今週の一枚(2015/12/07)
Essay 751:興味があるのは、「老後」ではなく「死後」
写真は、Balls Head あたりで撮ったもの。最近Walikingにイソしんでいるのですが、水辺のコースも多く、強い陽射しの日は「波光煌めく」って感じで気持ち良いです。
「老後」ってなに?
今週は非常に分かりにくく、しかもあまり共有しにくいことを書きます。「死」です。かといってダークな話ではなく、むしろ「ワクワクしている」という話です。ね、もうこの時点で分かりにくいですよね。
巷では「老後」の問題が常に話題になってます。やれ年金やら介護やら認知症やら下流老人やら老後破産やら。老後資金に3000万円は絶対必要です→そんな金がどこにあるんじゃ、冗談も休み休み言え問題にしても。でも、僕個人はそこはそんなに問題意識がないのですよ。かつて「老後を制するものは天下を制する?」や「老後なんてない」というエッセイでも書きましたが、そもそも「老後」という発想そのものが馴染みません。
老「後」というけど、何を基準に「前」と「後」があるのか?といえば、おそらくは定期収入の停止/減少というイベント時を境にするのでしょう。それまで月々入っていた収入が消滅 or 激減するので、そのときまでに蓄えをしなきゃという「 アリとキリギリス」的な話です。じゃあなんで高齢になったら収入が減るのか?といえば「定年」があるからですよね。リタイアメントです。
しかし、それってサラリーマン or 組織人の発想でしょう?死ぬまで稼ぎ続けている人だっているし、生涯現役でやってる人だっています。弁護士もそうだけど自営に定年なんか無いですから。あるいは「隠居」という制度は昔からありますが、これとて家督相続というシステムあってのことだし、家システム=企業という経済的実体あっての話です。
ポイントは「稼ぐ力が衰えるかどうか」でしょう。だとすれば、それは必ずしも年齢とパラレルではない。若くてもダメなときはダメです。たしかに体力面での老化衰弱は大きな問題でしょうけど、これとても年若くして大病を患うこともあるし、また業態や必要とされるスキルによっては老齢によってもさして衰えないものもある。一般に記憶力は衰えるけど、洞察力など総合的な考える力は年とともにむしろ増強するともいいますし、個人的な経験に照らせば実際にもそうです。
だとすれば、体力低下→現役引退→収入激減と一直線につながるものではなく、体力↓知力↑という自分の戦闘能力の経年的な変化に応じて陣容を変えていけ、集団内においてはフレキシブルに適材適所を心がけろって話だと思います。その昔の部族社会では「長老」がいますが、総じて年寄りの方が賢かったりもする。江戸時代でも高位のマネジメントを司るCEOみたいな存在は、「家"老"」「"老"中」など当然のように高齢者が就くことになっていた。大相撲だって「年寄株」がある。体力が最高期には現役選手として働き、体力が低下したら組織運営や後進の育成という仕事がある。同じ格闘技でも、筋力よりもタイム感や駆け引きなど知的要素が強い居合や合気道の場合は年をとっても強い人は強い。だからこそ企業や組織でも「院政」が敷かれたりもするわけでしょ。それが老害になる場合もあるでしょうけど、実際にも最高齢者が実務的に最強である場合もある。
「憎まれっ子世にはばかる」じゃないですけど、とあるエリアを牛耳っているゴッドファーザーみたいな年寄りというのは、もう殺しても死なないくらいにタフでエネルギッシュだったりもします。そりゃいよいよボケが始まったり倒れたりしたら話は違うでしょうが、それも大体において死ぬ直前の比較的短い期間くらいです。ああいう人たちは生まれつき生命力が強いのかしらないけど幾つになってもカクシャクとしてるし(政治家とか)、常に最前線でフル稼働しているからボケるのも遅い。少なくとも一般に言われている65歳になったら〜などの「老後」って感じじゃないです。「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ」というフレーズがかの世界にはありますが、ほんとそんな感じだもん。
