今週の1枚(06.08.14)
ESSAY 271/日本帰省記2006(2) 水蒸気の国とエアコン
写真は、昼下がりの岐阜市街地。いかにも夏という感じで、提灯が涼しげでした。岐阜といえば、岐阜提灯が名産品ですよね。
先週に引き続き、日本帰省記です。第二回目。
今回の帰省記は書きにくいです。いろいろそれなりに思うことはあるのだけど、すごく抽象的で、説明しにくい。 「ここが違う」とか「あそこがどうだ」とかいう個々的な指摘はしやすいのですが、もっと大きく捉えて「まるで○○のようだ」と概括的で結論めいたことを書いても分かる人にしか分からないだろうし、そもそも分かる人なんかいるのか?って気もするのですね。きわめて主観的な印象だから。例えば、日本に帰ると行き交う人の存在感が希薄で、まるで「陰陽師」に出てくる式神みたいだ、とか書いても分からんですよね?
しかし、まあ、ウダウダ言ってても始まらないで、分かりやすいところから書き起こしてみます。
まずは、分かりやすいということで、気候です。
13年ぶりに体験する日本の夏ということで、それなりに覚悟してましたけど、いやあ蒸し暑かったですね。飛行機が関西空港について、機体から一歩外に出た瞬間に、「なんじゃ、こりゃあ!」って感じで、もう回れ右してオーストラリアに帰りたくなりました。 本気で帰りたかったよ、もう。
後述のように温度はそれほどでもないですが、問題は湿度ですね。今の時期(冬場)のこっちのシャワールームよりも湿度が高い。いや、誇張してないって、ほんとだって。例えば、今朝もシャワーを浴びましたけど、数分程度の軽いシャワーで、激しく汗をかくのでなければ、バスタオルで一回拭いたら水気はきれいに取れます。それだけ乾燥してるってことですけど、そういう環境に慣れた身にとってみたら、空港ビル内ですらショッキングなくらい湿度が高かったです。まあ、段々慣れてはいきましたけど、最初の1−2分のショックは厳しかったです。
滞在中に梅雨が明け、炎天下の日もあったのですが、温度そのものはどってことないと思います。たまたま今日、岐阜で38.6度とかニュースになってますが、日本の過去最高は1933年の山形の40.8度でしょ。今年の元旦のシドニーは44度というとんでもない日がありましたからね。まあ、44度は異常でしたけど、38度台だったら珍しくないです。しかし、それとて最もしのぎやすい沿岸部での記録でして、内陸部の場合、もっと大変なことになります。
ところで、空気が乾燥している状態での40度というのは日本人的には初体験になると思います。ご存知のとおり乾燥状態では、木陰に入ったらすっと涼しくなります。しかし、気温というのはその木陰の百葉箱で観測してるわけで、それですら40度超ということは、直射日光の下に立ったらかなり暴力的なわけです。夏場に庭に温度計おいて測ったことがあるのですが、大地の熱が温度計に伝導して55度までいって振り切れてしまった。だって、庭の草木の葉が真黒に焦げたりするんだよ。「また大袈裟な」と信じない人もいるかもしれないので、右に証拠写真を上げておきます。そりゃ山火事も起きますよ。もう夏場の太陽は殺人光線ですよね。オゾンホールが開いていることの凄味ですね。
オーストラリアの夏場では、猛暑が予想される日は朝のうちから家中のカーテンも窓も締め切ります。夜の内に冷やされた空気を出来るだけ逃がさない。午後の最盛期の太陽光線と輻射熱や熱波が押し寄せてくるから、いかにこれらをガードするか、が冷房の基本です。「heat wave=熱波」というのはこういうものかと実感しますよ。
