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今週の一枚(2013/08/12)


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Essay 631:日本の「暑さ」考

 〜2013年帰省記(1)

 写真は、思いっきりドベタなものを。実家の最寄り駅の近鉄十条駅ホームから望遠で。
 最初はベタすぎるから論外扱いだったのだけど、よくよく見ると意外と良いので選びました。
 まず東寺の五重塔ですが、「やっぱカッコいいわ」と思った。文化財とか、観光とか、有名とか、そういった属性要素を一切排除しても、建造物そのものが純粋にカッコいいです。
 そしてもっと大きなポイントは、背景の山並みのライン。方角的に多分、高雄とか愛宕山の方だと思うのだけど、山の稜線のカーブが「アート」になってるじゃんって。京都で一番好きなのはこの山のラインです。盆地だからどっち向いても山があるのだけど、どの山のラインも京都独特の味があって好き。見てて飽きない。



 トップページで広報しているように、先週から日本に帰省しています。5年ぶりです。毎回帰るたびに思うのですが、もっと頻繁に帰るようにしなきゃね、親孝行の意味でもって思うのですが、これがなかなか。結局、5年に一回などというオリンピックよりも少ない率になってしまいます。

 一番最初に半年留学したときは、半年でもすごく長く感じました。それは日本に住まいも何もかも残しておいての一時出張のテンポラリーなものだったし、精神的にも母国日本につながっていて、そこから離れて宇宙みたいなところで頑張ってますって構造になっていたからでしょう。ところが、永住権とって再度乗り込んで、あっちに根を生やすまで意地でも帰るもんか、具体的には自分で好きなように動いて、起業して、それもお遊びじゃなくて最低100万円くらい稼いでからじゃないと帰るもんかってやってました。数年でそれは果たされ、帰省したのですが、その頃にはもうオーストラリアがベースになってて、原則と例外が逆転してしまっています。

 以降、何度か帰るたびに意外性も新鮮味も失せてきて、「外人の目で日本を見る」という事すらも飽きてきて、帰国っていっても全っ然ときめかない、もう事務作業みたいになってます。実際、老親がおらんかったら、もう二度と帰らないかもしれないし、帰りたいとも思わないし、そもそも「帰る」という実感もあんまりない。「冷淡じゃないか、母国だろうが」っていう向きには、あなたは20年前に卒業した小学校を頻繁に訪れたいと思うか?と返します。確かに母校だし、懐かしい、愛着はある。だが現実問題そこに「帰る」か?それも仕事休んで10万円以上金を払ってやるか?というと帰らないでしょう?帰ってどうするの?「帰る」って感じではないのでないか?まあ、これからも観光とか旧交を温めるためには帰るだろうけど、それはもう会いに「行く」もので、帰るものではない。

 しかし、親の介護の問題などがリアルになってきたら、そうも言ってられないでしょうけどね。オーストラリアの永住権取った在留邦人が帰国する話をよく聞きますが、多くは親の介護の関係です。こいつは結構深刻な問題で、オーストラリアの永住権は、長いこと留守にしていると、「もう要らないでしょ?」ってばかりにキャンセルされてしまう。いくらオーストラリアにビジネス基盤を築き上げたとしても、しばらく留守にしたらパーになるという。

 まあ、そのときは国籍変更してオーストラリア人になってしまえばいいんだけど、そうなると日本に帰ったら「外人」になってしまうわけで、介護の手続きやら代理やらで、日本で外人をやるのは面倒臭いあるね。TPPなんかどうでもいいから二重国籍認めてくれよ。海外在留邦人というのは、世界各地で根をはやしてその土地に精通しているエキスパートなんだから、今後日本人が海外にどんどん出て行くに際して、格好の水先案内人になりステップストーンになる大事な「布石」なんだから、しっかりバラまいておけよって思うのだけど、そういう発想は日本の中央のお偉いさんには物の見事にないよね。ビデオを早送りボタンをガシガシ押しまくって、もう100年くらい先に進めて、世界がEUみたいに国境が溶けて、いずれは「国」が消滅して、あるのは濃厚な個性を持った「ローカル」だけって「行き着くところ」までいきたいです。「システムは普遍的に、カルチャーは個性的に」ってやつです。Think global,Act local.です。生きてる間には無理だろうけど。時代の流れがトロ過ぎてもどかしいぜ。

