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今週の一枚(2015/02/23)



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Essay 711:A僑と伊勢サミットのこと(仮タイトル)Ver2.0

 写真は、京都から伊勢(二見浦)まで近鉄列車6回乗り継ぎという経路をたどっていったときに撮った一枚。

 地元の人には普通の風景なんだろうけど、海外在住日本人には癒やし風景のオンパレードで、「おお〜」とアホみたいに写真撮ってたら、案の定、車内にiPadを置き忘れてしまったとさ。次の乗換駅で駅舎に伝えたところ、すぐに見つかり、翌日無事に回収しました。いやあ、乗り換えが複雑だからしっかり記録してあったので電車が特定できたこと、乗客が少ないこと、すぐに対処して頂いたことが良かったです。これが都会だったら無理だろうな〜。

 


今週だけの新趣向

 今週はちょっと趣向を変えます。
 なんせ、さっきA僑の伊勢の集会から戻ってきてヘロヘロなので、普通に一本エッセイ書く余裕がありません。
まあ、日本に帰省中でもあるし、「一回休み」にするのでもいいのですけど、新趣向を思いついたらとにかくやってみてくなったのでやってみる、ということで。これができるのが自営起業の良さで、すなわち「上司の決裁」が要らない。てか上司なんか居ない。Above me only sky. この環境で躊躇っていたらやっている意味がない!ということで。どうなることやら、ですけど。

 ということで、今週に限り、完成系のエッセイをポンと上げるのではなく、未完成稿をUPし、毎日書き足していきます。新聞の連載小説や分割払いのようなものと思われるかもしれないけど、ちょっと違います。あれは確定稿を小出しにしていくだけですが、本件の場合、書き足すだけではなく、書き直しもします。今日載せた文章を明日になったらばさーっと削除して、明後日になったら又復活して、さらに順番を入れ替えて、、ってという滅茶苦茶な。

 本来なら完成原稿を人様にお出しすべきなのでしょうし、普段はそうしていますが、今回はそれやってる時間がないし、時間が無くてもピチピチの新鮮ネタを書きたいからです。なんせ今日の今日の話であり、且つ背景を説明するとかなり長くなるという。

 まあ、こういうのが嫌いな人、生煮えのものを客に出すな、完成してから出せっていう人は、次回までには確定稿に仕上げますので、週末辺りにまとめて読んで貰えばいいです。でも、毎日、増えて&変わって&推敲が進んゆく過程をリアルに見るのが面白いと思う人はどうぞ楽しんでください。

概要

 書きたいことは今回のA僑集会(「伊勢サミット」と内輪では冗談めかして呼んでますが)についてですが、何なのそれ?てかA僑って何?なんでそんなことすんの?なに考えてるの?どうなりたいの?目論見は?あたりのざっくりとした話です。

 まずA僑とはなにか?ですが、あなたが知らなくて当然、僕の造語ですから。もとは華僑や印僑をもじったものです。「和僑」という概念は20年前の漫画の「サンクチュアリ」(リアルタイムに読んでたときは最高に面白かった)に出てきますし、そういう言葉や概念は他の現実の経済雑誌の記事などでも見かけました。ま、あって当然ですけど。それともう一つ、AERAの記事に載ってた「リ僑」ですね。リクルート社出身者の起業ネットワークが作るともなく出来ているレポート記事です。その概念もヒントにして、僕がやってる現地特訓の一括パック受講者/卒業生によるゆるいネットワーク作りをやってみよかと、名前はなにがいいかな、APLACの僑だからA僑(あきょう)でいいやって。軽い感じで。

 このあたりの詳しいことは別途そのページがあり、僕が又長いゴタクを述べてますのでご参照ください。

 まあ、卒業生の同窓会、親睦会、、っていってしまえばそうなのかもしれないけど、それに込めた野望(笑)というか思いは、意外と巨大です。世の中これからこうなると思う、だから今のうちからこうしておくってことで、30年スパンくらいで考えます。30年というとまた法螺みたいに聞こえるかもしれないけど、僕にとっては手頃なサイズで、APLACだってそろそろ創立20周年だし、このエッセイだってもう20年近く書いてるんですよ。20年なんて「このくらい」って手の平サイズですよね。