というわけで、オーストラリアに慣らされた身でいえば、炎天下のなか日本の町を歩いていても、「あれ?こんなもんだったかな?」という気がしました。単純に太陽光線の強さだけでいえば、今リアルタイムに比較してもいい勝負くらいかもしれない。日本の夏の太陽光線の強さくらいは、今の早春のオーストラリアの陽射しは持ってるように思います。ただ、オーストラリアは冬場に大地と空気が冷やされてるから、陽射しも好ましく「ぽかぽか」と感じられますが、日本の多湿状態では暴力的な炎天下に感じられるでしょう。でも、光線の強度そのものでいえばいい勝負かなあって。
ちなみにオーストラリアの8月は日本の2月に相当し、本来なら「春なお遠し」の厳冬期のはずですが、ここシドニーでは既に春になりつつあります。近所の木蓮は満開だし、庭のアヤメが既に咲いてます。夜や朝晩はまだ寒く、ストーブが恋しいですが、晴れた昼間は暑いくらいです。実際、窓を締め切って車に乗ってると、温室状態になってかなり温かい、というかクソ暑い。クーラーきかせます。肌もしっかり日に焼けます。
太陽光線だけが唯一の熱源であるオーストラリアの気候と、湿った温かい空気が暖流で運ばれてきて、高湿度状態で気温があがっていく日本とでは、おなじ夏とかいっても全然違います。「似て非なるもの」というか、「似ても似つかない」って言ってもいいでしょう。前回、「わはは、こりゃ全然違うわ」って改めて思ったと書きましたが、例えばそういうことです。ですので、日本の季節感覚、気候感覚で、オーストラリアの気候や「今冬だから」とか考えてもかなり外します。
日本の湿度には閉口しましたが、それよりもツライのは、夜になってもしのぎ易くならないってことでしょう。シドニーの場合、夕方になると海風が吹いてきて気温がすーっと下がります。44度の日だって宵になれば20度台まで下がります。そして夜に気温が下がって大地が冷やされるから、翌日も午前中はまだしのげます。だから、真剣に暑いのは1日のうち半分以下なんですね。太陽原理で気温が上下するから太陽さえ居なくなれば話は簡単。また、太陽が出ない日は涼しい。実際元旦は44度だったけど、翌2日は25度でした。しかし、日本の場合赤道あたりで温められた高温多湿空気が黒潮(日本海流)や対馬海流という暖流で運ばれてきます。日本が冷夏になるか酷暑になるかは、フィリピンあたりの海水の温度で決まるとか聞いたことがあります。このように太陽原理というよりは、海流原理で夏が暑くなる日本の場合、太陽が沈んでもあんまり関係ないです。夜も暑いし、蒸す。熱帯夜だの不快指数だのという話になります。
だから、この「休みなし」って環境がしんどかったですね。頭ではわかってるけど、身体的にはこっちに慣れてしまってるから、どうしても夜になると涼しくなるのを期待してしまうのですね。だもんだから、夜に新幹線からホームに降りたら、ムワッとした空気に包まれて、「あちゃー、そうだった」って思うという。
ここまでは基本前提で、ここから二つ補足意見があります。
一つはクーラー。日本はどこもクーラーが普及してるから、暑いとか蒸すとかいっても、実際にそれで唸っている時間は少ないです。ずっと野外活動をしている工事現場とか訪問セールスとかを別として、単純にほっつき歩いているだけだったら、駅ビルに入れば涼しく、地下街に入れば涼しく、ショッピングセンターに入ればほっとし、交通機関を利用すればスッとする、家に帰ればやれやれ一安心ということで、意外と楽だったりします。
もう一つはいわゆるヒート・アイランド現象ってやつです。大都市近郊が異常に高温になる現象で、100年前に比べて平均気温で2度くらいあがってるらしいです。なんというのか、暑さが不自然。クーラーが不自然な涼しさだとしたら、外は不自然でケミカルな暑さだったりします。会う人によく、「昔からこんなに蒸し暑かったっけ?」って聞いたのですが、「いや、昔はこんなにひどくなかった」って多くの人は言います。まあ、年食って暑さが身体に応えているだけとか、ノスタルジックに過去を美化しているだけかもしれないけど、「こんなだったっけ?」って感覚は僕だけのものではないようです。あなたはどうでしょうか?
