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今週の1枚(2010/11/21)




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Essay 490 : 孤独でないと友達は出来ない〜「皆と違う」のではなく「皆が違う」 

 
 写真はジャカランダ(Jacaranda)通りでちょっと有名なKirribilliのMcDougall St(他にも結構あるとは思うけど)。
 ジャカランダは南米原産らしいですが、オーストラリアにもあちこちにあります。シドニーでも至るところにありますが(ウチの庭にもあるくらい)、「オーストラリアの桜」と僕は呼んでますが、市街地における密集比率は日本の桜以上かもしれず、また咲いてる期間も桜よりも長いです。

 NSW州のGraftonという町ではジャカランダ祭りをやってます。今年で76回目(11月7日でもう終っちゃったけど)というから息が長い。しかしNSW州といってもQLD州に近く、ゴールドコーストから行った方が遙かに便利ですね。

 世界的には南アフリカのプレトリアという都市が、ジャカランタシティとして有名だそうです。



 「友達」に関して、前回書き残したことを、オムニバス的に書きます。

もう死ぬまで会わない「友達」   〜ストックではなくフロー

 友達というのは会ってるときは集中的に会うけど、会わなくなったらパタッと会わなくなります。そしてそのままもう一生会わなくなっても不思議でもないという。常にそうだとは言わないけど、そういう場合が多い。

 友達のことを、関西弁では「ツレ」と言います。「連(つ)れだって歩く」という「連れ」なのでしょう。秀吉・家康の「関東連れ小便」といいますが(知らない?)、その「連れ」。一緒に、共に何かをするという。"to do something with someone" ですね。これはまさに友達の本質を突いているのかもしれません。何かをやるときに「一緒にやる」という。

 日常的なシチュエーションにおいて、たまたま気があった人と一緒に何かをやるというのは良くあります。学校生活などが典型的ですが、同じクラスであるとか、帰り道が同じであるとか、部活が同じであるとか。似たような生活パターンだから、会ったり、行動を共にする頻度も自然に高くなる。「キミのウチどっち?あ、おんなじだ。じゃあ一緒に帰ろうか」と。で、道すがらいろんな話をしていくうちに親しくなって、さらに共通の趣味が分かったりすると、「今度、ウチに来ない?」という展開。

 これって別に小学生フレンドに限ったことではなく、大人だってそうです。たまたま同期入社で同じ新人研修を受けてましたとか、同じ支店に配属されて似たような時間に勤務が終るから「どう?帰りにちょっと一杯?」ってノリになるとか。

 いわば環境や生活習慣が友達を作るわけです。そしてその環境が変われば、いきなり会わなくなるという。
 僕自身、かえりみればその時期、その時期で友達が居ましたね。もう集中的に会ってた。毎日野球をやってた近所の友達、週末になると秋葉原に一緒に行ってた友達(その頃はオーディオの街だった)、ほぼ連日麻雀とギターばっかりやってた大学時代の下宿の人達、一緒に司法試験をやってた研究室の面々、研修所の寮仲間、岐阜での実務修習中の仲間、一緒にバンドやって遊んでくれた若手職員の方々、そして弁護士になってからは同期の連中やら同じ事務所の人達、ネットでの異業種交流の仲間達、、、。だけど、生活パターンが変わると、ほんとパタッと会わなくなります。

 これは面白いくらいON/OFFの差が激しい。あるとき集中豪雨のように年柄年中一緒にいるんだけど、ある時期に境に滅多に会わなくなる。まんま恋人みたいです。

 で、何が言いたいかというと、「環境が変わったくらいで会わなくなるなら本当の友達じゃない」ということではありません。一人で帰るのは退屈なので、適当な連れ合いがいると気晴らしになるから一緒に帰ってただけ、つまりは「隙間家具」的に利用してただけ、、って言ってしまえば言ってしまえるかもしれない。でも、それでもいいじゃん。何が悪い?別に一緒にやる義理もないのにやってたんだから、やっぱり一緒にいて楽しかったんでしょうし、それで十分じゃないか。環境が変わっても、従来通り万難を排し、残業を断り、新幹線に飛び乗って一緒に何かやらねばならないってもんでもないでしょう。そこが恋人とは違うところですね。