 でもって、日本に帰ってきて感じたことをいつものように書いておきましょう。今回は思い出しではなく、ノートパソコンを買って持っていった(重かった)ので、リアルタイムに書けます。その分まとまりはなく、備忘録的なメモになると思いますが。

日本の暑さについて

 昨今の日本の夏は暑く、その性質やオーストラリア(シドニー)との違いなどは、過去に散々言い尽くした感があります。温度よりも湿度だとか、昔から「水蒸気の国」と呼ばれていたとか、近年は夜に温度が下がらない方がむしろ問題であることとか。重複しつつも敷衍します。

無理やりお風呂デジャビュ

 湿気が高くてむわっとする点ですが、これ、デジャヴュ的になんかに似てるな〜とずっと思ってたのですが、わかりました。子供の頃に無理やりお風呂に入らさせて、のぼせていながらも更に頑張らされる感じに似てるのです。

 僕は子供の頃からカラスの行水で、入ったと思ったらすぐ出るようなタイプです。長風呂好きな人とは真逆で、長々こんなもんやってられるかって。温泉はまた別なんですけど。でも、親などに、はい湯船に浸かって、まだ出ちゃダメ、肩まで浸かって、はい数かぞえて、いーち、にーい、さーん、、、ってやってたんですけど、その感じに似てる。

 そして、風呂なら数分後には出られるわけで、脱衣場の涼風天国が待っているのだけど、日本の夏はそうはいかない。数を数えるにしても2ヶ月くらい数えないといけない。僕の場合はわずか10日ちょいの滞在期間ですが、それを指折り数えるという。オーストラリアに帰る時が待ち遠しいぜよ。

 そして、かつての日本では夕方から夜にかけて温度が落ちるという「救済」がありました。まあ、寝苦しい夜とかはありましたけど、それでもクーラーなんかない時代にタオルケットとか掛けてましたからね。でも今は救済が少ない。

ヒートアイランド現象

 なぜか?といえば諸原因があるのでしょうが、一番大きなものはヒートアイランド現象ってやつかと思います。

 温暖化ももちろんあるんだろうけど、温暖化の影響はもっと多方面で見えにくい部分が多い。例えば、フローラ・フォーナ(植物相と動物相)の変化で、森林限界やブナの減少、農作物の品質変化、開花時期の関係で花粉症の増大、昆虫(害虫も)の活動領域の変化です。クラゲの発生による漁業への影響、ミツバチの減少による園芸農家への影響など。他にも、台風の発生時期、進路、回数の変化などなど、二重三重にクッションをあてた間接的で、しかし単に「暑い」などという一過性のものではない多層的で恒久的な構造変化をもたらす。熱中症の増加などもありますが、広く・深く・潜行的な変化が一番怖い気がします。

 で、ヒートアイランドですが、これはれっきとした英語の専門用語であり、日本語できちんと言うなら「都市高温化」です。最近出てきた概念ではなく、実は1850年代のロンドンで指摘されているそうです。1850年代といえば、日本では黒船が来たとか騒いでいる時代です。要は都市部は周辺部に比べて温度が高くなることであり、等温線が都市エリアだけまるで島のように閉ざされているからそういうらしい。

