ここのところ根を詰めての歴史系が続きましたので、今回はまたちょっと息抜きをします。
最近、思いも掛けず大学時代の友人からメールをもらいました。彼とはもう20年ほど会ってないので、非常に懐かしかったです。メールを読み、返事を書きながら気づいたのですが、かなり昔のことなんだけど、結構芋づる式に「ああ、こういうことがあったな」とリアルに思い出せるのですね。”昨日のことのように”という表現がありますが、まあ、昨日とは言わないまでも一ヶ月前くらいの鮮度で思い出せるのにビックリしました。
もちろん忘れていることも沢山あるでしょうし、思い出せるのはほんの氷山の一角のことに過ぎないのでしょうが、「それにしてもね」と思ったのはその鮮明度です。TVの回想シーンのように画面の周囲がボヤヤンとボケたような感じで思い出すのではなく、これがかなりクリア。そしてまた画像だけではなく、”空気”や”触感””音”などもリアルに思い出せたりするのですよ。大学時代を過ごした京都の長い坂を、自転車こぎながら上っていったときのお尻のサドルの感覚や、髪や頬を過ぎていく風の感覚。そのときの”しんどさ”。大衆食堂でコロッケ定食が出てくるのを、テーブルに頬杖をついてTVを眺めているときのうらびれた臨場感、休暇に入り森閑とした大学構内の廊下を歩く自分の靴の音、、、などなど。もう幾らでもリアルに思い出せる。
何を今更驚いているんだ?って気もするのですが、昔よりも今の方がリアルに思い出せるような気がするのですよ。ヘンでしょう?普通、記憶というのは時間が経つほど風化していくものなのに、時間が経つ方が鮮明になるというのはおかしいんじゃないかと。また昔には思い出せなかったことも、今なら思い出せるという事柄もある。なんなんだろう、この現象。あるいは単なる気のせいなのか。
人間の脳みその記憶のシステムってどうなってんだろう?と、ふと興味をもってパララとネットで見ましたが、1分で挫折しました。難しすぎる。というか、人間の「最後の迷宮」といわれる脳だけあって、よく分からないみたいですね。以前、
ESSAY 319/『脳はなにかと言い訳をする』のご紹介で、池谷裕二さんが書かれた大脳生理学の面白い本をご紹介しましたが、脳の働きというのは今もって全然分かっておらず、刻々と今までの常識を覆す新事実が分かっているというエキサイティングな領域のようです。
記憶についてちらっと見たのですが、記憶の種類だけであるわあるわ、やれ短期記憶、中期記憶、作動記憶、長期記憶、陳述記憶、宣言的記憶、意味記憶、手続き記憶、自伝的記憶、エピソード記憶、、、、「だー!」って気になります。それも確固たる定説としてあるのではなく、いろいろな学者さんがいろいろな指摘をしているという感じ。こりゃ、「記憶というのはこういうもの」とポンと理解するのは無理です。だからこそ、面白いのでしょうが。
とはいいつつ、このエピソード記憶ってなんだ?ってチラチラ見ていくと、要するに過去の出来事の記憶です。今僕が書いているような大学時代の思い出とかそういった記憶。それ以外の種類の記憶ってどんなんだ?というと、「”迷惑”という言葉はこういう意味」とか、「タラコというのはこういうもの」「オーストラリアは世界のこのあたりにある」など言葉の意味や森羅万象について意味記憶や、自動車の運転の仕方やピアノ演奏などの技術や方法=いわゆる「体で覚える」記憶=手続き記憶なんてのがあるそうです。なるほど、そう言われれば記憶もいろいろな種類がありますね。
記憶と年齢の関係についてみていくと、エピソード記憶はもっぱら海馬という部分に関係があるらしく、また若い人は海馬の左側しか活性化しないのに対し、年を取ると左右両方の海馬が活性化するという報告例があるそうです(
Aging affects the engagement of the hippocampus during autobiographical memory retrieval.)。「ほう」とは思ったものの、” while left hippocampal activation was apparent in the young, bilateral hippocampal activation was evident in older adults and direct comparison between the groups confirmed significantly greater right hippocampal activation in older adults.”ということで、エピソード(自伝的)記憶(autobiographical memory)を思い出す場合、年をとっていると右の海馬も活発に使うというだけの話で、右の海馬と左の海馬で何がどう違うのかは書かれていません。
