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Essay 904:記号の犠牲者

 〜「社会に出て一人前」という記号の胡散臭さと卑怯さ
 〜記号化の罠(その2)


2019年03月03日

写真は、朝靄のQueens Park、ここはだだっ広くて好きです


 前回に引き続き記号化の話をします。
 (前職の弁護士時代から)ずっと他人の相談ごととかしているわけですけど、最近とみに思うのは結局は「記号の犠牲者」なんだなーってことです。この「記号」というやつが諸悪の根源なんだなって分かりつつあるので、これはちょっと書いておきたい。

年齢・学歴・年収という三大記号

 端的にいえば、現在の日本社会の場合、年齢・学歴・年収という三大記号みたいなのがあって、それが人生の全てであるかのような壮絶なカンチガイが蔓延しているかのように思われます。それでその人となりやアイデンティティが定義されてしまうかのような、それで人生が決まってしまうかのような。

 しかし、一歩外に出てみれば、そんなこと全然ない。僕もオーストラリアに来て今年で25年目になるけど、年齢も学歴もおよそ日常会話に出てきません。収入にしてもレントが高いぞとか、いい仕事先があるよとか個別の話はよくするし、ワークライフバランスや税金がどうのというネタで年収話をすることがある程度で、それでアイデンティティや社会的身分やら人生の運命的なものが決まるとかいう流れではないし、誰もそんなこと思ってない。僕自身こっちで知り合った人のなかで誰一人として正確な年齢や学歴を知らない。本業で日本人を相手にする場合、年齢は話題になりますが、それもビザの関係(ワーホリは30歳までとか)の話で、その話題をする場合に聞くだけで、その話題が済んだらもう忘れます。興味ないし。

 でも、僕の場合、日本にいる頃から他人の年齢、学歴、収入に興味はなかったし、付き合い方でそれで何かが決まるということもなかったです。これはポリシーとしてそうしてるのではなく、実際に人付き合いをする現場においては殆ど何の役にも立たないからです。これは年を追うごとにその感が深くなってますよね。自分自身、高校の頃と今とでそんなに人が違うとは思えないし、他人を見ててもそう。60代の人がそういう人だったら、彼/彼女が中学生の頃もそういう人だったんだろうなって思うし、それで大体合ってる。学歴に至っては、中高時代やらされた「お勉強」が得意だったかどうかであって、そんなの一人の人間のパーソナリティの広さからすればごく一部でしかない。校内マラソン大会で何位だったか?くらいの。年収については、これも自分自身、時期によって百倍くらい違ったりするので、要するに麻雀やパチンコで現時点で勝ってるかどうかくらいの意味しかない。

 APLaCの仕事で、あるいはプライベートで、十代の高校生と話をするときも、70代の方と話をするときも、基本そんなに変わらないです。変える必要を感じない。社会的礼節(長幼の礼)もあるから、自分よりも上か下かくらいは大雑把に心しておくこともあるけど、基本、それほど親しくなっていない人相手には敬語を使います。相手が高校生でも。敬語(レスペクトの表現)と敬語ナシ(親しさの表現)があって、最高にポジティブになるのは、その時点でどのレシピーかってだけの話です。年齢や学歴などは、水瓶座とか乙女座だからという程度のものでしかないし、まあ聞いたそばから忘れますよね。それよりも、直に会えば、この人は「こういう人」(プライド高そうだな、神経質ぽいな、純度高いな、いいセンスしてるな、おもろいやっちゃな)という重要な情報がガンガン入ってきますから、それで十分。

 だからこんなもんが三大記号になる事自体、僕はすごい不思議ですし、本気でそう思ってるのか?とも思います。僕がすごい特殊のように思われるかもしれないけど、でも本当はあなただって似たようなもんじゃないですか?誰かと友達になるときに、そんなこと気にするか?

 結局アレでしょ?企業の採用なんかのときにこういった要素が大きいから、それに準拠して考えてるだけのことでしょ。しかし、これだって、社会全体を広く見て、過去の歴史を振り返り、世界経済の未来の動向を考え、人の一生スパンで緻密に詰めていくと、思ったほど大きなファクターではないよ。ここを論じ始めると長くなるからこのくらいにするけど(過去にもさんざん書いてるし)、ここでは「記号」というもの胡散臭さ、そんなものに発想を縛られていることの滑稽さと不毛さをまず指摘しておきます。

 そんな有名な記号だけではなく、もっと細かなところで、いかに世の中は記号に満ち溢れており、それがどれだけ僕らの発想を貧困化させ、人生の自由を阻害しているか、そこを書きます。

