今週の一枚(2015/04/13)
Essay 718:ネットワークへの招待〜友軍機の機影
題して、「天から降ってくるの図」。
いや、日本からオーストラリアに戻ってみたら、やっぱこっちの「空」は雄弁です。サービス精神濃厚というか、実にいろいろな顔を見せてくれて楽しいです。
撮影場所はKirribilliだけど、それは問題では無いよね。ランチ食べた帰り道ふと見上げるとこんな感じの空になってて、「なんか、天使が舞い降りてくるときみたい」って。そういえば西欧の昔の宗教画って、こんな感じの空の絵が多いよな〜って。
いや、日本からオーストラリアに戻ってみたら、やっぱこっちの「空」は雄弁です。サービス精神濃厚というか、実にいろいろな顔を見せてくれて楽しいです。
撮影場所はKirribilliだけど、それは問題では無いよね。ランチ食べた帰り道ふと見上げるとこんな感じの空になってて、「なんか、天使が舞い降りてくるときみたい」って。そういえば西欧の昔の宗教画って、こんな感じの空の絵が多いよな〜って。
ネットワーキングへの招待
最近、一般に見えないところで頑張ってます。藪から棒になんじゃい?というと、この誰でも見えるHPの他に、APLACの一括パック卒業しか見られないという場があります。
そこでまあ、毎日のようにあれこれ書いてます。オーストラリア各地から寄せられる皆のラウンドメールを編集して上げたり、依頼を受けたら新人さんを独断と主観バリバリで他己紹介したり、そしてA僑という起業ネットワーク、さらにそこからスピンアウトした人々(正式名称は今みんなで考え中)の活動方針やら、今月にまた全国から京都に集まるとか(さすがに僕は行けないけど)。詳細はEssay711:A僑とフリスク案件・伊勢サミットでも書きました。
そこでまたネタに応じて、時機に応じてあれこれ長いの書いてるんですけど、もうそれだけで「何か書きたい欲求」がきれいに発散してスッキリしちゃってます(^^)。でも、これってごく限られた人しか見られないので勿体無いなって気もして、ネタがダブるんだけど、こっちでも書きます。まあ、「撤饌」(てっせん、神前での儀式の後に下げた供物のこと=漫画「陰陽師」に出てくるよ)みたいなものですけど、それなりに本腰入れて語り起こしますけど。
今回は、その中から「ネットワーク」について。
金子郁容さんの「ネットワーキングへの招待」 という古典的名著があります。初版1986年ですから、もう30年前の話ですが、これが出てほどなくして、悶々としていた僕は速攻読みました。「ほほ〜」と思いました。それで結構人生変わりましたとさ。
あ、「悶々」というのは、当時弁護士なりたて3ヶ月目くらいで、すでにその時点(87年くらいかな)で「この仕事、将来性ないかも」と見えてきたので、先の方向性を何となく考えていたのですね。なんでそう思ったのかは内容がズレるのでまたの機会に。
今手元にこの本がないので何がどうのって細かくは言えないのですけど、全ての原点になる発想のネタ部分は、パラパラ読んでて「はは〜なるほどね!」って分かりました。あとのことは現場における実践活動(80年代後半のパソコン通信の異業種交流フォーラムでのあれこれ〜全国規模で集まったり、各地に拠点となるマンション借りたり、商品開発したり、メディアに取材させたり、会社作ったり〜)をやっていくなかで体得していきました。ただ、それらをやるときの心構えというか、「こんな感じに考えるといいよ」って発想の基本になったのは、この金子先生の本です。古典と呼ばれるだけのことはあると思います。
それらを幾つか書きますね。
ただし、完全に自分の経験やら蓄積やらをベースにして書くものですので、金子先生の理論とは似ても似つかない部分があるかもしれません。それはご容赦を。
よく分からないからいい
クラゲみたいな〜
ネットワーキングという人間と集団のつながりは、固定観念を嫌うと僕は思います。「こういうもの」ってカッチリした枠組みや概念がないです。あってはならない、というか。
これが生理的に気持ち悪い人は、資質としてあんまり向いてないのかもしれない。
