★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
755 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次

今週の一枚(2016/01/04)



Essay 755:永住権ゲーム

〜結果よりも過程こそが美味

 写真は、夾竹桃です。英語では"Oleander"。シドニーの街路には多いです。ウチの庭にさえあります。

 これは偶然なんだけど、ハート型で花束みたいなカタチをしてたので、おお!と思って撮ったものです。

結果よりも過程がおいしい

 ちょっと前にオーストラリアの永住権のススメを書きました(Essay750)が、そこからさらに発展させて書きます。

 最近、この種の話をプライベートで相談を受ける機会が増えてまして、そこでいっしょにあーでもないと考えていくうちに段々カタチになってきたのでちょっと書いてみようかと。

 要旨は、永住権を取ってどうするという組み立てではなく、取るまでの過程がいかに意味があるか、という点です。
 つまり、最終的に永住権が取れたら合格で、取れなかったらそれまでの努力は全て無駄、ということでは「ない」と。永住権取得して得られるあれこれの「特権」はいわば「賞品」みたいなもので、それほど大きな意味は無い。むしろ、それまでの過程でしっかり体得するものを体得できてなければ、せっかくの賞品も十分に使いこなせないし、逆にその過程で得るものを得ていたら必ずしも永住権という結果は決定的なものでもない。

 基本的に今まであちこちに書いてきたことと同じではあるのですが、よりクッキリと「過程重視」に傾斜してます。「プロセスが大事」とは良く言いますが、なんで大事なのか?といえば、この場合は一種の教育カリキュラムになってるからだと思われます。将来的に必要になるあれこれノウハウが学べる。知識、スキル、キャリアの上に精神的な力など全ての面での底上げが出来る。もう一つはGPS感覚による精神安定効果です。これもデカいです。

 以下分説します。

教育カリキュラム

「求められる人材」になる過程

 オーストラリアの永住権、特にメインストリームのSkill系技術移民(難民とか家族移民とかではなく)の場合、「若くて健康で優秀な人材」が優遇されます。3K仕事をやってくれる下働きが欲しいのではなく、エリートが欲しいと。ここが日本の移民論と微妙に違うところですが、オーストラリア経済を引っ張ってくれる機関車が欲しいのであって、貨車や客車が欲しいわけではない。

 しかし同時にオーストラリア人がやりたがらない現場仕事をやってほしいという部分もあって、ホワイトカラーよりも手に職系が一般には有利とされます。が、それとても英語試験はハイレベルだし、単に「やりまーす」という意欲だけだったら全然ダメであって、これまでの実務経験が何年あるか、オーストラリアでのスポンサーはいるのかなど要求水準はそれなりに高いです。腕の良い職人であり、且つその腕の良さがキャリア的に実証され、オーストラリア的にも認められているということですね。

 まあ、これは当然の話で、シリア難民を受け入れる場合とは話が違って、永住権をあげたらいきなり福祉にぶら下がって暮らされたらオーストラリアとしてもたまったもんでもない。少なくとも自分で堂々と自活できるレベルの実力があること、出来ればオーストラリア人を雇用したり、オーストラリアの経済活動を活発にしてもらいたい。「戦力」が欲しいわけですね。話は大企業の就職試験と同じことです。

 要求水準が高いがゆえに、そんなに簡単に永住権は取れはしないです。大体3年〜5年くらいはかかるだろうし、10年かかったという人も全然珍しくないです。しかも年々厳しくなっている。オーストラリアが厳しくしているというよりは、世界の有能な人材の絶対数が年々増えているからです。母国コロンビアではMBAまで取得している修士エリート様でも、こっちでは時給なんぼの清掃夫のバイトをやり、虎視眈々と機会を狙っている。そんな人々が数十万人くらいはいる。彼らを相手にして勝ち抜いていかねばならない。僕がよく「10年戦争」というのは、そういう意味です。ハンパじゃないよと。

 それだけにグローバルレベルで「使える人材」「求められる人材」になるいい教育課程になります。そしてこれは字面で何となく想像するよりもはるかにディープなレベルでそうです。

求職&起業スキルの修練〜「有能」「売れる」とは何か?

 IELTS(英語試験)を除けば、単にテストでいい点取ってるだけでは「有能」「優秀」とは評価されません。そんなミエミエのゴールが設定されて、そこを早く走った人の勝ちなんて甘っちょろいゲームではないです。それは客観的に優秀な人材/商品であろうとも、それと就活に成功するか、商品が売れるかは自ずと別問題であるのと同じです。「市場」で勝ち抜かないとならない。

 そもそも何をもって「優秀」というのか?です。いくら日本 or 世界で優秀さが認められても、オーストラリアという一顧客(雇用主)から「間に合ってますわ」と言われてしまったら話は終わってしまう。しがってオーストラリアとしてはどういう人材が欲しいのか?その人材の評価はどのような観点からなされているのか?を自分なりにリサーチしたり、考えていかなきゃならない。オーストラリアでは親切なことに、SOL(Skilled Occupations List) とかCSOLなど「こういう職種を求めてます(人手不足です)」と公開してくれていますし、これまでのどの分野からどれだけ採用しているかというデーターもあります。ビザ代行士さんにちゃんと相談したら、もっと詳細な傾向も教えてくれるでしょう。

 「有能」というのは相対概念です。いつ、どんな局面で、誰にとってというTPOによって有能評価がなされるかどうかがガラッと変わってくる。そのあたりはキチンと考えて基本戦略を立てないとまるで無駄な努力をしてしまう恐さがあります。そしてそれはまんま求職活動のノウハウにもなるし、マーケティングの市場調査と同じく起業においても必要なスキルでしょう。というか、こんな公開情報(移民局の発表+世界・オーストラリアの産業経済動向)程度であれば常識レベルといってもいいでしょう。別に完璧に理解する必要はないだろうけど(てか完璧な理解なんか誰にとっても無理だと思うし)、それが相対的なものであり、今年そうであったとしても風向きが変われば来年は全然違ってしまうということ、つまりどっかのコースを受講してお勉強さえしていればOKっていう固定的な話ではない、ということだけは理解すべきでしょう。