ということで「老後」とかいっても、まずそのフォーマット自体が「そうなの?」と思ってしまうし、自分にはあんまり当てはまらないような気もします。それは高校出てすぐに働くつもりの人が、周囲が大学受験だ〜とかいって騒いでいるのを、やや白けて見てるのと似ている。英語の略語で「N/A」というのがありまして、"not applicable"の略、直訳すれば「適用不可」→意味は「そもそもその問題が生じない」→もっと意訳すれば「別に俺カンケーないし」ってことです。それに似てる。適用される方々も多数いらっしゃるとは思いますが、さしあたって自分にドンピシャと適合するフォーマットではないな〜と。
自分に関係あるフォーマットを自分で作るならば、筋力↓知力↑に応じて、自分のマネジメントを徐々に変容させていけってことになるでしょう。できるだけ体力を使わなくても生産性が高い業態に移行していくとか、そのやり方を工夫するとか。あるいは、知力も低下していったら、もう終わりですから、知力の向上に努めると。具体的には昨日の水準を今日やったら不合格、ダメ出しをする。昨日そこまで考えられたら、今日はもう一歩先にいけ、もう一歩深化させろと上げていかないとならない。同時に頭が固くなるとか、初物にビビるとか、知的逃避傾向があったら、それも自分で自分にヤキを入れて矯正する。
あるいは年金その他の経済的サプリメントですけど、これもオーストラリアのように掛け金システムでない国にいく(or 行かなくてもその権利をゲットできるようにする)、配当、印税、賃料なりの法定果実を生むようにシステムを作っておくとか、ハイパーインフレになるときにそなえて、インフレに関係ない資産に変換しておくとか。例えば「恩義」というのは計量不能ですけど、「このくらいの感じ」という感覚はインフレや経済状態に関係ないですもんね。そういえば皆が貧乏だった司法試験受験時代、とある先輩はバイト代が入るとせっせと仲間にお金貸してました。曰く、自分で持ってると無駄に使っちゃうし、一種の貯金だよと。貸しても返ってこない場合もあるんじゃ?って聞いたら、だからそれを見分けるのが修行にもなるし、それで返ってこなかったら自分はその程度の力量・人徳だったってことだし、そういう自分の欠点は早く知っておくに越したことはない。それに返ってこないというリスクは普通の銀行だって潰れたら終いだから同じだろ?と。日常的に観察できる仲間や友達のほうがリスクが少ない。また、「ありがとう、助かったよ」ってことでちょっと晩飯おごってもらえるとかいう「利息」もあるし、その利率は一般の金融機関よりも平均すると高くなる。「だから有利なんだよ」と言ってましたね。早々に合格を決めて、今は弁護士やってるその先輩の話を聞いて、なるほど物事というのはそうやって考えるのかとまた勉強になったのでした。
全世界ゼロリセットの興奮
でも、そんなことより死後ですよ、死後。もう楽しみで楽しみで(笑)ここが分かりにくいところかと思いますが、別に早く死にたいとか思ってるわけじゃないですよ。出来りゃ死にたくないですよ。でも遅かれ早かれ死ぬことは100%確定なんだから、将来間違いなく体験することについて興味関心が湧かないわけがない。また絶対生じることに対しては、それなりの対処はなすべきでもある。
たしかに死に至るまでの苦痛については、あんまり考えたくないな〜って思うけど、死んでしまえばそんな苦痛もなくなるんでしょうし、問題はそのあとです。
では死後の世界があると思っているのか?といえば、100%白紙です。あるのかどうか、わかるわけないじゃん!です。そして、「わからない」ということは、あるかもしれないし、無いかもしれない。その割合比率はどのくらいか?といえば、これもさっぱり分からないから、とりあえず仮定として50:50にする。