 僕が思うに、要点は二つあります。
 ★一つは起業という視点にこだわること
 ★もう一つは、構成メンバーの共通属性です

起業

 なんで起業なの?というと、野心的な試みって感じではなく、これからの世の中で普通にマトモに暮らそうと思ったら、特に中高年になってもマトモに普通に暮らそうとしたら、当然出てくるオプションだと思うからです。このエッセイでもかねがね言ってますけど。

 いきなり視点をロングパンしてデカい話をすれば、どうも科学技術の進歩と資本主義って噛み合わせが悪いみたいって話です。科学技術の進歩は人間の幸福のためのものでした。1000人必死に働いて生活資産を生産していたのを、マシンが1000人分働いてくれれば、一人がそのマシンを操って、あとの999人は寝て暮らせばいい。1000日に1日だけ働いて、つまり3年に1日くらい働いて、あとの999日は寝て暮らせるという人類の夢でした。んでも、そこに資本主義がカマされると、999人は寝て暮らせる天国ではなく、失業者として苦しんでしまうという。なんか変じゃない?こ、こんな筈では、、ですよね?だからこの二つは相性が良さげで実は悪いんじゃないか。スイカと天ぷら(だっけ)みたいに「食べ合わせ」が悪いと。

 じゃあどうすんの?といえば、目先のことでいえば仕事が猛烈に減っていくなら、自分で作ればいい。首になったらそれで終わりではなく、無限にあれこれトライできるフリーハンドの生産手段を個々人が持つべきでしょう。それを今現在の言葉のなかから選べば「起業」ってことになるだろうと。でも、「起業」って概念だけでは実は過不足あって、起業がもつ野心的自己実現って側面もあるんだけど、同時に必要にせまられた生活防衛的な側面も大いにある。てか、起業をしたいのではなく、「これだけ頑張ったら→これだけ幸せになる」ってクソ当たり前の等式を成り立たせる環境こそが欲しいし、それが無いなら自分で作れってことで、脱資本主義的なニュアンスも濃厚に含む起業です。だもんでいくら儲ったから成功ってレベルの話ではないのですね、ほんとは。

 でも、いよいよ切羽詰まってから「さて、やりますか」で始めても、この種のことって本当に経験量がモノを言うし、人脈がなければ絵に描いた餅なので、皆が老境に差し掛かる30年前から準備しなはれと。失敗しても笑えるレベルから徐々にトライして、うだうだ言ってないで動いて、動いて、「ほう、あれがこんな形に化けるのか?」という世にも不思議な社会の化学反応を実験して覚えて、やっていったらええやんってことで、A僑を作ったと。「作った」といっても、呼びかけただけて「場」らしきものを設定しただけのことですけど。

共通属性


 もう一点、共通属性です。単に集まればいいってもんじゃなくて、メンバー間に重要なファクターを共有するという共通属性があるかないかが致命的に大事だと思ってます。

 いろんな切り口があってもいいんですけど、とりあえず一括パック経験者であるという点を挙げたのは実はかなり深い意味があります。や、考えぬいてそうしたというよりも、直感的にポンと浮かんだ感じ、もっと正確にいえば目の前に物凄い埋蔵量のある鉱脈があるのをなんとなく感じたので、これを皆でシェアすればいい、教えてあげたいって思ったのがきっかけです。教えてあげるというのはエラそげな物言いですけど、でも、これは僕しか見えないです。全員知ってるのは僕だけで、それこそ空港でピックアップして、数日寝食共にして、、って。その知識経験があるのは世界で僕だけ。いわば風呂屋の番台みたいな視点がある。でもみなは同期周辺は学校やラウンド先で友達になって時期がずれたらもう知り合えないわけで、勿体無いじゃんって。

 一括パック出身者による共通属性というのは、一言で言えば「話が通じる」「波長が合う」ということで、さらに分解すればいくつかあります。

 (1)学歴/職歴/収入に対するこだわりが少ない
 (2)年齢に関するこだわりも無い
 (3)日本の人生保証的なシステムに懐疑を抱くのみか、自分で積み上げたものを自分で捨てている

