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今週の一枚(2018/07/30)



Essay 886:「海外慣れ」の効用
 〜海外ビギナーの登竜門・ステップストーンとしてのオーストラリアの有用性
 

 

 写真は、チューリッヒ。
 この街に水があって、橋があって、車や人がいて〜って感じが、写真撮ってるときも、なんか日本みたいだなーって思った。山陽とか九州とかに感じ似てるところがあるんじゃない?って。
 今回は、あんまり「海外っぽくない」写真を。

「海外慣れ」ってなに?

 先週に引き続き、日豪以外の第三国に旅行したときに「これまでの体験は無駄ではなかった!」って思ったシリーズ。先週は「英語やっといて良かった」話でしたが、今週は言語以外の生活体験一般論。「オーストラリア(海外)に暮らしてて良かった」こと書きます。

 先に簡単に結論めいたことを言えば、オーストラリアは世界への登竜門、ステップ・ストーン(飛び石)として非常に使える、ということです。

海外興味ナシだった初心者時代の記憶

 僕はそれほど海外旅行をするタイプではないです。日本にいるときは全く興味なかったですしね。むしろ「だからこそ来た」のです。人生の岐路なり、転換点において、自分のテリトリーを広げるには、慣れ親しんだり、とっつき易いことをやっててもダメで、それまであんまり興味のないこと、およそ接点が無さそうなことをやった方が自分の世界がドーンと広がって効率いいですから。

 オーストラリアに来る前は、職場の事務所旅行で香港旅行にいったくらいです。それも「なんでも金で解決」みたいな”過保護ツアー”の極楽大名旅行だったのですが、しかしそれですら、もうビビりまくり。生きて帰れるのか?皆からはぐれたら死ぬしかない!みたいな感じでした。もう笑っちゃうくらいの。

 その頃の記憶というのは、非常にイケてない頃の黒記憶なのかもしれないけど、別にそうは思いません。それどころか、今となっては僕の「財産」になってます。未経験な段階でどれだけビビるか、何がどれだけ不安なのかを記憶してるからこそ、どこをどう思い違いしているか、この一点が解消されたらずいぶん楽になるとかがわかるわけで、それが今の仕事の無形資産になってます。

 そんな状態でオーストラリアにやってきて、何もかも分からないなかで、くんずほぐれつ取っ組み合って、次第に慣れて、徐々に「俺の町」って感覚が芽生えて、さらに「外国」って感じがしなくなり、しまいには退屈で平凡な日常そのものになっていったわけです。

 じゃあ、今この段階で中東とか西欧とか行ったらどうなんのかな?って、そこは自分でもちょっと興味あったのですね。また全然勝手の違うところに行くんだから、初動の香港と同じように「きゃー」になるのか、それとも慣れてるからオーストラリアと変わらんって思うのか。まあ、全く同じってことはありえないから、そのあたりの感覚はどうなのか?

海外が国内になる感じ

 実際にやってみたら、なんか不思議な感覚。
 もちろん香港のときのような絶対アウェイ感はないのですが、なんといえばいいのかな、日本の国内旅行してるくらいの感じです。僕は海外旅行はそんな興味なかったのですが(オーストラリアに住んでいてさえ特に興味はなかった)、日本の国内旅行は好きなのです。

 なんでかな?と思うに、たぶん国内旅行の方が深く理解できるし、ビビったり困ったりという余計な消耗もないし、鑑賞できるからでしょう。日本国内の地方都市など、どこにいっても似たり寄ったりではあるんだけど、微妙に海の感じや山の感じ、町の雰囲気が違うので、その僅かな違いを鑑賞する。あるいは似たり寄ったりな感じが又いいんだよって気分もあります。温泉なんか、なんの新鮮味もなくてもいいですからね。100パー予定調和であってくれてもいい、予定調和な方がいいくらい。サプライズ要らないしって感じでしょ。

 でもこれが海外になるとなかなかそうはいかず、鑑賞どころか、一大プロジェクトみたいな感じになっちゃうのがうざったいというか、なんか仕事みたいな感じになってつまらんというか。かといって、パックツアーで集団行動ってのも、それ自体がストレスだし、観光ガイドブックそのまんまなぞるのも、これも仕事感が出てきてしまうし、楽しみ方がよく分からんって部分もあります。まあ、数ヶ月〜数年単位で放浪するなら、それはそれで面白いんだろうけど、そんなのやってられるのは若いうちというか、生計ライフスタイルが出来てしまうとなかなか難しいし。