 人によって見方が違い、時期によって話が変わるという相対性や流動性を、完全に咀嚼し、自分の思考パターンに組み入れてしまうこと。これは今後生きていくうえで必要なスキルだと僕は思います。なんせ世界そのものが激しく変わっているわけですから、日本であろうがオーストラリアであろうが、世界のどこに行っても共通するでしょう。「これさえやっておけば一生安泰」なんてものはないよ。常に変化を予想し、自らも変わっていかないと。

生きるための基本

 これ、単に頭で理解してるだけってなりがちです。本当に腹の底からわかっているのか、そのために行動しているのかというと事実上何もやってないってケースが多いかもしれない。しかし、ひとたび永住権を目指すとなったら、移民局の発表には戦々恐々とせざるを得ないし(なんせ数百万の学費を突っ込んだ学位資格が無駄になるかも〜!ですから)、懸命に先を読もうするでしょう。そして移民局の動向は、朝令暮改でけっこう激しく揺れ動くのですけど、それ相応の経済的合理性もあります。最新の統計ではこの業界は今後衰退していくだろうとか、現場ではもう人が余ってオーストラリア人が就職できなくなっているという声があがってるとか、そのあたりに応えてこまめに軌道修正しますから。

 したがって、枠組みとしては、A路線で一応攻めるけど、AがダメになったらBを、BがダメならCをという複合構造にしておく必要があります。それは、永住権においてもストレートでサブクラス189の王道を突破するか、それともバイトから入って労働ビザは出ないけどビザ取り学校の学費は出してもらって、いずれ457ビザに昇格し、186の雇用者指名に漕ぎ着けるか、あるいは最後はリージョナル加点を狙ってフィニッシュ!とか、もう頭がウニになりそうなくらいルートがあります。しかもルールがちょこちょこ変わる。さらに永住権を睨みつつ、同時に他の国での展開を考え、あるいは他の国の外資系就職でキャリアを積むことを考え、あるいは一旦日本に戻ってこれまでの蓄積で別方面に働きかけるとか、もっと大きく総合的に見ていくことも求められます。

 めちゃくちゃ大変なようでいて、でもそれって「生きる」ということの基本だと思います。
 昔の農家だって、去年の大氾濫で土壌が根本的に変わってしまったから、もっと他を開墾して新田を作ろうとかやってたわけですしね。作付の種類を変えようとか、もっと冷害に強い品種にしなければとか普通に考えるでしょう。生活かかってますもんね。さらに単に収穫物を出荷してるだけだったら年変動が大きすぎるし買い叩かれるから、自分の所で加工商品化して付加価値を高くした方が保存期間も長くなるし利潤率も高くなるぞと考える。しかし、さて具体的に何をどう商品化すればいいか?というとサッパリわからん!とか、もう年がら年中考えている筈です。どこの村でも村おこし的なことは頭を絞って考えているでしょうし、どこの自営商店でも品揃えや展開を考える。そして企業に入ったとしても、将来的に人工知能に置き換えられない=生き残れるキャリアを目指すならば、より高度な創造性ある職務内容で修行を積むべきであり、そこでは日常的に「売れる商品を作れ」「もっと売り方を工夫しろ」と求められるでしょう。結局どの道を進んでも同じことです。地球のどこにいっても、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出さないと死ぬことに変わりはないのと同じく。

 こういうことってビジネス本や雑誌の記事には普通にどこでも書いているでしょう。それを読んで「なるほどー」と思っただけでは、実戦的な力は身につかないです。やっぱ自分の人生に直結するレベルで、「板子一枚下は地獄」というヒリヒリ感とともに日頃から考えてないと。その意味でいい練習になるよなーということです。ほんとは生きとし生けるもの全てがコレをやってるわけだけど、それを改めて明瞭に認識できるのがいいし、また明瞭に認識できる方が楽だとも言えます。「このままでいいのか」という将来への「漠たる不安」の方が、漠然としてるだけに対処しにくいですもん。

スキルとキャリアの証明

 オーストラリアの永住権では、実務経験が重視されます。それもオーストラリアでの勤務経験の方を評価される。例えばポイントテストでも、オーストラリア国外(日本など)で2年10ヶ月働いても点数ゼロですが(3年以上でないと5点つかない)、オーストラリア国内では1年以上だったら5点もらえるし、3年以上5年未満で10点貰えます。過去10年に8年以上働いていたらそれだけで20点ももらえる。

 なんでオーストラリア国内だと評価が高いかといえば、これは当然の話だと思います。最終的にはオーストラリアで働くんだから、オーストラリアの労働市場で認められたかどうかが大事です。オーストラリアで建築現場で大工として働いてましたというのと、スリランカで大工やってましたというのとでは自ずと違う。作ってる家も、規制も、やり方も違うだろうから、直ちに右から左に横滑りできるものではない。でも3年以上やっていたら、ある程度の基礎はできているだろうから、まあ多少は点数あげましょうかってことでしょう。