 (4)それだけの犠牲を払っても得たいものが、金とかステイタスとかではなく、もっと漠然とした「もっと夢をもって」「自分らしく」とか、ともすればお花畑的に揶揄されがちなものであること。ただしそれが桃源郷的な理想ではなく、より普通でより当たり前でより生理感覚にフィットするもの、今回僕が楽しんだ「裸足に畳の快感」のような、普通に当たり前に幸せになりたいという地に足の着いたものであること。その実現のために実際に行動(オーストラリアまで来ている)こと。
 (5)オーストラリアで厳しい現実に直面するわけだけど、そこで心が折れずに、逃げもせずに貫けている。特に最初のシェア探しは英語の出来る/出来ないにかかわりなく誰だって怖いもので、真っ暗な細い道を一人でトボトボ進むような時期を潜り抜けるのですが、その「天神様の細道」を全員が通り抜けている。これは大事な点で、いくら海外だなんだいっても、全部用意されているのではなく、何の保証もなく、孤立無援で、100%アウェイ環境で、それでもやれたかどうかです。

 (6)当然だけど、全員英語が喋れる。上手いか下手かはともかくとして、英語で生きていくということについては慣れている。同時に英語の怖さも知っている。
 (7)「海外」についてのイメージが「怖い」「不可解」というネガなものではなく、楽しい、自由、むしろイージー、具体的には超ハードなんだけど「呼吸するのが楽」「生きるのが楽」って意味でイージーであるということを、全員が知っている。それも頭でっかちの知識ではなく、経験体感として持っている。

本質的特性と付随属性

 思うに核心部分は4(曖昧で漠然とした価値をとても大事にすること=オリジナルな価値観)に尽きるでしょう。ここが強烈にあるからこそ、その他の属性は自然に出てくる。

 X・Y・Z軸のように、日本には幸福の座標軸があると思います。学歴×職歴×年収。これに年齢が加わるかな。この4座標を聞けば、だいたいどの位のポジションに居るかがわかり、どういう人物かわかる(かのように思う)。幸福の位相幾何学ですな。サル山の位争いのように、とりあえず相手の座標(各数値)を知りたがるし、ゆえに履歴書もそれらの点がメインの記載事項になる。でも、オリジナルな価値観が強いと、これらの座標軸は神通力を失う。だから壊せる、捨てられる。

 一般論として言えば、歳相応に食っていけるだけのスキルやキャリアを持っていた人が多い。日本に留まり頑張ってれば、そこそこ勝ち組と呼ばれるポジションでしょう。しかし「こんなクソゲーで勝ってもなあ」って気分もある。ゲームそれ自体が自分の趣味に合わない。周囲の皆が打ち興じている中で、「面白いの?これ?」って気分がある。それだけ自分の価値観が強いんだけど、それってなあに?と言われると、「もっと、こう、どわ〜!っと」という漠然で曖昧とした言い方しかできない。でも、やる。表現的には漠然と曖昧としているけど、それがあるという感覚は確固としたものだから。以上の次第で、4(価値観)が強いから、1−3の現象(幸福座標の放棄)が生じる。

 次に5は、4の価値観が現地で試される場面で、それなりにハードな局面に陥りつつ、よろけつつも、それでも進み続けることが出来るかどうか。そして進んでいくうちに、漠然と曖昧とした価値は、目の前の現実として確かな手応えで感じられる。もう曖昧でも漠然でもなく、鮮明化してくる。「これだよ、これ」「ほらね、あるじゃん!」と思う。

 自分にとってもっと「いいもの」を感じる・信じるかどうか→それに殉じて実行できるかどうか→さらにリアルに体感してくるかという3つの関門を潜り抜けてきている。そこまでいってしまうと、やれ学歴が〜年収が〜とかいうクソみたいな座標軸は心底どうでもええわって思えるのでしょう。なお、誤解のないように付言しておくと、それら職業技能やそこに辿り着くまでのその人の頑張りを無価値だと言ってるわけではないのですよ。それどころか滅茶苦茶レスペクトします。ただし、レスペクトするからこそそれを座標軸として使いたくはない。そういうことで「人を測る」って行為がなんか違うんじゃない?実質から離れて形式数値がひとり歩きするのを変だと思うってことです。