 思うのですが、友達というのは、そのいー加減でユルい感じがいいんじゃないかって。
 だから、環境が変わればパタッと会わなくなり、時が経てば名前も忘れ、そして死ぬまで会わない、、、でも、別にいいじゃんって。確かにそのときは一緒だったんだし、ポケットに手をつっこんで、下らない話をして笑いながら、ストリートを一緒に歩いていたことは事実なんだし、その楽しさや笑いに嘘がなければ、それでいいじゃないかと。

 いずれ動画で紹介しますが、オーストラリア2年、NZ1年の合計3年滞在した方が「3年の滞在で一番得たものは?」という僕のインタビューに答えて、「人」と答えてました。旅先での行きずりの人達が多く、フェイスブックを交換しつつもおそらくこの先会うこともないだろうに、それでも「人を得た」ことが一番の収穫だったと。「ああ、なるほど、分かる」と思ったのが、「得た」というのは、この先会うかどうかというのが問題なんじゃなくて、「会うことによって自分が変わった」かどうかだと。その人に会い、一緒に時間を過し、語らったり笑ったりするなかで、自分の中の何かが変わる。自分の物の見方、視界、ひいては性格や人格に、多大ではないかもしれないけど何かの痕跡を残してくれていった。それが大事なんだ、それが人を得るってことなんだと。

 そうなんだよね。「得る」とかいっても、人というのは奴隷のように所有財産に出来るわけもなく、夫婦であれ、家族であっても、一人一人独立しているし、いずれは離れる。離別であろうが、死別であろうが。たった一人でこの世に生まれてきたのだから、帰るときもまたたった一人。オープニングとエンディングはもう一人に決まっているのだから、人を所有するなんてことは絶対に出来ない。それは悲しいことでも、辛いことでもない。当たり前のことです。だから、経過でしょう。プロセスでしょう。ココカラ→ココマデという限られた時間の枠の中で、どういう人と接し、どう感じたかでしょう。

 だから、ある時を境に会わなくなったとしても、いかに環境に左右されたとしても、というか会ってる時間が僅か数日であったとしても、そんなことは本質的なことではないのだと思います。

 友達というのはストック(貯蔵資産)ではない。お金の流れのように「フロー」だと思います。流れゆく雲みたいなものです。でも、ついついストック的に勘違いして、コレクションしちゃったりするんだよね。友達リストを増やしたり。僕も、いっときあらゆる業種の人と友達付き合いして、コレクターまがいに名刺を整理したりしたけど数百枚を数えるあたりでアホらしくなった。意味ないじゃんって。大事なのは、10年経っても20年経っても思い出せるような良い時間を一緒に過ごせたかどうか、自分を豊かにしてくれたかどうかですよ。ストックじゃないんだって。


付き合っても一銭の得にもならない

 前回、友達というのは社会的なシガラミから自由な関係だと言いましたが、要するに利害打算で付き合うようなものではないです。「この人と一緒にいるとお金が儲かりそうだから」という利得計算で付き合ったり、離れたりするような人間のことをあんまり「友達」とは呼びませんよね。あなただって呼びたくないんじゃないかな。その人と友達でいる理由は、単に「面白いから」「気分がいいから」という感情的なものしかない、というのが理想、、、「理想」っていうのも変か、まあ、それが「普通」なのではなかろうか。

 この点、違和感があるのがいわゆる「友達価格」ってやつで、「友達なんだからオマケしてよ」と言う奴。違うんじゃないか。よく僕は「友達だったら倍払え」って言ってますけど、それが友達ってもんでしょう。友達の財布に手を突っ込んで金を持っていくようなやつは友達じゃない。むしろ友達の財布が心細くペッタンコだったら気づかれぬように2−3枚入れといてやるのが友達でしょう。

 でも、そんな奴らが多いと思いますよ。友達に限らず人間関係の大部分はそうかもしれん。出世したり、宝くじが当ったら、やたら増えるのが「自称友達」だったりします。日本で仕事してたとき、すっごいお金持ちの案件とかやったことがありましたが、「よくまあこんなに」というくらい得体の知れない連中が寄ってきているのですね。遠い親戚なんかまだマシな方で、いわゆる「儲け話」を持ち込んでくる人、「資産の有効活用」を言ってくる人、、「うわあ、お金持ちやるのって大変なんだ」と思いましたね。もう全身ダニだらけ、寄生虫だらけって感じで。何代か続いた真の富裕層はダニ退治の方法も知ってるだろうけど、芸能人などの一代成金はよく寄生虫にやられてしまいますよね。スターになったと思ったら、いつの間にか借金だらけになってたりするでしょ。

