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老後を制する者は天下を制する?





 高齢化社会になってます。「やがて来る」のではなく「もう来ている」のでしょう。

 「高齢化」とは、平均寿命が延びて高齢者の人口割合が増え、社会の平均年齢が上がることなのでしょう。それに加えて、日本の場合、いや先進各国みな同じですが、ベビーブーマーズ(日本では団塊の世代という)が徐々に高齢者の仲間入りしつつある反面、非婚化・少子化などで若年層の人口割合が減っているということで、変化はさらにブーストされます。

 でもって、年金を司る厚生省あたりから「えらいこっちゃ」の大合唱が昔からなされているわけです。 で、例によって、ガキの頃からアマノジャクだった僕は、「ほんまかいや」と一応疑ってみたりするわけです。社会が高齢化して何がどう困るのか?なんかしらんけど、僕らは、老人というのは「増えたら困るもの」と無条件に思い込んでないか?「増えたら困るもの」=お荷物or害虫みたいな。もし増えるのが「美人」とか「いい男」とか「心のきれいな人」だったら、こんなに「問題」視されることもないでしょうに。




 ところで、老人が増えてなんで困るのか?を考えてみると、老人の属性としてのマイナス面が増えるからでしょう。例えば、生産人口ではないのに、医療介護その他の手がかかる、金(福祉費用)がかかる等など。しかし、医療介護の手間暇がかかるのは何も老人だけではない。比率としては低かろうとも、若年であっても身体に支障のある方は幾らでもおられる。肉体だけでなく「心の健康」まで入れれば、都市圏のサラリーマンの80〜90%が精神健康に何らかの障害ないし障害の危険(きついストレス)を抱えているのだという見解もあるくらい。ましてや、外から見てても、不況が続き、毎朝新聞読むたびにムカつくのではないかと思われる日本の状況は、「梅雨が6年続いてる」ようなもので、ストレスはさらに亢進しているかもしれない。





 話が逸れましたが、老衰など不可避的なことを除けば、そして心の健康まで入れれば、老人だから一概に「医療・介護づけ」というものでもなかろうと思うのです。これは「社会の中の、病んでたりハンデを負ってる人達と、どうやってうまくやっていくか」論であって、老人だけが一人主役に躍り出るものでもないでしょう。

 それに平均寿命が延びましたが、それと同じかそれ以上の勢いで「老化スピードの減少」も進んでいる(「減少が進んでる」というのは奇妙な日本語でした)。要するに、「なかなかフケなくなってる」ということです。僕は、36歳になってますが、なんか25歳あたりから時間が停まってるような気がする。自分だけじゃなくて他の人見てても、50とか60歳くらいなら、昔の30代程度にしか見えない。そう思いませんか?

 思うのですが、平均寿命が延びるということは、人生の最後の部分だけがビヨ〜ンと引き伸ばされるわけではなく(寝たきり老人になってから、あと30年続くというものじゃない)、全体に引き伸ばされるのでしょう。終戦後昭和20年代頃まで、男子の平均年齢なんか50歳半ば程度だったわけで、それが70代後半まで伸びてるわけです。大雑把にいえば「1.5倍」です。たった40年かそこらで、昔の1.5人分の人生−もっと言えば最初の25歳頃までは「成長過程」でそれ以降が「本番」だとすれば、「本番」の回数が倍に増えたわけです。よく考えると、これって相当「えらいこっちゃ」だと思います。

 だとすれば、年齢の勘定の仕方も変えるべきではなかろうか。全体の生命時間の長さに対する割合比率、つまり(インターネットでダウンロードしてるみたいに)「○%終了」という形で出すとわかりやすいのではなかろうか。つまりですね、人生55年時代の30歳というのは「55%(終了)」ですが、人生80年時代の30歳というのは38%でしかない。38%というのは、昔の基準でいえば「20.9歳」です。成人式終えたくらいですね。昔の20歳、今の30歳ということで、実際、社会的成熟度というか責任の重さからいけばそんなもん違いますか?女性の適齢期で「クリスマスケーキ説」なんて言ってた時代があり、「22歳の別れ」なんて曲が流行りましたが、昔の22歳(40%終了)って、今でいえば32歳に匹敵するわけです。これもまあ、そのくらいに考えておいた方が実際にはフィットしてるような気がします。昔35歳を境にカルテに押されていたマルコースタンプ(高齢出産)も今では45歳とか?だもんで、今の60歳なんか、たかだか「75%終了」にすぎず、昔でいえば41歳でしかない。



