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今週の一枚(2018/02/05)



Essay 863:言語化すると楽になる〜「感情記憶」ロンダリングの不思議 

 〜海馬&扁桃体との付き合い方 
 〜暴走した主観は、客観に救われる 

 写真は、APLaCのあるGlebe 土曜日にフリマをやる小学校の裏手あたり

言語するとトラウマが軽減する

 前回のエッセイで説明の便宜にマンガの一コマを出しましたが、今週もまたあります(そういうの沢山あるのだ)。

 マンガそのものは、いずれはてなブログで紹介するつもりですが、この部分はマンガの本筋から外れてるから紹介しにくいし、かといって豊かな示唆に富むで紹介したいし、だからここで書きます。



 出典は、田辺イエロウ作「BIRDMEN」というマンガの第03巻に出てくるシーンです。かといって、このマンガ、大脳生理学や心の問題に特化した作品ではないです。いわゆるゴレンジャー的な戦隊モノの王道+人類の上位互換種という本格SFでもありながら、全編に漂う中二病的屈折と若さゆえの屈託の無さが三重奏になってる楽しいマンガですが、その紹介はまた。

 今回、言いたいのは、「口に出すと楽になる」という心理です。

 ココは、経験的に誰もが感じていることでしょう。
 心の中のモヤモヤは、口に出して喋ったり、文章にしてUPしたりすると、なぜか気持ちが軽くなる。もっと日常卑近な例でいえば、「愚痴を言ったらスッキリした」ってやつです。

 経験的にはわかる。自分もそういう経験が何度となくあるし、あなたにもあるでしょう。友達の愚痴を「よしよし」と聞いてあげたり。

 でも、何故そうなるのか?です。

 そこがサラッとこのマンガの1ページで解説されてて、「あ、なるほどね」と得心がいきました。ただ、まあ、鵜呑みにしてええんか?って気持ちもあって、「記憶に関わる海馬と扁桃体」「脳と記憶、記憶のされ方」など幾つかの解説を斜め読みするに、概ねそうみたいです。

 以下、ちょっと好奇心にかられて調べた大脳生理学なんぞの話を。読むの面倒ならこの部分飛ばしてくれていいです(→飛ばす

大脳生理学や臨床心理学の泥縄的検証

記憶

 このあたりは昔から興味あって、ESSAY319『脳はなにかと言い訳をする』のご紹介やらESSAY 378/記憶と死などで書きました。特に記憶は短期記憶、中期記憶、作動記憶、長期記憶、陳述記憶、宣言的記憶、意味記憶、手続き記憶、自伝的記憶、エピソード記憶などなど、もンのすごい種類があるそうです。

 これは単なる知識羅列ではなく、多分、将来の介護あるいは自分のこととして降り掛かってくるかもしれないから知っておいて損はないです。脳梗塞で失語症になったとか、普通にありますからね。その際、どの部分がどうダメになったのかです。メモリーがぶっ飛ぶんだけど、どのメモリーがぶっ飛んだのか。単にアーカイブ書庫がぶっ飛んだのか、それを扱うインデックスが飛んだのか、表示させるフォントが飛んだのか、みたいな。

 また、昔書いたように、年を取ると記憶力が低下「するとは限らない(むしろ増強する場合もある)」のも要注意です。低下するのは記憶のうちの近時記憶と展望記憶で、日常生活ではそこを頻繁に使うからボケたように見えるのだけど、その他の手続き記憶・潜在記憶、遠隔記憶は老化しないし、意味記憶は増強するし、さらに今回話題にしている海馬については年取ったほうがむしろ活性化するという話もある。エピソード記憶=過去の思い出なんかそうですけど、年を取ったほうが海馬に連結している感情記憶がより鮮明になって生き生きと思い出せる。だから年食うと過去の記憶だけで結構遊べてしまう、楽しく過ごせるって話でした。

海馬と扁桃体と短時間記憶

 さて、今回の話は、短時間記憶が長時間記憶に移行する話です。RAM→ROMになる。PCの電源消したらぱっと飛んでしまう記憶なのか、電源落としても保存されている記憶なのか。

 不正確なのを百も承知、素人の戯言ということでお許しいただきたいのですが、大雑把に言ってしまえば、短時間記憶は「海馬」というタツノオトシゴに似てる部分に保存され、長時間記憶は大脳という本社の大倉庫で保管する。海馬くんは、受付であると同時に最前線の司令塔です。とっても大事なセクション。