 つまりオーストラリア現地において現に働いてましたよって事実は、オーストラリアで有能ですよという「証明力」も強いのですね。ならば、同じ働くにしてもオーストラリア国内で何が何でも仕事を見つけて働いた方が、日本でやるよりも2年分有利だといえます(これがひいては年齢点に響いて最終合否に影響するとか)。また外国(オーストラリア以外)の資格や実務経験がそのまんまこちらで同じように評価されるものでもないです。僕も22年前日本の弁護士資格(+実務経験)でアプライしたものの、こちらの業界審査機構による査定は弁護士ではなく、司法書士のそのまた一部の仕事についてのみしか認めてもらえませんでした。日本に司法試験の方がはるかに難しいぞ、一年目から法廷に出れるからバリスター資格だぞといってもダメ。日本でのキャリアをこちらで認めさせるのは、各業界の(ときに意地悪な(笑))審査を受け、且つ試験を受けろとか、○ヶ月のコースを受講しろとか、条件いっぱいつけられます。その点でも不利。

 なお、「働く」というのは週20時間以上ということで学生ビザの労働許可条件とギリ一致しますので、そういう方法論がありうると(ただし、なんでもいいから働けばいいってもんじゃなくて、ちゃんと自分のポイントとなるSOL上のスキルと合致してないとダメです)。

 片や学歴点ですが、博士号に20点、学士号に15点もらえるけど、これって日本のものでもいいですからね。オーストラリアの教育機関に(16ヶ月以上 and Two academic years )通ったことによるボーナス点(オーストラリアにお金を落としてくれてありがとう的な)は5点に過ぎないです。現在高卒資格しか無く、また何の職業資格もなく(これはこれで査定されて点数くれるかも)、どうしても大卒資格を取っておいたほうがいいというなら、入試も卒業も世界で一番簡単な日本でやった方がお得だってことにもなります。こっちの大学は半端無くきついし(そもそも英語点的に入れないし)、学費も留学生だったら3年で数百万かかるし(へたすりゃ一千万近く)。だったら日本で、それも大学の通信制を受講すれば学費も安いし、こっちでいながらにしてやることも出来なくもない(もっとも居るための条件としてビザ取り学校に通ってたら、体力的にどうかということと、期間がダブるのでカウントしてもらえるかという問題もあるが)。

 つまりどっちでやった方が得か?コスパが良いか?が対象によって違ってくる。同じようなスキル、キャリアでいっても、その稼ぎ方や評価の仕方は全然違うので、そこは考えどころだと。寿司職人だったら、本来なら日本でビシっと修行してた方が客観的な腕としては優秀なんだろうけど、こっちでオージーがやってるなんちゃって寿司みたいなところで働いていた方がポイント的には高くなるという一種の逆転現象も生じるわけで、でも、そこは割り切ってクレバーにならないと。

 ということで、スキルやらキャリアというものは、これも相対的なものであって、単純に勉強すればいいんだ、修行すればいいんだってところで思考停止してたらダメだよん、ということです。

 これは「ものの考え方の訓練になる」という点で非常に高い教育効果があると思います。硬直的な思考でいたらあかんよと。つい、硬直的にこれでOKだ!とカタチにしたがるものですが(その方が安心できるし、安心したい一心でそれ以上考えたくなくなる)、不安だろうがなんだろうが、荒れる海路をいくんだから、目をくわっと見開いてしっかり進路を見定めろ、天候や海の状態を冷静に観察して、臨機応変に進路を変えていけってことでした。この能力は、日本でサラリーマンやっていても、我が社は大丈夫なんだろうかとか、もし転職するとしてどういう進路をどういうダンドリでやればいいのかということで、100%役に立ちます。リストラ→ハロワでは芸がなさすぎるでしょ。

求職・職務経験+生活経験

 オーストラリアの生活&仕事というのは、大きくいえば日本とそう変わりませんけど(働くと給料というものが貰え、家の賃貸借という制度があり、、とか)、実際に日々動かしていく感覚ではかなり違います。

 僕も一括パックの初日のレクチャーの第一に「全てのアテは外れると思え」と言ってますけど、「え?」という想定外のことがよく生じますので、それに慣れる。何事もきっちりしてないで安心できないのですけど、きっちりしてないから自由度が高いことでもある。ダメと言われてもネゴ次第で「じゃあ、いいよ」と言ってくれることもある。その場合の交渉方法も、日本みたいに「俺は客だぞ!」と主張しても「知ってるよ」と言われて終わりだから、相手により、局面によりやり方を変える。これは経験がモノをいう世界なので、ワーホリやってファーム行って二回目の書類にサインしてもらえないので喧嘩したとか、交渉したとかいう経験がある人、地べたから這い上がってきた人の方が強いです。ストリートレベルで強く、白兵戦に強い。捨てる神あれば拾う神ありってことも体得してますしね。以前にも紹介した追突事件の顛末など、あのくらいの動きが求められるわけです。

 仕事においても、日本と違って、営利社団法人の純化というか、金儲けのためにやってるんだよって意識が徹底してるから、儲かっていても無駄だと思ったらどんどんリストラします。僕もこちらに来た当初、カンタス航空が空前の利益を計上したその日に数千人のリストラ計画を発表してのを読んで、「ほー、そーゆーもんなんだ」って思いました。だから、仕事への意識も変わりますし、つねにグラグラしてるものと想定し、「義経八艘飛び」のように、因幡の白兎のように、ぽんぽんぽんと船やらサメの頭やら踏んで次に次に動いていくって発想が必要でしょう。

 日本的な仕事観や生活観がそのまんま通用する国は、世界広しといえども日本だけだと思います。でもオーストラリア的なそれは、日本のそれよりもより汎用性が高く、広く世界に通用すると思います。このやり方に慣れておいて損はないですよ。別に人格を変えろとかそんな大袈裟な話ではなく、そういうやり方や技術に習熟するってことですから。晴天ドライブだけではなく、夜道や雪道の運転にも慣れておいたほうがいいよ程度の話。でもって、これはこの先の日本も段々そうなっていくでしょう。すでに下部構造の方から崩壊してますし、今でこそ既得権組織がガッチリとスクラム組んで旧体制死守〜でやってるけど、遅かれ早かれでしょうね。

