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Essay 913:なぜ仕事(世界)はこんなにも詰まらなくなっているのか?

 〜成長限界と銭ゲバ主義のよる歪み

2019年11月18日

写真は、セントラル駅の近くからBroadwayを西方向に見たもの。歩いていたら、やたら写真を撮ってる人が多いので、なんだろうと思って振り返ってみたらこの風景でした。壮麗な夕焼けが、UTSの新ビルのガラスに反射して、すごい面白い風景になっていたのでした。




 「最近なにかと世界が詰まらない理由」ですが、これ、ずっと前に、「僕の心を取り戻すために」シリーズの一番最後に書いたことがあります。

 僕の心を取り戻すために(10)なにかとやりにくくなりそうな地球のことというタイトルで、1999年4月に書いてます。もう20年前の話だよね。

 市場原理が極端に推し進められると、巨大企業の寡占化が進んだり、人々の生き方の選択肢が狭まったり、しまいには市場原理そのものが歪んでいって、「なにかとやりにくくなりそう」って予見してたんですけど、Unfortunately、悪い予感はよく当たるじゃないですけど、そうなっちゃってます。

 特に最近はその歪みがひどくなってきてるし、同時にその反動もだんだん世界規模で見えてきたこともあり、ちょっと書いてみますね。


前提〜先進国の伸びしろの枯渇

 これはもう何度も書いてるので簡単に。
 今、先進国の消費者=僕らに、欲しい「モノ」はそんなに無いです。昔は欲しいモノだらけで、小学校の頃の自転車が欲しいに始まって、ステレオでも、ギターでも、車でも、服でもなんでも。相対的な値段でいえば、昔のほうがずっと高かったです。バイト代時給400円時代に、フェンダー22万円、ギブソン38万円は絶望的な距離感あったよ。今は時給千円くらい都市圏だったら出るし、フェンダーJAPANだったら10万切る。ステレオなんかでも、お小遣い月3000円時代に、システムコンポ全揃い38万円とか、もうありえないのですよ。だから欲しかったというのはあるけど。

 と同時に、その当時は新製品はそれだけ画期的だったし、魅力的でもあった。高いけどそれを買わないと得られないという唯一無二の内実もあった。だけど、科学技術の進化は素晴らしく、そのくらいの性能や機能だったら安い廉価版でも標準搭載になっていった。よく言われるけど、昔だったら、カセットテープとカセットデッキ(ラジカセ)とマイクとステレオセットとビデオカメラとビデオデッキとテレビ(ディスプレイ)で〆て総額62万4800円になりますってくらいのものが、スマホ一台で済んでしまっている。

 それはテクノロジーが進歩する以上当然の話ではあるのです。途方もない巨額の開発予算を投入し、試行錯誤を繰り返してようやく出来た新技術は凄い値段がして当たり前だけど、販売台数が増えれば一台あたりの単価は下げられる。また競争相手も出てくるから、うかうかしてると価格競争力で負ける。そもそも技術が進化するから、昔のようにあーやってこーやってという複雑なダンドリをしなくても、ボタンをぽんと押したらはい出来上がりみたいになって製造コストそのものが安くなる。そんなこんなでどんどん安くなる。電卓だって登場した当時は、ピンボールマシンみたいに巨大で、価格も百万円したけど、昭和時代ですらオマケで電卓くれるくらいに限りなく無価値になってしまった。

 それでも前進するなら、どんどん画期的な新商品を生み出すしかないんだけど、もうネタ切れ。技術的にも踊り場に来てるのか、これ以上のものは、またダビンチやエジソンクラスの天才が出てこないとダメじゃないかと。空間の歪曲を自由に利用して文字通りテレポートが出来る技術とか、タイムマシンとか、重力を自由に遮断する素材やらが出来て誰でも自由に空を飛べるとか。

 エジソンのラジオだって、ラジオのままだったらどっかで頭打ちになったと思います。音がきれいだとか、外装に本物のマホガニー材を使いましたとか、そういう量的な変化だけではダメで、やっぱり「絵が映る」というテレビになって次のステージにいけた。そして、白黒当たり前だったのが「色がつく」という画期的な変化になり、さらに録画(ビデオ)になる。それまでは見たい番組があったら、全力疾走で帰ってこなければならなかったもんね。見過ごしたら、数年先の再放送があるまで絶対に見れなかった。だからビデオは画期的だったのですよ。でも、そのあたりで行き止まりでした。そっから先は同じ飛距離のある開発もアイディアもない。

 この先残っている画期的な飛躍は、例えばフォログラフなどできるだけ映像をリアルにするとか、匂いまで嗅げるように臭素をデジタル解析して再現するとかですけど、まだまだですしね。3DとかVRとかありますけど、現実と全く区別がつかないってレベルには到底達していない。モンゴルの大平原に佇んでいる臨場感が本物と寸分たがわぬくらいになり、風の体感や、草の香りすら感じられるようなリアリティが得られたりするようになれば、か〜なり生活は一変するような気がするし、また精神療法などでも関連エリアも飛躍するかなって気がします(旅行業界は大打撃を受けるかも)。

 というわけで商品的な伸びしろはそんなに無い。昔の飛躍的な転換を知ってる人からすれば、ほんとに無いです。循環的な流行とか、マイナーチェンジとか、話題ネタ便乗とか、その種のマーケ技術で生き延びているけど頭打ちの感は否めない。

 昔、「物財幸福主義は70年代に終わっている」というエッセイを書きました。2006年でエッセイ番号で245-248ですね。その繰り返しですけど、ほんと実際には70年代に終わってますね。旅客機の速度もその頃で頭打ちだしね、ビルの高さもそんなに伸びてないし、興味もないし。「2001年宇宙の旅」という映画があったけど、昔は2001年ってあのくらいの予想だったんですよー。はるか遠くの宇宙まで普通にいってるという。だから2020年とかいったら超絶的な未来で、飛行機なんかマッハ30くらいになってて、もちろん普通にやったらGで死ぬから、減圧G技術も飛躍的に進化して、東京からシドニーまで20分とか。NYに一日5往復出来るとか、フランスの高級レストランから東京まで普通に出前を頼めるとか(笑)。全然そうなってない。70年代で止まってるね。宇宙開発もほったらかしに近いよね(やってるけど注目されない)。それが70年代。それって50年前ですよ。終わって半世紀たってるのに、発想はまだ昔のままの成長主義で、もうどんだけ感度鈍いんだって。