 なお英語圏・海外でそれらをやるので、英語の実戦力はあるし、また海外リテラシーもつく。ただそれらは結果論という側面が強く、あくまでもメインは、漠然と抱いた自分の価値観世界が本当に実在するのか、価値実現が出来るのか、それを知りたい、試したいってところでしょう。

 つまり、幸福座標軸や国内・海外(ウチ・ソト)二元論という日本人の特性と言われる特徴をモノの見事に持っていないということで、とっても「非日本人的」な共通属性。でも、これって人として普通じゃないの?なんでも数値化して、その数値に該当するポジションに、まるで蝶の標本の展翅板にピンで止めるように人を固定し、勝ちだの負けだの言うのってのが「日本」的なのかい?I don't f**king think soですわ。

やり尽くしていない

 さらにこれに加えて
 (8)まだエネルギーが残っている、やり尽くしてない感がハンパない

 そして日本に戻って、ああ面白かった、遠足終わり、また日常だ、俺の青春は終わった、Party is overって感じになれない。冗談じゃねえよ、これからだろう?と。せっかく自力で、それも血を吐くような思いでガッシと掴んだ、すげー「いいもん」があるのに、それをこの先生かさないで、結実させないで、妥協×諦めの日々に埋もれていくなんて絶対ヤダ!って気持ちがある。

 でもそういう想いを語る相手、ぶつける相手に事欠く。「まだそんな夢みたいなこと言ってんの?」「大人になれよ」的な、のびた素麺のような、ひやっこくて、ぬるい反応だったりするわけですよね、帰国してからの周囲は。歯ごたえなし、てかニチャニチャ噛んでて気持ち悪いしって。

 そういう人らにとって、同じ資質をもつ人は滅多に出会えない得難い仲間でしょう。いみじくも中島さんが卒業生用掲示板で書いてたけど、MOPという活動をする相棒になる石渡さんに出会った時に、「なんだ、お前、ここにいたのかよ!」という感じ。これまで生きてて、あれこれやって、世界一周までやって、それでもなかなか出会えなかった同志が目の前にぽんと居るという。そういう人が居るというだけで、そして語り合うだけで、もうメチャクチャ楽しいんですよね。

 で、その「メチャクチャ楽しい」のが、今回の「伊勢サミット(笑)」で、とある案件をもとに、興味アリ宣言をした連中(僕を入れて7名)が、東京から広島から伊勢に集まってブイブイやっていたという。とりあえず次はカンボジアかタイの視察ということで、って話になって、でも本当は次はどこに集まるか、やっぱ島根とかいいよね、今回伊勢神宮だったので、次は出雲でしょうとか、真面目なんだかふざけてんのかという。

 ま、そのあたりの話は、おいおい書きましょう。
 とりあえずは共通属性の切り口としてはこんな感じであると。

人選び

自分から逃げない資質

 なお、付言すると、別に正規の基準でもないし守られているわけでもないけど、「体験談を書くこと」というのがあったりします。別に書かなくてもいいんだけど、でも実際のA僑で動いている面々は体験談を書いてる(orこれから書くつもり)連中が多い。読めばわかりますが、あの体験談群はかなり内容の濃いものが多く、まるで史記の○○列伝みたいな感じで、渡豪する前に読むと見上げるような神々の物語のような気がするでしょう。

 そして、あの連中と一緒にやると思うと、ハンパな実績では居心地が悪いって感覚はあるかもしれない。それが実質的に参加ハードルを押し上げているという部分もあろうかと思います。ただ、その程度のハードルはあっていいと僕は思います。それは実力とか優秀とか能力的な意味ではなく、心根の部分に意味があろうかと。

