今週の1枚(06.12.11)
ESSAY 288 :人生100年時代 〜「老後」なんて無い/間が持たない
写真は、Balmainにある渋いガソリンスタンド。
正面奥に見えている人物や修理場らしきものは全て壁画です。
また、スタンド事務所の窓には世界各国のナンバープレートが掲げられていますが、なぜか日本のプレートも多数あります(右の写真参照)。「除雪作業車」なんていうプレート、一体何処から持ってきたのだろう?
先日、シドニーのアートギャラリーで行われた日野原重明氏の講演会を聴きにいってきました。
有名な方ですのでご存知の方も多いとは思いますが、日野原氏は現在95歳になるお医者さんであり、高齢者がいかに充実した人生を過ごすかというテーマに積極的に取り組み、(財)ライフ・プランニングセンターの理事長を務め、より親しみやすい「新老人の会」を結成し、講演その他活動のために全国はおろか世界行脚をされています。東京中央区の聖路加病院の名誉院長でもあり、地下鉄サリン事件のときに彼の機敏な決断で直ちに当日の全ての外来受診を停止し、被害者の受け入れを無制限に実施し、被害者治療の拠点となったことでも有名です。この経緯はNHKの「プロジェクトX」にも取り上げられたそうです。去年には文化勲章も受章しています。2001年に刊行された『生きかた上手』は120万部を売上げ、日本最高齢のミリオンセラー作家になってます。
インターネット上のサイトとしては、ベストライフオンライン、および新老人の会があります。
早い話が、非常に高齢で、エラくて、活動的なお医者さんなのですが、そういった外面的な特徴から語りきれずハミ出している部分が濃厚にあり、そのハミ出してる部分が魅力なのでしょう。それは「あんな風に長生きできたら素晴らしいな」と思わせる説得力です。ただ単に細く長く、健やかに長生きしましょうというだけではなく、もっとパワフルに「長生きした方が面白いから」「やるべきことがあるから」ということで、高齢世代に積極的な意義付けをしている点が一つあります。高齢者や老人というと、やるべきことをやり終え、平穏に、のんびり余生を過ごすという静的なイメージがありますけど、「馬鹿言っちゃいけない、やるべきことは山ほどあるし、人生の楽しさなんかこのくらい生きないと分からないんだよ」という動的なものとして提唱していることです。第二に、それが単なるプロパガンダやレトリックに終わっておらず、本人自身が「動かぬ証拠」のように精力的に動き回り、人生をエンジョイしている、それも肩肘張って無理をしている様子もないってところが大事なのでしょう。
実際、2時間近い講演の間、95歳の老齢でありながら演壇すら使わず、机にも何にももたれず、ずっと立ちっぱなし、喋りっぱなしであり、それが「頑張ってる」という感じを与えなかったです。見た目の元気度は60歳くらいでしかないし、「おじいちゃん」とか高齢者とか呼ぶのもはばかれるような感じでありました。だから、「かくしゃくとした」「お達者で」とかいう形容詞すら拒む感じですね。あれは確かに説得的です。
あと、さすがにこの世代のインテリ、旧制高校旧帝大に行ったインテリさんは本物のインテリだと思わせるものがありました。オーストラリアの地名もかなり正確な英語の発音でしたし、英語が身体に染み込んでる感じでしたね。「34歳でシドニーの学会に出席したとき」とか言ってましたから、若いときから超バリバリやってたのでしょう。20代でそのレベルまでいき、そのあと70年間現役パリパリでやってれば、そりゃ凄いですよ。話の内容も、理路整然としていて分かりやすく、且つユーモラスなテイストが散りばめられていたし、喋り口調も老人っぽさが全然無かったです。日本人はどんどん痴呆化しているといいますが、この人の世代のレベルからしたら、僕なんかただの阿呆の子なんでしょうねえ。
「新老人の会」の活動内容も紹介されていましたが、面白いなと思ったのは、75歳以上になるまでは「ジュニア会員」であるということです。75歳までは小僧っ子扱いされてしまうという。これはイイコトですよね。老け込むかどうかは、ひとえに本人がどう思うかにかかってますから、73歳になって「お前はまだまだジュニア」と他人から言われるのは本人の意識にとってもいいでしょう。日本の政治家は中々ふけないですが、「50、60は鼻垂れ小僧」と言われていれば、それは老けようもないかもしれないです。
