今週の1枚(07.07.16)
ESSAY 319 : 『脳はなにかと言い訳をする』のご紹介
写真は、Manly Beach。先週の木曜日(12日)Manlyに行ったのですが、すごい波が来てました。
『脳はなにかと言い訳する』という本があります。池谷裕二さんという方が書かれた一般向けの大脳生理学の本です。これがすごく面白いし、示唆に富んでいます。
池谷さんは、東大薬学部へ首席で進学、同薬学部大学院へも首席で進学、博士号も取得し、コロンビア大学などを経て、現在東大薬学系研究室の講師をしている1970年生まれの37歳の方です。パリパリの東大ですが、一流の研究者やビジネスマンがそうであるように、著書は非常に分かりやすく、常識とユーモアに富んだ好著です。
この本、池谷さんのファンであるカミさんから借りて読んだのですが、「ほう、そうなのか?」という脳の世界の最先端の話が山盛り載っています。同時に、メインテーマではなく、説明の必要から出てくる前提知識も面白かったです。業界の人には常識なのでしょうが、僕は全然知らず「え?そうだったの?」という。とまあ、抽象的に言っていても仕方ないので、面白かったところを適当に抜き出してみます。
★海馬=記憶を新規製造するところ
脳のなかに海馬と呼ばれる部位があります。池谷氏は海馬の研究をしているので、この海馬が頻繁にでてきます。「海馬」というヘンテコな名前は、もともと英語でヒポカンパス(hippocampus)と呼ばれているのに由来します。なんでここがヒポカンパスなのか?というと、タツノオトシゴという意味という説、神話のポセイドンが乗ってる海獣である説があるそうですが、いずれにせよ尾っぽがクルルと巻いている形状が、この海馬という脳部位の形に似てる点がポイントです。つまり、海馬というのは、尻尾がクルルと巻いているオタマジャクシのような変な形をしてるようです(見たことないけど)。
さて、僕らが物事を記憶するということは、それだけ新しく脳神経細胞を増殖することですが、海馬はこの増殖に関係しているらしいです。脳の手術で海馬部分を切り取ってしまった事例があるそうですが、その患者さんはそれ以降新しいことが全く覚えられなくなったそうです。せいぜい数分間しか覚えられない。しかし手術前のことはよく覚えていることから、海馬というのは新しく記憶を作り出す機能はあるが、作られた記憶を保存する機能はないということが分かります。あくまで製造部門であって保管部門ではない。記憶を保管するのは他の大脳新皮質のどっか(実はまだどこかはよく分かってないらしい)。また、古い記憶を思い出すことにも海馬は関係しないそうです。あくまで新しく記憶を製造する機能だけである、と。
じゃあ、海馬を鍛えれば記憶力がUPするのか?というと、まあ、おそらくはそうだろうということです。でも「鍛える」っつったってどうやって?というと、どういう状態の人の海馬が発達してるかという事例を沢山集めて(例えばロンドンのタクシーの運転手はベテランになるほど=道を沢山覚えるほど=海馬細胞が発達しているとか)、あれこれ推測をしていくしかないです。正しい科学というのは、ある意味正しくまどろっこしいもので、「AはBに有効!」なんてことがサ、ピ!と出てくるわきゃないです。うんざりするほど膨大なリサーチや実験を積み上げて、「ま、こうなんじゃないのかなあ?」というのがオボロに言えるってな感じなのでしょう。それでも、これまでの研究でいえば、日々勉学に励むのが最も効率的という、「よく使えばよく発達する」的な当たり前のことが言われています。それだけではなく、適度な運動、食べ物をよく噛む、社交の場に出て積極的に振る舞う、ストレスを避ける、幼児だったら母親の愛情をたっぷり受けることが、海馬神経の増加に有利に働くとされているそうです。これもまあ「有利に働く」くらいですから、一直線に思いこまないように。
本に書いてあるのはここまでですが、これだけでも十分読ませてくれるのですが、ここから「ふむ、なるほど、だったら、、、」と自分でその先を考えていくのが面白いです。一章読んだら、あれこれ考え、二章読んだらまた勝手に想像し、、、ってやっていくという。