 結局「21世紀の画期的な発明」ってスマホくらいじゃないですか。てかスマホ時代は90年代に出来てて、iPhoneが2007年か。いずれにせよ、自動車前/後、テレビ前/後の革命性に比べたら、それほどでもない。その前のインターネットの方がはるかに革命的でしょう。だから21世紀になってから、つかこの十数年、どうかしたら数十年、もう伸びしろがない。思いつかない。思いついても技術ギャップがありすぎて実現出来ない。

 そうなってくると先進国は苦しい。なんつっても冷戦終結後、それまで不当に割を食っていた地球の大部分のエリア、それまで後進国として馬鹿にされていたエリアが伸びてきます。追いかけるのは楽ですし、インフラ整備も楽になってる。てか、インフラ整備自体が不要になってるくらい技術も伸びている。だから追いつかれる。その詳しいメカニズムは前に書いたので省略。

 今の先進国の僕らは、これまでのツケを払うしんどい没落時代があと100年以上はつづくかもしれず。これをビジュアルなイメージでいえば、B級映画でよくあるゾンビもので、町中ゾンビだらけになって、どっかの一軒家に立てこもった主人公たちだけど、ゾンビに押し包まれて、ガチャーンと音がして浴室からゾンビが入り込んできたから迎撃して、バリバリと音がして天井からゾンビが落っこちてきて、やがて全員殺されてしまうという感じ。

金融暴走錬金術の開発

売れなくても儲ける方法

 そこで先進国は、示し合わせたわけではないのだろうけど、すごい技を開発します。実体はしょぼいんだけど、でも景気はいいことにして金融的に儲ける方法が編み出されます。金融経済の発展というか暴走です。

 実体経済が伸びていたら、そんなイカサマめいた事をしなくても良いのだけど、なんせ伸びてないから、「伸びたことにする」という情報価値に転換させ、しまいには伸びなくても「値が上がりそうだ」「儲かりそうだ」という「ただの思惑(願望)を資産化する」という、もう魔術のような、ペテンのような世界に突入していきました。

 原理はそう難しいものではないです。金儲けの原理は同じで、「安く買って高く売る=差額が儲け」です。だとしたら、買っておいてからあとで高くすればいい。輸出入なんかもそうだけど、一番端的にわかるのが株とか投資(てか投機=ギャンブル)系です。これは普通、画期的な技術開発や新商品という実体が伴って、その会社が成長して、株価があがって、儲かるという順当なダンドリを踏みます。そこでの不正は、予め新技術開発とか許認可が降りたとかいう決定的な情報を不当な手段で得る(インサイダー情報)くらいで、これらはまだわかりやすい。

 しかし、どんどん飛躍していきます。要は市場で値上がりすればいいんだったら、本当に新商品が画期的ではなくても(実体がなくても)、皆が上がると思えばいいわけです。儲けたいから皆買うし、皆買えば本当に上がるし。もう実体どうでもええわ、煎じ詰めれば皆がそう思うかどうかだと。ならば皆のマインドコントロールをすればいい。理由なんかどうでも良くて、とにかくそう思ってくれればいい。そう思わせるためにフェイクニュースだろうが、噂だろうがバンバン情報を流したり、あるいは仕手のように自分で巨額の資金を突っ込んで本当に値を上げていけばいい。

 馬鹿みたいなんですけど、これ本当に儲かるんですよね。スケールが違うから、数億、数兆レベルでも儲かる。もう原材料費52円で光熱費20円で、一個80円で売って儲けが8円で〜ってチマチマやってるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい儲かる。だからこれになだれ込む。かつてのバブルのときもそうだったけど。

 さらにレバリッジだ、クレジット・デフォルト・スワップだとか新技を開発しまくって、悪ノリしまくって、ドカーンといったのがリーマンショックでありました。なお「リーマンショック」というのは日本人にだけ通じる和製英語で、英語では一般にGFC2007-08(2007-08年に生じたGlobal Financial Crisis)といいます。

リーマンショックの後始末=金余り

 リーマンショックの火消しで各国政府はバンバン国庫からお金を出しました。信用収縮やクレジット・クランチが生じたら、本物の世界大恐慌に発展して、それこそ全員(経済的に)即死みたいなところまでいきかねない。

 リーマンショックの頃の日本はそこまで金融的にはしゃいでなかったから逆にダイレクトな被害を免れています。地球の反対側で起きた大地震で軽い津波を食らった程度。間接的に第二波以降で被害を受けますが、欧米のような原爆ドカン的なショックはない。だから日本であまりピンと来ないと思うのだけど、でも実際は凄いことだったと思いますよ。だいたいリーマン・ブラザースの負債総額が日本円にして64兆円というのは腰が抜けますよね。だって日本の税収総額が60兆弱なんだから、それ以上です。それだけの途方もない巨額がパーになったんだから、そりゃもう半端なことではなかったのですよ。

 こういった金融危機が行き着くところまでいったなら、勤め先も倒産、皆があずけてる預金などもパー、買ってる株も暴落してパー、当然不動産やマイホームも暴落、年金もなにも来月から出なくなるかもしれない。それどころか公務員の給料も遅配が続けば警察も消防も水道も正常に動かなくなる可能性だってある(デトロイト市のように)。そこまでいったら洒落にならないから、どこの政府も背に腹は代えられないとして金出します。非常事態ですから。

 でもそこで大量に放出したマネーが問題になる。鎮火剤として放出したんだけど、鎮火したら消えてくれるわけではなく、マネーはマネーとして残る。今度はそれら膨大なマネーを、どこのファンドも金融機関も「有利に運用」しなくてはならない。こんなもんできっこないし、実際にそれでぶっ潰れたヘッジファンドは山ほどあるそうです。

さらに狂信的な宗教へ

 では、リーマンショックで懲りたのか?といえば、全然懲りてない。それどころかもっともっと悪化しているのが現在です。リーマンでドカンといて、じゃあ今日から真面目に働きますってならない。なんせ実体がしょぼいんだもん。そんなに儲け口なんかねーよって話で、やるなら政治癒着のカジノやら公共投資やらオリンピックやら、軍産複合体関係のどっかで無理やり喧嘩させて武器売りつけたりとか。これらは不正でもあり、場合によっては犯罪、あるいは犯罪以上の人道的な罪でもあるんだけど、その正否はともなく、なんでそこまでやるのか?です。実体がしょぼいから、伸びしろが少ないからでしょう。