あと、会の中でいろいろなサークルなりアクティビテイがあるのですが、「ほお」と思ったのは「数学の会」があることです。詩吟とかヨガとかはあっても不思議ではないですが、数学というのは珍しいですよね。でも、これもイイコトだと思います。数学って、自然科学ではなく人文科学の哲学であり、「ものの考え方の技術」です。高齢になっても能力が落ちず、むしろ上昇するのは、洞察力や抽象的な思考能力だと言いますから。僕は数学大嫌いだったのですが、今やってみたら、昔ほど難しく感じないかもしれません。分数の割り算とか小学生の頃は原理が理解できず、機械的に「ひっくり返す」でやってましたけど、大人になってから分数とか割り算の概念操作が出来るようになると、理解しやすいです。だから「趣味の数学」ってのはいいセンスだなと思いましたし、僕もヒマになったらやってみようかしらと思ったのでした。「成績」というプレッシャーがなくなったら、大体の勉強って面白いんですよね。数学はパズルだし、社会は大河ドラマだし、理科はディスカバリーチャンネルですからね。
さて、今回は日野原氏をご紹介することがメインの目的ではないです。
今まであんまりシリアスに考えてこなかった老後というものをもう少し真面目に考えてみようということです。いや、そういうと正確じゃないな。日野原氏のおっしゃりたいことは、「老後」じゃないんでしょう。「老後なんて無いんだ」ってことかもしれない。定年とか隠居のように、人生のどっかにラインが引かれていて、そのラインを超えたら後は「余生」「付録」みたいな考え方があるわけで、だから老”後”=”一線を超えた後”って先後概念があるのでしょうが、そんな線なんか無いってことです。身体が言うことをきく限り、死ぬ寸前までピキピキ動き回っていてもいいんだ、ただあるのは「時間」だけなんだってことなのでしょう。
もう少し真面目に考えてみようと思ったのは、「時間の長さ」です。「そうか、どうかしたら俺も100歳くらいまで生きてしまうのかもしれないのか」ということが、以前よりも実感としてわかってきたということです。
日野原氏の講演にも引用されていましたが、今、日本人で100歳を超えている人が2万6000人以上もいるそうです。「げ!そんなにいるのか?」と思いましたね。数十人、いいとこ数百人だと思ってました。ところが100歳以上の人口が151人というのは45年前の話だそうです。
今、インターネットであれこれ調べてみましたら、2005年9月末の時点で百歳を超える日本人は2万5606人だそうです(読売新聞2005年9月13日「100歳以上 2万5606人」。あと、All About Japan "100歳以上の高齢者急増! 20年で約15倍"という記事もあります。特に最近の伸びが著しく、昭和60年以降の20年間で15倍近くと飛躍的に増えています。15倍というと凄すぎて想像がつかないのですが、でも平成10年に1万0158人だった100歳以上が平成17年には2万5554人になっている直近数年の増加率を考えてみるだけでも、この傾向の凄まじさがわかると思います。要するに100歳以上がガンガン増えている、もうそんなに珍しい存在ではなくなってきているってことです。
皆さん長寿になってめでたいことで----と呑気なことばかりは言ってられません。
高齢化社会になると、人口問題、年金、医療費、資源問題、皆さんも何度も聞いているお馴染みの問題が出てくるわけですが、ここではそれらは取りあげません。もっとパーソナルな視点で、100歳なんてそんな途方もなく長い時間を貰ったら、どうやって使えばいいんだろう?ってことです。生きている時間の有効利用、つまりは人生設計ですね。これを真面目に組みなおさないとイケナイのではないかという。
これまで漠然と思っていた人生の展開というのは、60歳や70歳以降の部分が余白というか、オマケというか、隠居とか、悠々自適という表現で考えられていました。実際、厚生労働省の統計によると、終戦直後の昭和22年の男性の平均余命は50.06歳でした。50歳で死ぬのが普通だったのだから、それ以降のことは「余生」でよかったわけです。昭和30年代、40年代ですら平均余命は60代でありました。終点が60歳近辺に設定されているわけですから、逆算していけば、人生のメインイベントは50代くらいまでにほぼやり尽くすように考えられていたわけです。60歳前後でお迎えが来るという前提で、例えば孫の顔を見ようと思えば、自分の子供を25年前くらいまでに産んでおかないといけないわけです。35歳ですよね。でも、それではホント孫が生まれるのと自分が死ぬのが入れ違いになってしまうから、10年くらい孫と遊ぼうと考えれば、25歳までには子供を作っておかねばならない。だから結婚も遡って23-4歳くらいの頃までにはしておかねばならない。しかし、そこで結婚できるためには生計の基盤が立ってないといけないから、就職後数年は経ていないといけない。すると学校は20歳前後で終わってないといけない。したがって戦後しばらくは、大学なんて行くのは一握りの人間だけで、ほぼ皆さん高卒あるいは中卒で働いていたわけです。そのくらいのペースでやってないと間に合わない。