ところで僕が日本を出るまでの30年以上、自分の部屋にクーラーなんかありませんでした。学生時代はいうまでもなく(そういえば大学の研究室にもクーラーは無かった)、弁護士時代も自宅に一応クーラーはあったもののリンビングルームに設置されており、自分の部屋は廊下に面していたためクーラーはありませんでした。これまでクーラー無しで暮らしてきたから別に不自由だとも思わなかったし。だから「部屋にクーラーがある」とか聞くと「なんて贅沢な野郎だ」って思っちゃうんですけど、しかし、今の日本でクーラーが無かったらやってられないですな。それにクーラーの値段も安くなりました。ショッピングセンターをうろうろしてて発見したのですけど、5万円とか7万円とかで普通にあるもんね。その昔はクーラーといったら、あなた、20万円とかしたもんです。大卒の初任給が10万ちょっととかいってる時代に20万円ですから、今でいえば35万円とか40万円くらいの高価な買物。家にクーラーがあるといっても、僕が最後に住んでいた賃貸マンションのように居間に一つとかそんなもんだった。しかし、5万そこらだったら部屋に一つくらいつけられるよね。というか、つけないと死にそうな感じではあります。
こんな感覚的な話だけでは恐縮なので、統計を探してみました。社団法人日本冷凍空調工業会という団体があり、そこで家庭用エアコンの出荷台数の統計が出てました。 これによると、1986年には国内で3,673(千台)出荷されていたものが、2006年には7,400(千台)になっているそうです。20年でざっと二倍以上に増えてますな。また、世界のエアコン需要統計というのがありまして、2005年度に日本では830万台需要があるのに対し、オーストラリアなどのオセアニア諸国ひっくるめて80万台でした。人口比を考えても少ないですな。ただし、オセアニアの場合10年前が30万台だったのに、10年で3倍近くも伸びてます。日本は10年前よりもむしろ需要は下がってます。これはもう世界的にそうみたいで、日本は頭打ちだけど世界が伸びていると。また、ルームエアコン(工業やビル以外の家庭用)をみると、日本以上に家庭用エアコン需要が多い国は中国だけです。2005年段階でも、日本一国のエアコン需要は、アメリカ以上、ヨーロッパ全域合計以上、中国以外のアジア全域合計以上あります。世界の冠たるエアコン大国ニッポンという図式が浮かび上がってきます。これがパッケージエアコン(業務用)になると話はガラッと変ります。アメリカの業務用エアコンの需要は、日本のそれの8−9倍ほどあります。以上をひっくるめて一言でいうと、世界的に見て日本のエアコン的な特徴は、「とにかく自宅にエアコンを入れている国」だということになるでしょう。
何度もエッセイに書いてますが、オーストラリアでは日本ほどエアコンは普及していません。全然ってことはないけど、家にエアコンがある家は珍しい。ここ数年結構売り出されてきて、やっとエアコンに目覚めてきたって感じです。それでも、まあ、少ないよね。うちの近所の家でも、エアコンを付けたけど使ってないって人がわりと居ました。理由は?ときくと、「うるさいから」だそうです。「もうジェット機のようにうるさい、信じられない!」って悪評フンプンでありました。そんなにうるさいとは思わないんだけど、確かにうちの近所は夜になるとポッサムが徘徊する足音が聞こえるくらい静かになるから、彼らにとってはうるさいのでしょう。ただ、エアコンなくてもそんなに不自由しないってのが大きいです。夜はまず涼しくなるし。夜になっても30度を超えている日は、年間通じて非常に珍しいです。ウチも暖房器具(ヒーター)だったら7個も8個もあるけど、冷房器具は扇風機一つあるだけ。それも夏でも使わないときが多い。そうそう、だけどオーストラリアのオフィスビルの空調って、かなり寒いのが多いですよ。もともと寒さに強い連中なので、いざつけたらガンガンきかせます。日本でもエアコンがきつくて冷え性になる女性が多いと聞きますが、オーストラリアの場合もっと厳しいかも。
しかし、日本もこれだけエアコンが普及してしまえば、「夕涼み」なんて言葉は死語ですな。実際、これはエアコンのせいなのか、ヒートアイランド現象のせいなのか、気のせいなのかわからないけど、夕方になってもあんまり涼しくならない。夜になってもムンムンしたまま。これじゃ夕涼みもクソもないです。「一陣の涼風が通り過ぎ」なんて文学的状況になってくれない。「おっかしーなー、こんなに暑かったかなあ?」ってのは、特に夕刻以後の時間によく感じました。どうなんでしょう?