 体験談を書くというのは、あれと同格くらいの実績を積んだということだし、そういう自負があるということでもある。まあ、本人ひとりひとりに聞けば「めっそうもない」って感じなんだろうけど、でも全く見劣りするようなものであったとしても、それでも「これが私です」と不特定多数の前に出ていけるだけの気持ちはある。ここが大事ね。内心で思ってても意味なくて、「世に出る」という「その一歩」を踏み出せるか、「矢面に立つ」「出る杭になる」ことが出来るかどうか。黙ってれば傷つかないで済むんだけど、カッコ悪かろうが、笑われようが、前に進まなきゃって気持ち。あるいはそのへんを全然気にしないメンタル特性。このあたりは起業という意味ではかなり重要な資質なので。

 また、最後までやりきったと思えるからこそ書くんだけど、逆に言えば最後までやりきれたということでもある。シェア探しのハードな日々が終わってまったりして、その後失速していって、、、って感じではない。なんつのかな、「逃げなかった」ってことかな。なんせ、全員が全員あれやってきてる集団ですからね、「おまえ、ここで逃げただろ?」ってのは手に取るように見えるんですよね。同じようなところでビビったり、悩んだりしてきたわけですから。事情を知らない人には適当に美化して誤魔化せても、ここでは通用しない。一瞬で見透かされる。逆に客観的にはメロメロに見えても「すげえな、よく頑張ったな」ってのもよく分かる。

 ここ微妙なんでさらに説明しますが、ココまで出来れば合格でとかそんな偏差値的な基準で言ってるわけではないですよ。ラウンドいって無一文ドボンになれば偉いとか、そんな話ではない。実際、あとで述べるフリスク案件だって、ラウンド全然行ってない人も、体験談まだ書いてない人も比率で言えば3分の1づついるし。カタチではないのよね。「逃げ」でいえば、ラウンドいくことがむしろ「逃げ」だったりするケースもあるしさ。結局何から逃げてるかっていえば、自分から逃げてるかどうか、自分が最初に感じた漠然と曖昧な価値から逃げているかどうかだと思います。ここ誤魔化すのは簡単で、「や、別にそういうことをしに来たわけじゃないし」って事前事後に予防線一本張っておけばなんとでもカッコつくのよね。イソップの「酸っぱいブドウ」ですね。

 優秀でスーパーな人が優秀でスーパーな実績を積みましたって話では全然無い。むしろ一人ひとりのリアルな実感では、絶えずビクビクして怯えて、絶えず畜生で悔し涙で、心もざわざわざ波立ってって感じでしょ。でも自分の最初の思いは持ち続けるし、ヘタレな自分を見捨ててないし、自分を誤魔化しても逃げてもいないと。そういう人は戦友として信頼できる。ある部署を任せておいて、いざ状況が悪くなると、なんだかんだ逃げ腰になったり、どっかの政府みたいに無理やり無かったことにしたりじゃ困るのですよ。昔ながらの職人言葉でいえば「ケツを割る」ですが、ケツ割られたら恐くて任せられない。

 結局、「仲間選び」のあれこれを、30年かけて学びましょうっってことですね。一般的な人間的な出来・不出来を裁断しましょうなんて恐れ多いことをするのではないし、又そんなことに興味もない。ただ、こういう目的をもった集団だったら、こういう価値観や資質のある人が相応しいって話です。また目的や趣向が変われば、別の観点で選ぶでしょうしね。出来れば「選ぶ」なんて形ではなく、集団そのものが持ってるオーラで自然とそうなるっていうのが望ましいし、それを目指すべきだとも思います。

切り口と人のつながりの妙味

 やや余談に流れますが、別の切り口もあります。
 例えば(もしそんな奇特な人々が居るとしたら、ですが)このエッセイの愛読者という切り口もあるわけです。真部分集合みたいにA僑と重なる部分もあろうが、でも重ならない部分も広い。でもって僕に意味があるんじゃなくて、ここで書かれている内容、そのテイストやら指向性やらが何となく波長合うなって人は、同じように感じる人と一緒に飲んだりしたら結構気分のいい酒席になるかもしれないし、それが巡り巡って、、ってこともあるかもしれない。ま、でも、大抵他人に薦めても「長いからヤダ」でというリアクションを受けたりするんじゃないかなって思われるところ、世の中広いので、そうは思わない人もいたりしてね。話が合うんじゃないの?と。特殊な一点で話が合う人というのは、他の部分でも結構合ったりするし。人間的に「そういう人」だからだと思うけど。

