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今週の一枚(2015/03/02)



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Essay 712:空さえあれば〜グラニーフラット日本論

 写真は、京都の三条大橋付近で、「お」と思って撮ったもの。

 なにが「お」なのかというと、これ、まんま屏風絵じゃないかと。風景がそのままアートしてるぞと。
 この写真、よくみて脳内スクリーンで、背景からビルだけ除去してみてください。上手に想像できたら、日本画の屏風絵になるでしょう?

 東山三十六峰をバックに、いい感じに枝垂れている木(桜か)、そこに大きなカラスが二羽。日本画のモチーフでよくある「寒鴉(かんがらす)」です。そして雪すらもはらみそうな白い冬空。うわ、カッコいい〜で撮った。「東山如月寒鴉枯桜枝ノ図」とかになりそうな構図。

 しかしそれにつけても、致命的に邪魔をしているのが近代ビル群。もう、すげー邪魔。山もカラスも枝垂れ桜も空もみんなアートしてるのに、ビルだけがアートしてない。ほんと、現代文明ってなんなのよ?意味あんの?って思いましたねえ。


日本ソフト

 というわけでまだ日本にいます。もうすぐ戻るけど。

 日本に帰ると「日本対応ソフト」というアプリケーションを立ち上げる必要があるのですけど、5年くらい空くと、その途中でパソコン買い換えたりして、昔使ってたソフトも全部無くなってしまって、バックアップしてある書庫みたいなところから探してきて、「えーと、どうするんだっけな?」てな感じでインストールするのですが、1年半くらいだったら、まだ現在使用中のパソコンにそのままソフトが消されもせずにあるから、すぐに立ち上がるという。ゆえにそんなに違和感なく、あんまりカルチャーショックもない、という感じですかね。

 アプリが立ち上がってないときは、日本に居てても「なんでここに居るの?」というのが自分でもしっくりこなくて、電車乗っても、街歩いても、半分夢の中の世界のような感じですが、今回はそれもすぐに収まり、居るのが当たり前になりました。

反復・確認・安心

 ただ、この「なんでここに」感は、日頃僕がお世話している皆の感覚でもあるので、僕にとっては貴重なリソースです。この船酔いのような浮遊感はどうすると鎮静していくのか?とか、目の前にある違和感のある現実をそのまま受け入れるためには何が必要で、どのくらい時間がかかるのか、とか。普段は無意識にやっちゃうんだけど、そのへんを意識的になってみるとか。

 例えば「同じ物事を連続して体験すると落ち着く」「土地勘が出来るに従って急速に落ち着く」とか。初めて訪問したビルや建物でも、2回以上同じ場所(トイレとか)にいくと落ち着く。最初は案内や指示をうけて「おう、ここか」でトイレにいくんだけど、二回目は自分だけで行ける。つまり「ここにコレがある」「ほらあった」という予測→現実確認という事象が何度か続くと、その限りで「たしかな現実」になるのでしょうね。その確かさの分だけ落ち着く。

 ま、人間の認識や認知というのは、帰納→演繹→検証を繰り返して形成されるものでしょうから、当たり前の話なんですけど。ある体験をして「なるほど」と何かを学び→「じゃあ、これもそうかな?」でやってみると→はたしてその通りになって、「なるほど」感は高まり、「おし、わかった」になる。分かった物事や分野については、わりと安心できる。ほっとするので落ち着いてくる。これが例えば新環境(現実)において、心が安定していく過程なのだろうと。

 ということは新環境で落ち着いていない人を落ち着かせるためには、この「繰り返し」が結構キモになるのだろう。いつもと変わらぬ佇まいのトイレであるとか、玄関であるとか、近くの信号であるとか。そして、朝起きたまんまグシャっと乱れたベッドであったり。

静的安定

 そして思った。ああ、なるほど、これが「保守」というものかと。
 別の言葉でいえば「静的安定」で、同じ物事が同じように存在し続けていること。それは大いなる心の安定につながる。このHPの本文にも書いたけど、「海外だあ!」で勢い込んで来たのはいいものの、ここにいくと日本語が通じるとか、日本食はここで手に入るとか、日本の本はここでゲットできるとか、やってることが1年( or 滞在期間)がかりで日本での旧生活環境を再構築するだけだったりして。ピークは空港で、あとは自分の周囲の「外国度」「違和感」を薄める作業ばっかりで、要するに1年がかりで事実上「帰国」してるんだろうなあ。気持ちはわかる。安心とか保守とかいうのはそういう側面も含むし。