 というか、日本だって古くから同じ動きを求められていますよ。それなりの裁量権を任された仕事だったら、あの手この手奥の手孫の手であらん限りの手練手管で攻め陥せ〜って感じでしょう。僕の前職だって、単に六法丸暗記して知識を吐き出せばいいってもんじゃなく、こういう相手にはこういう説得方法、この手のタイプにはこっちから攻めて、お役所はこう動かせ、大企業の泣き所はココで、よしこうなったらメディア戦略だ、一社にだけリークして特ダネ書かせるか、それともバーンと記者会見やるか、叩いて、引いて、すかして、脅してみたいな話です(ほんでも正直に誠意もってやるのが一番有効ですけどね)。バブルの頃はゴルフ場開発が盛んで、聞いた話で正確性には欠けるけど、山奥の原野からゴルフ場一つオープンさせるまで、民間・役所の書類で他人のハンコが500個以上必要とか言われたもんです(だから規制緩和とかいう話にもなるんだけど)。その担当になった人は、朝から晩まで東奔西走で、接待だ、交渉だ、陳情だってやるわけです。まるで将棋のように、大局をみて、複雑な手筋を読んで、着々と手を打っていく。

 実際そういうことが出来ないとある程度の収入は稼げない。そして、そういうことが出来る人は、多分オーストラリアの永住権の錯綜した道筋も、「ははん」ってすぐに見当がつくだろうし、前後のダンドリを間違えず、要所要所で正着の一手を打って、およそ外すことなしって感じでいくでしょう。だから、それが「有能」だということです。世界的な趨勢で言えば、将来的に必要なのはそういう能力を鍛え上げた人であり、それ以外はAIかマックジョブの時給仕事で代替できちゃうってことでしょう。だもんでこれは、単に外国の永住権を取るだけではなく、日本における将来のサバイブにもなる。

 その能力の育成は、ある程度しっかりした企業や雇用先でみっちり実地で習わないとわからないので、そうでない職場とでますます実力格差が付く。就職前よりも就職後に激しく能力差というのはててくる。でも、ここで永住権ゲームをやると、それに類する能力が磨かれるわけで、いいじゃんと(笑)。

 これを何となく体得するのに2−3年くらいはかかるんじゃないでしょうかねえ?それまでに海外に何年も住んでた人や、日本でもジャングル切り開いて〜ってやってきた人なら「微調整」で済むでしょうが、初めてだったら「えー、なんでじゃあ!」って思うでしょう。日本の場合は、ホモジニアスの金太郎飴社会だから、ある程度ライフスタイルがパッケージ商品みたいになってて、大きく「A定食お願いします」「公務員セットひとつ!」と決めれば、あとは大体周囲を見て同じようにやってれば良いという。ラジオ体操みたいなものです。でもこっちは、そんな定食ないし、着いたその日からジャングルですから(笑)、普通に生きてるだけで結構鍛えられますよ。運不運の波動変化にもココロは波立たなくなるし、比較衡量や価値判断のエッジが鋭くなってくるから、どーでもいいことはバッサリ切り捨てられるようにもなるし、起死回生の一手〜ライトパーソンを一人見つけるという打開策もなんとなく経験でわかってくる。「清濁併せ呑む」ということも何となくわかってくる。

ゲームである以上ルールに精通しろ

 さらに、このあたりのことを生理的・体感的に慣れることが必要で、そこが慣れてないと不満ばっかに目がいって、こっちならでは蜜が滴るような美味しい果実には気付かない勿体ない事態もあります。永住権でも、日本で取ってそのままやってきた人は、最初の数年は試運転や調整期間くらいに思ってたらいいんじゃないかな。多少お金に余裕があるなら、最初の1年くらいはムキになって仕事探しとかせんと、エクスチェンジパートナーでも沢山みつけていっしょに遊んでたらいいよと。僕だって最初の2−3年はそれでしたもん。これは身体に馴染ませるのに数年かかるな〜と、これまで十数回の転居経験ありますから、大体の目分量としてそんなもんかなと。ここで下手に不安にかられて仕事しちゃうと、仕事の世界って意外と狭いですから全体が見えなくなって良くないなと。とりあえず仕事ないけどヘラヘラ〜、なんとかなるでしょってヘラヘラ〜って出来るようになるのが第一歩のイデア・シンクロナイズ(発想の波長同調)かなと(笑)。

 これね、こう書くと冗談みたいに思われるかもしれないけど、マジにそうですよ。日本国内でもあります。関東から関西にやってくると、やっぱり世界の論理が違いますから。しかも同じ関西でも京都には京都の論理則と経験則があり、大阪には大阪のそれがある。東京はカッコつけてなんぼなんだけど、大阪でそれやるとめっちゃ嫌われるとか。大阪にはやや露悪趣味的なプライドや精神性があるけど、京都や神戸にそれは無いとか。また業界によっても違い、公務員世界の価値観もあり、且つ階級的な論理則もある(キャリアにはキャリアの価値世界があるとか)。永住権ゲットのルート選択も複雑多岐にわたり、現実の生活世界でもそれはある。いずれもそれなりの「ゲーム」性があり、ゲームである以上そこには必ず「ルール」がある。ゲームに勝とうと思ったら、まずはルールに精通していることが必須条件でしょう。オーストラリアに来た時、よく新聞の投書欄は読みました。今は掲示板とかですよね。そこでローカルの人はどういう発想で何をどう処理するのか、その精神世界とか傾向とかがわかって参考になるからです。ははあ、このあたりは日本とそんなに変わらんねとか、このあたりは国がどうのというよりも単に個人の趣味なのねとか。そこが分かるほどエンジョイしやすくなります。わからないと、ダブルドリブルでピーっと笛吹かれて、なんでやねん!差別だ差別!とかトンチンカンな話にもなる。



