庶民です。もっと言えば、中世以降の日本の仏教教義なんか、ほとんどこれといってもいいくらいでしょう。僕の曖昧な理解によれば、日本仏教は奈良時代は高度な先進技術に裏打ちされたエリートのための哲学であり、葬式仏教になる前の哲学仏教でした。プラトンとかソクラテスの世界で、だから奈良のお寺には墓がないです。葬式業務はやってなかったから。それが平安時代に最澄、空海が現われ、オカルティックな哲学ともいうべき密教を打ち立てます。ここまではまだ哲学。鎌倉時代の禅宗もまだ武家階級のための哲学。「この世界の真実を知る」ための思考方法論だった。それが、世が乱れ、庶民はひたすら苦しむしかない世の中になってきたら、「この世の地獄にはなにか意味があるのか?」という切実な問いになり、それに答える形で、法然や親鸞が現われて浄土宗や浄土真宗を起こします。そのココロは、「死後の世界」ですね。死後の世界=”浄土”ですから。こんな乱暴な要約をしたら関係者に殴られると思うけど(^_^)、要するにこの世での苦しみは全てあの世で幸福になるためのステップだということです。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の念仏を唱えることで阿弥陀如来(あみだに ょらい)を得て極楽に行ける」と。早い話が、「この世はダメでも、あの世があるさ」ってことですよね。「厭離穢土・ 欣求浄土」なんてのも、『早く死んで楽になりたい』ってことでしょ。まあ、本当の浄土宗、浄土真宗の教えは、そんな「あの世のススメ」みたいに単純なものでもないし、「あの世」というパースペクティブを示すことで、今現在の生の意義を捉えなおし、しっかり生きるためのものだと思いますけど。
ところで、宗教というのは、宗派を問わず、人間の視界を広げるところで成り立っているのだと思います。
目の前に映ってる現実だけではなく、もっと大きな世界のなかに生きているのだと。それは、山の神様とか海の神様という大自然の偉大さと畏敬を教えることから始まり、「死後の世界」を視野に持ち込んでくることで、統合的なものの考え方を育みます。こういう発想は、現世の物財的な面において恵まれない多くの庶民にとっては「救い」になります。例えば、一生懸命田畑を耕していたら、ある日野武士の集団が襲ってきて、父親は殺され、母親も目の前で犯された上で殺され、娘である自分はかどわかされ、毎日父母を殺した連中から輪姦を受け、どっかの女郎屋に叩き売られ、そこでも毎日犯され、殴られる。酔っぱらった野武士に面白半分に刀の試し切りにされ、顔に大きな傷をつけられたので女郎として働くことは出来ず、風呂の釜焚きのような雑用に廻され、老婆になるまで小突き回されるだけの人生。「こんな人生になんの意味があるのか?」というのは、その人にとっては血を吐くような叫びでしょう。そして、歴史を見れば、多くの人間の人生なんかそんなもんだったのでしょう。数え切れないくらいの庶民が、虐げられ、傷つけられ、無意味に死んでいく。これで終わってしまったら、本当に神も仏も無いです。後味悪いったらありゃしないし、一生懸命生きていこうという気力なんか湧くわけがない。そこで、「実はそこで終わりじゃなかったのでした」ということで、ストーリーの舞台を拡張します。それが「あの世」。例えば、そういう苦しみを受けることこそが修行であり、極楽浄土で幸福に暮らすための大事なステップなのだとか。あるいは輪廻転生のように、過去生で積み残した課題に今取り組んでいるとか、過去世で犯した過ちを今償っているのだとか。無法な振る舞いをしている野武士も、死んだら地獄でのた打ち回り、そして生まれ変わった来世では、罪を償うためにミジメな一生を終えるのだ、と。大きく全体に帳尻が合うようにし、それで大団円的ハーピーエンドになるようにします。だから、一瞬一瞬をちゃんと生きないとダメだよ、どんなことにも意味はあるのだよ、御仏は、あるいは神様はあなたがそうするのをずっと見守っているのだよ、と。
