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今週の1枚(09.09.21)





ESSAY 432 : 性賢説と性愚説(その2)


 

 写真はRozzleにて。一瞬、車が転落していくようですが、別に普通に駐車しているだけです。シドニーは坂が多いのですが、こんな坂結構ザラです。それよりこんな急坂で縦列駐車をするのが大変ですよね。こちらは路上駐車(street parking)がわりと多いので、縦列駐車が上手になります。



 前々回(430回)から引き続いて性賢説と性愚説をやります。

 前回は、日本の性賢説教育の話まででしたね。
 性賢説とは「人はだれでも賢くなれる」という確信がベースにある社会であり、それは教育の場でも反映されるということです。法隆寺の宮大工の西岡さんの話を通じ、伝統的な職人教育のありかた、そこでいう「一人前=名人」というとんでもないハードルの高さをみました。その続きです。

名人を最終照準にした教育カリキュラム


 さて、万人の成長を信じる性賢説社会日本においては、その教育カリキュラムにおいても、最終ゴールを”名人”に設定するとてつもない英才教育システムになっているように思います。「そこそこでいい」という教え方はしない。

 しかし、一人前に成長するには時間がかかります。ましてや名人レベルに達するには途方もない時間がかかります。そんなレベルに照準を合わせているのだから、初心者にはかなり取っつきにくい世界でもあります。

 かつて英語の勉強方法シリーズでも力説しましたが、技術の習得の初動課程は、「基礎の徹底的な反復!」。これに尽きます。日本古来の伝統芸能や職人の世界では、入門者は徹底的に基礎の反復をやらされます。伝統芸能でなくても、ある程度のレベルを目指す集団(甲子園やインターハイを狙うなど)では、最初は基礎ばっかりやらされます。来る日も来る日もひたすら走らされたり、素振りやらされたり。一年生はボールに触らせて貰えないという。

 でも、良く言いますよね、頂点を10メートル高くしようと思ったら、土台を10メートル掘れと。そこそこのレベルで良いのだったら(レジャーとしてのテニスやスキースクールなど)、最初から面白いワザの世界に入ってもいいけど、高いレベルを目指すにしたがって、地味な基礎練を重点的にやらされます。甲子園レベルならまだしも”一年生”という1年単位で話が済みますが、これが最高水準の人間国宝級の名人レベルを照準に合わせるなら、下手すれば10〜20年は下積みばかりやらされるでしょう。頂点が高ければ高いほど、土台を深く深く掘れと。

 しかし、それとて工芸という平和的な世界の話で、これが生死に関わる職業になるとさらに教育は苛烈を極めるでしょう。どこかで読んだ話ですが、日本古来のマタギという猟師の世界では、物心つくかつかないかという幼い頃から毎日毎日銃の肩付け訓練をやらされるとか。素早く銃を構え、一瞬のうちに照準を定め、微動だに動かさない練習。これを何年も何年もやり続け、およそ数百万回やりつづけると銃は完全に身体の一部になり、突然熊に襲われるような事態になってもパニックにならず、自然に身体が反応し身を守ることが出来ると。猛獣の狙点は小さく、正確にこれを撃ち抜かない限り、間違いなく殺される。どのような時でも、コンマ数秒のうちに構えて、照準をつけ、引き金を下ろすという動作が出来るようにする。それも1000回やって1000回完璧に出来るようにする。さもないといつかは山で命を失う。そこまで出来たとしても、それでも尚も命を失うことはあるという。マタギという職業でそれなら、武士とか忍者とか最初から人間相手の殺し合いを目的とする世界では、いったいどれだけの基礎練習が必要なのか気が遠くなります。

 しかし、この基礎練というのが超詰まらないんですよね。
 いまどきこんな地味な修練は流行らないから、現代日本ではどんどん伝統芸能や職人技が失われている、、というのは、1970年代頃から言われていたことです。実際消えてしまった技能も相当あるのでしょう。

 昔においてそれが可能だったのは、徒弟制度というシステムがあったからでしょう。農家の次男坊、三男坊が丁稚奉公に入り、一人前に鍛えられる。当時の次男坊以下は、家督相続もできないからこの世界に居場所がない。居るだけで"穀潰し”呼ばわれされるという哀しい立場です。だから丁稚奉公に出たら、どんなに辛くても奉公先以外に行くところがない。そこを逃げたら生きていけない。だからこそ、何をやらされても黙々とこれをやるしかなかった。職業選択の自由とか居住移転の自由という憲法上の人権無視のような世界ですが、しかし、名人になるためにはうってつけの環境だったのでしょう。でも世の中が豊かになり、自由が増えれば、そんな辛気くさいこと誰もやらなくなるってことでしょう。