団塊の世代くらいの時代になると、大学に進学する人間がそれほど珍しくなくなってきて、22歳で大学を卒業して就職、その後2-3年で結婚というパターンになります。女性は高卒か短大がメインで、これまた就職して2−3年の22-3歳で結婚というのがマジョリティだったのでしょうし、それは「22歳の別れ」という曲でも示されています。女性で25歳過ぎても独身だったら、社会的には殆ど「前科者」レベルの扱いで、「行かず後家」とか「オールドミス」とか呼ばれて後ろ指をさされていたわけです。今から考えると隔世の感がありますが、しかし、そのくらいのペースでやってないと死んでしまうのですからね。会社に入った男性も、30代で課長、40代で部長、50代で取締役会ってな感じで、どんどん責任ある役職を任されていたし、そのくらいのペースで成長&出世していかないと間に合わない。なんせすぐに死んじゃうんですから。
ところが、平成16年の男性の平均余命は78.64歳であり(女性は86歳)、この上昇率で推移していくなら、自分がその年になる頃には100歳とまでは言わないまでも、それに近いレベルくらいにはいきそうです。昭和30年(63.60歳)から60年(74.87歳)までの30年間で日本人の平均寿命は10年以上延びています。上昇率が同じなら、今から30年後には男性の平均余命は88歳、女性は96歳くらいになっているという話になります。まあ、そんなに一本調子で伸びるかどうかは分かりませんけど、30年後の医療技術がどこまでいってるかなんてのも予想できませんし、もしかしたらDNA治療が飛躍的に進展してもっと延びているかもしれません。
それともう一点。平均余命というのは、その年に生まれたゼロ歳児の余命のことです。平成16年に既に45歳になっている人の平均余命は35.25歳。つまり80歳まで生きてしまいます。20歳である人は59.15歳だから79.15歳。既に75歳になっている人の余命は11.23歳ありますので、実は86.23歳まで生きることになります。このあたりは統計のミソで、若くして死んでしまうリスク(新生児とか、事故、早期ガンなど)をクリアしてきた人々、それまで長く生き延びてきたグループになるほど実際の余命は長くなります。だから平成16年段階で既に平均余命を通り越して90歳になっている人は、94.36歳まで生きることになってます。
以上は男性の統計ですが、女性の統計だともっと凄いことになります。平成16年統計の0歳児の女性の平均余命は85.59歳であり、平成16年時点に20歳である女性の余命は66.01歳(→86.01歳)、30歳の女性は56.18歳(86.18歳)、60歳だったら87.74歳、既に80歳の女性は91.23歳、90歳の女性は95.69歳まで生きることになります。
ということで、今これを読んでいるアナタが20-30代であった場合、そして事故や早期ガンなどで急逝しない限り、実際問題90歳以上生きてしまうと考えた方が良さそうです。女性だったら、マジに100歳は夢ではないです。
で、「どうする?」という話になるのですが、これだけ長生きしてしまうとなると、ちょっとばかり貯蓄に励んだとしても焼け石に水って気もしますね。60歳までコツコツ働いて、75歳くらいで死ぬんだったら、まあ15年分の生活費を貯めておけばいいってことになりますけど、90歳とか100歳まで生きてしまうとなると、30年とか40年分くらいになります。20歳に就職して60歳にリタイア、100歳まで生きるとしたら、働いている時間とリタイアしてからの時間がトントンになります。となると、金利が限りなくゼロの今の日本の状況がずっと続き、且つインフレ率がゼロだと仮定したら(そんなことはないと思うけど)、今月の給料の半分は無条件で将来のために貯金しておけって話になるじゃないですか?そんなの無理でしょう?
