今週の一枚(2015/10/19)
Essay 744:第一交差点の作法
〜「先が見えて」&「横を見回す」最初の岐路
これとよく似た雰囲気の写真を、ずっと昔に「あなただけの神殿」の回に使ったことあります。書いてることも似たようなことだし(力点は違うが)。
交差点
人間、生きてると「他の道」が見えてくることがあります。「ああ、そういう生き方もあったんだ」と。客観的に無かったものがボヨヨンと出現するというよりは、もともとあったんだけど昔は見えてなかった or 知ってはいたけど自分には縁がないと思っていたのがリアルな選択肢として浮上してくるって感じでしょうか。20代後半くらいから40くらいまでの間にそういうことが起きる人が多いように思います。ま、年齢はそれほど絶対ではないですのですが。
簡単に言ってしまえば「気が変わった」ってことなんでしょうけど、なんで気が変わるのか?です。これもいろいろなパターンがあるでしょう。
一段落パターン〜先が見えてきた
すぐに思いつくのは「一段落した」パターンです。学校・就職で頑張ってそれなりに一人前になった。ここから先は急斜面をひーはー言いながら登るのではなく、傾斜もゆるやかになってきて、基本同じことの繰り返しみたいになってくる。最初キツかった仕事も覚えました、部下を指導するのも慣れました、結婚しました&安定しましたってところで、まあ世間的にみれば順風満帆ぽくもあり、「何が不満なのよ?」的な立ち位置にいるのですが、その頃に他の道、another worldみたいなものが前よりもよく見えるようになる。当然といえば当然の話で、きつい斜面を登ってる時はそれだけで精力使い果たすし、周囲を見ている余裕もないでしょう。また、登っていく事自体に充実感も抱くでしょうから周囲を見る必要もない。逆に余裕が出てくると周囲も見渡せるし、またこれまでの蓄積で世間も広くなってきているから視界も遠くまでクリアになっている。さらに傾斜がゆるく楽になった分、充実感もしょぼくなってくる。あの〜、もしかして一生これやっていくわけ?それもね〜、なんだかね〜、まあそんなこといったらバチ当たるかもしれないけど、でもね、なんかもっとないの?という感じ。
カッコよくいえば「小成に安んずることを潔しとしない」てことなのかもしれないけど、そこまで格調高い話でもなく、また「成」かどうかはともかく、ポイントは傾斜角が緩和されて余裕が出てきた、まったりしてきた点にあるのだと思います。
だからこれは何か一つの職歴キャリアをまっとうした/一人前になったというわかりやすいパターン以外にもありえます。ぜーんぜん働かず家から一歩も出ない場合も、ずっとその場限りのフリーターで職を転々と変えているような場合も本質は同じだと思います。「もしかしてこれを一生?」という「先が見えてきた」感があるかどうかです。
強制転換
もう一つのパターンは強制転換パターンです。降って湧いたように何かが起きた場合です。思わぬ大病をして長期間療養生活を強いられたり、自分の死をシリアスに見つめたり、近親者が急逝してしまったとか、まさかと思った職場がコケてしまったとか、あるいはひょんなことから他人に「頼む」と懇願されて全然見知らぬ業界で働くことになったとか、急に実家にもどって家業を継ぐことになったとか。はたまたバンドでプロを目指していたとか、難易度の高い試験に挑戦していたけど諸般の事情で諦めなければならなくなったという場合もあるでしょう。
これらは見えてる風景総取っ換えになるわけですから、自ずと違う生き方も見えてくる。てか、見える前にやらされてしまう。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、一回それをやってしまえば、「なんだ実は色々あるじゃないか」「別に人生って一本道じゃないのね」ってのも実感としてわかってくる。
そこが生理的に腑に落ちたら「じゃあ、他にもあるだろ?」と思うでしょう。ポイントはここです。
ガビーン型
その折衷型とでもいいますか、旅行にいったり、本を読んだりしてガビーンとなる場合です。オーストラリアに移住する人は国籍問わずこのパターンが多いかも。以前、こっちの新聞か雑誌で、イギリス人がオーストラリアに移住する体験談を読んだのですが、休暇にパースに旅行にいって、あまりにも青い空と広大な風景に「な、なんだこれは!?」とやられてしまった。一回でもそれが頭に入ってしまったら、もうロンドン暮らしは出来ないよって必死にあれこれやって今はパースに住んでますって話でした。もともとオーストラリアにわざわざ来るような人は、最初からオーストラリア的な価値観に親和性を持っている人=ワークよりもライフを重視する派、オーストラリアの大らかな風景のような大らかなサムシングに魅いられる派が多いですからねー。ちなみに移民受け入れがどうの、低賃金の外国人労働者で介護とか日本で議論されているようですが、なんかなー、こっちの感覚に慣れてしまうと「そ、そうなのか?」って思ってしまう。これは前からちょくちょく書いてる国家論でテーマが違うので深入りしませんが、私見によれば、それって18世紀までの宿命論的国家論(そこに生まれたというのが決定的)、19世紀型の富国強兵型国家論(喧嘩強くて金持ちになる=ジャイアンとスネ夫が最終理想像)で、僕が思い描く21世紀以降の国家論=クラブ活動型国家論、趣味嗜好を中核とした部族社会ではない。そして、マルチカルチャリズムが根付いてきてからのオーストラリアというのは、クラブ的部族社会の要素を多分にもっているように思います。「そーゆーのが好きな人」が世界中から集まるという「オーストラリア部」という部活みたいな国家。オーストラリアって世界のど田舎にあるくせに、妙に時代のエッジみたいな先端性を持ってて、そこが面白くて僕も来ました。
