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Essay 903:記号化詐欺〜記号化の罠(その1)

 〜その詐術メカニズムと必要悪のような有用性


2019年02月14日

写真は、Pyrmontで撮影。早朝に沈んでいく満月


 最近、「記号化」という言葉や概念を使ってしゃべる場合が多いのですが、こいつが結構、諸悪の根源みたいなところもあります。いろいろな局面やレベルでそう感じるのですが、体系的に整理してると膨大になりそうなので、まずは思いつくまま書いてみたいと思います。

不正確に捉えるほどわかりやすくなる

 常々思うのですが、物事というのは不正確に捉えるほどわかりやすくなるものだ、と。実相やリアルから離れれば離れるほど=そこを抽象化し、記号化していくほど「わかりやすく」なるのだけど、わかりやすくなった分だけ間違っているのだ。

 例えば「最近の若者は〜」という構文があります。古代エジプト時代からあったと言われ、いわば人類の大の「お気に入り」のフレーズ・思考パターンです。誰でも一度は口にするか、口にしたくなる魅惑のフレーズ。しかし、まあ、僕が思うに、こういうのってだいたいにおいて間違ってますよね。「本当にそうか?」というリアリティを検証していけば、一般化できるほどの根拠もなさそうだし、ましてや個別事例を解決しうるほどの有効性もない。

 てかさ、個別事例で失敗しているからこそ(ex 若い部下達の信望を得られないからこそ)、仕事帰りの飲み屋で「大体さあ、最近の若い連中は根性がないんだよ!」と一般論で愚痴って憂さ晴らしをしているわけでしょ?失敗してる奴の認識論なんか聞いても、大して役に立つはずがないではないか。

 「最近の若者」といっても十人十色、いろいろな環境×性格があるのであって、そんな一括りにして論じようとしている時点で既に無理がある。そんな無理で硬直的な発想だからこそ失敗しているのだ、とすら言える。若い人のなかには、怠け者で嘘ばっかいう奴もいれば、不器用で損ばかりしてる実直な奴もいる。だけどそんなことは若者でなくても、中年でも老人でも子供でも同じではないか。

 リアルに存在する個性や凸凹をシカトし(難しくいえば「捨象(しゃしょう)」し)、一括りのグループにして論じること、これが、過度の記号化、単純化、グルーピングといわれる作業で、(思考において)「やってはいけないリスト」の上位にあがってくることです。

 同じように、
 「女は〜」で一括りにして論じるとか、
 「外国人は」「移民は」で論じるとか、
 学歴や年収でグルーピングすることとか、
 良きにつけ悪しきにつけ過去歴(前科や離婚歴や受賞歴)、住んでるエリア、宗教を信じているかどうか、生活保護を受けてるかどうか、仕事してるかしてないか、、、
 もう無限にバリエーションがあります。

 一番すごいグルーピングは、「日本人は〜」「国民は〜」(愛国者は、非国民は)とか、「我々は」「みんな(世間)は」「人類は」「およそ人は」とかいうやつで、もう完全に味噌もクソも一緒。

 そんな現実リアルから遊離した嘘八百混じりの話を、なぜか皆さんやりたがるし、僕もしますし、あなたもするだろう。なぜやるのか?やる以上はなんかメリットがあるわけでしょうが、それはなにか?まずはそのあたりから。

人数の多さと虚構は比例する法則

 大きな法則性でいえば、対象となる人数が多くなればなるほど、嘘(非リアル)の混入度合が高くなることです。これはすぐに分かるでしょう。

 特定個人を語るときは、かなりガチにリアルな話をしている場合が多い。「お前は、本当はそういうヤツじゃないだろ?」「あなたという人が分からなくなった」とか。もっとも後でも述べるように、特定個人であってもバリバリ記号化をカマす場合もあります。「お前は◯◯なんだから」で頭ごなしに決めつけられるパターンですが、その場合はその虚構性や違和感がわかりやすいし、反発もする。