「社会に出て一人前」記号の無内容さ

春霞のような曖昧でふわふわしたもの

 例えば、こんなこと一生繰り返すだけなのか、なんかもっとぶわーっと可能性が広がるような世界はないのかとか、もっと抜本的に自分自身を底上げしないとダメだとか、いろんなことを思って、人は何かをやろうとするし、オーストラリアに来たりもします。

 しかし、そういうことをやろうとすると、主として「上」の人から、あるいは周囲から、必ずや言われるだろうことは、「ちゃんとした仕事」をして、「しっかり稼いで」こそ「一人前の社会人」とか、その種の説教です。

 お前さー、いい年してなに夢みたいなこと語ってんだよ、もう子供じゃないんだからさー、そんなフワフワ浮っついたことじゃなくて、ちゃんと社会に出て、きちんと働いて、一人前の社会人になって、話はそれからだろ?半人前がなにを言っても説得力無いんだよなーとかなんとか。

 でも、その「社会に出て一人前」とかいうのも、同じくらいフワフワした「記号」だと思うし、語ってる方も語られてる方も、この手の記号にすごく縛られている感じがする。そうであらねばならないとか、そうでないと人としてダメだとか、頭から思い込んでるような気がする。

 だけど、こんな概念や命題って、別に自明のものではないし、その内容もかなり曖昧。そんな春霞のようなフワフワしたものに縛られるのって滑稽なんだけど、でも、縛られる。それが記号の怖さ。

 記号の本体は、それが「本当の自分」であれ、「一人前の社会人」であれ、フワっとしたイメージでしかないです。
 言うならば「ふるさと」みたいなもの。
 あるいは「厚かましいおばはん」「油ギッシュなおっさん」みたいなもの。

 非常にとりとめがない。とりとめがないから、とりとめがないように使ってればいいわけです。なんとなくそんな気がしたら、その言葉を使うくらいでいい。この人厚かましいなー、「ああ、これが”厚かましいおばさん”ってやつか」くらいの感じ。そこで、「厚かましい」の定義はなにか?単に自己主張が強いことを言うだけなのか、また「おばさん」の定義はなにか、年齢何歳以上なのか、年齢ではなく見た目なのか、それとも全体のニュアンスなのか、、、、いくらでもツッコミはあるんだけど、その全てについて明確な答がない。こんな曖昧な言葉よく使えるなって思うくらいなんだけど、いいんですよ、どうせテキトーに使ってるだけだし、そんな大事なことでもないし。

 だけど、(前回の復習にもなるけど)記号というのは、リアルな個性を捨象(無視)して+意味ありげなネーミングをすることで、曖昧な春霞が、ものすごーく明確な鋼鉄の枠のようになってしまう、そう感じさせてしまう、そこに詐欺性がある。

社会に「出る」ってなによ

 「一人前の社会人」だって、「厚かましいおばはん」と似たり寄ったりで、漠然とした春霞みたいなものですよ。

 この際、徹底的にぶっ壊しておきましょうかね。

 まず「社会人」の定義の時点で曖昧。社会に出てる人=社会を「構成する」一人という意味だったら、ゼロ歳児だって社会人です。いや、構成するじゃなくて、社会に「出る」ってところが大事なんだよってことになりそうだが、じゃあ社会に「出る」ってなによ?就職すること?学生と対置して語られることが多そうだし、ニートやひきこもり君ではないという意味でも使われているようだからね。

 じゃあ「就職」ってなあに?サラリーマン正社員が一般的なんだろうけど、自営は?農・漁・林・狩猟業は?ボランティアは?フリーランサーは?フリーターは?デイトレは?アーティストは?コミケやフリマに出店してる人は?ブロガーやユーチューバーは?ネット起業家は?障害や疾患で長期療養している人は?刑務所に収監されて刑務作業やってる人は?家事労働者は?親の介護に追われている人は?修行中の人(将棋の奨励会、落語や相撲の弟子、大学の助手)は?

 これらの人は社会に「出てる」のですか、「出てない」のですか。そんな事例まで考えたこともないなら、最初からその程度の世間・視野の広さでモノを語ってたってことでしょ。この種の記号というのは、世間や視野が狭い人ほどよく使うという法則があって、広く社会を知るにつれ、そしてそれぞれに皆頑張ってるんだよなーってことがわかるにつれ、一概にモノを言えなくなるはずです。それを一概に言っている時点で、どんだけ世間知らずなんだって。

 また、社会に出てる・出てないのどこに境界線があって、あっちとこっちを区別するの?その線は誰が引いたの?どんな権限があって引けるの?そしてその線が正しいという検証は誰がどういう方法でやったの?もう何一つ明らかではないじゃん。