 教育カリキュラムの進行についても、一般には不親切極まりないです。入門希望者には、「一年後には○○を履修」などと分かりやすく解説したパンフレットが配られる、、なんてことはない。そもそも入門自体募集しておらず、落語なんかの世界では、師匠の家の前で座り込んで弟子にして貰うという凄いシステムがあったりします。入門したとしても最初は雑用や下働きばかりですし、技術指導なんて"授業”なんて殆どない。たまに師匠が暇なときに、「お前、一席やってみな」と言われて聞いて貰えるくらいです。

 全教程がどうなっているのか、今どのあたりにいるのかもよく分からないまま、言われたことを黙々とこなすしかない。日本古来の技芸では、学習者の進度に応じて”目録”とか”名取”とか段位があり、最後には”免許皆伝”に至ります。免許になると”奥義”を教えて貰うのですが、これがまた往々にして「自らを空にして天地にいたる」とか禅問答めいたものだったりします。とても神秘的なのですが、見方を変えたら「教える気あるんか?」と疑わしいような内容だったりもします。まあ、コケおどしのために「言ってみただけ」みたいな奥義もあるのでしょうが、それでも全てが無意味なはずもなく、おそらくはそのレベル、その境地にまで達したら、「ああ、なるほど」と分かるのでしょう。しかし、初心者には優しくない。というか初心者にそもそもそんな上級編やカリキュラム展望を教える気がないし、習得しうる段階に達して初めてその存在や内容を教えるという。

 初心者のモチベーションをくじくかのような無愛想で突き放したこの教育システムは、現代の至れり尽くせりの教育システムに慣れた我々からみたら異次元世界の出来事のようです。しかし、まがりなりにもそれが機能し、各分野で名人を輩出しつづけたという事実はあります。また、現代においても頑固にそれを守っている領域もあるし、分野に関わりなく高度なプロレベルになればなるほどそういう色合いが濃いですよね。政治家でも書生や秘書から入るし、相撲やプロレスでも付き人から入る。

 一見すると前近代的、封建的なシステムのようですが、よーく考えるとこれはこれで合理性があるのでしょう。まず初心者に優しくないのは、「やる気」選別機能があるのだと思います。どんな技芸も本人の「やる気」がなければモノになりません。それも生半可のものではなく、修行のためには死んでもいいくらいの凄まじいまでのやる気がないとならない。無愛想にしているのは、そんなレベルで入門者のご機嫌取っても意味がないし、モノになる奴はそれでも食らいついてくるからでしょう。また、教育カリキュラムでも、本物の技芸は教室ではなく実地で覚えないとならず、あれこれ理屈を教えるよりは下働きをさせて現場の雰囲気に馴染ませた方が教育効果は高いのかもしれません。それに師匠の”指導”も、見てないようで結構見ているわけで、「この段階まできたらこれをやらせよう」という大まかな青写真と、学習者の個性に応じたキメの細かいマンツーマン指導があるとも言えます。 ボソッっとヒントを言うくらいなんですけど、それでもハマれば大きな効果がある。

 それもこれもハンパな学習到達度を許さず、「本物」になることだけに焦点を絞った超エリート教育システムだと言えます。繰り返しになりますが、伝統的な日本の世界では「一人前」のレベルが途方もなく高く、プロレベル、それも一流のプロレベルだけを養成するようにカリキュラムが組まれているということです。しかし、そんなシステムが何百年も通用してきたというのは、「修行の末にやがては達人になれる」と誰もが夢見ることが出来てこその話だと思います。もちろん修行の途中で挫折脱落していく者もいるでしょうし、ついには免許まで行き着かなかった者もいるでしょう。それでも妥協しない。「そこそこでいいじゃん」という発想はない。



名人を基準にした道具・システム作り

 また、この名人を基準にする発想は、道具にも表われています。日本古来のツールというのは、あんまりユーザーフレンドリーじゃないのね。初心者が使おうとしても何をどうすればいいのか分からないという。誰にでも簡単に操作できるようには工夫しない。

