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今週の1枚(2012/01/02)



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Essay 548 :二つの面倒臭さ〜量的ストレス・質的ストレス

 写真は、今年のNew Yearの花火大会、開始20分前の風景。場所はノース、ハーバーブリッジの北詰です。

 Milsons Point駅から歩くのですが、橋の東側は”表側”ということもあり、早めに場所取りをしないとならないのですが、橋の西側の”裏側”(ルナパークの側)は、それほどのこともなく、時間ギリギリに行っても最前列まで進めます。

 ちなみに写真中央あたりに、青くて白い箱状の物が並んでますが、あれは仮設トイレです。かなりの数、ありました。


面倒臭いの質と量


 新年、おめでとうございます。

 毎年同じようなことを言ってるような気がしますが、このエッセイもお正月くらいお休みにしてもいいのですよね。別に消防署とか救命病棟みたいに人の命がかかっているわけでなし年中無休でやらなくたっていいんですよね。ということで、その旨の断り書きを書こうと思ったのですが、やってる間に段々面倒臭くなってきて、もうテキトーに一本書いちゃえって気分になってしまいました。

 「面倒臭い」というのは、「新年につき今週はお休みです」という表示をHPのどこにいれるかといった類のデザイン上の配慮とか、「正月って結構ヒマだからむしろ読みに来る人がいるかもしれん、ガッカリさせたら悪いな(自意識過剰だって)」とか、そのあたりのことを考えるのが「面倒臭い」のですね。

 単純な量的な手間で考えたら、こうして一本書く方が100倍面倒臭いんだろうけど、それは「量」の問題にすぎない。ふむ、「面倒臭い」というのは一般に量の問題だと考えがちだけど、むしろ質的な面の方が多いのだなとか考えてしまったら、ああ、ネタが出来たじゃん、もうこれを書けばいいやって感じになっちゃいました(^_^)。

 「面倒臭い」というのは僕の人生において、もしかしたら貴方の人生においてもそうかもしれませんが、結構大きな柱になってます。「生きていく指針」といったら大袈裟だし、ちょっと違うんだけど、ことあるごとに「面倒臭い」という感覚が登場し、これと戦ったり、ねじ伏せたり、流されたりして日々生きてて、考えてみればそればっかだよなって気がします。
 しかし、「面倒臭い」というのは昔からよく書いているテーマですよね。過去回を見たら、No292:面倒臭くないNo87:面倒くさいNo33:面倒臭い感覚細胞と、2007年、2003年、2001年に書いてます。いやあ、コンスタントに書いてますね。No87なんか年末年始で休もうかなとか、今回と全く同じ事を書いてますね〜。No292に至っては過去回の検証をやってるところまで同じです。進歩ないですね〜。

 もっとも、同じ「面倒臭い」をテーマに3回書いていても、内容は被っていません。
 No33は、オーストラリア人が意外と面倒臭がらないのは靴や服のサイズと同じく、そう感じる感覚細胞のサイズがデカいからじゃないかという、我ながら面白いことを書いてます。No87は、面倒臭さの本質は何か?で自分のB型気質に重ね合わせて、要するに面白く感じるかどうかであるということを書いてます。No292は又違って、一見面倒臭そうなことを面倒臭がらずにやることが、「丁寧に生きること」なんじゃないかと書いてます。
 一応全部違うこと書いてますね。ちょっとほっとしたりして(^_^)。

 だから今回も被らないように、、って、別にそんなに「面倒臭い」について書きたいことがあるわけではないです。さっきも書いたように、面倒臭さにおいても「やっぱり量より質なのね」ということくらいです。

 量的なストレスは意外と耐えられるけど、質的なストレスは中々手ごわいということです。
 例えば毎日サービス残業を何時間もやらされている日々において、上司に対して「もうちょっと何とかなりませんか」と交渉するケースです。この場合、何十時間も残業をやることが量的ストレスだとすれば、「思い切って上司に文句を言う」のが質的ストレスに相当するでしょう。何もハチマキ締めて「要求貫徹!」と叫んで労働運動をするとかいうようなレベルではなく、軽い感じで「すいませんが、ちょっと、、」と言うだけのことであったとしても、つまり実働時間にしたら2〜3分程度のことであったとしても、そこにはやっぱり壁がある。言いにくい。やりにくい。そんな「面倒なこと」をするくらいだったら、黙って残業してた方がマシだというふうに感じる。

