APLaC? What, Who and Why?
現在のAPLaCについて
APLACとは、多元生活文化研究会=Association for Pluralistic Life and Cultureの頭文字を取ったものです。
コンセプトは
「人生の生き方は一つじゃない(多元的)」ってことです。マルチカルチャル百花繚乱のシドニーにやってきて、最初に感じ、そして終生のコンセプトになった考え方。
たくさんあるんだから、たくさん学ぼう、そしてたくさん楽しもう。
それも一人ではなく、皆で教え合いっこしたらもっと楽しいじゃないかってことです。
現在の”APLaC”は、ビジネス的にいえば、私、田村宏一のオーストラリアにおける事業主体(もっぱら語学学校やオーストラリア生活に関する相談、サポート)を意味します(ABN : 69260128837)。
ただこれだけでは"APLaC”という社会的実在について説明し尽くしたことになっていません。それは、ドラえもんを「未来から来たネコ型ロボット」と言ってるだけのようなものでしょう。
田村、WHO?
田村宏一/Koichi TAMURA
APLAC創設→まだやってます
1960年東京巣鴨にて出生。典型的B型。東京各区、川崎、京都と転々とし、現在よりもずっと難しかった当時の司法試験に25歳でまさかの合格(当時の全国平均は28歳)。2年間の司法修習(実務修習岐阜でした)を終え、大阪で弁護士登録。6年間の弁護士実務では日々「なにわ金融道」の世界を地でいくような市民事件で駆けずり廻り、元旦にも出勤するほど超多忙のまま、みっちり修行に励む。
弁護士時代の業績としては、現在の医療事故判例のリーディングケースになっている最高裁平成7年5月30日「核黄疸脳性麻痺事件」判決。その詳細は、
裁判所のサイトにある最高裁判決本文PDF、
判例紹介1=新生児退院時における産婦人科医の注意義務違反の有無、
判例紹介2=医療過誤訴訟における過失の基準−医療水準論、
判例紹介3=療養指導義務、
判例紹介4(「何か変わったことがあればいらっしゃい」は説明にならない)など参照。
その他、神戸のケースワーカー殺人事件などマスコミの注目を浴びたもの、交通事故、破産、離婚、知的所有権、、、などありとあらゆる事件を手がける(てか否応なくやらされた)。
しかし、個人的には
有名でもなくお金にならないような事件をこそムキになってやる傾向があった。DV配偶者からの親権者変更を勝ち取った家事審判事件など今も記憶に残ってます。こういう市井の一隅のような事件にこそやりがいあるし。
最終段階では個人顧客も付き、年収もそこそこ達していたのだが、後述のように飽き足らないものを感じて、
徒手空拳のまま、暴挙のように94年4月から10月にかけてシドニーへ語学留学。これが
病み付きになり、95年独立永住権を取得し今日に至る。
思えば1990年前半のバブル時期にすでに日本のあまり明るくない将来とグローバル時代を予感していたし、インターネットが普及する10年前からパソコン通信で全国規模の異業種交流ネットワークに参加し、皆でオフィスを借りたり会社を作るなど、要は、時代の新しい潮流が好き。
英語もろくすっぽ出来ないまま異国の地を這いずりまわる日々がいたく気に入ったわけですが、やはり
「生きている感」「本物感」が半端ではなかったです。それら海外の日々を通じ、ちゃんと生きて幸福になることってなんだろう?という哲学的なことも思いますし、そのあたりは十数年延々と続いているエッセイなどに書き綴ってます。一方現実に働きかけて何事かを実現するのは訴訟戦略その他で得意だし、性格なのだろうかお金の無い人とか自信のない人(つまりは過去の自分〜今もそうだが)の手を引っ張ってハッピーにするのが好きだというお節介なところもあるしで、そんなこんながAPLACという活動主体のバックボーンになっています。利用者1000人を優に超えた
「一括パック」は、これまでの人生&海外ノウハウを注ぎ込んだ結晶体のようなものです。「これさえできれば人生やっていける」という必須栄養素(海外経験と弁護士経験によるものが半々くらい)を入れている「自信作」ではあります。
