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Essay 905:性的リスク管理と記号

 〜自分の意思と尊厳が侵されるかどうか
 〜記号化の罠(その3)


2019年04月01日

写真は、Balmainのフェリー乗り場から。つくづく空というのはアート作品だよなー思った。


 前々回前回に引き続き記号化の話をします。

 「記号」という抽象概念(一般的なイメージ、ステレオタイプ、偏見も含む先入観)の曖昧な無内容さと、そのヤバさについて。

リスク管理と記号

 今回、これを書こうと思った発端は、個人レベルのリスク管理という脈絡からです。日頃からいろんな相談を受けるわけですけど、そのなかにセクハラ的な分野があります。ちょい押し付けがましく誘われたりする場合(単なるナンパ)もあれば、実害的に触ろうとするとかいうのもあります。

 僕は女性ではないのでリアルにはわからないのだけど、そういったことがかなり不愉快なことがらであり、場合によっては世界観の書き換えすら行う(トラウマ化する)だけの恐怖感情をもたらすであろうことは推測できます。

 それに対する同情や慰謝の気分は、もくもくと湧いてくる雲のように僕にもあります。「八雲立つ出雲八重垣」と詠んだスサノオノミコトのように。

いきなり脱線〜スサノオと八雲

 あ、なんとなく語感連想で八雲〜を書いちゃったけど、関係ないから消せばいいんだけど、消すくらいならこの機会に一つ教養を得ておきましょう、いきなり脱線するけどお許しを。

 これって日本最古の和歌と言われる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」というまるで早口言葉のような歌で、”あの”スサノオノミコトが詠んだと古事記には書かれてるそうです。スサノオといえば、天界のお姉ちゃん(アマテラス)の家でDVやりまくって、お姉ちゃん鬱・ヒッキーになってとか(その頃からひきこもりはあったのよね)、なにかと問題児だった人(神)ですよね。で、改心したのか、追放されたのか、外界に降りてきたスサ君が島根県(出雲)で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する話は超有名です。「悪に強ければ善にも強い」といいますが、この人、ようわからんですよね。

 で、スサノオ(マリオ)がラスボス(ヤマタノオロチ)を倒して、救い出した村の娘であるピーチ姫=櫛名田姫と結婚して、二人の新居を作る場所を探してるときに、「お、ここいいじゃん、なんか清々しいよね」って場所があって、だから地名も清々しいから安直に「須賀」になって、そこに新居(宮)を建てて、周囲に防壁をガチガチに固めた(八重垣)。で、建築作業をしてたら雲がもくもくと湧いて出て、「いやあ、やっぱ出雲はいいよねー、垣根もガチだしさー」って、うーん、何なのそれ?ってよく分からん歌です(笑)。

 よく分からんだけにちょっとミステリーになってて、結局何が言いたいの?なんかの暗号じゃないの?実はヘブライ語からきていて日本=ユダヤ説の証拠だとか、いろんな人がいろんなことを言ってるらしい。また、日本最古ってくらいだから、それ以降の時代全ての日本人が知ってるから、それをなぞらえた作品も多い。派生歌というジャンルで、まあ他人がスピンオフ作品を書くみたいなことで、和泉式部やら、藤原良経(続古今)やら、宗良親王やら。


 閑話休題(それはさておき)、かなり話があっちに行っちゃったんで、力任せにこっちに戻しますが、セクハラその他の不快な体験に関する同情の念は八雲のように湧き起こるって話でした。

 ただ、問題は「じゃあ、どうするの?」だと思うのです。傾向と対策です。
 「恐い」とか「可哀想に」とか百万遍唱え続けても、ますます怖くなるだけで何も改善しない。それどころか増幅された恐怖感情(トラウマ)が、この先の人生で健康でセンシュアル(官能的)な関係を形成する障害になったり、恐怖のあまりヒステリックに騒いで、アブない人扱いされて浮いてしまって、、とか事態は悪化するだけじゃないか。

 その対応(セクハラに限らずリスク管理一般)を考えているときに、ああ、ここでも「記号」が悪さをするなーと思ったのですよ。というか、思考の順番は逆で、「あー、そこでそう考えてしまったら、話は袋小路になるな」って思って、その元凶はなにかと考えていくと「記号化」に行き着いたわけです。

 ではなぜ記号化がリスク管理に良くないか?それを語ります。

リスク管理は知ってるか/知らないか

アンダーグラウンドの論理則

 リスク管理とは、そのリスクの正体は何なのか?を知ることから始まります。犯罪でも災害でも、それが生じるメカニズムやら特性を徹底的に究明したり、理解できるかどうかにかかってくる。

 暴力団やアンダーグラウンドの人たちというのはとにかく恐いものですが、弁護士や警察官、あるいはジャーナリストや探偵などが、そういった恐い世界と日常的に接していられるのは、彼らがその世界の特性を知悉しているからです。

 暴力団はかなり分かりやすいのですが、大体こういう場合には彼らはこういうことはしない、なぜなら〜だからだという特性があります。彼らは営利追求に関しては、そこらへんの民間企業なんかよりも遥かに合理的で、やることなすこといちいち意味がある。大手になればなるほど上納金も多いし、毎月たくさん稼げないとならない。そこでケチな犯罪(通行人に肩が触れたとかいってぶん殴るとか)やって警察沙汰になったら上に波及するから、まずそんなことはしない。実際、弁護士やってて、本当に代紋もってる(変な言い方だけど)「正規の」暴力団とカチ合うことは滅多にないです。彼らは弁護士が出てきたらまず儲からないことを知ってるから。僕らがかち合うのは、暴力団にも入れない落ちこぼれというか、「もどき」みたいな連中でこれがやたら多いんですよね。さすがに落ちこぼれてるだけあって、頭悪いから民法もちゃんと勉強してないし、ダメに決まってるにやたら固執して、逆に面倒くさいですけど。