つまりそこに人間集団があるならば、それがゲゼルシャフト(機能集団)であろうが、ゲマインシャフト(仲良しグループ的な)であろうが、集団を貫く確固たるコンセプトやオキテがあり、正会員と部外者を峻別する壁があり、ある種の運命共同体的なつながりがあり、それ相応の忠誠心や自己犠牲が求められる、それが人間集団っちゅーもので、それ以外にはなし!みたいな発想の人には、ネットワークのようなクラゲみたいにひらひら遊泳しているのは分かりにくいでしょう。
「確固たる集団」はめちゃくちゃ分かりやすいです。日本伝統の本家・分家の家制度にせよ、藩にせよ、暖簾分けする商家にせよ、総本山と塔頭(たっちゅう)がある寺組織にせよ、家元を頂点とする伝統技芸組織にせよ、旧帝国陸海軍にせよ、そしてそれらのDNAを濃厚に受け継ぐ終身雇用の日本の株式会社組織にせよ、暴力団や暴走族組織にせよ、、、カチッとしてます。日本社会の特徴としていつもあげられる「ウチ」と「ソト」の世界観がそこにある。自分の家のことをなにげに「うち(内)」といい、自分の勤めている会社を「ウチの会社」といい、会社の意向を伝える場合「ウチとしては〜」という言い方をする。内側、外側、全然違うぞ〜って世界観ですね。進撃の巨人みたいに、いつもどっかにドーンと壁があって、その内側と外側でわける。これは分かるでしょう。
ところがネットワークは違う。まずもって「組織」ではない。
じゃあ、「人脈」とか呼ばれるものか?というと、微妙に違う。
そのどちらでもない。
虹みたいな〜
じゃあ何なの?といわれると、わからん!のですよ。そして分からないのが「いい」んですね。比喩的にいえば「虹」みたいなもので、あの山裾に虹がかかってるよ、わあ綺麗だなあって思うのだけど、虹って”実在”するのか?というと微妙でしょう?虹の出てる場所に行っても、虹の形をしたオブジェがあるわけじゃないのですよ。太陽光線の反射角度とか一定濃度以上の湿度とか、いろいろな偶然の作用で、とある地点からみると七色の虹がかかっているように「見える」だけです。だから虹は実在するのか/しないのか、ある/無いの二者択一にすると、よう分からんのですね。でも、そんなあるんだか無いんだかみたいなものを、誰もが知ってるし、誰もがある程度は「わあ」と思う。
ま、ネットワークが虹みたいな集団だという意味ではないのですが、その「あるんだか無いんだか」って微妙な感じがニアリーで、そういう曖昧でボヤヤンとして、でも人の心になんか訴えかけるようなものを、気持いいと思うか、気持ち悪いと思うかです。それを愛せるか、愛せないのか。そこに資質の差があるかな〜と。
どっちが良い悪いの問題ではないです。相性の問題としてです。僕個人は、断然、気持いい派で、それが表現しにくく、ボヤヤンとしてて、でも確固たる存在感があるものって好きです。逆に何もかもクリアにきっちり見えるのはあんまり興味が無い。ボヤヤンとしたモモモ〜ってしてるものに好奇心は湧きますね。「なんだろ?」って思う。
もっとも、僕の専門領域は法律実務で、それって無理矢理にでもクリアに見えさせようとする領域ですから、ベクトルとしては極端に真逆です。それが専門だし、曖昧なものをクリアに言語化すること、抽象的で形而上学的な概念弁別や構築については得意ですよ。学習過程で徹底的に鍛えられますからね。刑法総論なんかもう哲学ですから。だもんで、それなりに面白いことも分かる。んでも、言語・明晰化能力をMAXにしても、それでもクリアにできないモモモ〜は、それだけに余計に魅力的です。と言うか、単に言語化がヘタだとか、言い訳としてムニャムニャ言ってるだけの「擬似モモモ〜」を見抜くため、そのニセモノ鑑定眼を養うために言語化能力が機能してるって感じでしょうか。「それって、要するに◯◯じゃん」って言えちゃったら面白くないという。
ルパンみたい〜
あんまり謎かけみたいに抽象的に言ってても白けるだけだから、もうちょい具体例を出しましょう。皆さんご存知の「ルパン三世」みたいな世界です。
メインキャラの4人がいますよね。ルパンがいて、次元がいて、五右衛門がいて、峰不二子がいるという。4人揃って仕事をして「ルパン一家」としてやる場合もあるけど、基本は単独行動で、案件によって組んだり組まなかったり。場合によってはライバル敵対関係にすら立ってて、最後になったら「ごめんね〜、ルパン♪」とかいって峰不二子にトンビに油揚げさらわれるような話になったりもする。
