行為無価値と結果無価値という考え方があります。
学問的な説明はパスしますが、刑法における「犯罪とはなにか」?論です。
犯罪は悪いことなんだけど、「悪さ」=違法性の本質は何か?というと、それは「悪い行為」であるという考え方(行為が無価値だから)と、「悪い結果」なのだという考え方(結果が無価値だから)があります。人殺しの何が「悪い」かといえば、「人を殺すという行為」が悪なのか、それとも「人の死という結果」こそが本質なのか?。
「どっちもじゃい」「どこが違うの?」って思ったりするでしょうが、いや〜、これが面白いんですよ。
この発想の根っこにあるモノサシを使うと、血液型なんかよりも人のタイプが分かる。もう人種が違うってくらい。人だけではなく、その集団の個性、国家の特性なんかも分かったりします。ウチの会社は結果無価値型、日本という国は行為無価値型という具合に。
2つの交通事故があります。
(A)親からスポーツカーを買い与えられたドラ息子がお年寄りをはねて殺してしまった
(B)介護や仕事で疲れ果てた真面目なサラリーマンがふとした心のスキに死亡事故を起こしてしまった
なんとなく@の方が「悪い」感じがします。しかし「人の死」という結果は同じです。この場合、行為無価値では@の方が悪いと判断し、結果無価値の場合は@とAは本質的に同じであると考えます。
もっと極端な例を挙げます。
(A2)遊び半分に他人をなぶり殺しにした
(B2)死の床にある被害者から「お願いだから楽にしてくれ」と涙ながらに訴えられて安楽死させてあげた
この場合も、明らかに前者の方が悪質に見えます。それでも結果無価値だったら、これも同等、等価。
こうしてみると行為無価値の方がはるかに常識というか、人情に合致します。結果無価値なんて、まるで機械のような冷酷な感じがします。にも関わらず僕は結果無価値論者でしたし、今もそうです。
もっとも、どちらの立場も最終的な刑の重さは同じになります。
なぜなら、犯罪というのは違法+責任によって決まります。「どれだけ悪いか(違法性)」+「どれだけ本人を非難できるか(責任)」の二本立てで考えるので、結果無価値の場合は、AもBも違法性レベルで同じだけど、責任レベルで違うので、最終的には結論(刑の重さ)は行為無価値と同じになります。
結論が同じだったら議論する意味ないじゃんって思われるでしょうが、ここではベースになるモノの考え方がポイントです。結果無価値は、「人が死んだ」という結果だけを純粋にとらえ、それまでの「殺し方」というのは全て責任論で考えようという徹底的な分業思考をします。違法性=悪とは、すなわち、どれだけの「実害」が生じたのかであり、それだけクールに客観的に捉えれば良い。傷害だったら血が何リットル流れたかということだけを確定し、それに至るプロセスはあとでまとめて情状として判断すればよいと。
法律と道徳
なぜそんな面倒臭い分業思考をするのか?
なぜ常識的に正しそうな行為無価値に背を向けて、あえて冷たくて非人情な結果無価値がいいのか?
第一に法律と道徳がごちゃ混ぜになる点、第二に行為無価値の発想の底にある「他人の行為に点数をつけようとする」部分、第三に「関係ないことまで入ってくる」部分が、僕は気にくわないからです。
法と道徳の違いですが、これは個人の信念と社会のシステムの違いといってもいいです。
裁判とか社会の仕組みというのは、カラカラに乾いた客観的な枠組みで始めて、道義や人情という人によって感覚差のあるウェットな部分は、調味料のようにあとの調整レベルでやればいい。最初からそんな道徳的、情緒的なモノサシを入れてしまうと話がややこしくなるし、感情に引っ張られて判断を誤るかもしれない。
ある行為や人の生き様が偉大であるとか、ダメダメであるとか、そういう意見や価値観は誰だって持ってます。僕だって人一倍持ってます。でも、それは個人の価値観をベースにするので人によって個人差が大きい。モノサシとしては曖昧すぎる。それに、どんな信念や感情を持つかはその人の自由であり、「お前はこう感じなければいけない」「○○と感じない奴は狂ってる」と他人に強制するのは小さくは「大きなお世話」であり、大きくは「洗脳」やファシズムにつながる。他者に感じ方や考え方を強制してはいけない。されてもいけない。