 特定少数、つまり恋人・夫婦間、あるいは部活のチーム仲間などで、「私達ってもうダメなのかな?」とか、「俺らの強味は◯◯って部分だろ?」とかいう場合も、比較的リアルな実態に根ざして話をするでしょう。

 ところが人数がもっと多くなって、「栄光と伝統あるわが◯◯学園の生徒に限って、そのようなことは〜」とかいい出すと、これはもうリアルというよりも、ただの「おはなし」「願望」に近くなってくる。また、(そうは口に出して言わないけど)ハイソでセレブな住人が多い◯◯地区で、そのような施設(児童相談所とか、精神病院とか、矯正施設とか)を作るのは”好ましくない”とかなんとか。

 これが記号化の一つのパターンだと思うわけです。
 人数が増えるにしたがって、一人ひとりの細やかな個性とかばらつきとか考えていられなくなるから、最大公約数的なイメージ、ある種のステレオタイプのような抽象概念(=記号)を作って、全体をひとまとめにして語ろうとする。

 ただ、その最大公約数的なイメージ(記号)がどれだけ正しいのか?どれだけの根拠と事実に基づくのか?それは明証されているのか?というと、それはかなりいい加減です。「関西人は◯◯だ」の「◯◯」に何を入れるかは人それぞれだし、なんとなくの先入観やら偏見やら願望やら嫌悪やらが入り放題だし、それを厳正にチェックしているわけでもない。

 別の言い方をすれば、現実に縛られなくなる分、そこに自由に自分の意見や考え(偏見)を、「記号」という形で混入させることが出来るようになります。

 そこで次の特徴が出てくる。

事実を語るふりをしながら主張を押し付ける

 人数が多くなるほど=リアルな現実から乖離し、嘘やフィクションが強くなるほど=、それは現状はこうであるという事実認識を論じて(るフリをし)ながら、何かの型に相手を押し込めようとしている、自分の意思を相手に強制しようとしている場合が多くなる、とも言えるでしょう。つまり「事実」を装って「主張」を述べて(押し付けて)いる。

 言ってる意味わかります?
 「日本人は自己中な主張を控えるものだ」→だからお前も文句を言うな
 「女性は細やかな気遣いをする」→だからお前ももっと気配りしろ

 これはいったい事実を述べているのか、理想を語っているのか、相手に対する非難や命令なのか、それらが渾然一体としているなんとも不思議な言い回しです。しかし、日本に生まれ育ってきたら、この種の「文法・構文」は耳にタコができるくらい聞いてきているでしょう。

 この詐術的なメカニズムについては後で述べますが、ここでは人数が多くなるほど、話が大雑把でいい加減になるんだなーという点だけ。

 そして、一般的な世間知でいえば、話が大きくなるほど、語ってることとは別の(裏の)意図があるんだろうなーという事も、皆もそういう環境で育ってきているだけに、ごく自然に身に着いているんじゃないですか?

 「我が社のためを思って」とかいうのも、本当にそういう場合もあるだろうけど、多くの場合、「思って」いるのは自分の保身や出世でしょ。Aというプロジェクトが成功してしまうと、これまでの自分の成功が色褪せてきて、そうなると次の昇進とか派閥争いにヤバくて、だから早めにAを潰しておきましょうと「裏(本当)の意図」があって、だけどそれをそのまま言うのはカッチョ悪いし説得力もないから、「米中間の貿易摩擦が一層の激しさを増すことが予想される現状においては、きっちり守りを固めることこそ重要であって」「それこそが我が社のために」とかいう言い方になる。