ここまでの知識から僕が勝手に延長線をひいて考えるに、「私は記憶が苦手で」「もうトシだから」とかいって覚えるのを逃げていると、「使わない器官は退化する」法則からどんどん記憶力は落ちるのんだろうなってことです。トシをとって記憶力が減退するのがイヤだったら、出てくる対策は一つ。「沢山覚えろ」です。「覚えられない」と思いこんだらどんなものでもダメですからねー。意地でも覚える、覚えようと努力はする、努力はしなくてもせめて前向きな姿勢だけは取るってのは大事なことなのかもしれません。諦めないってことです。具体的な日常でどうするか?というと、それは皆さん次第ですが、例えばパソコンでも簡単な数字の羅列(電話番号や会員番号)を、つい面倒だからカット&ペーストしますが、それをしないで一発で見て覚えて、また再入力するとか。
★海馬は老化しない、老化するのはシータ波の発生頻度である
脳波のなかにシータ波というのがあります。知らない場所に行ったとき周囲をきょろきょろ見回したりしますが、こういう時には注意力が高まっています。この注意力が高まってるときに出るのがシータ波です。シータ波は、アセチルコリン受容体という部分を刺激された海馬が発信するといいます。
僕らの記憶や学習というのは、脳の中のシナプス=神経信号の通る場所=が変化することによって生じるらしいです。このシナプスの変化しやすさを「シナプス可塑性」というのですが、シナプス可塑性は、シナプスを強く、繰り返し活動すると生じてくる。つまり、集中的に同じことを反復するとシナプスが変化し僕らは何かを記憶(学習)するということです。
そして、シータ波が出ているとき、シナプス可塑性が活性化されるといいます。シータ波が強く出ているときの方が成績が良いという動物実験の結果もあります。
一方、ウサギを使った実験では、トシをとったウサギの方が記憶するまで時間がかかるという結果が出ていますが、シータ波が出ているときの学習効率を比べてみると年齢には殆ど関係ないということがわかりました。
これらの事柄を総合すると、以下のような推論が出来ると思われます。第一に記憶を生み出す海馬の性能それ自体は年を取っても劣化しないということです。第二に年とともに衰えるのはシータ波(の出現頻度)であるということです。なぜ年を取るとシータ波の出現が減るのかといえば、好奇心が減り、マンネリ化するからだと。子供の記憶力が優れているのは、記憶力そのものが優れているのではなく、記憶力を活性化するシータ波がよく出るからであり、それは好奇心旺盛で、何にでも興味を持っているからだ、ということになるでしょう。逆に年をとって記憶力が落ちたと思うのは、年のせいではなく、生活や感性がマンネリ化してるからだとも言えるでしょう。まったりした変わり映えのしない日々を送っていれば、シータ波も出ず、記憶も出来ずってことになると。
これだけでも十分「ほう」と思うのですが、さらに面白い記述は、このマンネリ化は悪なのか?というと必ずしもそうとも言えないという点です。
どういうことかというと、日常でイチイチ感動してたら話が先に進まないってことなんですね。多少マンネリ化して感動を鈍磨させた方が、情報処理は迅速に出来る。大人になるにつれ、処理すべき情報体系の量や複雑さは増しますから、細かなことでいちいち驚いてたら間に合わないのでしょう。これは仕事などでもそうです。刑事さんが殺人現場に行くたびに新鮮な感動を抱いて、泣き伏したり、嘔吐してたら捜査は進みません。血みどろの現場にしゃがみこんで、冷静に死因を調べ、血痕や遺留品を調べなければなりません。一般の仕事でも、新入社員の頃は客がクレームをつけてきただけでパニックになりますが、ベテランになるとにこやかに対応できるようになる。さらに社長にもなれば、資金繰りやら交渉やら複雑な経営判断をしなければならず、1000万円損したくらいでパニクッていたら話が先に進みません。だからマンネリ化も高度な情報処理には必要であると言うことなのでしょう。