 ダークな世界にはその世界の論理則があり、合理性があります。それが分かっていたら、無駄に怖がることもないし、何をやったらアウトで、何がセーフなのかも分かる。結局は、知ってるか知らないかです。オレオレ詐欺だって、そういう手口があるということを知っていたら防げますけど、知らなかったら騙されるかもしれない。

 ある意味、猛獣使いと同じで、猛獣はこうやると襲ってくるけど、こうすると襲ってこないという見極めができるかどうかです。

 一方、災害なんかのリスクも同じで、地震や火山噴火でも、そのメカニズムが研究され、日夜定点観測をし、膨大なデーターを解析するなどギリギリの見極め作業が行われているでしょう。もっとも自然界は難しいでしょうねー。例えばスケールがあまりにも違いすぎる。時間感覚も人間の100年=自然の1秒くらいの感じだったりして、「来週地震が起きるよ」とか言いにくい。これをより短いタイムスパンの現象(天気予報とか)になぞらえていえば、「明日雨が降るでしょう」くらいの予報は出来ても、「京都市左京区今出川出町柳の交差点東南角の地表1.5メートル上の空間に最初の雨粒が落下するのは午後2時14分37秒28です」とまでは予想できない。でも物事によっては、その1秒のズレで平気で100年単位でズレたりもする。いわゆる複雑系ってやつですか。

 自然界のように変数が億単位にあるような超複雑なものに比べてみれば、人間系のリスクだったら、同じ人間のやることですから、ある程度は予想もできるし、その前提となる理解もしやすい。その気になったら結構な理解も出来るはずだし、合ってるかどうかはわからないまでも、「プラクティカルに使える」レベルくらいにはなります。

恐怖感情は想像力の暴走

 恐怖感情というのは、理解できない=予測しにくいときが一番強い。理解できないから、もう想像力の世界になってしまい、自分のなかで恐ろしいことを想像すれば想像するほど怖くなるし、心も折れる。子供の頃に、夜中にトイレに行く恐怖と同じで、こんなオバケが出たらどうしよう、花子さんが出てきたらと、ぜーんぶ自分の想像です。勝手に自分で恐いことを想像して、自分で怖がってるという。これは、自分でオナラをしてその臭さに自分で悶絶しているという「自家中毒」です。恐怖=想像力の暴走といってもいいかも。

 アンダーグラウンドの人が一般市民を脅すときは、この人間心理を巧みについてきます。つまり、いかに自分らが理解できない存在なのかを匂わせるように振る舞う。常軌を逸したような風体だったり、言動だったり、オーラだったり。一般市民をして、今まで自分が生きてきた経験則が通用しない相手であり、ゆえに「何をされるかわからない」という予測不可能な恐怖感を与える。

 でもね、これが同業者であったり司法関係や慣れてる連中だったら、全然通用しないから彼らもやらない。消費者被害(悪徳商法とか)や詐欺であっても同じで、パターンや手口を知ってる相手には通用しない。ある意味、手品に似ている。ゆえに次から次へとどんどん新しいやり方を開発しないといけないという意味でも手品に似ている。

 言ってしまえば、リスク管理とは、多くの場合「知ってるか・知らないか」で決まる。知識も含めた技術論です。

 格闘技を習った経験(たとえ半年程度であっても)があるなら、ズブの素人同士だったらかなり有利でしょう。なぜなら、「他人が自分に(物理的に)攻撃してくる」という状況自体が日常生活では滅多にないので、いざそうなったら、気が動転して何をどうすればいいのかわからないです。当然でしょう。ところが多少なりとも型の練習やら乱取りやらやってると、「攻撃される」のが日常の風景になりますから、慣れもするし、冷静に身体もさばける。そこに本来の格闘技術や経験が乗っかる。こういう攻撃をしかけようとすれば、人体の構造上必ず◯◯という動作を伴うとか、こういうパターンで体重移動せざるをえないとか、人間の関節はこっち方向には動けないとかいうのがわかる。

記号化がリスク管理の対極に位置するわけ

 格闘技や犯罪、災害に限らず、対象がなんであれ同じことで、その対象の性質を見極め、一定の法則性やメカニズムを理解し、対処法を学び、場数を踏んで慣れていくと。学習、研究、理解、対策、経験、慣れ、反復練習などなど、地道にやってれば大抵のことはなんとかなる。

 これらは記号化とは真逆な行為です。

 大雑把にわかった気になるのではなく、研究者のように冷静な観察眼で対象を正確に捉え、サンプルケースを増やし、法則性を見出したり、対処方法を考えたりするわけですが、その第一歩は、安易な記号化をしないことです。

 記号化がなぜ駄目か?
 簡単です。(1)大雑把過ぎて意味がないから、(2)そのくせ恐怖感情ばかり掻き立てて冷静な対処を阻害するからです。

 先の格闘技の例でいえば、相手との攻防をひっくるめて「暴力」の一言でくくってしまうのが記号です。そりゃ確かに暴力は暴力なんだけど、最初に左ジャブを打ってきたか、牽制にローキックをかましてきたか、その際フェイントなのか本気なのか、その見極めはどうするのかとか、ほんと顕微鏡レベルでの細かい観察眼がいります。

 僕のやってた柔道の場合は大きな動作が多いので(相手の内懐に入りんで背負投げとか)、それだけ大きな動きをするためには必ず予備動作がいる。なんせ身体の向きを180度も変えるわけですから、それをするための足の運び方がある。右背負いをかけるなら、最終的には自分の右足を相手の右足の手前&同方向に持ってこなくてはならない。空手の場合で蹴りを入れようとするなら、必ず蹴る前に軸足(蹴らない方の足)に体重を移動させないといけない(でなきゃ蹴れない)。そういった予告動作で結構次に何がくるかがわかってしまうから、なかなかワザも決まらない。それを「暴力」の一言で記号化してたら、それは上達するわけがない。