また、「
加齢にともなう記憶の変化」 ファーガス・I・M・クレイク著・山口快生翻訳・解説によると、「年を取ると記憶力が落ちる」とは一概に言えないことが示されています。総じて言えば、加齢によって低下するのは「新たに記憶する力」であり、過去の記憶を保持しておくことや、過去の記憶の意味を精錬させていく力はそれほど落ちないようです。上のリンクのページの図を見ていると、1分だけ覚えておくような短時間記憶・直後記憶の加齢低下率はゆるやかですが、ここ数日の出来事という近時記憶は55歳以降目立って下がっていきます。一方、数年から数十年昔の記憶・遠隔記憶は殆ど加齢差がなく、どうかすると40代50代が最強だったりします。同じく言葉の意味や常識知識という意味記憶は60代まで微増し続けます。ところが、将来の予定を覚えるという展望記憶になると加齢によってガクンと下げるようです。さらに
同文献2ページ目には、もっと細かな考察が書かれています。なかなか専門的過ぎて理解しにくいのですが、記憶というものが一筋縄ではいかないことがよく分かります。
僕なりの素人考えで思うのは、よく「最近モノ忘れが激しくて、、」というのは、おそらくは近過去の近時記憶と近未来の展望記憶の低下でしょう。いくらモノ忘れが激しくても、自転車の乗り方などという手続き記憶・潜在記憶は忘れませんし、「甘納豆とは何か」「あいうえお50音の順番」という意味記憶も、1年以上覚えている遠隔記憶も低下しにくい。しかし、新たに生じたイベントの記憶、新規のエピソード記憶は落ちるから数日前の出来事や約束をコロッと忘れる。
一方、数十年も記憶という情報処理をやってきただけあって情報処理のテクニックは上達するのでしょうか、単なるイベントの記憶に何らかの意味性を見いだして意味記憶の領域にもっていって保持したり、手続き記憶として保存したりすることもある。単なるナマの事実としては忘れがちだけど、そこに意味性を付与したり、符号化したり、スキルや技術という形に変えて記憶を保つという。例えばA地点から車を運転してB地点に行った場合、単に行ってきたというイベントの記憶としてはすぐに忘れるけど、「B地点までの道順」というスキルや「B地点周辺の道路事情」という意味性を付与するとわりとよく覚えているということでしょう。
ということは、意味を付与しなかったり、スキルに昇格しえなかったナマの事実はスコーンと抜け落ちるということでもあります。たとえば出典健忘というのがあるらしく、ある物事や概念は覚えているのだけど、それを何処で記憶したのかは忘れてしまうというものです。上記の道順の例でいえば、滅多に走らないエリアでも実際に車を走らせると何となく道を知っている。「ああ、あそこの交差点を左折すれば○○につながる」とかいうことは妙に知ってるのだけど、いったいそんなことを何時どうやって覚えたのか?となるとさっぱり思い出せない。同じように、ある人の顔はよく知ってるのだけど、何処で会ったどこの人なのかは思い出せない。確かにこういうことってよくありますよね。
意味性を付与するという情報処理をして記憶保存を図ろうという作用が裏目に出た場合、過剰な意味性を付与してしまう危険性もあります。つまり「思いこみ」「早とちり」が激しくなってしまうという危険です。これはコワイですよね。あと、新たな記憶能力が低下するのも、そもそも情報の入手プロセスがヘタってくるからという原因もあるそうです。一つは単純な知覚の鈍化。視力や聴力の低下によりインプット情報そのものが劣化するから覚えにくいという点。もう一つは心理的なもので、興味がない&注意力が散漫だから覚えられないということです。確かに子供の頃の”大事件”も、年を取ってくれば些細な日常風景になったりするから記憶に残りにくいです。同じように鬱病になると外界への興味関心や注意が低下するから記憶障害が起こるとも言われているようです。
また遠い過去の記憶、たとえば30年前の記憶を生き生きと思い出せるのも、別に30年ぶりに思い出しているというよりは、これまで折にふれて思い出し、再生・再保存を繰り返しているからだという見方もあるそうです。30年前の記憶でも、昨日思い出したならそれは昨日の記憶だと言えなくもないと。そして、過去に何度も何度も再生し、その都度微妙に意味性を付与しているうちに単なる過去の記憶(遠隔記憶)から物語の記憶という意味記憶に変質してる場合もあるでしょう。物語の記憶というのは「シンデレラの話」「浦島太郎のストーリー」のように一般知識としての物語です。頻繁な再生再保存と、度重なる意味性の付与によって、記憶の内容が変わってしまうこともあります。