 だから海外旅行というのも、別に嫌いというよりも、楽しい感じがよく分からんというのが近いです。それは、競馬が好きでも嫌いでもない人が、敢えてわざわざ競馬を見に行く気にならないのに似てます。そりゃあお金を賭けなくても緑に芝生に優駿、駿馬が駆け抜けるんだから見応えあるだろうなーというのはわかるんだけど、じゃあ来週行くかというと行かない。別に競馬に限らず、プロレスだろうが、なんだろうが同じことです。

 それが今回、なんかよく分からんし、ストレスフルでテンションかかりそうな海外旅行が、国内旅行くらいまで降りてきたって感じはしましたね。十分に手が届くというか、マネージできるし、理解もできるし。

親和性

 そして、なんでそうなったのか?といえば、やっぱりオーストラリアという海外に長いこと暮らしていたからです。一言でいえば「海外慣れ」してるからなんだけど、じゃあ「海外慣れ」って実際なんなのよ?なにがどう慣れたの?というと、これが結構奥が深い。別に旅行してたわけではなく、単純に暮らしていただけだから、旅行慣れはしてないのですよ。ブッキングやら移動やらはそんなに慣れてないです。もっと抽象的で、もっと根本的な部分が慣れてきたのだと思う。

 また、システムや風景が似てるから気分的に楽ってもあるけど、でも今回旅行してて、「ああ、〇〇みたいだ」って風景や土地の類似性で思ったのは、オーストラリアの町よりも、むしろ日本の町の方が多かったですよ。でもオーストラリアに暮らしてなかったら、そこが日本のどこそこに感じが似てるなとは思えなかったと思う。オーストラリアの風景その他に親和性があったからって部分もありますが、むしろ、親和性そのもの気づけるようになったって部分がデカいのです。

 親和性に気づくというのは、その社会の全体構造やメカニズムが何となく見えてきたってことでもあります。海外だー!で、物珍しくてエキゾチックな部分だけに目を奪われるのではなく、「ここは多分こんな感じの町なんだろうな」「ここに住んでる人はこんな感じで暮らしているのかな」ってのが透けて見える(ような気がする)からこその親和性でしょう。

 つまりかなり冷静に観察できるようになってきている。なぜそうなるかといえば、これまでの経験でストックや引き出しが増えてきたからでしょう。

 ね、ちょっと複雑でしょう?そのあたりをちょっと書いてみます。

 あと、親和性を感じる写真、あんまり海外っぽくない写真がいくつかあるので文章の途中に散りばめていきます。長くなったので時折絵があったほうが楽だろうし。

↓アブダビの風景。この橋と背景の感じが、昔住んでた東京の門前仲町の永代橋の感じに似てる。奥に「辰巳倉庫」とかあったんだけど、そのたたずまいにそっくり。

海外体験とオーストラリア体験の二重性

 オーストラリアに住んでたので海外慣れしてるというけど、それって「海外に慣れた」部分と、「オーストラリアに慣れた」部分という二重構造をしていると思います。この二重性は、過去にもみっちり書いた記憶があります。

 以前シリーズで書いたオーストラリア移住論、「ESSAY 452/「海外」という選択(1)これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?」から、「ESSAY 463/(12)経済的理由、精神的理由、そして本能的理由」まで12回にわたって書いてますけど、それらとかぶります。まあ、対象が同じオーストラリアなんだから、かぶって当然ですけど。8年前の論稿で誰も覚えてないでしょうから重複を恐れずに書きます。

 二重性をもう少し噛み砕いで言うならば
(1)非日本的な環境に慣れる部分(固定観念を壊して自由になる部分)
(2)オーストラリア独自のエッセンス・栄養素の部分
 ということになるでしょう。

 この話は、「オーストラリアでの体験は将来的にどう役に立つか」「オーストラリアの使い方」にもつながっていきます。特に「はじめての海外生活」という観点で有用、ビギナー向けであると。以下、やや複雑な話をするので、ゆっくり書いていきます。

海外=日本ではないという点

固定観念の破壊

 最初に海外に来たとき、特にそれが初めての海外生活であるならば、その土地のローカル特性がどうとかいうよりも、「日本ではない」って部分が大きいでしょう。今まで生まれ育ってきて当たり前だと思ってきたことが全然当たり前ではない!というのは、なかなか衝撃的です。