少数例のホワイカラー・サラリーマン

 いやそこは「正規のサラリーマン」を言うのだとするなら、2018年の統計によると(最近統計自体がアテにならんのだが)、正規3,478万人(非正規は2,156万人)です。日本の人口1.2億のうち正規は4分の1もいない。だから全然マジョリティではない。正規・非正規を合わせたところで、まだマジョリティにならない。単純に数勘定でいえばマイノリティ。しかもこの労働者数にしても、全員がいわゆるホワイトカラーの「サラリーマン」ではない(販売や工場などの現場系、運送や建築土木のガテン系も正規雇用されている人は沢山いる)、イメージ的なスーツ姿のサラリーマンなどもっともっとマイノリティ。

 またそこを「誰もが知ってる有名大企業の総合職」がモデルになるとしたら、それこそ噴飯ものです。日本の大企業など、全労働者数の3分の1、全会社数でいえばわずか1%しか占めない。一部上場の企業の労働者は子会社も含めて600万とか言われるけど、これも工場や現場、一般職が多くを占めるし、非正規なんかも含めたら300万人を切るくらいかしらん。しかも一部上場といっても、業界では有名でも一般的に「誰もが知ってる」ってレベルではない。聞いたことが無い一部上場企業なんかいくらでもある。

 単純に頭数やケース事例でいえば絶対少数派なんだけど、ではなぜこんな少数事例をして「普通」なり標準にするのか?その理由はなにか?納得のいくご説明をいただきたいですね。

 さらに将来展望でいえば、絶滅危惧種であることが日を追うごとに明らかになっているわけですよ。数年前からエッセイで書いてるけど、今になれば常識化しつつあるでしょう。現在だって、日本は人手不足だとかいいながら、有効求人倍率で1を超えるのは圧倒的に現場系であり、事務職なんか0.3-0.4でしかない。要らないんだわ、事務職。今なんでサラリーマンの賃金が上がらないかといえば、よくある説では中高年層が無駄に高給を取っててそれが人件費を圧迫してるからだと。だから人手不足といいつつ、スキあらばリストラしたくて企業はうずうずしているし、実際にもリストラしている。大銀行の3万人リストラは有名だけど、好調と言われる製薬会社ですらリストラの嵐ですよー。嘘だと思うなら、「まさに異常事態」国内製薬 リストラが加速―揺らぐ雇用 中堅にも人員削減の波高給の製薬大手にリストラの嵐、医療産業のエリートが選手交代などを読んでみてください。検索すればいっくらでも出てくるから。

 というわけで絶対数では少ないわ、将来性に至っては「いずれ消えゆく下駄の雪」だわで、なんでこんなもんが標準になるのかが不思議で、情弱にもほどがあるだろ?って気もしますな。

「一人前」って?

 さらに「一人前」の定義になると、もっと漠然としてます。「ある程度仕事ができるようになって、周囲の足をひっぱらないようになった状態」と軽く定義するなら、企業や団体の上の方に、老害丸出しで足引っ張ってる人いるけど、あれはどうなるんだ?そもそも首相をはじめ日本の政治家だって国民の足を引っ張ってるんじゃないの?てか仕事してるの?あれで?嘘と捏造を国家社会のスタンダード化して風紀秩序を紊乱してるだけじゃないの?もしかして内乱罪の構成要件に該当するんじゃないの?って気もするよね。

 まーね、なんとなく言わんとする意味はわかりますよ。
 社会に出て一人前ってのは、「保護された環境での子供時代から徐々に成長して、誰にも依存せずに世間を渡っていけるくらいの社会技術を獲得した人」くらいの意味でしょ?ならばその実質は、「世の中のことがある程度わかっている」という知識経験/視野の広さであり、そのとおりに行動できるというメンタルの成熟度のことなんでしょう。

 それが実質的基準だとしたら、ならば、日本の一部の大人たち、狭い業界にタコツボのように籠もって、井の中の蛙になったり、ガラパゴス化してるような連中は、大きな意味では社会人としては未熟じゃないのか?特に日本社会の場合、エリート層と呼ばれる男性のチャイルディッシュな悪癖に閉口している下の人達の話はよく聞くよ。「世間知らずの殿様」になって、仲間内や上には死ぬほど気を使うくせに、自分よりも下だと思ってる人達には実に傍若無人に振る舞う。「社会人」としては、精神的に未成熟と言わざるを得ないでしょ。だからこそなんだけど、アンダーグラウンドの連中から、大学教授とかエリート社員とか医者とかは、詐欺の恰好なカモとして扱われている。もう面白いように騙されるらしい。まあ、自分で頭がいいと思ってる人くらい騙しやすいカモはいないのですよ。プライドを最大限くすぐりつつ、理路整然と説明してやればいいだけですからね(でも絶対に素人にはわからない専門的な落とし穴を作っておく)。