 これって勢い込んで「改革だあ」ってやるんだけど、いざ実行段階になると、ここで困るから、暫定措置としてとか何とかいって、どんどん改革のエッジを失わせ、骨抜きにしていく過程に似てる。要するに変わりたくないのだろう。ではなぜ変わりたくないのかといえば、それが心の安定に資するからでしょう。

 しかし、変わらないがゆえの安定は、退屈でもある。毎日決まりきったことばかりだと、それは安定感は抜群かもしれないけど刑務所生活とあんまり変わらないわけで、詰まらない。やっぱり多少は変わってくれないと退屈でおかしくなってしまう。

ブーム=刑務所の慰問コンサート

 あ、だからか。
 日本ではやたら「ブーム」がある。オーストラリアから見てたら、高速回転するコマのように、ビデオを早回しで見ているように、新しい商品、新しいキャラ、新しい事件が湧いては消え、出現しては薄れていくのだが、あれはそういうことだったのか。「安心」を手放さず「変化」だけを求めると、着せ替え人形みたに非常に限定的な変化だけになってしまう。抜本的な変化は保守性に反するから受け入れられない以上、そこで求められるのは退屈の解消、つまりは暇潰し的な変化であればいいわけで。

 しかし、もともとが限定的な変化であるからズーンと尾を引く効果や、世界観が逆転するようなこともない。インパクトが弱いし持続性もない。すぐに飽きるし寿命も短い。だとしたらエキセントリックな珍奇性を求め、そして出現サイクルを早めるしかない。そういうことなのかもしれない。ということは日本国内で「消費」されるニュースや新製品というのは、要するにあれね、刑務所内の慰問コンサートのようなものなのね。

自分が変わるほうがコスパがいい

 こんな小ネタを長々書くのも気が引けますが、ほんでも刺激が欲しかったらそういうやり方じゃダメでしょう。テレビとかPC見ててもダメっしょ。だって客観的には同じ部屋の同じ物体(ディスプレイ)見てるだけで何の変化もないんだもん。対象物に変化を求めるよりも、自分の居場所や自分そのものを変えてしまえば、他は全く変わらなくてもガラリと全てが変って見えるからら面白いですよね。

 僕は日本にいるとき、サメみたいに絶えず泳いでないとダメなタイプ、落ち着きのない子供がそのまま大きくなっただけと言われてましたが、だから変化させること(それに伴う面白さの追求)については年季があります。あります!とかキリッと威張ることでもないんだけどさ。でも、退屈なクラスでも、席替えをした直後はなかなか新鮮ですもんね。対象を変化させるよりも、自分が変化するほうがずっとお手軽で、しかも効果は数倍(数十倍)増。コスパええよ〜。部屋の模様替えやイメチェンに始まり、生活パターンを変えたり、引っ越ししたり、仕事変えてみたり、住む国を変えてみたり。

動的安定と新陳代謝

 自分が変わる場合、静的安定ではなく動的安定スキルが必要でしょう。動かないことで安定するのではなく、動くことで安定するという方法論と技術ですね。前にも書いたけど。要するに自転車に乗ってる状態です。あれは絶えず前に進むからこそ安定するし、絶えずバランスに配慮しなければいけない。サドルにまたがって静止ポーズをとってたらすぐにコケてしまう。動いても安定する、ではなく、動くからこそ安定する、動くことによって安定させるという技術です。これが動的安定。

 ニアリーな概念でいえば、例えば新陳代謝。前に冗談でSF話を書いたけど、地球型生物〜炭素をベースにした有機生命体は、分子間の結合が不安定で絶えず変化してしまう。だから変化させることで生命を維持するように設計されている。ここで分子間結合を安定的なものにしてしまうと、岩石みたいな鉱物になってしまうそうな。

 ただ、動的安定を図る場合、チャリと同じでバランスが命です。実際の生活や人生においてのバランスとはなにかといえば、うーん、多分価値観なんでしょうね。自分らしさというか、自分が自分であり続けるための主たる要素はコレとコレってある程度わかってると楽ですね。別に言葉として明確に認識する必要はないけど、無意識的にも、本能的にも「これは必要」だと。

削ぎ落とし

 より実践的に大事なのは「これは要らない」という削ぎ落とし作業でしょう。ずーっと同じ環境でいると、周囲の環境と自分自身のアイデンティティの境界が溶けてきて、外界=延長自我になって、外部環境をちょっと変えただけで、自分が自分でなくなったような、自分の手足を切られたような痛みを感じる。そうなると頑迷ターボが機能して、1ミリも動かせないって感じになっちゃう。そうなるほどに変化は出来ず、新陳代謝も出来ず、老廃物がたまって死んじゃう。