 この点に関しては、別にオーストラリアであろうが、アラスカだろうが、キリマンジャロであろうが、リスボンであろうが、どこでもいいです。「日本じゃない」=「これまでの発想が通用しない」という部分がポイントなのですから。

 しかし、この過程は、全体の工程でいえば準備レベルに過ぎないと思います。
 スクラップ・アンド・ビルド(壊して→作る)という一般的な話からいって、まずはこれまでの固まって硬直的な部分を壊しておく必要がある。田畑でいえば、土をほじくり返して「耕す」という部分。ここでしっかり耕しておかないと、以前生えていた雑草がまた復活して繁茂したり、土が十分に柔らかくなってないから種をまいてもなかなか根付かないことになる。やるなら徹底的にサラサラにしておいた方がいいです。

 とはいっても先進国の都会部に限っていうなら、そんなに何もかもが違う!ってことはないです。ちょっと前にしつこく書いたけど、ここ十年来、特に生活環境は類似し、世界の均一化が進んでますから、そんな「おおお!」というほど違いはないでしょう。昔の大航海時代だったら、もう宇宙旅行で異星に来ましたってくらいの落差があったでしょうけど、今はもう微差。

 リアルな実感で言えば、機能面においては「日本語が通じない」というのが80%くらいを占め、ビジュアル面においては「見渡す限り外人しかいない」というのがまた80%くらいを占めるだろうと思われます。だけど、もうこれだけで、慣れてなかったら精神的に酸欠状態になると思いますよ。あっぷあっぷというか、いっぱいいっぱいになるでしょう。

↓チューリッヒの観光地ではないローカルな町。全体のたたずまいがおっとりしてて、東京の世田谷あたりの住宅地に感じがすごく似てた。
↓チューリッヒの普通のローカルのサバーブのトラムの駅にあったキオスク売店。学校帰りらしい地元の子供達が買い食いとか物色してて、変わらないなーって思った。

慣れとメンタル

 まあ、そんなのはしばらく住んだらすぐに「慣れる」から大した問題ではないです。ほんの序の口に過ぎない。本当はもっともっと奥があって、社会の成り立ちやら、人生の組み立て方やら、ありとあらゆる発想がニュートラルになっていきます。すごーく細かいところでも新鮮な破壊と再生がおこなれていく。

 よく書いている例では、エレーベーターの「閉」というボタンを別に押さなくてもいい、それどころか「閉」ボタンが存在しないエレベーターすらあるという現実を見て、「別に2−3秒くらいどってことないよね」って、生きていく上での時間感覚やら、何が大事なの?という優先順位やら、急ぐために急ぐみたいな無駄な発想やらが自然と組み替えられていきます。そんなことの積み重ねで、例えばセカセカしない、ゆったりした物腰になっていくとか、どんな問題にも今までよりも大局的な視野で捉えられるようになるとか。こういった過程で「耕す」って作業が進んでいく。

 しかし、慣れてなかったら、そこに行く着く前に燃え尽きてしまいます。慣れる前に終わってしまう。もしワーホリや留学、駐在などで一定期間外国に暮らして、そのあたりの日本人的な発想が脱臭できてない=ものの考え方が柔軟でしなやかになってないなら、この序の口の「慣れる」という段階をクリアできてないんじゃないかな。あっぷあっぷするがあまり、慣れて楽になるよりも前に、日本人村に戻ってそこで過ごしてしまう。だから、あんまりスクラップ・アンド・ビルドが行われてない。免許取り立てで路上を走るのはテンパりますけど、しばらく乗ってりゃ慣れてきます。でも慣れる前にビビってもう乗るのをやめてしまったら、いつまでたってもそのレベルで止まってる。そんな感じ。

↓ジュネーブの駅。ここだけ見てると、日本の地方の大きめのJRの駅によく似てる。中に入ると全然違うんだけど。
↓画像自体にすごいデジャビュ感があって、似たような写真持ってたぞ、どこだっけな?と脳内画像検索して出てきたもの。伊勢サミットというオフやったときに撮った、近鉄宇治山田駅の駅舎、

メンタル→知的劣化

 考えてみれば、ほんの序の口レベルではありながら、この「慣れる」だけでも十分な効用がありますよね。

 なぜなら、日本人の英語や海外の問題点って、煎じ詰めればメンタルの問題に帰着するんじゃないかなーって常々思ってるわけです。身長180以上、どうかすると2メートル近いのもいるような連中にぐるりと取り囲まれるだけで物理的な圧迫感がありますし、それだけでテンパってくる。だから、ちょっと考えたら出てくる簡単な英語表現も出てこない。「パイナップルって英語でなんて言うんですか?」「パイナップルじゃん」「あ、そっか」という笑い話のようなレベルになる。「あさって」と「おととい」がごっちゃになって、"the day after yesterday"とか珍奇な表現を開発しちゃって、「それって今日じゃん」みたいな。