僕は道徳や倫理を軽視しているのではなく、かなり崇高なものだと思っています。人間の内面価値=魂=と同じくらい重要で崇高であると。だからこそ強制されてはならず、個人の内発的なもので決まるべきでしょう。倫理を強制することが例外的に許されるのが教育、とりわけ家庭内の教育で、それは「しつけ」と呼ばれる大事なものです。だからこそ教育「権」というのでしょう。同じようにプロフェッショナルな職場でプロとしての心構えを叩き込まれたりもします。
あと、強制はダメだけど、タメの立場で意見するのは全く問題ないと思いますよ。腫れ物に触るように、他人の価値観に対する批判はしてはいけない、なんてこたあない。「お前、それは間違ってるよ!」と思いっきりダメ出しをして異論をぶつけてやるのは友達としての最大の義務ですらあると思う。イエスマンの友達なんか友達じゃねーよ。それが魂に属する次元であるから、こちらも魂レベルで対応するなら問題ない。でも、それらは高度にパーソナルな人間関係というベースあってのことです。
道徳/倫理は、魂のありように関わるかなりデリケートなものです。だからこそガサツな手に委ねてはならない。トラクターでドドドと耕すようなシステマティックで荒っぽい扱いは不可だと。法律や社会のメカニズムというのは、まさにその荒っぽくてシステマティックなものの典型で、しかも刑事裁判というのは刑罰という絶対的な権力&暴力をもっている。死刑によって人を殺す権力すら持っている。そーゆーものに倫理や道徳をあまり前面に出して語らせてはならないんじゃないかと。
他人の行為に点数を付ける
第二に、「他人の行為に点数を付ける」という点です。
一方的に田中君の行為は30点とか、山田さんは70点とか点数をつけるのって良くないんじゃないか。もちろんここでも論評は自由ですよ。タメの立場でやるなら全然アリです。でも、権力もってる奴がそれをやったらアカンのではないかと。
先ほどの例(交通事故にせよ安楽死にせよ)、あのくらい分かりやすい例だったら、そうそう異論もないとは思うのですけど、微妙なケースや、人によって結論が真逆になるようなケースだってあるわけです。例えば「ちゃんと正社員で働いている人の方が、ニートよりもエラい」とかさ、人によって意見は分かれると思いますよ。結婚してる人の方がエラいとか、子供を持ってる人の方がエラいとか、離婚した人はダメだとか。
別に犯罪とかと関係ないじゃんって思われるかもしれないけど、これが関係してくるのです。例えば正社員の人がパチンコやってるのと、ニートがやってるのとでは価値観よっては見え方が違うでしょう。前者は「たまには息抜きもね」って好意的に見られたり、後者は「仕事もせんとノラクラしやがって」と思われるかもしれない。でもって、その二人がパチンコ店内で座席をめぐって口論になり、殴り合いになり、傷害罪で裁かれる場合、同じく他人を殴って傷害を負わせたという結果は同じでも、なんとなく後者の方が「悪そう」に見えたりする人もいるでしょう。
親が子供を殴る場合と、子供が親を殴る場合とでどっちがより「悪い」と思いますか?あるいは、教師→生徒、生徒→教師では?このあたりはそれぞれの価値観が反映されるんじゃないかな。妻が浮気をする場合と、夫が浮気をする場合とでどっちが悪いでしょうか?汚職の場合、ワイロを渡した奴と貰う奴とでどっちが悪いか。もちろん似たり寄ったり、ケースバイケースでしょうが、でもコンマ何点というところまで精密に点をつけろと言われたら、人によって微妙に変わってくると思う。
微妙なケースというのは実は僕らの周囲に山ほどあります。タバコ吸うのは悪いこと?どれだけ悪い?バクチは?競馬は?風俗に行くことは?働くことは?落ちてる100円玉をネコババするのは?出張旅費の精算で水増しするのはどれだけ悪い?カンニングは?NHKの受信料を不払いするのは?未成年が酒を飲むのは?キセルは?結婚前に興信所に依頼することは?