 ここで痴漢やらセクハラの話に戻すと、被害を受けた人が加害者のことを「人間のクズ」とか「サイテー男」とか端的に「アブない人」と罵倒したくなる気持はわかります。だけどそれって観察・分析・対策というアプローチの対極になる。世の中には「そーゆー下劣なことをする下劣な奴」がいると言ってるだけでしかない。でも、そんなことは被害に遭う前からわかっている。またそんな大雑把な把握では対処にならない。それは犯罪や刑法について「悪い人が悪いことをする」で終わっているようなものです。

 本当に役に立つ事をしようと思えば、じゃあ「悪いこと」って具体的に何よ?「悪い人」って誰よ?どこで区別するの?というところから地味にやっていくしかないし、「悪い」と一口に言っても、窃盗もあれば、放火も、文書偽造も、殺人も、横領もあるんだから一括りにできない。類型別にやっていき、さらに警察など司法の現場では、膨大なケーススタディを積み上げた上での「覚醒剤犯捜査の実務」などノウハウが集約され(ときどき本になって売ってます。裁判所の地下の書店などにあります)、日々現場で精錬されていく。

 セクハラやら性犯罪にしても、そういう事態が現実にあるならそれを生じさせるメカニズムが現実にあるわけで、それは何か?です。

恐怖感情そのものがガンである件〜それが一番危ないって

 セクハラなどの不愉快な体験→男性恐怖症についてですが(裏返して女性恐怖症にも言える)、これも同じことで記号化しないで、バランスよく全体の状況を把握したり、相手の生態について知悉することがリスク管理になる。

 一番良くないのが、なにか不快な体験があったら、その周辺のものを全部ひっくるめて「恐くて大きなカタマリ」というめちゃくちゃ杜撰な記号処理をすることです。

 海外旅行で一回でもカメラ盗まれたら、もう海外全部「恐い」になるとか。なかには何も実害が無くても、それでも恐いと思っているとか。まあ、気持はわからなくもないですよ。一度でも心底イヤな経験をしたら、二度と絶対繰り返したくないと思うだろうし、全力でヤバいところから逃げようと思うでしょう。逃げて逃げて、ここまで来ればさすがに大丈夫だろうってところまで逃げたいでしょう。

 気持は分かるんだけど、でも、それって大した意味はない。それどころか事態はむしろ悪化する。海外恐いなら、じゃあ国内は絶対安全か?といえばそんなことないです。日本だって窃盗やら犯罪やらいくらでもあるんだから。また国境を超えた向こう側は全部ダメとかいってたら、大雑把にいって地球の99.75%(日本以外の地球の面積)は使用不能になります。地球人としてそれは勿体ないだろ。将来的に海外出張がある仕事は全部ダメ、友達と旅行もダメ、全部国内オンリーにしてたらかなり生き方が制約されてしまう。でもって国内の安全対策は、安心している反動でおろそかになってるかもしれず、それも危ないよ。

 それは、自分の生まれた村から出たことがない人が、たまたま県庁所在地くらいの「都会」に出て、不愉快な目にあったから、もう一生村から出ていかないって言ってるようなものです。県庁所在地レベルでその恐怖だったら、東京大阪なんか地獄の修羅場であり、ましてや海外なんて宇宙大戦争みたいな感じに映ってるでしょう。それってどうなの?です。そこまで大胆な判断をしてしまっていいの?そんな判断を下せるほどの出来事なの?恐怖感情はそのあたりの理性をかなり曇らせます。

 傷口に塩を塗る気はないけど、そこまでいったらアホです。健康で通常な人間の知性レベルを維持できてない。そして知性劣化くらいリスク管理上危ないことはない。別の言い方すれば感情的になればなるほどむしろ危ない。なぜなら、当然認知するべきことが認知できない、予想できることが予想できなくなるから、高速道路を逆走るような危険なことをやってしまうことが一つ。もう一つは全体のバランス感覚が崩れており、前方の一点以外全て死角になるから。いつの日か思ってもいなかったリスクにやられる。

 例えば、どっかで不愉快な思いをしたから全力で逃げて逃げて、逃げすぎて、「自分の部屋以外の外界は全て危険」くらいまで逃げるとヒッキーになったりするけど、それが安全か?といえば別に安全でもない。侵入強盗が入ってきたら終わりだし。てかね、犯罪で殺されるとか滅多にないです。確率的にいえば無視してもいいくらい少ないし、その数十倍の確率で交通事故で死ぬ。そしてその交通事故の数十倍くらいの確率で、不健康な生活による成人病その他の健康障害があるでしょ。最終的には「健康な心身の毀損」が恐いなら、ひきこもって運動不足で栄養も偏っている方が、どんだけヤバイか。それが健全なバランス感覚ってもんだけど、恐怖感情にひっぱられると、そこが見えなくなる。

 それにリスクをゼロにすることは不可能だし、リスク管理はそれはそれとしてやるにしても、本当はリスク管理に費やすエネルギーを1だとしたら、人生を充実させる生産的な活動を10以上やるべき。面白いことって大体リスキーであり、リスキーであればあるほど面白くて充実するという関係もまたあるのですよ。海外は確かに恐いかもしれないけど、海外という環境で人生が充実する可能性もそれ以上にあるわけです。海は溺れたりして恐いかもしれないけど、海によって得られるものはもっと大きい。だから、好きな人は泳いだり、潜ったり、太平洋を横断したりするわけでしょう。山登りでも、車の運転でも、ビジネスでも、愛でも友情でもなんでも、怖がってたらなんにも始まらないのだ。リスクを超える快楽や意義を見出すかどうかこそが本当の焦点なんだと僕は思うのだけどね。

