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Essay 936:天災か人災か〜幸福燃費が悪い人たち

 〜これまでの簡単なまとめ


2020年05月25日
写真は、Crows Nest。ここんとこ雨なんですけど、晴れるとほんと気持ちいいです。最近空ばっかが多いのですけど、「空さえあれば」と昔書きましたけど、これは基本ですよね。空がキレイだなーって、ちょっといい気分になれたら、その日はもうそれだけで黒字。当然じゃん。



 今週は、これまでのエッセイ、FBの記事、コメントへの返信など断片的に書き散らしたことをまとめつつ展開してみます。

人災か天災か

 今回の世界コロナ騒動でさまざまな「被害」が出ていますが、実のところ、ウィルスによる健康被害という天災部分はいいとこ10%もなくて、あとの90%以上は人災ではないかと思います。人災というのは、言うまでもなく、禁止だ都市封鎖だなんだと大騒ぎしすぎたことにより生じた人的(経済的、精神的、生活的、人生的)損失です。

 ここは議論のあるところでしょうし、人災部分はゼロである(全部必要でやむを得ない説)もあるでしょうし、逆に全部人災説もあるでしょう。

 僕が人災の方が多いんじゃないかと思う理由は、

人災過多の理由

(1)絶対数の不均衡感

 毎回言ってますが、絶対数が少なすぎるわりには、経済生活打撃はほぼ全員にかぶさるという、本質的な不均衡感がどうしても拭えない。学校の片隅の用具室に小さなボヤがあったからといって、消火活動を頑張りすぎて、学校全部と周囲住宅一帯を水浸しにして使い物にならなくする必要があるのかしら?という点。

 ここでEssay934で自分で作ったピクセル画像をまた出しておきます。  
 ちなみにUPしたあとでよくよく見ると大きさ比較が間違ってたので改めて最新の統計をもとに作り直しました。主として1億人の大きさが間違ってて(他も違うけど小さすぎて大差ない)、今回の方が正しいと思うのですが、しかし、ぱっと見た目にはなんか大きすぎるような気がしますよね(この大きさが75個も入るか?とか)。でもこれで合ってるはずです。



 検証のために画像作成工程を書いておきます。
 ・世界人口75億(7,577,130,400)→平方根(正方形で表す場合の一辺の大きさ)87046/30(画像がでかすぎるから30分の1に縮める)→一辺2901ピクセルで全体の正方形画像(台紙)をつくる
 ・100000000(1億)100000000→平方根10000/30→333ピクセル
 ・1000万     10000000→10000/30→105ピクセル
 ・感染者528万  5280000→2297/30→76ピクセル
 ・100万     1000000→1000/30→33ピクセル
 ・死者34万  340000→583/30→19ピクセル

 日本の感染者数も出そうと思いましたが、16543人→128/30→一辺4.28ピクセルは、もう小さすぎて画像として扱えなくなりました、ましてや死亡数814人→28/30→0.95など到底無理で。

 素朴な感覚として、1億人くらい感染してぶっ倒れているなら、全体レベルで騒いでもかろうじて納得できますけど、500万とか1000万くらいでは、(大事ではあるけど)全体を犠牲にして対処すべきほどのものかどうか、疑問が残ります。

 理想をいえば、500万の感染のうち無症状も8割いるんだから、実際に問題になる死者34万と周辺の重篤者100万かマックス200万くらいピンポイントに対応すれば良かったということになります。ただ、その「対処」をするためには周辺に多少の犠牲が伴うのはやむを得ないでしょう。消火活動するにあたって隣家が水浸しになるくらいはしょうがない。しかし、全部を対象にする必要が本当にあったのかどうかは、これから検証されるべきだと思いますね。

(2)やらなくても結果に大差ないんじゃ?疑惑

 これもエッセイ934で書きましたが、意識的に厳しいロックダウンをやらなかったスウェーデンが他の国と死亡率その他でそれほど顕著な差がないこと、さらにやってんだかやってないんだかよく分からない日本でも(真実は藪の中なんだろうけど、それでも)激しい被害になっていないこと。

ミステリーの成功例・日本(苦笑)
 ちなみに、オーストラリアの新聞でも(AFPの共同配信のコピペだけど)、なんで日本はあんなに死者が少ないのかミステリーだと書いてましたね。
 ‘Mystery’ over nation's virus success

 「謎の成功」とか持ち上げられても、そもそも死者数などの事実関係すら怪しいので、褒められてもうれしくもないし、苦笑するしかないです。しかし、世界はそんなにいちいち他国の中の個別事情まで詮索するほど興味はないみたいですね。たしかに百カ国を越えてくると面倒臭いだろうけど。