その他、気候に関するトピックといえば、日本のことを「水蒸気の国」と絶妙な表現をした人がいます。大正から昭和を生きた洋画家三岸節子だったそうです。このことを確認するためにネットで探してたら、及川智洋さんの朝日新聞のコラムの記事を見つけました。曰く、
「『 帰りの船が沖縄に近づいたとき、ああまたあの水蒸気の国に帰るのか、と思いました』。55年に帰国した節子は、産経新聞の美術記者福田定一、のちの作家司馬遼太郎と会ってそう述べた。司馬は後年、『このひと(節子)の色彩がみごとに乾いて発色していることを思いあわせ、さまざまなことを連想した』と書いた。 日本の山河が最高の美しさを見せるのは雨上がり、と紀行作家の宮脇俊三が指摘している。日本人の心性に根ざした美の光景は、湿っぽい幽遠さであり、靄(もや)であり、日本の代表的な絵画は今も雪舟の山水図とされる」 。
いやあ、なんて雅(みやび)やかな人たちであることよ。「水蒸気の国」「色彩がみごとに乾いて発色」「日本人の心性に根ざした美の光景は、湿っぽい幽遠さ」などなど、なんと折り目正しく、奥行きの深い日本語表現をするのだろう。「日本が湿度が〜」なんて野暮ったいこと書いてる僕とは雲泥の差ですな。反省。
でも、確かに「水蒸気の国」だと思いましたよ。これだけ水気を含んだ大気であるなら、なるほど炎天下の直射日光も多少は和らげられるでしょう。また、絶えず大地から水分が立ち昇るため、ほんのり靄がかかり、遠景は墨絵や邦画のようにボンヤリします。その美しさは、自分の家の近所でもわかります。写真右は京都市高野〜上賀茂あたりの夕刻の風景ですが、ね?墨絵になってるでしょ?
もっとも、逆に言えば視界が悪く、楽しみにしていた富士山は全然見えませんでした(新幹線からも、箱根芦ノ湖からも見えなかった)。それどころか新幹線の車窓からみる東京タワーが夢幻のように霞んでいるのに驚きました(あれはスモッグかね)。こんなに視界が悪かったかなあ?って不思議な気分だったけど。
さらに濡れたような緑、まさに「滴(したた)るような」という表現どおりの日本の緑の美しさは、素晴らしいです。ヘンな言い方だけど、もし日本人が全員死に絶え、日本列島が無人の野になったとしても、この日本の自然を見に帰省したいですね。そのくらい綺麗です。以前、6月に帰ったときも、目の玉殴られるくらい美しいショックを感じましたけど、今回もそうです。
日本の人たちは見慣れてしまって気付いていないかもしれないけど(僕も住んでるときは無頓着だった)、毎日の通勤電車から見える緑、あれでどれだけ無意識的に癒されていることか。以前、日本に行ったオーストラリア人が、新幹線に乗って東京から大阪まで行く途中、静岡あたりの田園風景をみて「涙が出るくらい美しくて感動した」と言ってたことがあったけど、聞いた当時は「そうかあ?」と思ったけど、今なら分かるわ。
下の写真はいずれもJR京都線の車窓を撮影したものです。茨木から高槻の間あたりだったよな記憶が。一番右は山崎あたりかな。
もう一つオマケに右の写真は、関ケ原あたりで車窓から撮影した伊吹山です。
車窓の緑と、水蒸気の国らしさがよくうかがえます。
しつこく気候関連を続けますが、気候で思いつくのは、「シャンプーで苦労したこと」ですね。もーねー、どのシャンプーを使っても髪がべチャッとしちゃう。サラサラふわっとしない。僕の髪の毛は長くて量が多いので、ベタベタされると鬱陶しいのですね。また髪質が強いのかどうかしりませんが、別に高級シャンプーじゃなくてもいい。というよりも高級な「髪しっとり潤いタイプ」なんか使おうものなら、髪がベチャッて寝てしまってたまらんという。これは日本に居るときからそうで、別に一番安いシャンプーでOK、リンスなんか忘れてもOK、どうかしたら石鹸でもOKってな感じだったわけです。
今回帰省して、自宅のシャンプーが合わなくてベタベタしましたが、「あー、これだから高級品は」と思って、出来るだけチープそうなの買ってきましたけどそれでもダメ。挙句の果てに最後の手段で石鹸で洗ったけど、それでもベタつく。普通だったらパサパサになってどうしようもなくなりそうなんだけど。
