今週の一枚(2016/04/24)
Essay 771:物財→時空間へ
気持ちの良い「時の流れかた」と「場」を探して&構築するスキルと実践
写真は、Gradesville付近の住宅地の裏手。どこぞの山奥でどっかの貴族が狩りにでも行くかのような風景ですけど、都心(Townhall)までクルマで20分くらい。
写真、でっかくしたら(クリックすると1680pxで見れます)多少はわかるかもしれませんが、ぶわっと空間が広がってて気持ちいいです。Walkingでトコトコ歩いてでここに差し掛かったんですけど、「あ、気持ちえ〜」って感じで。
新興の開発エリアなんですけど、自分の家の裏手がこうなってるというのはいいすね。
写真、でっかくしたら(クリックすると1680pxで見れます)多少はわかるかもしれませんが、ぶわっと空間が広がってて気持ちいいです。Walkingでトコトコ歩いてでここに差し掛かったんですけど、「あ、気持ちえ〜」って感じで。
新興の開発エリアなんですけど、自分の家の裏手がこうなってるというのはいいすね。
欲しいモノがない
これまで書いてきたことの続きみたいなことですが、また何となくちょっと分かったような気がしたので、備忘録的に追記します。なにかというと、「結局、自分は何が欲しいの?」であり、「この世界はどっちに行くの?」です。前者は自分の深層心理を掘り下げていく超ミクロな世界、後者は世界史的なロングスパンで俯瞰する超マクロな世界で全然違うようだけど、でも根っこは同じだと思います。
なぜなら、自分が何を欲しているかというのは、現在の環境にシビアに規定されるからです。つまり、地球のこのあたりにいて、このくらいの難易度で生活物資がゲットできて、こういう人達に囲まれて〜という外部条件に適応するために、今自分は何が欲しいのかというのが出てくる。局所的には、例えばクソ暑かったら冷涼なものが欲しいし、飢餓状態にあったら食料が欲しい。寂しかったら人が欲しいし、忙しかったらヒマが欲しい。それは人により事情によりケースバイケースでありながらも、「この時代は大体こんな感じ」という最大公約数的なものがあるでしょう。
その点をツラツラ考え続けているのですが、いつも思うのは「特に欲しいモノはないなー」ということです。これは、結構誰に聞いても似たようなことを言います。そりゃ欲しいものでいえば、英語力とか永住権とか恋人とかあるでしょうけど、少なくともショップにいってポンと買えたり、カタログを食い入るように見つめる垂涎の一品があるわけではない。
昔はあった
オーストラリアに来ると物欲がが減るとか、もともと自分自身物欲が少ない部分もあるのですが、それだけじゃないなーという気がします。かつて何度か書いたのですが(例えば10年前に書いたEssay245以降)、「物財幸福主義は1970年代に終わっている」という命題があり(堺屋太一さんが言ってたのかな)、僕も基本的にそう思う。今の40歳以下の若い方は、生まれた時点で全部揃っているからピンと来ないかもしれないけど、僕らの世代(60年代生まれ)は、リアルタイムに「モノが揃っていく」「欲望が満たされていく」ことを体験として知っています。ご多分に漏れず、東京オリンピックの時にウチでも白黒テレビを買ったのですが、あれは中々画期的な出来事だったようです。あんまり覚えてないけど、それまではラジオだけですからね。それがなんとカラーテレビになって、当時は「総天然色」とかスゴイ言葉で言ってましたけど、感動モンでした(笑)。
クルマはだんだん良くなってくるし。オーディオが流行って、クーラーが普通についてきて。なにかが一つ増えると画期的に生活が向上したのですよ。初期の頃はテレビも超高級品だったから、「マホガニー(風)の木目調」という高級家具仕様で、気分はマントルピースみたいな感じ。木目調の観音開きの扉がある機種もあったもんな。まるで仏壇みたいな、「ご本尊」って感じで。クーラーも木目でしたね。とにかく木目調。何はなくとも木目調って(笑)。シルバーやグレーなどのスタイリッシュなのが出てくるのはもっと後です。オーディオもそうですよね。アンプの外側が木目、スピーカーも木目。
その頃はですね、えーと僕が小中高生くらいのときは、「欲しいもの」がありました。もう「ある」なんてもんじゃなくて、エアーズロックみたいにどーん!と物欲はあった。小学校の時はチャリでしょう?中学くらいになると腕時計が欲しかったな。それからオーディオ。普通にラジカセだったけど、だんだんいいのが欲しくなる。ステレオが欲しいけど、全部一体型ではなく、コンポーネントといってバラで買って組み合わせるとか。でもって高校のあたりからギターですよね。もう、文字通り、誇張ではなく「食い入るようにカタログを見入る」と。あまりに欲望視線の激しさに、カタログの紙がメラメラと燃えてしまうんじゃないかってくらい食い入ってましたからね。