 それでも必死に生き残ろうとするなら、また同じこと=上がるぞ、儲かるぞ〜って皆で言って、上げ潮ムードを作って、その波に皆で乗って儲けようという算段ですね。

 まあ、それくらいしか方法がないとはいえ、こうなるともう「宗教」です。信じるものは救われると言うか、なにがなんでも最後はハッピーエンド、最後は上る、絶対儲かるという。ここまで根拠(実体経済)からかけ離れてしまえば、いっそ清々しいくらいですね(笑)。新興宗教・金融相場教って感じ。

 もうそれだけで持ってる感じ。本当は絶対おかしいってのは誰もがわかってる筈でしょう。でも、そこで「ふと我にかえる」と、あーって墜落しそうで怖くてそう思えないのかもしれない。官民財、それに合わせてるから、経済統計でも、経済記事でも、景気がいいことにしなきゃいけない。どうしょうもなくなって統計の方法を今年から替えるいうマイルドな詐欺から、マジに数値を改竄するというハードな詐欺までやっているから、今何がどうなってるかもわからなくなっている。

 大体、アメリカの景気が絶好調というのも大嘘でしょうに。まともに生活費を稼げず、フードスタンプという配給食料(正確にはSupplemental Nutrition Assistance Programという)を貰ってる人が4000万人もいるわけですよ。この数、全然減ってないもん。人口比で10に一人、絶対数で日本の首都圏以上の人達が自分のメシ代も稼がないで、なにが景気が絶好調だよ。いい加減にしろって感じ。


 アメリカでは、今は若い世代では、資本主義よりも社会主義の方が良いと答える人が増えている。社会主義の方がクールだ、実体に即していると。あれだけアカ嫌い、共産主義嫌いなアメリカで、これは凄いことだと思いますよ。もし本当に景気がよかったら(富が皆に循環していて、誰もが豊かで幸せになれていたら)、そんな話になるわけないじゃん。

 でね、それだけの話だったら、ただのホラ吹きだし、ホラ吹き錬金術で儲けてるだけだし、なんだかなーとは思うし、うまいことやりがってって嫉妬もするけど、その程度です。「迷惑」というのはここから先です。

 ほんと魔女算術的な金融で、何がなんでも景気がいいことにしないといけないという宗教的なドグマができちゃったことで、それによってビジネスのマインドやら、やり方やらが捻じ曲げられている点です。ひいては国家運営のコンセプトも変わってしまった。ここが大迷惑であり、昨今の仕事が詰まんなくなってる原因でもあると思います。

 ほんとはね、実体がしょぼくなったら、ナチュラルに生活水準も落とせばいいし、金がないときはヒマがあるんだから、余暇やら精神内面を充実させたらいい。でもって実際にも大多数の人々はそうしているわけですよ。リラクゼーションとか鬱とか精神性の物事が表舞台に出てきたのと、実体が頭打ちになってきたのと大体同じ時期ですから。それまでは精神的な問題なんて大体「ノイローゼ」の一言で片付けてたのに。

 でも銭ゲバちゃん達はインナー世界の豊かさに興味はなく、あくまでも金にこだわる。だから銭ゲバなんだろうけど、まあ、ある意味病気なんだろうね。趣味でも病気でもどうでもいいけど、でも迷惑なんだよなー。

経済や仕事の意味・質が変わった

 これが一番「迷惑」な点です。

 結局、投資(投機)で儲けていこうとしたら、数字が決定的に重要な意味を持ちます。いや数字しか意味を持たないとも言える。企業やプロジェクトに投資する以上、大事なのはどれだけリターンがあるかです。そのためにはその事業がどれだけ売上を伸ばしたり、どれだけ数字的に成長したか、利潤をあげたか、そればっか見ます。

 逆に言えばそれ(金&数字)以外のファクターは一切見ようとしない。これが大問題です。

 あのですね、経済活動(事業やらビジネスやら)って、本来ゼニカネだけでやってるのではないのですよ。企業理念とかいうと嘘くさい綺麗事に聞こえるかも知れないけど、でもね、創業レベルにおいては、「面白いからやっている」という部分がかなりのウェートを占めるのですよ。

 それは後日成長するビジネスほどそうです。だれかが「もっとこうすればいいじゃん!」という画期的ななにかを思いついて、それが売れていくという過程をたどりますが、その原点にあるのは、意外とピュアな思いだったりもするのですよ。「お年寄りにも安心して使えるように」とか、「家事労働で疲れている人達に少しでも楽をしてもらいたい」とか、「この楽しさを皆に伝えたいとか」「美味しいものを食べて束の間でもいいから幸せになってほしい」とか、そういう部分はあるのですよ。起業の原点でもあり、その意味で、企業もNPOもそんなに違いはないと思います。

 まあカッコよくいえばロマンであり、夢であり、やりがいであり、、、草創期の活気にあふれた企業というのはそういうものです。機械マニアの少年達が専門家になり、戦時中は軍によって無理やり開発されていたのが戦後自由になり、自分らの好きなように開発したいという想いがあってこその戦後日本の技術系企業です。ソニーの創業の頃、20人程度の”東京通信工業”だった頃の会社設立の目的は、「技術者がその技能を最大限に発揮することのできる“自由闊達にして愉快なる理想工場”を建設」するんだって、 書いてるわけです。なんかめちゃくちゃ楽しそうでしょう?今どき、「自由闊達にして愉快なる理想工場」なんて大真面目にいってる企業がどれだけあるんだって。

 戦後日本が伸びたのも、頑張ったからって言ってるだけでは本当のところがわからんと思います。じゃ、そもそもなんで頑張ったのよ?で、頑張るためのモチベーションはなにか?です。それはやっぱり楽しかったんだと思います。楽しくなかったらあそこまで頑張れないですよ。誰が強制しているわけでもないのに、次から次へと新しい試みをしていくなんて、ゼニカネだけだったら絶対出来ないです。てか、そんなことばっかしてたら普通損しますから。売れそうなものを二番煎じで作ってたほうがいいですよ。それを売れるか売れないかわからない段階で、「思いついたから」「こんなのあったら面白いから」くらいの理由でガンガン作ってたんだと思います。