これは僕が以前に読んだこと、年とともに記憶力は減退するけど、洞察力や判断力は上昇するということと一致しています。なんでそうなるかがわからなかったのですが(経験的にそうだと思うだけで)、それを説明してもらったようなものです。
★ストレスが脳の働きを弱くするが、記憶力がストレスを迎撃すること
次にストレスが記憶力を阻害するという話が載っています。人体がストレスを感じると、副腎皮質でつくられるコルチコステロンというホルモンが大量に分泌され、これが脳の神経細胞(ニューロン)の働きを抑え、結果的に記憶力も減退する、と。しかし、ここからが面白いのですが、記憶によってストレスに対抗することもできるそうです。ラットによる実験では、海馬を麻痺させたラットはいつまでもストレスを感じ続け、海馬を刺激したラットはストレスを減少させている。なぜか?というと、適応=記憶だからでしょう。最初はイヤな経験をしてビビってストレスを感じたりしますが、段々「そんなに思ったほど悲惨じゃないな」「別に大したことはないな」というのが分かってきて=つまり新しい記憶を作って、ストレスを感じなくなるようになるそうです。
これは経験的にも分かります。この著書で説明されているように「場慣れ」の効用もそうです。最初は舞い上がってパニック状態になっているようなことでも、回数を重ねれば焦らなくなるし、余裕を持ってことに当たれるようになる。新しい記憶=学習により、頭の働きが冴えてくる、と。
言われれてみれば当たり前の話なのでしょうが、「当たり前」で済ませては勿体ないくらいヒントが転がってます。人間は誰でも新しいことに挑戦するときは緊張します。強いストレスがかかります。ストレスが掛かれば頭の働きは鈍りますから、パニックになってアホなことを口走ったり、ワケのわからん行動に出たりして大失敗することもあるでしょう。そこまではいいのです。まあ、良くないだろうけど、誰でもそうなるという意味では問題視するような事態ではないです。問題なのは、最初の失敗によって強いストレスを感じ続け、トラウマになって止めちゃうとか、二度三度と失敗を重ねることです。
ということは、対策としてはこう考えると良いのでしょうね。まず、最初に失敗するのは当たり前だと。緊張してストレスがかかってるんだから、頭の働きがマトモでなく、実力以下の振る舞いに出るのだから、成功しなくて当たり前。別にあわてることはない。そこで不必要に落ち込んだり、自分の才能の無さを嘆いたり、居場所を間違えたとか思う事なかれ、です。これが第一。第二には「早く学習しろ」ってことですね。二度目三度目と繰り返せば、同じパターンの繰り返しであることもわかるし、そんなにビビるような事柄でもないことが分かります。それを学習すれば、ストレスを未然に防ぎ、結果として頭の働きを鈍らせることもなく余裕で出来るようになる。
これ、皆さんにシェア探しのお手伝いをしているときと同じです。最初に電話するときが一番恐い。初めて体験することは誰でも恐いけど、それに加えて何言ってるのかさっぱり分からないし、全く何も言えなくなってミジメに沈黙という屈辱感も恐い。だけど、そこで止めてしまったらトラウマになるだけです。二度目、三度目と繰り返すことによって少しづつ学んでいくし、多少なりとも分かる部分もあることを発見するし、最後まで会話が続きアポまでこぎ着けたら、「なんだ、出来るじゃないか」と認識が変わる。その成功体験と学習記憶が、ストレスを未然に防ぐ。ストレスを防げば実力も発揮しやすくなるし、これまで聞き取れなかったことも聞き取れるようになる場合も出てくる。ますます調子に乗っていく、、という。もう最初の時点で集中豪雨的に十数件以上電話かけてもらようにしています。そうすることによって、ストレスからトラウマに行く前に、ストレス→記憶・学習→ストレス軽減・実力発揮→自信という好循環サイクルを無理矢理築き上げてしまうわけです。大体、30分から1時間くらいでそこまでいけます。一気にやっちゃうのがコツ。何となく経験的にそうするのが一番苦痛が少なく、最も効率的だと思ってましたけど、理論的に裏付けられたような感じで嬉しかったですね (^_^)。