だもんで、僕は「物欲、欲望というのはこういうもん」ってのを知ってます。そして物財が確かに人生を幸福してくれたことも知ってます。そして、それって基本70年代までだよなーというのも実感としてわかります。70年代のまでのイキオイで行くなら、90年代には普通に月旅行ができるようになって、2000年頃にはタケコプターが自家用車くらいの値段で売られるようになり、ついに2010年頃にはどこでもドアが部分的に実用化されましたってくらいにならないとダメだと思うのですよ。「おおお!」って興奮をかきたてようとするなら。
80年台以降は、CD→DVD→BlueRay系の発展、あとはPC→スマホ、インターネットなどの情報ギア系の変化です。んでもね、「それまで出来ないことが出来るようになった」のはネットくらいだと思います。CDだって機能的にはカセットの延長だし、スマホだって電話(遠隔通信)そのものはエジソンの頃からありますからね。ネットでSNSでつながるとかいっても、インターネットの前はパソコン通信で実質同じような(むしろもっと濃かった)ことしてたし、それ以前には一部のマニアが短波放送によるCQ無線とかやってましたもんね。今でも名残でネット上の自分でつけるニックネームというか芸名みたいなものを「ハンドルネーム」といますけど、あれってモールス信号を送るハンドル(手で握ってトントンツーとやるアレ)から来てますからモロに延長線です。
ここ30年は微差〜頭打ちと低欲望社会
僕らの世代からしたら、ここ30年くらいは「ちょっと良くなる」くらいの微差でしかない。家電製品も進歩してるし、グッズも膨大に増えてきてるんだけど、でも、「無から有が生じた」「自分の生活が劇的に一新された」ということはない。これは僕個人の好みですけど、あのレベルでのドカーン!飛躍を体感してしまうと、もうこのくらいの微差にはそんなに興味がなくなる。常に増え続ける「あると便利」系のグッズも、なんつか隙間家具的なものでしかなく、ダイソー行ってもそんなに買うものが見当たらない。日本に帰国したときも、なんか記念に買おうかしらとか思って必死に探すんだけど、買うものが無い。これは僕だけのことかと思ったら、どうもそういうことを言う人が多い。そこまで徹底的に買い物が無いって人は少ないだろうけど、”おおお!”が無いって意味では同じです。そして、これって日本だけの話でもないし、先進国一般の傾向なんだろうなーってのは感じます。
そこへもってきて、ちょうど1年前くらいに大前研一氏が「低欲望社会」という本を出してますが(そのコンセプトはそれ以前から言っていたが)、読んでないけど言わんとすることは何となくわかります(間違ってるかもしれないけど)。そのコンセプトがどうであるかは、ここでは本題ではないです。要は欲望が少ない、「おおっ!」が無いって状況認識であり、そこは同意です。
ただし、それが少子高齢化によるものであるとか、経済が悪化してマインドが低下しているんだということではなくして(それは否定しないし、その要素も十分にあることは認めつつも)、より本質的には、客観的・物理的に、「欲しいものがない」からだと思います。
そして、それって一概に悪いことなのかなー?という気もします。ここが多分いちばん違う点かもしれないですけど、低欲望になると経済は停滞します。馬車馬のように働いて、ガンガンお金をつかうって風潮にならんからです。「ま、いっか」で済まされたら、物も売れない、経済回らないですもんね。だから刺激をするために、ガンガン国庫を空にして(とっくに空なんだが、借金の証文だけ増やして)”景気刺激”とやらをやってもダメ。で、借金ばかりが積み上がり、借金=あとの世代へのツケだから、ますますやる気が無くなるという悪循環。でも、そもそもが欲しいものがないからなんだよなーって。
生産→収穫の次は「賞味」
そして、それで経済が廻らないなら、「廻らなくていいじゃん」とかスゴイことを思ってしまったりもします。今からの時代(てか80年代からのOverdueだが)は、これまでのような形で経済が廻らなくてもなんとかなっていくシステムを作らんとあかんのでしょう。逆に言えばね、戦後の一時期が、科学・技術・経済のいわば果実の収穫期みたいなものだったと思うのですよ。たまたまその時期に「実がなった」だけだと。秋になると柿の実がみのるように。それまで営々と続けてきた科学の基礎研究や応用研究、実用化も軍事利用から民生化とか続く中で、いい感じで大量消費に適するようなモノがラッシュで出てきただけの話で、そんなのいつまでも続くわけもないじゃないですか。
そして、また季節がめぐって、科学技術その他の蓄積があったら、果実もみのるでしょう。高分子吸収体みたいなのが超進化して、カプセル一個に家一軒分つめられて、お湯をかけたら(まあお湯ってことはないとは思うが)、ボンと1000倍拡大するとかさー。分子間結合をZIPファイルみたいに超圧縮する技術ね。もともと原子なんか「空」といっていいくらいスカスカなんだからさ。だから引っ越しも楽ね。ソファーも家具も、家そのものがカプセル化出来たら、風邪薬のガラス瓶くらいのを持ち歩いて世界を旅して、気に入った場所にボン!で一夜を過ごし、翌朝にはカプセル持って旅立ち〜という。それと今は到底無理だけど重力技術ですね。重力はパワーの宝庫だからあれからエネルギー変換できたらもう資源問題は無問題。それに重力をコントロールできたら世界がガラリと変わるよ。建築における構造や強度計算、物体の強度、ひいては人体や医療についても全部1Gの重力加速度を前提にしてるわけで、それが部分的に調整できたらスゴイことになるでしょう。