でも、曖昧なのはまだマシな方です。社会の大多数がAだと思ってて、自分だけ少数派だったらキツいですよ。数で押し切られて、納得できない価値観を強制されてしまう。
関係ないことまで入ってくる
犯罪行為全体をみて、その犯情によって、総合的に「悪さ」の度合いを決めようという行為無価値は一見もっともな主張なんだけど、常に常にそんなことが出来るの?それは誰が決めるの?難しい試験をパスした一握りのエリートが決めるの?と。いやあ、そこは民主的に決めていこうといっても、単純な多数決で決めていいの?要するにそれって直感的な好き嫌いじゃないの?こいつ気に入らないと思うか、この人可哀想って思うか、つまりは感情じゃないの。そして、それを突き詰めていけば、個人や社会にある先入観、偏見、差別がそのまま混入してくるのではないの?白人が黒人を殺しても正当防衛か執行猶予だけど、黒人が白人を殺したら問答無用で即刑務所、みたいな。
それに日本に限って言えば、もともと単一民族(だと思ってる)社会で、事細かに他人の行為に点数をつけたがる傾向があります。他人の立居振舞、箸の上げ下げを相互監視し、いちいち論評を加えたがる。それがいわゆる「他人の目」「世間の目」のプレッシャーであり、既にかなり鬱陶しい。その上さらに、国が旗振って、「あるべき社会人像」「模範的な国民像」みたいなものを押し出していったら、もっと鬱陶しい社会になりかねない。
ここで、もう一度上のABケースを考えると、ドラ息子ケースの方が悪そうに思えるのだけど、ドラ息子であることや、親からスポーツカーを買ってもらうこと自体は犯罪でもなんでもないです。尊敬すべきことではないだろうけど、少なくとも「違法」ではない。ところが、いっぺん何か事故を起こしたら、本来関係ないような事情まで味噌もクソも一緒に非難されてしまうのはおかしくないか?冷静にやるべき犯罪の認定において、他者への評価(偏見も含む)が入ってきてしまう。
なにか仕事でミスをして、そのミスを怒られるならば分かる。しかし、叱責の最中「これだから○○はダメなんだ」と本来関係ないようなパーソナルな事柄まで、ここを先途とボロカス言われたという経験、ありませんか?そして言われる内容は、「これだから三流大学は」とか、田舎者はとか、端的に「女は」とか、バツイチは、片親は、、、etc。お気づきでしょうが、要するにこれって叱責(正義の非難)にかこつけて、日頃の差別や反感をぶちまけているだけじゃないかと。でもって、マスコミの報道なんかこれに輪をかけてて、何か事件を起こそうものなら、その人の全人生をスキャンして偏見丸出しの「こういう人間」というグロテスクな人物像を作り上げる。
結果無価値が、殆ど非人間的・機械的なまでに行為と結果をブッタ切ろうとするのは、「で、実害はなんなの?」と客観的に絞り込んで、こういった雑念をオミットしようとするものです。話や感情が野放図に広がっていってしまいがちなのを、キュッと締めるところに意味があるのだと思います。この思想の系譜を遡ると、結果違法→行為違法→人的違法(その人の存在そのものが違法)、そして究極の人種違法(ユダヤ人であるというだけで違法など)になったりするのだけど、まあ、こんな学問的な解説はやめましょう。
ちなみに、実務においてはどうかというと、あんまりこんな議論しません。「覚醒剤、初犯、自己使用、使用歴浅し」→まあ、執行猶予かな、みたいな感じでパターン化されてたりします。それに警察をはじめ司法のプロは、朝から晩まで犯罪の実例に接しているので、世間やマスコミのような偏見は逆に少ない面もあります。正確な情報が豊富にあるので偏見が入り込む余地が少ないというか。でも、一方では暴力団員だったら同じことをしても刑が重くなるという、人的違法的な部分もあったりします。一筋縄ではいかないのが実務の世界ですが、これも長くなるのでこのくらいにしておきます。でも、結果無価値・行為無価値論は頭の体操という意味以上に、ストイックに対象を絞りこみ、情緒に流されないように戒めるという効能はあります。そこがメインに議論されることはないけど、その精神は生かされているということですね。
結果無価値的な福祉 火事の発想
話、ポンと変えます。
オーストラリアでの公的扶助は手厚いです。失業給付、障害者手当、奨学金、家庭環境に問題がある未成年者への手当、、いずれも手厚い。単に手厚いだけではなく、審査が簡単です。まあ、簡単といっては誤解を招くかな。僕もそんなに詳しいわけではないのですが、審査のポイントがシンプルだということです。要するに「今、困ってる」ということを言えばいいという。
「困ってる度」についてある程度のフレームワークがあって、それに合致したら即支給という感じ。困った状況に至るまでのプロセスとか、細かな事情とかは基本的にそんなに問わない。要は、今困ってるかどうか、です。
これが結果無価値的だなあって思うのですよ。