 要は自分の隠された(多くの場合はしょーもない)意図を押し通すために大義名分として使われるのが、記号化された大集団(我が社)であると。

とにかく美味しい国家アイテム

 ここでちょっと脱線気味になりますが、究極の記号化詐欺というか、大義名分になりうる大集団として出てくるのが「国」だと思います。

 「国家」というのは非常に使い勝手の良いアイテムで、昔から皆さんに愛用されていますよね。国家がなんでフェバリットアイテムになるかといえば、話は簡単、美味しいからです。例えばお金儲けが簡単にできる。なんせ国家には地上最強の徴税権があります。対価を渡さずにお金が入る、こんなボロ儲けはない。てか普通それは「犯罪」と呼ばれる行為だよね。でも国家には許される。もう資本主義の例外というか、天下御免の「やらずぼったくり」です。だから唸りをあげるほどにお金が入る。日本の国家予算はおおよそ100兆。ネズミやダニのように、そのどっかにしがみついて、0.01%でも利権でチューチューやったら、それだけで年収100億円ですからね、0.0001%でも一億、目の色変わるよね。何のために東大に行くのか?なんてのは愚問で、チューチューの順番待ちやら整理券をゲットするために決まってるじゃん。

 でもそんなチューチューを全面に打ち出したら、やっぱりカッコ悪すぎだから、そこは「日本のために」とかいうよね。そして利権というのは、なにか出来事(イベント)がないと生じにくい。まんま平常通りだったらガッチリ既得権ネットができてるから、後から入れない。でも新規に何かをやるとなるとゼロからの新天地が広がってるわけだから、そこは腕次第です。だからオリンピックだろうが、万博だろうが、公共投資で無駄な物を作ろうが、そして究極のイベントである戦争だろうが、もうなんでもやる。予算はデカい方がいい。でも最初からデカい予算でいうと話が通らないから、最初は低めにいって、既成事実化してからどんどん予算が膨れ上がるのがいい。

 そこで、そのチューチューを邪魔するような意見は圧殺したい。無駄だとか、無意味だとかいう声を潰すために出てくるのが、いやしくも日本人だったら応援しろ的な、ファシズム的な同調圧力なんだけど、そういうときの大義名分に使われるのが国家、民族、国民などの記号であると。その種の記号がどれだけ意味ないかは、例えばどっかの新興国で政府軍と反政府ゲリラがドンパチやってますけど、どちらの側も「国のため」「国民のため」って言うもんね。


記号化詐術のメカニズム

 記号化というのは、現象を抽象化します。生身のあなたは、性格や、価値観や、経験知識など複雑な陰影に満ちています。それはもう一つの山岳風景のように実にいろいろな要素がある。それがナマのあなたなんだけど、そういったものを一切排除して、ただの「女」「日本人」「学生」「未婚者」にしてしまう。それが記号化。

 このように記号化には個性(個別特性)の排除という機能があります。個性とは現実そのものであり、個性をシカトすることは、現実をシカトすることでもある。

 現実を無視できるだけに、自由にフィクション(虚構)を構築できる。
 事実のように語りながらも嘘を混入させることが出来る。
 つまり嘘を嘘と気づかせない魔法がこの記号化でもあるわけです。

 この記号化を自由自在に織り交ぜて使うと、いかにも動かしがたい事実を語ってるようでいながら、嘘八百を並べ立て、手前勝手な自分の理屈や価値観を相手に押し付けることが出来るようになります。ディベートとか、レトリック(修辞)とか、そのあたりのテクニックはあるのですが、記号化はかなり有効な手法の一つだと思います。

 あなたは「女」である(記号化)→女とは◯◯するものである(記号の独り歩き)→だからあなたも◯◯だ(勝手に描いた記号を現実にあてはめて強制する)、というエセ三段論法。

 カウンセラーとか相談者が優秀かどうか、あるいはあなたに合ってるかどうかは、このあたりを見てると結構わかるかもしれないです。優れた相談者は、あなたを安易に記号化しようとはしない筈です。あなたの性別、職歴、身分などに囚われずに、一人の人間としてのあなたの陰影をしっかり見ようとするはず。また、そうでないと実のある相談なんか出来ない。