 友達にためには何かをしてあげたいとは常に思うんだけど、だけどそれを目当てに近寄ってくるような奴は友達じゃないってところがジレンマなんですよね。勝手に膝の上に這い上がってきて、「友達だろ?」といいながら頬っぺたペロペロ舐めるような奴は、突き飛ばしてやりたくなるし。

 ああ、誰かが言ったように「人間の手は二本しかない」のだよね。何かを手に入れたら、何かを手放さないとならない。貧者も富者も持てる量は実は同じだという。富やステイタス、名声を得ると、それを目当てに人々が寄ってくる。やれ仕事上のつきあいだ、インタビューだ、面会申し込みだ、忘年会だ、、これらに儀礼的に付き合ってるだけでもう自分の時間なんて限りなくゼロになる。いや、やるべき時間(家族との対話など)すら侵食されるからマイナスですらある。そのうえ中にはゴキブリみたいなのも寄ってくる。しかし、すっきり爽やか金ナシ地位ナシ名誉ナシなら、くだらないつきあいで私生活を妨害されることもないし、寄生虫もつかない。自分とつきあっても一銭の得にもならないのだから、それでも寄ってくる人は純度が高い。だから無力だった子供の頃の友達は純度が高いでしょ。ほんと何がいいのか分からんというとか、差引勘定したトータルはそんなに変わらんのだと思います。

 ただ一点違うのは、それなりに「成功」すると、そのことが分かるということ。以前、確認の旅、「なるほど」の旅ってところでも書いたけど、山の上に登ると「ああ、そういうことなんだ」というのが分かりやすいです。上には何もないということを確認するために登るようなものですね。それは絶望の結論ではなく、単なる第一段階終了でしかない。次なるステップは選択でしょう。手は二本しかなく、持てる量が一定だというのは、一日は誰でも24時間しかないのだから当然っちゃ当然な話です。だからこそ限られた容量の中で何を選ぶかです。その選択こそが大事なんだと思います。


孤独でなければ友達は出来ない

 矛盾したことを言うようですけど。でも、本当にそうだと思うのですよね。もう少し分かりやすい言い方をすれば、「キャラが立たねば好きになりようがない」ってことになるのかな。

 「あの人、いいな」と好感情を持つのは、一にかかってその人の個性でしょう。「おもろいやっちゃ」と思うとか、何となく波長が合うとか、つまりは個々人の個性=キャラに惚れ込むわけです。したがってキャラが立ってないと好きになりようがない。友達というのは付き合っても一銭にもならないのだから、純粋に個性の好き嫌いの問題でしょう。

 でも、キャラ=個性というのはある程度ひとりぼっちで過してないと立ってこないと思います。
 まず、個性というのは、他の誰でもないまさにその人だけのユニークさ=差異性こそが「個」性なのだから、「他の人間とは違う」という一点において孤独の契機をはらみます。ここで「ユニーク」とか「個性」とか美しい表現をするから分かりにくいんだけど、要するにそれって「一人ぼっち」「仲間はずれ」ってことでしょ?何もかもが皆と同じだったら「他と違う」というユニークな部分が出てこない。

 個性には、もちろん先天的ものもあるのだけど、それを磨いていき、キャラクターとして立たせていくには、後天的な部分が大きいです。例えば、皆が歌謡曲に盛り上がってるクラスの中で一人だけ難解なジャーマン・プログレを聴いているとかさ(中高時代の僕ですね)。徹底的にマイノリティになってることが、その人の個性を掘り下げ、研磨する。地上で美しい花を咲かせているのは、暗黒の地下に深く根を張っているからでしょう。学生時代、あるいは職場で、だーれも友達がいない、いつも一人で帰ってて誰も誘ってくれない、誘ってくれても自分から断ったりして、いそいそと家に帰って自分だけの愉悦に浸る、、という、暗〜い、オタクな孤独な時期があってこそ、その人のユニークな個性は花開くものだと思います。