よく「死ねばそれまで、その後の世界など無い!」という方がいますが、なぜそう断言できるのか、その合理的な根拠は?といえば、おそらく何もないと思いますよ。もともと「ない」ことを証明するのは「悪魔の証明」で不可能なんですけど、それにしても、積極的に「無い」と合理的に判断するための資料やら証拠があるのか?といえば無いでしょう。死後の世界はあるという説が、Heavenやら極楽浄土やらの宗教的世界観や、丹波哲郎的な言説であり、そういった宗教的 or タンバ的な発想に馴染めない→だから死後はないということでしょう。でもこれって論理の飛躍でしょ。それが論理的に成立するためには、宗教(&タンバ)だけが死後の世界を正確に知っており、その他の形態はない、という前提が必要です。でもそんな前提は立証されていない。だから全ての宗教(&タンバ)が間違っていたとしても、尚も思ってもいない形で死後の世界が存在する可能性はあります。と言うよりもその可能性(全員不正解)が高い。死んだことない奴ばっかで何を言ってもねえって。「なんでキミにそれが分かるの?」という根本的な疑問はある。だもんで、従来の存在説(宗教的な死後の世界観)の根拠薄弱さを批判したからといって、だからといって不存在が確定するというものではない。
そこで純粋に「わからない」という点に着目し、これを忠実に考えていけば、あるともないとも言えない。完全ニュートラルだとすれば50:50でしょう。
次に死後の世界がどうなってるか?ですが、これも全然分かりません。ここで僕は「わくわく」するわけです。「死んだらどうなるんだろう?」と子供の頃から時々不思議に思ってたこと、全人類の誰一人として正確に言えないこと、人類の永遠の謎になっていることが、自分が死んだら分かるわけです。究極の謎に対する解答が、今ここに明かされる〜!って感じで、「おおお〜!」と思う。もし死後なんかなくて、あるいはあったとしても自分の自意識が消滅してて「おお、こうだったのか〜!」と感動する自分もいなかったら、それはそれで話は簡単です。「ちくしょー、期待して損した」とがっかりする自分もまたいないわけですから、この場合はもう考えなくてもよい。考えるべきは、何らかの形で自意識が保存されて、「おお〜」となった場合です。
これ、めっちゃ興奮しますよ。いい年になってくると、大抵のことはやってしまっているか、あるいはやらなくても大まかな推測はできます。しかし、こと「死」に関してだけは全くわからんです。想像もできない。いや想像はできるけど、それが正しいかどうかは全くわからない。こんなにも100%完全に未知な物事、正真正銘のビッグな初体験ってもう死ぬくらいしか残ってないので、だから興味があるし、気にもなる。早く正解を知りたい!という。いや、早くても困るんだけど。
そして、これは単に「謎が解けてうれしい」というに留まりません。もし、何らかの形で死後も今の自意識なりアイデンティティのまま進んでいくとしたら、生まれて死ぬまでの人生全てに匹敵するくらいの大事件が起きるということでもあります。こんな超弩級に凄まじいことって、これまで経験したことないです。日本が沈没して消滅しました、宇宙人が大編隊で攻めてきましたなんて「些細な出来事」とは違って、桁外れのスパービッグイベントです。まず肉体そのものは滅びるだろうから肉体に拘束されない自分ってどんなのよ?ってのがさっぱり分からない。こんな顔してこんな背丈で〜ってのもチャラ。それどころがあらゆる物理法則や公理もそのまま持続するかどうかもわからない。肉体という三次元的物質とのリンクが外れるから、空間論においても上下左右という概念は残るのか、時間論においてもほぼ同じ速度で一方向にのみ時間が進むのかもわからない。そんな世界に存在したことない。もう世界観も自己認識も完全ゼロリセットされるわけで、もう凄すぎて予想もできない。例えるならば、ビッグバンが起きて宇宙が新生する現場に立ち会うのと等しいビックイベントです。これで興奮するなという方が無理です。わー、どうなっちゃうんだー!と思うと、もうワクワクするよね。
こんな途方もないことが、そう遠くない将来に生じるんですよ〜!これに比べたら戦争だろうが、世界大恐慌だろうが風呂の屁みたいなものです。まあ、なにもないかもしれないけど、そのときは先に述べたように「ガッカリする俺」もいないんだから、どうでもいいです。それにワクワク期待して無邪気に喜んでるだけだったら罪もないでしょうに。
対処って?