なるほど、記憶というのは面白いものです。お勉強になりました。
しかし、いろいろ理屈が分かったからといって、この遠隔記憶(遠い昔の記憶)のリアルな臨場感が消えて無くなるわけでもないです。まあ、このリアルな臨場感とやらも、最近の記憶がボケてきてるから、相対的に昔の記憶が輝いて感じられるだけだよって見方もありますが、でも、それだけではないような気もします。過去に何度も再生&再保存してるからフレッシュなのだという理屈も分かるし、実際そのとおりのケースもありますが、正味の話30年ぶりに思い出したという事柄もあるわけです(まあ、過去に思い出したこと自体を忘れているのかもしれないけど)。
でも、まあ、そのあたりの学術的な考察はこの際置いておいて、とりあえず遠い昔のことをよく思い出せるようになった”気がする”という目の前の現象があるわけで、今はそれを単純に面白がりたいという気分もあります。
気楽に面白がりつつふと連想したのは、アメリカあたりによくある情報公開規定です。政府が持っている情報は、どんなものでも30年など一定期間を経過したら公開しなければならないアレです。記憶も同じように一定期間が経過したら、”思い出して良し”という封印が解けるのかもしれませんね。一種の時効のようなものです。なんでこんなケッタイなことを思いついたかというと、記憶というのは愉しく美しい記憶ばかりではなく、逆に辛くて苦い記憶もあるからです。むしろそっちの方が多いかもしれない。比較的近時の記憶=”近時”といっても5年とか10年モノの記憶も軽く含まれると思いますが、まだ生々しいし、現在の状況にも関連するものがあります。だから思い出すと苦みがあったり、辛かったりする。ところが時が経過していくつれ、こういった毒性が薄められ、また現在の環境もすっかり変わっていたりするので、無害な記憶として封印が解けるのではないかと。
この仮説(というほど大したものではないが)は、何となく「そうかもね」という主観的な手応えのようなものがあります。イヤな記憶も時が経つにつれて解毒されていくのは、ある程度実感としてわかります。挫折、不遇、鬱屈、屈辱、自己嫌悪、悲嘆、、思い出すだに苦いモノがこみ上げてくるような記憶も山ほどあり、しばらくの間は思い出したくもない、考えたくもない、ベタベタに封印したい。もう放射性廃棄物のように、コンクリ詰めにしてマリアナ海溝にでも捨てちゃいたい。なにかの拍子に思い出してしまったりしたら、おもわず「ああ、、、」と嘆息が漏れたり、唇の端をぎゅっと噛んだり。でも、いつしか「ふっ、あの頃はバカだったよなあ」と「ふっ」と唇の端がほころんだりするようになるのですね。そういうことってありませんか?
この「解毒」作用ですが、実際にはいろいろな要素がミックスされているのでしょうね。あまりにも遠い過去のエピソードなので、現在の自我を揺すぶる危険性がなくなったという放射能半減期みたいな事情があるのかもしれません。かつて異性に手ひどくフラレた苦い記憶も、結婚生活十数年を経て、それなりに幸福な家庭を築いた今となれば、「若気の至り」の微笑ましいエピソードに過ぎません。しかし、今もなおフラれ街道驀進中だったら、「もう一生ダメかもしれない」という暗い予感を助長させる悪材料になりますから、思い出したくもないという。
あと、記憶にはそれに伴う感情が固く結ばれており、イヤな記憶には不愉快な感情がリンクされています。しかし、このリンクが時とともに緩んでくるのかもしれません。あるいは感情というのは意外と持続性に欠けるので、時とともにだんだんと感情が漂白されていくのかもしれません。さらに何度も思い出したり、意味づけをしたり、物語化していく過程で、自分で勝手に修正していっているのかもしれません。都合の悪い部分はチョッキンとカットして、麗しく編集するという。
いずれにせよ以前よりも遠い過去を思い出せるようになり、且つ不愉快な感情が希釈されているということは、昔のことを思い出すのが愉しくなります。もうその気になったら何時間でも遊んでられそうなくらい。
ただ、この思い出し遊びは、どこかしら不穏な陰りがあります。それに浸るのを本能的に押しとどめるものがある。もっと言うと、どこかで「死」につながってるようなヤバさを感じるのです。だから、今はあんまりやらんとこ、って。