しかしながら、本人の本質は昼寝が大好きで(いつでも寝れるために自由業を志した)、日本在住時にはギター6本に囲まれていたロック兄ちゃん(おじさん)でもあるし、「夏休みみたいな日々が一生続くといいな〜」と真剣に思っている怠け者でもあります。ただし、真剣に怠ける〜生理的な気持ちよさを人生の価値観の上位にもっていき、それをちゃんと実現する〜ためには、適切な戦略を立ててやるべきことをビシッとやらなきゃって感じです。
2017年2月に、これまでのシドニーの北部Lane Coveの事務所から、シティ近くのカルチャータウンであるグリーブ(Glebe)に移転しました。場所が変わってもやることは変わらずで、「最初の一歩」でAPLACを訪れる皆さんと一緒にマイペースでやってます。
※左の写真は大阪で弁護士やってた頃の大昔のもの。
右の写真は、シドニーオリンピックのとき、カヌー競技のタロー選手と。右隣はカミ(優季)さんです。
↑なお、上の写真もか〜なり古くなったので、最近のものは、、、例えば、
一括パックFAQの「Q13: APLaCをやってる田村という人は、ぶっちゃけ、どんな人なのですか?写真とかプロフィールとか分かるページはありますか?」をごらん下さいまし。
★語学学校探しの無料サポート一括パックについて
あちこち飛んで貰うのも悪いので、2015年の更新時に、手元のiPhoneで自己撮りしました。
メガネはずすと、ま、ふつーのオヤジね
最近帰国した時に新調したアラレちゃん系メガネでちょっとお利口風な
※カミさん(Yuki/優季)は、キネシオロジー コーチングやカウンセリング、レイキなどを提供しており、
自らのホームページをもっています。また、Lane Cove North の閑静なエリアの
LOTUS HOUSEという自分のオフィスでセミナーなど活動を展開しています。
★ワークショップ、セミナーの内容/日程表
APLaCのスピリッツ 〜「多元的/Pluralistic」ということについて
僕個人としては、”APLaC”というのは事業主体でも、HPの名前でもなく、「精神/スピリッツ」だと思ってます。これはもっともらしく巻頭で講釈を垂れるために述べてるのではなく、本気でそう思ってます。ロックを本当に愛する人が、「ロックとは単に音楽の様式やジャンルではなく、ロックというスピリッツである」というのと同じです。
APLaCなるスピリッツの根幹は、
"Pluralistic(多元的な)”という部分にあります。「多元」というと難しそうですが、早い話が「いろいろある」ということです。何が?といえば「生き方が」です。
話せば長いことながら---
「何でまた、わざわざオーストラリアくんだりまで?」と周囲に不思議がられながらも、オーストラリアまでやってきました。海外赴任や留学など一定の枠組のもとでの渡航でなく、また日本での生活に格別不満があったわけでもありません。かといってオーストラリアでの新生活に確たる成算があったわけでもない(知人ひとりいない異国の地に成算などある筈もないのですが)。
なんで?といえば、「あの山の向こうはどうなっているのか」という素朴な好奇心であり、根本的に違った展開と可能性がありそうな予感からです。うまく表現するのは難しいのですが、ずっと同じTV番組を見ていて、ふと、「裏番組は何をやってるのだろう?」と気になってちょっとチャンネルをかえてみた、というのが最も当時の心境に近いかもしれません。
この動機がAPLaCの原点であり、これをカッコつけていえば、「より多元的なるものを求めて」ということになります。
APLaC(多元生活文化研究会)が、「国際」という言葉も、「日豪」という言葉も使わず、”多元性/Plurality”というやや耳慣れない言葉を冠するのも、ここに原点があります。
かくしてオーストラリアにやってきたら、はたして“裏番組”はやっていました。「やっていました」どころの騒ぎではなく、羽を広げた孔雀のように、色とりどりにもう無茶苦茶に展開していました。国民の出身民族200〜300を数える移民国家オーストラリア、とりわけ国際都市シドニーは、それ自体が巨大な生活と文化のカレイドスコープ(万華鏡)のようです。各民族がひしめきあいつつ、各自が思い思いの生活を送ってますし、同じ民族だから似たような生活をしてるとも限りません。