 そして海馬くんのお隣には扁桃体という1センチくらいの器官があって(喉の扁桃腺とは違うよ)、そこが感情系の記憶をやっている。快不快を決める「好き嫌い決定大臣」みたいな重職で、僕らが誰かを好きになって結婚するとか、何に生きがいを感じるかは、この1センチくらいの扁桃体がまず決めている。すごいですよね、僕らが幸福か不幸を決めるのは、この小さな物体なんだから。

 ちなみに扁桃体とか扁桃腺の「扁桃」ってなんなの?「かたよった桃?なにそれ?」と思ったら、アーモンドのことらしいです。中国由来の漢字なのか、単なる和製当て字なのかわからないけど、ミント=薄荷(はっか)みたいな感じ?アーモンド(扁桃)に見た目が似てるからという小学生のあだ名みたいな。


 この感情大臣の扁桃体と前線司令部の海馬は単に隣にあるだけではなく、相互に影響を与える。だから、まだRAMである海馬にある新鮮な記憶は、新鮮な感情記憶を伴っている。

 海馬の記憶は一時記憶だから時とともに薄れていくので、これを長時間記憶化するためには大脳皮質に転送しなくていけない。記憶エングラム細胞とかいうらしいのですが、その機序はよくわからんのですが、記憶というなんかの物体が宅急便でぶーんと運ばれるのではなく、海馬のエングラム細胞の内容が、大脳のエングラム細胞に入力されてるらしいです(「海馬から大脳皮質への記憶の転送の新しい仕組みの発見」(理化学研究所の2017年の報告))。そう言われても「ほお」と言うしかないんですけど(笑)。

 海馬の短時間記憶→大脳の長時間記憶に移動(転写)される際、記憶の記述形式そのものが変わるのか、ちょっと感じが違うようです。遠足に行った直後の短時間記憶は、「楽し〜!」という具体的で生き生きした感情と一体化して、かなりリアルに再現できるけど、大脳にいくと「遠足に行って楽しかったです」という夏休みの絵日記みたいな記載になってリアルな感情が抜け落ちる。「楽しかった」という記述はされるけど、その楽しさの(言葉にできない)直接的でナマの感覚は消えてしまうみたい。なんで消えるのか、扁桃体から離れて連結が薄まるからか、そもそも長時間記憶というのはそういう記憶形式なのか、そこまでは一夜漬けではわからんかった。

 ともあれ、短期記憶が長期記憶になる時点で、ナマの感情は消えるか漂白される。100%消えることはないけど、リアリティはだいぶ薄まってしまうみたいです。これも、経験的によくわかる話です。「マイナスの感動」=辛い記憶なんかもそうですが、失恋や誰かを亡くしたときとかは「日にち薬」といって、時が経てば辛い気持ちも薄らいでいくよと。確かにそうです。プラスの感動も同じように薄まってしまう。なんであんなにうれしかったのか、だんだんピンとこなくなってくる。

 これがトラウマ克服、辛い記憶を浄化させていく大きな流れになるのでしょう。出来事自体は記述的に覚えているけど、それに伴うナマの感情は漂白されていく。

言語化すると良いのか?

 次に、なぜ言語化すると感情の希薄化を促進するのか?という問題があります。

 結論的にいうと、あれこれ調べたけど正直ようわからんかったです。経験的にはYESなんですけど、改まって論文とか所見になってくると意外とないなーと。

 ニアリーなのが認知行動療法と呼ばれるカウンセリング手法で、僕なりに勝手に言い換えれば、「情報(再)整理」になるでしょうか。PTSDなど辛い感情記憶がなかなか消えずに、なんかの拍子に飛び出してパニックになるような場合、さきほどの海馬と扁桃体、そして扁桃体の機能を抑制する前頭前皮質それぞれがギクシャクしちゃって、うまく働いていない。本来長時間記憶に移行し、生々しい感情記憶も漂白されなきゃいけないのに、なかなかそうならない。

 そこで、自分で、あの出来事はなんだったの?何が起きてどうなったの?という事の流れを再認識して、本来の正しい手順通りに記憶の長期保存処理(感情記憶の希薄化)をするってやり方なのかなーって気がします。この漫画で言ってるのもそういうことでしょう。