 言語に限らず、全体の状況を考えれば、「多分こういうことを言ってるんじゃないかな〜」って推測もできない。こっちでは万引き防止のために、雑貨スーパー(K-MARTとか、シドニーでは紀伊國屋書店がそう)の出入口に人が配備されていて、義務的&事務的にカバンをチェックするんだけど、別にあれは「お前が怪しい」からやってるわけではなく、無差別&ランダムにやってるにすぎず、どっかに「ご協力を」って書いてたりする。そんなのは全体の雰囲気をよく見ればわかる。僕もそうだが地元のオージー達は自分から積極的にカバンを開けて見せてるし。

 それって全体が見えてたらわりと簡単に理解できるはずなんだけど、メンタルいっぱいになってると、見えてこない。単に「疑われた」「失礼な」「差別だ」みたいな受け止め方をして、「こんなひどい目にあった」という話が一人歩きをする。日本人が海外(あるいは世間一般)をみるとき、特徴的な2大要素が「被害者意識」「恐怖感情」だと思います。最近はそんな世迷い言をいう人も少なくなったとは思うし、リアルな実感でいえば、ほとんどの日本人はバランス感覚取れてると思います。初期パニックみたいなのが取れたら、かなり平衡的な感覚を取り戻して見えてくる。少なくとも「ウチの連中」はそう。

 ただ、そのあたりの経験がゼロだと「お外は怖い世界なのよ」「ひどいことをされるのよ」みたいな、全ての職場はブラックだみたいな、全ての結婚は絶望に彩られているみたいな、全ての女性は金のために男を裏切るんだみたいな、幼稚というよりも、なんか発達障害や精神疾患を疑わせるような発想になりがち。写真を取られると魂を抜かれるといい勝負な。

↓FBにもリアルタイムで出した写真(の別ヴァージョン)、エチオピアから来た運転手さんとドバイの深夜(朝4時くらい)を走り抜けるのだが、この高速道路の高架を走ってる感じが、日本の神戸の湾岸線とかそこらへん(全国津々浦あると思うが)に似てました。

実は海外適性は高い

 あの〜、本来「空気を読む」=その場の全体構造をミクロ・マクロ両面から正確に把握するってことなんだから、日本人はそういう洞察力は得意のはずだと思いますよ。あんまり空気読まない、他人のことなんかお構いなし系の連中よりは、「見えてる」はずだし、「見る力」そのものはあるはず。アドバンテージ高い。それが、一定期間海外を体験しても、あんまり出るときと変わってなかったら、何やっとんじゃ?って話になるわけで、そこまで知的劣化させる要因はおそらくはメンタルでしょう。幽霊に取り囲まれながら大学入試受けたらそりゃ落ちるわってもんで、メンタルの安定と能力発揮はものすごい対応関係がある。

 逆説的な話になるのかしらんけど、日本人って最初の「慣れ」さえ克服したら、もともと洞察力はあるはずだから、海外を使いこなせる度合は高いんじゃないかな。「人によりけり」というどこにでもある一般論はどこにでもあるからこの際捨象して言えば、僕らはそんなに捨てたもんじゃないし、むしろ世界のいろいろな民族のなかでも海外適性は高いと思いますよ。このあたり言い出すと長くなるし、過去にも散々書いてるからこの程度にします。

↓アブダビのショッピングセンターのスーパーマーケット。これはオーストラリアで見る風景によく似てる。
↓これもアブダビのショッピングセンター。オーストラリアのWestfieldそっくりの構造なんだけど、実際にもグロリア・ジーンズ(オーストラリアのチェーン店)まであった。

集団になるとアホになる

 あ、ただ一点だけ付記すれば、職場やらなんやら一定の集団がいた場合、「一番頭の悪い意見が一番声が大きい原則」ってのを覚えておくといいかもしれません。「オージー=レイジー」と決めつけるという半世紀前くらいの発想をいまだに金科玉条のように言ってる人とか、たぶん頭悪いだろうなーって思うのだけど、頭悪い分だけ反省とか懐疑がないからスッパリ断言、言い切れるし、声も大きいし、大体において先輩株とか古狸に多いから、立場的に発言力がある。かくして、愚劣な意見がその集団の大勢を決めるという「やるせない現実」はあります。