 例えば日本刀です。
 真剣というのは、持ったことがある人ならおわかりでしょうが、かなり重いです。あんな重いもの、よほど熟達しないと自由自在に振り回せないです。そんなモノを使うくらいなら、敵を殺傷するという目的のためには鉄砲を進化させた方がいい。道具の進化という工業系だったら日本人は得意です。種子島に鉄砲が一丁漂着しただけで、僅かな期間にそれを完全にコピーし、原理を抽出し、改良を加え、”鉄砲鍛冶”という分野が確立、戦国末期においては質量ともに世界的にもトップクラスの鉄砲生産国になっていたそうです。大阪冬の陣では大砲まで登場してますし。だからやろうと思ったら幾らでも日本は銃砲大国になれた。しかしならなかった。ここが興味深いところです。

 なぜならなかったのか?直接的には、江戸幕府が諸藩の反乱を恐れて銃砲武器を厳しく制限するのみか、新規発明を禁止したことに基づくのでしょう。これによって日本の銃砲製造技術はストップします。しかし、そういった政治や規制だけの話ではないでしょう。当時にも優れた鉄砲があったにもかかわらず、また実際の戦場においては弓や槍の方が実戦性があったにも関わらず、尚も人々は日本刀に固執しています。宮本武蔵や佐々木小次郎という剣豪が出てくるのも戦国から江戸初期で、既に刀剣は戦場の武器としては時代遅れになっていました。というか剣術というのは時代遅れになってからの方が発展隆盛している。江戸期にはいると、「刀は武士の魂」とほとんどフェチとも言えるくらいの存在になり、この対鉄砲には絶対不利で、しかも素人にはまず使いこなせない武器を手放そうとはしません。それは平和な江戸時代に、武士が抽象的・儀礼的な存在になったということもあるでしょう。また、達人レベルが日本刀を持ったときの白兵戦における戦闘力は抜群だという捨てがたい実用性もあったのでしょう。でも、それだけではない。やっぱり基本的には、日本人は日本刀が「好き」なんだと思うのですよ。

 西欧にもソード(剣)はあったのですが、鉄砲が登場し、火気が発達するにつれ、儀礼上の飾りのような存在になっていきます。あんな扱いが難しく、しかも効果に乏しいものにこだわるくらいなら、ズブの素人にも、女子供でも簡単に人が殺せる強力な武器を熱心に開発した方が効率がいいからです。どんどんユーザーフレンドリーな開発を進める。「どんな馬鹿にも使える」という"idiot proof"思想ですね。しかし、日本人は日本刀にこだわる。第二次大戦中でも士官とかは軍刀としてまだ持ってますもんね。そして現在においても、日本人の日本刀に対する視線は、なにほどかの畏敬の念を含んでおり、”時代遅れの遺物”として軽蔑してはいないでしょう。

 かといって、日本人がノスタルジックな懐古趣味の集団かというと、そうではない。ある意味では世界でも群を抜いたドライでプラグマティックな集団かもしれません。というのは、幕末の戦乱の時代になったときは、薩長も幕府も争って銃砲・軍艦を揃え、軍備を増強します。日露戦争の頃は、気が狂ったかのように国家予算を軍備に叩き込んで最新鋭の装備にしています。そこにあるのは、織田信長のような、アメリカのようなシンプルで徹底した物量主義です。おまけに昨日まで「武士の魂」だったはずの刀も禁止しています(廃刀令)。だからその気になったら日本人は幾らでも物量主義、プラグマティズムに徹することは出来るんですよね。目的のためなら廃刀令、断髪例、廃仏毀釈などなど自分達の精神的な拠り所をタメライもなく破壊するだけのドライさがあります。こんなドライな民族、滅多にないです。

 しかしこのドライな民族が日本刀は捨てないんですよね。「時代遅れ」という意味では、古代の銅鐸とか縄文土器と似たようなものなんだけど、それでも捨てないのは何故かといえば、やっぱり「好き」なんでしょうね。

 では、一歩進んで、日本人は日本刀の何がそんなに「好き」なのでしょうか?

 思うのですが、日本人というのは、やっぱり名人に対する強い憧れがあるのではないか。だから「誰にでも使えるようなもの」にはあまり興味がない。日本刀は扱いにくいです。そもそも作るのがメチャクチャ大変なうえ、研ぎもメンテも大変。使い易いかといえば、あんな使いにくい武器はないです。重いから、振りかぶってうち下ろしたら体重移動で身体が泳ぐ。とてもじゃないけど「返す刀で」なんて具合にいかない。相当ユーザーが熟練しないと使いこなせない。チャンバラの撮影でも、殺陣(たて)師というプロが指導しますよね。テキトーに振りまわしているだけだったら全然サマにならないし、続きもしない。しかし、ひとたび剣の達人が日本刀を持つと、魔法のように滑らかに刀が動き、その殺傷力は凄絶です。抜刀のスピード、気魄、流れるような体重移動と身体さばきは演舞のような美しさがあります。僕らはそこに憧れてしまう。