 その意味で言えば、「世界の評価」といっても大してアテになりませんね。でも、ミステリーだろうが誤解だろうが不勉強だろうがなんだろうが「感染の少ないクリーンな国」だと思われていたら、それはラッキーですよね。他の国よりも早く国境が開くかもしれませんから。実際にオーストラリアとNZの国境回復のタスマン海バブルというプランがあって、それにアジア諸国もいれてもいいかもって意見もありますし、その候補に日本もあがってます。まあ、何が幸いするかわからんね(笑)。

 話を戻すと、他の激しく閉鎖措置をやってる国に比べれば、日本の生ぬるいやりかたで(経済を毀損するには十分だが、感染を防止するには不十分という切ないレベル)、感染者であふれかえって困ってるって風でもないです。だから手段と結果の因果関係がいまいちよくわからんのが一つ。

(3)80%以上無症状という点

 感染者のうち8割以上が無症状ないし軽症なら、実質的には5分の1くらいの実害であり、最初からそこに絞ったほうが良かったのではないかという点。これが日本で検査をしない言い訳に使われているのだが、それは次元が違う問題だというのは誰もが言うので繰り返しません。

(4)実際には10倍以上の感染者がいた点

 世界各地の抗体検査の結果では、だいたい10倍以上の感染者がいる。逆にいえば頑張って対策をとっても、発見した数の10倍ものケースを見過ごしている(捕捉率10%)という実効性の少なさ、且つ「それでも全然問題なかった」(抗体検査をするまで気づかないくらい)という実益性の少なさ、この2つの問題事実は大きい。ほぼ9割について「ほったらかし」で事実上問題なかったのなら、全体についてもかなりほったらかしで良かったのではないかという疑惑も出てくる。

 やる価値がゼロだとは言わないまでも、費用対効果の問題としてもっとクレバーなやり方があったのではないかということです。

(5)感染というよりも、アレルギー的に考えたほうが良いのでは?

 このように論理的に詰めていくと、これを「感染病」として捉えない方が良いような気がします。罹患したら最後、ほぼ全員が何らかの被害を受けるのが普通の感染病の概念だと思うのですが、こんなに大多数が無症状というのはもうパターンとして違う種類の災厄だと考えた方が良いのではないか。

 アメリカの刑務所でほぼ全員に近いくらい感染しつつも、ほぼ全員に近いくらい無症状(実害なし)だったという事実や、老人ホームやクルーズ船の閉じ込めなどで高い実害率が出ていることからすれば、ポイントはむしろ本人の健康度にある。この点は、FBに書いた記事のコメント欄に書きました。収容者の96%が無症状感染だったというロイターの記事リンクはここ。

 先入観や固定観念を排してみると、ウィルス疾患というよりも、むしろ何らかの大気汚染での有害物質、あるいは花粉や黄砂など天然のなにかによって、とある症状を持っている人は、その物質と接触することで急激に症状が増悪する場合があるけど、それと同じように思えばよいのではないか。一種のアレルギーみたいな感じ。

 なので対策としては、どういう人がその対象になり、どういう機序でそうなり、どういう治療が良いかというピンポイントに絞った実務になっていて良い。少なくとも無症状感染が大多数であることは中国時点で既にわかっていたのだし。現場では多分激しく研究も進んでると思うのですけど、一般にはそれほどあがってこないし、焦点を絞っていこうという感じでもない。

 大体、集団免疫すら不要なくらいに、なんだか知らないけど世界的に収まってきつつあります。リアルタイムには南米やインドになり、最後はアフリカになるでしょう。でも大勢としては一本調子に被害が増えてる感じでもないし、沈静化しつつある。ロックを解除してみても、いきなりドカーンという感じではない。じゃあ、なんでおさまってるの?というと、理由がよく分からんのですよね。分からんままなんとなく日常が復活しつつあるという感じです。もうしばらくしたら、見えてくると思いますけど、最初からそれほどの大事ではなかった説が合ってるような気もしますけど。


(6)本当の被害と妙な先例を残してしまった危うさ

 既に重い疾患を患っている方が亡くなるケースが多いですけど、本当の犠牲というのは、本来だったら家族や愛する人々に囲まれて最後を迎えるはずが、ガラスケースの実験動物みたいに隔離され、人間的なぬくもりもふれあいも何も感じられないまま最後に至るというプロセスではないかとも思います。いわゆる尊厳死の問題にニアリーな領域の問題です。

 と同時に、これって悪用しようと思えばいくらでもできます。気に食わない奴がいたら、検査ですっていって無理やり検査して、陽性です隔離しますっていって引き離され、誰もしらないところで殺されてしまっても、即火葬にされてしまうから証拠も残らない。その気になったら殺し放題です。まあ、実際にやってるかどうかは別として、そういうヤバい可能性があることはきちんと問題視されなければならない。でも「感染祭り」みたいな喧騒のなか、なんでも罷り通ってしまうかのような前例を作ってしまったという点、もう少しやりようがあるのではないかと思われますね。