ま、こんなの荒唐無稽なんだけど、でもテレビやスマホなんて19世紀の人に言ったって狂人扱いされるでしょ?地球の裏側の人と瞬時に会話が出来るんだ、世界中の人が同じ情報を共有できるんだとかいっても、「こいつ、いよいよイッちまったか」って思われるのが関の山。大体ですね、その頃には「情報」という概念そのものがまだ無かったでしょ?そんなのここ数十年に出てきた概念だもん。だからあと数十年したら、今は予想もできない新しい概念が登場するでしょう。それは何か?といえば、「予想できない」んだからわからない。例えば(テキトーに)2042年には「テリカポシー」というなんだかわからない概念がやたら流行って、経済記事でも人生相談でも「それはテリカポシーのバランスが悪いからそうなるんですよ」とか普通に語られているという。で、そのテリカポシーってなんなの?というと、今の時代の僕らには絶対に理解できないという。多分、タイムマシンが出来て未来に行ったとしたら、そんな感じじゃないかな?40世紀くらいにいったら、一部屋のスペースに1000人くらいが同時に住んでて、量子学的併存技術を使えば簡単ですよー、36世紀にパラレルワールドの管理技術が飛躍的に向上して〜みたいな。だから視界の全てが量子学的に構成されているから、雨天のガラス窓みたいに透けてるけどボヤヤンとしてる世界になってるかも、です。理解できんと思うわ。
話を戻して「秋になると柿が実りました」的な高度成長です。柿がみのったなら、収穫して食べてハッピーになればいいです。食べきれない分は干し柿にすればいいです。でも、永遠に柿がなりつづける、春夏秋冬いつもなってるという前提でモノ考えていたら違うでしょう?ってことです。今は「端境期」なんじゃないかな。だから、現状においては、ちょっと欲しいものが見当たらないなーと。だってさ、4Kテレビだ8Kだとかいっても、TVのコンテンツがつまらんかったら意味ないじゃん。まあディスプレイとして映画館みたいでいいかしらんけど、それはテレビがどうとかいうよりも、200インチのテレビを余裕を収納できる住空間の問題にシフトしていくでしょうし。小さいままなら、PCでYouTube見れば足りるし。
こんな時代に商売とか資本主義をやる方が間違っている
この状況って経済にとっては困ります。なんせ引っ張っていくものがないのだから。特に欲しいものがないなら、現状維持でいいわけだし、そうなると全ての商品がコモデティ化、日用品化していくわけです。商売のコツは、有名ななんたら十訓に書かれてたように「無駄遣いさせろ」とか、その種のものごとです。「冷静に考えたら要らないんだけど、でも盛り上がっちゃってつい買っちゃいました」的な部分をいかにつくるか。「画期的な新商品」というのは、それがすごい簡単にできたんですよね。そんな騙しみたいなことをしなくても、商品そのものが抜群の訴求力を持つから商売も楽だし、同時に経済も健全に運営されていた。しかし、それがなくなってくると、騙しのテクニックで売るしかない。洗脳とか、偽装とか、弱い者イジメ(従業員や下請けの搾取)とか、脱税とかで頑張る方向にいくでしょう。絶対そうなるとは言わんけど、本体の部分が頭打ちだったら、どうしても「サプリメント」がいるじゃん。だから、ここ十数年、偽装や騙しはどんどん激しく、セコくなってきている。これはちょっと前に書いたよね(Essay 745:新 "不" 自由主義経済〜要するにセコいだけじゃん。
そもそも論で思うのは、こんな時代に、商売とか、経済とか、ビジネスとか、資本主義とかやるのが間違ってると(笑)。もう時代遅れなんだよと。マクロ視点でいえば、こんなに猫も杓子も何らかの意味で「商人」になる時代なんか、人類史数千年においてもマレですよ。一過性の流行と考えてもいいくらいかもしれない。まあ経済というのは定義を広くすればどんな状況にもありうるので(アリの世界にも経済はあるし)、無くならないにせよ、その基軸コンセプトや方向性は修正した方がいいじゃないかなーと。
「生きる」ことの賞味技術
