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今週の1枚(09.12.28)






ESSAY 443 : 性賢説と性愚説(その6) 〜公教育における供給者の論理と「選別」の要素 


 写真は、全開引き続き、QLD州Sunshine CoastのCaloundraという街で撮った一枚。海辺のリゾートホテル、メゾネット式ペントハウス、室内スパ・ジャグジー付きという豪華版を超直前にブッキングしたのですが、なんと二人で一泊1万円そこそこでした。
 写真は、その部屋のベランダから真下のカフェや海岸通りを撮ったもの。こちらの正月ってこんな感じです。




 間に3回「不思議な日本の不況」という経済時事話を入れたので、連載モノがどこまで進んでいたのか分からなくなっちゃいましたね。
 えーと、世界史シリーズは、ESSAY 439/世界史から現代社会へ(その88) 韓国・朝鮮(5) 日本統治下の朝鮮半島まで、「性賢説と性愚説」はESSAY 438/その5 教育と”教育産業”の違い 〜家元制度というシステムまででした。

 すると、今回は順番からいって性賢説の第6回になりますかね。
 えと、、、何の話でしたっけ。。。?(笑)

 一応過去回を書いておきます。別に復習なんかしなくてもいいですけど。
 第1回(No.430) 「この世にはどうしようもないバカがいること」を前提にする社会としない社会
 第2回(No.432) 日本の性賢説的名人養成英才教育と道具観
 第3回(No.434) 全員が名人だった江戸期日本、町人カルチャーと私学の興隆、成長快感をシェアする社会
 第4回(No.436) 教育界の革命児・千葉周作と嘉納治五郎
 第5回(No.438) 教育と”教育産業”の違い 〜家元制度というシステム



 話の発端は、"idiot proof"という言葉に始まり、西欧社会における「この世にはどうしようもない馬鹿がいる」ということを前提にした世界観と、そういうことを前提にしないかのような日本の世界観の対比を書こうとしたものです。そして古代日本の宮大工の伝統が現代まで生きている例を挙げ、その技術水準の途方もない高さ、それを当たり前のように教育していく名人英才教育をみることで、日本社会の伝統的な教育観(人間観)を考えました。一方、江戸期になると、プロフェッショナルな職人教育の他にいわゆる”習い事”=教育産業が勃興していき、その”業界の論理”ともいうべき家元制度と、それを打破した千葉周作と嘉納治五郎の革命性を見ました。

 第2〜5回までで、日本社会には二つの教育の流儀があることが分かります。一つは職人教育であり、これは「誰でも名人になれる」という性賢説的前提に立ったものです。もう一つは、習い事・教育産業における家元制度システムであり、これは受講生の技術の向上だけではなく教育機関そのものの存続と繁栄が巧みに組み込まれているシステムです。

 しかし、家元的なシステムは、一種の業界論理&メカニズムであり、日本人が本来持っている人間観や教育観とはダイレクトには関係しないでしょう。ここでいう人間観・教育観というのは、「世間にはどうしようもない馬鹿がいるので、何をどう教えてもムダである」という苦い諦念があるのか、それとも「いや、人は本来的に賢いので、きちんと教えれば誰でもそれなりの水準に達する」という楽天性があるのかということです。家元的教育産業にとっては、どちらでも良いし、どちらでも成り立つ。まあ、営業的には、消費者が性賢説的楽天性に立ってくれた方が、「俺も頑張れば○○になれるかも」と希望を抱いてくれるので、マーケットの拡大に役立つから好ましいでしょう。しかし、本気で性賢説を全開にしていったら、いずれは家元や宗家と同等かそれ以上の実力のある巨匠がバンバン輩出されてしまうので、団体の存続という意味ではむしろヤバいです。だから、そのあたりをコントロールするために、奥義を出し惜しみしたり、他で独立営業できないようにネットワークで縛りをかけたりというシステムが発達しています。だから性賢説・性愚説、どちらにも対応できるようになっているし、なっていないと困る。話は組織の存続であり、人間をどう見るか、ではないのですから。