 移民が増えると or 民泊が流行ると→治安が悪くなるとか、よくもまあ飽きもせず壊れたレコードのように延々繰り返せるもんだ。この手のゼノフォビアの愚昧さはもう自然現象くらいに思ってた方がいいかもしれませんね。冬来たりなば春遠からじ、みたいな。この「○になると→治安が悪くなる」構文は、地元に精神病院が出来ると、刑務所が出来ると、新興住宅地が出来てよそ者がはいってくると、歓楽街が出来ると、カジノができるとかいくらでもあります。英語でもあります。NIMBY(ニンビー)=“Not In My Back Yard”心理でいわゆる住民エゴとか、総論賛成各論反対とか、どこも同じ。でもって、なにも出来ず、何も変わらなかったら、時代に取り残されて、過疎化して枯死したりするんだよね。

 真面目な刑事政策論でいえば、治安が悪くなる(犯罪発生率が高くなる)のは、多くは貧困の広がりであり、抽象的には人々の「希望」が薄れてきたらそうなります。犯罪以外に生計の手段が無いとか、バカバカしくて真面目にやってらんないって感覚が蔓延するなど。そうなる道筋はいろいろあるのですが、一般に社会が人を選別しようとすればするほど治安は悪くなる。かつて70-80年代に受験過熱、偏差値教育が副産物としての「落ちこぼれ(非選別民)」を産み、校内暴力やら非行を促したように。治安というのはトータルな社会システムと、それが人々のメンタルに与える影響との関数で決まるように思います。

 話逸れたけど、言いたいのは、別に集団内部で喧嘩しなくてもいいんだけど、それに自分の感性を毒されないようにってことです。特に大企業とかに入ったりすると、一種の集団痴呆化(ウチの会社が潰れるはずはない的な)があったりするし、毒されないようにね。多分、あなたが素で感じてるものが一番正解に近いですから。集団のなかでは、どっかしら異端、どっかしら疎外感を抱くくらいでちょうどいいです。三人寄れば文殊の知恵っていうから、複数になると知的生産性はあがるんだけど、それも場合によりけりで、どっちかというと集団になるほど下がる場合の方が多い。こんなんだったら一人ぼっちの方がよっぽどマシだってケースも多い。

 それに、自分も年取ってきたからわかるんだけど、あれ、声高に言ってるほど本人が信じてるわけじゃないからね(笑)。本当はビビってたりするんだけど、その不安を解消するために、誤魔化すために大声出してるだけって部分はあるのだわ。だから見た目ほど頭が悪いわけではないんだけど、でも、はた迷惑な話ですな。

 自分だってそうでしょ?大声で断言!ってのは、大体がその場の勢いで、深く考えているわけでもないケースが多いでしょ。「今年こそ阪神は優勝する!」みたいなさ、根拠ゼロ、冷静に考えてるわけでもない。それとは逆に、自分が本当に感じてること、本当に信じてることって、意外と言葉にできない。なんか言葉にして言うのが憚られるような感じ。言ってしまうと、なにか神聖なものが傷ついてしまうかのような、そんな畏れすらあるような。違う?

 何の話か?といえば、だからそんな他人の言うことを真に受けてはダメっすよってことです。てきとーに流してね。この駄文も含めて。


 そして、この章の結論も、日本を出て海外に暮らして「慣れて」しまえば、かなりメンタルが落ち着いてくる→もともと持っている洞察力も発揮できる。その効用は限りなくでかいと思います。

 それは序の口なんだけど、ある意味序の口だけで十分なのかもしれません。
 なぜなら、序の口突破=慣れてメンタルが安定=本来の知性が能力発揮ってことだから、何をどう経験しても、いろいろ考えるだろうし、発想も自然と柔軟になっていくでしょう。あとは自動的にどんどん耕されていくと思います。

↓これはJR湖西線の感じ。農地の向こうに湖(琵琶湖、レマン湖)が流れ去っていって、反対側には比良山とかあってって。
↓モントルーからツェルマットに移動する車窓。このあたりの感じが、JR東海道線の米原とか関ヶ原の感じに似てましたねー。伊吹山とかあって、ガランとして線路が広がってる感じとか。

