今週の1枚(06.02.13)
ESSAY 246/物財主義から主観主義へ
写真は、シドニー空港、国際線出発ロビー。
前回に引き続き、堺屋太一氏の「時代が変わった」に触発されて書きます。
この本では、人類の歴史のいくつかの転換点を説明した後、「産業革命以降のパラダイムである物財幸福主義は実は1970年代に終わっていた」という視点が提示されます。それまでは、飛行機は早ければ早いほど無条件に良く、ロケットは遠くに飛べば飛ぶほど素晴らしく、ビルは高層新記録を競い合っていました。優秀な工業製品がより広範に、より低廉に売られることは正義でありました。
この”無邪気な正義”。
物財が豊かであること、高性能になることこそ人類の素晴らしい進化と発展なのだと無邪気に信じていた「古き良き時代」は、しかしいつの間にか終わってしまっています。前回にも書きましたが、世界最速の旅客機コンコルドが試作されたのは1971年、それから30年以上経過するのにそれ以上早い旅客機を人類は作っていません。今後も作りそうにありません。
日本でビルが高いといって無邪気に喜んでいたのは、池袋のサンシャイン60くらいまででしょう。竣工したのは1978年です。1990年に日本最高層の座は東京都庁に移りましたが、その時点ではそんなに無邪気に誰も喜んでないです。今、日本で一番高いビルは?と言われたら、知らない人、興味のない人もかなり多いのではないでしょうか?(横浜のランドマークタワーですけど)。ちなみに今世界で一番高いビルって、台湾の台北101でしたっけ?でも、もうそんなことあんまり興味ないでしょう?
堺屋氏は、この変化を「知価革命」と名付け、人類の文化のひとつの大きな転換点であると位置付けています。ちなみにこの人、ネーミングが上手で、「団塊の世代」という造語も堺屋氏の命名によるものだと記憶してます。
彼の唱える知価革命が全面的に正しいかどうかは僕もよく詰めきれていないのですが、確かにそういう現象や傾向はあると思います。
1980年代以降、「量よりも質」ということで、物財が豊富にあるだけではなく、そのクォリティがいかに優れているかなのだとマーケティングも変化しますし、世の中も変化していきました。いわゆる「金ピカの80年代」ということで、カフェバーやプールバーが流行って、現長野県知事の書いた「なんとなくクリスタル」という小説が受けて、時代はピカピカしたままその究極形態ともいえるバブル時代まで突っ走り、そして壮絶な爆死を遂げ、以後放心状態の「失われた10年」が続き、今尚続いてます。
なにがいけなかったのか、なんでこうなるのか?
おそらくは、単なる「量から質」への転換ではなかったのでしょう。「より高性能なものをより安く」から「多少高くてもいいから優秀なものを」という変化は、「今、時代は質を重視するようになった」と理解されがちです。それはあながち間違ってもいないのでしょう。しかし、それは、尚も「物財」というモノに囚われていることに変わりがない(物財のどの側面を重視するかであり、ベースは物財であることに変わりはない)点で、認識不足だったのかもしれません。物財よりも精神性、その物財が良いかどうかではなく、その物財を保有することによって、どういう精神的満足が得られるかにポイントが移って来ているのでしょう。
物財の質を追求する方向性と、その精神性をベースにする方向性とは、かなりの限度で重なり合いますし、その違いは非常に分かりにくいと思いますが、でも、はっきりと違うでしょう。いかに品質にこだわるにせよ、ベースが物財である以上、やたら高価高額のものを買い集めるという成金趣味ベクトルになりがちです。しかし、ベースが精神性にある場合、市場価値や交換価値から原理的に切り離されます。低品質でも本人が満足したらそれでいいです。早い話が、死んだ恋人の古ぼけた写真、自分の子供が遺した拙い絵などは、市場価値的にはゼロでしょう。売ろうと思っても誰も買わない。そもそも品質云々の問題ではない。しかし本人の主観的価値は強力で、火事になった自宅から命からがら取り戻してきたりします。
不況だ、お金がないとか言いつつも、今尚ブランド品の売れ行きが好調なのも、ある意味では同じ理屈なのでしょう。