 一概にいうのもナンですけど、その頃の仕事というのは、毎日が文化祭前夜みたいな感じで、そりゃ楽しかったんだと思います。仕事人間とかモーレツとかいうのも、部活がそうであるようにムキになってやってたんだと思う。

 だけど、そういうファクターというのは、金融投資からものを見てたら全然見えません。興味も持たれない。夢を追いかけて、たくさん試行錯誤を繰り返すわけですけど、そこらへんの行動への評価は冷たいでしょう。無駄金使ってる。「回収可能性の低いエリアへの無駄な投資は極力削減して」とかそういう話になるでしょう。

 一事が万事、金で始まって、数字で終わるみたいなことばっかやってたら、そういう仕事の面白い部分、ひいては人生の面白い部分がどんどんスポイルされて、減っていってしまうのですよ。これが昨今の仕事がつまらなくなってる根本的な理由だと僕は思う。昔はもっと自由闊達だったといいますし、僕らの同年代の連中の話を聞いてても、今だったら到底許されないような無茶苦茶もやってます。

 戦後の闇市時代からの仲間=今は大企業の大幹部だって、昔は「メシ食わしてやるから手伝え」で入ってるだけ。それが成長して東大京大からガンガン新入社員が入ってくるようになって、入社の試験問題とか見て「ワシらもこれ受けなあかんのか?」「こんなもん出来るわけないで」とか青ざめていたとか。現場の課長が2ヶ月くらいいきなり「行方不明」になってても誰も気にしないとか。謹厳実直な法曹界でもあって、クーラーとかない頃、法廷が暑いので、とある裁判長はいつも金タライに水をいれさせ、法廷中も裸足を水に突っ込んで涼をとっていたとか。あるときなんかの拍子でタライがひっくり返って法廷が水浸しになったんだけど、誰も気が付かないふりをして粛々と証人尋問が続いたという実話とか。なかなか話がつかない裁判上の和解の席上で、業を煮やした裁判長が「いっそのことジャンケンで決めたらどうですか」とかいって、あっけに取られていた当事者もだんだん乗り気になって、本当にジャンケンで決めてしまったとか。ありえないでしょう?面白い国だったんだよね、日本も。

 そういう部分がどんどん減ってきて、管理管理になって、マニュアル絶対になって、つまらなくなった。そして、昨今それに拍車をかけているのが、金融投資的な結果(数値)主義でしょう。

 これは本当に大迷惑な話です。
 いい加減にしろって叫びたくなるくらい。


ここ10−20年で起きていること

 ぱっとしないまま終わってしまった平成ですけど、ここ10〜20年起きている現象は、だいたい上の原理で説明がつくと思います。

 すなわち、
(1)実質的に成長する部分が頭打ちで減ってきていること(実体がしょぼい)
(2)暴走する金融博打経済の影響でなんでも利潤・数値になってること(銭ゲバ主義)

 この2つの原因によって、多くの現象が説明できると思います。

なんで低金利が続くのか、それどころかマイナス金利になるのか

 そもそもなんで金利がつくか?です。金利とはなにか?
 100万円の資本があったら、それをモトデにして商売を始めたり、なにかに投資したりすれば、ある程度は儲かるのが普通であり、それが大体年率にして○%くらいだというのが金利(利息)というもののベースにあります。

 100万円(資本)+1年(時間)あったら5万円は儲かるはずだと。それが資本主義ですよね。いくらかのモトデがあったら、それでなんか商売をやって儲けてやる、俺に100万貸してくれたら1年で倍にしてやるぞ、倍は無理でも1割くらいは利息つけて返してやるぞと。だいたい誰がやってもそのくらいは儲かるという環境があるからこそ、100万円を誰かに預ける=自分はそのお金を使えない=儲けるチャンスを逸している=その埋め合わせとして利息がある、わけでしょ?

 それがゼロ同然の金利、あるいはマイナス金利ってどういうこと?
 こんなの普通に考えたら「資本主義の死」ですよ。お金を持っていても有効に活用できないってことでしょう?なぜ出来ないか?もう儲かりそうなビジネスのネタがろくすっぽないからですよ。実体がしょぼいからですよ。

 マイナス金利なんか「逆」資本主義であって、お金を持ってる方が損をする、100万預けると5万円利息でもらうのではなく、5万円罰金のように取られるわけですからねー。これって、お金なんか持っててももう何の役にも立たないよ(儲けられないよ)、それどころか維持管理に金がかかるよってことじゃないんですか?

企業の内部留保が400兆円にも達してること

   これも同じことで、内部留保がアホみたいに多いということは、モトデを有効に使うビジネスのネタが思いつかないってことでしょう?思いつくなら、どんどん先行投資して大きくガンガン儲けるでしょうよ。でもそれをやってないということは、儲けるネタがないってことです。違う?

 企業の目的は利潤だけではないけど、でも利潤という観点で言えば、内部留保が多いということは、資本を有効に活用出来ませんよ、ビジネスも商売もろくすっぽ出来ませんよって言ってるのと同じで、それはもう資本主義における会社とかビジネス主体ではないんじゃないか。もう解散すべきではないか。

 なんでそうなの?といえば、実体が頭打ちになってるからでしょ。


全然賃金が上がらない

 昔の草創期のような集団だったら、従業員や社員は「労働契約の当事者」という無味乾燥したものではなく、もっと熱い血の通った「仲間」であったでしょう。あるいは「家族」も同然って感じでしょう。

 弁護士時代、いろんな経営者の人の話を聴きましたが、立ち上げで皆で苦労していた頃、大晦日まで皆で働いて、全員で集金してきた金をあつめて、皆で床に車座になって座って、集めてきた千円札を一枚づつ皆に分配していったらしいです。途中で、「おう、この中で子供いるやついるか?」って聞いて、いるという人にまた千円札一枚余分にあげたり、親が病気のやつにも余計につけてあげたり、文字通り社長から皆で苦楽をともにしてたらしい。わりとよくある風景だったと。

 だから社長といってもそんなに給料高くなかったし、平と社長の給料差が世界的にも極めて少ないことが日本企業の強さの秘密だと、Japan as NO.1って言われていた頃にはよく言われてました。上にいる奴が、かなり真剣に下の者のことを考えている。今でもそれはDNA的に日本の中にあるとは思いますが、前ほどはっきりはしてない。過干渉やパラハラ的に良くない部分だけ継承されてる気もするし。