結果論で責める気はない

 とはいっても、これは結果論であり、後出しジャンケンですので、誰かを責めたり、犯人探しをするのが目的ではないです。またどこにどういうミスがとか、そういうことを議論したいわけでもないです。後日の向上のためにその種の話は必要ではあるだろうけど、本稿の目的ではない。初期のロックダウンも、医療体制を整え直すために「ちょっとタイム!」的に考えればやむを得ない措置として理解できなくもないです。

 ただ、普通に考えたら、「これだけ(感染防止)のために、あれだけの被害(経済生活)を生じさせてよいのか」という議論や、ある程度進んでから「うーん、ちょっとやり過ぎちゃったかな」とかいう反省とか進路修正とか、そういう議論が出てきても良いような気がするのですよね。まあ、実際出てるんだけど、非常に数が少ない。本当は二人に一人くらいの率でそういう意見がでてきても良さそうなもんなんだけど、なんかそれを言う人はキワモノ扱いされてるような気がする。

 つまり、ここで言いたいのは、天災部分もあるし、それに対する初動はあれこれあってもしょうがないとは思うけど、何ヶ月もたってまだそのフォーマットのまま騒いでいるのも変だし、一定時点から先は十分に回避可能であったという人災の部分もけっこうあるよなーって話です。

 次に、この人災が、ややもすると意図的にやってるんじゃないか?という陰謀論さながらの状況があって、はて、これはどうしたことか?という疑問になります。

素朴な疑問と意図性

 なんか「大騒ぎにしよう」「恐怖感を煽ろう」という意図を感じたのは、かなり初期の頃からですけど、それは、ごく普通に知りたいことが議論されないからです。

(1)いつまでたっても感染数だけで騒いでいる点

 感染者のうち一部は軽症とかいってたのが、大多数が無症状ないし軽症だというのが分かってきてからも、感染者(陽性)発見!とか大騒ぎしてるだけで、進歩がないこと。知りたいのは、うち何人くらいが重篤な症状で、検査の時点では無症状だけど、それは潜伏期だから無症状なのか(あとで重篤になったのか)、それとも全然問題なく終わってしまったのか、そのあたりの内容が全然示されない。非常に重要なポイントだと思うのだけど、相変わらず馬鹿みたいに感染発見!ばっかりやってて、なんか変だなと思った。もし、関係者やメディアが馬鹿ではないとしたら(馬鹿ではないと思うのだが)、なんらかの意図があると推察されても仕方ないんじゃないか。

(2)重篤になるパターンを正確にレポートしていない

 呼吸器系疾患で人口呼吸器がどうのという場合と、高血圧に糖尿病、心臓病など血液が問題になるパターン(おそらくACE2というウィルスの感染ルートが影響しているとか)あると言われているが、感染者数を発表するなら、その内訳も発表してほしい。現在どのような治療がどう行われているのか、なにが分からなくて、どう困っているのか。
 恐怖や不安というのは、現実を正確に知れば知るほど薄らぐが、漠然とすればするほど怖く感じる。

(3)なぜ医療崩壊になるのかの説得的な説明の欠如

 なんで医療崩壊が起きるのかの詳しい説明があるんだか、ないんだか。毎年十倍以上の数のインフルエンザや肺炎患者が病院で死んでいるんだから、数的にいって設備はあるように思われるのが、なんでないのか。全体像として具体的に何がどれだけ足りないのか。もしかして8割の無症状や軽症も全部まとめて感染者として厳重設備下においたり、必要以上に作業&設備量を膨大に増やして、それが破綻を生んでいるのではないか?破綻をいうなら、破産の債権者説明会のように、もっと具体的に説明してほしいのだが、それがあまりないし、そういう緻密な思考をさせないかのような流れになってる。こんなに大変とか、穴ほって死体埋めてるとか、「湾岸戦争のときの原油まみれの水鳥画像」のようなイメージを操作はやめてほしいですね。

(4)10倍感染者がいたという驚愕の事実をなぜか無視している点

 ここ一ヶ月では、抗体検査によって実際に十倍くらい感染が進んでた事実と、それで全然問題なかったという事実、これは驚愕の事実だと思うのだが、それとこれまでの施策を突き合わせて考え直そうという話になぜかならない。これは非常に不思議な点である。まあ、為政者としてはバツが悪いのだろうが、そんなこといってる場合ではないと思うのだが。

(5)検査や抗体に扱いについての不自然な扱い

 同じく抗体検査については、正確性が問題だとかケチをつけたりしてるし(アメリカなどの報道ではほぼ100%という話も出てる)、それをいうならPCRだって30%ミスるんだから、抗体検査だって30%くらいミスっても問題ないとも言えるのであり(そんなにミスらないけど)、そのあたりのバランス感覚がおかしい。