このことは年金システムにも言えるわけで、年金払込期間と年金受給期間がトントンだとして、現在の手取り額と同額の年金を受給しようとするなら、給料の半分は年金で持っていかれるということになります。まあ、これは金利ゼロ&年金運用利益ゼロ&インフレゼロの極端な仮定での話です。しかし、その代わり今の日本の場合700兆とも言われている財政赤字があり、しかも高齢化&少子化で将来的には一人の年金支払者が受給者3人を養うことになるとか言われているわけですから、楽観は許さないでしょう。もし3人分の年金を払う羽目になったら、毎月の給料の1.5倍を年金でもっていかれることになります。そんなの不可能だし、メチャクチャな極論ではあるのだけど、でも「老後のためにお金を貯めて〜」という基本戦略が、本当の本当に機能するの?って気にはなりますよね。それでも機能させるためには、年金支払額を引き上げ、受給年齢を引き上げ、しかも条件をガチガチに厳しくするしかないですし、実際そういう流れにはなっています。
エライこっちゃということで、何十年も前から問題になっていますし、今も大きな政治課題になってます。これからも課題であり続けるでしょう。しかし、年金とか老後貯蓄の問題の詳細は、プロのエコノミストやファイナンシャルプランナーに任せるとして、もっとパーソナルでくだけたレベルで話をします。とりあえずここでは、「貯めて何とかする」という方法論自体、見直しを迫られているということだけ指摘しておきます。貯めることはイイコトですし、それは必要、有利に運用することは尚更必要です。しかし、それだけでは追いつかないとしたら、どうするか?つまりは「一生働け」ってことになります。定年などのように、ある日を境に収入が無くなるという状況ではなく、額は減るかもしれないし、割は悪くなるかもしれないけど、なんらかの形で収入の道を模索し、稼動し続けるのが当たり前だということになるかもしれません。
そうなった場合、「良い大学→良い会社→定年後は貯金と年金で悠々自適」という図式自体が怪しくなってきます。仮に給料の良い会社を定年まで勤め上げ、年金も貯金もあったとしても、それだけでは足りないということで、「70歳過ぎてからもガンガン稼げるようになっている為にはどうしたらよいか?」という問題の立て方になるのではないかと。
日野村氏が言っていたことと多少文脈は違うのかもしれないけど、要するに「老後なんて無い」という話の方向性になりそうです。
絶対そうなるか?と言われたら、そんなの誰にも分からんですよ。50年後の予測なんて誰にもできない。資源の枯渇、温暖化の進行、アメリカ覇権の行き詰まり、中国、インド、ブラジル諸国の台頭、2006年現在でもこれだけの材料が出ていますし、将来的にはもっと想定外のファクターが出てくるでしょう。もしかしたら、50年後には第三次世界大戦を通り越して、第四次世界大戦になっており、心配するまでもなく、今これを読んでる僕らのうち10人中9人は死んでるかもしれませんし、日本以外のどっかに住んでるかもしれません。だから、「こうなる」なんてことは誰にもいえないのだけど、少なくとも「貯めておけばOK」という戦略一本だけではなく、何らかの補助ラインも組んでおいたほうがいいでしょう。その補助ラインの要旨は、「年を取ってもガンガン動け」ということであり、「老後」という「もう何もしなくてもいいよ」という概念にあまり縛られない方がいいだろうってことです。