 そのことが良く分かったのは大学時代でした。「ロックミュージシャンは皆暗い」という。自分もやってたからその種の付き合いが多かったのですが、ステージではドハデな衣装を着て、キャーキャー言われていかにも明るいイメージがあるけど、家に帰ったら真逆だという。特にヘビメタ系などは超絶技巧を求められるから自宅でシコシコ死ぬほど練習しないといけない。ほんと山ごもり修行の世界です。でもってギタリスト同士が話してると、好きな曲をかけあって、「ここがイイんだよな。こいつの5弦ビブラートがすごくて、どんな握力してるんやって」とかボソボソと技術オタク話を語り合ってるのですね。で、ふと周囲を見回してみたら、別に暗いのはロックだけではなく、プロボクサーだって99.9%の時間は過酷な減量やトレーニングしてるわけだし、スター選手だってシコシコ真夜中に走ったりするわけだし、医者になった友人も試験前に全筋肉のラテン語学名を覚えるのにのたうち廻ったらしいし、何だってそうなんだって。夜中にシコシコというのは、基本ですよ、基本。

 「友達はいないから、ノートにネコの絵を描く〜」というのは、僕の好きな筋肉少女帯の「蜘蛛の糸」という曲の出だしだけど、これを書いた大槻ケンヂ先生だって、暗い青春時代を送っていたことを爆笑エッセイによく書いてくれてます。彼なんか典型的だけど、孤独なオタク時代にのめり込んでるからこそ、宮沢賢治に並び語られるようなユニークな幻想世界を書けるのでしょう。「ルリヲを殺しにいきなさい。春が来る前に旅立ちなさい。どこかの町のつまらない娘に恋をして『もしかしてこれが本当の幸福かも』と思う。馬鹿だな、ルリヲの思うつぼさ」なんて奇妙に突き刺さる歌詞を書こうと思ったら、いったいどのくらい深く地中に根を張らねばならないか。ちなみにアジ演説をがなりたてるだけの「パンクでポン」は必聴です(^_^)。「お前、ブンガク読んでるか、ブンガク?馬鹿野郎〜!俺はなあ!学生のころ、女の子と喋りたかったんだよおお!」という。

 これはイケメン系でも話は同じで、例えば米米クラブ(再結成してたのね)の石井竜也氏も、史上最年少で日展で入選する天才画家であり、かなりのイケメンでもあり、全てに恵まれているようでいながら、インタビューなどを読むと、初期のころメンバー全員にバンドの方向性について長文FAXを延々送り続け、「暗くて友達のいない石井君」ぶりが明らかにされてます。同じく長身イケメンの吉井和哉 氏も、あれだけのルックスなんだから黙って立ってりゃ売れるのに、メチャクチャ屈折してます。古い日本の歌謡曲の曲想にこだわり(「花吹雪」はいいですね)、売れ線から外れているグラムロックにこだわり、実際にもデビューしても延々売れない時期が続きまくり、ステージでもよせばいいのに仮面ライダーの変身ポーズをして滑りまくり、成功して売れたと思ったらまた意地でも売れない方向に進もうとしたり。大体、「イエロー・モンキー」という日本人の大蔑称をバンド名にするあたりが相当の屈折ぶりです。

 ということで孤独はあなたをあなたらしく磨くための必須教程なのだと思いますです。別に人生の一時期に暗黒世界に籠もれって言ってるわけじゃなくて、外面的にはどんなに人付き合いが活発であろうが、なかろうが、そんなこととは関係なく「自分の世界」ってのが大事であり、そこに籠もったり、浸ったりすることが大事なんじゃないかと。一般にはそういう性癖を「暗い」とかいって嫌う傾向があるけど、そりゃ違うよって思うのです。芸術でもビジネスでもなんでも、他人よりも抜きんでて背が高く伸びていく人は、他人よりも抜きんでて地中に根を張ってるものだと。違いますかね。