 1ヶ月ほど前の写真ですが、紫色のジャカランダが終わり→夾竹桃のシーズンになる移り変わりです。

実際の戦略〜精神的安定

 永住権というのは仮のゴールです。別に取れたから人生OKでもないし、取れなくても構わない。でも、一応このくらい難しい目標、どうかすると10年くらいかかるような大きな目標を設定しておくと、意外と気が楽なもんですよ〜。

 これ、やったことない人には分からんと思う。テンションびんびんに立ってくるんだけど、でも妙に安定しているという不思議な感じ。僕も司法試験やるんだ、その当時の難関度でいえば、「そんなの絶対無理!」みたいな「大望」を掲げて、周囲にも「やるぞ」と公言してると、なんかね、楽なんですよ(笑)。

 この妙な感じ、わからないかなあ。不安の中で何が一番辛いかというと、「何をしていいのかわからない」ということでしょう。分からないから右に行ったり左にいったり、でも結局分からないからどっちにいっても何か間違ってるような気がする。そうこうしているうちに時間ばっかり過ぎてきて、年はとってきて、チャンスはどんどん少なくなり、あーもー、どうしたらいいんだー?!ってなるのは、本当に辛いと思います。

 そういうときは以前書いた「てっぺんを狙え」じゃないですけど巨大な目標を立てるといいですよ。「ノーベル賞を取る!」とかさ、10年以内に資産100億円稼ぐ!とかさ、日本で一番有名人になるとか。あまりにも非現実的だったら白けるけど、適当に無理目で、でも気違いじみた努力と幸運に恵まれれば、もしかしたらいけかも?くらいの。「プロでメシ食っていく」くらいの。

社会的身分と仲間のゲット

 そしてそれが一つの社会的身分の獲得にもなります。司法試験も、回数制限のなかった昔は「司法試験受験生」というのが一つの社会的身分であり、「売れない役者」「インディーズのバンド」くらいの感じで、これってなんとなく収まりがいいんですよ。

 実際、それに安住して、「いつか一発当ててやる」を口癖に、他人から借金しまくり、女のヒモになったりしてやってる人もたくさんいますけど、逆に言えば「安住できる」という精神的安定作用はあるのですよ。それさえ言ってれば世間に通るというか(通らないけど)、少なくとも「どうしていいのかわからない」という不安はないです。どうしたらいいのかって?勉強しろ勉強って、明白に回答は出てますから。

 それに仲間も出来ます。「PR(永住権)狙ってます」と公言してると、「俺も」「私も」と職場やシェア先で、人種国籍を越えて同攻の士が出てきます。語学学校のイブニングコースなんかその巣窟みたいなものですし、気が付くと仲間が増えてきて、奇妙な連帯感も出てきます。ひとりぼっちじゃなくなる。これ大きいですよ。そこでは皆身を削ってチャレンジしてるわけですし、リアルな情報交換も出来ます(しょーもない噂話や都市伝説も多いけど)。前回「落ちるグループは全員落ちる」という話を書きましたが、良いつながりが出来たら、それが強力な支援・互助組織にもなります。レベルも馬鹿高かったりもしますし(IELTS7.5点や8点とか普通にいるし)、いい励みにもなります。

GPS感覚の効用

 そして全体に、「いまココ」という全体のGPS感覚が生まれます。択一試験には受かりました、コマを一個進めました、でも次の論文で玉砕でした、来年こそは、、というのが「これまでのあらすじ」で要約できるし、今何をすべきかもわかりやすい。迷わない。迷うにしても選択肢や迷いどころがわりとハッキリ見える。永住権だったら、なんとかIELTS6.5点まではきました、しかし7まであと一歩です。半年以内に7いきます。仕事関係ですけど、今の職場、最近雲行きが怪しくなって、スポンサーしてやるって話だったんだけど、どうも儲かってないらしく、先々どうなるか?って感じなんですよね。だから、別に他のところにも声をかけたり、知り合い全員に紹介してもらうように頼んだり、次の一手を探しているところです。ところでネットで見てたら、日本にこういう求人があって、外資なんだけど内容が結構面白そうで、とりあえずそっちで3年くらいキャリア積んで、それを土産にしてリターン・マッチというのもありかなとか、いろいろ考えられるでしょう。将棋のように、銀頭に火線を集中させて一気に頭から叩いていくか、ぐるりと飛車を迂回して敵陣深く成り込んで、一気に内部から食い荒らすのもアリかなとか。

 何をいってるかというと、サッカーのコートみたいに全体のフォーマットができていると、何を考えるにしても具体的に収斂してくる、ということです。そこが茫漠としていると、何をどうやっても今どこにいるのか、大海原にポツンと浮いてる感は拭えず、やっぱり不安だと思います。また、不安を解消すべく、目先の資格やコースにしがみつくという愚も回避できます。よくあるんですよ、抽象的に就職に有利だからでなんかのコースを取って資格を取るとかいうの。でも、それで資格とったとして、こっちで働くんだったらやっぱり永住権がないと就職先が無いという地獄のニワトリタマゴからは逃れられない。だからそれでこっちに就職できるのか(ビザを出してもらえそうなのか)というリサーチは不可欠です。そこをやらずして単にコースにしがみついたら、先が続かない。とりあえずはやることがあるから精神安定はするだろうけど、途中でブチ切れている階段登っても、また降りてこないとならない。また、こちらで取った資格を日本で使えるか?というとそこはまた別途リサーチが必要で、だからその場限りの策だけやってても意味ないんです。ある程度のゴールが見えて、そのゴールとの関連性をはかっていかないと。