 会社=夢を共有する仲間みたいな原点からやってるなら、会社が儲かったらまず従業員の苦労に報いたでしょう。ボーナスの本来の意味はそれですから(臨時賞与)。今でもイキのいい会社や集団は、そういう部分は大事にしてると思いますよ。でないと人はついてこないから。単に金だけの問題ではなく、「愛されている」という実感があったら人はついていきますしね。

 んでも、ゼニゲバ的な世界観でいえば、社員の給料は人件費というコストでしかない。
 そしてその銭ゲバ世界観が世の中を席巻している。

 つまり苦楽をともにし、助けるべき仲間だったのが、コストになってしまった。
 コストなんだから圧縮すべしで、そう割り切ったらやれることは幾らでもあるし、実際やってる。

 ちなみに国家レベルでも同じような感じで進行してて、国民=助けるべき仲間から、ただのコストになってるから、なんとかコスト削減したい、弱い国民、不幸な国民はコストがかかるお荷物であり、ウザい存在でしかないから、自己責任を連呼して見殺しにしてもいいんだって、ね。

 こういう世界観が知らないうちに広まってしまって、このままだったら、百年たっても千年待っても給料は上がらないし、生活は楽にならないよ。だって、僕らは「コスト」君なんだもん。害虫みたいなもので、できりゃ居ないほうがいいって存在。そうレッテル貼られているんだもん。


仕事がセコく、詰まらないものになった

 これは分かりにくいと思うのだけど、実際そうなってると思いますよ。原則的に行き止まりになってるのだから、本質的に「やることがない」わけです。それでも無理に成長しようとすれば、すごく微細なことで目先を変えてみたり、重箱の隅をつつくようなイジこい作業になるはずです。それか、無駄 or 有害なものを、いかにも有用であるかのように詐術的に売ってみたり。

 銀行だって、ゼロ金利になった時点で社会的使命を終えたとして全部解散したって良いくらいです。もともと銀行の社会的な役割は、社会に散財しているさしあたって使いみちのないお金を集め、このお金を、 これから社会を(良い方向に)変えていくだけの人材や事業を、まだ無名のうちから神のような洞察力で見抜いて、投資していくことです。「投資」というのは本来そういう意味であり、そこに崇高な社会的使命があったからこそ、侮蔑的に言われるシャイロック的な金貸しとは一線を画した「銀行家(バンカー)」として尊敬された。んでも、そんな洞察力なんかとうの昔に消え去り、担保がある分だけ貸すという馬鹿でも出来るような、AIというか普通の電卓レベルのITで出来るようなものになった。

 さらに成長余力と成長余地がなくなり、お金を持っていてもやるべき事業ネタがなくなると、お金を貸すアテもない。企業は内部留保で金はいくらでもあるんだから借りるまでもない。日銀に預けていてもマイナスで管理料を取られる。あるのは皆のお金の振込みなどの決済機能だけで、決済だけなら電話回線やインターネットみたいに世界に一つそういう公共インフラをつくればいいだけ。

 それでもなんとなく存在してるから「なんか」しなきゃいけない。日本の銀行の場合も必死に生き残りをさぐって、政治の力でアコムなどのサラ金を潰して自分らの傘下に置いて小口貸し出しで儲けようとしたり、なんだかんだ名目をつけては社会的に不要なインフラを増やしたりする。例えば、資産活用やら相続税対策とかいって高齢者を焚き付けて、入居者が入る保障もないようなマンションを建てさせてみたり(家賃保証とかいいながら、途中で保障をやめたり)。社会全体からして無駄というよりも有害なことを奨励して小銭を稼ぐというイジこい存在になっている。

 オーストラリアでも大銀行がめちゃくちゃ叩かれて、ロイヤル・コミッション(政治的な忖度影響は限りなくゼロで、緻密に調べて遠慮なく判断する、特別にテーマごとに設置される国家委員会)で調査が始まって、過去の不正な行為を徹底的に洗い出されてます。クレジットカードの使用手数料をわずかに上乗せして不当に得ているとか、なにがなんでも家を買わせてローンを組ませるために審査を誤魔化してきたとか、クレーム処理をほったらかしにして客に損害を与えたとか、銀行の大幹部も呼び出して吊し上げて、調べ上げ、ここをこうすべきという詳細で長大なレポートを出す。それに応じて、オーストラリアの四大銀行に対する罰金、追徴金、客への賠償金などは全部合算して一兆円?くらいに達するとか。わりと景気がよくて、不動産バブルで湧いているオーストラリアですら、銀行はそこまでイジこいズルをしないと収益があがらないとも言えます。

 ちなみに、最近流行ってるのは、大企業の賃金搾取の摘発で、超勤手当の計算が労働者に不利に行われているとか、理不尽にケチっているとかバシバシあげられ、今では逆にやられるまえに大企業が次々に「ごめんなさい、僕もやりました」で名乗り出てます(出典で言えば、'They're madly checking their payrolls': the ugly truth of Australia's underpayment epidemic。そのへん、オーストラリアはまだまだ自浄作用があるので救われる部分はあります。

 どの業界もそうですけど、本質的に行き止まってるから自家中毒にならざるを得ない。適正な利潤を織り込んだ適正価格で売ることができなくなると、低価格で勝負するしかなくなり、そうなるとしわ寄せが生じる。コスト化されている従業員をいじめるか、さらに二級従業員(派遣)、三級従業員(外国人)を取り入れてコストダウンしていくか、あるいは下請けをいじめまくるか。もうこうなると企業も存在自体が社会悪というか、やればやるほど世間に不幸を撒き散らす悪の結社化していきます。

 罪もない普通のサラリーマンの日々の仕事もその影響を受けて、本質的に無意味有害なことなんだから、やっててもそんなに面白くない。詐欺まがいの商品を企画するのも気が滅入るでしょうし、詐欺まがいの口上で営業するのも楽しくないだろうし、洪水のように押し寄せる消費者の苦情を一日中頭をさげまくって聞いているカスタマーサポートも、そりゃあ楽しくないでしょうよ。