 それにさ、「社会に出て稼ぐ」=毎日不特定多数の見知らぬ他人に接触することを恐れず、この世間の理不尽も荒波も骨身に染みて知り尽くし、しかしなおも心が折れずにガンガン出ていって稼いでいる人達=って意味でいうなら、それこそ暴力団とか半グレとかそのあたりの連中こそが最もよく当てはまってしまうのですよね。だから、社会に出て稼げばいいってもんでもないのよね。

 一方では、「社会」の規模を広く「世界(地球)」レベルまで広げて、「どんな国でどんな人達と一緒にやっても(駐在員みたいな殿様じゃなくて、全くのタメで)、そこそこ上手いことやっていける人」という意味を「一人前の社会人」というなら、残念ながら日本人の多くはその水準に達してないでしょう。や、そうなれる素質はほぼ全員にあると思うけど、実際の経験がゼロに近いくらい少ないので消極的に評価せざるを得ないだけのこと。それは学生さんをして社会人ではないというのと同じ理屈ですわね。

経験も怪しいもんだ

 なお、社会経験について一言しておくと、そりゃ経験数が増えれば認識量も増えるから、全体として賢くなるかのような一般論はあるかしらん。それは否定しません。トルコ料理を一回だけ食べた人よりも、百回食べた人の方がトルコ料理についてはよく知っているでしょう。

 しかし、それも突っ込みどころは沢山あって、必ずしも経験の有無が絶対ではないのですよね。なんぼ経験してもアホはアホのまんまだしさ、経験しなくても洞察力が鋭い人はいくらでもいるし。それに妙な経験、偏った経験だけが増えて、歪んだ認識になっていって、結果的むしろ馬鹿になるケースも多々あります。「悪しき経験主義」というやつです。

 年をとって老人になるにしたがって、経験の豊富さが広い視野と柔軟な思考を促す人もいるが(正しく学んでくればそうなる筈)、逆に経験が増えるほど視野が狭くなり(世の中こんなもんと早とちりをする)、頭が固くなって知的に劣化する人もいる。どっちが多いか?といえば、一般に「年をとると頭が固くなる(劣化する)」と言われたりもするので、後者の方が多いような印象もある。経験が力になってない。ならば経験→賢いという一般論ですら、かなり怪しいもんですよね。

結局、個別に判断するしかない

 だからね、ほんとに「一人前の社会人」かどうかは、一人ひとりの個性や能力で個別に判断すればいいし、個別に判断する以外に無いと思うのですよ。

 就職してるから→社会人(≒りっぱな大人)、学生だから→社会人ではないという形式基準は、個別の事例判断においては、ほとんど使い物にならんのですよ。少なくとも金科玉条のように振りかざすほどの内実はない。スポンジや海綿のようにスッカスカだし、幾らでも例外は出てくるし、

 そしてこうやって実質的に深めていくにつれて(記号形式に囚われなくなるにつれて)、「一人前の社会人」という記号そのものも神通力を失っていくのですよ。そういう言い方自体が、非常にバカバカしいというか、分かってるようで何も分かっとらん、全てを語ってるようで何も語っとらんって感じで、記号が消えていく。

 ココ大事だからもう一回繰り返すと、記号(=一般的なイメージ、ステレオタイプ、固定観念なんでもいいけど)というのは、個別のリアルを無視して、ありえないくらい平均化(というよりもただの偏見と決めつけ)をするものである、と。

 そして、多くの場合、個別のリアルに直面し、素直な目で見つめていくほどに記号は消えます。「愛があれば年の差なんて」などと言いますが、実際にその人を目の前で見て、話して、親しくなって、意気投合していくほどに、年齢という記号のもつ意味が減ってくる。別に「愛」がなくても、個別ケースのリアルを知るだけで良い。

 あなたの親しい友人達を思い浮かべて、その人の記号的属性を考えてみるといいです。やれ彼は、出身地はどこで、年齢はいくつで、仕事は、婚歴は、容貌は、、、って幾らでも「記号」はあると思うけど、それってその友達と親しくなればなるほど、どうでもよくなっていくでしょう?大事なのは掛け替えのないその人そのものであって、その人がリアルにわかればよい。そしてその種の記号は、「そういえば◯さんって広島出身だったっけ」くらいの付属的なエピソードでしかない。はっきり言って、そんな記号、全部無視しても構わないくらいです。大事なのは、その人が自分とどれだけ波長が合うか、どんだけ話せるか、いい感じかどうかであって、付帯記号なんかどうでも良い。