なぜそう言うかというと、欲しいものが無いというのは、裏を返せば、物財的には間に合っているということ、今あるもので十分人生幸福になれるだけのものがあるってことを意味するからです。もうモノは別にいらんと。これが絶対的に窮乏しているときは物資が欲しいです。水も食料も安全で快適な住まいも欲しい。でも、ある程度コンスタントに満たされてきたら、そこはもう焦点ではなくなる。野球をやりたいという場合、場所がない、グローブやバットなど機材がないって段階は、必死に場所取りしたり、お金貯めてグローブ買ったりしますよね。でも、立派な専用グランドがゲット出来て、グローブもボールも山程あるんだったら、もう要らない。このあとボール10ダース注文しましょうかって気分にはならない。あとは何をするか?といえば、「野球をやる」だけのことですよ。それと同じ。人生を愉快に過ごすための絶対的に必要な物資はけっこうゲットしやすくなってきた。てか、多少今の生活水準を落としたとしても慣れたら終いですからね。ワーホリでラウンドやってる皆さんは、生活水準という言葉も愚かしいくらい万年被災者みたいなもんだし、時代を数十年さかのぼって、自分だけ「戦後の焼け跡」を追体験してたりするわけだけど、それがけっこう楽しかったりもする。それは、子供の頃に基地作って遊んでたのと同じで、純粋に居住性やアメニティという意味でいえば、お話にならないくらいのボロちょんなレベルなんだけど(普通に雨漏りするし、壁は常に崩落するしね)、でも超楽しいという。
基本的な物財が満たされたら、何をするのか?といえば、簡単ですやん。「野球をする」でしょ。つまり「生きる」ってことをすればいい。逆に言えば、今本当に「欲しいもの」は何かといえば、「生きる」こと「生きる楽しみ」だと思うのです。そして、さらに「生きる楽しみ」という主観的なものを、もうちょい分かりやすく客観に置き換えていったら、結局のところ「時空間」だと思うのです。
つまり、自分が生きやすい、生きてて気持ち良いと思える「時の流れ方」「空間的な居心地」だと。
ここで単にスペース(空間)だけにしないのは、いくらゴージャスで気持ち良い空間でも、セカセカ忙しなかったら十分に堪能できないです。だから「時の流れ方」というのは一つの柱になるんじゃないかなー。
自分にとっていい感じで時間が流れて、
そこに存在するだけで自分がいい感じになれる空間
人生の究極目的はなにか?というとわからんし、人それぞれだけど、「準」究極くらいにランクアップされるだろうことは、「自分が気持ちよく自分であること」だと思います。自分が自分であることに気持ちよさを感じるような状態、どこにも過重な負荷がかかってない、どこも無理をしていない、どこもねじ曲げられてない状態で自分でありうること。これが決勝か準決勝くらいまでくるんじゃないかな。だってさ、自分が自分じゃなかったら、あるいはらしくない自分を演じさせられていたら、やっぱ何やっても詰まらんと思うのですよ。誰に嘘つくのがイヤかって、自分に嘘つくのが一番イヤですよね。まあ、自分ってけっこう積極的に騙されてくれたりするんだけど(笑)、それはまあ別の話で、自分で自分であることに気持ち悪かったら、ちょっとしんどいよね。「基礎がなっとらん!」というかさ。
それをキャッチフレーズ的に言うと、「物財主義から時空間主義へ」ってことです。
まあ、物財だって楽しい時空間を構成するからこそ意味あるんで、結局は同じことだと思うのですけど、でも、物財レベルで窮乏していたら、そこが焦点になる。つまりフォーカスの場所が変わっていくでしょ。一回戦を突破したら二回戦に進むでしょってくらいの意味です。
時のスキル
時空間主義だあ!とか言ってはみたものの、それって具体的に何なの?ってことですよね。キャッチフレーズ的に分かった気になっても、話は進まない。だから進める。時間と空間をいかにマネジメントするか、その技術は何か?です。アメリカの経営学風にいえば、TSMSですね。Time and Space Management Skill(今は別に意味(職場の仕事管理)で使われているけど)。
ということで、「時」と「空間」のスキル論を分説します。
フレキシブルな人生構造
「時」に関して言えば、柔構造なライフスタイルになると思います。進学、就職、転職、結婚、出産、育児、介護という大物級の人生イベントの時期や態様を可能限りフレキシブルに調整できることです。
人生の流動性を高めるってことですが、今のガチガチの日本社会ではなかなか難しい。しかし、フレキシブルな方向には進んでいるでしょう。絶対距離としてはショボいかしらんけど、ベクトルとしてはそう。例えば、大正時代は普通に15歳で結婚している。誰もが知ってる「赤とんぼ」の歌詞の3番は「十五で姐やは 嫁に行き」と書いてるしね(この曲の作詞は1921年・大正10年です)。95年前の話です。戦後の70年代ですら「22歳の別れ」が流行って(75年)、女性もクリスマスケーキのように25歳になったら(25日になったら)、もう安売りしないと誰も買ってくれないと言われた。行かず後家とかオールドミスとか(26歳でそう言われた)。それが今や、40歳で初婚でも珍しくはないし、そもそも結婚するか/しないかなんて、スノボをやるか/やらないかくらいの個人の自由であり、それだけフレキシブルになってるじゃないですか。この自由度は若い人ほど強いと思う。
時間の流れを自分の気持ちいいように調整するためには、人生のフレームワークの調整を自由にできるようにならないといけないと思います。ちょうど本棚の各棚の高さを調整するように、絶対的な高さ(寿命)は変わらないにせよ、ここは文庫本を収納するから棚の高さは低くて良くて、ここはファイル類を置くので高めにって調整するけど、それと同じように、ここはガッチリ無我夢中に働きたいけど、このあたりはファミリータイムで、ここは勉学や自己投資タイムで、、って、変えられること。