難民、移民、民族移動型〜配転、出向、単身赴任型
難民型では、遠くは人類の黎明期に氷河期に追われるようにあちこち行ったり、フン族に追われたゲルマン民族大移動。侵略型は日本では大陸からの民族がやってきて熊襲や出雲族を蹴散らしてヤマト朝廷を作ったという説とか、スペイン、ポルトガルが中南米を侵略したとか、アメリカやオーストラリアなど植民地系は大体そうです。時代が下ってくると移民系が多くなり、日本の明治〜昭和初期では、一村まるまるあげての移住(アメリカとかブラジルとか北海道とか)があります。オーストラリアの戦後の第一次移民ラッシュなどもそうです。戦争で国が荒廃した中欧、南欧などから大挙してオーストラリアに移民がやってきて、オーストラリアにカプチーノとワインをもたらした流れですね。
これらのパターンは、どっかの村に生まれ育った青年が、ある日思い立って峠を越えて広い世界に行くという話ではなく、その村にずっと居たいんだけど村そのものが民族移動的に引っ越してしまったパターンです。客観的には大変化が起きてるんだけど、それを自発的に望んでいたわけではないし、周囲の人間関係はそっくりそのまま同じだから変わったのか変わってないのかよく分からん。それまでの人生ルートそのものがグニャリと曲がってとんでもないところに行ってしまったという。
変わりたくない(保守)と変わりたい(冒険)があるとしたら、自分は保守なんだけど、やってることは大冒険というこのパターンは、リアルタイムのビジネス世界にもあります。安定第一、寄らば大樹だと保守心バリバリで大企業に入ったものの、内部的な配転で関連子会社に飛ばされたとか、単身赴任になっちゃったとか、片道切符の出向させられたとか、会社がまるまる世界企業に吸収されて強制的にアフリカ勤務になってしまったとか。子供の頃に、親の都合で強制的に移民(転校)させられるような場合もこの類例に入るかもしれません。
この場合も、結果的にいろいろ見させられることに変わりはないので、人によったら「おお、色々あるのね」「やれば出来るのね」ってことに気付くキッカケになる。僕の場合もオーストラリアに来るまでに親の都合でちょこちょこ転居してますので、それがいい下地になっています。「はー、どこであれ結構なんとかなっちゃうものなのね」という。
自分の場合
ところで、僕の場合は34歳でオーストラリアに来ましたけど、まさに「もっと、なんかないの?」パターンで、HPのAbout Usにも書きましたけど、やれやれ一段落ってところで、人生の裏番組が気になってきたという。他のチャンネルではもっと面白いのやってるんじゃないの?という素朴な好奇心です。もう一つは「暴挙」の必要性と快感です。必要性というのは、何がどうなっても生き伸びるためには守りに入ったらダメなんだけど、このままいったら守りに入りそうだな、ここらで一発無鉄砲なことやっとかんとダメになるなって意識です。快感というのは、生きるか死ぬかみたいなヒリヒリするのが好きだっていう趣味もあります。テーマから逸れるのでそれらについては割愛しますが。これが最初の転換点で、これを仮に第一交差点とします。
高校生の頃に思い立って、頑張ってその職について、現場であれこれ揉まれてそこそこキャリアをつけてということで、トータルで15年くらいかかってますが、とりあえずそこで一段落して、周囲をキョロキョロ見廻しはじめる。一本道だったのが交差点になってきて、あっちもこっちもあれこれと他の道が見えてくるし、徐々に現実的な選択肢になってくる。
ちなみにに第二交差点もあります。徒手空拳で何も知らん外国に行って、自分でなんか立ちあげて稼ぐところまで出来てという時期です。折しもちょうど37-8歳くらいで、「カシャ」ってどっかで音がして(ほんとにそんな音が聞こえた気がする)、「はい、人生折り返し地点通過でーす、こから先は下り坂で終着駅は死ですよ」ってのが、ある瞬間肌身で感じられたときです。あれは不思議な感覚だったなー。そこでじゃあどうするの?ってところで結構あれこれ考えて、そのあたりをこのエッセイの前身であるシドニー雑記帳の最後の方にシリーズで書いてます。