 「危ない」かどうかなど生きていく上でのハンドルさばきの内のほんの一部でしかない。旅行で宿選びする時に、眺望がいいとか、安いとか、料理が美味いとかいろいろな視点で検討するけど、そのなかに「火災が起きたときの消火器や非常階段の位置とその実用性」という視点もあるかしらん。あってもいいし、正しくもある。だけど、優先順位でいえばかなり下になるでしょう。そこを、そればっか気にして、そこでしか判断しないというのってどうよ?です。リスク管理ばかりに気を取られるというのは、それと同じくらいバランスが狂っている。

性に一般論なし

いろんなパターン

 以下、個別事情に応じた対策論になるのですけど、これはほんとにケースバイケースで、大事なのはここでも一般化しないこと、記号化しないことだと思います。事案のニュアンスは千差万別なので、一つのテンプレートみたいなものを当てはめようとしないことですね。

 と言ってもわかりにくいと思うので、まだあれこれ説明しますね。

 セクシャル系というのは、すごーく残忍凶悪なものも、すごーく純朴なものも入り混じってます

 前者の凶悪系は、女性を人身売買の「商品」のように扱う系とか、持ち前の甘いマスクと手慣れたワザで普通の女の子をナンパして、ヤリサーとかで輪姦して、写真撮って脅迫して、覚せい剤漬けにして売春組織に組み入れるとか、もう鬼畜系のやつだけど、ほとんど仕事であり、あるいは趣味やゲームみたいにやってる連中です。こいつらは女性の人権を認めないというよりも、他人に価値を感じてないので、性別関係なく、いじめて面白かったらいじめる。子供が小さな虫を殺してるようなものです。いわばヒマツブシに人を殺せる奴らで、人としてどっかぶっ壊れている。ただし、絶対数ではレアでしょう。

 絶対数でさらにレアなのは、それ以上にイッちゃってる系で、サイコパスです。歴代すごいのがたくさんいるみたい。「リンカネーションの花弁」とか「サタノファニ(エッチだけど)」などのマンガを読むと、この世にそんな凄い奴がいたのか?って目からウロコ的に思いますよね。過去の超弩級犯罪者(人体を使って精巧な家具を作ることに情熱を燃やしてた奴とか)が出てきます。しかしこんなのは、ほんとマレです。稀だからこそ記録されている。

 数的に多いのは、むしろ純朴系というか不器用系というか恋愛経験が少ないから、オクテで、下手くそで、段取りよく物事を進められず思い余ってワープしてしまうから犯罪まがいになってしまう。いつも見かける素敵な人に恋心を抱くのも普通、思いを伝えようとラブレターを書いてしまうのも、まあ普通、それを機会をうかがって渡そうとするんだけど、オクテで下手くそだから機会が捉えられないわ、ビビってその一歩が踏み出せないわで、こっそり後をつけて、それだけって感じです。これで「こ、これ、読んでください!」とかいって手渡したら(まあ、フラれるだろうけど)、それはそれで痛くも微笑ましい「青春の一コマ」ですけど、手渡さないから結局やってることは「ストーカー」になってしまう。もう紙一重なんですよね。

 あるいは本人はナンパや口説きのつもりなんだろうけど、下手くそ過ぎて、恐怖感を与えてる場合。段取りが悪悪というか、相手の都合も聞かずに、いきなりチケット取ったり、いきなり高額なプレゼントをしたり、そんなの相手に違和感や恐怖感与えるだけなんだけど、それがわかんない。ナンパの上手いやつが最初に声かけて誘うときって、出来るだけ警戒感を解いてもらうために、相手がいつでも逃げられるような開放的な公共の場所やら、喫茶店で座るときも出口に近くてすぐ逃げられるような席に座ってもらうとか(無意識的に楽になるし)、それはそれは考えてるもんです。やたらモテる奴がいて、話をきいたことがあるけど、そこまで考えるのか?そこまでやるのか?という、もう努力の鬼って感じ。

 本来なら、何十というステップを踏んでゆっくりすべきところ、経験不足と気が逸(はや)ってるせいもあって、それを一気に特急列車のように飛ばして、短兵急な行動に出る。いきなり手を握るとか、壁ドンするとか、肩を掴むとか、身体的接触なんかほんと最後までやってはいけないんだけど、ちょっと笑顔を見せてくれただけで、「もうOKなんだ」的にびーんとワープするという。あーもー、馬鹿だねえって感じだけど、でも、女の子からしたら恐怖ですよね。

 それか、相手の承諾なんかどうでもいいって思ってる場合、完全に舐めてかかってる場合。相手が反抗しても叩き潰せると思ってるケースがセクハラとか、強引な口説きとかになるのでしょう。このあたりやってることの外形は同じでも、そこにいたるメカニズムが違う。下手くそ系は、相手へのレスペクトはあるんだけど、やり方がひたすら下手だからよく見えてない。セクハラ強引系は、そもそも相手をレスペクトしてない。また、レスペクトしなくても許されるという環境にあると思っている。

人はなぜ犯罪を犯さないのか?

 なぜそんなことをするのか?というメカニズム論ですけど、僕個人の考えでは、「なぜ皆はしないのか?」の方が興味深いです。

 なぜって、生物学的にいえば、哺乳類や人間のオスの「本来の仕事」は、あっちゃこっちゃに精子をバラまくこと「だけ」と言ってもいいくらいで、それが種としての生存戦略に一番叶っている。播種本能においては相手の同意やら、愛情やらは必ずしも必要ではない。 また、生きるか死ぬかの極限状況になれば、生存本能がマックスになるから、誰かれ見境なく強姦するのは、戦争でとある街が陥落したときに常に起こりうる風景でもある。その観点でいえば、全ての男性は性犯罪の予備軍であり、サイテー男がいるというよりは、男は全員サイテーだとも言った方が正しい。その意味で男性恐怖症になるのは一理ある。

 しかし、だからといって年がら年中襲いまくっているわけでもない。普通はしない。それは性欲を、物欲や食欲と置き換えてみたらわかる。災害や戦争で強度の飢餓や不安状態に追い込まれたら、人は付近の商店を襲って略奪したり、他人のものでも奪うかもしれない。男が女を襲うというのも、それと同じで、基本レアなケースでしょう。ではなぜ年柄年中襲わないのか?なぜしないのか?眼の前の獲物があるんだからやればいいじゃんってならないのか?