 なぜこんな現象が起きるのか?
 詳しくはWikiなどをお調べいただきたいのですが、ここで簡単に引用すると3つの原因があるそうな。
 @土や緑が少ないこと。土や緑は太陽熱で化学変化をおこし、その際に潜熱といって熱エネルギーを転化させる、、って僕もわかってるわけではないのですが、要するに土や植物は気温上昇を抑える力がある。これが少ない=地表の被覆の人工物化の多い=都市部は気温が高くなる。緑や土の露出を減らせば減らすほどそうなる。A排熱。クーラーの室外機の熱風だけでなく、照明器具やパソコン、携帯なども熱を出します。塵も積もれば〜効果。B高密度化。「天空率」という聞きなれない用語があるのですが、地上から空を見上げた時の空の割合で、「空が広いか狭いか」です。高層ビルが林立すると天空率は下がります。で、どうなるかというと夜間の放射冷却を妨げるから気温が下がらない。それ以上に都会がゴチャッと密集していると、熱が密集しているのと同じであり、これが涼風を妨げる。正しい気象サイクルであるべき夕方からの涼しい海風・浜風などの地方風が都市部の熱におされてカーブしてやってこない。これが都市熱の放散を防ぐから気温が下がらない。

 つまり、ヒートアイランド現象のツボは日中にいかに温度が高くなるかではなく、夜間にいかに温度が下がらないかにあります。現象的には「熱帯夜の増加」です。でも単に夜も暑いというだけではなく、気象の正しい新陳代謝を妨げている「不健康さ」こそがポイントなんだろうなと思うのですね。

 ということで、日本の夏の暑さは、その「不健康さ」と「救いのなさ」に特徴があるのでしょう。癒しが乏しい。日中の最高気温ばっかり報道して、そればっか注目するけど、本当は夜間の減温率(そんな言葉ないけど)をこそ問題にすべきではないかと。

 いや、実際35度が36度になっても大差ないですよ。
 特に、シドニーで今年の1月に42度と46度を体験した(しかもクーラーのない家で)身としては、30度台だったら余裕で、別にどってこともない。あとでも書くけど日差しもしょぼいし。それよりも応えるのは、どろっと淀んだような熱が下がらず、遷延している気味悪さです。シドニーは、40度台でホームラン打つときは打つけど、その翌日は24度とか一気に下る。夏でもだいたい20度台が多いし、夜はかなりキッチリ20度台前半まで下がる。クーラー要らずです。熱帯夜は、たまにある程度。癒しがあるし、サイクルがある。もっともオーストラリアでも、これは温暖化の影響と言われてますが30度台が続くことがあり、3年前だったか、30度台が連続7日で最高記録を大幅に塗り替え(観測史上5日連続が最高だった)、シドニー市民は「うぎゃー」と言ってました。でもたった一週間30度が続いただけで観測史上なんて話になるくらい、高温が「続かない」。ほっと一息入れられる癒しがある。

熱中症と節電

 で、話は熱中症になるのですけど、今年の46度の頃に「体温調節の怪」を書き、体温変化にはシビアにならざるをえなくなったのですが、日本とオーストラリアでは健康管理の方法がぜんぜん違うと感じます。

 オーストラリアの場合(詳しくは同エッセイ参照)は、殺人光線のような直射日光の恐怖をクリアすること、湿度が低いから猛烈な勢いで生じる脱水に備えること、そして癒しの反面温度変化が急激なので調節機能がぶっ壊れることがポイントです。


 上の写真は、今年の1月の42度の翌日の庭の樹木ですが、わずか1日日光を浴びただけで、火をつけたかのように黒くなっています。似たような写真を過去にも掲示してますが、こっちが最新版。「こりゃあ山火事も起きるわ」って納得しちゃうのですが、これだけの日射しを人体に浴びるわけですから「殺人光線」というのも言い過ぎではないと思います。恐るべしオゾンホールの穴です。ファームで働いていた誰かが言ってたけど「日射しではなく、日"刺"し」だと。