公的扶助というのは困ってる人をヘルプするものだから、要は困ってるかどうかが客観的に分かれば良い。それだけだと。そこに至る経緯が非常に可哀想であるとか、思いっきり自業自得であるとか、そういう「行為」的な部分は問わない。日本は問います。親のスネかじってのらくらしてる40歳が、親が死んで遺産がなくなったので生活保護とかいっても、馬鹿野郎、真面目にやれって感じ。いや、僕もそう思うクチですよ。目の前にいたら馬鹿野郎の一つは言うでしょう。だから、日本で生活保護を受けるのは結構大変で、場合によっては相当屈辱的で、それがイヤさに親子が餓死したという事件もあります。それもバブルの真っ最中の頃にあります。
でもね、日本でも火事があったら取りあえず消すでしょう?その火事が、放火とか漏電など本人が頑張っても防げなかった火事は消すけど、自分のタバコの不始末という自業自得的な火事だったら消防車も出動しない、、、なんてこたあないです。大事なのは、そこに火事があるかどうかという客観的なただ一点だけです。本人の責任云々はあとでゆっくり民事賠償とかそこらへんでやればいい。とりあえずは消す。
オーストリアは(というか西欧は)、公的扶助においてこの消防型なんだと思います。とりあえずここに困ってる人がいる。家がない、食い物がない、お金がない、、、火事と同じだと。まず助ける。現状における客観的な結果だけをまずみる。
「困ってる人がいる」というのは火事と同じだと思うのでしょう。なぜか?これはキリスト教的な博愛主義的な部分もあるのかもしれないけど、本質はもっとドライな西欧流の発想があるように思います。社会コストという計算です。ここに困った人が一人いて、それを放置しておいたらどうなるか?失望して自分で勝手に穴掘って自分で埋まって死んでくれたりはしません。お金に困って犯罪を犯すかもしれません。また、困窮家庭が集団になればそれはスラムやゲットーになる。そうなると都市計画一つとっても大きなコスト増になる。また、そこで育った子供が非行に走ったり、さらに被害が増える。将来国を救うだけの優秀な人材がいたとしても、そういう環境で生まれたが故に教育も受けられず埋もれてしまえば国家的損失です。だから火事と一緒なんでしょう。それを放置したときと、救済したときとでトータルの社会コストはどっちがどうか?です。めっちゃドライだと思うのはその点です。
社会のシステム設計というのはそこまで考えないとダメなんだと思います。「働かざる者食うべからず」で自業自得的に困窮してる人は救わなくてもいい、という感覚は多くの日本人に共通しているでしょう。僕も個人的な信条としてはかなりそうです。でも、「もっと真面目にやれ!」と一喝して、タンカ切って、それで溜飲は下がるでしょうけど、その後のことを考えていない。だから一見シビアなようで、実は全然甘いと思うのですよ。個人の情緒的な信条と、精密にコスト計算をなすべき社会システム工学とを混同しているという意味では子供レベルの甘さだと。
もう一つ。行為無価値=他人の行為に点数を付けて判断するという発想のその下には、その点数の付け方が皆同じであるという発想をベースにします。どう考えたってAの方がBよりも悪いと、そんなの常識じゃん、誰だってそう思うよと。つまり、「皆同じ感覚を持っている」という前提がある。「社会の同一性・同質性への確信」とでもいうのか。これがなかったら成り立たない考え方です。点数をつける基準が人によってバラバラだったら、点数をつけるという作業そのものが崩壊しますからね。
でも、これって危険な発想だと思います。だって自分の正義感と他人や社会がシンクロしてるわけで、社会は自分の価値観に従って動くべきだって発想でしょ?なーんて傲慢な!突き詰めれば「俺が法律だ」って言ってるのと同じじゃないですか。そして、その小児的なゴーマンさは、自分と感覚が違う人間を許せないという感情につながります。「えー!そんな風に思う奴がいるんだ、信じらんなーい、ありえなーい」って。で、どうなるかというと、正義の名の下に多数派が少数派を迫害し、イジメが起きる。で、イジメられる側に廻ったら惨めだから、自分の発想はさておき周囲の動静を見極めようとする。「みんなは?」と。かくして人の目ばかり気にして、個性の乏しいチマチマした人間を拡大再生産することなり、結果としてどんどん息苦しい社会になり、斬新なイノベーションを産み育てる気風が乏しくなるから技術力が低下し、国力が落ちる、、、ダメじゃん。
しかし、自分と考えが違う人間が周囲にいるのは、とりあえずすごーく不愉快だったりします。もう人間的に好きになれんし、やることなすこと腹が立つという。でも、そういうバラエティや自由がある方が、一色に染め上げられるよりもまだしもマシだと思うか、いやこの世は全て自分色に染まっていて欲しいと思うか、究極的にはそこの違いだと思うのですね。
というわけで、行為無価値型の人間タイプと結果無価値型の人間タイプがいて、これって血液型以上に人のタイプの差になると思うのです。ここから山ほど話を膨らますことは出来ますが、あっさり風味で終らせておきましょう。で、あなたはどっち?
文責:田村