最高難度
これは人生最後の卒業試験みたいなものだと思ってます。これまでのどれに比べても難易度ではるかに抜きん出ている。だから「燃えるぜ」ってこともあります。何が難しいって、まず死後があるのかないのか全く分からず、あったところでそれが何かも全くわからないという点が凄すぎます。これを試験に置き換えてみれば、まず試験があるかどうかすら分からず、あったところで問題文に何が書いてあるのか、何を聞かれているのかすらよく分からないという状況で「合格せよ」と言われているようなものです。まさにMission Impossibleの世界です。
こういう状態での「解法」はなにか?捕まえどころのない問題を、手を変え品を変え、角度を変えて切り込んでいく方法はあるか?それをウンウン考えていくのが知的パズルとして面白い。
こういう不明瞭な場合には、例えば、論理的に想定されうる類型を幾つかひねり出して、場合分けして考えていく方法論があります。例えば、死後の世界があったと仮定したとして、生前の行為と死後の状況になんらかの因果関係があるのかどうか?とさらに場合分けします。つまり悪いことばかりやっていた→地獄に堕ちる、みたいな因果関係があるのか?
これもさっぱりわかりません。だとしたら、因果関係がある場合・ない場合とに分け、それぞれ考える。因果関係がない場合は、これはもう生前何をやろうが関係ないのですから、死後を想定することで現在の行動パターンを変える必要はないとなります。
最後の審判をするのは自分かも
では何らかの因果関係があったらどうか?これが難しい。宗教的にはここがポイントで、閻魔大王の裁きを受けて天国地獄に行くのかが決まるとか、リンボー(煉獄)という待合室みたいなところで待たされて神の審判を受けるとか、いずれも裁判的な構造になっていたりもします。「ほんと?」ってそこは疑問だし、天国地獄があるかどうかも疑問です。また、仮に閻魔裁判をクリアするために準備するにしても、採点基準が思ってたのと違ったら終わりだし(悪いことした奴の方がむしろ天国にいけるとか)、これも準備のしようもない。一応世間では悪いことすると地獄に堕ちるとか言われているので、まあ「一応挨拶はしておくか」程度のものでしょう。つまり悪いことをしなくても目的を達せられるならば、多少作業効率が落ちても悪いことをしない方がいいかという程度のことです。しかし、その程度だったら今の善悪判断でも結論同じですから、それほど大した差は生じないでしょう。
そうやってツラツラ考えていくと、結局、「最後の審判」って自分がするんじゃないのかな?という独自の見解が出てきたりもします。これまで生きてきた軌跡を振り返って、自分で納得出来るか/出来ないかじゃないかと。そんな神様だか誰だか知らないけど、第三者に勝手に判断されるってものでは無いような気もする。なぜ?と言われても困るけど、そんな何十億人もの人間を対象にいちいち面倒くさい裁判形式でやるのか?神とやらが?そんなことしてどうするの?なんか神やら全体のシステムにメリットがあるの?というと、なんか過度に擬人化しすぎてるような気もする。宗教の機能として、個人の良心の覚醒強化機能、教育機能があるわけですが、地獄という「罰則」を示して人々を指導するというのは分かります。でも分かるだけに、要は現世の人間の都合で話作ってるんじゃない?って疑いもあるのですよ。確証あって言うわけではないのですが、「そこに動機がありうるなら、なんらかの行為もありうる」という程度のことです。
もし天国/地獄らしきものがあるとするなら、多分判決やらいう知的作業ではなく、物理的で透明な法則性のある何らかの「現象」みたいな感じじゃないかな〜と推測します。水が加熱されて沸点を超えると蒸発するとか、沸点の温度はその場の気圧によって変わってくるとか、法則性のある現象。そして、死後においては肉体という三次元的拘束はないのですから、あくまで本人の「魂」とか呼ばれる意識体系であり、だとしたらそのソフトウェアみたいな意識体系に何らかのバグのようなものがあったらこうなって、それがなかったらこうなってという感じじゃないのかな〜とか。
心のこりと納得