あるいは、こういう考え方も出来ます。あくまで@頑張って働く第一の人生+A悠々自適に過ごす第二の人生というフォーマットを堅持するとします。そこで@とAの分水嶺ですが、人生60年時代の定年(「老後」の開始)が55歳であり、人生70年時代の定年が60歳とか65歳というのであれば、Aの第二の人生は「死期の5年から10年前に始まる」と捉えなおすことも出来ます。もし、本当に人生100年時代になったとするならば、第二の人生というのは90歳から始まることになり、89歳までは現役で働き、年金を払えって話になります。人生90年時代になった場合は、80歳から85歳で定年だと。あるいは比率割合で考えることも出来ます。20歳から60歳まで働いて70歳で死ぬとして、@稼動期間とA老後期間の比率割合は40年対10年、4対1です。だとしたら人生100年時代においては(就職から死期まで80年あるとして)、64年働いて、16年老後があるという計算になります。そうなるとやっぱり定年は84歳くらいにして貰わないと勘定が合わない。人生90年だとしても、76歳定年になります。
つまりですね、寿命が60歳代から80歳、90歳、100歳と伸びつつあるわりには、定年年齢はそんなに上昇していない。昔の55歳から60歳とか65歳に上がった程度でしょう?現時点で70歳定年を実施している企業なんか滅多にないでしょう。それどころか早期退職プラグラムということで、実際の定年年齢はむしろ下がっている。@稼動期間が大して伸びないにも関らず、A老後消費期間がメチャクチャ伸びているわけですから、お金が足りなくなることは子供でも分かる理屈です。5日働いて日当をもらって週末の2日遊ぶんだったら帳尻が合うけど、5日稼いで5日遊んでたらお金が足りなくなると。
しかし、定年が仮に延び、めでたく80歳定年になってきたとしても、そんな高齢定年になるだったら、実感としてはやっぱり「一生働きつづけろ」というのに近くなってきますよね。だから、僕らはおそらく60歳になっても働いているだろうし、70歳になっても働いているだろうし、80歳になってもまだ働いている可能性が高いってことになります。だってそのくらい働いてないとお金が貯まらないし、間が持たないでしょ。
さて、ここからが本番なのですが、このようなライフスパンの変化は、僕らの日常的なものの考え方にどういう影響を与えるか?です。
これ、考えてみると実に色んな局面で変化が起きてくるだろうなって思います。こういうこと考えるのは好きです。ワクワクしますね。今回の話を暗い気持ちで書いているかというと、実は真逆で、結構ウキウキして書いてます。「ほお、面白くなりそうだな」って。皆さんも暗い気持ちで読んでないで、明るい気持ちで読んでください。生きている時間が増えるのは、基本的にはメデタイ話なのですから。ラッキー!と思ってポジティブに捉えないと嘘です。
いろんな変化があると思いますが、一つの大きなポイントは、全てにおいてかなり本物志向でやっていった方がいいだろうなってことです。仕事も、単に何となく就職するとか、目先の給料がいいとかそういうことではなく、もう「世界一流のプロ」を目指すというか、プロフェッショナルと呼んで差し支えないくらいのスキルと経験を身につけた方がいい。また、趣味も「適当にたしなむ程度」くらいではなく、「病膏肓にいたる」くらい超のめりこんでセミプロクラスくらいにいった方がいいでしょう。
何故か?適当にやってたら、時間が長すぎて間が持たなくなるからです。仕事にせよ、趣味にせよ、あれこれ手を出してみたけど結局モノにならないってことばっかりやってたら、60歳、70歳になったときに、本当に手元に何も残らないからです。例えば、適当に派遣社員やって渡り歩いて、若さの恩恵のもと体力まかせにサーフィンやスノボをかじった程度だったら、70歳になったときに何が残ると言うのか?でも何も持たない70歳になったとしても、それからまだ30年も人生は続くわけですよ。
話を仕事や収入、生計に限ってみても、なんせ80代まで稼がないとならないんですからね。定年を80歳まで伸ばしてくれたらいいけど、日本企業はまずそんなことしないでしょうし、外国企業の場合スキルもキャリアもなければ最初からお呼びでないです。ですので、60歳、70歳になってから起業をするくらいの気持ちでいていいかもしれない。それか、フリーランス的な半分雇用形態ですね。でも、これってそれなりに「○○のことならお任せください」ってモノを持ってないと話にならんでしょう?「ちょっとやってました」程度のスキルでは話にならない。なんせ、その時点でのライバルは50歳年下なんですから。孫の世代の壮健な連中を蹴落として、「やっぱり、○○さんにはかなわないや」って溜息つかせなければなりません。