疎外感こそ我がアイデンティティ

 考えてみれば、僕はよく友達に恵まれた方だと思いますけど、でも、常に同時並行的に思っているのは、「疎外感こそアイデンティiティ」という意識です。何だか知らないけど、いっつも俺だけ違うという。子供の頃からそうでした。でも、それがイヤかというと、全然イヤじゃなくて、それが心地良い。「皆と違う」のが好きで、違ってるとうれしい。良きにつけ悪しきにつけ。皆と同じだったら、なんかイヤな気分になるという。まあ、実際には殆どの部分が皆と同じなんだろうけどさ。

 「皆と違う」という意識は、うぬぼれたエリート感情にもつながるし、逆にもの凄い劣等感にも繋がり、その上昇気流と下降気流で心の中でよく暴風雨が吹き荒れたりするもんだけど、あまり激しくそういう感じになったことがないのは、多分いわゆるB型的な気質のせいでしょうか。血液型で全てが分かるわけもないし(血液型はABO以外に何十通りも分け方があるそうな、RHとか)、眉唾なんだけど、でも世間で言われるいわゆるB型に典型的にハマってるとは思います。

 日本人の大好きな和を乱すB型。日本社会にトレランス(寛容性)が乏しくなりつつある昨今、いろいろバッシングされているとは聞いてます(昔はそんなこと無かったけどな)。自分勝手なB型、空気を読まないB型、他人の目など気にしないB型、日本人の敵B型。ぶははは、その通り。でも、真性B型に何言ってもムダです。気にしてないか、逆にお世辞言われてるくらいにいい気分にさせるだけです。僕はその手のタイプだから、「きゃはは、もっと言え〜」って感じです。ただし、生物学的な血液型と実際の性格は必ずしも一致しない、、てか、一致する方が不思議なんだけど。また、自分の血液型って意外と間違って覚えてたり、判定されていたりします。献血するといいです。だから、単にB型だというだけでバッシングされている人はお気の毒です。だって、そういったことを気にしている時点で既に性格B型ではありませんから。

 他人の目を気にしないというのは、かなり本当です。もちろん全然気にしないわけではなく、社会の窓(ってまだ言うのかな?ズボンのファスナーね、英語では"fly")を開けっ放しにして歩いても大丈夫なわけではない。やっぱり人目が気になります(人が居なくてもイヤだけど)。でも、他の日本人に比べたら気にしない方で、むしろ「何でそんなこと気にするのか」理解できなかったり、「よくそんな事思いつくよな〜」と感心するくらいだったりします。他人を「気にしない」のではなく、「気にすることが出来ない」のですよ。本人なりには気を使っているのだろうけど、アバウト。これは、分からん人に伝えるのは難しいけど、24時間絶えず守護霊様に見守られているとか、ご先祖様が見ていると思ってられないのと似ている。そんなこと思えますか?あなたは、寝てるときでも、セックスしてるときでも、「ああ、守護霊様の視線が」と思ったり出来ますか?「気にすることが出来ない」というのはそーゆー感じです。

 でも、海外に出ると周囲はもっとハカクに気にしない人達が多いですから、僕なんぞはまだまだ小僧です。誰かが言ってたけど、こちらのネットカフェなどで(個室ではなく、パチンコや図書館の閲覧室みたいにずらーっと並んでるだけ)、ラテン系の女性とかがWebカメラやらスカイプやらで母国の家族と話をしてて、"Oh, Mama, I love you〜!"ってワンワン泣きながらやってたりします。「他人の目を気にしない」というにはこのレベルまでこなきゃダメなんだろうな〜。まだまだっす。世界は広いぜ。

 でも、なんで皆と同じではないとイヤなのか、その神経が分からんです。だって、他人と同じ服着てたらイヤじゃないですか?それ以上に他人を服を着るのって何かイヤでしょう。サイズが同じだからいいってもんじゃなくて、着崩れ方も違うだろうし、しっくりこないし。服という枝葉末節でさえイヤなんだから、ましてや根幹部分である価値観とか感じ方とか知識なんかが他人と同じだったらイヤじゃん。変な理屈に聞こえるかもしれないけど、何かもが他人と同じだったら、自分、要らないじゃん。じゃあ世の中クローン人間ぱっかりの方がいいわけ?そんなもんが理想郷なわけ?って小学生の口喧嘩みたいなことを思ったりもします。