だとしたらそれは何か?といえば「心のこり」ではないかと。自分の人生に納得してなくて、「冗談じゃねーよ、ばかやろー」的な感情が強烈にあるような場合、それが現象面において何らかの作用を果たすかも、と。状況資料として、一つは地縛霊や怨念などです。それが実在しているのかどうかは定かではないけど、呪いとか念とかいうサイコパワーみたいなものは、洋の東西を問わず昔っから何らかの形で言われています。それが顕著にあらわれるのは「うらめしや」的なネガティブな感情です。つまりは「心残り」であり「納得できてない」ことです。これを残すと、なんかしらんけど残留してしまう可能性があるかも、と。ま、納得してるかしてないかでいえば、ある意味全員が納得してないとも言えるでしょうし、でも仕方ないよ運命だしねって意味では全員が納得しているとも言えるので、ようわからんのですけど。
でもね、死んだら天に帰る的なイメージというのはどこもあります。まあ、黄泉の国が地底にあって、死んだイザナミをイザナギが追いかけて〜という地底ヴァージョンもありますけど、多くは天空にあがっていくイメージであり、それって煙のブラウン運動的なイメージです。上昇-拡散-消滅です。それを夢判断のようにイメージ解釈していくと、もしかしたら天国というのは、自我が綺麗に分解されて、大自然なり大宇宙に吸収されいくこと、つまり自意識もそこで分解されてなくなることなのかもしれません。「成仏」ってイメージもそれに近いし、恨みを果たせたり納得できた霊は、すっと透明になって消えていくというイメージにも近い。でも、心残りや強烈な恨みがあると、小麦粉のダマみたいな感じで綺麗に分解しない、だから断片的に残ってしまい、なかなか駆除できないウィルスみたいになってしまう。
ま、本当のところは何一つわからんですけど、ここでは「心のこり」というのが一つのポイントになるんじゃないかな?という仮説を一つおいておくことにしましょう。
方針
このように何もかもが分からない場合にどうすればいいか?ですが、結局最大限自分の生きたいように生きるしかないと思います。論理的にもそれがベストであろう、と。なぜなら、自分にとって不本意な生き方をイヤイヤやって、それがゆえに天国に行けたとか、なんらかのご褒美があればいいですよ。苦労した甲斐もあったというものです。しかしそうなるという保証はどこにもない。ガマンして納得できない人生を終了しても、全然ご褒美がなかったとか、そこは全く評価されずスルーされたとか、評価基準が真逆でむしろガマンしてたことをやっていた方が良かったなどの可能性もあるわけです。しかし、これは悔しい。「なんだよ、ちくしょー」的に腹立つだろうし、まさに「死んでも死に切れない」って感じになる。
一方、自分の生きたいように生きて、それで結果的に「好き勝手やりやがって」ってことで不利益な処分を受けた場合(地獄にいくとか)、これはもうしょうがないねって思います。事前にそれがハッキリわかっていたら、ボーダーぎりぎりくらいに抑えておけばよかったってことになるでしょうけど、そんなもん分かりませんから、そんなことを後悔しても無駄です。予見可能性と回避可能性がなければどうしようもないんだから。
他方、好き勝手やって、それがゆえに何らかの良い方向に転がるなら望外のラッキーです。例えば心のこりなく、綺麗に成仏できましたとか。
以上の4パターンを考えてみると、どう考えても先に好きなようにやった方がいい。それでダメなら諦めもつくというか、最悪でもトントンですから。ところが、納得出来ない生き方をガマンを重ねて生きて、それが報われたらトントン、それがシカトないし逆効果になったらマイナスの二乗ですから目も当てられない。どっちが良いか?です。
死後がなくても結局同じ
一方死後の世界がないと仮定した場合はどうか?といえば、これも結果的には同じことになると思います。死後がないなら意識の最終時点でどう思うかになるでしょうが、これだって結局は「心のこり」があるかどうかでしょう。ああ、いい人生だった、やるだけのことはやったぞ、まあこんなもんでしょう、自分らしかったよなとか、それなりに満足感や達成感があったらいいんじゃないの?「死」において何が一番イヤで苦痛かといえば(死に至るまでの病的苦痛はさておき→これは別種のアプローチを考えれば良い=ホスピスとか)、やっぱり「ああ、こんなことなら、○○しておけばよかった」とか「ついにやりたいことが出来ずに終わった」とか「こんなもんなの?俺の人生?」いう後悔やら慙愧の念でしょう。それが一番「痛い」気がします。