 初対面の前に記号が先行した場合、記号でビビったり先入観を抱いたりするのだけど、会ってみたら一発で氷解ってのはよくあるでしょ。「もと◯◯で40代だというから、どんだけ恐い人か」と思ってたけど、いざ会ってみたら「すごい気さくで面白い人で、時間も忘れて話し込んでしまいました、楽しかった〜」ってこともあるでしょ。

 言うならば、「記号」とは寝てるときにみている夢みたいなもの、いざ起きて現実に接したら夢は消えます。

 でもって、僕らの人生において本当に意味があるのは実体リアルだけです。大事な友人とか、実際に住む場所とか自分が直接に対面するリアルな現実だけ。例えば転勤先で住んだマンションが、日当たり悪いわ、うるさいわ、変な臭いがするわでサイテーだったら、それが全てであって、「◯県は風光明媚なところで、温泉も多く〜」なんて一般記号は屁の役にも立たない。また「温厚な人柄の住民が多く」という一般論も、隣の住人が超イヤなやつで職場も変な奴ばっかりだったら、これも意味がない。

 要するに実体リアル以外に意味がないんだったら、最初っからそんな記号でモノを考えるのはやめたら良いと思うのですよ。無駄にビビったり、悩んだり、そのせいでチャンスを逸するかもしれないし、先入観で目の前の現実を正しく理解できなくなるしで、いいことないですよ。そんな「夢のお告げ」で人生決めるような真似はやめたらよろし。

記号の犠牲者

 だが、しかし、ああ、だがしかし、そういった内容不透明(いい加減)な記号に縛られ、記号をもって教祖の教えや戒律のように奉っているケースが多い。なんかもう死ぬほど多い、泣きたくなるほど多い。でも、そんな記号教に縛られている限り、話はどんどんリアルな現実から離れていき、自分の人生の確かなパースペクティブや、計画立案もまた遠のく。

 さらに、そんな記号を他人に押し付ける段になると、それは手前勝手な「おはなし」であり、独りよがりの説教でしかない。実態リアルの検証をサボりながら、他人に対して安易な記号レッテル貼りをするようなレベルの話って、真面目に聞く必要なんか無いと思う。まあ、それなりに真剣に考えてくれているのかもしれないし一概に邪魔くさがるのもナンですから、お志だけは有り難く受け取り、内容そのものは受け流しておけばよいかと。

 ああ、だがしかし(その2)、そんなこと言われると、けっこう他愛なくその記号呪縛にかかってしまうのだよね。あたかも地縛霊に取り憑かれてマンションから身投げをする犠牲者のように、そこを深刻に受け止めすぎて、自分の素直な感情(=これこそ人生の羅針盤だと思うぞ)に制約をかけてしまうから、自分が何をしたいのかわからんとか、これでいいのか、てかダメだろ俺みたいな感じになっていくのでしょう。

 そんなこんなをひっくるめて「記号の犠牲者」と言っているわけです。

 ものすごーくいい加減な概念が、記号という形で大きな顔して世間に流通し、皆がそれにひれ伏しているかのような状況、それが馬鹿じゃんって言ってるのです。それは戦前の「非国民」と同じであり、そのレベルは、小学生の「エンガチョ」「エッチ切った」と本質的には同じ(いまでも言うのかなー)。エンガチョを人生の指針にしたり、悩みのネタにする大人はいないだろうが、でもそれと似たようなことをやってるんだ、そのくらい下らないことなんだと。これはもう声を大にして言いたいですね。

記号の卑怯さ

 あとこれも言っておこう。長文たらたらで記号をボロカス書いてるわけですけど、なんでそこまで書くの?というと、記号(の悪用)って卑怯なんだもん。それが気に食わないのですよ。

 「一人前の社会人」ってフレーズは、「社会に出て一人前の社会人になってから言え」という文脈で語られることが多いでしょう。その実質的な内容は、「未熟なお前には語る資格も、決める能力も無いんだよ」ってことですよね。

 しかし、個別的に判断するなら、どういう物事を決めようとしているのか、それを決めるにはどういう程度の能力知識が必要なのか、そしてその能力知識を本人が備えているのかという実質論こそ語られるべきです。また、決断の是非を考える場合、そんな能力的なことだけで決めて良いのか、「やりたいという意思」があるかないかこそが優先的にくるべきであって、本来的に「決める資格」「語る資格」なんてものがいるのか?第三者の人生を決めるのであれば、他人に迷惑がかかるからそれは必要だろう。しかし、こと自分のことを決める以上、資格とかそんなものはいるのか?という原則論も語られるでしょう。