ブランド品というのは一見「高品質な物財」ではありますが、今の日本で品質に着目して買っている人など少数派でしょう。高品質といっても、ある程度のレベルまでいってしまえば、30年とか100年単位で使って壊れるか壊れないかという話になるでしょう。親から子や孫へと渡されていく、真の富裕階級だったらそのレベルで正しく物財を評価するでしょうけど、20代30代の年収1000万以下のド庶民にそんな高品質は要らないし、分からない。ルイ・ヴィトンは日本人の大好きなブランドで、推計購入日本人数は2500万人、日本人の5人に一人、成人女性の二人に一人は保有しているくらい行き渡っているそうです。しかし、僕のインディファレントな(冷淡・無関心な)目でヴィトン製品を見ると、どうしてもあれが美しいとは思えない。形にせよ柄や配色のデザインにせよ、そんなに「いいかあ?」って思いますね。高品質って言われても「なにがよ?」って思う。でも、そんなこたあどうでもいいのでしょう。ある特定の階層やグループにいる日本人にとって、ヴィトンを保有することによって何らかの精神的満足をもたらす点に意味があるのでしょう。
この本にも書いてますが、ブランドというのは本来、とある名工の超越的技巧の結晶(柿右衛門の陶磁器とか、ストラディバリウスのバイオリンとか)、あるいはその地方での卓越した高品質(ゾーリンゲンの刃物、西陣織など)という確固とした付加価値がありました。あくまで物財に付随した付加価値です。高品質。「良いモノ」です。ところが、80年代になると、そういった物財的付加価値が抽象的になります。例示されているエルメスはもともとは馬具屋さんで、皮革加工メーカーです。だから、皮革加工技術を応用して、ハンドバックやベルトを作るというのならまだ分かる。しかし、スカーフとかになると話は別でしょう。馬の鞍を作ってる人がスカーフ作っても、意味ないでしょ。でも売れる。なぜか?人々の興味の焦点が、段々物財から離れていった、抽象的なブランド価値だけが重視されるようになったからでしょう。
今のブランドは、ブランドをブランドたらしめている本来の理由と関係なく売れています。卓越した超人的技術や高品質ということもあんまり関係なくなった。はたまた、持っている人が非常に少ないので自慢できるという稀少性も、二人に一人がヴィトンを持ってたら関係ないです。ブランドが売れるのは「それがブランドだからだ」という、まるで禅問答みたいな奇妙な状況になっています。言ってみれば、あんなもん「記号」ですよね。お約束です。「社会的主観」とこの本では表現されてますが、その社会で、なんだか分からないけど「良い」と一定数以上の人数が思えば、そういう実体ができてくるという。
「鰯(イワシ)の頭も信心から」という古い日本のコトワザがあります。とある宗教でご本尊がイワシの頭という生ゴミ同然のものであったとしても、皆がこれを価値あるものだ、ありがたやありがたやと拝んでいたら、なにやら価値あるもののように思えてくるという、宗教なんてそんなもんでしょというクールなコトワザです。だから、「ヴィトンのバッグも信心から」ですよね。なんであれ、そこに社会的なお約束が込められたら、それは実体化する。陰陽師的にいえば、そこに「呪(シュ)」がかけられる。人間なんか社会的動物で、他人からどう思われるかで自分の幸不幸なんかいとも簡単にかき乱される。皆がブランド物をもっていたら、持っていないだけでなにやら一人前でないような、見下げられ、軽蔑されているような気がする。また同じブランドでもレア製品を持っていることで賞賛されれば、自分がなにやら実体以上に認められたような言い気分になれる。
でも、僕は、これを別に愚かなことだとは思わないです。価値も分からず、ブランドに狂奔する愚劣な日本人と言ってしまうのは簡単ですし、客観的に見れば醜悪ですけど、でも人間なんかそんなもんでしょ、って思います。特に「恥の文化」を今も濃厚に残している日本社会において、他人様の侮りを買うということは万死に値する恥辱だもんね。オージーのように、デブだろうが楽しそうにヘソ出して歩ける社会ではない。「他人にどう見られるかが全て」といってもいい社会なんだから、当たり前っていえば当たり前でしょう。本当に自分に自信があれば、ブランドなどに頼らずとも良いはずなのは正論ですが、その論でいけば、浮浪者のようなみすぼらしい格好で歩いていても堂々としていればいいです。寒さに問題がなければ、パンツ一丁で歩いたっていいハズです。「自信があれば恥はない」という正論からすればね。でも、そこまで自信がある人間なんか一握りです。要は何をもって「恥かしいと思うか」です。そして「恥かしいと思うかどうか」という主観的価値によって物事が展開しているわけで、そこには物財性は無い。
いずれにせよ、物財そのものの価値から、焦点は主観に移って来たのだと思います。
堺屋氏は、経済のエキスパートだから、『知価社会』という格調の高い言葉を使ってますが、僕はもっとざっくばらんに『主観社会』なのだろうと思います。「知価」というと、その物財やサービスが持つソフトウェアとしての側面=知的付加価値という、まだしも理性的なニュアンスが残っているように思いますが、僕はもっと非理性的な「思い込み」である主観そのものであるように思います。