 まあ、ここ調べだしたら迷宮すぎるんですよね。カウンセリングでも、曝露療法やら、系統的脱感作やら、ストレス免疫訓練やら、眼球運動による脱感作と再処理法(EMDR)やらぞろぞろ出てきます。専門知識も臨床経験も豊富な現場の先生方が一生懸命あの手この手頑張っているので、それは膨らんでいくでしょうし、パッと見でわかるようなものでもないでしょう。

 「言語化作業」に関する所見はネットにあれこれあるんだけど、今度は、言語化作業とそれが海馬や扁桃体の働きとどういう関係に立つのかという大脳生理学的な見解が見当たらない。あるんだろうけど見つからなかった。ここまでは大脳生理学で、ここからは臨床心理学でって感じで、なかなかトータルで書かれているのが少ない。専門家になると専門外の領域に関して迂闊になんか言うわけにもいかんのかもしれませんが。


言語化=主観と客観の水平化

 ということで、ちらと調べた範囲では以上のとおりで、以下は素人の経験と推測話でいきます。

 言語化すると楽になるか?といえば、多くの場合はそうでしょうが、しかし、それは結果的にそうなるに過ぎず、「言語化」の本来の作用は、主観と客観の整合だと思います。

 客観的には大したことが起きたわけではないけど、当事者として受けた感情の波があまりにも激しくて、感情に振り回されている場合、それを本来の「別にそう大した話でもないよ」ってレベルに持っていく=主観と客観を整合させるために、言語化作業が有効だと。

 なぜ言語化が有効なのかといえば、言語というのは第三者に説明するためのものだからです。言語化=第三者にわかるように言い直すから、そこに客観的な視点が入り、客観的に通用するように自分の記憶を再構成するからでしょう。

 なんで再構成するの?といえば、人間というのは基本「ええカッコしい」だからでしょうね(笑)。

 ひとりよがりの悲劇のヒロインぶりっこ、被害者意識満載って、自分でもカッコ悪いなって思うから、やっぱ他人に言うときは、それなりに修正しますよね。そりゃ感情が激しているときは、「憤懣をぶちまける!」って感じでドドド!とまくし立てたりするけど、それも収まってきたら、ちょっと大人げなかったな、カッコ悪いなって意識も働きます。もう少し論理的に筋の通った主張にしないと誰も聞いてくれないな、ドン引きされるなって思う。そこで、時系列にそって事柄を整理したり、そのときの出来事がどれだけ理不尽かのデテールを述べるなど、誰が聴いても「そうだよな」って同意してもらうように情報を再構成します。一種の優秀なプレゼンをやろうとする。

 これは離婚調停なんかもそうですよ。ナマの現場では当事者(夫婦)同士つかみ合いの喧嘩をして、場合によっては包丁が乱れ飛んだりするわけですが、いざ家庭裁判所の別室で、社会的に名士でもある紳士淑女(調停委員)二人の前に面接のように接したら、「わ、私はですね、な、なにも法外なことを申しているのではなく」とかいい子になりますよね。そして調停委員や家事審判官(裁判官)が、柔和な笑みとともに冷静&理知的な声で、「では、奥様のその心ない一言によって、貴方はついつい感情が高ぶってしまった、、ということですね?」とか聞かれたら、「そ、そ、そうです」とか言うものです。あなただってそうだよ。

 これは、かなり強力な情報再整理になると思いますし、それをやっていく過程で、海馬やら扁桃体やらの機能が平常に戻っていくのでしょう。何をあの程度のことで取り乱してたんだって、冷静になっていく。

 また、そういう形で記憶を客観記述させると、長期記憶に保存しやすくなるのかもしれません。そしてあっち(長期記憶)にいってくれたら、辛くて生々しい感情記憶はロンダリングされるから、あんまり辛くなくなっていくと。

 多分そうじゃないかなーと思うのだけど、もしそうなら、いくつかポイントがあります。

客観=観客

 第一に、言語化すればいいってもんじゃなくて、第三者を想定して説明するという形でないと意味がない点。その意味で、誰が読むかわからない自分のブログやHPは最適だと思います。誰が読んでもわかるように書かなきゃいけないんだしね。皆はどう理解してくれるかな?という客観視点がバリバリはいってきます。

