今週の1枚(06.01.30)
ESSAY 244/原理的対等とオトナ・コドモ
写真は、さる1月26日のオーストラリアデイ(建国記念日)のアトラクションのひとつ、Tall Ship Raceというやつで、シドニーハーバーを昔ながらの帆船が帆走するものです。いやー、大航海時代の帆船というのはカッコいいですよね。近くに数億円のクルーザーが走ってても、もう女王蜂と働き蜂みたいな感じで貫禄が違います。しかし、いつも思うのですけど、これだけ船がギッシリ走っててよくぶつからないものだと。
オーストラリアデーのアトラクションは他にも沢山あり、この日、ロックスあたりに陣取って見物してたのですが、陸軍のレッドベレー部隊がパラシュートで上空から降りてきたり、ヘリコプターで海難救助のデモンストレーションがあったり、ブルーインパルスのようなジェット機の編隊飛行がありました。面白かったです。正確に何時にどこで何をやると予め知ってないと、ぶらっと行ってもよう分からんでしょう。予習が大事。インターネットのサイトなどに詳しく書いてます。シドニーは年がら年中どっかで何かやってますので、コマメに調べておくといいですよ。
今回は「大人とコドモ」のことについて書きます。いったい人はいつから「コドモ」から「大人」になるのかという話です。
こんなの幾らでも言いようはあるもので、形式的に成人年齢(日本だったら20歳、オーストラリアだったら18歳)になったらオトナだという見方もあるでしょうし、経済的に自立できるようになったらオトナだという考え方もあるでしょう。色々な考え方があって当然だし、どれか一つに統一させなければならないものでもないです。
そんな中で、僕がふと思ったのは、「プラス・マイマスゼロ以上」になったらオトナなのではないか、と。
何のこっちゃかというと、GIVE&TAKEのことで、自分と他人の関係において、与えるものの方が与えられるものよりも等しいかそれ以上になったらオトナだということです。
赤ちゃんの頃は誰でも100%他人から与えてもらいます。赤ちゃんがそのまま道端に放置されていたら餓死してしまうし、オシッコやウンチの世話から基礎教育、愛情をベースとした情操、、、何から何まで与えてもらいます。それで当然。哺乳類というのは基本的にそうしたもので、卵で生まれてあとは勝手に生きろという生物体系ではない。
考えみたら、卵で生まれてくる動物ってすごいですよね。鳥なんかはまだ親鳥が雛鳥を育てたりしますが、爬虫類、昆虫類、魚類は、おおむね卵から孵った時点で一本立ちしなければなりません。親は何にもしてくれないし、そもそも誰が親かなんかわからない。サケの産卵などもそうですが、親鮭は産卵したらもう死んじゃうわけだし。海亀の産卵も有名ですが、産むだけ産んだら親亀はどっか行っちゃいますもんね。あとは生まれてきたコドモの能力と運で生き残るかどうかが決まる。実際には殆どが食われるなどして死ぬ。無事に成人に達するのは数ある兄弟のなかでも1個体くらい。マンボウなんか一回の産卵数が1億でしたっけ?そのくらい産んで成人に達するのは一匹。だからマンボウと魚類、昆虫類の「平均寿命」をベタな統計で計算したらすごい短いでしょうね。魚の寿命は意外と長いのですが、それでもそれは成人に達した個体が何年生きるかの話で、全ての(孵化した)卵を基準にいえば、平均寿命数分とか十数分とかそのくらいになるかもしれません。
海亀君の場合は、最初に「この世に生を受けた」ということだけがGIVEN(与えられたもの)で、あとはもう、だーれもなーんもしてくれない。最後に自分も受精産卵活動をやって「他者に生を与える」というGIVEをして、トントンになってこの世を去るわけです。すがすがしいくらいシンプルで潔い生涯ですね。でも、人間は違う。あらゆる動物のなかで、一本立ちするまで最も時間がかかるのが人類であり、成体に達するまでは、沢山たくさん他者から与えてもらわないとならない。
十代になり、多少はバイトをするようになったとはいっても、基本的には衣食住は親なり他人が面倒をみますし、教育も義務教育ということで税金(つまりは他人のお金と労働力)でやってもらいます。まだTAKEの方が圧倒的に大きい。