 「こんなの本当は要らないんだよな」ってそぎ落とし作業ですね。周囲の持物の断捨離だけではなく、もっと抽象的な。ネットがないと死んじゃうわけではないとか、学歴もキャリアも意味ねーよねなとか、カネだけあってもダメだよなとか。手段的には有用だけど、本質的ではないなと。本質ではなく手段であるなら、なんぼでも代替手段はあるはずだ、ほらあったとか。そうやって消去法的にバサバサ切っていく。

 他方では、「これさえあれば」という加算法です。「味噌煮込みうどんさえあれば、私は私でいられる」みたいな。その要素が少なければ少ないほど、それだけキープしてればいいから身軽ですよね。「この子さえ元気でいてくれたら」「健康でさえあれば」とか。女の子とイチャイチャできたらそれでいいとか、どこであれキャーキャー言われたいとか。落ち着ける万年床があればそれでいいとか、酒が飲めたらそれでええんじゃとか、貴方さえそばに居てくれたら他には何も要らないってやつ。

数を増やさず、賞味を深める

 僕個人でいえば、大切に思う人がいて、くっだらない事言って腹抱えて笑える仲間がおって、メシがうまくて、空がきれいで、適当に「おお」と思える物事があって(音楽とか街角とか)、、、これだけあったら十分です。あとはこれらが満たされるようにテキトーに生計立てるだけで。

 これらが満たされたときになすべきことは、もっと欲しがることではない。もう欲しがらないことでしょう。欲しいものを得ているときになすべきは、感謝であり、賞味でしょう。英語でいえばどちらも同じ単語になるけどアプリシエーエション(appreciatation)。I appreciate your help.というとThank youよりも丁寧な言い方になるあれです。その物事の本質を正しく理解し味わうこと=感謝すること、理解なくして感謝なしって、英語の世界観もなかなか捨てたもんではないという。

 まあこういうと嘘臭くて、説教臭くて、ジジ臭くて、抹香臭いんだけどね。「足るを知る」ってやつだけど、でも、多少合理的らしくみえる根拠をいえば、この「○○さえあれば」の数を増やしていくと、マネージしきれなくなるんだわ。ちょうどジャグラー、お手玉みたいなもので、3つくらいだったらなんとか出来ても、4つ5つと増えるに従ってしんどくなっていく。あれもこれも20個玉くらいになってきたら超絶技巧が必要で、普通そんなの無理だから、アレにかまけているとコレがダメになる、出世に夢中になってると家庭が荒廃するとか、破綻する。そうしないように全てを小粒にまとめて万遍なくやってると今度は器の小さい面白味のない人になってしまう。買い物のスーパーの袋を目一杯持って、もう小指にこの袋、薬指にコレとかやって、片手で傘さして、さらにポッケから鍵を取り出して、さらに、、とかやってると、やがてツルッと指が滑ってドンガラガッタと崩壊するという。卵が割れる。無理なんだって。だから絞れと。

 数を絞るのはマネージしやすいという便宜性だけではないです。その方が快楽が深まるからです。とにかくありったけブチこんで〜って闇鍋みたいな方法論は、20代、30代には有用です。この時期には視野を深めるよりも、視野を広げる方が遥かに効率がいい。んでもある程度やってると「もうキリがないわ」ってのもわかってくるし、だいぶ集めてきて鍋も溢れかえってくると、今度は広げるよりも深める方が効率がいい。数を減らしても深くなっていけば、それでいい。ある程度食材や具を調達してきたら、今度はしっかり味わい、微妙な味の違いがわかるようになった方が快楽は深くなる。

 この歳になって段々わかってきたことですが、井戸を深く掘っていくと最後には地下水脈のようなところに出るので、全てに通じるようになる。一つを深めていくと全部得られるようになっている。どうもそういう地形になっているみたい。だから数を増やすとか減らすとか井戸の数が問題なのではないのだなと。どうせ行き着くところは同じだから。

空さえあれば

 僕の場合、究極に一つだけにしろって言われたら、多分「空」じゃないかな。空がきれいかどうか。空がきれいだったら自分で居られるような。大切な人を大切にするにしても、自分が自分でなくなったらそれも出来ないわけで。だから空。メシも馬鹿笑いも大事だけど、でも空。日本の空、特に都会の空はそれほどのパワーはないけど、オーストラリアの空にはある。