 あとですね、冗談みたいな余録的な効能もあります。GPSがちゃんとあると、そこでは何をどうやってもカタチに収まりやすい。昼寝してても、ガリ勉してても、バイトしてても、ナンパしてても「大望を叶える途上の出来事」ということで処理できます。ナンパのどこが?と言われるでしょうが、理屈と膏薬はどこへでも付くで、「鋭気を養う必要がある」「英雄色を好む」「世情風俗を知るための勉強です」とか幾らでも正当化はできます。不安というのは、自分のやってることが自分でも説明できない、位置づけがわからないと生じやすく、逆に阿呆みたいな位置づけでも、大雑把に出来ていればなんとなく収まるのですよ。大学入試の浪人生だったら、いよいよ秋になりました、そろそろ志望校を決めていって、、とか、マラソンだったら35キロ地点を通過しましたとかね。そこではサボっていて、こんなんじゃ駄目だあ!ってことになっても、なにがどうダメなのかわかるから、まだ楽ですよ。焦りはあるかもしれないけど、大海に心細く浮かんでいるような、人格が溶けていってしまうようなディープな不安はないです。哲学的な、存在論的な恐怖はない。要は「工期の進捗状況が遅れている」だけの話で。どこを工事すればいいのかわからない〜!という不安よりは、よっぽど楽です。

 ときに、目標が永住権とかロックスターではなく「人」の場合もあります。生まれてきた子供がもう目に入れても痛くないくらい可愛くて、よし、この子が立派に成人するまで、お嫁入りするまで、「なにが何でも〜!」と頑張っちゃう心理もあるでしょう。自分一人だけだったら、もう面倒くさいし詰まらないし死んじゃおっかな〜とか思うような人でも、大切な人ができたら、馬鹿野郎、死んでる場合じゃねーんだよ、石にかじりついてでも!って。初孫をこの手で抱くまで死ねるかとかね。それが一番天然モノで、一番強いんでしょうね。これがあったら、どんな仕事でどんなことしてもやっていけます。幸多かれ、です。

ご褒美実利も互換性がある 

 最終的に永住権取れたら、これも前に紹介したようにある程度のご褒美はあります。税金や福祉で国民と同じ特権を与えられるし(選挙権以外の全て)、日本で危ぶまれている年金だってこっちの方がまだ脈があるし、いよいよ世界の終わりのような日が来ても食料自給率175%だっけな、やたら場所もあるしサバイブ率が高いよとか、まあいろいろな実利。

 でも、過程で結構得るもの得てきてますのでね、あとでツブシが効きます。これが実は一番デカいような気がする。

 第一に人間力です。ちょっとやそっとじゃ諦めないしぶとさや、次から次へを新しい打開策を考えられる創造力とか、それになりに必死こいてやってたら、自然についてきますよ。ここが強かったら、日本に帰ろうが、新天地でなんかしようが、大きな武器になりますし、ここが弱かったら、結局のところでどこで何をやってもしんどいことになるでしょう。こういう能力って、資格にもキャリアにもならないんだけど、でも一番重要な力だと思います。嘘だと思ったら、あなたの職場で優秀で頼りになるわあって思う人を思い浮かべて、具体的に何がどう優れているか考えたらいいです。それは学歴でも資格でもないでしょう?多くの場合は、その人が持ってるパーソナリティ的な地力、人間的な包容力であったり、大胆な発想や行動力であったり、きめ細かい配慮のできる思いやりであったりというゼネラルな力だと思います。

英語力

 第二に英語力です。どんなに職業スキルがあってもそれを現場で活かす(採用されて稼働できる)には、相当ハイレベルな英語力が必要です。IELTS6点ないとそもそも永住権申請できないからマストだけど、実際には7は欲しいです。何が何でも7取れって感じですね。それかケンブリッジのCAEです。ポイント付きますしね。6くらいでは実際の職場まで辿りつけない可能性が高い。だから石にかじりついてでも7点!でも、7点って途方も無く高いですよ。でも語学って、諦めずにやってたら絶対上達します(諦めたり気を抜いた瞬間にピタリと止まるけど)。だってネィティブだったらどんな馬鹿でも喋ってるもん。頭の問題ではないのですよね。だから全然達成可能です。この程度のことが達成不可能だと思えるようだったら、むしろそう思ってしまう自分のセルフエスティームの低さをこそ問題にすべきでしょう。そんな自己評価が低かったら、何をやっても勝ちパターンにもっていけないから、カウンセリング行け、座禅組めです(笑)。

 で、うおー!こんちくしょー!で崖よじ登るように7点目指してやってると、やっぱりそこそこの英語力にはなりますし、7点目指していい勝負できるくらいだったら(仮に取れないにしても)、別の国でチャンスを模索するにしても、日本で英語関係の外資探すにしても、今とは見え方が全然変わってきている筈です。「だー、英語ねー、とほほ」といって頭を抱えているのではなく、「あ、英語ですか?まあ出来ますけど」って言えるようになりますから。それにそのくらい出来ないと、大学進学するにしても出来ないですしね。「どうせダメだ」と思いながらモノ考えてたって百害あって一利なしですし、そもそもキミ、やる気あんの?です。

 ちなみに英語については、英語ゴハン論というのがあります(僕が言ってるだけだけど)。そのココロは、それだけでは一食にならない(それだけでお金は稼ぎにくい)が、ゴハンさえあれば、あとはほんのちょっとオカズ(梅干し一個でも)をプラスすれば一食になりえます。逆に梅干しだけ食べても一食にはならない。英語だけではメシは食えないけど、ほんちょっとのプラス(専門技能や売り)があればいい。でもいくら専門技能があってもゴハン(英語)がなかったら一食にならない。