 集団免疫について抗体が長持ちするとか限らんとか、抗体のあら捜しばっか言うのだけど、ならばワクチンを作る意味も無くなる(抗体をつくるためにワクチンを作るのだから)話になるのだが、同じ論法で、「ワクチンなんか作っても無駄」という記事はない。おかしくないか。


 同時に集団免疫論については、到底非現実的と決めつけるような言い方が多いのが気になる。しまいには、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式にスウェーデンいじめのような記事もある。

スウェーデンいじめ
 例えば、AFPが配信している、Sweden deadliest month in 27 yearsなども、印象操作が激しすぎる。

 この見出しは、スウェーデンの4月の死者数は過去27年で最も多い→だから集団免疫なんかやると死者が増えるだけだという感じに読めます。しかし、よく読んでみると、これは単純に死者数(10,458人)であって、ガンや交通事故や老衰まで全部含めてのものです。コロナ関係全体でいえば4月だけではなくトータルで3698人。また、27年ぶりというけど、27年前の1993年12月には11,057人死んでいて、これはパンデミックでもなんでもない普通のインフルエンザの当たり年の数値です。

 ということは、結局のところ、「過去の普通のインフルエンザの当たり年ほどの数も死んでない」ということだし、そもそもコロナ関係死者が3700人程度なのに、なにもかも含めた全死者数をここで改めて問題にする意味があるのか?そこになんの報道価値があるのか?非常に疑問です。だもんで、報道価値としてはプロパガンダ的なものでしかないんじゃないかという推測になるわけですよ。

(6)「専門家」「科学的」という言葉の多用、誤用、乱用。


 同じ学者でも、Aという意見をいう人もいれば、ほぼ必ずといっていいくらい真逆のBという意見を言う人もいる。これはコロナに限らず何でもそうだというゼネラルな傾向であるのだが、要するに「専門家がいっている」というだけでは、大した理由付けにも根拠にならない、少なくとも決定打にはならない。同じエリアの他の専門家が違うことを言ってるんだから。ならばどちらが正しいのか、どちらの学説に与するのかって話になるんだけど、そこまで考究できるほどの基礎知識もないから(記者も政治家も国民も)、結局わからん、決定打にはならない。

 したがって両論併記をして結論は保留にすべきでしょ。でも未だに「専門家が言ってるから」だけを錦の御旗にしてる言説が多く、それも不思議な話。ただ、その不思議な話が、政治的に「活用」されたり、メディアの商売の道具にされたりしてる感じがするのですよ。世界的に死者数算定の根拠の言い出しっぺである「プロフェッサー・ロックダウン」(ニール・ファーガソン氏)の算出方式(コード)が結構インチキだとか問題になってますし、6週間遅れでコードを公開した頃は、本人は封鎖違反(人妻不倫)のスキャンダルで社会的に葬られている(この点は世界の素面(しらふ)化というFBで書いた)。



 オーストラリアでは今、州境の封鎖を解くべきかどうかで国論が二分されています。連邦政府、NSW,VIC、ACTは封鎖解除派で、それ以外の州は封鎖続行派で、州知事同士で舌戦、というかほとんど口喧嘩みたいな話になってます。面白いのは、どちらも「専門家の意見」を背景に援用している点で、連邦政府やNSW州は、連邦の医療副長官のPaul Kelly氏などの意見を、WAH州はRobertson氏などの意見を上げているのですが、要するに専門家でも意見が割れている。



 総じて言えば、とにかく恐い、大変だ、えらいこっちゃ!という一般的な煽りが多く、冷静緻密に考えていこうというものが少ないし、むしろ皆に緻密に考えてもらっては困るかのごとき感じがする。

起きた波に乗る人達

 これもFBの記事で書いたことなんですけど、天下のWSJ紙などからも「恐怖煽り戦略」だと指摘されています。なんでこんなに煽るのか、誰がやってるのか?というとそれは謎です。

 おそらく最初の方に、どっかの誰かが「これ、使えるかも」って気づいて煽る方向で始めたんじゃないかと思われるのですが、それに世界の皆が乗ってきたという感じかな〜。

 つまりよくある陰謀論のように、一部の集団の固定的な意思が全ての世界現象を引き起こしているってわけではなく、「これ、煽ったら面白いことになるんじゃないか」的な、「流行るといいよね」というマーケティングみたいな感じがあり、その起きた波に、あとからあとから「ああ、なるほど、使えるかも」と思った人たちが乗ってきた、という段階的、波状的な感じがします。僕にはそう見える。

 というのは、どの国も大体において初動で出遅れているのですよ。てか、最初は絶対数から考えて、それほど大きな問題ではないと(正しく)判断してたんじゃないか。でも、やたらメディアが煽るわ、国民は不安がるわでなんかしなきゃいけない雰囲気になったのと、もう一つは、それをしたほうが自分らにとっても良いだろうと思われるような「なにか」があったんじゃないかって思います。以後、政府が激しく音頭をとってなんだかんだやり始める。