 かといって昔年のソニーみたいな、愉快な理想工場的なことをやろうとしても資金がないわ、周囲の目は冷たいわ。理想を唱えると冷笑されるし、熱くなったら茶化されるし、しまいには楽しいこと=犯罪みたいな感じ(笑)。仕事は詰まらないもの、我慢するもの、ひたすらストレスに耐えるものになっていけば、そりゃあ鬱も増えるでしょうよ。人間って、つまんねーことをずっとやってると、自然とぶっ壊れるように出来ているんだもん。

 もっとも適正な需要がある領域や業種もたくさんありますよ。まっとーにやってればOKという、あるいは成長余地は幾らでもあるような業界もある。だけど、スクスクとはいかない。例えば、すでに完成成熟している領域、料理なんかもそうですけど、まっとーな食材でまっとーな調理でまっとーな値段で出してくれば良い、妙に「成長」なんかする必要がないです。もちろんシェフ的な探究心での成長はありうるけど、それこそ先に述べたインナーの成長であって、古い(現在の)意味での経済成長ではない分野は山程あります。てかほとんどがそうかもしれない。

 だけど大きなフレームが歪んでしまっているから、その「まっとー」ができなくなっている。個人レストランレベルで頑張っていても、大きなところで食材品質が騙し的に劣化されたら、たまらんわけですよ。食品偽装なんかもそうですけど、グローバルレベルで各国政府に圧力かけて、種子法から種苗法まで変えさせて儲けていく穀物メジャーなどの存在が、まっとーな生業をどんどん難しくしていく。平成中期くらい(今から10年以上前から)、良心的に頑張っている料理屋さんとかどんどん潰れてしまったと聴きます。日本もそうだし、シドニーでもそうです。シドニーの場合は、食材レベルではなく、不動産バブル化で家賃払えなくなってしまってレストラン倒産ですよね。真面目にいい仕事してるのに、大きな世界レベルでの下らない詐欺的延命によってとばっちりを食っている。もう大迷惑でしょう。

 医療系は、高齢化と成長余地(医学の進歩)があるから、まだまだ先がありますし、仕事そのものの質量も増大する一方です。でもこれはこれで巨大な障害があります。消費者(スポンサー)の貧困化です。特に日本の場合は国民皆保険で素晴らしいわけですけど、肝心の国家自体が借金だらけで火の車というか絶賛炎上中なわけで、医療費が途方もなく増大しても、「なんぼでも払ったるで〜」って大盤振る舞いするわけにはいかない。てかもう今にも潰れそう。そうなるとしわ寄せがくるしかない。給料そのままで仕事の質量が増大する、要するに実質的賃下げです。介護なんかニーズは山程あるのに払うもの払えないから大変なことになっている。

 前にもちらと書いたと思うけど、アメリカだったかの調査で、ホワイトカラーの70%以上の人が、自分の仕事を本気でやってないという、えっと出典はどこだっけな、ああ、見つけた。

 日本版Newsweek2018年8月17日でサミュエル・アールって人が書いているあなたのその仕事、意味ありませんよ!(原題は”Bullshit Job")です。ここでは、人類学者デービッド・グレイバーの新著(18年5月)の『おバカ仕事の理論』を紹介していますが、面白いから幾つか抜き書きしてみると、、

 「「経済活動が無意味な仕事を生み出す巨大エンジン」と化し、グレイバーによれば、やるべき仕事が減れば減るほど、人はより長く働くようになっている」

 「おバカ仕事(bullshit jobs)はクソ仕事(shit jobs)とは違う。後者はゴミの収集など、世の中に必要なのに低賃金で報われない仕事を指す。対しておバカ仕事は、たいてい高賃金で社会的な評価も高く、IT化の進んだどこの職場にもあるが、社会には何の貢献もしていない仕事を指す」

 「昨年の調査によると、アメリカ人の70%は今の仕事に本気で関わっていない。運よく意味のある仕事に巡り合っても、引き受けるには犠牲が伴う。「人の役に立つ仕事であればあるほど賃金は低い」から

 「仕事の世界の中心には残酷な矛盾がある。社会は仕事を人間の尊厳と価値観の基礎に据えるように仕向ける一方、人口のかなりの部分が自分の仕事を嫌うような環境をつくり出している。」

 「かなりの人が、自分の仕事には社会的有用性や価値がないとひそかに確信しつつ働いているという事実」は、深い「心理的、社会的、政治的影響」をもたらす。それは「共有される魂の傷」だ。

 いま必要なのは「仕事のない世界」を創造的に考えることだと、グレイバーは言う。『おバカ仕事の理論』は、そうした考察の出発点になる。現状は「何かがひどく間違っている」と彼は書く。

 いや、ほんと同感ですし、なにかがひどく間違ってるんですよ、実際。それを延々書いてるわけですけど。

 こんな全体の状況で、仕事を真面目にやるとか、仕事の内容で自己実現やら自己評価を決めるとか、人生の骨子にするとかいうのは、ほんと愚の骨頂だと思いますね。まっとーな仕事、まっとーな生活をしようと思っても、どんどん邪魔されるわ、無意味有害なものを意味ありげに騙せば騙すほど金が入るわ、本当に人々の役に立つことをやろうと思えば低い給料でこき使われるわ、やってらんないですよ。

なんでもカネ単位になってる世相

 あのですねー、僕が日本にいた頃「年収」いくらなんて、あんまり話題になってませんでした。今では「年収なんぼ」とかそんな話ばっかだけど、景気の良かった頃の日本では、月給幾らというのはあっても年収レベルで特に意識はされませんでしたよ。

 実際、僕自身、年収いくらだったか知らないもん。今から逆算しようとしても、ボーナスの額とかもう覚えてないからわからん。本気で稼いでいる頃は、ただひたすら忙しく、また充実もしてたから、自分の貯金額なんか全然知らない。

 世間の就職にしたって、給料いくらって話よりも、面白いかとか、カッコいいかとかそんなレベルでしたからね。今みたいに、やたら年収いくらだとどうだとか、年収一千万以上だからステイタスだ、ハイスペックだとか、そんな具体的な金額の話なんかしなかった。年収がどうとかいうのは、税金などの実務レベルだし、日本のサラリーマン、自分で税務やらないから、それもわからない。

 その頃にこっち来ちゃった僕からしたら、なんでそんなに皆カネカネ言ってるのか良うわからん部分もあります。月給だったらともかく、年収とか、あんまリアリティないじゃん。それによって身分階級が決まるみたいな意識があるけど、そうなの?とか思うわ。毒されすぎじゃないの?