 この直射日光を30分でも脳天に浴びたら、結構ヤバいです。僕もこれで一晩中吐きまくったことがあります。自律神経のバランスがグシャッ!と破壊される感じ。

 オーストラリアの日光直撃が、クラッシャー的に右ストレートだとしたら、日本の暑さはボディブローです。だんだん効いてくる。身体の芯に疲労が蓄積される感じです。

 オーストラリアで体温調節の怖さを叩きこまれた身としては、日本の暑さは「これはこれでヤバイな」と思うと同時に対策できてるのか?って懸念も覚えました。素人考えですが、こういうのって結局はバランスだから、バランスをキープするには小刻みに修復することです。一旦バランスが崩れてしまったら、これをもとに戻すにはかなり時間がかかる。表面的には戻ったかのようにみえるけど、芯が疲弊しているからすぐコケる。最低でも数日、下手すりゃ数ヶ月くらいかかると思う。少なくとも数時間休んだくらいではあかんのと違うか。若い人だったら体力あるから復元力も強いだろうけど、年を取ればとるほど、あるいは蓄積疲労の度合いが激しいほど、狂ったバランスが芯から回復するには時間がかかる、と経験的にはそう思う。40歳前後ころから急にこのあたりのバランス機能がおかしくなってくるのですね。「あれ、あれれ?」って感じ。だからこそ、体温が上がってる状態がちょっと続いたら即座に冷やす。早期発見早期治療です。

 オーストラリアの日射病対策でも、帽子をかぶらず炎天下を歩くこと自体がまず自殺行為であるうえ(まあ、オージーの基礎体力は(日本人の僕から見たら)バケモノじみているから、あいつらは結構かぶってないけど)、水分補給(水は2リットル持って歩け的な)、さらにちょっとでも懸念があったら文字通り「頭を冷やせ」で、持ってる水を頭にぶっかけろというのを聞いたことがあります。とにかく脳天守らんと。甲子園のかち割り氷の世界です。僕もよく保冷剤を押し当てたりします。偏頭痛とカップリングしやすいし。

 そこで今回思ったのは、地震以降の節電で各所の冷房がしょぼいことです。5年前は、とにかくどっかに入ればクールダウンしてたんだけど(どこでも冷房があるのが日本のいいところで、どこにでも涼しい木陰があるのが(砂漠以外の)オーストラリアのいいところ)、今回は、「なんだ、この生煮えの癒し感は!」とびっくりした。

 それはそれで色々とややこしい問題もあるんだろうけど、体温バランスの観点のみで言えば、これでは疲労は癒えないと思う。実際、調べてみたら、湿度の関係はあるが28度は熱中症の危険領域という説もある。しかもこれは熱中症に「ならない」温度であり、炎天下を歩いて熱中症のごく初期にある段階を回復するには不十分じゃないか。少なくとも不十分な人もいると思う。

 このあたりはリアルタイムに住んでなかったから実感ないのだけど、政府がクールビズとか旗振って「エアコンは28度」ということにして、おそらくは「28度にしない奴は非国民」的なBullshitな盛り上がりがあったのではないか。昭和天皇崩御後の、神戸と東北二つの震災以後の奇妙な自粛ブームなどを顧みてそう思う。この論点は過去に「行為無価値と結果無価値」で書いたのと重複するけど、客観的にドライに結果を緻密に査定するサイエンティフィックであるべき思考が、「立居振舞の美しさ」に誤変換されていく危うさです。

 このあたりどう受け取られているのかよう分からんままネットで調べてみると、結局ネコも杓子も大企業も28度にして、さて具体的にどれだけの節電効果があったのかについては見つけきれませんでした。どっかにあるのかもしれないけど大々的に検証されて、その結果をもとにどんどん方法を洗練させていくって議論の流れにはなっていないようです。

 「なんで?」って思う。この国はなんでもそうなのかもしれないけど、「○○をやろう」と行動の設定と遵守は割りとよくやるのだけど、やった結果どうだったのか、意味なかったのか、もっと何をどうすれば良いのかという部分が少ない。震災の義援金を送ったけど、結局あのお金は何にどう使われ、何を助けたのかがわからない。住基ネットやら総背番号も、やって具体的に何がどれだけ良くなったのか、もっと良い方法はないかの検証論議は少ない。