以上を総合すれば、死後があろうが無かろうが結論は同じで、全力で自分らしく生きる、しかないだろう。そして反対解釈的に自動的に導き出される注意点としては「全力でやらなかった」「自分らしくなかった」って部分でしょう。これって要するに受験やスポーツ大会の開会式でどっかエライさんが言うお馴染みの訓戒ですよね。「これまで培った実力を存分に発揮して」「悔いのないように」って。しかし、いくら凡庸な結論であろうが、そうとしか言えないんじゃないか。
ということで、人生とはなにか?という禅問答みたいな話があった場合、快楽の極大値を目指すゲーム(より高く、より長く)もあるけど、同時に「心のこり最小化ゲーム」とも言えるな〜と。椅子取りゲームみたいに音楽が流れて、ある瞬間に音楽がピタッと止まって(つまりは死んで)、その時点でどれだけ「心のこり」があるか、より少ない人の勝ち〜という(笑)。まあ勝ち負けじゃないし、他人と比較するものでもないんだけど、「方針」としてはそうだろうな、と。でもって、心のこりを減らすべく、「最初から欲しがらない」というセコい戦略もありますよね。どうせ無理なことは欲しがらなければ心のこりも少ないだろうという。ある程度はそうかもしれないけど、しかし、そんなことを思ってること自体が「心のこり」になる可能性は大いにありますよね。「自分なんかどうせこんなもん」って慎ましく自己規定してたこと自体に腹が立つというか、最初から負けるのを前提にした戦略みたいな、少なくとも「思う存分〜!」という弾けた爽快感はない、それが自分でも無意識的にわかってるから、死んだ後にジクジクと引きずる、、そんな可能性だってあるかしらんです。
というのが今現在の到達点なのですが(かなり端折って書いてますが)、それに付帯していろいろと漫談みたいな想念が出てきて面白いのですよ。
副産物的思考
生存時間(今)の処理方針が明確になる
これは副産物なんですけど、むしろ主産物になるくらい使えます。遅かれ早かれいつかは死ぬ、絶対に死ぬ、それもそう遠くない将来に死ぬ
というのが明々白々な事実として認識されると(あと何ヶ月かしたら春になって暖かくなる、みたいに)、日頃の考え方もパキパキとクリスピーになります。むにゃむにゃした部分が減っていって、「あ、これ、どうでもいいし」とかバッサバッサと枝葉末節を切り捨てられるようになる。
例えば、昔は一番美味しいものを最後まで取っておいて、最後に楽しむという感じでやってたんですけど、それが逆になって、一番食べたいものを先に食べるようになってます(まあケースバイケースだけど)。なぜって、最後まで取っておいて、そこに行く前に死んじゃったらすごい悔しいじゃないですか。「だー!せめてアレだけ食べさせてくれえ」ってな感じでしょうから、それはイヤだなと。
同じように「いつか」「そのうち」「いずれ」って言葉も神通力を失います。「いつか」なんてねーよって。つまり先送りしなくなる。「いつか温泉に行くのもいいよね」とか言って、昔はいつかは本当に行くだろうって感じだったけど、今は、まあ多分行かずに死ぬだろうなって感じに思う。そして「それでいいの?」と自問自答する。極端にいえば、「これが人生のラストチャンスよ」くらいに軽く思えてくるので、「だったらやろか」となったり、「じゃ、いいや」って切り捨てたり。
この感覚はなんとなく試験時間と似てます。試験時間60分で、前半はまず解きやすい問題からクリアしていって、面倒くさいのは後回しにしたり、わからんなー、やばいなーくらいに曖昧にしておく。でもだんだん時間がなくなってきて、「あと10分」とか言われると「うきゃー」って感じで、「わからないよ〜」なんて泣き言並べてる余裕はないから、分からなくてもなんか結論は書け、何でもいいから書け、完全には出来ないんだけどせめてもの最高到達点だけでも書いておけとパキパキしてくるのと似てます。
それは決断力が冴えてくることでもあるし、同時に生きる濃度が濃くなってくることでもあります。また、自分の願望についても明瞭化してきます。それまでは、無意識的に世間に合わせている部分もあって、世間的にはこうなってるから一応それもやりたいな〜くらいのボヤ〜っとした願望も多かったんですけど、いよいよ時間がなくなってくると、真剣に突き詰めるから「ああ、これは別に本心からやりたいって思ってないな」というのも分かる。