それが段々変わってきます。就職し、自活するようになるにつれ、生活の基本面ではあまり他者のサポートは必要ではなくなります。徐々にオトナになっていくわけですね。それでも、職場においては入社していきなり即戦力バリバリかというと、そんなことはないし、あらゆる事を周囲から教えてもらい、サポートしてもらいます。まだまだ与えられるものの方が多いってケースもあるでしょう。
そうこうしていくうちに、ふと気が付くと、他人に与える方が多くなっていきます。子供でも出来ればかなりハッキリと他者(自分の子供)のために、時間や経費をかけるようになりますし、職場でも部下や後輩の面倒をみるようになります。他者から何かをしてもらうとか、育ててもらうような機会もめっきり減っていきます。
というわけで、この「与える」=「与えられる」が実質的にトントンないしは、輸出超過になってはじめて、人は「オトナ」になるのだろうなと思ったわけですね。ここまでがこのエッセイの前半部分です。まあ、言ってる意味はわかりますよね。それほど難しい話ではないですし
さて、後半はなにかというと、「与える」とかいってもそんなにデジタルな数字として、貿易統計のようにキッチリ計上できるものではないということが一つ。そして、現実においては、もっぱらメンタルな問題として考えた方がいいだろうってことです。
計上不能という点ですが、「毎月の給料から家に3万円入れている」などそんなに分かりやすい金銭部門だけではないです。「してもらう」「してあげる」という労働・サービス部門も多分にあります。さらに「頼りにする/される」「リードする/される」という金銭や労働力では割り切れない精神的な部門もあるでしょう。また、その対象になるのは、単に親・家族、職場の上司・先輩・同僚・後輩だけではない。例えば「国家」とか「国際社会」なんてのも対象になるでしょう。例えば、日本国からどのようなベネフィットを受け、逆に日本国にどれだけの貢献をしているか、です。
このように範囲は茫漠として広くなり、また授受の内容も多岐にわたりますから、一概に「今月は8543円の黒字(授与超過)」みたいに割り出せるものではない。そうなってくると、実際上どのあたりに分水嶺があるかというと、「本人がそう思うかどうか」というメンタルな問題、意識や自覚の問題として出てくるだろうと思います。でもって、これが大事なんだろうなと思うわけです。
自覚や意識の問題というのは、「トントンになろう」「今月は赤字」などという形で意識することではないです。そんなこと思って生きている人はマレでしょう。そうではなく、無意識の前提として心の中にハカリがあり、他者との関係において常にこのハカリが作動して、バランス感覚が働くということです。自分と他者との”原理的対等”が身体レベルに組みこまれており、いかなるときにもそれを忘れず、他者から貰うものが多くなったときは、「借りがある」、英語で言えば"I owe you"とキチンとわきまえられるようになったらオトナなのでしょう。
コドモの場合はこのハカリがありませんから、他人から何かやってもらっても当たり前、別に借りがあるとか、申し訳ないなとか思わない。殿様みたいなもので、オレのものはオレのもの、他人のものもオレのもの、他人は自分に奉仕して当たり前という。コドモはそれでいいんですよ。幼稚園の子供が、家でゴハンを食べるたびに、「あ、すいません、そんなことまでしていただいては、、」「じゃあ、遠慮なくご馳走になります。ありがとうございます」とかいちいち言ってたら不気味ですよね。「せめて、このくらいはさせてください」と洗い物をしている子供は、”しっかりしてる”を通り越して気持ち悪いです。