つまり1970年代が終わり、80年代に入るにしたがって、物財という客観的な価値から、主観という価値にシフトしてきているのでしょう。最初は、単なる高額化、高品質化という成金趣味的な方向でいってましたし、戦前戦後の絶対的物財不足を経験した世代が中枢を担っていたこともあり、高級物財主義なのか精神主観主義なのか区別が曖昧だったけど、段々90年代、2000年代と続くにつれ、精神性みたいなものがはっきりしてきたように思います。
こうやって考えていくと、現在から未来への社会の構造と流れが何となく読み解けてくるよな気がします。錯覚かも知れんけど(^^*)。でも、あれこれ考えたり、考えさせられたりするのはボケ防止くらいに役に立つだろうから、さらに続けます。
ここで考えたくなるポイントは沢山あります。一つは、なんで70-80年代に物財主義から主観主義に時代が移ったのか?これが一つ。もう一つは、主観主義への以降と、ここ20年くらいの日本社会の動きとを重ね合わせたとき、なにがどれだけ符合するか?さらに、物財→主観というように簡単にポンと移行するものではなく、他にも社会を構成するタテ糸ヨコ糸は多々あると思うのだけど、それは何か。そして、将来的にどうなっていくのか?さらに我々個々人の人生設計みたいなものはどう構成していけばいいのか?です。沢山あるでしょ?
まず、最初に何故こういうシフトが生じたのか?ですが、これはこの本に詳しいです。一つは70年代以降、環境問題・資源問題というものを真剣に考えるようになったことが挙げられています。最初は公害。工場が沢山出来てモクモク煙を吐いて、戦後日本の復興だ、万歳!ってやってたメンタリティが、水俣病その他の公害病患者の実態によって冷水を浴びせ掛けられました。僕も未だに覚えてますが、公害関係のTV画面に写った猫の映像。猫が狂ったように、もうなんともいえない不気味さで、狂ったように舞踏しているのですね。あれは背筋が冷たくなるくらいのショックだったです。続けてやってくるのがオイルショック。資源が有限であるということ、いつまでも能天気に喜んでいられるわけではないことを教え込みました。これは日本だけのことではないです。全世界的(先進国だけだけど)にそうだったようです。資源問題、環境問題は、研究成果の蓄積と深化によって、年を追うごとにクローズアップされていますし、今ではもう当然の話になってきてます。工業化社会が無条件に正義であるとは、もう誰も思わなくなっていった。70年代は「消費は美徳だ」と言われていました。でもオイルショック以降は「節約は美徳だ」と言われるようになりました。これ、本当にそういわれていたのですよ。リアルタイムにその時代に生きていない若い人にはピンとこないでしょうけど、大マジにそう言われていたのです。
前回世界史のおさらいをしたように、森林破壊をして薪炭エネルギーが枯渇した時点で、古代文明は滅び、それから人類は長い暗黒の中世に入るように、人類というのは、「ガンガンいったらんかい!」ってノリを失うと、内向きになって、精神的価値を求める傾向があるようです。70年代に、資源も環境も有限であることを思い知らされたとき、やっぱり人類は、「ガンガンいけばいいってもんじゃなさそうだな」と思い、強烈なブレーキがかかったのだと思います。単純に発展していくことが正義であり、幸福であるとは無邪気に思い込めなくなったのでしょう。70年代のヒッピー文化なんかもその表れなのかもしれません。
ただ、一直線にそうなったわけではなく、オイルショック以降、産業界は猛烈な省エネに取り組み、相次ぐ技術革新で、生産においても非常にエネルギー効率が良くなった。少ない資源でより多くの物財を生産できるようになった。また、技術革新よって隠れていた新油田が次々に発見され、毎年の消費量よりも新発見する油田の埋蔵量の方が多いというときもあり、エネルギー問題はちょっと一息つけました。そういった背景もあり、80年代から90年代の始めまで、いきなりドーンと内向きになるのではなく、そこそこ従来の路線を維持してやっていくことは出来た。でも、もう以前ほど無邪気にはなれないし、飽食した先進国の人々は量よりも優秀な品質を求めた。それが世界の金ピカ80年代→バブルを産んだのでしょう。実際、80年代の音楽は、聞いたらすぐに分かりますよね。「ソフィスティケイトされた」というか、独特のピカピカ感があります。