「こんな感じ」ですね、僕がネットワーキングでイメージする原型は。あ、金子先生には「わかっとらん」と怒られるかもしれないけど。でも、好きなんですよね、こういう感じ。まず人間関係のありようとして、こういう風通しのいいのが好き。
ともあれ、このルパン4人の集団は、「組織」ではないでしょう。株式会社や暴力団みたいにカッチリした指揮命令系統があり、給料その他の利潤の分配規定があり、就業規則があって、違反者にはそれなりに罰則があるという、、そんな感じではないですよね。ルパンがなんか仕事の話をもってきても、内容によっては、「け、やってらんねーぜ、俺あ降りた」と次元が去り、「くだらん、付き合いきれぬわ!」と言い捨てて五右衛門もスタスタ去っていくという、もう「統制」もクソもない、フリーで自由な感じ。
かといって、単なる行きずりの、単に案件ごとの傭兵同志のようなプロのチームかというと、必ずしもそうではない。もうちょっと心情的にウェットなものも含んでいるし、それが結構大事な要素として働いている。
でも単なる仲良しグループでもない。ルパンと次元はいつもつるんでいるようだけど、お互いの過去とかプライベートについては、あんまり立ち入らないし、知りたくもないって感じでしょ。「僕達いつも一緒だよね」って絆を確認して、、って原理で動いている感じではない。でも「理解」はしている。「け、こいつあ重症だぜ」とか、「あいつにはあいつのやり方があんのさ」とか。
これらを整理すると、
★まずもって個々人のキャラが立っている(ピンでやっていけるだけの十分な存在感がある)
★それぞれが凄腕、有能であり、特殊技能を持っている
★離合集散や活動について事前にこれといった決まりはなく、その場その場で決まる
★しかしメンバー相互間に、主観的な好き嫌いという心情的なつながりがある
というあたりでしょうか。
自立性と共通属性
これをさらに集約すれば、(1)メンバーの自立性
(2)相互の共通属性
になるかな、と。
(1)ですが、これは分かるでしょう。
つまり、何をするもの皆で一緒、休み時間にトイレに行くのもランチを食べるのも皆で一緒、選択を迫られたら「皆がいい方でいいでーす」と答えるという集団では”ない”ということです。そもそも「集団」であるかどうかすら疑わしい。
それぞれが自分の世界を持ち、ワンマンアーミーとして活動していく気概を持ち、またその実力もある。依存性がない。一匹狼的特質を持ち、いい意味でセルフィッシュでもある。もちろん「皆で力を合わせて」という局面もあるが、それはそういう局面もあるという程度のことで、何故そうするか?といえば、そうした方が目的達成において効率的であるからというドライな合理性がそこにある。「皆でいっしょ」って部分に価値があるわけではない。つまり、団体行動や集団行動それ自体に意味や価値があるわけではないと。それが合理的だからやるまでであり、あくまで主体は個々人であると。
と同時に(2)があります。これが結構キーポイントで、これがなかったら、単なる「人脈」です。人脈とかコネとかいうのは、「自分にとって使いやすくパーソナライズされたイエローページ(職業別電話帳)」みたいなものだと思います。リストにあがってくる一人ひとり、それらの連携でなんらかの像が感情が浮かんでくるわけではない。
(2)というのは、ぶっちゃけ人間的に好きであるという感情がベースにあることです。波長が合うといってもいい。好きといい、波長といい、何よそれ?と分解していけば、それぞれが持っている倫理観(これだけはやっちゃいけないとか)、世界観とか価値観の重要な部分で一致しているという共通属性ですね。
この共通属性は、ことあるごとに強調してますけど、ここがコケたら全ては崩壊しかねない。これはネットワークに限らず、人間関係一般に言えることですし、恋人夫婦でも段々価値観の違いが露わになるにつれ「この人とはやっていけない」って感じになって別れに至ったり、あるいは擦り合わせて乗り越えたりしますし。
いずれにせよ100%ドライな関係ではなく、「この人なら分かってもらえる」「信頼できる」「組める」って人間的な部分でのつながりがあるわけで、これがあるかないかが、ネットワーク的な集団なのか、あるいは単なるコネ・人脈なのか、です。
ネットワークの利点
では、そんな曖昧なものを敢えて取り上げるのは何故か、ネットワークとか言っててなんか良いことあるの?論です。集団組織ではないメリット〜依存心がなくなる