 その心理、その本能=心理メカニズムが、そのままリスク対策になるでしょう。自分のこととして置き換えて考えてみればいい、なぜあなたは、いくら欲しいバッグが店頭に飾られていても、それを盗まないのか?

 これがいわゆる「反対動機」というやつで、悪いことを押し止める要因です。
 一つは言うまでもなく、それに伴うダメージです。警察に捕まるとか、クビになるとか、社会的生命を失うなどの強烈なサンクション(制裁)があるから、いくら欲しくても我慢をする。これが一つの視点になります。

 その視点でいえば、サンクション抑制効果が弱い相手〜例えば全てを失って自暴自棄になってる人は、その歯止めが少ないから危ないということになる。あるいはそのへんの計算がまともに出来ないくらい知的に劣等な人の場合。また、かつての地上げのように、嫌がらせをするのが「仕事」になってるような場合は、反対動機もクソもないです。捕まって刑務所にいけば勲章くらいに思ってる。しかし、一般的にいってそんなのはレアといってもいいし、そこに至るまでにかなり分かりやすい兆候もあるでしょう。

 第二に、絶対に捕まらない、バレないという自信がある場合。隠微な性犯罪の場合、これが一番大きいかも。セクハラや痴漢などは、相手に騒がれて問題になったらアウトです。だから被害者選びはかなり慎重にやるでしょう。泣き寝入りしてくれそうな、気が弱そうな人をターゲットにする。向こうも社会的生命がかかってるから、それは慎重に値踏みするでしょう(失敗してお縄になってる人も多いけど)。セクハラなどの場合は、構造的に被害者に文句が言えないような力関係があったり、声をあげても周囲からもみ消したり、昨今で言えば、マスコミを黙らせたり、検察を黙らせたりすらする。黙ってしまう検察もマスコミも腑甲斐ないっつか、死ねよって感じだけど、このあたりは力関係の優劣によって決まる。

 第三に、日常の世界生活において一番大きな抑止力になるのは、結局はその人の良心だと思いますよ。なんか話が道徳メルヘンぽくなるようだけど、本当にそうだと思う。「内的規範」とかいうのだけど、絶対バレない、やればいいじゃんってときでも、「それはしちゃダメだろ」って自分で思う気持ちです。道に百円玉が落ちてるくらいだったらラッキーで済ませられるかしらんけど、免許証からなにから全部入ってる財布が落ちてたら、それはもうラッキーとは思えず、持ち主の人が「困ってるだろうなあ」って思って警察に届けたりするでしょ?(君はしないか?)。それはその人の美意識というか、自意識(盗んだりする汚い自分でありたくない)というか、そこが一番大きなポイントになってると思う。

 でもって、性犯罪系の場合、男って普通はイヤがってる女性を襲ったりしないです。気分悪いですしね。また、これは男のプライドというか、ナルシズムも入ってて、女性から積極的に求められるような自分でありたいってカッコつけ心理もあるのですよ。キャーキャー言われてなんぼというか、そのためならどんな涙ぐましい努力でもするという(笑)。そこを無理やり襲うというのは、男としては一種の敗北ですからね。

 このように何重にもセーフティネットがかかっているから、比較的安心して社会生活が過ごせるし、それで実際大過はない。

希望が大事

 余談ながら、「最良の社会政策は最良の刑事政策だ」という至高の格言があるのですが、社会全体での防犯という見地でいえば、犯罪周辺だけ叩いたって意味ないんですよね。元を断たなきゃ。人を犯罪に向かわせないためには、さきほどの「反対動機」を強くすればいい。ここから一罰百戒的にサンクション(罰則)を強くしてビビらせてやらせないという政策も出てきます。今は先進国はどこも重罰化の傾向がありますが、しかし、これは政策のなかではかなり劣等な方です。いくら罰則を強化しても、「俺は大丈夫」と思われたら意味ないし、「それでも構わん」と思われても意味がない。

 もっと抜本的な方法は、「内的動機」(良心)を強化することで、それは一人ひとりに高い自尊心を持ってもらうこと、そのためには常に「希望」があることです。頑張ってりゃ「絶対に」いいことがあると確信できるような社会にすることでしょう。希望がある限り、人は良い方向を目指すもんです。その希望がぐしゃっと潰されるから、いじけるし、拗ねるし、自暴自棄にもなるし、どうにでもなれって気分になる。

 その観点でいえば、人々の希望を潰すこと、あるいは真面目にやってるのがバカバカしくなるようなこと、国や企業のトップやエライさんが、ズルをやってバックレたり、開き直ったりして許されているという状況は、もう最悪といってもいい。モラルハザード(倫理の荒廃)という毒ガスを撒いてるようなもので、万死に値すると思いますよ。

 あと、僕ら一般ピープルもですね、他人の希望を嘲笑したり拒否したりする態度は慎むべきでしょうねー。「あー、もう、あいつは一生ダメだな」「はい、一生童貞確定」とか他人をディスって喜ぶという幼稚な性癖を改めること。ま、口でいって改るとも思にくいのだが、他人に優しくなれないってのは、すでに自分がアップアップしてるからでしょ?自分のささやかなプライドやらを守るために、水面上で金魚みたいに必死に口パクパクやってるから、他人を馬鹿にしたくなる。自分よりダメな奴、弱い奴がいればいるほど、相対的に自分が浮かび上がった気がする。だもんで、他人を馬鹿にして喜んでる人は、ちょっと物が見える人からみると、同じように馬鹿にされる存在でしかなく、要するにダサいんだけど、ダセーこと言ってんじゃねえよって言ってやればいいと思います。僕は言うようにしてますけどね。