 日本の場合は、オリンピックを諦めるかどうかって分かりやすい分水嶺があったのですが、他の国でもどっかの時点で分水嶺はあったと思います。「分かりやすい」といえば、東京の小池知事くらいわかりやすい例はないでしょう。オリンピック利権が有望なうちはできるだけ感染話題を低く抑えるように仕向け、それがダメだと分かった時点で、次善の策である次期都知事選のためのアピールをするべく、検査を一気に増やして感染数を上げ、オーバーシュートなり三密なり新しい用語を散りばめて新鮮味を出しつつ危機感を煽るという。もうコレ以上ないくらい「わかりやすい」パターンで、手品でいえばネタの仕込みの段階まで見えちゃってるような、鳩を服のポケットに仕込んでるところまで見えちゃってるような、そのくらいのレベルなんですけど、それでも騙される人がいるというのが凄いところです。

誰がやってるの?=みんな

 さて、恐怖煽りを誰がやってるのかという点で、FB記事のコメントで書いたことですが、本文記事からかなり時間がたってから書いたもので多分そんなに読まれてないと思うので再掲しておきます。

 「(誰が煽っているのか?という点に関連し)単純に「勢力」でいえば、米国内の軍産とリベラルかもしれないし、各国の権力の中枢の更に奥の連中かもしれないし、世界の「1%」の人たちかもしれないし、個々人レベルでは日頃の鬱憤晴らしに弱い者いじめをする自粛警察や、英語圏では“covidiots"として馬鹿にしてる人たちやら、アジア人を差別してる馬鹿や、なにかっちゃ「日本はもう滅亡する」と言ったり書いたりして印税収入を得たり、アフィリエイトを得たりしてる人たちとか、日ごろ奥さんや娘に馬鹿にされているお父さんが捲土重来的に「お前たちは何もわかっとらん!」と頑張ってたりとか。起きた波にそれぞれの思惑でそれぞれに乗っているって感じだと思いますね。

 ともあれ何らかの手で他人を支配したいと思ってる人、他人に自分の思うように動いてもらいたい人(そこまでゼネラルにするとほぼ全員になるかもしれんが(笑))にとって、他人を操れるチャンスというのは美味しい。
 そして、恐怖というのは、人の健康で理性的な批判・判断能力を麻痺させる麻薬みたいなものですから、これを世界にぶわっとばらまくと、操りやすい人が大量に増える。あとは各自の腕の見せどころってところじゃないですか。撒き餌をまいて魚がよってきたら、あとは釣り人の技量の問題で、って感じ。

 今回のやつは、恐怖心を煽れば煽るほど、国家依存度が強くなるよね。感染対策をしっかりやってほしいとか。次に生活保障で、特にオーストラリアのように休業補償をそれなりにやってる国などは、もう殆ど社会主義やBIとすれすれのところまできてるし。それに比例して、国家支配度も強くなるんだけど、お金くれるから強くてもいいわって気になるし。軍産とリベラルという、右翼と左翼が呉越同舟で連合軍を組んでいるのもこの当たりに由来するのだと思います。どちらも国家権力を強力化するという指向性では同じですからね。「強く」の内容が軍事力か人権・福祉かの違いなだけで。」


 そのあたりは、それぞれがそれぞれの思惑で動いているのでしょう。

 他にも、大企業サイドでいえば、使えないくせに高給を取ってて辞めさせたい中高年をあぶり出すために積極的にテレワークをやってみたりもするでしょう。テレワークは活用すれば、都心オフィスの経費節減にかなりの威力を発揮します。さらに、世界的な傾向としての「労働のカジュアル化=人件費節減と非保障傾向」にも合致します。

国家のアピール

 国家レベルでいえば、国家の威信回復に「使える」でしょうね。僕自身としては、現在の中央集権化した国家体制は、18-20世紀の帝国軍事主義や当時の産業レベルを前提にした最適化形態であって、今となっては時代遅れのオワコンだから、存在価値が日に日に薄れていく(てか存在自体が邪魔)と10年くらい前からエッセイでもしばしば書いてます。

 科学技術の進展によって生産力が飛躍的に増大した現在、なんでもかんでも皆で集まってやらなきゃいけないことはない。

 例えば、エネルギーでも国策企業(電力会社など)を作って、そこに膨大な権力を与え(日本でも電力会社が財界ヒエラルキーのトップ)やってたけど、自家発電やニューエネルギーのコスト安などから資源(石油など)輸入→精製→巨大発電→送電・変電なんて大掛かりなことをやらなくても済むようになっている。だからもう、送電分離どころか、電力会社なんか将来的に解体していっても良さそうなものです。