オーストラリアの栄養素

 非日本に慣れる、固定観念を打破するって意味では、オーストラリアでなくてもどこでもいいんだけど、次に、オーストラリアならではって部分を書きます。

世界中の人が来ていること

 オーストラリアは、かなりまんべんなく色々な国から人が来てます。強いて言えば、アメリカなどにくらべてアフリカ系(黒人)が少ないのですが、あれはアメリカのほうが特殊だとも言えます。奴隷売買という過去の負債からそうなってるわけでね。

 このアドバンテージはかなり高いと思います。
 同じ海外でも、90%以上は地元の民族に占められていたら、やっぱり「世界」にいるというコスモポリタンな感覚は養いにくいし、地元ローカルの特殊性の方が強くなってしまうでしょう。別にそれは悪いことではないんだけど、でも「汎用性(どこにでも通じる)」には欠ける。

 この点、オーストラリアはアボリジニ以外は全員移民で、「オーストラリア民族」ってものが存在しない。背景色が白というか、まあ基本歴史的にはイギリス色なんだけど、そのイギリス人だってイギリスからこっちに移民してきたわけで、歴史も浅いから深いシガラミもなく(聖地エルサレムをめぐるあれこれとか)、強烈な土着性がない。

 それはときとして淋しい部分もあるでしょう。ローカル本来の味が薄いってことでもありますから。でも、海外ビギナーの初等教程においては、個別特殊性を極めるよりは、一般汎用性を高めておいた良いと思われますから、その意味でかなり理想的な環境だと思います。

 単にオーストラリアに来て、オーストラリアが終着駅になるんだったら話は簡単なのですが、どっちかというと日本人がやってくる場合、オーストラリアでなにか(英語とかスキル、キャリア)をゲットして、さらに世界に出ていくというパターンが多いと思います。一発では飛べないから、途中に踏み台になる石を一個置いておく。ステップストーンです。そこではオーストラリア独自のものよりも、この先広く世界で通用するような普遍性のあるものごとを学びたい。世界の最大公約数というか、これをやっておくとこの先どこに行っても役に立つよという物事。

 世界中の人が来てるということは、それだけでかなり有利です。さらに細かく言えば、いくつかあるのですが、、、

↓前回「箱根っぽい」と紹介したモントルー。日本の観光地なんかでよくある感じ。逆に言えばオーストラリアにはそんなにない風景かな。
↓モントルーの駅。裏手に山がせまってて、高いところにホームがあって〜って感じが、日本ぽい。

バランスが取れる

 日本にいると、世界=アメリカみたいになってて、どうしても欧米史観というか、あっちサイドのものの見方になりがちです。でも、それまで考えたこともなかった国の人達、例えばブルネイ人とか、スリランカとか、コロンビアとか、ポーランドとか、イラクとか普通にいるから普通に接してると、世界観がバランス取れてきます。先進国の偏った見方も是正されてくる。

 ここで見方をニュートラルにしておくと、あとあと違ってくると思います。世界平均的な視点のカケラでも身につけておくと、世界のどこにいってもそんなに見方が変わりませんからね。

あらゆるパターン

 上とやや重複しますが、地元民以外の外国人が多くても、特定のパターンばっかだったらそれはそれで固定してしまう。例えば、ドバイとかシンガポールも面白いんですけど、やっぱ出稼ぎに来たとか、ビジネス志向ってパターンはあると思うのですよ。

 でもオーストラリアの場合は、第二次大戦後の荒廃したヨーロッパからオーストラリアの招きに応じてやってきた移民第一波(イタリアなど)がおって、彼らがオーストラリアのワインを作って、高度なカフェ文化の基礎を作ったりするわけです。次に、ベトナム難民やパレスチナ難民に始まって、最近のシリアに至るまで多くの難民を抱えてますし、彼らがオーストラリアの文化を豊かにしてくれている。さらに欧米以外に経済的に離陸していった日本を筆頭とする各国の経済層がくる。そして、留学やらワーホリやらがくる。一方では、曇天ロンドンから、より人間らしい青空ライフを求めてイギリス人が移民してくるとか、ワークライフバランス志向の人達もコンスタントにくる。

 つまり価値観や、くるパターンが「なんでもあり」ってくらい多種多様であり、それがいいのです。世界のいろいろな局面や諸相を学べるわけですし、どこかに偏るわけでもない。これだけなんでもあって、こんだけ偏ってない国って、ある意味世界でも珍しいですよ。教材とか教室にはうってつけだと。