 格差社会という言葉が出てきたときも、(前にも書いたが)本当は「希望」格差社会です。現在の所得の格差ではなくて、将来の希望があるか無いか、大きいか小さいかに格差があるという意味です。財布が空っぽでも夢と希望が大きれば、それで良い。

 性的リスクに戻って言えば、銀座のママとかそのあたりは達人的に上手いのですよね。男というのは「希望」をぶらさげておけば、他愛なくいくらでも「いい子」になりますからね。カッコつけは男の本能だもんねー。脂ぎったオヤジに手を握られようが、抱きしめられようが、「あら、やだ」と笑いながらやんわり払いのけて、相手の口のところに人差し指をぺったんと押し付け、「あ・と・で・ね」とか言えば、おとなしくなるという(笑)。まあ、男なんかちょろいもんよ、てな感じでしょう。よくその種の相談で、半分冗談、半分本気で、「峰不二子になれ」といってますけど、本当ですよ。さんざん貢がせて、裏切りまくっても、最後に「ごめんね、ルパン」の一言でチャラにしてしまえる達人芸。そこまでいかなくても、「男のさばき方」など、「(いい)女道」の基礎過程じゃないんですか?修行せえよ、と。

ケースバイケースしかない

 このあたりは事案によって全くメカニズムが違うから、一般論や記号で語っても意味がないし、対策にもならない、むしろ危険かもしれない。第一次接触(最初のコミュニケーション)の不快さでいえば、ヘタクソ系やセクハラ系は不愉快だからすぐに分かるんだけど、「あたり」の良さでいえば、最初に書いたプロ鬼畜系が一番上手いんですね。ナンパの達人みたいな連中でもあるし。だからあまりにも巧すぎるのもヤバい、巧すぎる方が危険とも言える。しかし、これもケースバイケースだよなー。ただ、鬼畜系はどっかしら人して「崩れている」感じがするので、なんとなくわかるんじゃないかな。フレンドリーというよりも妙に馴れ馴れしかったり。

 あとですね、セクハラ系とか、ハラスメント系についていえば、そもそも「イヤとは言えない」みたいな環境に入ってしまうのが問題だと思う。よくこのエッセイでも書いてるけど、自由を奪われている時点で、既に手足縛られているようなものですから。念願の一流企業に入りました、ここを辞めたらもう生きていけませんとか思い込んだりしてる時点で、もうヤバいです。念願だろうがなんだろうが、「違うな」と思ったら、スッパリ辞められるだけの心準備というか、腹括りとかは絶えずしておくべき。そしてプランBは常に考えておくべき。価値観も、価値観A(キャリアでGO的な)と同時に、価値観B(自由にのんびり)も鍛えておいて、場合によってはすぐにスィッチできるように。大体、長い人生、かわりばんこにやったりするもんですからね。そんな固定的に考えんでもええよ。

 だから、セクシャル不愉快局面においては、一般論の「毅然と対処」だけでは足りないし、そんなことしても何の役にも立たない場合もあるし、そもそもそんなことが出来るくらいなら最初から苦労してないわってのもある。だから、個別事案のニュアンスをどこまで正確に汲み取れるか、それにかかってると思います。今書いたように、ハラスメント系は、その場の対処なんか赤チン塗るくらいの対処療法でしなく、抜本的には人生の枠組みそのものを変えないと難しいです。過労死なんかと同じパターン。

男女の暴力的なまでに摩訶不思議な磁場

 それに輪をかけて複雑にする要因があります。
 男女関係とかそのあたりのって、リスクがどうのってだけのレベルの問題じゃないです。というか、リスクなんかどっちかといえば傍流であって、そんなメインストリームではない。

 メインストリームは、言うまでもなく、男女(あるいはLGBT的な)豊穣で不毛で、緊張と安らぎが入り混じった摩訶不思議な時空間でのアクティビティです。純粋な想いとケダモノ的な欲情が仲良くデュエットしてるよな世界ね。引力(引きつける)と斥力(排斥する)が同時に作用してる場。

 もう古今東西全てのアートの題材に使われ、歌でもなんでも、恋に落ちて幸せ〜、破局して悲しい〜って、そればっか何千年も歌ってます。それが百人一首であろうがJ-POPであろうが。永久運動のようにこれからも歌うでしょう。「それだけのもの」なんですよね。もうなんという圧倒的でパワフルな存在感。

 刑法論でいうと、性的犯罪というのは、殺人とか傷害とかとは際立って違う点があります。殺人(首を締めるとか)、傷害(ナイフで刺すとか)いうのは、純粋に外形的に犯罪だとわかる。ところが性犯罪の場合、例えば性行為そのものだったら犯罪なのかどうか分からん。「被害者の同意」があるかどうかで天国と地獄ほど違う。同意がなければ「魂の殺人」と言われるくらい重い(量刑実務でも凄い重い)強姦罪であるけど、同意があるなら愛と歓喜の行為になる。そして、絶対数でいえば後者の方が圧倒的に多い。(まあ、中間的にお義理でとか、計算ずくでとか、仕事でとかグレーゾーンはあるけど、それは措いておきます。)

 これは何を意味するか?
 思うに、性犯罪というのは、なんとなくのショッキングな感じ、ゲスで扇情的でエロい部分で取り沙汰されがちで、フィジカルな犯罪のようなイメージがあるのだけど、さにあらず。極めて精神的・感情的な犯罪であるということです。気持が大事で、気持が右か左かで、残忍な犯罪になるか至福の行為になるかが決まる。