これは個々人の努力だけではどうしようもない部分もあるので、「そういう社会」にしていくしかないです。特に絶対的な締め切りがある出産とか、先方さんの都合(親)によって他者的に決まる介護とか自分の力だけではどうしようもないものもあります。出産、育児、介護の3点セットは、現代から将来にかけて最もチャレンジングなフロンティアであり、社会の精鋭部隊を高給で迎えてやらねばならない分野でしょう。が、今の日本は真逆の3K職場にしちゃってるわけで、いかに今のマネジメントが時代遅れかですけど。ぼそっと思うのは、この3点セットは、なんつか「女権帝国」みたいな感じで、オナゴ衆に潤沢な資金と権力をあげてやってもらったらいいと思いますケド。ジェンダー差別じゃなくて、特に出産は生理感覚で男はわからんもん。その気になったら60歳でも子供を作れ、作ると言ってもセックスするだけの男性と、実際に出産し、年齢がいくほどにリスクが高まる女性とは緊迫感やリアリティが全然違うもん。その物事をもっとも的確に把握できる人間こそが最も的確な判断をなしえるという一般法則や適材適所でいってるだけのことです。
しかし、それは天下国家の話であって、あのマザコンのジジー連中が明日から心を入れ替えて政策転換する可能性は、東京湾にゴジラが登場する確率よりは高いかしらんけど、多くは期待できない。だとすればそれは自分らでやっていくしかない。じゃあ、それはどうしたらいいのか?です。別にジジー(って年齢の問題じゃないけど)だけが日本を決めてるわけじゃないのよね。決めた気になっていい気分に浸りたいだけで、笛吹けども踊らずだしね。少子化対策とかさ。社会のありようを決めるのは、参加メンバーひとりひとりっすよ。それはもう文化祭みたいなもんで、学校当局がいくら張り切っても生徒がやる気なかったら盛り下がるし、当局がいくら禁止しても盛り上がるときは盛り上がるし。社会ってそんなもんでしょ。
進学・就職・転職というのはこれも3点セットになってて、基本的には同じことでしょう。就職できるからこそ進学するんだから。だけど、これも上で見たように、経済とか、ビジネスとかいう物事の枠組みが変わっていくのであれば、連動して変わっていくしか無いでしょう。まあ、その変化を認めたくない人、認めたら今の生活・権力基盤がヤバくなる人も多数(9割くらい(笑))いるだろうけど、多分、そんなの10−20年後には26歳でオールドミスとか言ってる人くらいズレてはくるでしょう。
大きな処方箋でいえば、前者のファミリー三点セットは「一人じゃ無理」という認識を徹底して、いかに協業シェア体制を築くかだと思います。フレキシブルで、洗練された互助システムを構築するノウハウです。後者のお仕事三点セットは、「お金がないと死ぬ病」をいかに克服するかでしょうね。死ぬから働かないといけない、働くためには学校でないという「悪」循環を断ち切らないと。これも、結局は互助になると思います。3人おって別々に嫌な仕事をして、高い外食をして、その日暮らしをしてるなら、持ち回りで3日に1回づつ働いて、あとの二人が1日かけてのんびり安い食材でスローフード作ってるほうが楽で豊かじゃんって発想ですね。前にも書いたけど。
このあたりの造詣、技術、ノウハウをどんどん洗練させていって、自分の人生の時間処理の自由度をマックスにもっていくことです。
空間マネジメント論〜今の不動産がヤバくて面白い件
量産体制に入っている遊休(荒廃)不動産
これがまた書くことが山盛りあるんだけど、でももうスペース無いかなー。今、日本では不動産が面白いことになってます。視点を変えたら「ヤバイことになってます」と表現すべきなのかもしれないけど。とりあえずは誰もが知ってる空き家問題。かつて不動産は資産=投資物件であったのですが、今はそれも怪しくなって、それどころかマイナス金利みたいな、「負」動産と言われてもいます。これ冗談じゃなくて、例えば、相続かなんかで行ったこともない土地の家を名義だけ相続したりします。昔は人が住んでて賃料収入とかあったんだけど、今は空き家。ほったらかし。で、当然自分もほったらかし。そんな遠隔地に行くヒマないし、行ったところで何をどうしたらいいのかわからんし。でも、老朽化が進んで、例えば屋根の瓦が落ちてきて、たまたま折悪しく通行人にあたって怪我させたらどうか。民法上の所有者責任というのがあります(えーと、717条だったかな)。タンコブくらいだったらいいけど、当たりどころが悪くて死んでしまったら、保険に入っていれば別だけど(普通入ってないよね)、数千万の賠償責任がかかってくるかも、です。もう人生地雷みたいなもので、だから「負」不動産。