そのなかに「尾根道にて」というタイトルで書いたのですが、本当に尾根道にいるような感覚があったのですね。山岳風景のビジュアルが脳裏に浮かんでいたくらいです。尾根道というのは、一つの山の頂上ではなく、山々の頂上と頂上をつなぐ稜線です。見晴らしはいいんです。どっちにも行ける。360度自由だし、よく見えてもいるからベストのように思われるかもしれないけど、でもどっち行っても今よりも高度が下がるのですよね。あんまワクワクしないのですよ。登らないから。例えば、今度はどっかの新興国に突撃してまたゼロからつくり上げるんじゃ〜とかいっても、もうやっちゃったんで二番煎じ的に盛り上がらない。
しかしあまり先走りはせず、今週はこの第一交差点(単線人生が複線化を始める)について述べます。
交差点における作法
第一交差点=「人生もっとイロイロあるんじゃない?」的な感覚が出てきた段階=の切り回し方というか、思いついたことをちょろっと書いておきます。「こんな感じかな?」という程度の軽いものですけど。第一交差点にも種々のパターンがあるのは上述したとおりですが、ここでは一番最初の「一段落パターン」の照準を据えます。その他のパターンは、強制転換にせよなんにせよ実働が先行しますし、考え始めたときには既に体験して手触りもわかってるわけですからある意味やりやすいです。
しかし一段落パターンの場合、確かな実感のあるこれまで人生=第一ステージ、原路線に比べて、新たに出てきた「もう一つの道」はそれほどの現実性を持ちません。場合によっては「空想上の産物」「白日夢」に近いくらいアヤフヤなものであったりもします。またある程度「確かな手ごたえ」を感じたとしても「手ごたえ」だけではメシは食えない、さてどうしたものか?って段階もあるでしょう。いずれにせよ、これまでの原路線に比べてみて実体性に乏しいって部分が悩みドコロになるでしょう。
本当に別に道に進んでいく場合、これも幾つかの形態があるでしょう。思いつくのを挙げてみると、
(1)確定パターン:これじゃ〜!という明確な道が見えて、突進していく場合
(2)手順パターン:幾つか候補が見えているのだが同時に全ては無理なので、まずはココからという手順的に進行する場合
(3)探索パターン:まだよくわからないので、それを分かるために前に進んでみる場合
(4)「見えなくて良い」「決めんでええ」と腹が括れている場合
このうちの(4)は除外します。これは難易度が高いし、第一ではなく第二交差点レベルの選択肢だと思いますから。実際コレが出来たら苦労はないんですよね。最初から「道」なんか無かったんだ、全部錯覚だったのねとまで思える境地にたどり着くには、実際に複数の道を踏破してみて「おう、なるほど!」と腹の底から得心がいかないと難しい。「もしかして、別の世界が〜」と思い始めた段階で、そこまで達観しろというのは無理でしょう。十年早いわって感じ。
したがって(1)〜(3)のどれかってことになると思うのですが、これは別にどれでもいいです。そこはお好みに応じてってことなんだろうけど、大抵は2と3の併用が多いんじゃないでしょうか。1の確定これじゃ!パターンって、なっかなか無いような気がします。
嘘っこの確定
なぜなら嘘っこの(1)が多いからです。これまで単線型でやってきただけに、どっかに確定的な道があってくれないと不安でしょうがない。だからなんとなくそれっぽい道(資格を取ろうとか)があると、それにすがりついてしまう。別に心からやりたいわけでもないんだけど、それだ、それっきゃない、それに決めたって思って、決めることで安心したいってパターンです。
これは遅かれ早かれ化けの皮が剥がれます。「あれ?」「本当にこれでいいの?」ということになる。そりゃそうですよ、ちゃんと別の道を探してないんだもん。早く楽になりたい一心で、3の探索を途中放棄してるわけですからね。
意外と途中放棄パターンが多いような気もしますが、これって本質的にはこれまでの第一ステージと同じだと思います。育つ過程で「これしかない」みたいに示された道をたどってきて、それが頭打ちになって次のバージョンアップ=選択の自由、カスタマイズという段階にあがるハズなんだけど、再び「これしかない」という単線路線にいくのですから、本質的には何も変わってない。他人や世間から示されるのか、自分で思い込むのかの差はあれど、同じことでしょう。結局慣れきったパターンに回帰していくだけです。
逆にいえば、(3)探査が心理的に辛いことをも意味します。なんか漠然たる思いだけで、あーでもないと探し続けるのは成果が目に見えないだけにメンタル的にきつい。それにどこまで耐えられるかが決め手になるのですが、そこは個人のメンタル資質というよりも、これまでの経験値がモノをいうように思います。
もっともやってみたらハマっちゃって、、というのも多いです。てか僕も最初はそうだったもんね。独立開業したらもう一生出来ないから今のうちに、ってのが原点。でも来たら3日で帰る気なくして「日本?なにそれ?」みたいな。カタチの上では予定通りに日本に帰る人も多いですけど、もう全然別人になってるから動きが全然違うってのもあります。それまで故郷の小さな町で縮こまっていたのが、いきなりポーンと八丈島に住んでみたり。あるいは全く同じ町で同じ仕事をするのだけど、もう意味性が全然違うとか。