 そうやって語ることで議論は深まり、相互理解も、もしかしたら深まるかもしれない。

 でもね、「社会に出てる出てない=学生だからダメ」というのは形式論で、そんな「未成年だから選挙権はない」みたいに形式で全てを決めてしまうなら、相手に対して一切の反論機会を奪うでしょう?形式論(記号論)は、そこが僕からしたら卑怯に見えるですよ。

 殴り合いをするなら、自分もボコられるというイーブンな状況でやれよと。相手に絶対反論できない形式をおっかぶせて、「お前はまだ何もわかっていない」と決めつけて、一方的に自分の考えを押し付けるのはフェアじゃないだろ、てか、きたねーじゃん。自分は絶対ボコられない安全地帯にいて、それで他人を好きなようにボコるって、なんだよ、それ。話の内容がどうとかいう以前に、そういう状況それ自体がダメだろって、

 こういう卑怯な手口って巷にあふれかえっているんですよ。だから腹が立つ。
 「結婚してないやつにはわからない」とか「子供を生んだことのない人にはわからない」とか、これも形式論ですよ。結婚してても、子供生んでも、全然ダメダメなやつなんかいくらでもいるじゃん。DVとかさ、虐待とかさ。でもそんな内容の不正確さよりも、そんな形式論で相手の意見を封殺しようという不誠実さがイヤなんだよ。

 これは一種の対話の拒否で、そんなこと言えばなんだってそうだよ。例えば、矯正施設(刑務所など)の政策をどうするかを議論するときに、「刑務所を(受刑者として)体験した奴でないとわからない」とか言い出したら、法務省の官僚も、法務大臣も全員前科者でなければダメだということなるだろ。殺人者を裁く裁判官は、自分も過去に一人以上は殺してないとダメだとかさ、むちゃくちゃじゃん(でも一理はあるよな)。もっといえば「あなたには私の気持はわからない」とかいうやつで、そりゃ本人でなければ分かるわけないよ。つまり形式で議論の門戸を閉ざしてしまうのは、そのくらい暴論だということを言いたいのです。

 そして、記号論はそれをやるの。実に巧妙にね。だからムキになって書いてるわけ。もーね、中高生の頃から、きたねーだろって思ってたもんね。自分が年取って、そのへんの親世代よりもさらに上になって思うのは、なんだ中高時代に思ってたことって結局正しかったじゃんってことです。それをこんなクソみたいな記号論で圧殺しやがって、しかしこんな子供だましの技が未だにはびこってるというのがムカつく。だから後の世代への露払いっていうか、昔の自分への助っ人というか、叩いておきたいのですよ。

 最終的に言いたいのは、もっと一人の人間を大事に扱え、ってことです。

 そんな記号で十把一絡げにすんな。失礼だろ。その人が何を言いたいのか耳を傾け、理解に努め、懇切丁寧に言葉を尽くして説明しろと。人の基本だろ。自分だって、他人からわかったような口をきかれたら腹立つだろうが。「いわゆる5月病ってやつねー」とかさ、「燃え尽き症候群ね」「ミッドライフクライシスってやつね」みたいに一括りにされて、それで全てがわかったかのような顔をされると、めちゃくちゃ腹立つでしょうが?分かってるはずですよ。

記号(名前)は呪縛 

 今回はこれで終えてもいいけど(まだネタは沢山あるけど)、ちょっとだけ雑学的な話をします。

「記号」(概念、名前)って呪縛だなあって思う。
 呪縛というのは字面でわかるが、「呪い」によって「束縛」する(される)ことで、よく童話なんかで、魔法使いに「ガマガエルにされてしまった王子様」とか出てくるけど、あれが呪縛。あれが記号。

 「お前はカエルだ」と呼ばれると、本当にカエルになってしまう(そう自分で思ってしまう)。
 お前は「社会人未満=人として未熟」だと言われると、本当にそうなってしまう。

言魂と呼びかけかた

 「言霊・言魂」というのがあります。言葉にはなにやら霊的な、スピリチュアルな力が宿るという考え方ですが、そういう傾向は確かにあるし、古来からそのように扱われてもきてます。

 陰陽師的な世界でも、相手を名前で呼ぶのはときとして非常にヤバイことだと思われてるキライがある。「陰陽師」という漫画(夢枕獏の原作も)でも、名前は「呪(しゅ)」であるというくだりが出てくるけど、確かに、古来から現在にかけて、日本では身分が上になるほどボカした言い方をしますよね。実名ではまず呼ばず、役職とか、遠まわしに「方向」、場合によっては「住んでる建築物」とかでもいう。