 自分が他人と違うのは、指紋や顔立ちが一人一人違うのと同じく、ごく自然な事実であり、気合を入れて違おうとしているわけでもなんでもない。普通に生きてれば、適当に孤独で、ナチュラルに疎外感を抱いてるもんだと思うわけですよ。生まれも育ちも、DNAも、食ってるものも違うんだから、同じ方がおかしい、、、誰でもそこはそう思うと思うのだけど、おそらく性格Bの奴はその感覚が強いんでしょうね。日常においても、他人の動向というのは、お天気や風景みたいなもので、イチ環境に過ぎず、自分が生きていくに当って大して参考にはならない。皆が知ってること知らなくても気にならないし、ベスト10でも、今何が流行してるとか、人気があるとか、一番売れている商品は何かということも殆ど気にならない。ネパールのヒットチャートくらいに気にならない。しょせん他人事じゃん。むしろ、どうも日本においては自分と感覚が違う人が多そうだから、多数に人気のあるものは自分には合わないだろうと逆目安にするくらいです。

 このスースーした疎外感を感じてるくらいが、むしろなんか「清潔」な感じがして生理的には好きです。「皆と一緒」は、汗臭くてねちゃっとした生理的な不快感とつながってます。個体は全部バラバラ。バラバラだから「個」なんだし。納豆みたいになりたくないよ。


 で、そんな奴にどうして友達ができるか?というと、そんな奴だからこそ出来るんでしょう。
 一つは、孤独というか一人でいるのが普通だから、その一人の時間に自分だけの濃厚な個性が育まれてキャラが立つこと。で、タテ喰う虫も好きずきだから、中にはそれを気に入ってくれる人もいる。それどころか驚くべきことに、皆と同じじゃない奴、変わった奴の方がむしろ人気があったりもする。TVでも人気がある人って「変な人」だったりするでしょ。友達でも、「こいつが又変わった奴でさ」って嬉しそうに語るでしょ。皆、ヘンなもんが大好きなんじゃない?

 第二は、人はそれぞれ全然違うもんだというところから始まってるから、それでもたまたま共通する部分があると「おー」と感動する度合いが高い。第三は、他人は違って当たり前だから、違っててもそんなに腹は立たない。むしろ他人を受け入れる度量が広くなる。わずかな接点しかなくても、その接点を大切にして、何もかも全人格的に融合しようとしないから、「サバサバしているけど温かい」というコンディションになりやすい。第四に、全然違うと思ってるからこそ、逆にコミュニケーションを技術と割り切れるし、上手になれること。

 これは西欧流の個人主義が発達している国でも、人懐こくてフレンドリーだったりすることからも分かるでしょう。オーストラリア社会なんて輪をかけてそうです。世界に冠たるマルチカルチャルであらゆる人種がいて、皆が違ってる。だから却って皆がフレンドリーになるという。閉鎖的な村などでは「よそ者」は警戒されたりするけど、全員がよそ者だったらそうはならない。だから僕にとってはここは居心地がいいです。外国において”外国人”であるという立場は、気持ち良く疎外感を感じさせてくれるし、周囲も全然バラバラだし、納豆のような粘着圧力がないので風通しがいいです。

 疎外感とか孤独とか言ってるけど、自分以外の全員が一枚岩に団結してて、自分だけがたった一人ポツンと疎外されているという風景ではなくて、誰もがそうだということです。それが原点で、当たり前の姿じゃないのか?と。つまり「皆と違う」のではなく、皆それぞれ全員違う、「皆が違う」のだということです。オーストラリアでよく言われる言葉、ダイバーシティですね。"diversity"。よくオーストラリアでは” Celebrating Diversity ”「違ってることを祝福しよう!」というフレーズが頻繁に語られますが、そういうことです。

 ところで、「他人のことを気にしない」というけど、気にしないのは自分がどう思われているかという視線であり、見てはいるのですよ。また見ようとは思ってます。ただしポイントが違う。違うように意識的に心がけている部分もあります。すなわち、この人は何か悩んでないかとか、腹減ってないかとか、しんどそうかとか、つまりはヘルプを必要としてるかどうかです。この他人に何かしてあげられることはないか?ということです。それはこちらの社会に旺盛な部分で、だからシェア探しで地図を広げてウンウン唸ってると、どこからともなく誰かが"Are you OK?""Where are you going?"話しかけてきてくれる。「他人を気にする」というのは、その一点でこそ気にするべきでしょう。