これを「大嘘」と言ってしまうのは簡単なんだけど、ここまできたら嘘か真実かなんかどうでもいいですよ。あらゆる宗教によって、何千億人という名も無い庶民が、たしかに救われたと思うからです。マッチ売りの少女だって、可哀想にクリスマスイブに街頭で凍死するだけの話です。そこで終わってしまったら、僕でもグレますよ。「やってられっか」と思う。でも、天使が降りてきて、光り輝く天国へ導き、そこには優しいおばあちゃんが待っていて、しっかりと抱きしめらる、、、。そうとでも思わないとやってらんないですよ。やってらんない人生を、やってられるように励ましてくれるのが宗教の偉大なところだと思います。その功徳を考えたら、言ってる内容が本当かどうかなんか、どうでもいいですよ。
このように、日本の仏教であれ、世界の宗教であれ、物財世界で行き詰まらざるを得なかった庶民にとっては大きな救いになっていたのだろうし、僕はそれが悪いことだとは思わないです。イイコトだと思います。でも、厳しい言い方をすれば、物質/客観世界でイケてないから、精神世界に逃避してるという意味では、ダウナー系/庶民系であります。だから、ダウナー系だからダメだとは思わないってことです。僕も含めて圧倒的大多数が庶民なんだし、日本人なんか皇族とかごく一握りの人々を除いて全員庶民といってもいいくらいです。庶民である僕らは、当たり前のことだけど、人生は大変。大変な人生をやってんだから、疲れもするし、嫌気もさします。だから、それなりの癒しも必要ってことでしょう。
ただ、同時に、精神世界というのは安直な逃避にもなりうる。怠惰で無気力な自分を都合よく誤魔化してくれ、セルフ・ジャスティファイ(自己正当化)するツールにもなりうる。そういった危険性も、頭の片隅に入れておかねばならないでしょう。
さて、話を戻しますが、資源関係で頭を打っている僕ら人類は、ナチュラルに内向きになっていくでしょう。精神的比重が高くなる世の中の流れになるでしょう。でも、どうせそうなるなら、より豊穣な精神価値体系を構築すべきだというのが僕の考えです。「心の時代」といって終わるのではなく、問題はその「ココロ」の内容であり、そこまで意識的に踏み込んでいこうと。
今の時代の僕ら、特に日本に生まれ育った僕らには、アッパー系、ダウナー系両方の側面があります。とりあえずそんなに飢えてないですし、何がなんでも○○が欲しいってモノもないし、立身出世こそが問答無用に最高の目標であるとも思わないし、自分が死んだらどっかの駅前に銅像をたてて欲しいとも思わない。あなた、思いますか?だから、「順調な発育」というか、人間のヘルシーな欲求の高度化として、精神的なものに価値を置くようになるでしょう。だからアッパー系です。
でも、同時に、物財がどんどん豊かになって、「未来に伸びゆく日本、バンザイ!」って気分にもなれないでしょう。高度成長期のように、普通にやってりゃ自然に誰でもリッチになれる、余程ヘマでもしない限り庭付き一戸建てくらい買えるし、退職金と年金で悠々自適って未来像も描けないでしょう。それどころか、ヘタしたら一生年収300万円以下で終わってしまうかもしれません。物財的なジャパニーズドリームって、今やホリエモンとかその種のものくらいしかないでしょう。でも誰もがホリエモンになれるわけでもないし、余程恵まれた環境と運がないと中々あそこまでいけない。そしてその彼ですら今は落ちた偶像状態です。もちろんだからといって日本経済が直ちにおかしくなるとか、国民の3分の1が浮浪者になるとか、そんなことはないですし、そういう問題ではない。ここで言いたいのは、成長期のように、「普通にやってれば」自然に物財(客観的)に恵まれるようになり、その客観的生活水準の上昇が、人生の励みにもなるし、慰めになるし、目的にもなるという、昔の発想は通用しないだろうってことです。個々人の人生において、物財的に頭打ちになれば、やっぱり主観的なものに価値をシフトさせざえるを得ないでしょう。これはある意味では健全な発想だと思います。
アッパー、ダウナーいずれにせよ、物財的なものに人生をまるごと投影させて、それでOKという具合にはいかなくなった。それほど絶対的に物財に窮乏しているわけでもないが、全面的に物財に没頭するほどの魅力もない。「じゃあ、どうしよう?」ってことになるでしょう。実際にもうそうなってますけど。