 また英語習得には、いわゆる「勉強」だけでは突破できない限界があります。言うならば「修羅場メンタル」のようなもので、修羅場を踏んでメンタル的にタフにならないとダメだと。英語ができない→困る→先に進まないではダメで、困る→でもお構いなしに先に進む、にならないと。これ自分では出来ないです。自殺行為みたいに思っちゃうからどうしても躊躇う。もう否応なくそういう状況に身をおいて、出来ようが出来まいが、困ろうがなんだろうがどんどん話が進んでいくって展開が必要だと思います。

 これは英語に限らず、どんな職業でもそうでしょう?プロとしてやってると、普通のケースはお勉強レベルや実習でなんとかなっても、信じられないような悪条件でやらされる場合も出てきます。それでも無理やり進んで帳尻合わせてしまえる剛腕がプロには必要でしょ?そしてそれは修羅場みたいな現場経験を踏まないと身につかない。一般に言えば英語できないとボロクソ怒鳴られるような職場がいいんだけど、普通そういうところにはいけない。なぜなら就活で失敗するからですよね。そんな奴雇いたくないし。雇われる場合は、その程度の英語でも良いだろうって場合です。

 だから「本当はダメなんだけどなんかの手違いでその場に居る」くらいの感じがいいんですよね(笑)。これを自然とやれてしまうカリキュラムが、ワーホリさんのラウンドでしょう。もう英語出来ないもクソも一切の言い訳通用しないし(お金ないし)、何が何でも前に進むしか無いですから、自然と乗り越えてしまうのですよ。それもそう大した責任もない比較的気楽な環境だから、メンタル負担が少ないのでやりやすい。だからぐるっと荒野を一人で放浪して帰ってきたら一皮剥けているし、10の英語力を20にも30にも増幅させて使うことができるから燃費が良くなる。

職業経験

 第三に職務経験です。海外アウェイ環境で、自力で掴んできた仕事経験はやっぱ貴重です。他人にもそれなりに評価されるでしょうし(旧来的な日本企業は全く評価しようとしませんけどね)、外資系だったら、一応グローバルでの「戦場帰り」ってことでそれなりに評価するところもあるでしょう。その現場のしんどさを知ってる人だったら、そこは認めると思うよ。でも他人がどうとか、就職機会がどうとかいう以前に、自分に自信が付くと思います。それなりのことはやってきたと。まんざら捨てたもんじゃないのよ、と。

 また、あとで起業するにしても、ある程度の「武勇伝」や金看板は持ってないと。地元で英語を教えるにしても、「いやあ、僕が昔シリコンバレーで働いてたときにねー」とか言えると良いと。例えそれがホットドッグ売ってるだけであろうとも、です(笑)。経歴詐称なのかどうか微妙〜って感じなの、皆やってるもんねー。そもそも「カリスマ○○の」とか自分で言ってたりするし(笑)。でもって、それが消費者受けしたりするんだよな、やってらんねーよな、みたいな。

 でもマジな話、そこで自分がさんざん苦労したら、それはやっぱりひとつの「資産」なのですよ。単なる辛い思い出、黒歴史にしちゃダメです。あんだけ大変な思いをしたんだから、ちゃんとモトは取りなさいよ、取れるように工夫しないさいよ。高橋是清だって、アメリカいって知らない間に奴隷として売られていたというエピソードがありますけど、こんなの「キャリア」でもなんでもないんだけど、でも「すげーな、この人」みたいなインパクトがあるから武器になるのですよ。

 だもんで、永住権だー、とりあえずIELTSだー、職務経験だ、スポンサーだってやってたら、これらのことはある程度は自然に身につきますし、それって結構デカいですよー。もし、そこの自己評価が低い人がいたら、それは間違ってると思いますよ。他人様に対して間違ってるって言うなんて大それた話ですけどね、でも、自分のやったことはちゃんと評価してやらなきゃ。そんなさー、言葉も通じない外国いって、てめーの食い扶持をてめーの力でゲットして生き延びてきたんだから、それはそれなりのことなのよ。誰にでも出来ることじゃないのですよ。

30代後半、40代、それ以降の場合

 これも実際に相談案件であったんですけど、やってみる?10年戦争?って。

 確かに年取ると永住権確率減るんですけど、じゃあ日本で頑張る?といって、頑張れる人、頑張りたい人、なにかネタをもってる人だったら、わざわざ外国くんだりまで出て行く必要ないですよ。地元で用が済むなら、遠出することもない。でも、今の、そしてこれからの日本で、年齢いってからの再就職、それもマックジョブじゃなくて、ブラックでもなくて、胸はって、修行も出来て、収入もあってってのは、やっぱそれなりに難しいです。なんでもいいなら再就職は容易でしょうし、そこそこならいけるでしょ。でも「そこそこ」でいいのか?って問題があるわけですよね。

 以前「40代がやばいらしい」ってエッセイで書きましたけど(697-8)、僕も経験あるけど、結構しんどいんですよね。ホルモンバランス変わってくるので、個人差あるけど体調的に乱気流になるのが一つ。もう一つ、これは僕は未経験だけど、やっぱ中年期鬱になりがちだと。実際、40歳過ぎてからの自殺率はガーンと上がります。特に男性。僕も男だからわかるんだけど、男の子ってねー、面白かったらどんな下らないことでも燃えられるんだけど、面白く無いとすぐに死んじゃう可憐な生き物ですからねー。僕の友だちも自殺しちゃったし。40代充実して乗り切ったら、50代は比較的体調も安定するし、ゴールも見えてくるから逆説的に焦りも少なくなるし。

 だからこのヤバめの40代を日本で職探しで消耗するくらいなら、こっちで10年ゲームやってたら?と。住環境、自然環境、人環境はいいし、QOLも高いし、とりあえず外人ばっかだから他人の目を気にしないでいいから楽だし。で、無理目な目標目指して、うおりゃあ!なんと!まだまだあ!と柔道の乱取りみたいに、どったんばったん悪戦苦闘してたら、テキトーに盛り上がって、面白いよと。そこそこ燃えられるゲーム、それも十分に実利のあるゲーム、途中のどこでやめてもその時点でそれなりに成果があってお持ち帰りが出来るゲームはいいのかもしれないねって話です。