 でも、この種の行為というのは、100%合目的的行為であるはずです。趣味や恋愛のように行為そのもの価値があるのではなく、何かの客観的な結果達成を求めての行為であり、結果は果たされたのか果たされなかったのか、常にフィードバック検証されねば意味が無い。これでは受験はしたけど合格発表がないのと同じで意味ないじゃないかと。

 「エアコンの設定温度を上げると本当に節電できるのか」という論考では、民間の一私人が個人的に実験を繰り返し、「設定温度を漸次下げた方が節電効果がある」「室外機を冷やすと節電効果が高まる」という「ほう、そうなのか」的なさまざまな節電パターンを発見しているのですが、国や自治体レベルで、あるいはメディアで、この種のクールで緻密な検証作業はやっているのだろうか。

 また、「28度の根拠は? 節電の夏、我慢のしすぎは禁物」という論考では、僕が感じたのと似たような所見が引用とともに述べられています。孫引きすると以下のとおり。
 
神戸女子大の奥野直教授(運動生理学)は「長時間屋外にいた人はなかなか体温が下がらず、室内でも容易に脱水症状になりやすい」と指摘する。 同じ温度でも、湿度が高いと人の体は汗をかきにくくなり、体に熱がこもるため、熱中症のリスクも跳ね上がる。日本生気象学会は、気温28度でも湿度20〜55%は注意▽55〜75%は警戒▽75%以上は厳重警戒‐と位置づける。「特に高齢者は発汗能力や口の渇きなど、体温調整機能が低下しており、30度を切っていても熱中症になりやすい」と警告する。

 一方、根本的に、節電をしてまで何を守りたいのか?です。小池議員が2005年にクールビズを言い出した頃は、地球温暖化とCO2排出量の文脈でした。それが原発事故あたりを境に節電になった。で、貴重な電気だとしたら、その優先順位をどうするか、何を重要視して何を劣後させるかですが、この根本部分が意外と語られていない。電力ピークアウトを避けるのだけが目的だったら、企業活動が低調になる夜間や休日はガンガン冷やしても良いことになるがそういう論調もあまり見いだせなかった。

 しかし節電とは一つの方法論であり、そのこと自体は無価値でしょ。それが究極目的ではないし、あってはらない。要はその方法論を駆使して何を守るのか、あるいは何を犠牲にするかです。価値判断や行為決定のポイントはまさにそこにある。この問題の本質は「資源配分の優先順位」であり「優先順位を決定する価値観」です。でもって、この文脈で「28度でも作業能率は変わらない」とか「厚生労働省の労働安全衛生法に基づく事務所衛生基準規則」が出てくるのだけど、相変わらずやっぱり価値の重点は「仕事」なわけですか。エコノミックアニマル以来の伝統やね。比較考量のハカリの上に「健康」はどれだけ載っているのだろうか?

 なお、熱中症になりやすいお年寄りを守るのであれば、お年寄りの多い館内については28度でなくても良いとか柔軟にしても良い。「弾力的な運用」ってやつです、お役所的な言葉で言えば、

 さらに、「ここに行けば涼める」という場所を作り、そこで冷房を効かせて長時間快適に過ごせるようにしてお年寄り(でなくても良いが)が行くようにすれば、各家庭の冷房はオフになるのだからトータルでの節電効果は高く、また熱中症対策にもなり、同時に各家庭の電気料も安くなり、一石三鳥だと思うのだけど。

 ぱっと思いつくのは、夏休みになって森閑としている高校や大学などの学校設備を住民に開放し、勝手に将棋でもやって涼んでもらえばいいんじゃないか。また、集まるだけなら芸がないので、子どもたちに昔の戦争体験を話すとか、趣味のサークルの場にするとか。それで人が集まるなら、そこに簡易な屋台などで自分の手芸や作品を売ったりするなどフリマ的な場(二条のショッピングセンターでもやってた)にして、安いショバ代(1日500円でも)を徴収すれば経済がささやかに活性化する。文化祭でやってたかき氷屋(高校の時にやりました!)とか、ヨーヨー売ったりとか。皆が暑さにうだって、各家庭で冷房をつけて電力どか食いするくらいなら、一箇所にまとめて楽しくやったほうが良くはないか。