結局婚約パーになりました、離婚しましたって場合も多いですね。でもイイコトですよ。そこでそうなるなら、あのまま日本にいたって遅かれ早かれですから。早期発見早期治療です。これで世間体気にしてそれもやれずじまい、終盤に熟年離婚になったりすると凄いですよ。もう半生分怨念利息たまってますから八犬伝の「玉梓が怨霊」みたいになって。上品そうな老婦人がぼそっと「ブッ殺してやる」って呟く。もう夢の中では千回くらい殺してるみたいな世界で、うわー、これヤクザよりも怖いなーと思ったもん。
第一ステージをどれだけやってきたか
第一ステージでやるだけのことをやってきたという自負心なり納得のある人は、かなり明確に原道路が見えてますから、みすみすそこに回帰するということはしないでしょう。また、そこまで第一ステージでやってきた人は、それなりの社会的実体(収入やらステイタスやら)を築いてきてるでしょうし、それを叩き壊してまで敢えて別の道を模索するのですから、気合も違えば感度も違うでしょう。また感度が良ければ、かなり漠然とした決め方、「おし、こっち方面だ」みたいな何ら具体性のないことでもわりと進んでいける。方向性が合ってるという自信はあるから。ただし、第一ステージでやっていればいるほど、方向転換には時間がかかる場合があります。慣性の法則で、それまでの習い性になってる価値観・世界観が染み付いてるから、「はい、じゃあ次、いってみようか〜!」みたいに割り切れないですからね。
また、これは別に「充実」「成功」でなくてもいいです。何をやっても中途半端、あれをかじっちゃ放棄、これをやっちゃポイ捨て、人間関係も焼畑農業的にその場限りのものばっか、俺、もうこんな自分がイヤだ!ってことで、原道路の第一ステージをとことん味わってきた(苦いか甘いかはともかく)人は「そうではなく別の」の差異性に鋭敏にならざるを得ないでしょう。だから、そう簡単に3の探索を放棄するわけないです。「違う」「こうじゃない」「あ、これだよこれ」とかこだわるでしょう。
あるいは派手な成功も失敗もなく、故郷 or 都会で、そこそこ他人に後ろ指さされないように慎ましく堅実にやってきましたって場合、その「堅実にやる」ってことのリアルな触感も骨身に染みて分かるでしょう。それが許容できる人はそれでいいわけだけど、それがどうにも許容できなくなったから、他の道が見えるようになったわけで、その原点です。
いずれにせよ今まで通ってきた道を正確に理解出来ていればいるほど、「別」なものの差異性もわかるし、「何が違うと良いのか」という本質にも迫っていけると思います。
道ではなく本質と納得
思うに「道」というアナロジー(比喩)が良くないのかもしれませんが、目に見えてカチッとした「国道○号線」みたいなルートがあるわけではないと思います。なんでその道を選ぶのかという理由、本質、そこにいたる価値観が大事だし、それをすることに自分が心から納得しているかどうかでしょう。アート作品でいえば、「リアルな人間像」「自然の驚異」とかいろいろなテーマがあって、自然なら自然でそれを表現するためにキタキツネを追って撮影したり、砂漠に行ったり、はたまた大都会のアスファルトをブチ破って生えている雑草に注目してみたりするわけです。いわゆる「道」というのはこのキタキツネとか雑草という題材部分であって、本質的なテーマそのものではない。テーマ(自然)が表現できれば題材(キタキツネ)はなんでもいい。テーマを表現しやすければし易いほど良い。
これはエスカレーター式の第一ステージだって本質は同じことだと思います。いいガッコ、いい職場、高い地位とかいっても、そのこと自体に価値があるのではなく、それをゲットすることによって、「人生の安定性」「世間に引け目を感じない」とか、そのあたりのテーマなり価値観が重視されているのだと思います。
そしてその価値観が満たされたり、リアルに理解できたり、賞味期限が切れたりしたから、もっと他にないか?ってことだと思うのです。
そのあたりの第一ステージを動かしていた価値観が徐々に色褪せてくるにしたがって、もともと持っていた別の価値観が台頭してきました。つまり子供のような「ワクワクしたい」「好奇心」です。子供が遊園地に行きたがるのと同じ価値観ですね。「面白そうだから」とという問答無用にピュアで強力な。まあ、難しいことを成し遂げて自己実現とか自己顕示とかいうのもあります。全然知らない海外行くぞは、スリリングでヒリヒリするから楽しいし(生きるか死ぬかが一番楽しいよね、何事も)、エベレスト登れた自分にうっとり(笑)、他人に自慢してまたうっとりという部分もありますよね。まあこの自己ナル系の価値観も、第二交差点あたりで大分なくなったけど、でも完全に死んではいないです。というか意図的に「保護」しているというか、そこが完全に死んじゃうと、もう枯れ過ぎた仙人みたいになって色気や潤いが無いというか、それは人としてあかんだろうと思うので、そのあたりの「稚気」「煩悩」は保存と。