 でもそれだけ自分らの立場がなくなるという人が多いのか、ニューエネルギーに対して利権を主張するようになります。これもFBで紹介しましたけど、太陽光発電などが増えて買取費用(再生可能エネルギー発電促進賦課金の定期値上げ)が高くなった「から」という不思議な理屈で、日本の電気料金はこの5月から値上げになります。また、これは紹介してませんけど、オーストラリアでも家庭用のソーラーシステムが増えて、儲からなくなった電力会社がソーラー発電の制限をやろうとして反発を招いています。Concerns over plan to switch off household solar panels when grid is unstable。つまり、再生エネルギーの普及と電力会社の利益保護とを調整しようとしているわけで、結果的に利用者の負担増になっていてなんのこっちゃ?という話だと思います。

 国家、それも巨大な中央集権国家というのは天文学的なお金が入ってきますから、この一角に食い込めばもの凄いレベルでお金が儲かるわけで、そこにシロアリ的にびっしりたかってる人や企業がいるわけで、彼らにしてみたら国家制度が「意味ないかも〜」とかいう風潮が出てきてもらったら困るでしょう。なので事あるごとに、国家の重要性というか、ありがたみというか、愛国心の称揚というかをするわけです。国家、いいよねってアピールする。戦争なんか一番わかりやすいんだけど、だんだんネタ切れになってきて、次はテロリズムだって話になるけど戦争に比べればやっぱりインパクトが弱い。でもなんだかんだアピールしたいでしょうから、そういう人たちにとってみれば、コロナのような感染と国家的対応はいいアピール機会になったと思います。

政治家のアピール

 個々の政治家においては、断固として封鎖措置をとるとか、事細かに対応するとか、不眠不休で頑張るとか、「見せ場」が多いのでやりやすいです。本当は、もっと構造的な問題や、うかつに内情を言えない外交の問題、地味なんだけど解決困難な福祉と経済の矛盾とか、ハードに働いても目立たない、評価されにくい分野が多い。それこそが本当の主戦場であり、政治家の真価はそれで決まるんだけど、評価はされにくい。でもコロナは目立てる、美味しいです。大体、どこの国も、こういう事態になると支持率がグーンとあがるのですよね。そしてしばらくして喉元過ぎれば〜で、またグーンと急降下します。第二次大戦のイギリスのチャーチルは戦時中の支持率はものすごかったのですけど、戦争が終わって3ヶ月もしたら国民にクビにされちゃいましたからね。つらいよね。

 一方、真面目な話として、コロナという風呂の焚付みたいなものをレバリッジにして、炎を大きくして、それで積年の課題を解決してしまおうというチャンス的な部分もあります。世界的にいえば金融資本の暴走を一回コケさせて変えてしまおうとか、オーストラリアでいえば世界でもトップクラスに不動産価格が上昇して住みにくくなっている(それがひいては世代間不公平を助長している)という問題を解決するチャンスでもあります(その代わりもの凄いダメージは受けるけど)。

 ほかにも無限にいろいろな局面が出てくるのですけど、キリがないのでこのくらいにします。

幸福燃費の悪い人たち

 やや陰謀論めいてきますけど、世界を制覇したいと思っている人たちにとっても、コロナは利用のしがいがあるでしょう。

 人類家畜化計画みたいなもので、思考能力と批判能力を奪い、依存性を深くし、全てを管理できるようにすれば、自分らの支配は安泰です。ビッグデーターとか、顔認識システムとか、マイナンバー的なあれこれおとかで、どんどん管理と監視は深められます。

 でも、生産力があがっているので人々の心は昔よりは自由になります。ずっと昔は、食うや食わずカツカツで、飢饉にもなれば餓死者が出るような状況でしたので、村から出るということは考えられなかった。出ても食えないからです。行くところもない。でも徐々に農業生産力があがっていくと、余剰人員も出てくるし都市経済も発達してくるから農村を出て都会民になる人も増えてくる。それで文化も芸術も民衆レベルで進展するし、さらにそれでメシが食えるという自由度が高まる。よく言われますが、江戸時代の頃には100人のうち88人だっけ?が農業で食料作って、あとの10人ちょっとを養っていたけど、今は百人中2人くらいが食料を作って、大多数は食料なんか作ってないで他の仕事をしている。単純に食うという点に関して言えば、そのくらい生産力が上がっているし、そんなに必死こいて働く必要もないのだとも言われてます。