 「客観」って、逆さにしたら「観客」ですからね。オーディエンスを意識しなきゃ客観は芽生えない。

 また「説明」「説得」というポイントもあります。ただの詩歌のように感情の吐露だけだったら、主観バリバリで突っ走っていけるから、あんま効果ない。むしろ逆効果かもしれない。「言語化しましょう」といっても、ノートに「死ね、死ね、死ね」と千回書いて「言語化」したら良いのか、それで事態は改善されるのか?といえば、そうも思いにくい。

客観によって救われる

 第二に「楽になる」かどうかは結果であって、楽になるのは「客観に比べて主観が辛い場合」でしょう。客観俯瞰視することで、「あれ?それだけのことか」って思えたら、心は楽になりますよ。新入社員で失敗つづきで説教食らって、もう終わりだ、人生詰んだとか暗くなってても、「新米がドジこいただけだろ?」「失敗しない新人なんかいねーよ、いたら気持ち悪いわ」とか、要するにそれだけのことだろ?って思えたら楽になる。

 大体、そういうのは先輩や年長者が言ってくれるんですけどね。退社後に一杯奢ってもらうと、そのへんの「客観化慰め」を言ってくれる、食費も浮くし心も楽になるし二重にお得。いわゆるノミニケーションってのはそーゆーことでしょう。うざい説教ばっかでもない(人によるけど)。僕も新人弁護士のときは職場の先輩に助けられました。「えらいしんどそうな事件やってんなあ」「ああ、そこはええ加減でええんやて。どうせ誰も真剣に読まんしな」「そ、そうなんですか?」って。ワーク・ライフ・バランスで致命的に重要な技術である「手の抜き方」というのは、だいたいオフレコのアフターで語られるもんです。

 話は言語化からちょっと外れているんだけど、根っこは一緒です。

 客観に救われろってことです。

 だいたい、皆さんどっかしらナル入ってますし、それは悪いことではないんだけど、主観はときとして暴走しますからねー。必要以上に悲痛感情を抱えてしんどい思いをする。いやまあ、主観が大暴走するくらいでないと恋愛や結婚はできないのだけど、いつもいつも暴走してたらしんどいでしょう?

 炎症おこして熱をもってる主観に対して、消炎湿布のようにピタっと当ててクールに鎮めてくれるのが「客観」です。そんなさー、大事件なんか滅多に起きないっすよ。そりゃ冤罪で捕まって30年再審請求したけど結局ダメで死刑になっちゃいましたとかいったら可哀想だけど、大体が、傍から見てたら「ちょっとフラれただけだろ?」「ケータイ落としただけだろ?」って。そんな話、別に珍しくないね、誰でもそうだよね、ありきたりな平和な話だよねって。

 これは逆も言えます。あまりにも罪悪感のない犯罪者なんかの場合、車で人を轢き殺しておきながら「ちょっとよそ見してただけじゃないですか」「別にそんな悪いことしてないよ」って人、あるいはボコボコに殴っておきながら「スキンシップですよ」とかうそぶいてる奴には、刑事さんなんかがやる手ですけど、事故の現場写真、それも被害者の無残な姿の写真とか(絶対ネットに乗らないような=司法関係の仕事についたら見れるよ=見ないほうがいいと思うけど)、見せて、自分のやったことをよく考えてみろと。これは客観によって打ちのめされろって意味になりますから、真逆になります。しかし、そこまで全開で自己中でやってられる人は、最初っから悩みませんから、多くの場合は、言語化した方が救われます。

感情ロンダリングのよしあし 

日常的なテクニック

 この記憶のメカニズムは、なるほど合理的だと思います。長時間記憶に移行する時点で、ナマの感情記憶が希釈化されるというのも、そりゃそうだろって。なぜなら、生まれてこの方生じた喜怒哀楽が永遠に生々しく残ってたら発狂しちゃいますよ。過去の黒記憶(教室でオシッコ漏らしたとか、大恥かいたとか、ひどい目にあったとか)が全部生々しく残って、同時にバラ色記憶も同じ強さで残ってたら、泣いたらいいんか、笑ったらいいんか、もう爆発してしまうでしょう。なので感情記憶は時とともに減衰していくほうが好ましい。そうでないと人は生きていけないでしょう。