 「空」っていうのは結局は「世界」の象徴なのですね。「天」でもいいけど。「この世があって、自分がいる」というシンプルな基本形さえ確認できたら、そしてその世界が好ましい感じでいてくれたら、なんか落ち着く気がする。全てを肯定されている気がするし、全てを肯定したくもなる。自分を肯定できる気がするし、自分が自分でいられる気がする。

 でね、空は地球のどこにおっても大概同じです。青くて、雲があって、太陽や月があって、、ってのは同じ。まれにオーロラとかあるかもしれないけど、まあ概ね同じ。

 これが冒頭で述べた、「いつもと変わらないものを確認して安心」というのにつながる。
 と同時に、常に変化してて、いくら見てても飽きない、退屈しないのも空。
 変わらないけど変わってる。
 静的安定でもあり、動的安定である。
 安心するけど、退屈しない。

 もう「あるけど無い」みたいな絶対矛盾の自己同一みたいな、すげー存在です。

 だから、空。見上げた時に空があって、空がきれかったら、まあ大概のことはなんとかなるよねって。
 なぜって空がいつものように青くて、赤くて、白くて、グレーで、綺麗で、凡庸で、壮麗で、長閑で、ときとして凶兆をはらみつつもその全てを飲み込み、高く、あるいは低く、意味ありげで、意味なさげで、、、って佇まいでいてくれたら、多分、自分は自分でありつづけられるから。自分が自分であることさえできれば、大抵のことはマネージ出来る。それだけの技量はこれまでに身につけたし、身につけてなかったらそれはオノレの自業自得だし、まあ、いずれにせよ、納得はするわな。

 世界をちゃんと感じてられたら、反射的に今ここにいる自分の立ち位置も結構クリアに見えてくるってことですね。地表上の大気圏下にいるんだったら、地球のどこにいようが「空の下」にいることは変わらんし、「世界のなかに自分がいる」という基本構造は変わらんわけで、それでいいじゃん、あとの諸々(生計とか、趣味とか、人間関係とか)はオカズでしょ?「季節の野菜」みたいな。

 ほんでもって修行を続けていたら、そのうち空もいらなくなって、自分すらもいらなくなって、てか同じことになって、そこまでいったら免許皆伝で仏サマになるんでしょね。成仏ってことですね。まあ、道は遠いぜ、Baby〜。

グラニーフラット日本論

 さて、すっとソフトが立ち上がってすっと溶け込めた今回の日本は、それはそれは快適で、ニートで(neat=きちんとしているって意味で、無為徒食のNEETではない)、肌触りすべすべでありました。ほんでも、長くは居たくないですね。いつか発狂しちゃいそうで。

 グラニー・フラットという言葉が浮かんだ。裏庭におばあちゃん(グラニー)が住む、半独立した建屋のことで、日本の昔ながらの住まいでいえば「離れ」です。

 そこではつつましくも好ましい家具調度が置かれ、品の良いカーテンやら、ダージリンの容器やら、小さな薔薇園なんかあったりして、ふうわりした居心地のいい落ち着いた空間。おばあちゃんも優しいし。まあいいわけですよ。

 でも何かが決定的に欠けている。ちょっと遊びに行って、上等な紅茶とマドレーヌをご馳走になって、おばあちゃんと会話するのはいいんだけど、死ぬまでそこに住めと言われたら俺はイヤだ。なぜならそこまで老けてはいないから。もっと生々しく、ギラギラした、いっそ野卑で野蛮なくらいのエネルギーが欲しいから。ちょっとくらいだったら楽しめても、一生ちんまりとお行儀よく正座してろってのは無理だ。もう20年くらいして枯れてきたらそれもアリかもしれんけど、今はまだ無理。おそらくはエネルギーが鬱屈して、鬱屈して、人格のフレームが歪むか、「うきゃあ!」と暴発してしまうかしらん。発狂するかも、というのはそういう意味です。

 なんつのかな、狂った龍のような奔放なエネルギーと交じり合い、からみあい、ほとんどエネルギーとセックスするような快感というのがあって、一遍でもそれを味わってしまったら、それを忘れろというのは無理ですよ。すげえ奴ら、規格外の奴らは世界にうじゃうじゃいるし、てか自分以外の全員が凄いくらいだし、人間力で全然及ばないし、ありったけの自分をぶつけても暗い池に小石をポチャンと投げ込んだくらいの虚しさだし、もう全然〜!って。なんという卑小感、なんという無力感。でもそれが好き。ずっと身をかがめているくらいなら、ずっと背伸びしている方が好き。背伸びしてりゃそのうち本当の背丈が伸びるかもしれないけど、身をかがめていたら腰が曲がってしまいそうだもん。