 「非常に使いにくい」という意味では道具としては不便なんだけど、だからこそ良いのでしょうね。素人が簡単に使えてしまうようなモノじゃダメなんです。ここで、道具を進化させようとは思わないのですね。マンガみたいに、ボタンを押したらビヨーンと刀身が発射されるなんてものは作らない。セラミック合金で軽量化を図ろうとも思わないし、剣の先からレーザー光線が発射されるなんてこともない。そういう進化ベクトルを好まない。あくまで備前長船とか、妖刀村正のような伝統的な銘品にこだわります(但し戦時中はステンレス鋼などの”新日本刀”と呼ばれる改良が試みられたそうですが)。

 なぜなら日本刀は既に完成されており、これ以上何をいじくっても「鉈の重さと剃刀の切れ味を兼ね備えた」と形容される日本刀の切れ味や耐久性が失われる。ならば道具としてのレベルを下げずに、それを使いこなせるようにユーザーのレベルを上げる。レベルを犠牲にしてまでユーザーフレンドリーにしたくはない、という発想がそこにはあるように思います。

 この発想を言い換えれば、「一流の道具を使いこなせるような一流の技術を習得しろ」ということであり、さらにその根底には「頑張れば誰にでも技術は習得できる」「誰でも名人になれる」という性賢説的なものがあるのでしょう。「誰にでも簡単に使えるように」という家電製品みたいな発想とは明らかに異ります。

 逆に言えば、まず剣術の達人がおり、その達人が使うのに最適な状態に道具を持っていくということです。およそ人間の運動&精神能力の限界を極めた人間にとって最も扱いやすく、効果の大きいという点にだけ焦点を絞って道具作りをする。商品のラインナップでいえば、「完全プロ仕様」しか無い。入門用とか初心者用などという日本刀はない。竹刀とか木刀という練習機器はあるけど、日本刀に関しては究極のプロ仕様しか作る気がないし、ニーズもない。

 凄いですよね。自動車でいえばF1マシン以外は存在しないようなものです。またユーザサイドも「F1マシン以外は乗りたくない」と言ってるようなもんです。乗ったことないけどあの種のレーシングマシンというのはおっそろしく扱いにくいらしいですね。もちろんオートマなんかないし、ギアの設定も細かい。エンジンの回転数も乗り手に合わせてチューニングしてあるから、やたらピーキーで普通に乗ってたらすぐにエンストする。ハンドルはフェザータッチで普通に回してたらスピンしちゃう。まさに本物のプロしか乗りこなせないマシンなのですが、日本刀というのは、そこまで極端ではないにせよ、”ユーザーを選ぶ”という点では似てます。それを求め、そしてそれしか求めないという日本人の最高水準に対する異様なこだわりは何なのでしょう?

 日本刀に限らず、日本古来の道具というのは、みな「敢えて便利にしない」「レベルを下げてまでユーザーに妥協しない」という部分があるように思います。三味線などもそうで、ギターをやってる僕などからみても非常にとっつきにくい。弦が3本しかないから簡単だと思うのは素人で、三味線の指板はフレットの打っていないフレットレスです。それがどうした?というと、フレットがあれば、フレットの枠のどこかに指をおけば確実にその音程の音が出るから楽なのです。それなのに三味線にはフレットがないから確かな音程を取るまでが大変。ちなみにバイオリンやコントラバスにもフレットはありませんが、あれは弓で弾く擦弦楽器であり、リュートを起源とするギター系の撥弦楽器とは成り立ちが違う。擦弦楽器は弓でひくから音が伸び、ゆったりしたフレーズが多く、また和音も少なく、微妙な音程調整が出来るフレットレスがいいのは分かる。しかしギター系の撥弦楽器は和音が多く、速いパッセージも多いからフレットを打った方が良い。三味線は明らかにギター系だから、本来フレットを打っても良さそうです。実際、ギターを弾く感覚で三味線を弾いたら、ネックが長いだけに指感覚だけでは位置決めがしにくい。なのにフレットを打たない。