さらに応用するなら、知らない場所に行く場合、往路よりも帰路の方が早く感じるのも同じ原理かも知れません。既に学習記憶した帰路では、その分ストレスは抑えられてますから、ゆったりした気分で帰れる。同じように、初めて行く場所は実際によりも遠く感じますが、通い慣れた道になると近く感じる。つまり家を決めるときも最初は「げー、遠い」と思えるようなところでも、慣れてしまえばどってことなくなるってことです。僕も最初にシドニーに住み始めたときは、シドニー全体が途方もなく巨大に思えました。ブルーマウンテンなんか地平線の彼方のように思ってましたが、今は「近所の裏山」くらいにしか感じません。ラウンドでオーストラリアを一周してシドニーに帰ってきたあなたは、「なんだ、こんな小さなところでビビってたんか」と思うでしょう。
★脳は偏見に満ちていること
次に紹介されている実験は、予め「これは不味いよ」と教えておき、その先入観がどのように感覚(味覚)に作用するかを調べたものですが、一番最初の第一次味覚野という段階で既に先入観の影響を受けていることがわかりました。味や音などの情報は、まず第一次的に外部の刺激を感知し、それを上の神経節に送り、さらに上に送り、、、と続けていき、最終的に「不味い」という価値判断を下すのはかなり脳の中でも上位の部位===会社に例えれば、外部から何かの連絡が来て、とりあえずは受付あたりがその情報を受け取り、それを直属の上司に伝え、上司が課長に伝え、部長に伝え、最後は取締役会で「不味い」と判断し、先入観はこの役会の決議に影響するだけと思われていたのですが、実際には受付の段階で既にバイアス(偏見)が掛かっていることが分かった、と。
これは何を意味してるかというと、味そのものは客観的に感知しているのだけど、その判断に偏見が掛かるのではなく、先入観があると味そのものも違って感じられるということです。つまり情報の分析や判断に誤謬が混じるのではなく、情報の感知それ自体が狂ってくる。味を痛みに置き換えてみると、「痛い」と先入観を与えられたら、実際はそんなに痛くなくても痛いと思うのではなく、最初から痛く感じる。
このように脳というのはいかに先入観に作用されやすく、偏見に満ちているかということですが、面白いのは「なぜ、そうなっているのか?」です。脳がこのように強烈な「思いこみ」に支配されてしまうのは、その方が迅速に情報を処理出来るからではないかと。確かに、○は○、△は△と定型パターンで処理していった方が、当座の判断は速く済みます。「本当にそうだろうか?」といちいち慎重に吟味してたら、まどろこっしくて日常生活が送れないでしょう。毎日朝歯を磨くときにも、「これは本当に歯ブラシなんだろうか、一見歯ブラシに見えるけど実は、、」なんて考えてたらやってられないです。だから、多少正確性を犠牲にしても、「これは○なの、○に決まってるの、もう考えるな」と強引に決めつけてチャッチャと情報処理を進めていく、と。
もう一点、先入観に支配されやすいのは快適なものよりも、不快な情報であったことです。「甘いよ」と言って甘いモノを与えたときよりも、「苦いよ」といって苦いモノを与えたときの方がより活発に反応した(影響されやすい)。これも面白いのは「なぜか?」です。池谷氏の推論では、動物が生存するためには不確定な新しい情報に接したとき(例えば森の中を歩いていて木陰に何かが潜んでいるのを発見)、 悪い方(敵とか野獣)に想像しておいた方が機敏に対応できるし、結果的に生存率が高まるからではないかと。だからイヤなこと、不快なこと、恐怖をかきたてることは先入観や偏見で感情が増幅される傾向があると。