その場合、「これからの時代はこうだ!」っていう明確な指針は未だに示されていないと思います。もしかしたら僕が気付いてないだけかもしれないけど、示されてますか?そして、僕が大胆に思ってしまうのは、「好き/嫌いの洗練」ではないかってことです。「主観的価値、精神的価値にシフトした社会」というのは、要するに「好き嫌いで物事が動いていく社会」だと思います。好き嫌いで動くというのは、これまでは良くないこと、コドモじみた発想で馬鹿にされてきました。確かに好き嫌いで動いてたら世の中廻らないことも多々ありますし、好悪の情をあからさまにするのはオトナとしては失格だとも思います。今尚、好き嫌いで動いてしまってはいけない局面は多々ありますし、それを表現することが良くない領域も沢山あります。例えば、小学校の先生が、100%好き嫌いで動いていたら、「この部分は俺は嫌いだから教えない」「この生徒は嫌いだからケアしてやんない」とかいったら困ります。医者の手術でも、「この手術は好きじゃないのでやらない」とか言ってられないでしょう。警察や裁判で、「この被告人は可愛いから無罪」なんてやることは許されない。
効率や結果を優先する客観的な時代では、好き嫌いはタブーでした。チャップリンが「モダンタイムズ」で人間を歯車のようにみなす大量生産機械文明を「俺はこんなのキライだ!」と訴えようとも、世の中は頷きながらもそうは動かなかった。しかし、今の時代には、その種の好き嫌いが通ります。そんな昔のような非人間的な機械労働だけを強制する職場は減ってきているし、ああいうことを良くないことだというコンセンサスも広がっていると思います。皆が就職を選ぶモチベーションも、単にステイタスが高いとか、収入がいいだけではなく、「やり甲斐のある職場」というのが大きなエッセンスになってきているでしょう。
その意味で、「好き嫌い」は以前よりも市民権を得てきているし、逆にいえば好き嫌いを言ってられるくらいには日本は豊かになったってことでしょう。高度成長の頃は、そんなに好き嫌いとか感情的な要素は表にでてこなかったと思いますし、「やりがいのある仕事」なんてのもあんまりポイントにならなかった。ただし、逆説的なのですが、高度成長の頃はどんな仕事でも、今よりはやり甲斐はあったと思います。なにをやっても右肩上がりなんだから、普通にやってりゃ業績は上がるし、達成感はあるし、給料もあがるし。それに、今ほど上がつかえてなかったから、30代になったらかなり責任のある仕事をやらせてもらえた。だからイチイチ「やり甲斐」なんていう必要も無かったのでしょう。また、話を一気に遡らせて原始時代に戻したら、あるいは原始時代的な全部自給自足でやらないとならない環境になったら、物財の獲得(食糧の確保)と人生の目的(やり甲斐)とが、殆どきれいに一致するでしょう。今みたいに、何をやっても適当に飢えなくても済む程度には豊かで、しかし「うおおお」と思うほどの感動がないってのが、一番やりにくいのかもしれません。生殺しみたいもので。
世界的なレベルにおいても「好き嫌いの時代」になってると思います。その例の一つがテロリズムです。冷戦構造がソ連の崩壊で幕を閉じ、アメリカ式の資本主義構造が人類の究極形態なのだと言われていた時代がありました。フランシス・フクヤマ氏が「歴史の終わりに」という著書を出したりしてね。しかし、歴史はそこで終わらなかった。アメリカ式超合理的資本主義、グローバリズムによる物財の超流動化で、世界が一つの方式で収斂されていくかというと、別にそんな具合にはならなかった。21世紀になってテロの時代になりました。単純に物財の豊かさという価値観だけで動いていくなら、中東情勢だって「どっちの方が儲かるか」という原理だけで動いていくでしょう。しかし、そこで動いている原理は宗教的な原理であり、もっと端的にいってしまえば、「アメリカなんか嫌いだ」という゛好き嫌い゛でしょう。アルカイダにせよ、世界のテロリスト組織は、労組の賃上げ闘争のようにお金の原理で動いているのではない。好き嫌いの原理で動いている。
好き嫌いという感情的、主観的な要素は形がないです。基準もなければ、モノサシもない。その人が「好き」と思うかどうかです。そういうことが一つの大きなファクターとして重みを持ってくる社会では、規格化もできないし、大量生産も出来ないし、消費者レベルでも「皆と同じ」というこれまでの方法論は通用しません。捉えどころがないので、非常に難しい。