原理的対等をデフォルトスタンダード、工場出荷設定として刻み込まれているオトナの場合、他者が自分に何かをしてくれる事は原則的に無いことをよく知ってます。もちろん人は相互に助け合っていくべきですが、だからといって見知らぬ全ての人を助ける義務はないし、それを当然のこととして期待することも許されない。そのあたりは当然知ってます。だから、他人から何か好意を受けたとき、純粋にその好意を理解し、受け止めることができます。感謝の言葉を日本語で「ありがとう」と言いますが、本来は「有り難き仕合わせ」であり、「滅多に起きないことが起きた=これほど他人から好意を受けることは本来ありえないのだけど、それをしていただいた」という意味でしょう?西部劇で荒野の中を一人でゆくガンマンのように、他人からやってもらえなくて当たり前、自分のことは全て自分でやるべしというクッキリと自立した精神がまずあり、その視点でものを見るから、他人の好意の珠玉のごとき貴重さがよくわかる。「人の情けが身にしみる」ってやつですね。
ところが、いい年ぶっこいても、この自助自立の精神が足りず、「あれやって」「これやって」というクレクレ君がいます。こういう人は、暦数年齢が30歳だろうが50歳だろうが、本質的にはコドモだと思います。
さて、そうはいっても現実世界は複雑で、同じ人間が、ある面においては成熟したオトナであっても、別の面においては全然コドモということはよくあります。エラそに書いてるこの僕でも、「あかん、まだまだコドモだわ」って思うことも多々ありますし、気付かずコドモやってるときもあるでしょう。あとで気付いて汗をかくというか。誰でもそうだと思いますし、それはまた文化や環境によっても違った形で現われてくるでしょう。
人間の原理的対等性にバイアス(歪み)をかけるファクターは沢山あります。それは例えばカルチャーであったり、意図的な愚民化政策であったり、搾取被搾取の関係であったり。カルチャーでいえば、アジア的な長幼序列や封建秩序なんかもそうです。民主主義と封建主義とでどこが違うかというと、根本原理の設定で、民主主義は「人間は本来的に対等である」という原理なのに対し、「人は本来対等ではない」というのが封建主義なのでしょう。封建主義においては、対等でない人間関係は「身分関係」に置き換えられ、百姓、武士、貴族という形で絶対的な上下関係が出来ます。ここでは、身分が下の者は、問答無用で上の者を言うことを聞かねばならず、ひどいときには命すらも上の者の言うなりになります。封建主義ほど明確な形ではなくても、この残滓みたいなものは、社会のいたるところに残ってます。いわゆる「上下関係」というやつです。
上下関係の全てが悪いというつもりはないし、皆対等に民主的に話し合っていてはやっていけない場面というのも多々あります。端的なのが軍隊でしょう。生きるか死ぬかの極限状況が常にスタンダードに想定されている軍事においては、部隊全体が一糸乱れずに的確な行動をすることが最も成功率と生存率を高めることになる。また、意思決定と行動の迅速性も強く要求される。砲弾の飛び交うなかで悠長に投票なんかしてたら全滅してしまうわけです。それゆえ絶対的なリーダーシップが求められ、鉄の戒律のような上下関係、すわち階級関係が形成されます。
同じように、何かの特定の目的を達成することがその集団の存在意義である場合、いわゆるゲゼルシャフト(利益集団)ですけど、こういった集団では、目的達成の合理性が、原理的対等性に優越します。野球のチームでも、仕事のプロジェクトチームでも、リーダーシップというものが強く要求される。なぜ要求されるかというと、てんでバラバラにやってたら目的を達成できないからです。野球でも、ジャンケンでポジションや打順を決めてたら強いチームも弱くなる。やっぱり能力に秀でた監督が「お前、4番打て」と指示をしていった方が勝率は上がる。そして勝つことが最大目的の集団であるから、それが最大に尊重される。
こういう場面では対等性は犠牲にされます。それは民主主義が鉄の掟になってる西欧社会でも同じです。ただし、「合理的である場合」に限り優越するだけの話ですから、別に勝敗に関係ない場面ではすぐに対等に戻る。つまり、リーダーに全人格的に従属する必要はない。監督や上官の言うことは絶対だけど、それは最終決定権があるというだけのことで、その過程では「それはおかしい」と平気で食って掛かったりもするし、別に常に監督を上座に据えようということもない。