しかし、問題は民家の空き家だけではないです。増え続ける遊休不動産〜問題なのは「空き家」だけではない〜というアーティクルが面白かったのですが、これによると、今から3年前の2013年時点での空き家数は820万戸。はっぴゃくにじゅうまんですよー。そりゃ空き家率でいえば13.5%なので字面的には「ふーん」かしらんけど、絶対数が凄い。しかし、民家だけではなく、企業・法人の遊休資産があります。「2014年の「平成25年法人土地・建物基本調査(速報集計)」によれば、法人が所有している「低・未利用地」は全国で47,560件に達し、このうち青空駐車場や資材置場など暫定的に使用されているものを除いた「空き地等」だけでも24,150件にのぼる。ただし、これは資本金1億円以上の会社法人(約3万法人)を対象とした調査であり、国内の「低・未利用地」のすべてではない」と書かれています。日本の企業の圧倒的マジョリティは中小零細ですから、シャッター街のような遊休資産を入れるとはるかに増えるでしょう。てか多すぎて勘定できないのかも。
さらに農水省2014年統計によれば、農地の空き家=荒廃農地は全国で27.3万ヘクタール、うち半分は「再生利用すら困難」という完全荒廃で13.5万ヘクタール(また13.5だ、偶然だけど)。この広さ、ピンとこないけど完全荒廃農地が東京ドーム約3万個分の広さだそうです。さらに(その2)、自治体などの遊休設備もあります。うち学校だけでも、02-13年の十年余の間に廃校になったのが約5800校もあり、うち1500校余は空き家状態になってるそうです。
820万戸とか東京ドーム3万個分とか、数字が凄すぎてピンとこないのですが、近々十数年の間に積もり積もってそれだけの不動産設備が遊休資産している。あの、「遊休」とかいうと字面的にゴールデンウィークみたいな楽しげな含みがあったりするんですけど、ありていにいって「荒廃資産」「廃屋」ですからね。癌細胞が広がるように膨大に増えている。しかもこれで頭打ちではなく、むしろこれから量産体制のように廃屋が増えていく。
交換価値→いかに使用価値を見出していくか?
遊休資産には有効利用という正攻法しかないわけで、交換価値(資産)でやってきた不動産も、これからはせっせと使うっきゃない。使用価値をいかに見出すか、創造するかです。そこは大きな流れになっているようで、さまざまなビジネスチャンスでもあるし、不動産関係でもいろいろおもしろい動きがあるようです。例えば下宿は京都の社会問題?というアーティクルを書いている岸本さんという女性は、京都でフリーの不動産業をやってるようです。この記事が載ってるサイトはどこがやってるの?と思ったらUR都市機構でした。病気で逃げまわってるTPP甘利くんが口をきいたところですね、きかれたURこそたまったもんじゃないだろうけど。URも都市機構と都市再生機構と2つあって別物?と思ったら同じものですね。正式名称が独立行政法人都市再生機構で、通称がUR都市機構だと。なんのことはない、昔の住宅公団です。AV女優さんのように名前を変えてデビューってわけですね(違うか)。でも、このサイト(Ours. Karigurashi Magazineって、なかなかおもしろい記事が載ってますよ。現代の「不動産をめぐる人とあれこれ」が書かれて。もうプロに丸投げしてるのが丸わかりってサイトですけど、丸投げした方がいいっすよ。公務員さんでも面白い人は沢山いるんですけど、立場上、そんなに突き抜けられないと思うし、プロに振っちゃった方がいいです。適材適所っすよ。
その他、こんなの検索したら無限というくらいに出てきますけど、URのサイトのほか、先に紹介したソリッドな業界専門サイトであるHome's Pressも読ませる記事が多いです。宿が旅への魅力的な出発地となる!シェア型複合ホテル「HATCHi 金沢」から始まることや、独身寮から108人のコミュニティへ――進化し続けるシェアハウスをレポートやら、やっぱシェアでしょう。
シェア概念のディープさ
「シェア」という概念は、分かった気になりやすいんだけど、かなり深いですよ。Airbnbなどのシェアリング経済は何度も紹介してますが、「民泊」とかモグリの民宿とかそんなレベルでしか見えてないのはセンス悪いですよ。次の時代にサバイブできないと思う。あれは自分の家という遊休資産の活用の一形態であり、別の面で言えば「新しいお金の稼ぎ方」であり、さらには自分の時間管理をよりフレキシブルにするってところに意味がある。シェアリング経済はホテルやタクシーの代替だけではなく、家庭教師、子守、家の修理、引っ越し、料理やパーティ、音楽の機材など趣味系のシェア、世界中に雨後のタケノコのように無限に出てきてます。もう何年も前から。それらを総称してシェアリング経済といってるわけですよね。