 だから、性賢説的議論においては家元的教育産業は、本来的に関係ありません。しかし、本来的に関係ないもののだけど、現実問題としては関係してくるのですね。第5回の後半にも書きましたが、家元制度そのものではなく、家元”的”なメカニズムや発想は、現代の日本にも色濃く残っています。それが例えば、東大&慶大医学部を頂点とする日本医学界のヒエラルキーであったり、大学アカデミズムの閉鎖性であったり、官僚社会における東大閥であったり、旧財閥系を中心とした企業集団であったり、資格系ビジネスにおける業界規制であったり。あるいは、ホメオパシーのように、日本においては比較的新しい学問・職業技芸においてすら、草創期の人々や集団の活動が、ともすれば家元的な方向に赴いたりする可能性もあるでしょう。新興分野においては、まずは素朴な形で連絡協議会のような業界の寄り合いのような団体が出来、やがては学会ができ、業界単位での資格を認定しようとしますが、そこに各近隣既存業界の思惑が入り乱れ、さらに許認可権限を持つ官庁から天下りがあり、、という流れもあります。語学学校研究のところでちょっと触れた児童英語教師の資格(J-Shine)においても、似たような流れがあるのではないかと思われたりもします。

 もっとも、これは一概に悪いこととも言えません。教育を生業としてやっておられる人にしてみれば、その収益構造の維持というのは死活問題でしょうし、また劣悪な業者を淘汰し、業界全体の水準と信用をキープしようとするのは、その意図において何ら悪いことではないです。ただ、業界内部の一集団があまりにも独占的に成功してしまうと、本来の教育的意味から離れていってしまう危険性があるということです。そして、教育者といえども霞を食って生きているわけでもないことから、教育における消費者(受講生)と供給者(教育機関)の関係は、一般の経済社会と何ら変わるところはなく、時として対立構造になったりもします。

 今はその詳細や是非を問うのは本義ではないです。ただ、日本における性賢説〜教育論のエリアに目を向けると、そーゆー要素(供給者の論理)が混入してくることもあるのだ、ということだけ指摘しておきます。


もう一つの混入要素〜公教育と選抜システム


 教育業界における供給者の論理は、家元的なシステムの他、実はもう一つ巨大なシステムがあります。公教育です。

 公教育というのは、要するに僕らが普通に通っている小学校や中学校、さらには国の助成と指導要領によってコントロールされている高校や大学などのことです。元来教育というものは、親ライオンが子ライオンに狩りを教えるように、家族によってなされる極めて私的なものでした。これに丁稚奉公や徒弟制度のような職業教育が重なり、さらに上にみた”習い事”な教育産業が重なります。国家などの公的機関が、パブリックに教育をやるのが公教育ですが、この歴史は実は非常に浅いです。日本においては明治5年(1872)の学制公布に遡ります。西欧においては、ルネサンス〜啓蒙思想などの知的活動が政治に与える影響が強かったので近世において活発に議論されていましたが(ルソーの「エミール」とか)、それでもカッチリした形で誰でも通学できる公教育制度が成立したのは、19世紀になってからの話で、日本とそれほど大差ありません。

 僕らは「教育」といえば学校教育=公教育と考えがちですが、そんなもん、700万年とも500万年といわれる人類史からしたら、たがだか直近100年ちょっとの話です。電話帳一冊が人類史だったら、最終ページの最後の活字1コか2コ分の比率しか占めません。いわば誤差レベルであり、「人類は公教育制度を持っていない」と言い切ってしまってもアバウト間違いではないです。そんな出来たてホヤホヤの、新参システムであっても、あってしまえば世界開闢(かいびゃく)の昔からあったかのような気がするから不思議なモンですね。

 では、ここ最近(百年ほど)になって急に公教育なんぞをやり出したのでしょうか。まあ、言うまでもなく、「子供の健全な発達のため」なのでしょうが、でもそんなことは500万年前から変わってない。親や大人達が子供を思う情愛の深さは昔も今も同じです。それなのに、何を最近になってから、いきなりバタバタやり始めたのか?です。社会がフクザツになったから、等いろいろな理由があるのですが、二つの大きな潮流があると思います。一つは、「子の福利」という福祉国家・行政国家的な論理、もう一つは国家・社会側の要求・都合です。