まあ、色々なニュアンスはあると思いますが、豊かさこそが幸福であり、豊かさこそが強さであり、豊かさこそが全てであると、素直に信じられなくなったというのはあるでしょう。産業革命以降、人類はずーっとそれでやってきたわけですからね。それが「あれ?」となった。
1989年にベルリンの壁が崩壊し、社会主義というものが歴史的意義を終えたといわれています。まあ、今も中国や北朝鮮や社会主義を標榜している国は沢山ありますけど、実質的にはソ連の崩壊で終わりでしょう。それもこれも、物財をベースに据えた発想というものが時代遅れになったからではないかと、堺屋氏は指摘しています。社会主義にせよ、自由主義にせよ、行くつく目標は同じで、より豊かな物財をより広く人民に行き渡らせるのは、@優秀で公正な官僚が計画して無駄を少なくした方がいいか、A各個々人の私利私欲をエネルギー源として競争をさせた方が結果としてよくなるのか、という方法論の違いに過ぎない。社会主義が崩壊した時点で、自由主義が「勝った」とか言われますが、そういったゲーム自体が時代遅れになったというのが正しいのかもしれません。
でも、日本は明治維新の富国強兵、戦後の高度成長と、欧米諸国が100年以上かけてやってきたものを、わずか数十年で濃縮してやろうとしたため、戦前の大政翼賛会、戦後の官民協調路線と、社会一丸となって、より迅速に工業化社会を作ろうとしてきました。これは前回ちょっと述べましたけど、今改めて思うと、「よくぞここまで!」と思うくらい徹底したものになってます。堺屋氏の言葉を借りれば『最適化工業社会』です。工業社会というのは、新製品を作る→皆が買う→採算ベースに乗るので値段が下がる→もっと皆が買う→企業は利潤をあげるけど新たな設備投資をしてさらに新製品を出す→皆が買うというサイクルによって成り立ちますが、これがビデオの高速再生のように早く展開させようとすれば、@一つの新しい商品を出来るだけ短時間に国民全員が買ってくれること、A当期利益を株主に配当するのではなく設備投資に廻すこと(株主無視)の条件が整えば整うほど良い。
@に関して言えば、国民のニーズが多様化したら困るから、出来るだけ「せーの」で皆に同じモノを買って欲しい。そのためには国民のニーズをそろえる必要があり、さらにそのためには、皆が同じような生活水準&購買能力で、同じようなライフスタイル、同じような情報を得ているのが好ましい。また、あえて国民のニーズをかき乱すような別系統の新商品を売らないように官僚が強い力で指導した方がいい(VHS開発の際に、通産省はソニーのベータ方式に統一するのが好ましいので開発を中止するように要請したのは有名な話ですね)。労働力、つまり将来のサラリーマン予備軍になる学生達も、出来るだけ似たようなライフスタイルで、似たような考え方をしてくれた方が好ましい。「人生の選択肢は多様である」ということに気付いてもらいたくないとかね(^_^)。
大当たりですよね。これ以上の成功は望めないくらい、日本の工業化社会は大成功しました。だから「世界史の奇跡」と呼ばれる高度経済成長も出来た。「奇跡」なんかハンパな根性では達成できません。本来自由であるべき個々人の内心や良心、世界観までコントールして初めてなしえたものなのでしょう。もっともコントロールしようというそこまでの悪意はなかったでしょうし、現実的な選択肢としてはそれがベストであったという客観的状況もあろうかと思います。
しかし、それもこれも70年代、80年代までのことです。ゲームが終わり、新しいゲームが始まったのだけど、心の底まで旧ゲームに侵食されてしまった僕らは、「さあ、新しい時代ですよ、新しいことをしよう」と言われても、「何を?」と戸惑ってしまうでしょう。明日も明後日も見えないまま、旧来のゲームの前提だった社会的条件や確信が一つ一つぶっ壊れていきます。バブル崩壊で土地神話は破壊され、その後の不況で終身雇用は崩壊し、株式の相互保有による安定経営は最近ホリエモンや村上ファンドなどで話題になってるM&A買収でどんどん変わってきている。
もし本当に、これが大きな歴史の転換点だとしたら、日本の将来なんか分からなくて当然でしょう。明治以降やってきたゲームが終わったんだから。大袈裟にいえば、また江戸時代末期に逆戻りしたようなものなのです。そんでもって、どういう時代か?なんてことは、その時代が終わってみないと分からんです。人類史的な転換点だとしたら、この新しいゲームは、この先500年くらい続くかもしれません。過渡期なんてのも100年くらいの単位で続くのでしょう。結局、僕らが生きている間には、なんだかよく見えないまま終わってしまう可能性大です。世界的に見ても、「今後世界はこの方向に動く」と自信を持って断言してる言説は少ないように思います。なんかありますか?