それらに共通する基盤は、例えば今回書いているように「必要な物資はもう揃っている」という認識でしょう。そしてあとはいかにそれを洗練させた形で「使う」かであると。つまり経済のセントラル・ドグマ、中枢命題を「生産」ではなく「使用(有効利用)」に変えているところが革命的。そして、それはどうやってやるの?というところで、皆の生活の無駄(遊休)な部分をシェア(互助)すれば、たいていのことはなんとかなっちゃうんじゃないの?という発想があり、そういう時代認識だと思います。だから僕がさんざんぱら言ってることと根っこは同じだし、同じであっても全然不思議じゃない。この世界の状況を普通に見てたら、誰だって普通にそう思うだろ?って。固定観念でガチガチになってると見えないけど、ゆるめてみたらすぐ見える。大雨だと思って必死に傘をさしてるけど、ふと気づいたらもう雨降ってないし、みたいなもんです。
旅のアナロジー
最後に余談めいたことを書きます。時空間の話ですが、「自分的に気持ちいい時間感覚で、自分らしい空間に存在する」ということをドンピシャにやってのけるアクティビティが昔からあります。それは「旅」です。人はなぜ旅行をするのか?というと、楽しいから、気持ちいいからでしょう?出張とか会社の親睦旅行とかを除けば、純粋に「時空間主義」を貫いている。
「文庫本持って温泉宿」みたいに「今日はひなが一日のんびりしよう」と、気持ちのいい場所で、気持ちのいい時間の流れを楽しむ。旅行という切り取られた断片ではまさにそうなんだけど、これを全人生に広げていけばいいじゃん、と。
もともと人生は「長い旅」に例えられます。いや〜、実際心理的にも、距離的にもそうですよ。思えば、二子玉川のレンゲ畑でドブ川にハマって泣いてたガキが、あっちいって、こっちいって、今はオーストラリアでこんなこと書いてるんですからねー。「思えば遠くに来たもんだ」です。そして月日が満ちたら「もっと遠く」に行く、つか「もともとの場所に還る」のですから。月日は一代の過客にて行き交う人は皆旅人なり、ですよ((C)芭蕉)。
そして旅というのは、脳内の旅もあります。いろんな想像や妄想で楽しむことですね。だから一日中部屋に引きこもってネット三昧というのも、僕は全然アリだと思いますよ。あれはあれでリアルに充実しているのですよね。リア充なのだと。ネットというと低俗っぽいニュアンスが(人によっては)あるかもしれないけどさ、あれ、「書庵にて万巻を読破し、四書五経に精通す」って言い換えたら昔からよくある賞賛されるべきアクティビティじゃないですか。「図書館にこもって勉強」でもいいし、「研究室にこもって研究三昧」「アトリエにこもって創作活動」でもいい。音楽やってる奴は、それこそ四六時中音楽聴きまくりの時期もあるし。これら知的旅行においては、身体的には動かないから「旅」という感覚は湧きにくいけど、でも同じことだと思うのですよね。温泉宿いって読書っていうのも、温泉宿に行くまではアクティブだけど、あとは宿の一室に引きこもって本読んでるわけですからね。だから「気持ちいい引きこもり時空間」に移動するとも言えるわけです。「ひきこもり」という聞こえが悪いけど、人間、何かに没頭しているときは大体ひきこもってますよ。
ということで、物理的に移動する快感は確かにあって、それはそれで楽しい。でも、身体的には移動しないけど知的活動して激しく移動することもあるわけで、その知的トリップがしやすい時空間というのがあると思います。「海辺のカフカ」という小説に四国の香川県(だったかな)の私設図書館が舞台になるけど、実に気持ちよさそうな時空間が描かれています。「世界のくぼみのような場所」とうまい表現をしているけど、「あそこで本を読みたい」という場所はある。
旅から人生へのアナロジー転換
何の話かって?話は終始一貫同じです。自分が気持ちいい時の流れ方、居心地のいい空間が大事って話で、次はそれをどうやって実現するか論です。一つは、自分にとって気持ちいい時空間を見つけていく作業があります。これまでの体験を振り返って「そういえば、ああいうの良かったよなー」と手持ちのストックを分析整理する作業もあるでしょう。同時に、「あ、こういうのもあるんだー!」で広げていく作業がけっこうキモになると思うのですよ。中学の部活の頃の心情をリアルに思い出して、あの頃は楽しかかったなー、でも結局何が楽しさのツボだったのかな?とか。また、ベタな大自然とか間近にみて「やっぱすげーよ!」と認識を新たにするとか、暮れなずむ下町に佇んでその風情を楽しむとか。国木田独歩の「武蔵野」にせよ、永井荷風の「墨東綺譚」にせよ、普通のそこらへんの「たたずまい」に美や興趣を見出している。
ちなみに武蔵野(多摩丘陵付近)も、墨東(玉ノ井、東向島)もどちらも僕は個人的に体験があります。小学校と高校がそのあたりだったので。中学は深川、高校は墨田川で下町修行6年やってるから、大阪の京橋の駅のあっち側やら、谷町、上町、松屋町筋界隈のごちゃごちゃ感に癒され、ひいてはシドニーのMarrickvilleや、Ashfield界隈で癒やされたりするわけっすよ。同時に、造成中の新興住宅地にもいたからオーストラリアの茫漠感に癒され、且つ岐阜(長良川の近く)の稲穂の照り映える道をチャリでリンリン走ってたから日本のどの地方都市にいっても「ああ、懐かしい」と感じる。京都にも長いから、歴史×空間×自然という三色弁当レシピーもなんとなくわかる。気持ちいいストックが多いのですね。個人的な体験を絶対視する気はないけど、でも、可能ならば40歳になるまで最低でも10回は転居しなはれ。転居にかぎらず、とにかく無節操でいいから色々なことをやれ、と。それがそのまま「財産」になりますから。人生の後半になってから、それが効いてくるんですよー。そのへん保守的な人は人生損してると思います。特に後半で煮詰まるかも。あのままずっと多摩やら下町やら岐阜にいたらと思ったらぞっとするもん。メイクきめてステージでヘビメタやって、裁判所で証人尋問やって、空港まで迎えに行って〜ってのが一人の人間のなかに同居してるとストック増えますよ。