 これも専門論で恐縮ですけど、性的犯罪は「性的自由に対する犯罪」としてカテゴライズされています。暴行罪のように身体に対する犯罪ではなく、「自由」=人の意思決定権を侵す犯罪であると。

 意思決定への侵害というのは、かなり重いです。なぜなら、(意思を無視される)「お前(自分)なんか無価値な存在なんだ」という事実を叩きつけられるわけですから、人の精神の成り立ちで一番大事な自己の尊厳が折られてしまう。身体的には生きているけど、心的には死んだようなもので、魂の殺人だというのはあながち大袈裟な形容でもないです。これはイジメなんかでも同じだと思いますけど。

 こういった学理的な話がプラクティカルに何の役に立つのか?といえば、実は役に立つのですよ。

 性的に危ないか危なくないかは、襲うか・襲わないかだけ考えていてもわかりにくい。対象が非日常的過ぎて想像しにくいし、兆候も読みにくい。でも、自分の意思決定を尊重してくれそうか、いざとなったら無視しされそうかならば、より細かく読み取れると思います。

 これはかなり直感的にわかるんじゃないかなー。表面的にカッコつけて、「君はどうしたい?」とか聞いてくれたりしてるけど、細かなところで「本気で大事に思ってるわけじゃないな」ってのは、どっかでボロが出るというか、読み取れると思います。そこがヤバいなら、やめとき、っていいますけど。

 でもね、摩訶不思議性があるから、そういうのがクールで素敵だと思うなら、お好きに。これねー、ほんともう「好みの問題」という「解決不能の海」にすぐつながってるから、よう分からんのですよ。また、案の定それで苦労しまくるケースもあれば、意外とそれでうまくいってるケースもあったりで、わからん。まあ、他人が分かる必要もないのだろうけど。

 ということで、総合的にまとめるならば、何度も言うようにケースバイケースでしかないなら、一般論やら記号に頭を奪われているのはヤバいことだし、そんな一般論に右往左往するくらいなら、目の前のその人物を注意深く観察する方がよっぽどマシだということです。

記号と貧困とこれからの日本

 記号の話に関連して、思いついたので書いておきます。

 しつこく書いているように「記号」というレッテル貼りは、もの凄〜く簡単で、頭を使わないでいいから、皆のお気に入りです。特に(知性に乏しい)大衆と呼ばれるそれこそゲス集団の大好物であり、ワイドショーでそれが増幅される。やれ母子家庭だから、片親だから、風俗や水商売やってたから、外国人だから、生活保護受給してるから、不良だから、バイク乗ってるから、勉強ができないから、失業してるから、未婚だから、、、、それこそ偏見と弱いものいじめの温床であり、社会を殺伐とする方向に向かわせる。しかし、そんなレッテル貼って何かが物事が改善したという試しもない。冷静な観察をしないから本当の問題点がますます見えにくくなり、抜本的解決はさらに遠のく。

 そして、そういう白い目で見られれば、見られた方もムカつくし、おー、そうかい、じゃあご期待に応えてやるよって気持がササクレたりもするでしょうから、結局自分らで害悪を創造し、増幅してるだけでもある。愚の骨頂といえば、このくらい愚の骨頂はないのだけど、人というのはそれをやる動物なのよね。古今東西そればっか。もういい加減に学べよって感じで、記号化(ステレオタイプ)でモノを見るというのは、社会の破壊に手を貸すのと殆ど同義ともいるんだから、「記号罪」という犯罪にしてもいいくらいだと僕は思うのでした。

 しかし、話はそれで終わりではないのですよ。「ああ、嘆かわしい」で嘆いて終わりだったら楽なんですけどね、そうもいかない。

 なぜなら、前にも書きましたが、今は暴対法とかで日本の暴力団が死滅しそうになって、でもそういう人の絶対数は変わらないから、半グレとかもっとワケのわからない混沌になってしまってます。あれ以降、日本の裏社会は加速度的に怖くなってます。加えていえば、食えない大銀行がサラ金潰して乗っ取ってからは、サラ金の業務範囲が狭くなって、サラ金→街金→闇金とダーク度の高いところで借りざるを得ず、それが日本の貧困層の生活環境をさらに悪化させているでしょう。でもって格差拡大で貧困層が普通に増えてきてるので、もう20年前の日本に比べて、かーなりヤバイ国になっていると思う。幼児虐待とか増えるのも、前だったらまだサラ金とかで済んでたのが闇金とかいって沈没してしまうことの結果だと思います。

 それと記号化(知性の劣化)はフィードバックの関係にあって、とにかく金に追われて生活してると、ゆっくり物が考えられないし、楽しい筈のプライベートな時間もクソみたいな現実を束の間忘れさせてくれるような麻薬的な快楽、お金を使って手っ取り早くいい気分(ギャンブルとかドラッグとかセックスとか)に走りがち。

 主権者たる国民がモノを考えられないなら社会が良くなる道理がない。社会の良識的中核ともいうべき中間層が浸食され、どんどんその日暮らしに追われていき、社会政治を考えるにしても、スマホでネットみて、ツイッターとかFBとか「数行でわかる」ような薄っぺらなレベルに堕ちてしまう。本当は抜本的にやらなきゃいけないから、最低でもきちんと書かれた専門資料を読み込んで、現場にも足を運んで矛盾が炸裂している状況を知れ、その上で考えろ、なんだけど、そんなことやってる時間も精神的エネルギーもない。そもそも最初から頭がそういうフォーマットになってない。こんなに進学率があがっても、本質的には退行している。知性というのは、解決できない矛盾を目の前にグリグリと押し付けられるようなことがないと向上しないから。