 逆に無能ないし不誠実な相談者の場合、なんでも記号化してそれで済ませようとします。「お前はまだ未成年なんだから」「ワーホリなんだから」「いつかは嫁にいくんだから」とか、そういう記号論で話を済ませようとする。簡単だもんね。偏差値がこのくらいだったら、このくらいって一般論をもってきて、そのまま現実に当てはめるというのと同じことですから。こんなん誰でも出来るわ。

 ちなみに営業トークなども同じで、相手を記号化した方が物を売りつけやすいですからね。ただ営業の場合は、ちょっと違って、実に心地よい記号化をするんだよね。(お客様のように)「ある程度裕福な方」は〜このレベルのものがふさわしいとか、お客様のように目が特徴的でお綺麗な方の場合、やはりシャドーは多少控えめの方がかえって引き立ちますし、その場合コレなんか最高によくお似合いになりますわ、とか。知らない間に「裕福な方」とか記号化されちゃってるんだけど、まあ、モノの売買くらいなんだからそれでもいいけどさ。

 不誠実に誤魔化したり、パラハラみたいな場合も、この記号化で誤魔化したりします。残業代全然つけてもらってないんですけど、労働時間の計算がちょっと少ないんですけどという話をしてるのに、なんだかんだゴニョゴニョいいながら、「キミはまだ学生だろう?(社会に出たことないだろう?)世間というのはね、キミが思うようなモノではなくて〜」とか、勝手に「就労未経験者」「社会人未満(未熟者)」という記号化をカマしてくるわけですよね。無理やり記号化することで、そこでなんか負い目を感じさせ、ひるんだところで畳み掛けてという、結構恥ずかしいワザです。

 対策としては、まず第一に、安易な記号化しようとする出鼻をくじくことですね。これは単純に労働時間の集計の話をしてるのであって、単なる算数の問題にすぎない。社会に出ようが出まいが、1+1が2になることに変わりはないでしょ?とか。

 あと記号の独り歩きも許したらあかんですね。「◯◯」という記号化したあと、◯◯というのは「こういうもの」という創作(嘘)の叙述が始まるんだけど、こんなの幾らでも反対に言えるのだから、ぐちゃぐちゃにしてやるとか。「日本人女性はもっと控えめで〜」とか言い始めた矢先に、「そして、なすべきことは断固として行う、それもまたヤマトナデシコの正しいあり方ですよね」、「学生なんだから」「はい、学生なんだから何でも学ぼうと思います、なんで学生労働者の場合時給計算を間違えても良いのか、そのあたりを詳しく教えてください、いやあ学びたいですね、学生ですから」とか。

 まあ、こんな当意即妙にペラペラ切り返せたら最初から問題はないし、相手も安易な記号化でごまかそうとはしないでしょうけど。

記号化しなくても表現は出来る

 ところで、先の例で「記号化」を使わないで表現してみましょう。

 「女性は細やかな気遣いをする」→だからお前ももっと気配りしろ

 これも別に「女性」という記号を使う必要もないです。「もう少し気を使え」ってことが言いたいのなら、具体的な実例をあげて細かに言ってあげればいい。例えば、「こないだの飲み会で、君はとても良く飲んでたよね、楽しかったでしょう?いやあ、結構、大いに楽しんでくれたらいいんだよ。でもね、君が飲みまくってる間、◯◯さんは全く飲めない体質だからジュースだけなんだよね、また◯さんはお子さんを預けているから途中で帰宅なさったよね。でも会費は頭割りの割り勘だったよね。言うならば君は割り勘勝ちしてるわけだよね。いやそれはよくあることだよ。だから悪いわけではない。でもね、全然飲めない人、中途リタイアの人を考えたら、「おーし、ここにある大吟醸全部制覇だあ!」とかいうのも、ちょっと無邪気すぎるんじゃないかな。あ、すいませんこれは別勘定で、自分で払いますとか、お酒が飲めない人がいるなら、せめて食事の美味しい部分を食べてもらうとか、勘定するときもちょい傾斜をつけて自分が余計に払うとか、そのあたりの配慮ができるかどうか。出来なきゃダメだとか無邪気が悪だとまでは言わないけど、そういう思いやりが出来る人と出来ない人がいたら、僕は前者の方が好ましいなあ。いや、そんなウジウジ忖度ばかりしてる人生はイヤです、想いのまま生きていくんだあってのもアリだとは思うけどね」
 とかいう言い方は可能でしょう。長くなるけど、こういうのは長くていいと思う。説得的になるのだからね。