ネットワークは集団組織ではないので、その点が強い。もうこれが一番強力な利点なんじゃないかと思います。逆に集団組織の欠点とはなにか?といえば、まず純粋ビジネス的にいえば固定経費がかかることです。社員として雇えば給料など人件費がかかる、組織として登録すればその種の手続費用がかかるし、オフィスの賃借料や什器備品のリース料など、もろもろがかかります。これ結構な負担ですよ。
でもそんなのは些事であって、より本質的に僕が一番大事だと思うのは、組織にしちゃうと何となく守られてる感が出てきて、安心するんですよね。人間って弱い生き物だから、一人で突っ張って生きていくのはしんどいです。だから皆で〜ってのはすごい安らげる。だから別に悪い話ではないんですけどね。でも、それがゆえの欠点もあって、安心している分クオリティが下がって、画期的なイノベーションができなくなる。もう一旦解散して、全部組み直しってくらい大規模なリストラができなくなる。
なぜかといえば組織に寄りかかって楽をするという依存性が出てくるからです。精神的にもそうですし、ましてや給料や利潤配分など経済的な依存性が出てくると、ドラスティック(徹底的)な改革が出来ない。急激な変化に対応できない。でもって、義理人情その他に押し切られて、無駄なんだけど温存させてしまう部局とかが増えてきて、もう無駄を垂れ流しているような組織になり、そうなると気の利いた人から出て行くから、最後はシロアリだけになるという、まるで今の日本みたいな。
ネットワークは、その種の依存心をメンバーに抱かせない。守ってもくれないから頼れないしね。
表裏の関係に立つけど、依存心のないメンバーに対して「会社のために死ね」ということは言えない。忠誠心とか滅私奉公は期待できないってことです。これはトレードオフの関係で、依存どころか完全に一心同体化した集団は、100%依存できるけど、100%絶対服従しないとならない。どっちかいいか?です。
だからそこは「好み」だと思いますよ。どっちがいい悪いの問題ではないです。
ただ、現在おかれた社会経済局面(将来において絶えず変化が予想される局面)においては、団子虫みたいに一体化してフットワークが重い集団よりは、パチンと指を鳴らしたら一気に散開するくらい軽やかな方が良いかな?とは思います。同じような状況があと50年も100年も続くというなら、ガチガチの幕藩体制のように固めてしまったほうが生存率は高まるでしょうが、変化が激しい時代においては、戦国の世のように機能集団として徹底した方がよいでしょう。もっとも、純粋にビジネスとしていえば、そこまで構成員に滅私奉公を求めなければ存続できないのであれば、そこまで無理しなきゃ稼げないということで、そもそもそのビジネスモデル自体がヤバくなってる可能性も高いとは思いますけど。
ただし、依存心と忠誠心によって緊密な分子間結合を果たしている組織に比べて、ネットワークはその種の接着剤が無いです。一般組織のように、生活安定保障という強力な対価があるから大抵の事は涙を飲んで我慢するという関係に乏しいゆえに、すぐに「降ーりた」ってことになって、人がいなくなる。つまり、構成員を縛り付けるものがないから永続性や安定性がない。
その代わりに求心力や重力バランスが求められるわけで、それが共通の価値観や、共通の信念、理想、あるいは何となくの肌触りの良さ、人間的な好き嫌いであり、そのあたりの共通属性が大きな意味をもってきます。
永続性や縛りが少ないことは、別の観点で言えば、なにかが利権化するとか、汚職まがいのモラルハザードが起きにくいことでもあります。比較的クリーンな集団運営になると。絶対そうなるとは保障はできないけど、理念とか志とかそういう部分でのみ求心力が働いているだけに、ダーティな流れになっていくと、とたんに求心力がなくなってきて、汚職的なことをやる以前に瓦解してしまうという。それでもやり続けたら、それはもうネットワークではなく、旧態然としたダーティな組織がそこにあるだけでしょう。
膨張縮小〜変幻自在