そして好き嫌い=精神的価値にもレベルの上下があります。
冬の朝にいつまでもグズグズと寝床でまどろんでいるのは快感ですし、そういうのも「好き」の対象になるでしょう。新刊のマンガを手にとって続きがどうなったのかを読むのも快感ならば、友達と馬鹿話をして騒いでいるのも面白いでしょう。ゲームにのめりこむのも、バクチにのめりこむのも、それが楽しいから、好きだからでしょう。
しかし、無言電話をしたり、ストーカーをやったり、「死ね」とかいういたずらFAXを送りつけたり、嫌がらせをするのを楽しい、好きと思う人もいるでしょう。虫や猫など弱いものを切り刻んで、いたぶるのが大好きって人もいるでしょう。他人の噂話をするのが好きとか、嫉妬を感じる人を中傷したり、罠にハメたりして苦しむ姿を見るのが何よりも好きって人もいるでしょう。自分のイタズラで世間が大騒ぎするのが大好きな愉快犯、炎が燃え上がるのを見て性的エクスタシーに達する放火犯、覚醒剤やアルコール依存症、、、そういう「好き嫌い」もあります。
一方では、寝食を忘れて創作に没頭しているときが最大の幸せというアーティストもいるだろうし、職場で励ましあいながら苦境を乗り切ってきた戦友的連帯感もあるでしょうし、人が喜んで笑っている顔を見るのがなによりも好きって人もいるでしょう。何気ない日常の動作を美しく、ビシッとやることが心を浄化させ、気持ちいいという人もいる。大自然の中で、懸命にクワを古い、大地と格闘しながら語り合っているのが何よりも尊く感じられる人もいるでしょう。
要するに、切り裂きジャックのような人間もいれば、マザー・テレサのような人間もいます。
これらの人々(僕らも含む)を突き動かしているのは、煎じ詰めれば「好き嫌い」です。それを面白く思うか、気持ち良く感じるか、です。物財という客観的な尺度がある世界だったら話はわかりやすいですけど、精神世界になると尺度が乏しいから、ほんと「なんでもアリ」のアナーキーな状態になりがちです。精神の比重が高くなる、好き嫌いで個人&世の中が動くということは、こういった無秩序を社会に招き入れるリスクもあります。リスクがあるっていうよりも、もう現実化してますよね。ワケのわからない犯罪が増えているでしょう?飢え死にしそうだから他人の物を盗むんだったらまだ゛健全"です。ひどい仕打ちをした人間を恨み、殺してしまうのも、まだ゛健康的゛でしょう。決して褒められたものではないけど、理解可能です。でも、生きている実感がないから自分の身体を傷つけてみるとか、さらに生きている他人を切ってみるとか、僕らの感覚では「病んで」いるように思います。でもそういうワケのわからないのも「アリ」になってきてます。
だから、こういった好き嫌いを「洗練」させないとならないのでしょう。より高次の喜び、より深い感動を、以前以上に意識的に考えておかないと、たやすく主観の迷路に入り込んでしまいかねない。
そのためにはどうしたらいいか?ああ、またここらへんで予定枚数が尽きてしまった(^_^)。
「これからの時代どうしたらいいですか?」ですが、僕なりに答えると、「より洗練された主観(好き嫌い)」を持ってる奴の勝ち、だと思いますね。そんなヒマつぶしに毛が生えたような、のんべんだらりとした怠惰な快楽なんてセコい快楽ではなく、もう「圧倒的な」もの。オーバーウェルミングなもの。どっぱーん!ってやつ、、、って言っても分からないよね(^_^)。この次書きます。まあ、これからの世の中、資産が何億あるとか、高学歴であるとか、キャリアがどうとかいうことよりも、「俺にはコレがある!」って言い切れるものを持ってる奴がカッコいいのだろうなってことです。そして、その「コレ」がしょぼかったら、ダメだよと。その「好き」な度合、そのことによってもたらされる快楽は、もう「天上の世界」に限りなく近いくらいハイなもので、ドテッ腹にバズーカ砲打ち込まれたくらいズシッとしたもの。どこまで磨き上げられた「好き」を持ってるか、です。
文責:田村
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