 そういう人にとっては記号化されたわかりやすい世界観というのは、すごく気持がいいんでしょう。「あいつらが全部悪いんだ」的な話にしておけば簡単だし。とにかく白人が一番エライのに、一番割を食っている、世の中間違ってる、俺の人生がミジメなのも社会が悪いからだ、そうだアジア人なんか皆殺しだ的な、なんでもかんでも〜って馬鹿丸出しの思考ね。そりゃあ気持ちいいでしょ。

 でも、そうなればなるほど、一般大衆という生き物は、物理的や経済的な意味だけではなく、知的、精神的に家畜化されていく。過去の歴史は大体そうだし。

 ぶっちゃけ、世の中というのは上も下も人を家畜くらいにしか思ってない連中が仕切ろうとする。上は、政治家やら官僚、大企業などは従業員や中間層、母子家庭や貧困層など家畜くらいにしか思ってないから、とりあえず「やってまーす」の格好はつけるけど、本質的には囲って、牛乳絞って、羊毛刈ってってことでしょう。内部留保がいくら過去最高に溜まっても賃金はあげない。それはいくら給料があがってもペットの餌が良くなるわけではないのと同じ。また、頭がトロいのにやたら資産がある半ボケの高齢者なんか格好の獲物であり、だから銀行が賃貸マンションを作れとかなんとか詐欺まがいの収奪をしようとする。

 下は下で貧困ビジネスが絶賛進行中で、街金から闇金まで落ちてきた人たち、生活保護を門前払いされて行くところがなくなった人たち、年金生活が苦しい人たちを借金で縛ってあれこれやらせる。まだ住所もマイナンバーも機能しているうちは、犯罪で使う携帯電話を契約させたり(飛ばし携帯)、名義をさんざん利用する。そのうち売春させたり、ドラッグ売らせたり、オレオレ詐欺で一番危険な受け子をやらせたり、さらにホームレスレベルになってくれば戸籍売らせたり、さらに生活保護費を横取りするためにどっかの豚小屋みたいなところに住まわせ、文字通り「飼って」たり、受給費を増やすために手足ちょん切って障害年金取らせたり、最後は人身売買で、治験(てか人体実験)のモルモットとして輸出したり、あるいは臓器売買。海鮮料理屋の生簀のように「生きたまま鮮度最高」で売りますって。もーね、家畜や魚やクジラを「無駄のないように」「活用」するのと同じ。人を人だと思ってない。

 経済がやばくなるとか、社会が綻(ほころ)びていくとかいうのはそういうことです。中間層が浸食されるというもそういうことです。アメリカなんか、さすが先をいっていて、カルフォルニア州とかもう全米一のホームレス率らしい(ググってみたら山程でてくるよ。YouTubでも)。先日のトランプVS議会で公務員の給料が一ヶ月かそこら遅配しただけで、もう家賃払えずホームレスになってる公務員が続出ってくらいだから、どんだけ中間層がスカスカになってるか、です。

 僕がセーフハウスだの空き家だの言ってるのは、そう遠くない将来、マジに必要になるだろうと思うからです。知り合いとか仲間とかが闇の世界に転落していくのを指を咥えてみてるわけにもいかない、どっかでセーフティつくって止めておかなきゃって、これはかなり真剣に思ってます。最初から底辺層で生まれ育ったなら、それなりの対処ノウハウも持ってるからしぶといけど、普通のサラリーマンとか中流層が転落したら、免疫もノウハウもないから、一気に落ちるところまで落ちるでしょうし、恐いんですよ。

 とはいいながら、実際には一人か二人でも救えたら御の字くらいですけどね。そんな誰もかれもってわけにもいかない。全く面識のない人も救えない。結局、出来ることしか出来ない。しかし、出来るのにしないよりはよっぽどいい。ちょっと手を貸すだけで、それも皆が空いている手、貸したところでそんなに何が困るわけでもないものを持ち寄るだけで、個々人レベルにおいては劇的に良くなる場合もあります。それは確かにある。

 それに「頑張ってください」的なことを口先で言ってもしょうがないだろ、てか有害無益って気持もあります。自分が井戸の底に落ちたときに、井戸の上からいくら声援してもらっても、囃されているような屈辱感しか感じないかもしれないし、辛いと思うわ。そんな口先の言葉よりも、現物であり行動でしょ。あれこれ美辞麗句社交辞令を並べるくらいなら、やにわにポケットに数枚のお札をねじこんで、「とりあえず、これでなんか食え、話はそれからだ」って方が意味がある。あいてる部屋があるので一週間くらいだったら住んでいいよとか、○○まで行くなら俺も車で出張でいくから乗せていってやるとか、「これ作りすぎちゃったんで、ちょっと食べてくれない?」でもいいし、組み合わせることは可能なんじゃないかなってね。置かれた状況を考え、大きな絵図面を描くのはまた別の話だけど。

 ただ、さらにその前提の地ならしというか、耕作可能な土壌改良としては、カッコつけない人間関係、世間体とか自慢オンリーの人間関係(よくあるFB的な)を叩き壊して、自分の弱みを告げてもあまり恥ずかしいとは感じない人間関係、失業しました破産しましたって言える関係、間違ってもそれを嘲笑するような馬鹿が現れない場(出てきたら秒殺)、また放置しておくとすぐダメになるので、すごい予兆の段階で芽を摘み取っていくとか、場の雰囲気を高品位にしておくとか。これが結構大事で、こういうのって早期に対処したら比較的簡単なのですよ。でも簡単に処理できるときって、まだ余力があるからカッコつけたり体裁整えたりするからわからない。いよいよ泣きが入ったときにもは、もう手の施しようがないとか。だから、早め早めに弱音を吐ける環境整備。

 まあ、やることは沢山ありますよね。
 以上、長い文章をさらに長くしてしまった余談ですけど。




文責:田村


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