趣味でもそうです。適当にかじった程度では長続きしないし、真に奥深い面白さまでには到達していない。音楽だって、適当に流行のモノをMP3で聴いてるレベルだったら、70歳になったときに間が持たなくなるよ。その頃の流行の曲なんかそれほど興味もないだろうし(なんせ孫の世代の音楽だもんね)、かといって昔流行った懐メロを40年も50年も聴きつづけてたら、なんぼなんでも飽きますよ。そこへいくと音楽にトコトンのめりこんでいた奴は強いです。単純にテクニック的にも、渋いベースラインがどーのとか、曲構成や展開がどうのとか、ギターの音色のセッティングがどーのとか、鑑賞ポイントが山ほどあるから、新曲を聴いても聴き所を知ってるから楽しめます。そんなテク的な話ではなく、より本質的に、鳥肌が立ったり、魂を感じるような音楽の凄味を知っていれば鑑賞ポイントが深いから一生遊べる。また、一つのジャンルを掘り下げていけば、あとは他のジャンルを聴いてもツボが分かるから入り込みやすい。演歌聴きこんでる人だったら、黒人霊歌のゴスペルを聴いても結構分かると思うのですよ。
オーストラリアでは、かなり高齢のおじいさんがウェットスーツでサーフィンしてたりします。年季入りまくりのサーフボードとかが超カッコいいんだけど、でも60、70歳になってもサーフィンできるのというのは、若いときにかなり気合入れてやってないと出来ないですよ。陶芸でも、日曜陶芸くらいではなく、貯金貯めて自分の窯を持つとか、いい土を探しに中国まで行くくらいのレベルになると、これは一生楽しめると思います。剣道や武道系の場合、かなり高齢であってもメチャクチャ強い、80歳の師匠が壮健な若い弟子に負けないどころか、未だに一番強いという現象があります。学者の世界でも、最長老が一番モノを知っているだけではなく、一番鋭かったりもします。人間国宝なんて、高齢者が多いですよね。最高齢者が最高技術者であるという世界は、結構あるんですよ。でもその為には、若い時期の「仕込み」が必要で、気違いじみた修行に明け暮れる必要があります。
何の話かというと、結局、本物は強いんですよね。どんなジャンルであれ、一人の天才が生涯をそれに喰い尽くされてしまうくらい奥が深く、真剣に極めようとしたら1000年あっても足りないくらいの深さがあるのでしょう。それをどこまで知ってるか、です。60歳か70歳くらいで死んでしまうのだったら、そこまで深いものも必要ないでしょう。適当にやってればヒマも潰れる。しかし、90年、100年となると誤魔化せなくなってくるんじゃないかな?ってことです。
自分の仕事に引き寄せて考えるならば、例えば、英語を勉強しましょう、留学しましょう、ワーホリでやってきて学校に行きましょうということでも、適当にチョロチョロ通って、お愛想や隠し芸レベルの英語を身につけたとしても、やっぱり本物のスキルにならないから、長い人生で間が持たなくなるだろうなって思います。どうせ高い授業料払って英語を勉強するなら、ある程度のレベルまで行っておいた方がいいです。これは、出来ないよりは出来る方が何かと有利とかいうレベルの話ではなく、かなりMUSTかもしれない。なぜなら最終的に役に立たないことをやっても無駄だからです。
英語が出来るようになるということは、世界中の英語の情報をダイレクトにゲットでき、楽しめるということです。言うまでもなく、日本語になっている情報よりも英語になっている情報の方がはるかに多いですから、それによって楽しいこと、得すること、役に立つことは沢山あるでしょう。日本語版が出るのを待ってなくて、さっさと原書で楽しめてしまうわけだし、大体において原文で読んだ方が正確だし、面白いです。インターネットでも、英語サイトでも苦もなく検索していけるとなれば、いろんな局面で話は違ってくるでしょう。また、人間関係なんかも変わってくるし、就職の射程距離が日本国内から全世界に広がるし、人生スパンでの計画の立て方も全然違ってきます。さらに、奥の深い本物志向でいく場合、必要があればポンとアメリカに飛んで調べてくるとか、人を探してくるとか出来るわけですから、自由度と行動力が変わってきます。