これらの知識から言えるのは、まず僕らの知覚や判断というのはかなりいい加減であるということです。先入観に左右されまくり、偏見バリバリだと。それはもう理性的に修正しようにも、最初の知覚レベルで既に狂ってしまっているという。これを日常生活のレベルに置き換えると、「美味しいレストラン情報」なんかも気をつけなければなりませんね。もともと味の好みは十人十色で他人の評価なんかアテにならないところにもってきて、美味しいと思ったら美味しく、不味いと思ったら本当に不味く感じてしまうのですから。僕も新しいレストランに入ったときは、なるべく偏見を持たないように、むしろ全力で美味しいと思おうとすることにしてます。同じように、新しく聞く音楽、新たに会う人、新たに読む本などは、出来るだけ先入観を無くすというよりも、心持ち肯定的な先入観を持って接するようにしています。「こんなもんダメだよ」とか最初から思ってたらどんなものでもダメに思えちゃいますから。しかし、判断部分だけではなく、知覚神経レベルで左右されるとなると、かなり恐いですね。美味しいものを食べて舌は喜んでいるのに、頑固な頭が否定するのではなく、舌のレベルで不味く感じちゃったら修正しようがないです。
先入観や偏見はネガティブなモノの方が増幅されやすいというのも頷ける指摘です。夜道に誰か立っていたら、まず不吉なことを考えますよね。ただしかし、これは社会的な偏見が広がる説明にもなります。中国系の窃盗団が報告されると中国人と見れば犯罪者に見えるとか、中東系のルックスを見ればテロ容疑者扱いするとか(現在の西欧社会の対応は半ばヒステリーに近いくらいだと思うし)、感染の恐れなど殆どない伝染病でも異様に恐がって差別するとか(エイズ患者への差別)。人は何かネガティブなレッテルを貼ったら、1枚貼ればいいところを10枚くらい貼る、貼るべきエリアの10倍くらい大きく貼る傾向があるということなのでしょう。海外=治安が不安なんてのも同じようなものなのかもしれません。そして、また、英語の話に戻ると、英語が出来ずにコミュニケーションを取るのを異様に恐がるとか。
人類が森の中で暮していた頃ならいざ知らず、現代においては、このネガティブ増幅の脳の機能は、多少意識的に修正させた方がいいのかもしれません。だって、同じモノを見聞していても実際以上にネガティブに見えたり、感じたりするわけでしょう?本当は美味しいものを食べてても美味しく感じないとか、全然恐くない道を歩いていてもビビリながら歩いたり、社会を異様に恐れたり、、、、そんなことで日々が過ぎていくなら、一生の間に積もり積もってとんでもないボリュームで損してることになりますよね。また、他者への評価に関する事柄の場合、実際によりもネガティブに、つまり不当に悪く評価される場合が多いってことでしょう。悪く評価された人間は面白くないし、それがまたその人の世界観に影響を与えるし(世間はなんて冷たいんだと)、それがどんどん連鎖していけば個々人の悪い幻想によって本当に社会全体が暗くなっていってしまう。客観的には100くらい明るい社会で、100くらい幸福な人生が過ごせるにもかかわらず、ネガティブな先入観によって50程度に暗い社会で、半分くらいしか幸福になれないのだしたら、そしてその原因がもとをただせば単なる先入観だとしたら、阿呆の所業と言わざるを得ないです。
特に日本人の場合、「安全」と「安心」は宗教のように信仰されてますが、警戒心が強いのも善し悪しだと思いますね。警戒心が強いことによって危難を逃れて得する度合いと、そうやってなんでもネガティブに見てるからみすみす幸福を逃している度合いとを比較したら、僕は後者の方が大きいと思います。鬱病とか引きこもりなども、必要以上に警戒心が強く、実際以上に世界がネガティブに見えているからでしょう。知らないことに接するのを恐がる人と、それを面白がる人とで、どっちが楽しく愉快な一生を送るか、ですよ。もちろん好奇心が強すぎて火傷することもあるでしょうけど、それを差し引いても、ネガティブに見えすぎるのは良くないと思います。