あ、あといわゆる社会的ステイタスとか世間体の良さとか、そのあたりはどうでもいいです。最初からそんな興味もなかったけど、実際にやってみてうんざりしましたから。止せ止せあんなもん、欲しがるなって感じ。なぜってね、「先生」とか呼ばれてたって、別に心底尊敬されてるわけではないのは馬鹿でもわかりますよ。それどころか、プライベートタイムがやたら減ります。よく中小企業の社長とか指輪キラキラのおばちゃんとか「知り合いに弁護士がいてね〜」と仲間内で自慢したい人結構いるから、それに引っぱり出されるんですよ、なんかの会合とか忘年会とか。要はその人の虚栄心のデコレーションにされるわけです。でも客商売ですからね、無下に断るわけにもいかず、ただでさえクソ忙しい年末進行でさらに雑務が増え、イブも元旦もクソもねーよって感じになる。よく芸能人が暴力団とツーショットで黒い交際とか書かれてますけど、あれも大体推察しますけど、ヤーさんとか子供っぽいし自慢しいがいるから、「テレビで有名な○○な、ワシが電話一本かけたら飛んできよるで〜」とか言ったりするんでしょうねえ。で「頼んますわ、ワシの男が立たんさかい」とか懇願される。そんなもん立たんでええわいっ!て言いたいのをグッと堪えってな感じでしょうね。それが、まあ、「社会的ステイタス」のリアルな実態だと思いますよ。えらくなるほど顔も見たことない人の結婚式に呼ばれて最低でも祝儀5万円(3万じゃダメでしょう)包んでとかさ。世の中虚栄心強い人は沢山いますからね、立ってるものは親でも使えってな感じで便利使いされますよ。間違っても有名人なんかになるもんじゃないです。そーゆーのが嬉しい人は別ですけど、普通、嬉しくないよ、こんなの。
そしてそれぞれの価値観をわりとよく表現しているモチーフなり題材が、個々の職業類型や生き方類型だったりするのだと思います。
何が言いたいかというと、この「道」っぽい具体的なルートを探していると(そうなりがちだが)、迷宮に入り込むから気をつけてね〜ってことです。道っぽいものを探し過ぎるがゆえに異様に視野狭窄になってみたり、本当にやりたいことをまるっぽ誤解してみたり、迷走し始めるので。
とは言いながら、交差点ビギナーにおいては、そんなにバキバキ新しい道が見えるわけなく、まずまずはおっかなびっくり(3)探索をやるのが普通でしょう。そして何らかの手ごたえを感じながらも、それが何かがわからない、それをどう活かせばわからない、そもそもその「手ごたえ」って何よ?そこをもう少し掘り下げて理解しないと進めないよって感じだと思います。
オーストラリアにおける具体論
話が抽象的に過ぎるかもしれないので、もう少しオーストラリアにおけるワーホリや留学、あるいは移住永住に絞って書きます。日本人が自発的意思で日本を離れるということ自体(大学生さんの就活対策=「留学経験アリ」と書くために数週だけのなんちゃって留学を除けば)、既に交差点にいることを意味する場合が多いでしょう。オーストラリアの人たちにとってみたら、国の違いは日本における県の違いくらいにしか感じてないから、違う国に行くことってそれほど大きなイベントではない。高校まで山梨で大学から東京くらいの感覚でしょう。でも、これまで日本で暮らしてて、そこまで世界が小さくなってる人はまだまだ少ないだろうから、それなりの「想い」を持って来てると思います。従来のルートや価値体系に対して、疑問なり不満なりヴァージョンアップ欲求があると。
そして多くの場合は交差点初心者でしょうから、来てはみたものの、どうやって料理すればいいのかさっぱ分からんってのも無理ないでしょう。
やるべきことは簡単なんですよ。第一に現地で暮らして、そこでちゃんと「なにか」を感じることです。第二に、その「なにか」とは何なのかをしっかり突き詰めて究明することです。それが出来たら七割方完成でしょう。あとの3割でそこで分かった自分の価値観(ええもん)をどう今後のライフスタイルに表現していくか、その実現方法を考えることです。
まあ、言ってみりゃそれだけのことで、簡単っちゃ簡単です。でもやってみると難しい。いちいち落とし穴がありますからね〜。
第一の陥穽(落とし穴)〜ちゃんと感じてない
やっぱ「自分以外総取っ換え」という360度新環境は面白いし、毎日新発見!の嵐で、頭のなかも嵐のようにあれこれ考えて知恵熱が出るでしょう。ただ、それも最初の1−2週で、だんだん生活がルーチン化するにしたがって、まったりしてきます。来た当初は1日30個くらい新発見があったのが、1日一個あるかないかになり、1週間に一個くらいになる。それに反比例して生活は安定してくるから楽になるし、ゆったり安らいでくる。交感神経系が副交感神経系に替わるように、アドレナリン主導から、安心だけど退屈な日常に変化していく。そこまではいいです。誰でもそうだと思うから。
ただ問題なのは、そこでまた価値観が静かにカシャリと変わることですね。そもそも何のために来たの?=価値観ライフのヴァージョンアップという本来の目的を忘れてしまって、慣れ親しんだ昔の方法論、例えば「最小努力で安全に楽したい」系に戻っていってしまう。楽したいんなら、大汗かいてオセアニアくんだりまでやって来ないで、慣れ親しんだ日本環境で生活やってりゃいいんですよ。英語で苦労することもないし。