 でもそれじゃ「支配者」としては困るんだろうな。皆にそんなに自由になってもらったら、全然言うことを聞いてくれないし、自立されたら依存してもくれなくなる。

 じゃあどうしたらいいか?といえば、逆にすればいいわけで、とにかく経済をどんどんダメにしていって、生産力をむしろ低くするようなことをやり、どんどん食えなくしてやればいい。絶対的に食えなくなれば、どんな低賃金の仕事であろうが、どんな過酷な労働条件であろうが、餓死よりはマシだからやるしかなくなる。また、そこで多少賃金にイロをつけたりすれば、それが美味しく思えて(クソみたいな餌が美味しく感じる)、依存性も深くなる。ますます言うことを従順にきくようになる。

 災害や不況になれば、真っ先に弱い人から順にしわ寄せがきます。中流層もどんどん貧困層に落ちていきます。ここ20年の先進国の状況がまさにそれでしょう。ともあれ話は簡単で、弱い人をどんどん困らせればいい。弱くない人も困らせ弱者に落とせばいい。貧富の格差を広げるというよりは、自分ら以外は全部貧困者にするくらいにすれば、どんどん依存してくるので、都合がいい。

 コロナはそれに使えるわけですね。単に経済を壊してるだけだったら、何すんねん!って怒られるだけなんだけど、感染だ、恐いぞ、死ぬぞと煽れば、恐怖心によって冷静な判断もできなくなるし、多少のことでも「仕方がない」と思ってくれますからね。

 まあ、そんな具合にやってる人がいるのかどうかは謎です。でも、まあ、可能性としてはあるでしょう。少なくとも自分らを支配者的な存在だと勘違いしてる人はいそうな気がしますね。

 しかしですね、と、全然視点の違うことを僕は思うのですが、自分がそういう支配者的なものになりたいか?というと、全然そうは思いませんね。

 だって、幸福燃費というか、幸せを感じるまでの段取りが異様に面倒臭いじゃないですか。幸福といっても、ありていにいえば、「ちょっといい気分になれる」ってことくらいでしょう?世界の全人類に平伏され、帝王として君臨するのは、確かにちょっといい気分になれるでしょう。だけど、そんな気分になりたいために、わざわざ全世界を支配しなきゃいけないのはコスパ悪すぎでしょう?

 ちょっといい気分なんて、よく晴れた青空や、きれいな夕焼けでも味わえますし、人と人との間にぽっと灯った温かい交情でも感じられます。経費ゼロ、手間暇限りなくゼロで実現できます。燃費いいです。それを、また、あれこれ画策して、陰謀はりめぐらせて、せっせと実行して、世界を支配?って、どんだけ燃費悪いんだ。そこまでしなきゃ幸せになれない体質というのは、ある意味、不幸の極致であるともいえます。

 なので、その種の目論見が現実にあるかどうかはともかく、またそれに対する怒りや批判よりも先に、「はは、ご苦労なこった」って思いますね。まあ、せいぜい頑張ってください。


ド庶民の対抗策

 それに対する僕ら一般ド庶民の対抗策としては、

(1)簡単に煽りに乗らないこと
(2)幸福燃費をよくすること

 に尽きると思います。
 (1)は誰もが言うことですけど、騙されるんじゃないかとビクビクしてる人に限って一番騙されるって話もありますから(笑)、あんまり他人の意見を聞かない方がいい、、、というと語弊があるかな、言いたいのは、どっかに正解が落ちてないかなと探すことはやめたほうがいいと思います。

 自分の頭で考えろとかいうけど、その際大事なのはあんまり背伸びをしないで、普通の話として論理がちゃんと転がっていくか、こーなってあーなってこうなるという話の流れのなかで、どっかで「分かりもしないのに分かった気になってる部分」「なんとなくいつも見てるから見慣れてしまってるだけで、本当はわかってない部分」があるかどうかです。

 「えー、なんかよく分かんないんだけど、、」と自然に思えた部分って、意外とポイントを突いてたりしますから。その素朴な疑問を大事にしてたらいいかと。そこを「まあ、でも、皆そう言ってるし」とかでクリアしないことです。

 次に幸福燃費ですけど、これは若い人の方がよくわかってると思います。上の世代になるほどに財物に毒されているからわかりにくいんじゃないか。どういう状態になったら自分は一番ハッピーになれるのかという洗練と削ぎ落としなんですけど、多くの場合に無駄にエネルギーを浪費して燃費が悪くなっている。最低限の資力や物材、社会的な身分などは必要だろうけど、一定レベルを越えてきたら、それを得るための労力と、それによって得られる幸福量の割合比率が悪くなっていきます。どんどん頑張った甲斐がなくなっていくという。年収200万円の人は、年収一千万が羨ましく思うかもしれないけど、実際に自分がそれだけ稼ぐようになったら、もう自分の時間が極端に無くなってくるし、入ってくるお金も増えるが、それ以上になんだかしらないけど出ていくお金もどんどん増える。