その他いろいろ

 あかん、こんなこと書きだしたら無限に書けそうです。あと幾つかネタがあるのだけど、箇条書きで。

会ったときに「おう」という
 友達の本質的な意味での「定義」なんか無い!というのは前回書きましたけど、非本質的な、冗談みたいな定義はいっくらでも考えられます。面白いんですよね、これが。例えば、僕のように男性の場合、「会ったときに「おう」って挨拶出来る間柄」という定義なんかはいかがでしょう。かなり久しぶりだったり、意外なところで会ったりすると「おう」が、「おー!」と語尾延ばしになりますが、基本はあくまで「オ」、アイオウエでいえば「オ」。「あ〜、どうも!」という「ア」じゃない。「いや〜、どうもどうも」の「イ」でもなく、「うそ〜?○○クン?きゃ〜」というフェミンな「ウ」でもない。「エ」は「え〜!?○○?」という意外な場面ではアリかもしれないけど、やっぱり王道「オ」でしょう。「おう」って。

 まあ、でも、これは男同士の挨拶みたいなもので、別に友達じゃなくても、僕も弟と会ったときは「おう」って言うな。久しぶりに目上の人に会うようなときも、自分からは言わないけど、上の人からは「おう」って言われますね。だから定義になってないんだけど。でも、「オレ・オマエの仲」という既成表現があるように、礼法抜きのフランクな付き合いってのはいいもんです。

トシを取るとあんまり要らなくなる
 人によりけりだと思うけど、若いころほど友達に囲まれているって感じじゃなくなっていきますし、それが寂しいとも思わなくなる。まあ、一般に仕事やら自分の家庭やらで人間関係の絶対量が増えるので、これ以上増やしたくないのかもしれません。単純にヒマがなくなるからかもしれない。だけど、それだけじゃなくて、一人で居ても間が持つようになってきます。なんでそうなるのか、これを言い出すと長くなるからまた別の機会に。

なぜ対等性がキーポイントになるのか
 例えば自分が傑出した天才だとか、トップクラスになると、今の自分に見えている風景や悩みが理解できるのは、同じレベルにいる人だけでしょう。友達というのは対等性がキーポイントであり、対等なレベルでなければ友達になりにくい。オリンピックに出るようなレベルになると、おそらく自分と話が一番通じるのは、同じレベルでメダルを争う他国の選手でしょう。あるいは、ビジネス世界で大企業のドンになって、周囲は取り巻きばっかりになったら、多分友達になれるのは、同じレベルのライバル企業のドンでしょう。天国でキリストの「友達」になれるのは、ヨハネやパウロではなく、釈迦だという気がします。「ぶはは、馬鹿いってんじゃねーよ」って言えるような間柄。

 破格な能力や地位を持ってしまったら、それも又不幸なことで、それが邪魔をして対等な関係が少なくなります。同じレベルの人間の絶対数が少ないからです。でも、なぜ対等でなければならないか?というと、同等レベルの人間というのは、自分を強烈に個性づける才能や地位を相殺してゼロにしてくれるからだと思います。つまり無いも同じにしてくれる。それが無くなったら、「ただの人」であり、地のままの自分に戻れる。だから地のままに付き合える友達になるという。

「地」が出る環境
 だとしたら、自分をとりまく社会的な評価やウザウザが消滅して、地の自分が出てくるような環境だったら友達になりやすいってことですよね。そういう場合もあります。極端な例では戦争とか。生きるか死ぬかを一緒にやってたら、そこでの体験が強烈すぎて、世間的な身分や能力なんかあんまり関係なくなってくる。だから洋の東西を問わず、戦友というのは深い繋がりが出来てくる。子供の頃にいい友達ができたりするのも、社会的なウザウザが少ないからでしょう。だから子供のように地のままになれる環境があれば、わりと友達って出来やすいのでしょうね。ただし、それでも波長の合う合わないはありますから、あとは運でしょ。運だとしたら絶対数が多い方がやりやすい。1クラス20人よりも50人くらい居た方が、一人くらい波長の合う奴がいたりするんじゃないかな。



文責:田村




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