子供のような攻撃的行動様式と老人のような防衛的行動様式があって、子供のモチベーションは「面白いかどうか」です。しかし20代も半ばくらいになってくると面白いかどうかではなく「楽かどうか」で行動決めるようになる。地下鉄の階段でも、子供はエスカレーターなんか目もくれず二段飛ばしで駆け上っていきます。詰まらないから待ちきれないんですよね。でもだんだんと「しんどいな」「混んでるけど並んでエスカにしよか」とか「楽かどうか」が行動決定要因になっていく。もうこの時点で「老化」が始まると僕は思う。年を取れば老化するのは当たり前だから、それは特に問題ではないのだけど、ただこの局面=もともと何か新しいものを探しに来たという本来の目的からすれば、ここで退嬰的になってしまったら意味が無い。でもなりがち。
そうなってしまったら「感じる」も何もないですよ。もう魂の軸足が日本(第一ステージ)に戻ってるから、「なんでオーストラリアはこうなってないんだ」とか不満たらたらになって、珍しい物、ワケのわからないもの、ヤバそうなものには手を出そうともしないし、近寄ろうともしない。それじゃ分からんよね。「探索活動」自体が不十分なんだもん。
これ仕事に置き換えたらわかりやすいでしょうが、将来的なオーストラリアのビジネス展開を考えて先遣隊として派遣されました。どういうカルチャーとライフスタイルか、どういう市場動向にあるか、どれだけの将来性があり、そこで自社商品は売れるのか、それをしっかり見聞してレポートにまとめてこいというミッションを渡されます。おし!と勢い込んできたのはいいが、だんだん疲れてきて活動もワンパターン化して、現地で知り合った日本人同士でいつものパブでいつものようにのたくって、なんら掘り下げた調査もしないで終わり。そんなことやってたらクビか降格でしょう。
仕事だったらちゃんとやるくせに、自分のことになったらやらない、、、ありがちですけど、でもこれ自体が既に第一ステージの方法論や価値観ですわ。就職だ給与だとかいっても所詮は「他人の金儲けのサポート」でしかないわけで、それが自分のことよりも優越するという。というか自分のことになると極端に手間暇を惜しむ。しかしですね、いやしくも交差点に入ったら、最大のクライアントは自分、社長も自分ですよ。そんなことしてたら取引打ち切りか倒産ですよ。やると決めたら、これまでの自分の仕事歴に照らしても文句なく最高水準の「仕事」をこなして当然でしょ?自分が可愛くないの?
まずこの「ちゃんと感じる」という価値観模索、探査活動のレベルで、相当部分があえなく討ち死にしているように思います。この時点ですでに難関。
第ニの陥穽 〜分析できてない
第一の関門はクリアしました、「あ、なんか、すごいいい!」ってサムシングは得られました。それも沢山、いろいろな局面で。じゃあ、今度はラボにもっていって、それって何なの?という究明作業があります。これを詰め切る作業というのは結構難しいです。というか、第一関門の3倍は難しいかも。
あの〜、ここで大きな誤解があるように思うのですが、「あ、わかった!」とぽんと答が出るかのように思われるか知らないけど、そんなのマレです。ぶっちゃけ、このラボ研究に10年くらいかけてもいいとは思うし、交差点ライフに突入して以降はもうラボはパーマネントな施設になって、死ぬまであれこれ考え続けることになるでしょう。
「どうなりたいの?」というのは、どういう状況になると自分はハッピーになれるのかという、自分の喜ばせ方の研究ですよね。しかし、リアルな一人の人間の頭とココロの情報体系というのは膨大ですよ〜。データー的なチェック項目だけで冗談抜きで1000項目くらいあると思うし、組み合わせの不可思議はアートの世界だし、考究深度でいえば哲学の世界です。そんな「じゃあ、次はトロね」「はい、トロ、お待ち!」みたいなもんじゃないって。
気持ちいいツボ1000個だって、そのくらいありますよ。例えば、ちょっと前のエッセイで「空さえあれば」ってのを書いたけど、どうも僕は空が綺麗だとそれだけでハッピーになれるという体質があるみたいだと気付きました。その仮説に基づいていろいろ試してみるにどうもそうらしい。次は、その度合の測定で、空が全然見えない環境と、きれいな空がいつでも見える環境とで比べてみたら、年収で少なくとも10%以上の差があるなと。価値の値付けですけど、空なし年収1000万と空あり年収900万だったら後者の方が断然がお買い得だと。だからもし就職するとするなら職場の所在もそうですが、休み時間に屋上に行けるか、空が見えるかもチェックポイントになるなと。部屋に籠る職種よりは外を出回る営業職の方がいいなとか。次に空だったら何でもいいわけじゃないです。空が見えるならタワーマンションの高層階がいいんじゃないの?と思われるかもしれないけどダメっす!なんでかというと仰角=「見上げる」アングルが好きなのです。高層階で空が水平目線にあってもイマイチ感動しない。と同時に、前景物がないとダメなんですよ。それは山の稜線でもいいし、今週の写真のように草むらの丘でもいいし、河川敷でもいいし、摩天楼のきらめきでもいいんですけど、それら地上物と雄大な空との対比がいいんですわ。そこになんかしらん「おお」という感動が宿る。そのあたりの「快楽の経絡秘孔の研究」は日々着々と進んでいるわけです。