なんでやねん?って思って、はたと思いつきました。身体が低湿度体質になってるのでしょうね。これも何度も書いてますし、留学のための渡豪準備の項目にも書いてますが、日本とオーストラリアとでは湿度も水も違うから、日本で合っていた化粧品もシャンプーもコンタクトレンズも合わなくなったりします。だから闇雲に1年分とか持ってこないほうがいいです。人間の身体の細胞は、新陳代謝で3ヶ月で総取替えになるというのはよく聞きますが、常に人間の身体というものはリアルタイムの環境に適合するように、新しいデーターをもとに微妙に設計を変えて細胞を再生するのでしょう。所変れば気候も変りますが、自分自身もまた変るってことです。
つまり、知らない間に僕の髪の毛は低湿度対応の髪質になっていったのでしょう。まあ、素人考えだからアテにならないけど、僕が憶測するに、低湿度に対応できるように髪の毛の保水性が向上していると。だから、日本の高湿度環境だとどんなシャンプーを使ってもベタベタしてしまうのでしょう。以前だったら夏場でもパサパサになった筈の石鹸ゴシゴシ洗髪ですらベタついてしまったもんね。
「ということは」と思って、オーストラリアに戻ったらパサパサするのかな?と注意してたら、やっぱりパサパサしましたね。わずか10日ほど留守にしてただけで、同じシャンプー使って同じように洗髪してもパサつくという。一生懸命、高湿度状態に身体が適応しようとしていたのでしょう。でもって2−3日でパサつきはなくなりました。すごいもんですな。
あ、あと、コンタクトレンズは日本で長く装着しててもノープロブレムでしたね。オーストラリアではよく頭痛の原因になったりするし、出来るだけつけないようにしていたのですが、日本ではそういう配慮は不要でした。
なんだか気候のことだけで終わってしまいそうですが、エアコンと健康の関連についてです。
日本の夏を出歩いておりますと、炎天下を歩いたと思ったらクーラーの効いている建物や交通機関を利用します。つまり暑くなったり涼しくなったりという短期間の気温変動をかなり頻繁に体験します。これが健康に良いのか?というと、ちょっと考えちゃいます。しかし、ずっとうだるような暑さと湿度の中にいる方が健康的なのか?というとこれまた考え込んでしまいます。
ただ、日本のクーラー技術が発達したのでしょうか、それとも省ビズモードで効きを弱くしているせいでしょうか、気温変化が激しいわりには案外と楽でしたね。自然な感じでありました。気温を下げるよりも除湿をしてくれるだけで随分ほっとしますもんね。また、オーストラリアでの荒っぽい気温変化にこっちが慣れているせいもあるのかもしれません。オーストラリア/シドニーでは夏でも雹(ひょう)が降ります。いつぞや38度まであがったあと、大量の雹が降ってきて、わずか30分で23度まで下がったこともありました。大陸型の荒っぽい気候なので、「南極おろし」というか南極発の冷たい空気団が一気になだれ込んでくることもあるのですね。ですので、1日の間の気温の乱上下、昨日と今日との温度差の激しさは、ある意味では日本の冷房の比じゃないです。あんまりひどいと自律神経や体温調節機能がおかしくなりますもんね。汗はダラダラ出るのだけど、身体は冷え切ってクシャミが止まらないとか。
それともう一点。全国の公立小中高校の教室にクーラーを設置しようという話になってるらしいです。ほー、贅沢なもんだねって僕ら「昔の子供」は思ってしまいますけど、ヒートアイランドやら、ビルが乱立して風が通らないだわ、スモッグが激しくて窓が開けられないとか、諸条件が昔と違ってきているのでしょうね。僕だって、今エアコンなしに授業をやるって言われたらイヤですよ。
ただね、話に聞いたのですが、生まれてから2歳か3歳までの間にどれだけ汗をかいたかで、その人の汗腺の数が決まるそうです。そのときに決まった汗腺の数は、あとは一生そのまま変らない。だから、東南アジアなど暑い国の人たちは日本人よりも汗腺の数が多い。つまり発汗→冷却作用が高性能で、日本人ほど暑さを感じないそうです。日本人でも、生まれて2−3歳までタイに住んだら、タイ人並に暑さに強くなるそうです。ということは、生まれてから2−3歳までの間に、自宅にクーラーがあり、託児所にもクーラーがあり、いたるところにクーラーがあるという環境で育った子供は、僕らのような旧式日本人よりも汗腺の数が少なく、暑さに弱くなってしまうのではないか?