もう一点、ネットワークというのは共通属性というリトマス試験紙をパスすれば、幾らでもつながっていけます。誰かがジョイントする際の手続きが限りなく少ないから、楽なんですよね。これが終身雇用とか、一定の仕事と給与を常にあげないとダメとか、クビにするにはそれなりの理由がないとダメとか、いろいろあると、人を増やすのも大変ですし、人選ミスがあった場合の処理(クビ)も一悶着ある。ネットワークの場合、価値観や波長が合えばそれで良く(てか、それが大変なのだが)、それ以上にメンバー個々人に責任は負わないので、仲間に入れたからといっても、ほったらかしでもいいんですよね〜。興味があるなら自分から動けって言っておけばいんだから。もちろん必要とされるケアはするんだけど、それは必要だからするだけであって、それ以上のものではない。だから、誰かが必要以上に依存してきたり、ぶら下がりっぽくなってきたら、クールに突き放せる。
そして、組織と違って、ここからここまでという組織の壁があんまり無いから、案件に応じて柔軟に対処できるというメリットがあります。こちらが母体組織で、こっちが子会社で、という上下関係も特にはない。
例えば同じ集団でも常に皆で同じことをするってわけではないから(したらダメってわけではないが)、案件ごとに有志が組めばいいし、案件ごとに外部と組んで動くことも可能です。また、一人で幾つもの案件を掛け持ちすることも可能。さらに、Aというネットワークにもいるし、Bにもいるという同時存在も可能。
案件ごとというのは、普通の企業でも、JV(ジョイントベンチャー)などで各会社からスタッフを派遣し、それらが現場でユニットを作ったりってことはあります。映画などの「◯◯製作委員会」形式とかね。ただ、やっぱ、身分保障はどうなるかとか、出向扱いであるとか、そのあたりの硬さはありますよね。あるからこそ身分保障になっていいんだけどね。あと、同じ社員が、トヨタの社員でもあり、日産の社員でもあり、同時に住友生命の社員でもあるってことは、あんまり(てか全然)無いでしょう。そのあたりの融通無碍な流動性はネットワークならではでしょうね。
こういった伸縮自在性や離合集散の自由度の高さは、バンドの音楽活動なんかに似てると思います。とあるバンドとしてデビューして活動するんだけど、テンポラリーにイベントなど他のバンドの連中と一緒にギグったり、メンバーの一人がソロアルバムやソロ活動をするとか、うち二人がまた別のところで何かをやるとか、解散したあと、どっかの誰かと誰かが組んでとか、、。今もそうだろうけど、昔のバンドの離合集散はすごいですよね。King Crimsonなんか何人登場人物いるのか全然覚えきれない。
これって、やっぱその時その時でそのアーチストの自分なりのテーマなり、やりたい音楽ってのがあって、それと本来のバンドが両立する場合もあるし、全然ダメな場合もあるし、波長の合う奴とユニット組む場合もあるし、一から新バンドとしてスタートする場合もあるし、パーマネントにやる人が見つからないからソロ活動してアルバムは全部その時その時で声かけて人集めて、、、って。そんな感じですよね。
共通属性〜主張という飛び道具〜天から人が降ってくる
そうなると、ネットワークにおいてはこの共通属性というか主張というか、その集団の「色あい」みたいなものが致命的に大事になっていくのだと思います。これをバーンと打ち出すことが出来たら、遠くから見てもわかりやすいし、協力者や参加者が得られやすい。
バンドでもそうですけど、どのバンドにもユニークな音楽性やら方向性があるわけで、それが強烈であるほど、「あー、知ってる知ってる」「いい音出してんじゃん、あそこ」って感じに広がっていける。
そこがただのビジネス上の人脈と違うところで、普通のビジネスだといちいち「誰々さんのご紹介で〜」って感じになるんだけど、ネットワークには強烈な飛び道具があって、バシッと音(主張や共通属性)を発信していると、天から人が降ってくるのですよ。思ってもみないところからレスポンスがあって、それがアタリだったりする。そこで思わぬブレイクスルーがあったりもする。
当たり率が高いのも当然で、紹介とかと違って、全く何の人的つながりもないのに声をかけてくるってのは、やっぱりその価値観やら主張に共鳴を覚えたからであって、そりゃ波長合致率高いですよね。一般の紹介案件の場合、まずは案件が優先するから(出資をするとか、求められる技能を提供するとか)、人間的な波長が合うかどうかは二の次ですよね。そこまで贅沢言ってられないし。