 さらに「女性」という記号を使うにしても、その取扱をデリケートにしていけばいい。
 「一般に女性の方が男性よりも細やかな気遣いが出来るとか言われてるらしい。証明されてるかどうかは知らないけど、僕の乏しい経験でいえば、そう思うことも多い。細やかな気遣いって、まず非常に正確な観察が必要だよね。僕の経験では、誰かが髪型変えたり、服装の変化があったりした場合、あるいは単に肩に髪の毛が付着していてさえ、それにいち早く気づくのは女性の方が多い気がする。概して男はそのあたり無頓着で、あとになって「ああ、そういえば」とか言ったりする印象がある。まあ、DNAや染色体的に女性の方が現場観察眼が鋭いという傾向があるのかどうかは知らないし、全ての女性がそうだということもないだろうし、君がそうだというわけでもないだろう。だけど、もしかして能力的にそういうことに長けているなら、その力をもっと有効に活用する可能性はあるんじゃないかな」

 てな感じで、女性という記号を使いながら、それを伝家の宝刀のように振り回さないで、非常に抑制的に使いつつ、良い部分は残して使うってことは可能だと思います。

 欠点は、長々喋らないといけないので面倒くさいという点ですけど、そこは面倒臭がっていてはいけないのではないか。自分の意見を相手に伝え、相手の考えに影響を与える(考え直してもらう、同意してもらう)ためには、説得というプロセスが不可欠なわけです。それは一種のプレゼンであって、自分の意見の根拠と論理を懇切丁寧に述べる。

記号化に頼らない誠実な表現が必要とされる理由

 民主主義の本質のひとつに「討論の妥協の原則」があります。民主主義というのは、君主主義の対立概念であって、「王様一人がエラくて、あとはザコ」という原理ではないって意味です。ただ、それだけだったら「みんなが王様」といってるだけだから、ほとんど無内容です。そんな王様だらけでどうやって物事決めるんだ?と。そこで話し合い、意見の交換、相互理解というプロセスが生命線になる。だから表現の自由は最大のプライオリティを持つし、だからこそ議会(国会)が最高機関なのだという位置づけ(憲法41条)にもなるし、政治家は代議士(みんなを代理して議論する人)と呼ばれる。また、自分の意見を説得的に表現する技法も子供の頃から徹底的に習得しておく必要がある。と同時に、自分の意見に固執せず、全体のバランスを考えて折れるべきは折れ、譲るべきは譲るという許容度の高い雅量も大事。要は実のある=生産性の高い話し合いができるかどうでしょ。

 企業でも、サークルでもなんでも、優秀な集団はそのあたりがうまく機能してます。「和気あいあい」とか情緒的な表現をされちゃう場合も多いのだけど、生きのいい集団では、少数意見であろうが、新米のペーペーの意見だろうが、わりと耳を傾けるでしょ。「お前は黙ってろ」みたいなことは言わないで、「どう思う?」って聞くし、「ああ、なるほどね」って理解しようとする。そのうえで物事を決めていくし、その過程は丁寧に説明しようとする。そういうことって、わりと簡単に実現すると思いますし、僕の経験でも実現できていた。