 建築物の例でいえば、「殿」というのは本来「邸宅」の意味です。なんたら御「殿」とか、寝「殿」造りとか言うでしょ。それが転じて敬称になる。「宮」なんかもそうで「宮様」とかいうし。「御屋形様」も「館(やかた)」だし。単なる場所を意味する「所」に敬称をつけて「御所」とか。エライひとの正妻は家の北側に住んでいることになってたから、奥さんのことを「北の方さま」、秀吉のカミさんは「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれたのは有名。天皇でいえば、次期皇位継承権者(皇太子候補)は、建物本館の東側に住むらしいので「東宮(とうぐう)」とか言うんじゃなかったっけ(春宮とも書く)?

 あと方角で示すなら、そもそも「えらいお方(かた)」という「方」そのものが方角であり、「そっち方向にいる人」という意味です。「あなた」を漢字で書くと「貴方」で「尊い方向」。「あなた」は彼方(”かなた”とも読む)で、「山のあなた」のあなた。英語でいえば Thereで、Hereを意味するのが「こなた」(此方)。彼と此が対になってて、彼岸(ひがん)と此岸(しがん)になり、「おひがん(彼岸)」は、「あっち(死後の世界)に行った人が帰ってくること」。おまえ(御前)は、私の目の前にいる人。上様は、上にいる(とにかくエライ)人。

 せっかく名前があるんだから名前で呼べばいいじゃんって思うのだが、とにかく極力実名を発音するのは避けようとする。それはなんらかの呪いがかかるとか、危害を与えるとかいう意味もあったのかもしれません。だから非常に失礼なことだと。

 最高のVIPである天皇は、そのためなのかな、そもそも名前がないです。名前がなければ呪われようもないという最高のセキュリティ。死んだあとに諡(おくりな)として名前をつける。

 現在においてもその傾向は残ってます。身分が上の人に対しては、実名で呼ばない習慣がまだあるでしょ?目上に人には役職や立場で呼ぶ(個人名では呼ばない)。だけど目下の人には実名で呼ぶし、実名を呼ばずに済むような遠回しな言い方や代名詞は開発されていない。上に対しては「部長」とか「社長」とか呼ぶけど、下に対しては「部下よ」「社員よ」とは呼ばないで実名でいう。上様とか殿とか呼ぶけど、家臣よとは言わない。家族関係でも同じで、親に対しては「お父さん」「ママ」という代名詞で呼ぶけど、「子よ」とは呼ばずに実名で呼ぶ。兄弟姉妹でも、上に対しては「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」とは呼ぶけど、「弟ちゃん」とは呼ばない。

 不思議でしょ?だから「なんか」あるのよね。

 ちなみに中国の場合も、名前を直に呼ばずに済むように「字名(あざな)」があります。中国の場合は、姓と、日本における名にあたる諱(いみな)があり、目上からイミナを呼びかけるのはいいけど、下から呼びかけるのは無礼の極致とされた。日本語の当て字(だと思うが)「忌み名」とも書く。でも姓だけだと区別がつかないので、通称のようなアザナが使われたと。

暗示と認知イメージ

 そのあたり何らかのスピリチュアルな考え方があったと思うのだけど、そこまで話を進めなくても、もっと普通に脳の働きやら、人の認知作業やら、それによる暗示であるとか、そういうことで大概の説明はつくと思います。

 (あんまり突き詰めて考えてないけど)、そもそも僕らの思考=頭のなかでイロイロ考えていることって、アメーバーみたいな感じですよね。自分の脳内を自分でモニターしてみてもわかるけど、「うにゃうにゃした、なんとなく星型っぽい黄色いなにか」が「恋人」を意味するイメージだったり、「東北」って聞いたときにイメージするのは、「東北」というタグで脳内検索したときに出てくるこれまでの記憶画像やら情報やらが無秩序にどさっと届けられる感じ(日本地図の形とか、寒いとか、石川啄木や宮沢賢治やら、恐山やらリンゴやら)。

 脳内の「考え」というのは、ほんととりとめがなくて、いっそ混沌としてると思うのですよ。でも、こんなとっ散らかった状態では収集がつかないから、一定のまとまった思考をしようとするなら、他の概念の上に積み上げられるように、無秩序なイメージをレンガのようにブロック化し、一個の分かりやすい概念としてまとめていく作業がいるのだと思う。