以上、ネットワークが面白いのは、人間的に波長のあう連中だから付き合ってて楽しいんだけど、別に仲良しグループってわけでもないし、そのあたりのベタベタ感はない。片や、全然組織のように堅苦しくないわ、制約もないのだけど(見返り保障もないが)、一旦歯車が噛み合えば、基本好きでやってるわけだから、その機能や効率性はとてつもなく高くなったりもする点でしょう。今の時代に合ってる形態(人間関係にせよ、ビジネスの進め方にせよ)だとは思います。
そんなことを1980年台後半に僕は読んで、「ははー、そんなやり方もあるのね」って思ったのでした。
ちなみにFacebookなどのSNSはどうかというと、この世にインターネットが始まる前にこの種の濃いのをやってしまった僕には、そんなに魅力的には感じられません。お仕着せの「型」が使いにくいってのもあるけど、あれって旧来型の人脈作りの延長でしかなくて(単に知り合いを結びつけるだけ)、「共通属性や主張/波長を飛び道具にした飛躍」がないので詰まらんのですよ。やたらひっつけようとするし。発想が古いまんまというか。実際、人増やしなんかナンボでも出来るので大した有り難みは無くて、大事なのは人減らしというか、自分の琴線に触れる「なにか」というフィルターを通して人をセレクトしていく部分だと思うのです。それがないと、ネットワークのミラクルな機能は使いこなせないんじゃないかと。
ネットワークの課題と対策
問題点
ただし、問題点もないわけではないです。まず第一に、このネットワーク概念が非常に理解しにくい!という点ですね。これはもう天性のものかもしれないけど、カンドコロがいい人と悪い人がいるみたいです。分かる人は、説明抜きで、「あ、わかった」って感じで問題ないんだけど、わからない人にはなんぼ説明しても得心がいかないみたいで。
第二に、ものすごく絶妙な運営技術がいるという点です。
一輪車乗ってるみたいなバランス感覚がいるし、そういう人間関係が成立すること自体、一種の奇跡というか、それこそ虹みたいなものです。だから油断をすると、すぐに旧態依然たる人間関係や集団に変質してしまう。依存性は出てくるわ、仲間同志の閉鎖性は始まるわ、保守性は出てくるわ、派閥は出てくるわ。
それを防ぐために、あれこれいろんな現場のテクニックが開発されてくるわけですね。
対策
例えば、第一に人間的な波長が結構大事だから、とにかく一緒に遊ぶとか、そのあたりのカジュアルな親しさが要ると思います。その意味では仲良しグループでいいんですよね。仲良しグループくらい余裕でなれる。だけど、それで終わる気は全然ないってところが大事です。
第二に、不文律というか、オキテというか、俺達はこういう集まりなんだって部分を、常に言い続けてたり、否が応でもわかるようなシステムにしておくとか、そのあたりのことです。特に、組織の存続それ自体が第一優先順位にくることはないことの徹底でしょうか。てか、存続すること自体に何の価値もないよ、そもそも組織じゃないよって、くらいね。
第三に、電話連絡網みたいに必要なときだけ機能するだけではなく、新たなことを創造するんだったら、その原点になる共通属性を発揮するような大小のイベントを常に用意しておくとか。そのイベントは、その集団の方向性を正しく示しているのと同時に、個々人の人生やらビジネスやらでもちゃんとリターンがあるよな(学べたり、参考になるとか)ものであることですね。といって、特にもっともらしいイベントでなくても、単なる飲み会でも、温泉旅行でも良いとは思います。そこで志を同じくする仲間同士、喧々諤々、吠えるように理想を語り合ったりするのが一つのカタルシスにもなろうし、求心力にもなるでしょう。大体ですね、いまどき「夜を徹して理想を語り合う」なんて風景が存在すること自体がレアメタルのように貴重だと思いますけど。
動いている姿で説明する