 ただ、そのためには構成員に一定レベル以上の素養が必要で、ちゃんと自分を表現できるだけの言語能力やコミュ力があること、全体を俯瞰してバランスをとる視野の広さ、つまらないことでムキになったり意地にならない感情能力(EQ)の高さ、そのための精神的葛藤や劣等感が少ないこと、誰かにおんぶに抱っこしてもらって楽しようと思わず自分で解決しようという主体性や自信などなど。そりゃ欲を言えばキリはないけど、構成員の粒が揃っているか、全然ダメかはすぐにわかると思います。これは、職場選びやら「居場所探し」に役に立ちますよ。気持いいなー、楽しいなーという場所って、大体そうだから。

 でもって、そのあたりの技術が未熟な人、そういうことにあまり価値を認めない人が、好んで記号化を悪用するような気がします。説得の省略というか、押し付けというか、記号化することで非説得的な行動も正当化できてしまう。キツイ言い方をすれば、馬鹿だから簡単なことしか出来ないんだろうけど。

 この感覚や能力は、学歴、年齢、経験値などとは関わりなく、人それぞれに行き渡っているように思います。手先が器用とか、足が早いとかいうのと同じような感じ。どっちかというと能力とかいうよりも、個性、さらには性格に近いかなー。

 でも意識的に学習することで誰でも標準レベルにはいけると思います。また生まれ育った環境もあるでしょう。単なる印象でいえば、日本社会の場合は、若い人の方がこの種のセンスは豊富だと思います。上にいけばいくほど、家父長絶対主義の名残りが強いので、全ての人の価値観が等価であるという発想に慣れてない。

 またこれから日本も、好むと好まざるとにかかわらず、外国の方もたくさん入ってくるだろうし、もう入ってきてます。共通の価値観土俵がない人とのコミュにおいては、「誰が聞いてもそう思う」という人類普遍レベルでの説得技法が必要で、「郷に入れば郷に従え」的な押しつけでは限界あります。オーストラリアはその点、根性キメて移民立国にしようとしてるだけあって、外国人の僕らから見ても、なんでそうなるの?意味わかんないってことが少ない。ああ、なるほどねって思えるシステムや慣行になってる度合が高いです。

 

しかし必要悪でもある

完全リアルでやってると何も語れなくなる

 だけどね、一方では、僕らが何かを論じるとき、あるいはぽっと思うとき、こういったグルーピングや記号化は不可避的に出てきます。なぜなら、ある程度はグルーピング・記号化しないと何も語れなくなってしまうからです。

 だって、真剣にリアルを追求すれば、人が二人以上いたら、既に個性はバラバラだから一概に論じられなくなる。夫婦であっても、家族であってもバラバラ。バラバラだから離婚もすれば、崩壊もする。ましてや「◯◯学校生」とか、「町内の皆さん」とか広げていく段階でかなりリアルからの遊離が始まり、「杉並区民と足立区民」といった時点でかなりいい加減になり、「関東人と関西人」では相当にフィクショナルになり、日本人と中国人になるとただの「ネタ・お話」レベルになり、「男と女」「若者と年長者」になっていくと、もう神話とか寓話とかそんな感じよね。

 逆に個性や現象を徹底的にトレースしていくならば、同じ一個の人間(or 同じ「あなた」)であっても、ときと場合で、言ってることや感じてることが180度違う。そんなことはザラにある。つまり、二人以上のグルーピングどころか、一人の人間ですら統一的に語れない。あるいは一人の人間(「私」)を語ろうとおもえば、実際とは異なるなんらかのフィクションが入ってくる。どっかしら嘘になる。それがあるから、僕もあなたも「私はこういう人」というのを中々スッパリと言えないのだ。言ってるそばから矛盾する実例や記憶がいくらでも出てきて、それを考えてると、自分っていったいどんな人なのかわからなくなる。雑誌のYES・NOテストで、(自分は)「ケチだと思う」「人見知りはしない方だ」とかいう設問でも、やるたびに違う回答をしてみたりもする。それがリアルというもんでしょ。