ヨーロッパから移民してきた人がインドのヨガに凝って懸命に習得しインストラクターになって生計を立てています。初老の婦人は、「わたしはマルタ人だけど、祖母からフランス人の血も受け継いでいるわ。でも子供の頃はエジプトにいたわ。40年前にこの国に来て、だから息子はオーストラリア生まれよ」と童女のような笑顔を浮かべて語ります。「一足先にオーストラリアに渡った兄貴から手紙が来て、ここではすごい収入を稼げるから早くおまえも来いと書いてあったよ。そうかと思ってワシも来たよ。たしかに収入は良かったよ。但し就職出来さえすれば、という条件付きだけどね。英語を習得するには苦労したもんだよ」と語る人、「わたしは船乗りだったから世界中どこでも行ったよ。日本にもよく行ったよ。ヤイズ、とかいう港だったな。町の人がすごく親切でね、よく覚えているよ。」と語る人、人、人。
そんななかで暮らしていると、それまで無意識的に思っていた「国内か海外か」の二元論はあっさり崩壊しました。「海外」という名前の国は無い。そして同じ国/社会であっても、人々の生き方、そしてそのパターンとしての生活と文化はさらなる多彩さで広がっており、突きつめていけば「個人の生活のしかた」というのは無限のバリエーションをもって存在しうるのだということでしょう。単純な国内国外二元論から、世界多元論を通り抜け、たどり着いたのは人間とその生活の多元論でした。簡単に言ってしまえば「いろいろな生き方があってもいいんだなあ」ということです。
こんな簡単なことに気づくのにえらい手間ヒマをかけたものだいう気もしますが、それだけに自分たちにとっては大切な「スタートライン」でもありました。
さて、この原点を実践に移すわけですが、なんら難しい話ではありません。日本人が各国料理を賞味し、輸入品を愛用するのと同じく、他国の教育機関を利用し、その風土に親しむことによって、知らないうちにチャンネルは増え、生活と文化の可能性と選択肢は豊かに広がっていくでしょう。
そうは言ってもそのための基礎的な情報は必要だと思われます。意図するものと違う学校に入ってしまった留学、右往左往しているうちに時間切れになってしまった海外生活など、それはそれで貴重な経験かもしれませんが、実際にそこで苦労してきた自分達の感覚でいえば「あまり意味のないロス」「無駄な苦労」というのも非常に多いです。「最初から知っていれば」と後になって悔しい思いをしたことも一際ならずあります。
APLaCの活動とは、このスピリッツを現実化するためのお手伝いといえます。豊かな多元性を楽しみたい方に、この極彩色の「孔雀の羽」に触れてみたい人のために、現地シドニーの情報をはじめ、有形無形の援護射撃したいと考えています。そのことは渡豪8年目になっても尚も変っておりません。
APLaCの沿革
先に述べたように1994年に渡豪&語学留学をした僕は、翌年95年に永住権を取得しました。95年というのは神戸地震とサリン事件があった年です。すでにかなり昔の話ですね。
旅は道連れで一緒にオーストラリアにやってきた福島麻紀子とともに、後から来る人のために「簡単なメモ書き程度」のつもりで生活体験マニュアルを書き始めたのがAPLaCの原型です。そのコンテンツをAPLaCという名前のもと開設したHPに載せたのがAPLaCの最初の一歩です。96年です。
その時点では特にビジネスとしての確たるビジョンもなく、ただ、シドニーの生活情報を日本の皆さんに伝えるべくあれこれ書いてはUPしていただけです。このホームページの膨大なコンテンツのほとんどは、初期の1−2年で書いたものです。未だビジネス的にも忙しくなく、暇だったからこれだけ書けたという部分はあります。
ありがたいもので、そうしてやっていくと皆さんから質問メールを戴くようになります。この質問メールにお答えして、追加取材をやっていくうちに自然とAPLaCは発展していくことになりました。
一つは、語学学校についての相談メールです。お答えするためにリキを入れて取材をしていくうちに本格的な