 はい、ここで国家論についての簡単な復習です。高校の倫社(or 大学のパンキョー)でやったと思うのですが、その昔はレッセ・フェール(自由放任)という言葉やラ・サールという人が唱えた警察国家論のように、国家は出来るだけ引っ込んでいろ、どうしても国家でなければ出来ない仕事(警察とか)をやってりゃいいんだ、という、いわば必要悪みたいな国家論です。しかし、産業革命〜資本主義と続く流れで、貧富の格差が増大し、これまでとは違った形で世の悲惨が蔓延するようになってから、国家は積極的に何かすべきだという流れになりました。極論すれば、資本主義をやめて全部国家が管理しろという共産主義や社会主義になるのですが、そこまでいかないにせよ、国民の社会保障のために国家は動くべきだという主張がメインになっていきます。表現の自由や思想良心の自由など「俺の自由を国家は邪魔すんじゃねえ」という国家権力を排除すればそれでOKだった古典的な人権に加えて、生存権、労働権、教育権という「20世紀型人権」が生じてきます。その流れの中で、子供の教育権(教育を受ける権利)、そして親の「子供に教育を受けさせる義務」が唱えられ、コンパルソリー・エデュケーション、すなわち義務教育という概念が登場してきたのですね。

 これだけだったら、青い空に白い鳩が羽ばたいていく背景画像に、人権の理念の実現!と高らかに歌いあげてパチパチと拍手してればそれで良いのですが、世の中、そんなキレイゴトだけで廻っているわけではありません。時代背景的にいえば、富国強兵、です。帝国主義的潮流の中で、国を豊かに強くしていく、強い国でなければ生き残れないという厳しい現実があったわけです。また兵器や戦略の進化によって戦争の概念が変わります。中世のような一部の武士・貴族階級による優雅な戦闘ではなく、近代戦争においては国家あげての総力戦になります。国民一人一人を鍛え上げ、戦場で、あるいは国家経済を発展させる人材に育て上げる必要があります。国民皆兵です。徴兵制も出来ます。そして強い軍隊、強い経済を実現するためには、国民がアホだったら話にならない。マニュアルを配っても、字が読めない奴が沢山いたら話が前に進まないわけで、だから最低限使える人材を国家レベルで錬成する必要があった。明治政府が、いきなり身分制度を廃止し、四民平等をブチ上げ、教育制度をいきなり整備し始めたのも、ヒューマニズムの理念も勿論ありましたが、同時に、日本を成り立たせるためには、日本人一人残らず参加させなければならないという切羽詰まった事情もまたあったのでしょう。

 かくして、子供の福利という高らかな理想と、国家利益の追求(そのための人材養成)という表と裏の二つの潮流によって、公教育制度というのは成立していった、と僕は思います。

 公教育制度というのは、理念は美しいし、その重要性を決して否定するものではありませんが、今回のシリーズを書いているうちに、公教育には潜在的に大きな副作用もあるように思えてきました。僕個人は、小学校から高校までずっと公立学校だったし、それで不満も無かったから、さして問題意識もなかったのですが、人類史レベルで考え直すと、つい最近出来たばっかりの制度であり、且つ成立についてどっかしらウサン臭い要素がつきまとっているようにも思えるのです。で、なにが胡散臭いのかなと考えていたら、前に述べた家元制度と同じく、教育とはいいながらも「供給者の論理」がどうしても混入してくるからなのですね。

 明治時代は富国強兵であり、第二次大戦中は宗教がかった皇民教育でした。戦後の民主主義でそれが一掃されたかというと、皇民教育の方は一掃されたのですが、その代り「企業戦士を育成・選抜する」という、また違った供給者の論理が出てきました。過去のエッセイにも書きましたし、ワーホリで来られる人にも時々聞くのですが、どうして中学・高校の勉強があんなにクソ面白くないのか、その理由を知ってるか?と。あれは面白かったら意味がないのですね。企業戦士、優秀なサラリーマン、組織人として必要される人間的資性と能力は何でしょう?僕が思うに、煎じ詰めれば、「優秀な事務処理能力と従順な性格」でしょう。優秀で従順な奴が一番使いやすいのです。企業の歯車として有用です。言われた仕事をキチンと成し遂げるだけではなく、気を利かせてもう半歩先までやっておいてくれる部下はいいよね。そして従順。その逆に、無能なくせにイチイチつっかかってくる部下は、僕でもブッ飛ばしたいですわ。ろくに仕事もしないくせに、「それ、何の意味があるんですか?」とか議論をふっかけてくるような奴は、速攻クビにしたいですね。歯車にすらなりきれないハンパな野郎がイキがってんじゃねえ!って。だからこそ、クソつまらない勉強をやらせて、「優秀で従順」かどうかを判定するのでしょう。優秀でも従順でなかったら弾き出されるようなシステムにしておく、と。