 この種のことは結構あります。
 例えば、英語に四苦八苦している日常で(今もそうだが)、英語で電話して何かをするのは心理的にハードルが高いです。「あれ、明日4時始まりだっけ?5時だったっけ?」と迷ったとき、英語で一本電話して確認すれば済むんだけど、それが「面倒臭い」と感じる。「どうしても」となればやるけど、そうでないなら、とりあえず4時に出かけて、もし5時だったら現場で1時間待てばいいだけだとか思っちゃう。そんな現場で1時間もボケーッとしているしんどさからすれば、たった1−2分の電話の方が遙かに楽なんだけど、でもヤなんだよね。1時間待つという量的ストレスは耐えられるけど、英語で電話するという質的ストレスには耐えにくい。ストレス負けしやすい。

質的ストレスと日本人

 このテーマは、しかし、もっと膨らませて一本独立させたいところです。なぜって今の日本や日本人の問題にリンクするからです。でも、そんなこと言って溜め込んでて結局書かなかったりするので、ここに簡単に書いておきます。

 日本人って、僕が思うに、量的ストレスには強い。じっと辛抱して耐え抜いてしまう。しかし質的ストレスには弱い。思い切って全てを叩き壊して全く新しいものを作るとか、新しい環境にチャレンジするという部分が弱い。

 オーストラリア人はじめ、世界の連中はここが逆で、量的ストレスには弱いけど質的ストレスはあまり感じないかのように思います。日本人の感覚すれば、とにかくチャッチャと環境を変えていく。すぐに仕事も変えるし、住まい変える。海外にも気軽に出ていく。動くこと、変えることについて日本人ほど苦がない。しかし、同じ事をずーっとやらせていると、ミスは多いし、すぐサボるし(^_^)、という。

 特にオーストラリアはまだ若い国であることもあり、これも過去に書いたけど、政治でもシステムでも「前例にないことが大好き!」です。「前例がない」ということは、日本では大きなマイナス要因としてカウントされますが、こっちでは逆に大きなプラスポイントになるような気がする。世界で初めて試験管ベビーやってみたり、世界で初めてプラスチック製の紙幣を導入してみたり。とかく「新しい試み」が好き。英語で"always try new one(常に未知なものにトライせよ)”というけど、ほんとそんな感じです。

 「前例がないこと=かつてやったことが無いこと」は、ダメかもしれないけど、すごく良くなるかもしれない可能性もある。しょせん成功率など「やってみなくちゃ分からない」で五分五分だとしたら、その50%をポジに見るかネガに見るかです。彼らはポジに見るんですよね。もしかしたら今までとは全く違った世界が広がるかもしれないぞ!って、そこでワクワクしちゃう。そのあたりが「感性が若い」と思う所以だけど。そして、この傾向は民間企業や市民ではなく(むしろ庶民が一番保守的だったりする)、政治家や官僚が一番新しいもの好きだったりします。もう、どんどんいっちゃう。国民の方がついていけなくなって、政権交代とかさせてブレーキをかけさせようとする感じ。上にいくほどイケイケなんです。日本とは真逆なくらい。

 一方では日本人だって新しいもの好きだし、絶えず新しいブームなどを追ってはいるけど、それはもっぱら消費活動においてであり、いわば自分の身に危害が及ばない安全地帯での話でしょう。転職とか離婚とか、引越とか、海外移住とかいう質的転換は、もう量的ストレスが限界ギリギリになってから、「思い切って○○する!」という感じで初めて選択されるオプションのようです。放射能に耐えきれないから、就活が厳しいから海外、みたいな感じ。