 しかし、そこに留まってると、永遠にカオス(混沌)の世界を浮遊しているだけで、なんにも言えない、何も考えられなくなってしまう。何を論じ、何を語ろうとしても、「人それぞれですからね」「時と場合によるでしょ」としか言えなくなってしまって、何も進まない。それでも考えようとするなら、無理(嘘)を承知である程度は記号化しないと、思考が前に進まない。

 ちなみに「人それぞれ」って口当たりのいい言葉であるんだけど、でも何も言ってないに等しいし、無内容なことをさも意味ありげに見せかける卑怯な逃避言動である場合すらある。本当に人それぞれの場面もあるし、各自の自由意志に委ねるのが正解な場合もあるけど、そうもいかない場合もあるから、論じているわけですよ。

 例えば、とある本社ビルで女子トイレと男子トイレの配置を設計する場合、社員の男女比が男7で女3だった場合、男子トイレの面積が7で女子トイレは3で良いという意見がある。しかし、これには実質的な平等や機能から考えて、女子の方が一般に使用時間が長い(お化粧を直すとか)傾向にあるので、それを踏まえれば五分でいいんじゃないかという意見もある。その場合、およそ女子は◯◯であるという一種の記号化をするんだけど、本当は女子だったら全員トイレが長いのか、その根拠はなにかとかやってたら話が始まらない(なんかの業界統計とかはあると思うけど)。少なくとも女子は男子はという、個々人の個性を離れた集団記号として議論する必要はあるのよね。

 それに記号化には嘘が混入するとはいえ、まったく100%嘘ばっかってわけでもない。男性と女性の特徴差は、薄ぼんやりではあるけど、やはりあるわけで、経験的にもうなずける部分もある。だからこそ厄介なんですよね。部分的には正しいけど、部分的には間違ってるから。


 だからこの種のグルーピング・記号化は、思考という製造工程に不可欠な保存剤や固定剤のような化学物質みたいなものなのでしょう。一定程度は必要。必要なんだけど、同時に有害な毒物・発がん性物質でもありうるって感じ。

 かくして僕らは日常的に、グルーピングや記号化をします。でもって、その有害性には常に配慮してないと、けっこうな災厄を個人の人生、あるいは社会全体に及ぼす。これらのことは、かつて「them and us mentality =あいつら症候群(Essay:174、2004年)に書いたことと同じ問題意識です。最近は”The Us vs. Them Mentality”という言い方のほうが多いのかな。

 また、これも過去に書いたけど、大脳生理学の見地からいえば、こういった記号化は僕らの脳味噌の特徴(性能)でもあるようです。僕らの脳というのは、「すぐにわかった気になる」という妙な特徴があるらしく、一度でも経験学習すると、二度目以降になると「ああ、あれね〜」ってわかった気になって、脳のCPUをあんまり割かずに大雑把に処理しようとする。逆に言えば、そうやってシンプル化するからこそ、効率的に脳内の演算処理が出来るという生産性にもつながる。いちいち「おお、そうか、そうだったのか〜!」で感動してたら、時間がかかって仕方がないですからね。

 ある程度は「慣れる」「無感動になる」「デテールは見ないで大雑把に処理」をしてないと、チャッチャとものが考えられない。だから、だと思うのだけど、毎日見てる人(or物事)の細かな変化には意外と気が付かない。1年ぶりに会ったくらいの人の方が、変わったね、太ったね(痩せたね)、顔つきがしまってきたねとか気がつく。毎日見てる側は、いちいち細かな検証とかしないでパターン処理してるからそういう認識には至らない。これって「茹で蛙はなぜ茹で殺されるか?」でもありますな。「慣れ」というのは怖いもので、これも一種の必要悪的な化学物質なのでしょう。