↓ドバイ〜アブダビの途中で給油したガソリンスタンドの中。これは殆どオーストラリアと変わらん。

仕事につながりやすい

 多少打算的なことでいえば、オーストラリアの移民政策は、日本とは違って、下働きの労働者補充というよりは、世界の優秀なエリートを求めるというスタンスです。だから独立技術移住で入ってくる連中は、いずれも本国ではそれなりにエリートだった連中がくる。

 そうなると、中国人がやってきて、次にインド人がやってきて、次にベトナムのビジネス系が増えて、同時にアフリカ系もどんどん増えるという具合に、これから世界経済の柱になりそうなエリアとの接点が増えてくる。もちろんそれが狙いで移民政策やってるんだけど、その余録はこちらにもくる。シドニーに普通に暮らしてたら、特に日本人同士固まってない限り、日本人の数倍、数十倍という頻度で中国人やインド人を見たり接したりするので、慣れるし、免疫も出来るし、理解も深まる。

 それが将来的にどれだけのメリットになるかは、考えなくてもわかると思います。そりゃ、インド人を知りたければインド本国に住むのが一番でしょう。でも別にインドだけ知りたいわけじゃなくて、初等教程においてはまんべんなく知りたいわけですからね。また、インド人に限らずどの民族もそうだけど、「外に出てきてる連中」というのは、橋渡し役というか、解説・通訳役というか、自分の文化をある程度相対化できているし、客観視もできるから物腰がとっつきやすい人が多い。ニュートラライズ出来ている。そうでないと彼らも現地で生きていけないし。

 他にもいろいろあるんだけど、こういった豊富でランダムな世界の人的資源に日常的に触れているので、知らないうちに世界の見方も立体的にもなるし、偏見も減ってくるし、耕されてくるわけです。歴史的な切り口でも見れるようになるし、文化的な側面から見ることも出来るし、世界経済という観点からも見ることが出来るようになる。まあ、そんなに鋭い考察ができるわけではないのだけど、毎日のように接していれば、昔に比べたらそのあたりは見えるようにはなりますよね。

↓ドバイ郊外の駅。都心からアブダビ方向に真っ直ぐ電車が伸びてるんだけど、これが同じ設計図を使いまわしをしてるんじゃないかってくらい同じ駅舎。その一直線な感じと高架駅の感じが、大阪の北の御堂筋線、千里中央に向かう感じに似てた。
↓同じくドバイの郊外の高架線路沿いなんだけど、自動車ディーラーが紙芝居のように次々にでてくるのが面白かったですね。

最大公約数的な合理的なシステム

 オーストラリアは数百という単位での民族文化がひしめきあってます。だから社会のシステムも、「誰が考えても理解できる」という透明なものにする必要があります。

 「文明」は合理性に本質があり、「文化」は非合理性にこそ本質があると言われます。文明というのは、火の発見とか、数学的論理性とか、農耕とか、電気とか、自動車やスマホとかです。それらは合理性があるから、他民族にもすぐに浸透する。でも文化は、なんとなくシキタリや惰性でやってるだけとか、意味がすり替わったり、いい加減です。だからあんまり他民族に浸透しないし、理解もしにくい。日本の「七五三」でも、なんで性差があるのか、女性は二回やって男性は1回ポッキリなのか、そもそもなんでその年令にやるのか、千歳飴という糖分を過剰に摂取していいことあるのか?とか合理性を言い出したら全部破綻してるといっていい。サイエンティフィックな根拠なんか殆どないです。でもそれがイイんですよね。それが文化ってもんです。

 で、多文化社会というのは、その非合理な土着文化をある程度抑制したり、習俗儀式化して無害化するとか、いろいろな工夫が必要ですし、ゼネラルなシステムそのものは合理的でなければならない。

 だから、最初にやるには、多文化社会の方が楽です。これが特定の土着文化バリバリばっかだったら、馴染みにくいし、理解もしにくい。「なんでそうするのか?」というと理由がないとか、説明されてもさっぱり納得できないとか、そんなのが多い。だからとりあえず快適度は低い。そして、そこで養われるのは「郷に入れば郷に従え」というある種の「諦め」みたいな忍耐力でしかない。でも、合理的で透明なシステムを組み上げてる社会だったら、理解も納得もしやすい。理解しやすいから、それまでの自国のシステムとの比較もしやすいです。だからさらに理解が深まる。ビギナーにはうってつけです。