ひるがえって日本の場合、上下関係やリーダーシップの合目的性を超えて、なんか全人格的に従属しちゃうメンタリティがあります。上司の言うことは絶対というのは、ビジネスという戦略部隊においては合目的であるけど、だからといって上司の引越しに部下が休日潰して手伝うことはないし、上司の子供の運動会に部下がビデオカメラを廻して撮影する義務はない。それをした方が売上が上がるのだったらその方がいいけど、関係ないのだったら無意味なことです。でもやっちゃう。そういうことを、やる/やらせる文化が日本にはあると思います。
それが良いか悪いかは別の次元の問題ですからここでは書きません。一概に否定すべきではないとも思いますし、「自分もいつか上になる」という機会の平等が保証されたり、上の者は下の面倒をみるという包括的な対等性があったりもするでしょう。でも、このエッセイの主題ではないからパスします。ここで考えるべきは、人格的従属すら求める上下関係が、世の中に網の目のように張り巡らされているとするならば、そこには人間の「原理的対等」というものを考えたり、実感したりする場面が少なくなってしまうだろう、極端な話そんなこと全然考えるヒマも機会もないまま終わってしまう可能性もあるだろうってことです。
するとどうなるかというと、本来のオトナ・コドモ論でいえば、オトナであることに意味や自覚を得る機会もまた少なくなるだろうということです。誰かがどこかで書いてましたが、「日本には平等はあっても対等はない」と。実際、純粋に対等な局面というのは少ないし、また対等な局面になったときに、どう振舞えば良いのか分からない、不慣れであるという面も多々あるでしょう。そして、その経験不足が、海外に出たときに祟ったりします。
原理的対等意識をボヤかすファクターは他にもあります。政治なんかでも、本来的に対等をわきまえているオトナだったら、国に一方的になにかをしてもらおうとは期待しなくなる筈です。その点コドモは、未熟だから何でも自分中心で、何かを自分にくれる人はイイ人で、くれない人はイヤな人ってことになります。他人の人となりというのは、その人の人物評価を聞いてると結構わかります。「すごいイイ人ですよ。あれもやってくれるし、これもやってくれるし」って言い方をしてる人は、僕なんかからするとコドモだなって思っちゃいます。「ポリシーがある」とか「金銭以上の価値を知っており実践している」とか「フトコロが深い」とかいう基準で人を見ずに、「自分に利益をもたらしてくれるかどうか」で他人を見てる人は、まあ、クレクレ君でしょう。そういわれても仕方が無いし、それが誤解だとしても誤解を招くような表現を不用意にするという点でコドモであることは免れない。世間の恐さが分かってないね、という。
政治的にも同じで、なにか自分にとって利益をもたらしてくれるのがいい政府、いい政党という、乞食根性的な国民を沢山育てておくと、政権担当者としては楽チンです。ほんと、国民がコドモだった場合、「コドモだまし」の政策で政権を維持できるわけですからね。表面的には気前よく、口当た良いことをいっておいて、あとで巧妙に裏切ればいい。国民というのはマスで固まってるときは最強の権力者ですが、個々バラバラにしてしまえば極端に無力です。マスには媚びを売り、個々バラバラのときには圧殺する。具体的には、例えば、「無料保育園の数を1年以内に3倍に増設します」とかブチあげるわけですよ。人気爆発ですよね。で、入園させるための資格をメチャクチャ厳格にすればいいんですよ。年収幾ら以下とか、親族に○○がいる人はダメとか、書類が足りないとか。実際に入園するときは、バラバラな無力な個人ですからね、カウンターでいくら泣き叫んでも無力。「ヒステリックなおばはんがいる」と冷笑されるだけ。腹が立っても、じゃあ数百万円投じて行政訴訟するかというと、そんな根性のある人は滅多にいない。また行政訴訟をかけても、内容が複雑だからマスコミもとりあげない、とりあげても難しいからコドモな国民は読まない。国が個人を圧殺するのは蚊を叩くよりも簡単です。