第二に、それを可能にするために人生のボイラー室や配管工事みたいなバックヤードでは、できるだけ楽して稼ぎたい、てか稼がなくても食えるようにしたいと、ムダを省いた合理化努力があると。そこは因数分解のカッコをバラしたみたいに、開いてみたらぶわーっと出てくる。やれ育児や介護の互助はできないかとか、不動産の新しい動きがどうだとか、法規制の流れがどうで、交換価値から使用価値への世界的潮流があるんだととか。その技術を進化させ、新しいシステムを作れば作るほど、人生の時間管理はフレキシブルになるし、場所的移動も容易になる。気持ちよくなるための準備が整っていく。
でもねー、やっぱ大事なのは気持ちいいツボの発見という主観部分だと思います。
せっせとバックヤードを整備して、時空間の自由度が高くなったとしても、単にそれだけでは片手落ちでしょう。それだと、リタイアしたあとやることが無くなっちゃった老人みたいなもんだし。
やっぱ、「自由を使いこなす」ってのはか〜なり難しいです。夏休みの宿題でも自由課題が一番難しいでしょ?そこでは、自由を十分に賞味堪能できるだけのスキルと感性が必要だし、それを養うための修行や経験もまた必要です。それは絶えず磨かねばならない。人間には記憶と学習機能があるから、同じことを繰り返していると絶対「飽きる」のですよ。快楽逓減の法則。それに対抗するには、毎日ひとつは新しい快楽を発見するんだってくらいのアグレッシブな努力が必要だと思います。けっこうキビシー道なんよ。単に「趣味でもやってみるか」なんて付け焼き刃では無理だもん。物心ついた頃から連綿と鍛えあげていかないと。
で、それを磨くにあたっては、「旅するみたいに生きる」と考えると、人によってはわかりやすいんじゃない?ってことです。これからゴールデン・ウィークですよね。オーストラリアでは一週先にやってるようなもんだけど(ANZAC DAY連休)。どこに行こうかな、どういう予算で、どういう感じに組み立てようかなーって考えるでしょ?仕事に支障がないように、予め済ませておいたり、緊急対策マニュアルを作って渡しておいたり、それが時間管理の技術になるし。そして旅行ごとにテーマらしきものがあるじゃん。大昔のハワイ航路みたいに、行きゃいいんだってもんじゃないでしょ?バブルの頃に、今の爆買いみたいなブランド買いあさり(てか仕入れ)みたいな旅行でもないでしょ?のんびりしたいのか、ワイルドでイケイケでやりたいのか、ちょっと心細い異邦人感を味わいたいのか、頬杖ついて車窓を眺める自分に酔いたいのか、思いっきりミーハーになりたいのか、逆に渋く渋くいきたいのか。楽しい時空間を考えるでしょ。
あれを一生レベルでやればいいじゃんと。例えば、一生の間に3年くらいは海辺に住んでみたいですねーとか、ちょっとだけでいいから摩天楼で仕事したいですよねとか、マイレージ溜まりまくりという東奔西走の日々っつーのをやってみたいですね1年だけでいいからとか、土曜日は河川敷で皆で草野球やって、そのあと打ち上げでビールって普通の生活したいですねとか、いやあ何で私がココにいるの?という「成り行きの妙」みたいなものを楽しみたいですねとか。まあ一つに決められるわけもないけど、とりあえず3つくらい出して、それを実現するにはどうしたらいいか?って考えていくと、けっこう話は具体的になっていきますよ。ココ、割り切りが大事ですよ。メリハリつけてーバサバサ切ってーって。でないと、「ゴージャスな感じで、押さえるところは押さえて、でも侘び寂びの鄙びて枯れた感じも味わって、渋く、、」とか欲求自体が矛盾してて、結果的に中途ハンパなクソ旅行になってしまうという。
そして「こういうのしたいんだけど、でも、そうすると、、」で問題が出てくると思うのですよ。実家の親がね〜とか、ローン支払い中の家がね〜とか、子供も転校させたくないしね〜とか。そこが問題解決能力で、「じゃあ無理だね」で終わってしまわないで、なんか方法はないか?なんかある筈だ!って朝から晩まで1年くらい毎日考えてるとなんか浮かびますよ。問題の本質が研ぎ澄まされてくるから。結局なにが問題なの?と。ラッキョの皮みたいに剥いていったら結局無くなっちゃったってこともあるのですよ。ま、このあたりは話が変わってくるので、このへんで。
望遠でみるとNorth Sydneyのビル群があります
振り返るとこんな感じで住宅が建ってます。まさに庭先。
文責:田村