 あと、ウチの近所はショッピングセンターとかパチンコ屋とかがあって、シルバー人材活用なのか高齢の方が炎天下で長袖の制服をきちんとつけて駐車場の誘導をされているのですが、あれも考えさせられました。この労働条件は過酷なんだけど、もうちょい涼し気な制服にならんもんか。せめて腕まくりとか多少のラフさは許してもいいじゃないか。まあ、警察や軍隊の制服キチン=規律=信頼というイメージはわかるんだけど、でもなあって。日傘さしたらあかんのか。腰に水筒ぶらさげてるわけでなし、また近くに冷たい氷や飲水を満載したクーラーボックスがあるわけでもなし。これで熱中症で倒れたら労災だと思うけど、補償とか整っているのか。

 いずれにせよ「28度」という「数値の一人歩き」はあまり意味のないことだと思うし、工夫の余地は幾らでもあるように思います。

暑いとは何か?

 炎天下の京都や大阪を汗ダラダラ流して歩きながら、「暑いってなんだろう?」という禅問答みたいなことも考えました。

 昨今の日本の暑さの類型は、暑さに不快さがカップリングしていることです。「暑い」と「不快」をほぼ同時に感じる。

 「そんなの当たり前じゃん」って思うかもしれないけど、そうじゃない。
 気持ち良さがカップリングする暑さもある。トロピカルな抜けるような青空とエメラルド色の海の下での暑さは、確かに暑くて不快な部分もあるんだけど、でもだからこそ気持ち良い部分もある。日本だって綺麗な海にいけばそうでしょう。そうでなければ、なんであんな炎天下の中、照り返しもキツイ浜辺で、時間と金をかけて海水浴に行くのさ。

 暑さというのは、いってみれば「温度の知覚」です。体内の温度センサーが温度を測る。それだけだったら無色透明な知覚に過ぎないけど、そこに感情が結合して認識される。感情によって温度を解釈するというか。

 何を言っているかというと、風呂は熱い方が気持ち良い(適温は人によるけど)、でもビールは冷たいほうが気持ちいい、コーヒーは熱いほうがいいし、鍋料理は温まるからこそ良い。単に温度が高ければ(低ければ)、快感(不快)ってなるわけではない。「感情と結合」「感情によって温度を解釈する」というのはそういうことです。

 この感情解釈はいろいろな要素によって無限に変化します。同じ気温30度でも、周辺の要素の組合せによって変わってくる。

 そこで子供の頃のクソ暑かった夏休みなどを思い出すと、今の暑さとはちょっと違うような気がするのですね。遠い昔だから勝手に美化されて覚えているという情報歪曲を含めても、こんな感じの暑さではなかったように思う。暑いんだけど、でも不快感しかないわけではなかった。そこにはどっかしらワクワクした高揚感もあったような。暑いんだけど、ではなく、暑いから「こそ」ワクワクするという。

 考えてみれば、感情がポジティブに高まっているときは、温度的に高いものとして感じられる。「燃えている」「熱中している」という言葉の示すように、純粋に熱い/暑いことは、不快のみならず快感ともつながりやすい。海にいったとき、あるいは草野球をするグランドに出た時、「ぐわ〜っちゃ〜!!」と意味不明な悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げて、嬉々として走り回った。ダラダラ流れる汗は、必ずしも不快ではなかった。

 つまり健康的な暑さはあんまり不快ではない、ということです。

 ここでヒートアイランド現象に話はブーメランするのですが、やっぱ不健康な暑さなのかな?と。しかし、自分で言っておきながら、暑さに健康も不健康もあるかよって自己批判検証意識もあります。あるんだけど、でも、やっぱ直感的にあると思う。同じ暑さ、同じ湿度にしても、錯覚ではない感じ方の違いというのがあると思います。