↓チューリッヒの地元フェリーに乗ってローカルの憩いの地のようなエリア(前回の一枚に使ったところ)の裏手の住宅地。けっこうなお屋敷街っぽくてそこがシドニーのモスマンを彷彿とさせたんだけど、ちょっと歩いてバス通り近くまでいくと、シドニーのDee Whyっぽい感じになった。あー、もう100メートルくらいいくとバス通りの幹線道路があるんだろ?って展開まで読めるような。

人慣れしやすい

 オーストラリア人は総じていい人度が高いです。人間的に荒んでいたり、ひねくれたりしている人が少ない。人としてマトモというか、育ちが良いというか。これは口でいっても自分で体験しないとわからんでしょう。でも事実の問題としてそうであり、そうでなければ、僕だって来たばかりの人にシェア探しなんかやらせないですよ。それをやらせるのは、良い結果になるのが見えてるからだし、実際そうなってます。

 問題はその効用です。おっかなびっくり海外に出てきて、英語が下手だというだけ、アジア人だというだけで、誰からも相手にされないとか、あからさまに軽蔑されるとか不愉快な経験が多かったら、もうそれだけでイヤになってしまうでしょう。

 最初に序の口の「慣れ」が必要とか書いたけど、慣れるまでもいけない。そりゃ毎回、不愉快な思いばっかりしてたら気力も萎えるだろうし、うんざりもするでしょう。だから、初級においては、現地の人と接しても、いい思いをする度合いが高いこと、心理的に黒字になることがけっこう大事な条件になってくる気がします。

 この「いい人傾向」はオーストラリア生まれの人だけではなく、よそからやってきた連中にも共通して窺えます。それは自分が来たばかりの頃に優しくされているから、「人は自分が他人から扱われたのと同じように他人を扱う原則(虐待されて育つと親になってもつい虐待してしまうとか、部活のシゴキを受けると自分が上級生になったら同じようにやるとか)」からして、うなずける。また自分自身の経験としても、来た当初(今もそうだが)、あれだけ周囲から良くしてもらってるんだから、自分も恩返しやら、Pay it forward的にやらなきゃって思います。

↓ドバイの街中。これは東京のアメ横とか御徒町の感じですね。色使いといい。
↓アブダビの長距離バスの発着所のロビー。この感じも日本のJRの地方駅に似てる。

対等な立場

 長くなったのでいい加減やめますが、最後に、Colesでネパールから来た学生さん達と一緒に働いてる経験もまた役に立ちました。

 深夜の3時半に着いたばかりのドバイ空港って、やたらだだっぴろくて、Arrivalには殆ど誰もいなくて、ゴージャスなんだか殺風景なんだか、おーい、どうすればいいんだー?って途方に暮れたりしました。
 だだっぴろい空港のあちこちで、世界各国から来たらしい現場労働者の皆さんが掃除してたり、早朝の荷の配達してたりしてるんだけど、バイトやってた経験から「あ、仲間がいる」くらいに親和性を感じましたね。でも、これやってなかったら、ちょっと引いてたかもしれない。やってると、自分と同じ、別に悪い奴らじゃないよ、気さくでいい連中だよってのが経験的にわかるから、気楽に話しかけられるし、感じがわかる。

 「感じがわかる」って部分が結構キモでして、受け答えのいい加減さとかそのあたりのカンドコロがわかる。僕もやってて、いろいろな人から場所とかやり方とか聞かれること多いんですけど、ヘルプでぽんと初めて行ったところなんか自分も知らないから答えられないんだけど、そういうことってよくあるよねー、しょうがないよねーってのもわかる。だから自分が聞く側に廻っても、答え方見てたら、あ、知らないんだってのもわかる。知らないことがいい加減だとか、やる気がないとか、無下に扱われたとも思わない。かなり正確に事態がわかるというか、見えてくるんですよね。そういった効用も大きかったですね。

 このあたりは日本でも多くの外国人の方が働いておられるので、その気になればいくらでも体験は積めると思いますよ。ただ、一点違うのは、こっちでやってるとタメな立場なのですよね。地元民である自分がよそ者である彼らを見るという視点ではなく、自分も彼らもまったく同じ立場って部分がミソです。

 ひるがえって一般化すれば、オーストラリアは世界からやってくる人達が多いということは、対等な立場で付き合える人達が多いってことです。そしてそのバラエティ(民俗、文化、立場など)も豊富だからいろいろ学べるという。そこはやっぱり利点だと思います。


↓早朝のアブダビ付近。このあたりの感じはオーストラリアよりも日本に近い。
↓ツェルマットのスーパーのビール売り場。この感じはどこも同じね〜。

文責:田村


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