 てかね、これに限らずもっと色々動けばいいのになって思います。漫画の○○が好きとか、ファンクラブとかあるけど、もっとニッチでゆるくて組織立ってないもん。ニッチにするのは共通属性が際立ってくるからハズレが少ないかもねって意味です。ビートルズが好きって人は世界に何億人もいるから意味なくて、ビートルズのなかでも「A Day in the Life」こそが最高であるという人の集まりとかさ。超マイナーな趣味とか。まあタコツボっちゃタコツボなんだけど、でも会社だって国家だってタコツボっちゃそうでしょ。問題はタコツボをいくつ持ってるかじゃないの?こいつらと話してるとメッチャ楽しいって場をいくつ持ってるか、作れるか?でしょう。意見や思想とかいっても、突き詰めれば好き嫌いだもんね。だからその好き嫌いをもっと大事にして、積極的に基軸にすればいいのに、と。

 そんなことしてると異なる意見の人を排斥するイントレランスを助長するという危惧もあるでしょう。それは分かる。でも、やり方一つじゃないかな。ウヨとかサヨとか既成概念化してるのはちょっとねって気もするけど、「へ?」というくらいヘンテコでユニークでしかし本質的な切り口だと、妙な所で串をさしてるから、構成メンツはおもいっきりバラバラになって、そこで交流していると思わぬ視界が開けたりするんじゃないかな。あとゆるいのがいいとか、組織立たないのがいいというのは、「皆で一丸となって」とか暑苦しいノリになるとしんどいし、何よりも意外な発展性が阻害されるのが勿体無い。最初はビートルズつながりだったのが、ひょんなところから田舎に共有別荘を持とうぜみたいな話になって、あれこれやってるうちに陶芸マニアの会になって、会は数回で自然消滅するんだけど、それがもとで個別にカップルができたりとか、本業関係で意外なつながりが出来たりとか。

 人のつながりの面白さってそういうことだと思います。僕が昔やってた異業種交流でも、単純に飲んでてメチャクチャ楽しいって波長合いまくりのメンツが集まったってのが大きいです。すごい勉強になったけど、それは結果論で、別に勉強のためにやってたわけでは全然ない。でもって、それが縁で結婚しましたってのは、えーと幾つあるかな、結構あります。僕だってそうだし。で、それがもとで本業関係のビジネス的リターンというのも、これも狙ってたわけでもないけど、「信頼できるから」で自然とくるわけだし、僕だって当時の本業関係でいえば、詳しく計上はできないけど百万くらいは軽く稼がせてもらったような気がする(もちろん逆に手弁当的に手伝ったことはもっとあるけど)。

 切り口なんかなんでもいいんですよね。でも何でもいいって言いながらも、面白くて、ユニークなやつがいいです。「入道雲鑑賞会」でもいいし、「出張情報交換会(ここに行ったらこの店にいけ的な)」でもいいし、どういう昼寝が一番気持ちいいかを熱く語り合う昼寝同好会でもいいし、ひきこもりのノウハウを情報交換する「閑居庵」とか。何をやっても続かない「三日坊主クラブ」でランキングを作って、三日坊主キャリアを100以上持ってる人は大僧正とか大慈空阿闍梨にして、和尚、寺男、10個未満は一休さん小坊主とか。何の生産性があるのかわからんけど、くだらないことでキャッキャやるのって一番楽しいじゃん。でもそれが実は人生を開いていったりするんだわね。

 大きな時代な流れでは、これまでの折に触れ書いているように、国家とかそういう巨大な箱物がリアリティを失ってって自然と融解していって、その代わりに、なんだかよう分からん部族社会みたいになっていって、そこを渡り歩いていくってライフスタイルになっていくんじゃないかなと。所属してる会社がコケたらもう終わりです、友達いません、一人ぼっちです、どうしていいのかわかりません、では困るでしょう?かといって既存の集団だと、やっぱ既存なだけにもうしっかり秩序世界があって、長老がおってとか、入門者はまずこれから始めてって、あんまり会社と変わらんかったりしてさ。だから変なの、自分らしいのを自分で作っちゃえよ、と。自分らしさを突き詰めれば絶対「変」になるからさ。