 海馬(短時間記憶)と扁桃体(感情)と長期記憶の関係は、勉強や記憶術なんかで沢山書かれていますし、ご存知の方も多いでしょう。短時間記憶そのものは数秒から数日くらいで消滅しますし、事柄の重要度の判断で保持時間や長期記憶へいったりします。長期記憶に行きやすいように仕向けるのが、いわゆるお勉強の「記憶術」でだいたい受験中に皆さん法則性に気づいたり、開発したりして上手になります。反復すると良いとか、忘却曲線とか、感情が伴うと長期保存しやすいとか。このあたりは英語学習法などでさんざん語りましたし、今回はテーマが違うのでカットします。

「気持の切り替え」の本質

 お勉強系は「覚えたくても覚えられない(英単語とか)」悩みですが、本当に辛いのは「忘れたくたくても忘れられない」ことでしょう。この場合、イヤな記憶を、短時間記憶のバッファから蹴り出してしまえばいいから、どんどん動いて新しい記憶を量産すればベルトコンベアみたいに自動的に消えていくなどのテクニックはあります(落ち込んでるときこそ忙しく動けの法則)。

 よくないのは、何度も同じことをなぞって反復するから記憶が強化されちゃって中々忘れられない場合ですね。「くよくよ」悩んでるからイヤな黒記憶がいっそう強化されてしまう。またウジウジやってる分、海馬のCPUが圧迫されるから、通常業務にも支障が出て、大きなミスをやってしまう(事故とか)。

 ということで、ネガ気分にとらわれたくなければ、とっとと客観記述して長期記憶に放り投げておくように勤めればいいってことになります。「気持の切り替えが早い人」というのは、多分それが上手なのだと思う。「例によって馬鹿な自分が、また馬鹿なことをやらかしましたー!」「まあ、いつものことだけどね」「よし、次頑張りまーす!」ってさらさらっと記述してポンと大脳に送ってしまう。はい、一件終了〜って。

 これは、自分を客観視出来るようになればなるほど、肥大化してる自意識主観をスリム化するほど、その作業は楽になります。

年取ると強化される鈍感力=ええカッこしいが減る

 余談ながら、これは年を取れば大体楽になります。若い頃は、客観情報が少なすぎるから、どうしても主観過多です。自分の容貌とか能力とかに思い悩む度合いが激しい。でも段々外が見えてくるに従って、99.9%の人間がそうであるように「まあ、可もなく不可もなく、多少の凸凹はあるけど、いたって凡庸な人間だよね、自分は」ってのが見えてくる。「カッコ悪くてもしょうがねえじゃん」くらいにも思えてくる。傷つきやすかった自意識にも段々薄皮がはり、次第に甲殻類のように固くなってくる。

 これはこれで社会的に問題がないわけでもなく、いわゆる「ドあつかましいおばはん」「デリカシーのないおやじ」が量産されたりするわけですな。その行き過ぎは問題かもしれないけど、そのくらい年取ると「鈍感力」が強化される。またそこが強化されないとやってらんないですよー。なんせ年とともに容貌肢体は劣化します。はっきりいって醜悪になります(笑)。未来可能性もどんどん減ってきます(僕に言わせれば本当は増えてるんだけど、そうは中々思えない)。かくして恐るべき中高年地帯にナルシズム満載で突っ込んでいったらもう死ぬしかないみたいな(笑)。そこをいけしゃあしゃあと生き延びるためには、ある程度「傷つきにくく」なるしかない。

 でも本当の問題は、そこで自意識(ええカッこしいのスケべ根性)を減殺するだけではなく、社会の是非善悪感覚や新鮮な感動すらも摩耗・劣化させるかどうかだと思います。そっちを殺したらダメなんですよね。それこそ「堕落」だし、人を騙して傷つけても屁とも思わない「腐った大人」になるだけです。これって多分、自意識を適正レベルに落せなかったから、帳尻を合わせるために世界を引きずり下ろしたんだと思う。自分は悪くないってプライドはお高いまんま、でも目の前のしょぼすぎる現実と釣り合いが取れないから、世界がそれだけ理不尽なのだと強弁するという(け、世間なんかこんなもんよ、綺麗事なんか通用しないよって)。

 その意味でも、ええカッこしい根性だけなら、早めに殺しておいた方があとが楽です。40になる前にやっておくべしです。これは雑魚キャラ天国で書いたから繰り返しません。


一番の問題〜楽しいナマ感情を忘れること

 最後に一番問題だなーって思ったことを書きます。マイナスの辛い感情記憶が昇華されていくのはいいんだけど、プラスの楽しい感情記憶も風化してしまうことです。

 意外と語られないけど、こっちの方が実ははるかに重要なのではないか。
 ネガ記憶の対処法は、深刻な鬱状態とかでなければ、年と経験と共に上手になるでしょう。しんどいから対処しなきゃとも思うし、対処もするでしょう。しかし、特にしんどくないから放置されてしまうのは「楽しい記憶の空洞化」です。