 現状維持の引力というか慣性力が強く、何かを変えるのがすごい難しいし、もの凄いパワーがいる。だからやりもしないうちからネガティブな結論を出しがちだし、そう種の物言いをする人が多い。ダメでもいいじゃん、ダメだったということが現実に確認できただけでも一歩前進じゃん、このままやりもしないで生煮え状態でウジウジ悩んで、そんで結局何もやらず後になって「ああ、やっぱりやっときゃ良かった」とか又ウジウジやってるくらいなら、さっさと一歩進んでドカ〜ン!と景気よく失敗して、それで道をクリアにしてった方が結局早いじゃん、前に進めるじゃん、とりあえずその方が見える風景変わって楽しいじゃん、てな具合にはあんまり考えないのだろう。

 なまじ日本人に量的ストレス耐性があり、またそのストレス耐性を「頑張る美学」とゴッチャにする文化があるから、例えば先進国とは思えない異常な労働環境が数十年も続いても我慢できてしまう。大学においても、受験勉強と就活にサンドイッチにされて、およそ学問の本質とは全く関係ないあり方になっているんだけど、それでもついつい頑張ってしまう。

 この「つい頑張ってしまう」のは、一見素晴らしいことのようだけど、見方を変えれば、質的ストレス(変化ストレス)からの逃避でもあるのでしょう。逃げてるだけ。英語で電話するのがイヤだから、じっと1時間待つというのが、結局は逃避であるように。「我慢すれば済むこと」というのは楽なんですよね。戦うことや挑むことに比べたらずっと楽です。だから「ゆで蛙」という現象も起きるのでしょう。

 もっといえば「ひきこもり」だって、あんなの他人から強制されたら間違いなく「自宅軟禁(監禁)」であって、それが何年もつづけば拘禁性ノイローゼや発狂しても不思議ではない。自分から進んでやってるから強制ではないけど、それでも閉所環境の不快感はあるでしょう。いくら自分の部屋でヌクヌクとかいっても、何ヶ月も何年も続いたら、たまには外の空気も吸いたいだろうし、爽やかな自然にも触れたいだろう。それなりにキツいストレスがある筈なんだけど、でもその種のストレスには耐えられるのでしょう。外に出て行って何かにチャレンジするという質的ストレスは辛いけど、我慢さえすればいい量的ストレスだったら何とか我慢できる。

 2011年を振り返って、管首相から野田首相に変わりましたけど、結局、なんで管首相がダメだったのか、なんで野田首相がそこそこ支持率があるのか、僕にはついに理解できないままです。方法論はともかく、トップダウンで原発止め!と何事かをなそうとした人がダメで、就任数ヶ月しても未だに何をやりたいのかよく分からず、それどころか顔もよう覚えられないような人が良いということですか?要するに、皆さん、変わりたくないのだろうって思っちゃいます。まあ、深く検証したわけでもないのですが、印象としてはそうです。「ああ、結局変わりたくないのかなあ」って。

 より正確に言えば、変えて欲しくはあっても、自分が変わるのはイヤななのかもしれない。
 自分や自分の生活環境は可能な限り変わらないでいて欲しい。職場も収入も住むところもライフスタイルも、そんなに変わらないでいて欲しい。そして、自分が変わらないで済むように、都合良く、世間や政治を変えていって欲しいんだろうかしらん。しかし世間が変われば、否応なく自分だって変わらざるを得ないんだけどね。

 本当はここから(リクエストもあった)橋下大阪府政について書いたのですが、書いてるうちに長くなったのでバッサリ割愛します。いや、ただ本当に変わりたいと思っているのかな?ということについて、ちょろっと書いただけです。本当に変わりたいと思ってる人間が、お上なんかに期待するだろうか?。てか、本当にエネルギッシュで現実を変える力を持ってる人が、国家なり他人に求めることはたった一つ。レッセ・フェールでしょう。「ほっといてくれ」「勝手にやらせてくれ」「俺の邪魔をしないでくれ」。イケてるときは、他人も国家も邪魔な存在でしかないです。エネルギッシュな高校生時代、学校も教師も親も邪魔な存在でしかなかったように。他人に、そして国家に、何かをしてもらおう、助けて貰おうと期待する時点で、ああ、大阪ってけっこうヤバいのかもと思ってしまったってことです、要旨は。