かいんだフリスク案件

 「かいんだ」は"kind of"で、ネィティブが好んで使う言い方で、日本語の「〜みたいな」です。現場ではそう聞こえる。フリスクはフリースクールの略。わかりにくいよね(笑)。

 広島で内装業を営む吉田さんが呼びかけ、帰国後名古屋で英語塾起業し1年以内に軌道に乗せた古橋さんが呼応し、さらに興味のある数名が参加し、とりあえず一回会いますかで初顔合わせをしたのが冒頭の「伊勢サミット(笑)」です。

 これねー、どう説明しても伝わらないんじゃないかって思われるのですね。やってる本人らも良く分かってない、てか良く分からなくてもいいというか、よく分からないからこそいいというか。ただ実感としては琴線に触れる面白さがあり、ワクワク感がある。伊勢でも、ほとんどが初対面って感じで(体験談や掲示板ではお馴染みだけど会うのは初めて)、でもいきなり笑い転げて、ただの修学旅行みたいになったし。でも決まることは物凄い勢いで決まるし。

 うまく叙述する自信がないので、思いっきり主観に引き寄せて書きます。僕ら見てると、僕がこっちきてAPLACやりはじめた過程と酷似してます。またA僑や集まりそのものはこれも昔やってた異業種交流とまんま酷似してます。二つの物語が同時進行してるんだろうな。前者は、日本でそこそこやってますって段階で、でも将来をみるとあんまりワクワクしない、1990年代の初頭だから今ほど日本が落ち込んではおらず、全然楽観的な世の中だったけど、個人的には今イチ感があって、「外はどうなってるの?」でオーストラリアにきたら、「うわ、すげ!」となってハマってしまった。で、そうなると人に言いたくなる。ちょうどピクニックにいって思い思いに散策してたら、木立の陰にすごい綺麗な滝絶景があるのをみつけて、「おーい!」で皆を呼び寄せるような気持ち。このHPはその初期衝動のまま現在まで続いてますが、「教えてどうする」とかじゃなくて、とりあえず言いたくなる。

 何なんだろうね、これ。「幸福シェア本能」とでもいうのかしらん。すごいいいもん見つけたら、他人に伝えたくなる、その感動を共有したくなる衝動がある。で、上記の3つの関門(価値観→実行→完遂)をしてきた連中もそこは同じ。そして、帰国してみたらお通夜のような日本。でも、「なんでそんなことで悩んでんの?」って心底不思議な感じにもなる。なんつのかな、カーテン閉めきって暗い部屋にいて、「もう暗くて暗くて」とボヤいてて。でも外は明るい春の日差しが満ち満ちていて、だったらカーテン開けたらええやん!って思うけど、それが思いつかないで鬱になってるという。あるいは、カレーライスを箸で食べてて、「もう食べにくくて」とか悩んでる。スプーン使えばいいじゃん!って思うけど、そういう発想がない。

 「だー!もー!じれってーなあ!」って感じですかね。お腹が空いてます、目の前にカップ麺と沸騰したお湯があります。だったら湯を入れて食べればいいじゃん。てか、もうお湯を入れて3分状態になってます、早く蓋剥がして食べればいいじゃん!って感じ。

 フリスクが出てくるのは、主唱者の吉田さんの身近に不登校で悩んでる人がいて、でも大人も似たような感じでいて、皆で蓋をとらないで、もう餓死するしかないんです的な感じを受けるので、「違うでしょ!」と言いたいし、言ってる。でも通じない。だから論より証拠で、スコーンと突き抜けて、余りにも突き抜け過ぎててもう笑うしかないような、カーテンの外を見せてあげたい。ただし、それには相応の技術もスキルもいるし、最初はここから始めた方がいいとかいうノウハウもあろうと。それを徐々に知っていく中で、一人で生きていく本質的な技術も身につくし、それが身についたらますます世界はひろがるし。