第四に、共通属性や主張がキモになるDNA部分なんだけど、それってお題目みたいに「設立理念」"Mission Statement"とか綺麗な言葉で掲げてたって、あんま感銘力がないのよね。てか誰も読んでないという。実は、出版社やら企業やらの「創立の辞」って名文が多くて、言葉オタクみたいな僕は読んでて「おお」ってのが多いのですけど、まあ、でも、普通は読まないよな。ではどうするかというと、実際にそれで動いている姿、その動的なダイナミズムを見せることで説明する。言葉でも説明するんだけど、それ以上に「動き」で説明する。それが結構大事なんだろうなって思います。一種の劇場型というか、リアルタイムのノンフィクションのドラマが進行しているというのは、これはリアルな迫力がありますよ。ファミレスの片隅でカップルが声を荒立てて喧嘩し始めたら注目浴びますが、とりあえずそういうのって迫力あるんですよね。どんなコンテンツよりも面白いというか(^^)。面白がらせつつ理解させていく、訴求していくという。狙ってやるとあざとくて白けるんだけど、狙ってない所が良いんですよね。
大事なことは密室で決めて、あとで政府広報みたいに「おきれいな」言葉で報告してたって、なーんも面白くないし、感動もない。翻っていえばどこの政府だってこれをやればいんですけどね。密室で決めるのはやめて、ドアの向こうで罵り合ったり、机ガンガン叩いて、「あんた、古いんだよ!」とか言って書類投げつけているシーンを国民に見せれば、「ああ、それなりに頑張ってるんだなあ」って理解が得られるのに。秘密保護法とか完全に真逆で。マイナンバー制とか国民のことはやたら根掘り葉掘り知りたがるくせに、自分らのことはやたら隠したがると。もうこの時点でヘタレ確定なんだけどね〜。典型的な弱者の行動様式。でも弱者に不相応な権力握らせるくらい怖いことはなくて、同胞2000万人殺したといわれるスターリンなんか病的なまでに恐怖体質だったというし。
それはともかく、真剣にやってるって自負があるなら、生身の自分が真剣にやってる姿を作為抜きで見せるのが一番のコンテンツになるし、百万言の美辞麗句を並べるよりも人の胸を打つと思います。
馬鹿属性
そしてココが大事なところなんだけど、人が真剣にやってる姿って、感動的でもある反面、なんか微妙に滑稽だったりもするのですよ。ユーモラスなのね。小学生の運動会でも、必死に走ってるその顔、その形相が、すごいことになってて笑えるという。笑っちゃ悪いんだけど、でも笑えるという。一見カッコ悪いんだけど、でもカッコいいんだよね。その巧まざるユーモラスな部分が、その集団の可愛げや愛嬌になり、魅力になる。僕はこれを「馬鹿属性」って呼んでいるのですが、真剣すぎるがあまり周囲からは馬鹿に見えるというか、「空手バカ」とか「◯◯バカ」みたいに。そこまで全身全霊かけてなくても、なにかしらムキになってると馬鹿っぽく見えて、その馬鹿になりきれるかどうかって部分が、熱さにつながり、エネルギーにつながり、生命力につながり、ひいては人を惹きつける魅力になり、そして人々を結びつける共通属性として機能する。「"馬鹿"以外お断り」くらいでいいんだと思います。「いやあ、ここの連中はバカばっかりですからね〜」って誇らしげに言えるようになったらOKって感じ。もちろん本当に馬鹿だったらダメなんだけど。
霧の晴れ間に友軍機の機影が見える
最後に、ネットワークって楽しいです。束縛の少ない自由さが良い部分もありますが、人間関係が風通し良くて、でも温かくて、僕はそこが好きです。一見、クールでドライで突き放した関係なんだけど、しかし、というよりも「だからこそ」、いい感じの温かさがある。
以前に「孤独でなければ友達は出来ない」というタイトルで書きましたが、自立した個人であることを求められ、その自立性を前提にするだけに、人間関係のネチャベタした粘性部分が取り去られ、快い温かさだけが残るというか。
でも、まあ、一人ぼっちでやるのは大変です。
ちょうど濃霧のなかを単独飛行しているようなもので、真っ白な闇のような空間を延々飛んでいると、段々どこに向かってるのかわからなくなるし、もしかしたらこれって墜落しているんじゃないの?とか不安にもなる。その心細い、きーってなりそうな単独飛行をしている最中、たまにうっすら霧が晴れたりして、そこに友軍機の機影がちらっと見える。その時の嬉しさって相当なものらしいですね。戦時中のパイロットの手記なんかでもそんなことが記されていたような記憶がありますが、まさにそんな感じ。
でもって、その頼もしい筈の友軍機も同じようにきーってなってるようで、翼が不安定にふらふらしてるのが見えたりすると、くすりと笑えてきて、さっきまでの自分を棚に上げて「おいおい、しっかりしろよ」と言いたくなる。そんな感じ。その心強さ、その温かさ。
文責:田村