 仕事にせよ生き方にせよ、カネ以外のファクターがものすごく多いもん。普通そっちがメインでしょうに。その昔の宮廷画家とか音楽家とか、後世に残る名画・名曲を作ってて、そこではその作品の質がどうの、人気があるかどうのって話はするけど、その作品作っていくら貰ったのかとか、年収はいくらだったのかとか全然知らないし、話題にもならんでしょうに。小学校の頃の好きな先生、嫌いな先生とかいて、その先生のここが好きとか、思い出とか幾らでもあるけど、でも、その先生の年収がいくらかなんて気にしたこともないでしょう。それが普通じゃないのか。なんでそんな年収とかカネとかそんなことばっかり言うの?

 といえば、実体がしょぼいからでしょう。もうこればっかだよね。内実的につまんないから、せめてカネくらいしか語るべき対象がないんじゃないの?

 同じように、今ソフトバンクがどんだけ赤字だとか、成長率○%だとか、企業が赤字になることが犯罪みたいにいってるけど、あれもどうなんだかって思うよ。投資家でもないくせに、なんでそんなに気にするのよ?洗脳されてるんじゃないの?面白いことやってたり、従業員を大事にしたり、世のため人のため真面目になりすぎたら、多少は赤字になるのが普通だし、それって称賛されてもいいじゃないか。要はその赤字の内容であり、それを見ようともせず、単に金が儲かったかどうかだけで判断しようという世界観、ひいては心根レベルで銭餓鬼レベルにあさましくなってるんじゃないの?

 なんか、すごい違和感ありますよ、僕には。


これからのこと

表面的な話 

 とりあえず、今の日本の状況を考えると、
 (1)生産人口が減る、
 (2)コストカットで仕事(賃金)が減る、
 (3)それに伴って消費がさらに減退して景気が悪くなる

 この3つが絶賛同時進行してるんだけど、それぞれにタイムラグがあります。(1)が一番ストレートに早く現れ、(2)(3)になるにつれて遅くなる。団塊世代の集団定年によって、途方もない生産人口の減少が起きていて、それはストレートに出現するから一番早くてよく見える。ゆえに猛烈な人手不足が先にくる。だから就活好調で景気が良さげに見えるけど、でも賃金は全くといっていいくらい上がっていない。見えないところで静かに(2)が進行しているからです。そして(3)がだんだん顕在化してくる。

 オーストラリアの場合は、(1)の人口減少は無いので(増えすぎるので移民制限してるくらい)、2と3だけで見えやすい。中国の成長が一段落して鉄鉱石バブルが去った後、それでもオーストラリアの経済を支えているのはアホみたいな不動産バブルと優秀な移民の流入なんだろうけど、前者は世界レベルで減速傾向にあり(ちゃんと値が下がるだけオーストラリアはまだ健康なんだけど)、後者は移民制限などをして悪循環化しようとしている。

 オーストラリアの移民政策が分かりにくいのは、僕が思うに、移民のプラマイについての見解の差ではないかな。国民レベルでは優秀な移民が入ってくるので仕事を奪われる、優秀でない移民(てか留学生やWHのような短期滞在者)は低賃金でも働くから賃金の低下を招く、人が増えるから住宅が上がり、道路は渋滞する、良いことなんかなんもないよってセンチメントがある。しかし、国や財界からみると、移民は職を奪うかもしれないけど、同時に職を創造する。人が増えるというのは、仕事のライバルも増えるが、客(消費者)も増える。これらがプラマイでとんとんだとしても、なおも優秀な移民は、最近とみに増えているアフリカ系移民もうそうだが、世界の成長エリアの第三世界との大事なジョイントであり、彼らが新しいビジネスの発火点にもなるし、オーストラリアが世界にキャッチアップしていく原動力にもなる。だからトータルではプラスが多い。ということで国や財界では本当は移民を増やしたいんだろうけど、選挙民の手前そうも言えずって板挟みになってるから、SA州など地方新興に力点を置いたりして誤魔化してるんじゃないかって睨んでます。移民を減らずぞ、こんなに減らすぞとかいいつつ、実際にはそんなに減らしてないとかいうわかりにくい話になってるんじゃないかなー(永住権年間19万人から16万人に減らすといっても、その前から移民局の処理能力その他で実際には16万人しか入ってきてないから実は変化なしとか。)

 でもこれらは比較的浅いレベルの話で、本当は上に書いたような成長余地の無さという絶対的な問題、それを無理やり成長させようとする歪みという大きな流れがあります。

成長・仕事神話は捨てること

 企業の記者会見とか見てても、来年は売上50%増加とか、そんな話ばっかですけど、全体の状況を考えたら無理だろ。まあ、投資家(株主)向けのトークという意味からは、そういう言い方になってしまうのはわかりますよ。

 でもね、時代に即応した企業哲学、人生哲学でいえば、今は余力も余地もないんだから、いわゆる経済成長を絶対善、絶対方向として考えるのはやめたほうがいいです。むしろ成長しない、縮小するという方向で、経済の量は小さくなるけど、質は良くなるという新しい方向を模索すべきでしょう。

 とにかく新店舗を増やすんだとか、売上を伸ばすとかいうのは、僕から見たらシーラカンス的な発想であって、これからは、いかに従業員がやりがいを感じたか、いかにお客さんといいコミュニケートができたか、いかに世のために人のためになったかという、金儲けから離れた本当の実質部分に焦点をあてていくべきだと思うのですよ。

 まあ、実際に世界の先端的なレベルでは企業の舵取りもそっち方向にいってるし、従業員搾取をしないというエシカル(倫理的)な部分も企業審査の大きな柱になりつつあります。

 だから、記者会見でもなんでも、去年は従業員の給料を10%アップさせて、育児休暇もこのくらい増やして、お客様のクレーム処理も人員を増加させてより丁寧に対応しようとして、あれこれやったのですが、わずか5%の赤字で抑えることができました〜!って、鬼の首でも取ったかのように報告するようにならなきゃ。

 その意味でブラックという視点が日常化しているのは良いことなんだけど、ただブラックかどうかの基準が浅いのがまだ気になります。単に長時間労働とかそういう計量的なレベルではなく、やってる連中が「楽しいかどうか」「学べるかどうか」って実質面に踏み込んでみるべきだと思います。