つまり「まだまだ時間はある」というのを言い訳にして、曖昧に放置してたり、ぬる〜くやってた事柄が多かったんですけど、それが減ってくる。と、同時に、これって別に死期が迫ってこなくても(ってほど迫ってるわけでもないし、へたすりゃ100歳くらいまで生きちゃう予感もあるのだか)、若いうちからこの感覚でやってればいんだよなというのも分かります。若くたって事故死や突然死はあるんだから。
右肩下がりの局面ではスピード感がイノチになる
以上の点を別の表現をすれば、老化による体力等の逐次低下という局面、つまり恒常的に右肩下がりの状態においては、なによりも優先されるのがスピード感だと思います。だってそうじゃん。先送りにしてるちに死んじゃったら、これは悔しいもん。それ以上に、日々確実に身体各所が老化していくとするならば、体力を必要とする種々のアクティビティ(大抵の物事はそうだが)、今この瞬間が最大の実行チャンスであり、あとは一秒ごとに成功率やエンジョイ率が下がる。
いつか、どっかの漁港にいって、獲れたての最高の素材を心ゆくまで堪能したいですな〜とか言ってるうちに、生活習慣病が露見し、厳しい食餌制限をされてしまった、もう食べられなくなってしまった〜ってこともある。歯が悪くなって入れ歯になると食感が減るから美味しい度数は激減するという話もあるし、快楽というのは最低限の体力がないと味わえないです。せっかくの美味を目の前にして、胃がシクシクして〜とかいって食べること自体が苦痛だとしたら、もう快楽的には半分死んでるようなものじゃないですか。これは許せん、と。いずれそうなることは仕方ないにせよ、だったら尚の事、エンジョイできるときに最大限にエンジョイせよ!という大命題が出てきます。
そうしないと上で述べた「心のこり」が出てくるかしらんし、寿司地縛霊になって、夜な夜な寿司屋の廻りを徘徊するという「あさましい姿」になってしまわないとも限らない(笑)。また、告白するのに躊躇って「一生の禍根」を残すくらいだったらバーンと玉砕せんかい、です。死ぬ間際に「あああ、言っておけばよかった」というのも切ないし、死んだあとに思う存分ストーカーが出来ると言っても、それも虚しい話でしょう?どうせストーカーするなら、自分の愛する家族や人々を見守る守護霊的な存在になったほうがいいよ。
ということで、右肩下がりの局面においては、総じてスピード感が重要ポイントになるということです。
死後漫談
オマケに罪もない漫談レベルの想像ですけど、もしかして、死んだらこれまでの死者全員が集まってる所に行くとします。そうすると、先に逝った友達にもペットにも会えるかもです。そしてまた歴史上の人物にも会えるかも。これが中々楽しい想像で、苛烈な人生を鮮やかに生き切った連中達の中で、しょぼい人生背負ってると、これはミジメだな〜と。しかも生前と違って、今度は死という終期がない、ヘタすれば永遠に肩身の狭いままで、それはちょっと辛いな〜と。「いや、俺、これはやったし!」と多少なりとも見栄は張りたいかも。生前における他人の視線や評価なんか、どうせ死ぬんだからどうでもいいですけど、死後のそれは終期がわからんだけに慎重に、、、とか(笑)。
まあね、自分と同じようにしょぼい人生送ってきた人達も英雄豪傑の数万倍くらい沢山いるだろうから、仲間はいるとは思うけど、でもなんかそーゆーグループでイジイジやってるのもなー、てか、死後の世界にも仲良しグループとか、派閥ってあるんですかね?とか。そもそも肉体という三次元感覚が消滅しているんだから「集まる」とか「グループをつくる」とかいう空間的な概念や実体ってありうるのか?というと疑問だし。
それと、歴史学とか小説とかでとある人物を調べて描いたり発表したりした人がいて、死んだらその本人に会えるのって面白いですよね。「お前、全然違うじゃん」とか言われたら、自分の人生なんだったの?って気になるかもしれんし、あるいは積年の疑問が「あ、そこはねー」と教えてもらって氷解したりとか。
しかし、その本人がそんなに覚えているのか?という疑問もありますね。肉体には脳も含まれるわけですから過去の膨大な記憶もなくなってしまうのではないか?だとすれば自意識と記憶とはどういう関係に立つのか?完全に記憶喪失のようになった状態になるか、HDDがぶっとんだパソコンのような存在になるのか?とかさ。このあたりは単に頭の体操みたいな感じですけど。
文責:田村