 企業(=日本という国家社会と言い換えてもいいし、日本人の大人の総意と言ってもいいでしょう)が、そういう優秀で従順な人材を求める以上、その部品工場のような公教育においても、それに準拠したシステムが構築されて当たり前です。露骨に言ってしまうと眉をしかめる人も多いでしょうが、しかし、そのシステムや価値観を僕らは皆で支持してるんですよね。学校で優等な成績を取る生徒は、なにかしら人間的に優秀であるかのように思い、どこかの子供が東大に入れば周囲の大人は褒めそやかし、誰でも知ってる有名企業に入社できたら、それが人間的に優等であるかのように思い、その価値観は、例えば結婚式などあらゆる公的席次に反映されていく。大学入試は、本人の人生の夢や希望は度外視され、偏差値的な輪切り進路指導に成り下がり、今尚お受験が盛んになっている。

 日本という社会システムにおける価値報償体系は、優秀で従順な歯車に最も多くを報い、最も経済的・社会的に豊かな人生を保障する。受験に勝ち抜き、出世にも勝ち抜き、官僚や大企業の幹部になり、天下りし、巨額な退職金と悠々自適な老後をプレゼントしてくれる。それが戦後の日本社会の大きなゲームのルールでした。そういうゲームをやる以上、公教育もまた、好むと好まざるとに関わらずそれに適応せざるを得ない。それを良しとしない生徒や教育者、いわゆる熱血先生は、教育委員会や親から弾き出される。

 もちろん、日本の全ての公教育や、教育関係者や親達が、そこまでアホになりきってるわけではないです。当然疑問も出てくるし、大学入試に一芸入試制度を盛り込んだり、最近批判の強いゆとり教育なんかもその改革の表れでしょう。しかし、日本というシステム、それも高度経済成長時の日本があまりにもそれにしっくり噛み合わさっていたため、教育現場という”末端”での努力だけではいかんもしがたいのが実情だったと思います。それに70年代の前半くらいまでは、日本も適度に「いい加減」だったし、そんなにピッチリと管理社会にもなってなかった。社会はガンガン伸びるから、誰もがハッピーでいられたし、また60年・70年安保や学生運動によって教育機関そのものがガタピシいって今にもぶっ壊れそうだった。だからいい具合に風通しが良かった。しかし、70年代中期から後半になり、オイルショックで高度経済成長に水を差され、学生運動も退潮になってきたあたりから、副作用の毒素が強くなり、「落ちこぼれ」という新語が登場、校内暴力が頻発、金属バットで親を撲殺するなどの歪みが出るようになった。現代日本の教育史を語るのが目的ではないのでこのくらいにしますが、公教育といっても、100%子供の福利だけを考えてやっているわけでもなく、そこには国家社会(大人)の思惑=供給者の論理が働くということです。

 「供給者の論理」は、その時々の社会のあり方によって「求められる人間像」がコロコロ変わるだけではありません。それが税金によってまかなわれ、校舎や教師という物的人的インフラを伴う以上、予算その他の限界が当然出てきます。ベビーブームで生徒が多くなれば、一クラス50人以上の過密状態で授業をするし、人口過疎になれば統廃合も行われる。教師の資格認定においても、「人格」などというファジーな要素では査定しにくいから、教職課程履修とか、ペーパーテストと面接のような感じでやらざるを得ない。また均一規格にするため、一律に年齢によるクラス編成をし、子供の成長進度や適性に関係なく、せーので進度を決めます。そのあたりも限界でしょう。

 しかし、これらは本来の「教育」の水準からしたら、かなりほど遠いものでしょう。伝統的な職業訓練においては、マンツーマンで十数年の長きにわたり、場合によっては寝食すらも共にするという、ほとんど24時間体制の濃密な課程を経ます。江戸時代の寺小屋も、殆どがボランティア教師だったそうですが、教師一人あたり数人から多くて十数人程度の生徒比率、しかも進度に応じて一人一人教える内容が違っていたという、準マンツーマンのようなものだったといいます。教育というのは本来のそのくらい手間ヒマがかかるものなのでしょう。公教育などは全体からしたらほんの数%くらいしか占めず、その他は親や周囲の大人達が随時(一生)ことある毎に教えていくものなのでしょう。