「コドモだまし」ってのはそういうことです。でも、国民がオトナだったら、そんな子供騙しは通用しないですよ。自主的にどんどんオンブズマンやNPOを作って常に監視するし、個々人がオトナの戦闘能力をもってるから、舐めたことをされたら、公聴会を要求したり、議会を傍聴したり、勉強会をやったり、オトナの「報復活動」が出来る。だから、政治家も官僚も恐くて舐めた真似が出来なくなる。でもそんなに国民に賢くなってもらってはマズイから、愚民政策というのが出てくるわけですね。議論を低レベルに低レベルにもっていく。大事な議論になって、カラクリがばれそうになると、政治家の汚職をリークしてスキャンダルばっかりに視線が集まるようにする。戦前からこの国の官僚がやってるのはそういう手段でしょう。大正デモクラシーを潰したのも、帝人事件などで汚職をデッチあげて議会政治を潰そうとしたのも、ひいては2.26事件を引き起こしたのも、まずくなると政治家の汚職でスキャンダル国会にしちゃうという手法。いまだに通用してるから、国民も舐められたもんです。
もう一つ、「お客様は神様」という"擬似身分"があります。これが対等意識を損なっている、、、というか話は逆で、対等意識がなく、対等スキルが貧弱だからこういった擬似身分で誤魔化しているといってもいいかもしれません。「金払ってんだぞ」「客なんだぞ」ということで、普段いえないようなことも言えちゃう。お金さえ払えば、相手は全人格的に服従してくれると思ってる。でも、そんなの一歩ソトに出たら通用せんです。
例えば、ホームステイなんかでもそうですが、ステイ代を払った対価として受け取るものは、ステイ先のアレンジサービス行為であり、週いくらの寝食の場所だけです。それ以上に、自分が居心地が良いとか、現地の人と親密な関係を築けるとか、そういうのはぜーんぶ「個人の甲斐性」の問題。あなたがどんな民族、どんな年齢、どんな宗教の人とも「うまくやっていく」能力があるかどうか、世界中の人から平均的に愛される人格をこれまで築いてきたかがシビアに問われるわけで、「アホかこいつ」と思われたらそんで終わり。まあ、当たり前っちゃ当たり前ですよね。それに、いい年こいて「やってもらって当たり前」って思ってるコドモは、こちらの社会で最も馬鹿にされるイマチュアでセルフィッシュな人格でしょう(まあ、日本でも嫌われると思うけど)。さらに、こちらが相手に期待すると同じように、相手もこちらに期待してるわけで、相手をして「へー、そうだったのか」と面白く楽しんでもらえる話がどれだけできるか、その家にどれだけ貢献できるかでしょう。いよいよ家を出るとき、「アナタがいなくなると淋しくなるわ」って思ってもらえるだけものをもたらすことが出来るかどうか、それが「対等」ってもんでしょ。
以上、原理的対等性とオトナ・コドモの話でした。
一点、補充しておきます。そんなギブ&テイクだけでいうなら、生まれつき身体が不自由であるとか、逆に生まれつき全てに恵まれているとか、あるいは同じ人でも大病にかかったり、精神的にえらくヘコんでるとか色々な状況があるわけで、常に透明でフラットな対等性なんか築けないじゃないか、というか築ける局面なんかきわめてレアではないかと疑問になる人がいるでしょう。それはもっともです。
でも僕がいってる対等やギブ&テイクというのは、もっと実質的なものです。言葉にしちゃうと抽象的になりすぎるけど、その時点で置かれている状況、自分の能力をもとに、どれだけの割合の自己エネルギーを他者のために使うかってことです。同種同量交換ではなく、等率交換です。例えば、交通事故にあって全身大怪我して、指一本動かせず、また一生後遺症が残るという状況にある場合、他人のために何もしてあげられないように見えます。でも、そんなことないのよ。自分の命や身体を心配してくれている人はいるわけで、その人ためにやってあげられる最大のことは、「生きる」ってことであり、元気になることであり、家族に笑顔を見せることでしょ。それがどれだけの精神エネルギーを必要とするか、どれだけ優しい好意の発露であるかは、そんなもん誰だってわかります。フレキシブルにお考えください。
文責:田村
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