そして、これは先ほどの話とリンクしますが、ネガティブに見えれば見えるほどストレスは高まりますから、脳神経細胞の働きは抑制され、記憶力も落ちるわけですよね。それによって記憶学習効果も乏しく、ゆえにストレスを抑止できなくなる、、、、、。すごい悪循環じゃないですか。つまり、先入観や偏見に惑わされ→なんでも実際よりもネガティブに感じられ→必要以上に強いストレスを感じ→脳活動の阻害→学習記憶によるストレス抑止の失敗→ずっと恐がる、トラウマになる→ますますネガティブに見える、、という悪循環です。勝手に幻想に惑わされて恐がって、ビビって、アホになって、それでまたビビって、もっとアホになって、、ってことでしょう。こうなったら結構ドツボだって気がしますね。
★脳の強度な思いこみ=変化盲、選択盲
異性のポートレート写真を二枚を見せ、どちらか好きな方を選んでもらいます。一旦写真を返してもらい、それを巧妙にすり替え、「あなたが選んだのはこちらでしたよね」と言いながら実は選んでいない写真を差し出します。当然「いえ、別の方です」と言うと思いきや、実験では80%の人が「はいそうです」と答えてしまうそうです。まさか目の前ですり替えられるとは夢にも思ってないから、この写真に決まっていると思いこむ。その思いこみがあまりに強いと、人が変わっても気がつかない。嘘のような話だけど本当らしいです。これを「変化盲」と言うそうです。同じモノだと思いこんだら、それも頭から思いこんでしまったら、多少の(かなりの)変化があってもそれに気付かない。
まだ続きがあって、さらに凄いのは、「どうしてこの人を選んだのですか?」と(本当は選ばなかったんだけど今は選んだと思いこんでいる)写真を見せて説明を求めると、その写真に写ってる人の特徴、例えば「髪が長いから」「イヤリングが素敵だから」などと答えるそうです。本当はその人を選んでなんかいないんだから、そんな理由100%嘘なんだけど、でもそう言う。気付かないだけではなく、間違えた前提でその場で理由をひねくり出す。でもって嘘の理由を言っているということすら気付かない。本当に差し出された写真の人の方が気に入ってると思っている。さっきは選ばなかった人を今は選んでいるわけで、ある意味では、もう一回選択し直しているようなものなのですが、その新たな選択をしたことにも気付かない。これを「選択盲」というそうです。
このような変化盲や選択盲は何故起きるのでしょうか?人はなぜ違いに気付かず、あるいは新たな選択をしたことにも気付かず、一生懸命、後付けの理由=言い訳をひねくりだすのでしょう?しかも言い訳をしているという自覚もないままに。それは、「これで良かったのだ」と正当化したがる心理、後悔を認めたがらない心理が背景にあり、それは究極的には「恒常性維持の本能」によるのではないかと著者は指摘します。自分の判断、意見をある程度一定させておき、自己崩壊を避ける本能です。例えば僕らは、他人と議論をしていて、なんとなく会話の流れで行きがかり上Aという立場になってしまったら、幾ら反論されても、Aという立場を固持しがちです。別にそんなに「絶対A!」と確信しているわけでもないけど、一回自分がAと言ってしまったら、ムキになって固執してしまうという。これも恒常性維持本能(自分自身を一貫させておきたい)の現れだといいます。
★脳の「やる気」=作業興奮と報償系
我々が「やる気」になるというのはどういうことなのでしょうか?脳を動かす動機付けは外発的なものと内発的なものがあるそうです。まず、内発的なものとして「作業興奮」という概念があるそうです。僕らは脳が何事かを決めて身体を動かしていると理解しがちですが、身体が脳を動かす場合もあります。作業興奮はその例で、やる気が全然なくてもとりあえず始めてみる、身体を動かしてみる。そうすると、動き出した身体に引っ張られるように脳も起き出します。神経細胞が活性化してくるわけですね。朝眠いときなど、無理にでも起きて身体を動かしていれば、あとは自然に脳が目覚めてきて眠くなくなってくるという。これは経験あります。というか、このエッセイがそうです。書くネタなんかとっくの昔に尽きてしまって、「もう書くことなんかないよ!」という気分に毎週陥ってますが、画面に向かって何か書き始めると頭が段々立ち上がってきて何となく出来てしまうという。