いきなり死とかいうと驚かれるでしょうが、こういうことです。若い頃は死といっても、「この世の終わり」みたいなもので、あるんだろうけどあんまり現実味がない。遠い将来に起こるといわれているカタストロフィであり、日常的な感覚ではない。富士山は休火山だからいずれはまた爆発するんだろうけど、さしあたっての緊迫感はないって感じ。しかし、自分がだんだん年を取ってきて40代を過ぎ、50代に近づくにつれ、死というのはそーんなに先の話でもなくなってくるのですね。今日明日の話ではないにせよ、そう遠くない将来に確実に生じる出来事です。
ああ、この感覚は世界の石油資源の枯渇に似てるかもしれない。20年前くらいにも世界の石油が枯渇するとか、化石燃料の有限性とか盛んに議論されていましたし、皆も知っていたけど、確実にそうなるだろうなとは思いつつも、富士山噴火みたいに結構「先の話」でありました。しかし、昨今の原油高騰が長いこと続き、この先も下がる見込みもなく、また中国がインド、ブラジルがガンガン消費するなか新油田発見が追いつかなくなってきているという情勢においては、石油の枯渇というのはそうそう遠い将来の話ではなくなってます。今日明日どうにかなる話ではないにせよ、かなり近づいてきたなと感じざるを得ない。この感覚がちょっと似てるような気もします。
それと記憶とどういう関係があるのかというと、死が近づいてくると否が応でもレトロスペクティブ(retrospective、回顧的、後ろ向き)になるということです。前向きなことをプロスペクティブ(prospective)、プロが前でレトロが後ろね。段々分かってきたのですが、30代後半になり人生の折り返し地点を越え、さらにズンズン進んでいくと、「前向きに生きる」ということは「死を直視する」ということになってくるのですね。といっても四六時中死のことばかり考えてるわけではありませんよ。実際問題としては滅多に考えないです。ただ、「目に入ってきてしまう」って感じ。ゴールまで近づいてきているのだから、当然といえば当然ですよ。前向きであればあるほど真面目に考えちゃいます。
この調子でどんどん進み、ゴール直前になってきたら、もう前を向いても死しか見えなくなってくるでしょう。だから「前向きに」という言葉が脳天気に建設的な意味を持つのは若いうちだけなんだわ。無限に時があるように感じられるうちでしょう。しかし、年齢というのは、多くの人の場合、本人が思ってるよりも遙かに速やかに加算されていく。「え、え、、、」とかいってるうちに、気がついたら「げ、もう○○歳?嘘!」てなもんでしょう。で、気づく。こりゃあ思ってたほど時間が有り余ってるわけではないぞよ、と。否応なく時間感覚に修正を施し、同時に終端も意識せざるを得ないと。そうこうしているうちに、周囲の親しい知人が一人ふたり鬼籍に入ったりして、ますます他人事ではなくなっていきます。
これは別に嘆くことでも、悲しいことでもないと思います。正しく現在位置を把握しようという健全なナビ感覚だと思いますから。何をどう言おうが、以前に比べて死が近づいてきているのは客観的事実なのですから、事実を事実として認識するのは悪いことではないです。
そこで、年を取りプロ(前)の資源が減少していけば、相対的にレトロ(後ろ)の比重が高まっていくのだ、そして記憶とはまさにレトロの集積であるから、以前よりも過去の記憶が息を吹き返してくるのだ、、と考えるのは飛躍のしすぎでしょうか。うん、まあ、確かに飛躍してるんだけどさ。何の証拠もないしね。でも、そうとでも考えないと、遠い記憶のこのリアルな臨場感の説明がつかないんだわ。何のためにこんな現象が起きるのかって。
ところで、ずっと前に(もう11年前だ)
「老後を制するものは天下を制する」というエッセイを書いたけど、世間では「老後」はよく考えろと言うくせに「死」はあまり考えませんよね。僕なんか天の邪鬼だから、老後なんかどうでもいいから死をもっとちゃんと考えた方がいいようにも思います。だんだんゴール(死)までの距離が短くなってくると、老後というのは端切れ時間の有効利用というか、旅行の最終日、帰路便の出発時刻まであと3時間あるからちょっと○○でも見物に行こうか?程度の感覚になっていくのではないでしょうか。死ぬまでにもうちょっと時間があるみたいだから、○○でもやってみようかね、という。
豊かな老後を過ごすためには約1億円の余裕が必要ですとかどっかに書いてあるのをみてひっくり返ったことがありますが、それって多くの人を絶望に突き落としますよね。特に労働人口の4人に一人が年収200万のワーキングプアとかいってる昨今、アパートを借りる敷金すら貯めるのが難しい人が多い現在、なにが1億じゃいって気もします。それに、これは持論でもあるのですが、コンスタントに平均寿命が延びてどうかしたら100歳まで生きてしまいかねない近未来において、いわゆる老後が30年も40年もあったら間が持たないし、資金も持たないでしょう。だからそれはもはや「老後」ではないですよ。「全てが一段落してやれやれ」というものではなく、全然一段落しないであれこれマネージメントし続けろってことだと思います。