 
 「2025年には、若年者2.5人に1人の割合で老齢者の面倒をみなければならなくなる」云々と言われています。いかにも「とんでもない事態が出現するぞ」と言わんばかりのレトリックで語られるので、僕らも「そうか〜」と深刻な顔をしちゃったりするわけです。しかしですね、そこでいう「老齢者」って何やねんな?「必ず面倒見なならん人なんか?」という疑問もあるわけです。老(高)齢者の定義というのは例えば年金支給開始年齢でいう65歳とか一応の線引があるのですが、65歳の誕生日を境にそれまでガンガン働いていたのが、いきなり年金生活に頼らざるを得なくなるものでもないでしょう。働ける人はもっと働けるし、ダメな人はその年齢以前でダメになる。だから一応フィクションであっても基準ラインは設定する必要があるというのだけど、本当にそんな基準ラインなんか設ける必要があるんだろうか?つまり社会の中で「老人」と「そうでない生産人口」とを分けて取り扱う必要が本当にあるのか?と根本的に思うわけです。別に老齢とか年齢に関係なく、職がない人(失業)、働けない人(身体ハンデ)に対してはそれなりの措置を講じる、健康で職である人であれば、100歳だろうが頑張って頂くという考え方があっても良いではないかということです。

 この点をもう少し突っ込むと、いまの世の中で、「実態を超えて老人を老人たらしめてる」色々な固定概念やシステムがあるように思います。昔の感覚でいえば全然老化してない人をして、周囲からよってたかって、「あなたは老人」「老人らしくしなさい」みたいなプレッシャーがあるのではないか。例えば、就職にしても高齢者には職はありません。求人広告でも「○歳以下」とかなってる。しかし、本当にそんな年齢制限をする必要があるのか?必要がある仕事もあるだろうけど、今日の第三次産業にシフトしている産業構造で身体の頑健さがそれほど必要とも思えないのですが。

 また年金制度にしたって、これは多分そうなるだろうけど、資産が1億円以上ある人には支給カットという方法もあるだろう(ちなみにオーストラリアではアセットテストがあるから、うちの大家のサムおじさんも年金ゼロです)。定年制にしても話は同じで、これは職場の人事の流動性を担保するという役割があったわけだけど、これだけ世の中リストラが定着していったら意味もないだろうし、使えないとなればバシバシ首を切られるだろう。余談ながら金融ビッグバンなどで海外の金融機関が乗り込んできたら、海外(というかアメリカ流)の企業経営を貸付先に求めるなど、環境は加速度的に変わってくるかもしれない。オーストラリアでもそうだけど、金曜の午後に給料貰って「あ、それから来週はもう来なくていいから」と一言言われてそんで終わりということも、そう珍しくなくなるかもしれない。さらに、そんな世の中で、「一人局長が出ると同期は全員退職する」なんてまるで封建時代みたいな中央官庁その他の慣行も変わるかもしれない。

 こんな世の中で、65歳を基準に、それ以前は職があり、それ以降は年金生活なんてのは、もう維持しにくいフィクションになっていくんじゃないか。それと同時に高齢であれば無条件に優遇されるなんてこともなくなるべきでしょう。不思議なことに、一般社員は定年になるととっとと追い払われる癖に、首脳陣になるとあれだけ経営ミスを重ねておいても未だ会長とかいってのさばっている上に、勲章欲しさにあれこれ画策しまくってるという。こーゆーのが古い頭でのさばってるから(中には優秀な人も沢山いるとしても)、「老害」だのなんだの、エイジズム(老人差別)の高齢者迫害という心理が広がったりする。さらに、年齢で「順番待ち人事」やってもんだから、「待ち時間が40年」とかちょっと気のきいた奴ならアホらしくてやってられないような事態になってしまったりしている。



 別な局面では、終末期医療の無意味な延命措置などがあり、末期ガン患者に副作用にキツい抗ガン剤与えて、鼻やら喉やらチューブだらけ(こちらでは「スパゲティ」と形容されたりもする)で、恐ろしいほど医療費が嵩む状態が不自然に遷延する。こんなの見せ付けられてたら、「老人=金食い虫」「老後=とんでもなく大変」みたいな認識が知らない間に作られてしまうだろう。「そこまでして生きていたくない」という尊厳死やリビングウィル等の概念、ホスピスさん達の努力が徐々に認識されてきてはいるけど、 ここらへんの状況が、老人をして「社会に膨大に負担を押し付ける存在」という印象を与えている一因になってるように思います。