一方、外部の理由で脳が動機付けられる場合は何らかの「ご褒美=報償」があるような場合です。馬の前にぶら下げたニンジンのようなもので、何かを達成するとイイコトが待ってる、嬉しいことがあるとなると人は頑張ります。脳のなかの報償系という部位を刺激すればいいのですが、何によって刺激されるかは人それぞれ。でも、多くの場合は達成感であったり、誉められたいという感情であったりするそうです。さて、これらの報償系が刺激される=いい気分になる=のは、皆さんご存知脳内快楽物質であるドーパミンが分泌されるからですが、このドーパミンの神経細胞が沢山ある場所を腹側被蓋野というらしく、腹側被蓋野を刺激するとドーパミンが出て気持いい、と。覚醒剤なんかもこの部分を刺激していい気分にさせるそうです。
そして、ここからが佳境にはいるのですが、恋愛中の男女に相手の写真を見せると、この腹側被蓋野が反応するそうです。愛する人を見たり、考えたり、一緒にいたりするとドーパミンが出てとりあえず気持ちいい。ということは、ラブラブの時期は一種の麻薬中毒状態になり、とにかく相手のことを想っていると気持いいわけで、年がら年中ボケーっとしたりするわけです。恋患(わずら)いとか、恋は盲目といわれるゆえんです。
でも、なんで恋愛をすると麻薬まがいの中毒状態になるのか?著者は、種族保存のためではないかと推測します。つまり、いつまでもクールに「この相手で良いのだろうか」と考えてたら先に進めないし、結婚した後でもお互い浮気しまくり状態になって安定しません。それ以前に、あれこれ選んでたら出産適齢期を過ぎてしまい人類は滅んでしまいます。そこで、適当に相手をみつくろったら、あとは麻薬中毒状態にして一定期間縛り付けておくという自然のメカニズムなのかもしれませんね。また、何かに一心不乱に熱中している「○○バカ」みたいな人がいますし、誰だってそういう盲目的なパッションに突き動かされる時期はあります。これも同じように、気持ちいいからハマってしまって、熱中しているのでしょう。でも、そういう人やそういう時期がないと人類の文化も技術も進歩しないし、個人の技量も進歩しないのでしょう。大事なことでもあります。
さて、これらのことを総合して考えてみますと、人間というおっそろしくいい加減で可憐な生き物の姿が浮き上がってきます。
以前、「非モテ系」のエッセイだかで書いたと思いますが、極論すれば恋愛相手なんか誰でもよく、始めてしまえば誰でも適当に幸福になれるというクールな事実があるのでしょう。なぜなら上で述べてきた脳の様々な特性を振り返ってください。まず最初の時点で脳は偏見と先入観に満ちてます。判断も容易に間違えるし、そもそも感覚自体が狂う。また、作業興奮で一回始めてしまえば脳が活性化して生き生きしてくる。その上、変化盲、選択盲という「一度決めたら人が変わっても気付かない」「自分の決断や目の前の現実を全力で肯定しようとする」という強烈な心理があります。さらに恋愛関係に入ってしまえば、腹側被蓋野が反応してドーパミンが出て気持のいい麻薬中毒状態になるってわけでしょう?とにかく動いて、相手を適当に決めて、始まってしまえば後付けで幾らでも好きになった理由を考え出し、中毒状態でハッピーってことでしょ。
「なるほどねえ」とか思ったりするわけです。恋愛とか結婚とか、あんな面倒臭いこと、よっぽど自然のメカニズムという追い風がないと出来ないだろうと薄々思ってたのですが、そういうわけでしたか。って、別にこれが全てでも何でもないのでしょうが、そういう自然の力も裏では働いているということです。その昔は、村で祭りがあり、その晩は無礼講でトランス状態で出来たカップルがそこらの木陰でセックスをして、それで夫婦になるという、すごい乱暴というかシンプルなシステムがありましたが、あれはあれでかなり合理的だったのですね。昔の人の方が、運命の赤い糸とか神話的なことに囚われずに即物的であり、科学的だったのかもしれませんね。とにかくくっついちゃえば何とかなるよってなもんで、だからこそ結婚当日まで相手を見たことがないなんてことも普通に行われていたのでしょう。すごいですよね。前回出会い系の話をしましたが、もう「出会いなんかどーだっていいんだよ」「出会いなんて無くたって、くっつけときゃ適当に上手くいくんだよ」ってな感じです。