 とはいえ、昔のように量的に成長してるときが一番楽しいってのも素朴な事実でもあるのですよ。いちばん簡単だしね。シンプルなだけに強いよ。その意味で、成長頭打ち、てか下がり気味でありながら、それでも「楽しい」というのは、本質的にけっこう無理があるとは思う。

 だったら仕事そのものから距離をおいて、仕事は最低限の生活費を稼ぐという程度に抑えておき、その代わり赤字だろうが自腹を切ろうが、面白くて楽しい物事を自分で開発していく方が大事だと思います。

 また、仕事についても、基本金稼ぎだけでありつつも、それによって得られるものはちゃんとカウントすべきでしょう。単なるしがない売り子さんだとしても、そういう見方はやめて、実際にやってて何が楽しいかといえば、お客さんと接しているのが楽しい!って思えば(とくにこっちはそうね)、そこはちゃんとプラス評価すべき、自分でも誇りをもつべきですわ。意味のあることやってるんだ、この世界に意味のある温かいサムシングを今日も創造できたんだって。これで給料が高かったら文句ないんだけどなーくらいの感じで。

 なんか自分で卑下して、自分で傷ついているという自家中毒が多い気がします。「しがない」とか、「うだつのあがらない」とか、なんか立派じゃないとか、ステイタスが低いとか。もうやめようじゃん、そういうのは。自分で意味あるな、楽しいなと思ったら、その素朴な感覚が普通は一番強いよ。自分で体験して自分で得た感覚なんだから。他人があれこれいうことの百倍強いよ。自分の感覚にもっと自信を持てばいいじゃん。そうは思えないのは、なんか変だよ。僕に言わせれば、それって一種の病気なんじゃないか。

 そういう人はオーストラリアに来て働きなさい。仕事を何やってるかに関係なく、皆堂々としてるし、そもそも自己卑下してる人はそんなにいない。そういえば、その昔、ジョン・ハワードが首相やってるときに、新聞で読んだんだけど、ハワード首相が町の普通のフィッシュ・アンド・チップス店に並んでランチを買ってて、隣に並んでたブルーカラーのおっちゃんやお兄ちゃんが、「ハーイ、ジョン!」とか普通にタメ口で話しかけてて、ジョン・ハワードも普通に会話してて。新聞ネタは確かのその会話の内容がメインなんだけど、オーストラリアにわりと来たばかりだった僕には、首相がそこらへんで普通に並んでランチ買ってるのも、それに誰も気後れもせず皆対等に話してるってのがびっくりしました。

 あと別の話でいえば、「仕事でないと見られない(体験できない)」ことも多々あるので、それも仕事をする醍醐味ですよね。社会見学みたいなもんで。しょーもないことでも面白いんですよね。司法修習生のとき(検察修習で)、検視/死体解剖の立ち会いがあって、嫌でもやらされるんですけど、そんなもん滅多に見れませんからね。人体とはなにか、人が死ぬとはどういうことかというのを、葬式以上にリアルに、ビジュアルよりも存在論的に理解が深まったんで、得難い経験だったと思います。ヤクザに面罵されるのも、拘置所に接見にいくのも、どっかの料亭で話し合いをするのも、新聞記者さん相手に記者会見でレクチャーするのも、やっぱやってみないとわからないですし、仕事でもないと出来ないですよ。

 今のデリバリーのバイトだって、こんなことでもないと夜明けの澄明な空気や景色は見れないし、どんな仕事にだってそれはある。レストランのバイトだって、お客として食べてるだけなら絶対に見れない厨房の中とか見れるわけだし、こうやって作るのかーというのも見れるわけだし。ただ単純にそれが面白いとかいうのはあります。その意味ではなんでもやってみたいですね。科捜研とか面白そうですよね。顕微鏡見ながら「あったぞ!」とかさ、楽しそうじゃん。


まとめ  

 以上、つらつら書いてきましたが、あなたの仕事がなんか詰まらないなら、それは世界(先進国)全体が詰まんなくなってるからだという全体の流れを理解すべきだというのが一点。

 そんな状況で、仕事をメインにして人生設計をするとか、アホちゃう?って思っちゃいますねー。

 まあ、アホというのは言い過ぎだろうし、なんだかんだ言ってやってることの充実度(いろんなことが体験できて学べる)やら、生きるためにお金は必要だとか、効率よく稼ごうと思ったらある程度仕事中心にせざるを得ない、それはそうだと思いますよ。

 だけど、それは「その限度で」という留保付きです。
 無条件に、頭ごなしに、盲目的に、ドグマティックに(教条主義的に)、アプリオリに(先験的に)、仕事こそが人生の核心部分であり、そのステイタス、世間の評価、そこでの収入額、それにまつわるなんやかんやで、自分の人生の意味やら、自分の価値やらが決まってしまうなどという「迷妄」は、もう捨てるべきです。お金の必要があるから、割がいいからという学生バイトと同じ感覚で接するべきだし、同時に給与がどう、貴賤やステイタスがどうとかよりも、面白いか、学べるか、楽しいか、意味あることやってるかとか、そういうファクターをもっともっと重視すべきだと思います。

 なぜって、その方が今から未来の時代のフィットしてるし、そのくらい突き抜けて、そして突き放していたほうが、人生のフリーハンドと自由度はキープできる。

 もう長くなったのでそろそろ止めますが、そこから演繹される生き方としては、トランプのポーカーとか、麻雀みたいな感じだと思います。配牌が来る前から「次は国士無双(という大きな上がり)を狙う」なんて決め打ちをして、どんなに悲惨なツモだろうが、場に「中」がすでに4枚切れていようが、それでも何がなんでも国士を狙うというやり方がいかに愚劣かです。まず配牌をみて、いくつかの方向性を考え、さらにツモを重ね、他の連中の捨て牌やツモリ具合を感じ、全体の流れ、運の流れを感じつつ、機敏に方向修正して、ひとつの役を目指す。降りるときは降りるし、突っ張るときは突っ張る。それを重ねて重ねて半荘が終わって、、ってのが人生なんだろうなって思いますね。

 で、大事なことはですね、そもそも何のために麻雀やってるの?ですよ。プロ雀士だったら金のためでしょうけど、そんなのは例外で、多くの人は「楽しいから」「面白いから」でしょ。そこも同じだと思いますよ。



文責:田村


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