 こんな状態が続けられると、日本人の頭の中に植え付けられるのは、「老後を制する者は天下を制する」「老後対策第一主義」という強迫観念でしょう。これってものすごく強いと思う。「全ての道は老後に通じる」と言わんばかりに、「後で恩給がつくから」公務員になり、「年取ったあと寂しくなるから」子供を作った方がいいと言われる。20代の新入社員がいきなり養老保険に入ったり、強制的に年金加入させられたり。

 みんなの頭の中にある「老後」は、非常にシビアな生活環境として描かれている。それがシビアであればあるほど、全生涯を通じてひたすら「老後の安定」を目指して活動することになる。まるで「冬」に備えてせっせと食糧を運ぶアリの行列のように。

 しかし、そんなに「老後」って大変なのか?全人生を犠牲にしてまで(例えば、最終的に天下りするために青春時代に東大を目指すなど)保全しなければいけないほどのものなのか?ちょっと行き過ぎていないか?と思うわけです。真実老後が大変だとしても、それを改善する方法は論理的には二つ。一つは、前述のように老後ための貯えに励むこと。もうひとつは、そもそも老後を大変でないように変えていくことです。後者のほうがずっと重要だし根本的だと思うのだけど。

 例えば、年をとっても働けるような職場を確保すること。というよりも年をとってることが有利に作用するような新産業をどんどん育成すること(これはシルバー市場との関係で非常に有望だと思う)。治療のための治療のような無意味な医療をやめること。

 最も重要なことは、心身とも健康な人をして「老人」としてのレッテルを貼るのをやめること。またそのような自己暗示にかからないことです。「老人が不幸なのは、彼が老いたことではなく、彼がまだ若いところにある」という意味深な言葉(誰が言ったか忘れた)がありますが、自分の年齢だけを根拠に何事かを「諦める」ようなことがないように。両親に電話すると、「孫達はパソコンなんか平気に使えて、わたしらは全然駄目」とか言うわけですが、その都度「情けねーこと言ってんじゃねえ。なんでそんな風に思いこむのだ」と言ったりします。「パソコン=老人の手に負えるわけがないもの」という固定観念がガンとしてあるけど、パソコンなんかより上手に天婦羅揚げる方がずっと難しいわい。まがりなりにも今僕はパソコン使ってホームページやってるけど、カラッと天婦羅揚げるコツはいまだに掴めないままでいます。難しいんだわ、天婦羅。「音が変わる」とか言うけど、イマイチよくわからない。天婦羅揚げれるオフクロがパソコンごときにビビってんじゃないよと思うわけです。




 アマノジャクな僕は、老人でないものを老人として扱うことはしません。年齢はもはやアテにならない(90歳過ぎたら考えます)。あとは、身体の弱い人/弱くない人という個人差があるだけだし、頭が固いとかキーボードが駄目とかいうのは、「そういう無能な人」としか見ない。老人だからなんていう免罪符は認めない。大体記憶力は年とともに減退するというが、80歳のピアニストが1時間の演奏を記憶してられるのだし、洞察力や思考力はむしろ年とともに上昇するという。人間の生産活動に本当に必要なのは、記憶力ではなく、思考力洞察力だと思うし。と同時に、老人だから○○せよという要求もしないし、老人だから門を閉ざすこともしたくない。だって、僕からみたら老人じゃないんだもん。

 年齢無視して横一線に競争させて、それで結果として高齢者が能力的に遅れをとって職を失うならば、その時点で手厚い措置を講ずればいい。多分そうなるかもしれない、現状のままでは。しかし、最初から「人生死ぬまで切磋琢磨せよ。その代わり年取ったからといって理不尽に追放されることはない」というルールであるならば、生き方も自ずと違ってくると思う。そういう領域では高齢者は必ずしも若年者より能力的に劣るわけではない。伝統芸能しかり、職人芸しかり。年長者、親方こそが最高の技術者、最も有能なプレイヤーとして君臨してる領域は沢山あるではないか。老人は変化に弱いとか、守りに入りたがるとかいうけど、ダンゴ状態になって流行を追いかけてる若者のどこが変化に強く、攻めに強いというのだろうか。ひらたく言えば、個人差でしかないんじゃないか。

 などなど、いろいろと思うわけです。
 そしてもう一回考えてみたいわけです。高齢化して何が悪いのか?と。


1997年2月14日/田村

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