語学学校研究というコンテンツに育ちました。取材過程で、入学サポートをすると当の学校からコミッション(紹介料)を貰えるというのがわかりました。「へー、そんなものくれるんだ?」と思ってたのですが、だったらこれが活動資金になるじゃないか、皆さんからいちいちサポート料とか取らなくてもやっていけるんじゃないかで、徐々にビジネスとしての形態が整っていき、現在に至ります。今日、APLaCのビジネス的側面でいえば、このシドニーの語学学校における相談・サポートがメインになっています。
もう一つの方向性はアロマセラピーです。これも、オーストラリアではユーカリが特産品だから安いですよ、なんだったら代理で買ってお送りしましょうか?というメールのやりとりが発端です。まだ日本でそれほど流行っていなかった頃の話です。「ほお、こんな世界があるのか」でハマったのが福島です。以後、あれこれ実地で調べ、勉強もしていくうちに、アロマセラピーの紹介、販売というビジネスとして成立するようになっていきます。現在では、APLaCから独立して
E−Conceptionという自分のブランドを確立します。現在ブリスベン近郊ののどかなおウチに、ラースというデンマーク人のダンナさんと双子の女の子に囲まれて頑張っています。
要約すれば、オーストラリアにやってきた僕と福島が、それぞれ暇にまかせてオーストラリアでの所感を書き綴ってUPしているうちに、僕は語学学校、福島はアロマへと、それぞれ自分の道が開けていったということです。それぞれの道が分岐していく時点で、福島はE−Conceptionという屋号で独立するとともに、僕もAPLaCとは別の屋号で独立するというのもアリだったと思います。その方が話は見え易かったかもしれないのですが、語学学校紹介というのは、APLaCのこれまでのコンテンツと精神的基本(後述)によりナチュラルに関連するだけに、なんとなくAPLaCは僕ひとりが受け継ぐ形で現在に至っています。
Credit
福島麻紀子/Makiko FUKUSHIMA
APLAC創設→現在 E-Conception 主宰
1964年5月9日東京都品川区にて出生、その後神奈川県秦野市に引越、高校時代まで山のふもとで育つ。パープー女子大生時代(一応お茶の水女子大学哲学科卒)を経て、東京のマーケティングリサーチ会社に入社。バブル最盛期に馬車馬のように働いた末、カルビーに転職。“かっぱえびせんわさび味”等の商品企画開発を手掛ける。サラリーマン生活に疑問を感じるようになり、94年4月よりシドニー大学に語学留学。95年8月、独立移住ビザを取得し、二度めの渡豪を果たす。
Works : 素顔のオーストラリア(中高生)留学/アロマの部屋(→
E-Conception )/生活マニュアル上級編(シドニーでの職探し/食生活向上委員会)/観光(ツアー情報/ホテルガイド)/語学学校研究(初期の共同取材)/シドニー雑記帳/情報BOX(ボランティア案内/看護事情(編集))。
なにげに始めたアロマセラピーから、いつのまにか通信販売を通して世界が広がり、いまやAPLACから独立して、独自のブランド
E-Conception を設立。2001年末にブリスベン近郊に引越し、夫と娘二人に囲まれて暮らしています。
★ E-Conception のホームページへ
Special Thanks to 柏木順子/Junko KASHIWAGI
転勤族である父上のもと、幼少より山口、青森、インドネシアを転々とし、高校時代ははシドニーの地元の学校に通学。在日クウェート大使館に勤務、セミプロ級のピアニストでもある彼女は、東京杉並の料理好きな二児の母であり、大学教授夫人でもあった。が、何を思ったのか(いろいろ思ったのでしょうが)、世間的にいえば恵まれた環境を叩き壊し、次女とともにシドニーにやってくる。シドニー工科大学で日本語教師資格を取得。
シドニー現地の勤務先で知り合った福島とともに「素顔のオーストラリア留学」を共同で取材/作成。これが機縁で、98年8月お父上のご不幸を契機に日本に帰国するまで一時期APLaCに多大なヘルプをしていただきました。
Works : 食生活向上委員会/素顔の中高生留学など
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