結語

 いろいろ書いてきたけど、結局は本人が面白いと思うかどうかに尽きます。将来の生活保障ばかりが気になってる時点で、面白いと思ってない証拠でもあるし。不安に打ち勝つのは、実は安定ではないと僕は思います。面白さです。面白いと思えることに不安はないです。いや不安が無いわけではないんだけど、打ち勝ちやすい。面白いことは、不安だから止めるか?というと止めないですもん。心臓の鼓動がやや早くなっている客観状態=「ドキドキ」を、不安にかられてドキドキしているのか、わくわく感でドキドキしているのか、です。その差はどこにあるのか?といえば、未来にイイコトが待ってると思うか、悪いことが待ってると思うかです。そして、そんなもん神様でもなければ誰にもわかりません。わからないなら、自分でイイコトを作って未来に放り投げておけばいいじゃんよ、沖合に浮かぶブイみたいにさ、ってことです。

 これは理屈で言ってるのではなく、自分自身の実体験でいってます。てか、実体験がなければこんなこと思いつかないって。過去に司法試験と海外挑戦というアホみたいなチャレンジをやってきたけど、やってる最中はそんなに辛くはなかったんですよ。今でも受験仲間との馬鹿話とか花火大会とかの下らないシーンはよく覚えているし、オーストラリアにやってきた当初の「なんも分からん!!」という圧倒的な無力感と圧倒的な自由感は覚えてますし、いやあ、あんときは楽しかったなあって思うもん。成功したから後で全てを美化してるだけちゃうか?と自己検証するけど、でもそんなことないわ。正味面白かったもん。緑色の五段変速で、あるいは真紅のパッソーラ(原チャリ)で、都大路を走り抜けていた時の感覚はいまでも覚えてる。あの新緑の風を頬に感じるのって気持ちよかったもんな。また、シドニーのフィッシュマーケットまで「こっちかな?」でぺったらぺったら歩いて行って、見つけて、「おお〜!」となったときの感覚は今でも覚えてる。ネットもマニュアルも何もない世界で、全部自分らで体当たりして覚えてってやってて、そこでは自力で銀行口座開設できたという些細な出来事一つで「おっしゃああ!」と妙に気分が高揚して、ほこらしげで、周囲の連中の仲間になれたような気がして、小山ゆう氏の漫画みたいに「わはははは!」と笑いながら知らない人の肩でも叩きたくなるような感じがして(笑)。楽しかったよ、やっぱり。

 むしろ、辛かったのは、受かってしまって弁護士やってる時期で、沖合のブイがどうにも見えないので、それがほんとしんどかったですよ。そんな弁護士会長になるんだとか、政界に打って出るんだとかいうのも興味ないし、財界に擦り寄って金儲けなんてのも興味ないし、ワクワクしないな〜と。でもブイが見えないまま毎日激務で多忙というのは、なんで頑張ってるかわからんだけに辛い。最初の1−2年は丁稚奉公的に初歩技術の獲得という大義名分があるから、まだ納得はさせられたけど(してなかったけど)、なんか蒼穹を突き抜け、宇宙までスカーっと突き抜ける視界が得られないので、GPSも曇ってて。まあ人生なんかこんなもんよ、何が不満なのよってのは重々承知だけど、だけど、だけど、お言葉を返すようだけど、人生がこんなに詰まらんわけねーだろ?ってのは強烈にあったよ。だって過去には面白かったもん。面白かったの知ってるもんね。

 で、折り返し地点を過ぎて、50歳過ぎて思うのは、やっといて良かった、です。あの頃の「わははは!」があるからこそ、やりたいことやってきたからこそ、今の現在地に納得出来てるというのは凄いあります。

 さて、結果と過程で、過程こそが美味しいって話だけど、ほんとそうです。結果はですね、ゲットしちゃうと案外詰まらんですよ(笑)。こんなもん?という感じ。と言うよりも、僕らが何となく結果とか過程とか思ってる概念設定自体が間違ってるような気もしますね。過程と思ってるけど、でもあれは結果なんだよと。1日生きたら1日分の結果がちゃんと出てるし、その果実はもう食べている。あるいは逆に、結果結果というけど、本当に最終的に来る「結果」は死でしかないでしょ。あとしばらくしたらこの世界から消えてなくなるんだよな〜ってのがある程度リアルにわかるようになってくると、どうせ最後は消えてなくなっちゃうんだから全ては過程でしかないというのも身につまされるように分かる。全てが過程ならば、そこに過程だとか結果だとか意味ありげに思うこと自体がナンセンスだというのもよくわかる。

 小学生の頃の夏休みは楽しかったけど、でも「夏休み」に「結果」はあるのか?といったら無いでしょ?新学期の最初に提出する宿題が結果なのか?それを得るために夏休みを頑張っているのか?といえば違うでしょ。だから、本当はね、結果なんか必要ないのだと僕は思います。1日1日を楽しく生きられたか、全力投球できたか、自分らしかったかこそが大事で、それが全てでしょう。

 ただね、そこまで達観できるもんじゃないから、なんかでっかい目標を掲げて、数学の証明問題の補助線みたいに仮定の線を描いて、ここからここまでって区切ってモノ考えると、それも無理目なくらいな遠い地点に置いておくと、意外と不安に陥らないで済むし、意外と楽しいし、本来の物事のありように一番近い感じでやっていけるんじゃないかな?ってことです。そのために永住権というモノがあるなら、そういう利用方法もあるよなーって話でした。

 月が出てたので、無理目なんだけど、月も入れた構図にしました〜と。




文責:田村



★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page