 公教育が発達するのは素晴らしいことですが、あまりにも過大評価し、何もかも公教育に期待するのは大きな間違いでしょう。公教育の限界は昔から指摘されていたのですが、だからといって抜本的な是正措置が講じられているわけでもありません。塾や予備校通い、お受験なども、結局のところ良き歯車になるという公教育の副作用を補正するどころか、むしろその歪みを拡大する方向にあるものでしょう。



「選別」という要素、そして視野狭窄


 さて、それが伝統的な性賢説的世界観とどう関わってくるかというと、こういうことです。
 僕がいう性賢説は、人間の潜在力を楽天的に信じる世界観です。人間の学習能力、良心、向上心を素朴に信じ、何年、何十年かかろうとも見捨てずに育てあげていく世界観です。第二回の法隆寺の宮大工さんの言っていた言葉が印象に残っているのですが、親御さんから丁稚奉公として子供を預かった親方は、何年かかろうともその子を一人前の職人に育て上げようとします。子供も弟子も選べず、なかには出来の悪い人間もいるし、成長が遅い人間もいる。それでも10年で覚えなかったら20年かけてでも鍛える。出来が悪いから不合格とか、クビとか、そういうことはしない。そーゆーものだそうです。

 つまりは人を選ばない。万人の可能性を信じ、万人の可能性の上に成り立っているシステムであり、それが千年以上も脈々と続いているという事実です。かといって、それを優れた教育論としてブチ上げるわけでもないし、そもそも教育論だとかそんなことも全然思ってないでしょう。恐ろしく手間ヒマがかかり、あまり合理的効率的とも思えないシステムですが、結果として1400年前の古代人達の最高レベルの技術(それは現代においても尚も最高でありうる)を連綿と伝えてきたわけですから、教育としては最高の実績をあげている。

 性賢説というのは、人を選んだらアカンのですね。出来の良い子だけを選抜し、さらに高等教育を施し、そこからさらに出来のいい子を選別するというのは、僕に言わせたらそれは教育ではない。ただの選別作業であり、言うならば「工程」である。極論をいえば、入試なんてことをやっている学校は、それだけで教育機関としての看板を外すべきなのかもしれません。まあそれは極論にしてもですね、少なくとも「選別」というファクターの入ってる教育は、教育の全てではないし、選別こそが教育の本質なのでもない。そして「選別」というファクターが入ってきてしまった時点で、それは致命的に性賢説的ではなくなってしまいます。

 公教育は、万人に開かれた教育という崇高な理念を持ちながら、そのスポンサーである国家、社会が、「適材適所」の美名のもと、国家社会において求める”優秀な人材”を育成し、選別し、”補給”するという機能を背負わされてしまっている時点で、宿命的に「選別」機能を持ちます。そこに選別という要素が入ってしまえば、必然的に出てくるのは競争原理であり、「競争や勝負に勝つことによって幸せになる」という確固たる価値観であり、そういうシステムです。かくして、選別=競争システムが胚胎時にDNA的に織り込まれてしまった公教育は、どこまでいって競争的システムから逃れられることは出来ず、ゲームの根本ドグマがそこにある以上、何をどういじくってみても、最終的には就職や入試という「競争の場」に向けた予備校的性格を持ってしまう。

 ま、それはそれでいいですわ。そもそも公教育の成り立ちが、帝国主義の富国強兵から来ているのですからね。産業革命や資本主義勃興以降、人類は競争ゲームをやり続けてきています。競争による切磋琢磨が人々の生活を豊かにするという、一面真理な根本原理で世の中動いている以上、「この世間でやっていけるようになるため」の教育がその原理を無視して、浮世離れしたことばかりやってるわけにもいかんでしょう。

 僕が言いたいのは、それによって視野狭窄が起きるってことです。公教育なんぞ、つい最近のポット出の新参者のシステムであり、まだ海のものとも山のものとも分かってないようなものに過ぎない。その母体になった資本主義にしても、「競争に勝つことで幸せになる」という方法論にしても、これまた連綿と続いてきた人類の歴史からしたら、ごくごく最近に流行っているゲームの一種に過ぎない。地球という惑星上で、ホモサピエンスという生命種が生きていくための方法論としては、ほんの一部でしかない。いずれにせよ「最近ちょっとハマってて」程度のことにすぎない。それっぱかしの、食パンの耳程度の質量しか占めないような部分的なことが、あたかも絶対普遍のこの世の真理のようにまかり通っているのが、なんだかな、と思うのですね。法隆寺や、古代工人達の技能にしても、別に競争原理や勝負で作ったわけではないでしょう。

