間に3回「不思議な日本の不況」という経済時事話を入れたので、連載モノがどこまで進んでいたのか分からなくなっちゃいましたね。
えーと、世界史シリーズは、
ESSAY 439/世界史から現代社会へ(その88) 韓国・朝鮮(5) 日本統治下の朝鮮半島まで、「性賢説と性愚説」は
ESSAY 438/その5 教育と”教育産業”の違い 〜家元制度というシステムまででした。
すると、今回は順番からいって性賢説の第6回になりますかね。
えと、、、何の話でしたっけ。。。?(笑)
一応過去回を書いておきます。別に復習なんかしなくてもいいですけど。
第1回(No.430) 「この世にはどうしようもないバカがいること」を前提にする社会としない社会
第2回(No.432) 日本の性賢説的名人養成英才教育と道具観
第3回(No.434) 全員が名人だった江戸期日本、町人カルチャーと私学の興隆、成長快感をシェアする社会
第4回(No.436) 教育界の革命児・千葉周作と嘉納治五郎
第5回(No.438) 教育と”教育産業”の違い 〜家元制度というシステム
話の発端は、"idiot proof"という言葉に始まり、西欧社会における「この世にはどうしようもない馬鹿がいる」ということを前提にした世界観と、そういうことを前提にしないかのような日本の世界観の対比を書こうとしたものです。そして古代日本の宮大工の伝統が現代まで生きている例を挙げ、その技術水準の途方もない高さ、それを当たり前のように教育していく名人英才教育をみることで、日本社会の伝統的な教育観(人間観)を考えました。一方、江戸期になると、プロフェッショナルな職人教育の他にいわゆる”習い事”=教育産業が勃興していき、その”業界の論理”ともいうべき家元制度と、それを打破した千葉周作と嘉納治五郎の革命性を見ました。
第2〜5回までで、日本社会には二つの教育の流儀があることが分かります。一つは職人教育であり、これは「誰でも名人になれる」という性賢説的前提に立ったものです。もう一つは、習い事・教育産業における家元制度システムであり、これは受講生の技術の向上だけではなく教育機関そのものの存続と繁栄が巧みに組み込まれているシステムです。
しかし、家元的なシステムは、一種の業界論理&メカニズムであり、日本人が本来持っている人間観や教育観とはダイレクトには関係しないでしょう。ここでいう人間観・教育観というのは、「世間にはどうしようもない馬鹿がいるので、何をどう教えてもムダである」という苦い諦念があるのか、それとも「いや、人は本来的に賢いので、きちんと教えれば誰でもそれなりの水準に達する」という楽天性があるのかということです。家元的教育産業にとっては、どちらでも良いし、どちらでも成り立つ。まあ、営業的には、消費者が性賢説的楽天性に立ってくれた方が、「俺も頑張れば○○になれるかも」と希望を抱いてくれるので、マーケットの拡大に役立つから好ましいでしょう。しかし、本気で性賢説を全開にしていったら、いずれは家元や宗家と同等かそれ以上の実力のある巨匠がバンバン輩出されてしまうので、団体の存続という意味ではむしろヤバいです。だから、そのあたりをコントロールするために、奥義を出し惜しみしたり、他で独立営業できないようにネットワークで縛りをかけたりというシステムが発達しています。だから性賢説・性愚説、どちらにも対応できるようになっているし、なっていないと困る。話は組織の存続であり、人間をどう見るか、ではないのですから。
だから、性賢説的議論においては家元的教育産業は、本来的に関係ありません。しかし、本来的に関係ないもののだけど、現実問題としては関係してくるのですね。第5回の後半にも書きましたが、家元制度そのものではなく、家元”的”なメカニズムや発想は、現代の日本にも色濃く残っています。それが例えば、東大&慶大医学部を頂点とする日本医学界のヒエラルキーであったり、大学アカデミズムの閉鎖性であったり、官僚社会における東大閥であったり、旧財閥系を中心とした企業集団であったり、資格系ビジネスにおける業界規制であったり。あるいは、ホメオパシーのように、日本においては比較的新しい学問・職業技芸においてすら、草創期の人々や集団の活動が、ともすれば家元的な方向に赴いたりする可能性もあるでしょう。新興分野においては、まずは素朴な形で連絡協議会のような業界の寄り合いのような団体が出来、やがては学会ができ、業界単位での資格を認定しようとしますが、そこに各近隣既存業界の思惑が入り乱れ、さらに許認可権限を持つ官庁から天下りがあり、、という流れもあります。
語学学校研究のところでちょっと触れた児童英語教師の資格(J-Shine)においても、似たような流れがあるのではないかと思われたりもします。
もっとも、これは一概に悪いこととも言えません。教育を生業としてやっておられる人にしてみれば、その収益構造の維持というのは死活問題でしょうし、また劣悪な業者を淘汰し、業界全体の水準と信用をキープしようとするのは、その意図において何ら悪いことではないです。ただ、業界内部の一集団があまりにも独占的に成功してしまうと、本来の教育的意味から離れていってしまう危険性があるということです。そして、教育者といえども霞を食って生きているわけでもないことから、教育における消費者(受講生)と供給者(教育機関)の関係は、一般の経済社会と何ら変わるところはなく、時として対立構造になったりもします。
今はその詳細や是非を問うのは本義ではないです。ただ、日本における性賢説〜教育論のエリアに目を向けると、そーゆー要素(供給者の論理)が混入してくることもあるのだ、ということだけ指摘しておきます。