 かつて楽しくて夢中になっていたあれこれ、スポーツであったり、海や山の快感であったり、音楽や読書であったり、飲み会やら人とのつながりやら、、、「楽しかった」というのは覚えているけど、そのときのリアルな感情の高揚や、その触感みたいなものは消えてしまう。それが問題だと。

 何が問題か?というと、モチベーションが消える、人生の意味が薄らぐからです。人間なんか他愛のないもので、楽しい!ってナマの感情がリアルなときは、ほんと何でもやります。寒い夜の路上を徹夜してまでチケット買ったりもするし、駅のホームで何時間でも恋人を待ったりもできる。人の支配するのはポジであれネガであれ生々しい感情記憶であり、その強弱によって実際の動き方が決まるし、また日々の幸福感もまた決まってくる。

 PTSDのように過去のネガ感情記憶がいつまでも消えない場合もあるなら、ポジ記憶が消えない場合もあるはずです。実際にある。でも、消えないポジ記憶というのは、実はあまり良くない場合が多い。常習犯です。麻薬にせよ、万引き、放火は常習化すると言われてますが、それはその際のスリリングな快感が強烈過ぎて忘れられなくなるからと言われます。快楽水路がバーンと出来ちゃって、どうしようもなくなる。中毒になる。

 でも僕らが生きがいに思うような、気持のいい自然やら、友と語らうなごやかな雰囲気やら、おお!とクる音楽的快感やら、そういった快楽というのは、麻薬や犯罪に比べれば穏やかなものですから、そこまでの中毒性はない。だから普通の感情記憶として風化していってしまう。

 でも、これを風化させていったら、ほんと生きててつまんなくなりますよ。なんか全然楽しくないなー、つまんないなーって。

 それって、つまんないんじゃなくて、楽しいことを忘れてるだけだと。だから忘れるな、思い出せ、記憶を絶えず賦活させないとあかんのじゃないかと思います。

 大体、つまんねーなーとか思いながら、不承不承やり始めても(無理やりカラオケに連れていかれたり)、いざやり始めたら昔味わった楽しさが蘇ってくることってあるでしょう?去年も、過去にWHでオーストラリアに来た何人かが、聖地巡礼のようにあの頃の感覚を取り戻すために再度観光で渡豪されましたが、やっぱり賦活するものはあったと。「おう、これだよ、これ!」って、なんで忘れてたかなあって。

 こんな経験、沢山あると思います。「やっぱ、いいよなー!」って再発見することってあるでしょう?でもここで「やっぱり」とか言ってるくらいなんだから、それまでは忘れてたんですよ。気乗りしなくても、もう一回やってみて、改めてその良さ、楽しさ、幸せ感を確認すること。

 私見ではありますが、20歳までに得てきたこれらの快感(人、趣味、身体快感など)だけで、人生百年くらい優に遊べると思いますよ。別に新たに追い求めなくても、ストックだけで十分。どうかしたら300年くらいいけちゃうんじゃない?だってさ、どんなに生きても、どんな億万長者になっても、何やって快感幸福を得てるの?っていえば、ティーン・エイジャーまでに得てきた快楽のパターンから出てないもん。エラくなって銅像立てたいとかいうのもクラスでチヤホヤされたい自己承認欲求の延長だし、探検家だって、小学生のときチャリを飛ばして隣町までドキドキしながらいってたことの延長だし、だいたいもう知ってるよ。で、それらって別に金持ちじゃなくても、エラくなくても実現可能です。だって「総資本=お小遣い」だった子供の頃に出来てたんだから、特に何もいらない。


 記憶というのは、あればあったで面倒くさいんですが(黒記憶)、無ければ無いでまた問題です(試験に落ちるしね)。今現在、特になにかのトラウマに異常なまでに悩まされているとかでなければ(小さなトラウマはあって当然)、むしろ日常的に気をつけるべきは、楽しい感情記憶が風化してしまうのを防ぐこと、また風化してる楽しい感情を折に触れて賦活させることじゃないかと思います。




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 文責:田村

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