 ただそれも正確に考えているわけではなく、なんとなくばーっと集まったイメージのうちの、なんとなく象徴的っぽいものをテキトーに取り出して代替させているだけでしょう。つまり、モノを考えているっていっても、かーなりイメージ主体、その場のテキトーな直感でやってるのでしょう。

 そのとき、自分の今までの経験や記憶などから素朴に取り出してブロック化するんだったらまだしも間違いは少ないんだけど、これに横から一つの明確なイメージを押し付けられることがあります。それが「記号」なんだと思う。

 これは一つの洗脳手段でもあるし、説得・レトリック・プレゼンの技術でもあるし、要するに他人の思考を外からコントロールしちゃうわけだし、実際にもほぼ24時間コントロールされているでしょう。

 広告のコピーやポスターなんかまさにその世界です。「東北」と聞いたときに、暗い、寒村、地味、貧しい、飢饉、寒い、田舎というネガティブなイメージもあるし、逆に、自然が豊か、緑が多くてきれい、純朴、清冽な奥入瀬川の渓流、日本文学の故郷、杜の都の仙台の美味いものめぐりとかポジティブなイメージも沢山あるわけです。平常時においては、ポジもネガも無秩序に脳内になだれ込んでくるんだけど、それを一定の方向にリードするのが、広告のコピーであり、ポスターなどのビジュアルです。

 ずっと前、バブルの頃に、JR東海だったかが「そうだ京都、行こう」という名作の連続CMを流してましたけど、18歳から京都に実家がある僕が見てさえ(リアルな京都をしってる身でさえ)、へえ、京都いいよなって馬鹿にみたいに思ってしまうくらい、それはそれは京都の美しい映像集です。あの頃の日本は金あったから、いい画像撮るのよね。

 ただリアルな京都でいえば、老人と学生と観光客でごった返しているわ、道はやたら狭いわ、京都盆地そのものがやたら狭いわ(実効的には世田谷区の半分くらいじゃない)、古都というわりには灰色のビルが多いし雑然としてるし、夏は暑いわ冬は寒いわ、住んだり仕事したりすると京都独特の排外的「いけず」「一見さんお断り」「ぶぶづけ」文化がありーの、細かいことをウジウジいううざったさがありーの、そうかと思うと反権力(つか京都こそが権力で東京は暫定政権でしかない)でお年寄りになるほど共産党支持だったり、宗教界・華道・茶道・香道など日本文化の家元権力の総本山だったり、そこに祇園の花柳界あったり、古臭いようで任天堂、ワコール、京セラの本部という進取の気風もあるし、社寺仏閣には事件屋が巣食ってて魑魅魍魎の世界だわ、裏社会も山口組の全面支配になってないわ(会津小鉄会という地場企業があり、僕が弁護士やってるときは四代目の高山氏の時代だった)、でもって外国人がやたら多かったり、すごいカオスなんですよね。そんな「神護寺の紅葉がきれいで」とかいう話じゃないっす。

 でもそこまで京都を知っていたとしても、JR東海の「そうだ京都いこう」をみると、他愛なく京都いいよねとか思ってしまうという。何が言いたいかというと、そのくらい記号というのは強い感銘力を持っているということです。

 意図的に狙い打たれたイメージ(記号)くらい恐いものはないのですよ。

 だからくれぐれもお気をつけをって話でした。

 以後、リスク管理と幸福論とかでも語りますが、なにかを考えるとき、それも人生全体を考えるとか、結婚とか重要なことを考えるとき、できるだけ名前をつけない(記号化しない)で考えるのがベストだと思います。脳内の自然にある漠然とした、ふわふわしたイメージ、そのまま出来るだけいじらないで、わかりやすくまとめちゃわないこと。そのニュアンスや、肌触り、ぬくもりなど中核的な「なにか」があると思いますから、それを出来るだけ殺さないでください。

 ワーホリを終えて帰る人に時々いうけど、「青春の一ページ」みたいに記号化しちゃダメだよ、さもないと何がそんなに良かったのかわからなくなるから。また分からなくなったら(なんであのときにあんな高揚感を得たのか思い出せなくなったら)、また飛行機乗ってこっちおいで。来たら一発で思い出すから。「ああ、これだよ、これ!」「そうだよ、この空の感じ!」って。現実リアルに触れたらすぐ賦活するから。でも、そういう大事なことに限って、言葉にするとしょぼくなる。「この空の感じ」としか言いようがなかったとしても、そう表現し、そう記号化したって、意味不明だからね。大事なものほど言葉(記号)にならないし、言葉にならないものをゲットしに来て、実際にもゲットしたんだから、あとで言葉にしてそれを失うようなことがあってはならない。

   これは大事なことなので、また稿を改めて書きます。



文責:田村


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