以上、あれこれご紹介してきましたが、この本の内容は、もちろん上記のネタに尽きるものではありません。他にもいろいろ面白そうなことが書いてあるのですが、とてもじゃないけど紹介しきれないのでこのくらいにしておきます。
あ、でも、もう2点だけ。一つは、「いい加減な思い出し方をするとその記憶は消える」という衝撃の事実(僕にとっては)がありました。一回深く刻まれた記憶は一生そのまま安定してるかというと、実はそんなことないそうです。記憶というのは、獲得→固定→再生という過程を経るのですが、再生(思いだし)のあと、もう一度「再固定」というプロセスがあるそうで、思い出したはいいけどその後いい加減にしておくと再固定がうまくなされず、記憶そのものが消滅してしまうそうです。例えていえば、倉庫の中の所定の位置に収納されていた書類を取り出して(思い出して)、再び所定の位置に戻しておかずにその辺に適当に置いておくと紛失してしまいがちですが、それと似たような話らしいです。でも、これは恐いですよ。何となく沢山思い出してた方が記憶も定着すると思ってましたけど、必ずしもそうではないのですね。大事な記憶だったら、思い出したあとまたキッチリ「覚え直し」をしておかないとならなし、ある意味ヘタに思い出さない方がいいかもしれません。
もう一つは、さきほどのドーパミンですが、マンネリ化すると出なくなるそうです。サルに合図とともに餌をあげます。最初は合図があるとエサを貰えるものだからサルは喜びます。ドーパミン出ます。でも、段々合図があれば餌は貰えるものだ、貰って当然だというマンネリ化が起きるとドーパミンは出なくなる。これは人間でも同じで、最初は嬉しくてありがたいモノでも段々慣れてきたらありがたくも嬉しくなくなるという。では、どういう具合にすると一番ドーパミンが出るかというと、合図をしても餌を出さない場合と出す場合とも50%づつにすると良いそうです。つまり餌が出るかも知れないし、出ないかもしれないという不安定な状態においてやった方がもっとも嬉しく感じるという。脳というのは不確実さを好み、ちょっとスリリングなくらいが丁度良いということですね。そういえば、時刻表なんてあって無きがごとしのようなバス停がありますが、バスがすぐ来るかもしれないし、来ないかもしれないという状況で待たされて、すぐにバスが来たらやっぱり嬉しいですもんね (^_^)。あれ、多分定刻通りに運行されてたら嬉しくないんでしょうね。
逆に言えば、安定志向とかいいますが、本当に安定しまくって全てがマンネリ化したら生きていてもあんまり楽しくない、ドーパミンが出ないことになります。そうなると、今度はバクチだの不倫だのに走ってわざわざ不安定な喜びを得ようとするのかもしれません。一番最初に書いたストレスや、好奇心・シータ波・学習効率などと合わせて考えると、人生ガチガチに安定しちゃうのもいかがなものかって気がします。
というわけで今週はひたすら本の紹介でした。引き延ばせば3本くらいのエッセイになるとは思うのですが、まあ、このくらいにして、あとは興味のある人は買って読んでください。ただ、この本、単にペラペラ読んでるだけでも面白いのですが、一章終わって「うーむ」と自分の日常を振り返って、どっかに改善ポイントはないかとか、「ああ、だからこうなるのか」とか思い当たる事柄を探したりするのがイイです。「示唆に富む」というのはそういうことです。
なお、池谷裕二さんのホームページはこちらにあります。
文責:田村
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