もう一つのトビラ写真の候補。これも下に五重塔が写ってます。


 これを書いている今日(8月11日)、甲府と高知で40.7度を記録し、僕の京都も38.2度だったのですが、今日の暑さは良かった。健康的だったように思います。なんでかな?やっぱ日曜だし、お盆の休みに入ってきてヒートアイランドが軽減したせいかしら。

 帰国後数日は、ひたすら「気持ち悪、、」って暑さでしかなかったんだけど、今日はジリジリするけど淀んでなくて、子供の頃の夏を思い出した。午後にはしっかり風も吹いたし、帰国以来「なんで空が青くないんだ」と情けない気持ちだったのだけど今日はそこそこ青かった。町の路地が強い陽射しに照らされながらも、シン!と静まり返っているあの「夏独特の静けさ」もあった。この夢の中の風景のような「夏の静寂」の風景が、僕は子供の頃から好きだったのを思い出した。そして、夏というのが本来楽しい季節であることも思い出した。

 感情解釈でいえば、オーストラリア(シドニー)の暑さは、30度台前半くらいまでは、暑くて不快と同時にワクワク感の快感もあると思う。ヒートアイランドが少ないんじゃないかな。シティといっても梅田や新宿の半分サイズでしかないし、それを離れたサバーブは低層階でやたら樹木や公園が多い。特にうちの近所は森の中に町があるようなものだから。しかし、30度台後半から40度台になると、不快の代わりに「恐怖」がくる。「あ、これは死ぬな」って感じ。アウトバックとかいったら、もう死ぬしかないって感じ。実際、エアーズロックなどの方にいけば、水も飲まずに2時間歩いてたらそれだけで脱水で死ぬってくらいだから。それは日本において、台風や地震が不快よりも恐怖と結びついているのと同じです。


 ということで、ヒートアイランド現象という不健康な気象を生む構造そのものが問題だとすれば、話はあるべき都市論になっていくのですが、このくらいにしておきましょう。

 といいつつ、簡単にいえば、これから22世紀にかけて、都市って本当に要るの?論、都市解体論です。人間がうじゃうじゃ集まってて、高いビルがボンボコ建ってるのが「素晴らしいこと」だという価値観は、いったいどこから来たのだろう?また、なんでそんなことやってるのだろう?それはもちろん経済活動の合理性や効率性なんだろうけど、オンラインのインフラがこれからも浸透し、アフリカに部品を発注したりアウトソーシングしていくグローバリゼーションの現在・未来において、皆して、おしくらまんじゅうみたいに一箇所に馬鹿みたいに集まってなきゃいけない必然性というのはあるのか?です。

 今頭をよぎったフラッシュアイディアですが、「集の経済」というのがあるのではないか。もちろんこんな言葉はなく、今この瞬間に僕がつくった造語ですが、集合、集約、集権、、「集ま(め)る」ことで経済効果を増大させる方法論です。都市というのは、集の経済の必然性によって生じたのでしょう。それは近代の産業革命や資本主義の初期における特性、工場などの一箇所に大量の人員を投下するという「昔の方法論」ではないだろか。また日本に典型的に見られる中央集権構造も、中央で全てを決めていく方が効率的だという発展途上国の方法論でしかない。だとしたら、いつまでこんな古臭いことやってるんだ?って気もします。集の経済に対置するものとして、「散の経済」ってのもあるじゃないか?散らばることによって経済効果を上げていく方法論です。ただそこでは、単に経済効率性だけではなく、ワーク・ライフ・バランスのように、「生きることの快適さ」をも織り込んだものになっていくのではないか、とか。ま、こんくらいにしておきましょ。

 以上、「日本は暑かったでしょ」「どうですか日本の暑さは」と色々聞かれるので、「こう思った」ということを所見としてまとめておきます。事実これだけのことを思ったわけだけど、こんなの一言では言えないっす。


文責:田村



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