たかが空だけでもこれだけあるわけです(もっとあるのだが)。これ、誰だってあると思いますよー。ケーキが好きな人は、甘きゃなんだっていいとかクソ大雑把な話じゃないでしょう?パイ生地のパリパリ感とか、クリームの粘性や油成分やら、甘味成分の量やら質やら。音楽だってそう。ハード系が好きなんだけど、ハードだったら何でもいいってもんじゃないの。てか90%以上ダメなの。うるさいけどうるさくないって微妙なポイントがあるの。ギターのそれはハウってるだけで、きれいになフィードバックになってないじゃないかとか。お酒だってアルコール度数が高ければいいってもんじゃないの。また飲むスチュもあるの。ビシっとした冷酒をいただくときは、テーブルの上が綺麗に片付いてないと興ざめなの。ざわざわ飲むもんじゃないの。木目がきれいなカウンターとかさ、アテにホタルイカの沖漬けとかあってさ、それが渋い九谷焼の器で出てきてさ、でもって一緒にいく人も選ばなきゃならないしさ。大変なんだよ、ハッピーになるのは!わかるでしょ、酒だけでも飲んべだったら軽く100項目くらいチェックポイントがあるわけですよ。
自宅でゆっくり引きこもりたいのですね、ナイスな趣味です。吉田兼好も鴨長明もそうですからね、トラディショナルなパターンですね。じゃあ、その自室はどんな感じがいいですか?ばーっと庭が見えるガラス大きめがいいですか、それとも穴蔵系がいいですか、くつろぐにはデスクがいいですか、椅子か座位か、インテリアは、壁にかける絵は、オーディオは、照明は、、、お香なんか焚いちゃいましょうか、アロマですか?白檀がいいですか、ローズヒップとラベンダーですか?と無限にチェックポイントがあって、マイルームに金かける人は1000万以上かけますよ。昔リスニングルームとか流行ってて、測定機器で反響まで図って、天井を波型にしたり、壁の材質を変えたり、くつろいで聴くための椅子も100万以上のいいやつ買ったり、凝りまくるのですな。そういうことに真剣に乗ってくれる建築士さんや工務店さん(たくさんいる)を見つけて、じっくり話したらいいですよ。自室が天国になったら言うとないでしょうが。居るだけで不愉快になる部屋に住んで、むしゃくしゃするからパチンコいって、またスッてとかやってたらどっちの方が金がかかるんだ。
僕が今の家をみつけるときも賃貸のインスペクションに半年以上かけましたけど、ハッピーのための環境整備というのはそれくらいやらなきゃ。だって毎日のことなんだから積もり積もれば大変の差ですよ。実際それで仕事効率が上がったり下がったり、経済換算すれば年率10%以上違ってくるだろうし、また健康面でも向こう10年でヤバイ病気になる確率が減るでしょう。ストレスは万病の元ですからね。
「自宅でくつろぐ」だけでもこれだけ出てきて、さらに仕事とかになったら、「人と接するのがすき」「他人の笑顔がみたい」という基本方針を打ち出してみても、どういうスチュでどういう笑顔が好きなの?困ってる人をほっとさせる場合もあるし、さりげない心のふれあいの淡麗なしかし芳醇な味わいってのもあるし、ニコニコしてる人をもっと芯から笑わせるのが好きかとか、その人っていうのは同僚とかチームのメンバーのことをいってるのか、あるいはお客さんのことをいってるのか、そういう仕切りをなくしていって、シンプルに「人と人」って感じに昇華させていくプロセスが好きなのか。もう山程あるじゃん。そこらへん考えてるの?と。
だから交差点は難しく、だから交差点は楽しい。それが醍醐味。10年くらいかけろって。それが交差点の作法。
そこをテキトーに分かった気になってやってしまうと、あとでしっぺ返しがくるのですよ。「なんかイマイチ」「こんなはずじゃ」みたいなことになる。十分に考えてやってるわけじゃないから、その道がぶった切れてたら荒野のど真ん中で途方にくれることになる。
ということで第二の落とし穴で、ここでまた討ち死に。
第三の折衷案〜現実的処方
ただし、そうこう言っててもメシは食わなきゃならないし、とりあえずやることやらないとってマネジメントも必要です。だから折衷案でしょうね。ワーホリ、留学中の探索活動をやってて、なんか分かりかけてきて、もうちょっと研究したいっていうなら時間を稼げばいいし、その分の費用も稼げばいい。研究費捻出ですね、貧乏ラボだから研究員一同なんでもやりますって感じで、やれ商店街のイベントでは着ぐるみで踊ったり、バックヤードで商品の品出しをしたり、なんでもやりまっせと。要は研究が進むかどうかですから。それに全く五里霧中ってこともなく、「これなんかどうかな?」みたいな候補が幾つか出てくると思いますから、手順を考えつつ、とりあえず見切り発車でやってみて、その感触をもとにさらに進めていくって感じになるんじゃないですかね。