 思うのですけど、小中高校くらいまでの時代に、自分がハッピーになれるコツやヒントは全部入ってると思います。金がないときはヒマがあるとかいいますが、単にヒマがあるだけではなく、そういう時期には色々考えるから、自分の内面世界が広がるチャンスでもあります。小学校5年のときの自分と、高校3年になったときの自分とを比べて、何がどれだけ成長したか?というと、誰でも爆発的に広がってると思うのですよ。それは例えば、音楽でも漫画でも映画でも小説でも、小学校の時に知らなかった世界がぶわっとひらけたと思う。また、恋愛経験なんかも小学校の頃とは違うと思う(まあ、人によるけど(笑))。そして、あなたが今30歳なり40歳だったら、あの十代前半くらいの時期に好きだったもの(音楽のジャンルでもスポーツでも)、そこで得た快感世界というのは、今も尚通用すると思います。そして、それと同じくらい爆発的に自分が広がった時期ってあったか?と。比較出来るのは海外でワーホリやってるとか、そんなときくらいじゃないですか。

 確かに面白い仕事をすれば充実もしますし、視野も社会も広がりますよ。いいことですよ。でもね、こと純粋な「楽しさ」「幸福度」の質量でいえば、僕自身も思うのですけど、文化祭や部活で盛り上がっていた頃とか、初めてビビリながらライブハウスいったときとかの方が上だったようにも思うのですよ。

 過去に何度も書いてますが、なんで弁護士やめてオーストラリア来たの?の理由の一つとして、感性が摩耗してハッピーになれる燃費が悪くなってるからだと。激務の間に、ふと、気づいてしまったわけです。子供の頃にカブトムシが取れたときは死ぬほどうれしかったけど、あれだけ純粋にうれしかったことって最近あったかな?どうかすると司法試験受かったときの喜びでもあれほどではなかったような、ましてや日々の仕事がうまくいったとか金が入ってきたとかそのくらいではとても比較にならんな、と。子供の頃はカブトムシ一匹であれだけの幸福を得られたのに、今、同じだけの幸福を得ようとしたら、いったいなにをすればいいのか?フェラーリでも買うしかない(買えないけど)のか、カブトムシなんか無料なんだけど、フェラーリは三千万はする。おお、なんたる効率の悪さ!昔無料だった幸福が、いまは三千万出さないと得られないと言うのか、なにかが大きく間違っているのではないか?と。そうだそうだ、こんなことやってる場合ではないわで、こっちにきたわけです。初めてきた時、殆ど海外初めて状態で来ちゃったときは、「やべえ、マジに来ちゃったよ」と思いつつも、朝のシドニー空港やらなにやらの風景と空気感で、カブトムシレベルの高揚感は得られましたね。

 僕としてはあそこで幸福燃費のアジャストメントをやったのが良かったと思ってます。それと同じように、幸福燃費を点検されるとよろしいかと思います。

 でないと、世界の人々を自分の支配下にいれないとダメとか、もの凄い燃費の悪い話になっちゃいますよ。ああはなりたくないでしょう(笑)。


 さて、今回の騒動は、「感染危機によって浮き彫りになる人間喜劇」みたいな戯曲みたいな感じがします。パニック映画のように、絶対状況に追い詰められると、日頃の虚飾が剥がれてそれぞれの人間性がむき出しになるような。

 そして起きた波に乗ろうとする人でごった返しているし、既に経済破壊のドミノ倒しは始まってますので、あとは因果の流れで、これがコケたらあっちもコケてというのが展開していくでしょう。悪い話もあるけど、悪い話ばかりでもない。例えば、シドニーの賃料はどんどん下がってます。シティの物件なんか、週百ドルも下がってるらしく、不動産屋さんへのインタビューでは、業界歴長いけどこんなの初めて、とか言ってます。僕もチャンスがあればって思って探してるんですけどねー。


 また、これもFBの記事で書いたけど、経済→ギグ・エコノミーのさらなる台頭が逆に予想されることも挙げられてます。なんで?今回、一番激しく影響を受けてて、やっぱ正社員が一番とかじゃないの?と思うかもしれないけど、悲惨さも一定レベルを超えると社会問題化していって、改善の兆しが出てくるわけです。歴史的にもそうだったし。

 そんな折、歴史的といっていいような(landmark court ruling )オーストラリアの連邦高裁の判決が出てます。

 これは形式上カジュアルであっても、"regular, certain, continuing, constant and predictable" なものであれば、フルやパートと同じように有給休暇やシックリーブ(有給の病欠)ができるという画期的なものです。

 カジュアルやギグに対する配慮をという声は、今回のコロナでかなり激しくなってきており、国としてもいつかはこの問題に対処しないといけないわけですけど、それが徐々に形になってきたという感じでしょう。

 ま、他にもいろいろあるのですが、長くなったので次回にします。
 今回はこれまでのまとめがメイン、次は「これから」を書こうかと。




文責:田村


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