このように、ある程度出来るようになってくると、人生の組み立てそのものが変わってくるし、組み立てを変えられる位のレベルにまでいかないと役にも立たないのでしょう。一旦身につけたスキルというのは一生モノの財産ですから、その後の人生、極端にいえば一秒一秒全部違ってくるわけです。30しか楽しめないところを70楽しめるわけで、一事が万事その調子でいくとするなら、人生100年のうちの1年や2年、それに没頭していってもいいとおもいます。
なお、実際に留学して学校に通うのは1年でいいと思います。それで大体「ある程度」のレベルにまではいけるでしょう。「ある程度」というのは、そこから先は自学自習で伸びていける地点です。それ以下だったら、卒業後半年から1年もしたらモトの木阿弥レベルにまで落ちると思いますね。自転車と同じで、頑張って練習して乗れるところまでいってしまえば、あとは一生自転車に乗れるし、乗ってるうちにどんどん上手くなる。でも、乗れるようになる前に挫折してしまったら、その後1年ぶりに再チャレンジしたとして、それまでの努力分は殆ど残ってないでしょう。よく「人工衛星軌道」とか言いますが、衛星軌道まで上がってしまえばもう地面に落ちてこないけど、そこまで上がらなかったら落ちてきてしまうのですね。だから、何かスキルを身につけようと思ったら、衛星軌道になるまでやっておかないと、結局無駄になるという。
無駄になっても、短い人生であれば「あれはあれで楽しかった」でいいでしょう。しかし、70歳になってもあと30年!とかいってたら、やっぱり色んなことが出来た方がいいし、生き延びやすいし、単純に楽しいでしょう。間が持つんですよね。
というわけで、人生100年時代になった場合、まずは本物志向になっていくのではないかという話でした。
しかし、他にもいろんな変化が考えられます。単純に暗い話をすれば、間が持たなくなって自殺してしまう人が増えるかもしれません。それも男性。「俺の人生はなんだったんだ」と思いながらも、あと数年でお迎えが来るんだったら、何となく老衰して大往生になるだろうけど、そう思ってから20年も30年もあったらキツイですよ。心理学でいう「終末効果」ってやつで、「あとちょっと」だと思うから頑張れるのであって、まだまだ大量に残ってたらイヤになってしまうっていうアレです。そうなると、今度は自殺する勇気はないし、自殺するほどのことはないけど、「別にそんなに長生きなんかしたくないや」ってくらいのグレーゾーンの人が増えるかもしれない。そして、「自殺的な試み」なんてのが流行るかもしれません。高齢者の冒険家とかスピード狂が増えたりして。あるいは「壮絶な最後を遂げる」ために「死に場所を探す」みたいな感じで、傭兵になって決死隊になるとか、テロリストになって神風アタックしたりとか。
これは暗い話なのですが、明るい話としては、「人生かなりやり直しがきく」という面もあるでしょう。なんせ時間ならあるんですよ。50歳過ぎてから一念発起して医学部に入って医者になるってことも可能です。大学入試に10年かけてもまだ60歳、大学出て一人前になるまで10年かかったとしてもまだ70歳。あと30年あるもんね。
ということで、自分らの意識も「時間なら結構あるんだ」という前提で組みなおした方がいいかもしれないなって話でした。あれこれ思いつくので、興が乗れば次回に続くかもしれません。
文責:田村
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