 おばあちゃんの離れもきらいじゃないけど、やっぱ本拠地とするのは、散らかり放題の小汚い「部室」みたいなところが僕は好き。エネルギーはある。てかエネルギーしか無いみたいな場が好き。自分のアジトはそんなところが好ましい。

Ignorance is bliss

 ただしずっとそこに居って、それしか知らんかったら別にそういうもんだと思うでしょう。それも分かる。そしてそれが悪いわけではない。刑務所、あるいは王宮に生まれ育てば、そこが世界の全てだと思うだろうし、それなりに快適に人生を過ごすだろう。それも全然アリだと思う。それは地球に生まれ育って地球が世界の全てだと思っているのと何が違うか?といえば、単なるスケールの差でしかないから。

 でも、一度でも刑務所やら大奥の外に出て、比較するだに愚かしいほどに巨大で自由な世界があるのを知ってしまってから、再び刑務所・王宮に戻ったら「監禁されている」という閉塞感を感じるだろう。その意味では知らない方が幸福で、Ignorance is bliss (無知は幸福、知らぬが仏)というのもわかる。

 でもって、しげしげと日本の街並み、とくに色とりどりの商品にあふれたさんざめくデパ地下なんぞを見てると、これに不満を持てというのは無理かもしれんなとも思った。おばあちゃんの離れのキッチンに誇らしげにズラリと並ぶ紅茶やハーブの容器の数々。なんでも豊富で、綺麗で、至れり尽くせりで、何が悪いの、何が足りないの?ってな感じでしょう。それも分かる。

世界がない、空がない

 何が足りないのか?
 あまりにも巨大すぎて気づきにくいかもしれないけど、「世界」がないじゃん!

 リアルな世界に当然のように存在するザラザラした「破綻」がない。「謎」がない。「恐れ」がない。本来が滅茶苦茶で無限の可能性をもっている人間らの集団で、そんなことはありえない。逆に言えば、全てを限定して閉鎖させるからこそ、全てを破綻なくニート&タイディに出来るのでしょう。それは刑務所が常にきちんと整理整頓されているのと同じように。

 なんだか良く分からない店があって、たぶん食糧品店なんだろうけど、何をどうやって食うのかさっぱり見当もつかない謎の物体が並んでて、奥の方にはなにやら薄気味悪いなにかが吊るされてて、、って、怖いんだけど好奇心を刺激され、ビビるんだけど面白いってのが、この世界のリアルでしょう。子供の頃に背伸びして大人の世界を垣間見たように、ほの暗い廊下の先では、想像もできないような何かが繰り広げられてるんだろうなという。このドキドキが世界の感触だと僕は思う。

 綺麗で、豊かで、全てが手に取るようにわかって、分かるように解説されていて、、ってこと自体が、既に大虚構のように僕には思える。リアリティがないよ。この世のことなんか、そのほとんどが謎だよ。なぜフラれたのか?本当のことはおそらく死ぬまでわからんよ。わかるわけないじゃん。誰かが分かりやすく解説してくれるなんて事はありえない。仮に解説らしきものがあったとしても、それが正しい保障なんか全くない。

 濃密なジャングルや暗い森が目の前にぐわ〜と広がっていて、おっかなびっくり手探りで進んで行くっていうのが、生きていくことのリアルじゃないの?なんでそんな当たり前の前提が脱落してるの?

 だからここはちょっとしんどいな〜って思った。

 もっと端的にいえば、「空」(つまり世界)がちょっとヤバイなと。
 この空だったら、自分が自分でいられる自信がないな、と。


 そういえば、高村光太郎の有名な「智恵子抄」に「智恵子は東京には空がないと言う」というくだりがあるけど、智恵子さん、あんたもそう思ったのか。



 ま、だからといって、それほど絶望視しているわけでもないです。
 行くところに行けば、世界のリアルを知っていたり感じさせてくれる場も人々もいくらでもいますから。
 また、この舞台の書割みたいな現実がビリビリと割かれ、外界の荒々しいリアルが押し寄せてきたとして、その時点では皆も当惑するでしょうが、すぐさまそれに慣れ、的確に行動するだろうとも思いますから。

 ただ、行くところに行かなきゃいけないのが面倒臭いし、ビリビリと破れるのを正座して待ってるうちに足が痺れてきそうで、それがヤだな〜と。それだけのことです。




文責:田村