 具体的にどうするかな、ラリアで友達になったオージーの連中がカンボジアとかタイとかにいて協力してくれるって言ってるし、実際一回お試しでいったらカーテン開きそうな感じ、てか全開、てか最初からカーテンなんか無いしって感じだし、予算も安く済むし、ビジネス的にも早いうちに(てかもう既に二周回遅れくらいだだが)アジア・リテラシーを生理感覚で身につけてしまえば、将来の生計的な選択肢も増えそうだし、身近でカーテン閉まってる人も結構いるみたいだし、いっちょやってみますか、具体的に何をさせるかとりあえずまた現地視察でしょ、いやいきなり本番やって、そこで色々学んだらええやんとか、来月一人カンボジアからタイにいくから調べてきてねとか、今丁度行ってる人がいるから頼むかとか、とりあえず年内、年の瀬になると忙しいから10月くらいまでに現地にいってやってみましょか、、、てな話になっているという。

 このあたりはめっちゃくちゃ話が早いですよね。もうリニアよりも速いね。一人で動いてきた連中だから、エンジンの吹けはいい。「考えない力」も十分あるし。ウダウダ考えて腐らせてしまうくらいなら、とにかく動いて、風景変えてみて、その変わる風景の中から活路を見出すというのは、さんざんオーストラリアでやってきたからお手の物でしょう。形に囚われたら死ぬって感覚も共有してるだろうし。

 で、他人様に教えてやるという垂直落下の上から目線の怖さは誰もが思ってるし、いかにその角度をなくしていくかがキモですよね。「おもしれーから、来いよ」って友達を飲みに誘うような水平的な。

 ただ、主観引き寄せで僕が思うのは、カーテンは二つあるのだろうよと。やってる本人たちももう一つの自分達のカーテンを開けようとしているんじゃないかな。確かに感じた「いいもの」があって、それをこの先の人生に生かしていくって生き方ってどうすれば出来るのかな?それを模索している、カーテンを開けようとしてあれこれやってるという。だから、そこは同じなんですよね。それが多分、上から目線のいやらしさを解消する一つのヒントになるような気がします。

 振り返って僕がキャッキャとやってた異業種交流も、あれってカーテンを開けたくてたまらない連中の集まりだったからだと思います。この世界はもっと楽しくて、面白いはずだという確信。「ワンダフル」のワンダーって不思議なとか、戸惑うっていう意味で、ワンダフルというのは(いい意味で)当惑するような物に満ち溢れているって意味ですよね。ぶっちゃけて言えば、「ガビーン」「うひょ〜」がいっぱいだということ。「なんじゃ、こりゃあ!?」的に素晴らしいと。

 てことで、フリースクールとはどっかの組織や集団ではなく、この世界そのものがフリースクールで、僕らはみんな受講生であると。経験の多寡によって先輩後輩が出てきて、「こうするといいぞ〜」というそこでは技術や知識の伝授があるけど、基本は同格という。でもって、今皆がやってるのは、フリースクール(地球)の攻略法とか、楽しみ方とか、「世界観破壊快感研究会」とでもいうか。これ、けっこう「ガビーン」ときますよ、お、そう?みたいな教え合いっこ。僕のAPLACも、多元生活文化「研究会」で、英語でいえばアソシエーションです。互助会ね。カンパニーにはしたくなかったんだよね。

 んで、A僑=かいんだフリスクではないです。A僑は組織ではない。集団ですらない。エーテルでありたいですよね。今回たまたま嚆矢を切ってこの件が出てきたけど、その前にはShapeways案件もあるし、ネタなんかいくらでもあるし。掛け持ち自由だし。サッカー部でもあるけど、バンドもやってます、でもデートも当然、あ、勉強もそこそこにって。だけど、いくら吠えても無反応、空回りってのは辛いので、真空ではなく、腕を動かしたらその分だけ前に進める感覚、空間を何らかの好意的な物質がうっすらと埋めていて、だから前に進めるという。つまりはエーテルのような。

 よし、今日はこのくらいにしよ。長くなったので二つに分けるか?どっか削るか?うーむ。

 ちなみに昨日までの分は、
 Ver1.0
 Ver2.0
に保存してます。写真も変えているという。





 

文責:田村