 かといって、僕は何も競争の全てを否定しているわけではないです。人が二人以上いたら、比べてしまうのは人の自然の姿でしょう。「比較」やそれに伴う「選別」は、動物達が配偶者を選ぶように、自然の本能です。子供だって、ほっといたら、背比べをし、駆けっこをします。だから競争も、比較も、選別も別に悪いことではないし、本能の赴くまま大いにやればいい。よく考えてみたら(考えてみなくても)、くっだらないことで僕らは比較し、勝負だ!とか言って燃え、勝ったり負けたりして遊んでます。だから大いにやればいい。競争や勝負って面白いしね。ただし、そんなものは本来は海のようにだだっ広い筈の人生のあり方のほんの一局面に過ぎないってことも、ちゃんと弁えていることが条件です。

 同じように、国家社会が有為な人材を欲するのは自然のことでしょう。そして、国家や社会が組織体として動いている以上、求められる"優秀さ”もまた、組織における優秀な人材であり、組織の和を守り、全体の中での部分を過不足なる勤め上げる能力、つまりは事務処理能力であり、調整型の政治能力です。言うならば昔の内務官僚としての能力。集団の和をブチ壊し、空気を読む気なんかサラサラない破天荒な天才ではない。だから、国家社会をスポンサーとする公教育が、そちら方面にシフトしていくのも無理のないところであり、それはそれで構わないと思ってます。所詮は全体の中の一部の話に過ぎませんし、そーゆー人材だって実際には必要なんだし。


 つまりは視野さえ広ければオールOKだってことです。

 ところがその視野がヤバイんじゃないかって。教育ときけば、学校教育や公教育を思い浮かべ、社会におけるあらゆるサクセスやハピネスは何らかの競争に打ち勝つことによってもたらされると思ってしまうという、度し難い視野狭窄。んなワケねーだろ!って、50センチ下がって見れば誰でも分かることなのに、その50センチが下がれない。まあ、無理ないっちゃ無理ないですけど。なぜなら、公教育によって育てられ、競争原理を打ち勝ってきた連中だけがエリートとしてこの国に君臨し、そしてこの国のシステムを維持運営しているのだから。

 それに僕らだって、学校教育的な世界観や人生観からまだ抜け出していません。例えば、30歳なり50歳になってもまだ、「俺、文系だから」とか「理系だから」とか、数十年前の大学入試のときのカテゴリーを未だに引きずってる奴が結構います。そんな昔の一過性のことで自分の資性を決めつけて憚らないという。同じように、「世界史選択」とか「日本史選択」とか選択科目のことで言い訳いう人もいますね。そして、昔に比べて、その傾向はいよいよ強くなってきているような気がしないでもない。例えば、最近の日本語で気になるのは、男子/女子って言い方です。草食男子とかさ。男子/女子なんて、学校を出たらトイレ以外にまず使うことはない学校用語だった筈なんだけど、それを未だにひきずってるんじゃないか。学校世界なんか、広い世間からしてみたら、川に浮かぶアブク一つみたいな狭い狭い世界なんだけど、それに取って代わるだけの新しい世界に出会ってないのかしらね。だとしたら、視野狭窄の度合いは、昔よりもさらに進んでいるかもしれん。



 以上、日本の性賢説的風景において、家元教育産業と並んでもう一つの混乱要因である公教育でした。
 現在の日本は、昔ながらの性賢説的な思考方法や価値観とともに、家元的要素や、公教育や競争社会における価値観や発想が同時並行的に走っていて、何が何だかよく分からないゴチャゴチャな状況になっているように思います。

 さて、ここで止めてもいいんですけど、そのゴチャゴチャな風景を次に見ていきたいと思います。

 あ、そういえば今年はこれで終わりか。相変わらずオーストラリアには師走のキンパク感がなく、十数年経ってもいまだにピンときません。除夜の鐘のかわりに、ニューイヤーの花火を見るのが恒例と化しているのですが、これはちょっと慣れてきたかな。「新年は花火とともにやってくる」という感覚。では、よいお年を。



文責:田村




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