手順
ここで大事なのは「手順」だと思います。将棋やら麻雀と同じですね。序盤戦の駒組みのようなもので、とりあえず角道をあけておこうかとか、王を動かしておこうかとか、でも状況によっては電光石火に動かなあかんときもあるし、先のことを考えて何をどの順番でやっていくのがいいかです。麻雀でも配牌睨んで、ソメに走るか、アンコっぽくなるか、とりあえず今切るならコレかな、これは一応取っておこうか、ドラは要らんし早めに切っちゃお、とか考えるでしょ。それと同じ。ここで大事なのは一枚めくったら、はいロイヤル・ストレート・フラッシュ完成でーす!みたいなことって無いってことです。例えば、永住権と、日々の生計と、人生的なキャリアと、自分のライフスタイル、これらが全部ビシッと揃うことなんか惑星直列みたいな確率ですから望むべくもない。じゃあどっちに展開していってもいいように、「次の一手」は何が正着か?です。料理のダンドリみたいなもので、時間がかかるものは先に仕込んでおく。乾燥豆とかは前の晩から水に漬けておかないと駄目だしね。英語みたいに、何をどうやっても膨大な時間がかかる物事は早めにはじめて、倦まず弛まず日々続けるしか無い。しかし個別のいい就職なんてのは、決まるときは5分で決まりますからね。だけどそれがいつ訪れるかは全く予想できない。時間がかかるものかからないもの、予測できるのもの出来ないものをちゃんと仕分けして、何をどう組み合わせて、どう配置しておけばいいか、です。それと同時に寿命とか、出産年齢とかいう制限時間もありますから。かなり頭使いますよ。
やってみて考え、動いてみて風景の違いを精査し、微妙な心の揺れ動きをモニターし、「ははあ」とあたりをつけていく。その繰り返し。それが交差点の作法だと思います。
第一交差点ではまだビギナーですので、あたふたするでしょうけど、それでいいです。そのうち慣れますから。
第一ステージやり残し感とか
結局出てきた答って、本当に千差万別で面白いですよ〜。例えば、実は未だ交差点は早かったパターンなんかもあるでしょう。第一ステージでやり残した感がある場合、その欠落感の代償探しみたいにこっち来てるんだけど、根っこがそこにある以上それをやり切らないと先に進めないって場合もあるでしょうね。だったら、それをやるべし、です。
もっとも、残酷なことを言うなら、それを続けてやったところで、それが思ってたような展開になることはさほど多くないかもしれない。なぜなら、それが出来る奴だったら、もっと早い時点でもっとスマートにやり遂げてますから。最後の5メール差で届かなった場合、それは5メートルの差ではなく、最初の一歩からもう違ってるという場合が多い。だから5メートル分稼いだから、それを付け足し〜といっても、そうは簡単に問屋が卸さない。
でもね、そんなことはどうでもいいんですよ。要は自分は納得するかどうかですから。自分を納得させるためには、もっと先まで駒を進めてみないとならない。行くところまでいって、ああ、行き止まりなのねと自分で壁触ってとことん納得したらいいです。それに「それが出来てる奴」だって、そのまま先に進んでいけば同じことです。いずれはどっかで壁になることに変わりはないです。巨視的にみれば微差でしかなく、100階建てのビルで37階まで行けたか43階まで行けたかの差でしかない。仮に超人的な努力と幸運で100階まで上り詰めたら、そのときはそのときで「それがどうした」「ビルに登って、それが何なのよ」って思いますよ。全然うれしくないよ。でもって、次のステージにいけます。
次のステージ、そこは、そう、交差点ですわ。
もっと他にないの?もっと、こう自分ににしっくりくる感じのものがさあ、あるような気がするんだけどな〜と。交差点というのは、定期的にやってくるクラス編成、価値観再編成です。
価値観というのは過去の経験事実に支配されますし、その経験事実が新入荷でどんどんラインナップが変わってきたら、価値観もまた変わって当然。どっかで棚卸しせんならん。それが交差点。
「納得」というのは「行き着くところまで行った」という認識によって生じますが、行き着くところまで行くことによって、その原動力となっていた価値観は燃えて尽きてしまう場合が多い。ボンベが空になってしまう。それはそれでめでたいことです。完走〜!ってね。その頃には自然と次のボンベが目の前にあったり、どっかに無いか探したり、そういうことだと思います。
だから結局同じことで、それを何度か繰り返してきたら、ようこそ第二交差点へ、です。
ま、でも、とりあえずは第一交差点ですよね。
でも第一交差点に手こずって本当に10年探し続けたら、それはそれでもうその時点で交差点の意味が変わって、第二交差点になってきてると思います。「あ、別に何をやってもいいんだ、結局」「「やる」ってことにこだわる必要すらないんだ」ってのが吹っ切れて分かるようになると思います。
文責:田村