汗腺の数は(3歳以上の)子供も大人も同じですから、身体が小さく体表面積の小さい子供の方が汗腺機能は相対的に高く、それゆえ同じ暑さであったとしても、大人よりも子供の方が暑さに強いといいます。もし、昔の子供(つまり僕ら)に比べて、今の子供が暑さを強く訴えていたとするなら、あるいは暑さに弱い筈の大人たちよりも暑さを訴えていたら、@汗腺の数が昔よりも減っている、A甘やかされてるのでストレス耐性が減っている、という二つの原因が考えられると思います。
だからどうだって話ではないのですが、まあ、「夏は暑いのが当たり前」って考え方も、過度に精神論に走るのでなければ、ときとしてヘルシーだったりするのではないかってことです。そんなこと言ってられる暑さではないのかもしれないけど。
ところで、僕らやもっと上の世代だったら、子供の頃にエアコンなんか無かったから、汗腺の数に関しては歴代日本人にそんなに負けないのでしょうね。3歳までにエアコンのある場所にいた可能性というか、そもそもその時代(昭和35年から38年)の間に日本にエアコンがどれだけ存在したのか疑問ですもんね。小学生の頃だって、クーラーのある場所といったら、デパートくらいのものだったような気がします。よく冷房に当って気分悪くなってたし。バスや電車も窓を全開にして走ってましたよね。新幹線だけははめ殺し窓だったからエアコンがあったとは思うけど。小中高校、さらには大学すらエアコンがあったかどうか、、、。新校舎はあったと思うけど、旧校舎はなかったな。窓全開にしてたよな。よく窓から鳩が入ってきてたもんな。下宿なんか当然エアコン無し。
今から思うとよく生きてたなって感じだけど、あの地獄の釜のような京都盆地の暑さであっても、なんだか知らないけどしのげてましたね。実際、夕方から夜半にかけていい風が吹いて涼しかったような記憶もあるんだけど。大文字山の送り火とか地蔵盆とかやってる頃もそんなに悲惨だった記憶はない。そういえば、隅田川の花火大会で、浅草から銀座まで友達と一緒にチンタラ歩いた記憶があるけど、そのときもそんなに暑くなかったような、、、昔の記憶だから美化してるのかなあ?そういえば今回、奇しくも同じ隅田川の花火大会の日に、本郷三丁目から秋葉原まで仲御徒町経由でブラブラ東京の夜の町を歩いておりました。花火大会の頃のことが思い出されて懐かしかったです。
しかしなー、どう考えても昔の方が夏場、とくに夕方以降は涼しかったような気がするんだけどなー。
あ、あ、一つ仮説を思いついた。それは今だってちゃんと涼しくなってる、だけど僕らがそれに気付かないって仮説です。なぜなら「夕方以降涼しくなった」という経時性の変化を認知するためには、、、って、硬い表現だな、つまり時間が過ぎゆくにつれ段々と「あー涼しくなってきたなー」って感じるためには、ずっとその状態で観測してなきゃ分かりませんよね。暑い下宿で「ぐわー、暑いぞ、ちくしょー」と七転八倒しているからこそ、夕方になって涼風が吹いてホッとする。でも、今の日本で、ずーっとエアコンなしで暑いまま過ごしているケースって少ないんじゃないかろうか。家に居たらエアコンつけちゃうし、どこに入ってもエアコンが効いてますよね。だから、そのたびに感覚がズタズタに寸断されてしまう。暑い夏の一日の終わりに、風鈴をチリンと鳴らして宵闇の涼風が吹いたといっても、絶対的な温度それ自体はまだ高いだろうし、あくまで昼間の酷暑に比べたらという相対的なものでしょう。エアコンをガンガンきかせた部屋から外にでたら、やっぱり「ぐわー、外は暑いわ」って思うわね。そのときに、「昼間に比べたら随分とマシだよ」とは、中々冷静に思えない。あくまで直近の冷房体験と比較して、不快感を抱くでしょう。
ということで、日本の夏が以前よりも暑く感じられる理由は→僕らが冷房漬けになってるからという仮説です。
しかし、これだけで全ては説明できないですよね。ヒートアイランド現象とかあるし。