 さらにチューニングが難しく、そもそもペグ(糸巻)が甘い。中島らも氏がエッセイで怒ってたけど。曲の途中でチューニングが狂ってきてしまう。そのため戻らない糸巻きという特許まであるくらいです。また、チューニングも、ギターでいうところのオープンチューニングが多く、凄いのになると弾いてる途中でチューニングを変えないといけないという曲もある。これに加えてブリッジ、糸巻きの反対側にある弦を乗せる部分ですが、三味線では駒といい、この駒の位置がまた可変自在で自分で決めないとならない。でも、1ミリずれただけでチューニングが変っちゃうから、えらくデリケートです。つまるところ、三味線というのはとてつもなく難しい弦楽器で、だからこそ「調子三年勘八年」という桃栗三年みたいな言葉もあるそうです。

 ギターなんか歌の伴奏にコードを弾くくらいだったら1週間も特訓したらできるようになります。もちろん奥の深さはどんな楽器でも同じですし、ギターも本当に上手に弾こうと思ったら死ぬほど難しいです。僕などは高校の頃から30年以上やってるけど、弾けるうちにも入らないでしょ。でも、ギターは間口が広い。初心者にもとっつきやすいです。誰でも簡単に弾けるように改良が重ねられているし、エレキギターなどは特にそうです。

 このように三味線は初心者にとってはハードルが高い。にもかかわらず三味線を”改良”しようという動きはそれほどないです。まあ、前述の糸巻き特許など細かな改良は盛んらしいですし、エレキ三味線もありますから、ないわけではないのだけど、フレットを打とうとか、ポジションを示す●マークを打つとかいうこともなさそうです。何故かといえば、伝統世界の人達は頭が固いということもあるのかもしれないけど、ひとえに最高水準を下げたくないからなのでしょう。フレットレスの方が微妙な音程を出せるし、もともと固定的な絶対音程だけで表現しようとしない邦楽の場合はその方が表現力が高まる。駒の位置も曲調等によって調整できるから表現力が広がる。初心者には非常に難しい楽器なのだけど、便利にすると表現範囲が固定されちゃうから、最高水準が下がってしまう。チューニングや音程が難しいのは確かだけど、そんなものは練習して技術を身につければ済むことであり、そこを楽するために最高レベルを犠牲にするのは”改良”ではない、という発想があるのでしょうね。

 やっぱり、これも日本刀と同じく、名人が使って最高な状態というのを念頭において全てを決めていること、全体のシステムそのものが最終的に成長した姿(名人)に照準を合わせていることの表れのように思います。





 さて、ここまで書くと、いろいろな反論や疑問が出てくると思います。
 なるほど、日本には古来から名人・達人だけに照準に絞った教育やツールの世界があるのはわかった。だけど、それはいわゆる職人気質やクラフトマンシップと言われるもので、何も日本だけのものではなく、世界各地に普遍的に見られる現象である、というのが予想される反論その1。また、名人への憧憬感情とシステムだけが日本の全てではないし、江戸時代には寺小屋もあったし、いわゆるカルチャーセンター的な習い事もあった。そして道具においては、戦後の日本は、家電製品や自動車など、いかにユーザーフレンドリーに徹するかという観点で発展してきたわけで、”名人国家”日本と180度矛盾してるじゃないか?というのがその2です。

 はい、そうなんですよね。だけど、もう一歩奥があるように思うのですね。、、と、ここでまた店を広げると長くなっちゃうから次回に廻します。濃縮して一回にまとめてもいいけど、最近もうちょいスカスカなくらいがいいかなと思ってきてますので、分割します。さわりだけ書いておくと、第一の点=世界各地に名人はいるという点ですが、確かにそうなんですけど、日本の特殊性は全員を名人にしようとしている部分にあると思います。特殊な天才や鬼才だけではなく、全ての職種、全ての社会的ポジションにおいて、それぞれが最高水準を目指すという意味で日本は尚も特殊だと思います。

第二の点、名人を目的としない習い事やユーザーフレンドリーさですが、ここは面白い論点ですよね。初心者にもとっつきやすい合理的・科学的なトレーニングシステムを開発したのは、江戸期から明治にかけて千葉周作と嘉納治五郎という教育界の革命児のような天才の影響があったと思います。ここで確かに流れが変わったように思います。あと、家電製品などについては、これってもともと"達人”なんかありえない領域であり、あるとしたら開発技術の競争という、これまた一つの”最高への希求”なんじゃないかなと。

 いずれにせよ奥の院で鎮座しているのは、僕が性賢説と名付けた、人間の能力や成長に対する無邪気なまでの信仰があるのではないかと。それこそが日本人を日本人たらしめているポイントであるような気もします。、、と、かいつまんで書いてしまうと何だかよく分からないでしょうから、やっぱりチンタラ書いていきます。以下次回。あ、次々回か。






文責:田村




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