記号化するとわかりやすくなるわけ

 ただ、記号化すると話はガゼンわかりやすくなります。
 「大阪人はがめつい」「東京もんはいいかっこしい」とか、中国人はマナーが悪いとか、中卒はDQNだとか、イタリア人はナンパばっかしてる、ブラジル人はサッカーばっかやってる、転職を繰り返す人は根性や責任感に乏しいとか、海外にいく若者は全員自分探しをしているとか、もう幾らでもありますし、僕らの日常の雑談のネタはそれ系が多い。それにワイドショー的な井戸端会議も記号化のオンパレードなんじゃないかな。

 なんで記号化すると話が異様にわかりやすくなるのか(その分大嘘になるのか)といえば、これは順番が逆だと思います。話をわかりやすく(面白く)するために、◯◯はAという特徴があるという記号化をするのでしょう。先に結論ありきで、どっかの誰かを論評(罵倒)したいから、その誰かが属している母集団をみつくろって記号化するという作業になるケースが多いと思う。

 例えばあなたの上司が超ムカつく奴だったとして、なんか悪態をつきたいわけです。悪口いってスッキリしたいと。その場合、その上司の属性から母集団を決め打ちします。よくあるのは、年寄りだからセンスが悪い的なエイジズムとか、あと「しょせんは三流大学出身だからダメなのよ」的な学歴差別。自分が学歴差別されたら怒るんだけど、自分がやる分には良いという。他にも、40過ぎてまだお母さんと一緒に住んでるらしいよ、イヤねーマザコン男はとか。地方出身だったら田舎者はこれだからと言われ、元ヤンだったらそう言われ、離婚歴があればそう言われ、未婚だったらまた言われる。

 このように記号化の生成過程をみてると、吐息をつきたくなるくらい他愛がないというか、アホアホというか、しょーもない話が多いよ。なかにはユーモラスなのものあるし、僕が笑ったのは、ミュージシャンやスターにAというのがいるんだけど、「Aは好きなんだけど、Aのファンは嫌い」という言い方。あー、なんかわかるわーて。まあ冗談とかそのレベルでのことなんだけど。

 だもんで、「これだから東京モンは」とか、「男なんてさ」とかやってる分にはいいです。無邪気な記号化というか(邪気はあるんだけど)、その種の居酒屋女子(男子)会の悪口大会レベルだったら、庶民の罪もないストレス解消であり、娯楽なんだから別にいいです。

 ただ、自分が言いはじめた記号化に自分で騙される場合が多いので、それってアホの上塗り自乗だから、気をつけるべし、です。よく相談でも言うんだけど、誰かが腹立たしい(シェアメイトがクソだとか、同僚がどうのとか)ときは、母集団記号化したらダメよと。事実は、単にそいつがクソなだけ、そいつの人格態度に未熟な部分が多いというだけのことで、文句を言ったり、恨むのならそいつ個人に留めておくべし。さもないと、「これだから◯◯はイヤなんだ」「◯◯を野放しにしておいていいのか」「あいつらを皆殺しにするのは社会正義だ」とか、どんどん宇宙の彼方にぶっ飛んでいって、最後は犯罪者で終わりますからね。ネオナチとかさネトウヨとかさ。そういう自ら進んで地獄に落ちていくお調子者って、結構いるみたいだし。


 以上、記号化の話でしたが、これはほんの一部です。実はもっと沢山あって、最初の部分に過ぎません。あとまた書きたいのだけど。
 一つはリスク管理と記号化です。リスクの対象を記号化したら恐怖が増大するだけではなく、対策も劣化するのでおすすめしないよってことが一つ。またそれが社会全体を劣化させることにもなるし。
 もう一つは、記号化と幸福です。記号に幸福を求めると、記号と現実が違う以上、まず夢がかなってもがっかりするって話。幸せになりたいなら、記号化処理して物をみるのをやめたらいいって話です。これはアートについても同じように言えると思う。



文責:田村


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