ところでヒート・アイランドは大都市周辺の現象だそうで、だから日本全国単位でいえば、国土の90%以上は関係ないっちゃ関係ないのでしょう。実際、湯河原に一泊したのですが、涼しかったですよ。湯河原の一泊素泊まり4200円という大正時代からある古い温泉旅館に泊まったのですが、これがナイスでした。友人連中と4人で雑魚寝状態で泊まったのですが、8畳と10畳の部屋を丸々もらえたし。でもって、部屋にも懐かしい木目調のクーラー(若い人は知らんだろう)があってつけてたのですが、ふとガラリと窓をあけて外気に当ると外の空気の方が冷たかったという。あのあたりは海岸線まで山が迫っていて、海と山の涼しさが体験できました。もちろん早朝なんかも涼しいです。クーラーではない本物のオーガニックな涼しさで、気持ち良かったです。
あー、そうね、日本に帰って良かったものといえば、1000年前からあるようなものばっかりですね。海とか山とか緑とか。あとは家族とか友達とか。これもその種の良さとか有難味は千年前から変ってないでしょ。逆に「最近流行りの〜」みたいなアイテムや物事には全然ピンとこなかった。"So what?"(それがどうした)って感じ。日本には安くて良いモノが豊富にあるぞ!って思って、ちょびっと勢い込んで買出しツアーのガイジンさん風味で行ったのだけど、安いものはあるけど『良いモノ』かどうかは疑問。というか、ニセモノ多過ぎ。小賢しいマーケティングで売ろうとしているまがい物、、とまで言ったら言い過ぎかもしれないけど、なるほどデフレってこういうことなのねって多少わかったような気がしました。もし今後日本に住むとしたら、かなり金持ちにならんと厳しいなとも思いましたね。本当に良いモノも確かにあります。それも結構あるんだけど、どれも高いです。当り前といえば当たり前なんだけど、なまじ安くてそこそこなものが氾濫しているだけに見つけにくいし、実際以上に高く感じます。
まあ、もちろん安くてよい品もあるし、高くてもダメなモノもあるわけで、そのあたりは日本的な玉石混交状態で、日本というマーケットでちゃんと買物しようとするとかなり大変だろうなーって思いました。オーストラリアとはまた違ったあざとい商業主義が跋扈(ばっこ=魚が籠を越えてハネること→のさばり、はびこること)してるだけに、迷宮に入り込んで、結局自分は何がしたくて何が欲しいのか分からなくなってしまうという恐さがあります。まず自分があって、何らかの意欲があって、そのために何かのモノが欲しくなって、それからそのニーズに合うモノを探しに買物をするというダンドリではなく、まず商品があって、それを見て欲望が喚起されて、買う。それが悪いとは言いませんが、そればっかりになっていくと、最終的には自分という人格すらも商品によって作られていってしまうという。そうなったらマトリックスの世界ですわ。巨大な商業ネットワークに育てられ、自我を眠らされたまま一生を終えていくという。
でも、それは日本だけの話ではないです。今僕が書いてることは、まさに映画「ファイトクラブ」のテーマでもあります。IKEAに乗せられ、「私はカタログを擦り切れるくらい見ながら、どんなダイニング家具が自分という人格を定義するだろうか考えていた」というエドワード・ノートンの独白。「俺達はかないもしない夢を見させられ、欲しくもない商品を買うためにクソのような仕事をさせられてきた」とブラッド・ピットは言い、"We are really, really pissed off!"(俺達はかなり真剣にムカついてるんだ)と吐き捨てるように言う。商業主義に一矢報いるためにプロジェクト・メイヘムを立ち上げ、さらに世界の金融巨大企業を攻撃する。同じことですよね。
また、そのあたりの話は次回に。
文責:田村
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