とかなんとか書いているうちに所定の枚数にいってしまいました(今年から短めがモットーですから、僕が使ってるエディターで200行くらいと決めてます)。以後、次回に続きます。簡単にサワリを述べておきます。
もし主観的な時代がやってくるとしたら、これまでみたいに「国家社会が成長して自分も幸福になる」というパラダイムを捨てるべきかもしれない。これまでの国家社会の役割は、物財生産流通という経済機構としての意味が大きかった。しかしそこにゲームの焦点が来なくなると、国家社会というのは別に大きく成長しなくてもいいのかもしれない。また、国家社会の発展と、個々人の幸福とをハッキリと切り分けた方がいいかもしれない。そうでないと、主観の時代、精神性の時代というのは、中世みたいなものだから、ある種宗教がかってくるリスクがある。西欧中世の魔女狩りのような狂信的なものも入ってくるかもしれない。だから、精神性の強い時代に、国家社会とか団体的なものが入ってくると、集団催眠、集団心理みたいになって、ある場合はファシズムに、ある場合には宗教国家になりうる危険があると思うし、既になりつつあると思う。物財中心主義、マテリアティズムというのは分かりやすいんですよ。物が豊富だったらOKなんだから。迷いが少ない。でもそこに寄りかかることが出来なくなると、人は「迷える子羊」状態になります。なにかに「救い」を求めるようになる。だから、精神性が強くなればなるほど、集団性というものを強く切り離す必要があるんじゃないかということ。
第二に、日本社会の現状は、これまでの物財主義的ベクトルが頑強に残っている反面、新しい精神性文化が広がってます。80年代の「ゆとり」から90年代以降の「癒し」にいたるまで、精神的価値を重視するという時代に合ったベクトルが台頭してきています。ただし、これらの新旧潮流は、単に対立するものではなく相互補完関係に立たせるべきだし、精神というのも食えてこそ初めて言えるセリフです。
物財ベースの統合社会という強烈なタガが外れてきているから、個々人レベルで精神性重視のためにスピンアウトする現象が増えるでしょう。物財的客観的なものが人々の幸福感に及ぼす影響力が低下してるから、物財の多寡に関わり無く、「好き嫌い」で動く人が増えてくる。ネガティブな面でいえば、ワケのわからない精神的理由による犯罪が増えるだろうし、働いたり金を稼ぐことに積極的価値を感じないニート的な人も増えるだろうし、個人のディープな趣味に浸るオタク的な人も増えるだろう。ポジティブ面でいえば、従来の価値観にとわられないで、自分の好き嫌いに忠実に、新しい試みをする個人が草の根的に増えていくだろう。例えば採算度外視で”こだわり”を持つお店であるとか。まあ、言ってみれば、僕なんかもそうですよね。弁護士という物財とステイタスにさして未練も感じず、自分個人の好き嫌いだけを物差しにオーストラリアにポンとやってきてるわけですから。ただ、好き嫌いで生きていくためには、通常以上の経済感覚がないと廻っていきません。物財を否定したって食わなければ餓死するのは誰もが同じなのだから、そのマネージメント能力はかなり重要。以前にもまして重要だと思います。相互補完というのはそういう意味です。
物財統合社会の崩壊によって、誰もが護送船団に乗れる時代ではなくなった。新しい時代における、勝ち組/負け組というのは、それに代わって人生を掛けられるだけの個人的な「好き嫌い」を見つけられるかどうかにかかってるとは思うけど、一足飛びにそういう社会にはならないでしょう。好きも嫌いもないまま、船団解消によって、個々人の経済的浮沈がバラバラになり、日本はナチュラルにある種の階層社会になるでしょう。本当は、多少そのくらいのバラつきがあった方が自然なのだと思うけど、今までの時代感覚でいえば中々そうも思えないでしょう。「ナチュラルなバラエティ」を上下関係的な階級や階層として捉えるものの見方が広がるでしょう。ゆえに、悪いリアクションとしては、目先の小金にこだわる拝金主義的な潮流も増えるでしょう。オレオレ詐欺からデイトレーダーまで、結局同じ根っこのような気がします。また、「セレブ」のような階級性を強く意識させる言葉が流行るとかね。
このあたりのことをもう少し細かく考えていきたいと思います。
文責:田村
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