もっと死を直視した方がいいと思うのは、結局誰だって最後には死んじゃうわけでしょ。誰もがそうなるのだから、それは不幸でも不吉なことでもないです。不幸だったり不吉だったりするのは、不本意に死ぬという死に方の問題であって、死そのものではない。「不本意」というのは単に期間的なものだけではなく、下らないトバッチリで死にたくはないという原因的なものも含まれるし、いかに生存期間が短く20歳くらいで死んでしまったとしても、それが「武士の本懐」「本望じゃ」という死に方はあるでしょう。「どうやって死にたいか」を考えることは、死にいたるまでの段取りを考えることでもあり、それはすなわち「どうやって生きるか」を考えることでもあります。沢山の子供や孫達に囲まれて往生したいと思うならば、早いところ子作りに励まねばって指針も出てくるでしょうし、暖かい家庭を作ろうという人生の目的らしきものも見えてくるでしょう。
また、最後にはどうせ死んじゃうんでしょと思えば価値観も変わってくるでしょう。死という最終地点から見て、意味のあることと無いことが見えてもくるでしょう。死ぬ間際に、「くそう、○○だけはやっておくべきだった」と思うようなことはやっておくべきだし、「○○だけが自分の人生の汚点だ」と悔やむようなことは極力やらないようにすると。今の時点ではとてつもなく重要な事柄のように見えつつも、いざ死というファクターを通して見たら、別にぜーんぜん大したことない事だったりするのですよ。
今あなたがこれを読んでいるときに、コンコンとドアがノックされ、「おじゃましまーす」と死神が入ってきて、「あのさー、いきなりで悪いんだけど、今日で終わりなんだわ」と告げられたとして、あなたが自分の人生を振り返って、「まあ、いい人生だったかな」と思えるとしたら、それはどういう観点でそう思うのでしょう。僕が自分を振り返って思うのは、受験で合格したとか、何かに成功したとかいう事は案外大したことじゃないのですね。それって生きてる間のマネージメントをするのに有利だからという、一種の手段的価値や方便でしかなく、本質的な価値はそんなに無い。それよりも恋愛沙汰でジタバタ見苦しくもがいていたようなこととか、多少ムチャ気味でも好き勝手やったようなことが大きな価値を持ちます。世間的には「ろくでもないこと」なのかもしれないけど、そーゆー事をしたからこそ、”this is my life"と呼ぶことが出来るという。
縁側の日だまり、柔らかな陽射しに包まれて、日がな一日老人がうつらうつら半眠半覚で座っています。隣には老描がこれ又日がな一日うつらつらしています。平和な風景です。若い頃はこれが不思議で、本も読まずTVも見ず、一日中ぼーっとしてたら退屈で死んでしまうのではないかと思ってました。でも、真剣に退屈だったら誰もそんなことしないはずで、あれで案外退屈してないんでしょうね。その老人の脳裏のスクリーンには、ド迫力画面で一大スペクタクルが上映されているのかもしれません。さぞや楽しかろう。
しかし、なんぼなんでも、まだそれをする時期ではないなという気がします。40代か50代、いや60代でも許されないのかもしれない。そのくらいのガキにはまだ許されない。懸命に人生を走り抜けてきた人だけが、これまで集めてきたキラキラ光る珠玉の記憶を鑑賞することが出来るのでしょう。コレクターが膨大な蒐集物を悦に入って眺め続けるように。「いいなあ」とか思っちゃいますね。だって、今の時点でチラッと思い出すだけであれだけ面白いんだもん。これが数十年したらどれだけ熟成してるか。
僕が死の間際や、老後に願うのは、この自分だけの一大上映会を開くことです。開けるような環境が欲しいな、と。まあ、座るところがあってお日様があったらそれでいいですから、慎ましやかな望みだとは思います。老残、落魄を絵に描いたような、ドヤ街の3畳部屋であっても、その程度のことは出来るでしょう。逆に恐れるのは、せっかく上映会を開いたとしても、演し物がショボかったりすることです。いくら過去の再生しても全然面白くなかったら落ち込みますよね。だからこそ、今、”that's my life!”と言えるだけの事、ともすれば世間的には「ろくでもないこと」と評されるかもしれないことをせっせとやらなきゃな、と決意を新たにするのでした。
文責:田村