変化ストレスが強い理由と「横道論」の未整備

 日本の支配層、エリート層が変わりたくないと思うのは分かります。日本のシステムは終身刑や封建主義のような終身雇用感覚が今も生きています。出身学歴や○○年入省組とかが一生ついて回るとか、それはもう単に「キャリア」「スキル」というレベルを超えて、ほとんど宿命的なものですらある。へたに東大なんぞを出ようものなら、良かれ悪しかれ一生東大卒というのがついてまわる。

 農耕社会のように一生環境が変わらないということを前提にしたシステム。そのシステムを攻略する基本戦略は長期的な安定性でしょう。「なが〜いお付き合い」です。村の人間関係のように子供時代の人間関係が死ぬまで続くような。そこでは、長期的戦略に立って恩義の貸し借りという貸借勘定が成立しますし、それが通用するということは賄賂その他の利権構造が成立しやすいということをも意味します。なんせ初期において恩を売っておけば、後々返ってくるのですし、ここで恩返しをしないような「人でなし」は、長期的には衰亡せざるをえない。

 それの良し悪しはともかく、そういうシステムにおいては、とにかく変わって貰ったら困るわけです。表面上の波風は、これはサーフィンのように乗り越えていけるのだけど、基本的な地殻構造が変わって、それまで山だったところが海になったりしたら長期計画もクソもないです。だから、何をなすにあたっても「いかに変わらないで済むか」「失敗して元の子もなくすのではないか」という感性=減点方式で見がちであり、はじめにリスク計算ありきになる。リスクばっかり気になる。だから成功率50%だったら、まず、やらない。原発でもなんでも、新エネルギーに切り替える成功率が50%以下だったらまずやらない。とりあえず方向性は正しいんだからやってみて、多分壁にぶち当たってダメダメになるし、すごく困ったことになるだろうけど、、一回皆でとことん困ってみようぜ、とことん困ったら、またいい知恵も浮かぶかもしれないし、人物が登場するかもしれないよとは、まず、絶対、考えないだろう。

 日本のエリートは「横道に逸れなかった」人が多い。子供の頃からお勉強しろといわれたらお勉強して、入試や就活、出世競争という手頃なハードルを真っ直ぐ乗り越えてきた人。少年院を出てからペルーで皿洗いをしてましたとか、アフガンで傭兵やってましたとか、アカプルコでアジアン・ジゴロをやってましたとか、25歳までに3回会社を倒産させましたとか、そういう変わり種は日本人でも結構いるとは思うのだけど、高級官僚や大企業の幹部になれるかというと、なれない。

 このエリートの中には、当然ながら大手マスコミも入るし、評論家も入るし、ごく普通の就活勝者なんかもそうでしょう。要するに日本社会である程度人がましくやってる人々、表通りを歩いている人達は、大体がそういうパターンが多い。それはそれで一つの生き方ですから、あれこれ批判がましく言う権利も資格も僕にはない。でも、そういう具合に生きてきた人達が「変わる」といっても、やっぱり限界はあるだろうなってことです。そういう意味では、政治家というのは、一人残らずイチかバチかの選挙を乗り越えてきている”勝負師”達だから、意外と僕は評価してます。ダメダメ批判は強いんだけど、じゃあ、あなた、会社辞めて立候補してごらんよ。その動機がどれだけ不純であろうが、中々出来ることではないですよ。

 ということで、質的/変化ストレスが日本では厳しいという背景事情でした。そういうゲームのルールになっていれば、別にエリートでもなんでもない僕らふつーの庶民においても、なんとなくノリが感染してしまうというか、その種の発想に心がなじんでいってしまうのは当然だと思います。また、いわゆる「横道」に逸れる場合の技術論や方法論、哲学なども、本当はあるんだろうけど、一般にはそれほど刊行されているわけではない。ネットにも殆どのってない。本当はあるんだけど、それはもうその世界に入ってから、一子相伝じゃないけど先輩や師匠から現場でブン殴られて教え込まれるものですから。あ、そういえば、このHPなんか全体に「横道論」なんかもしれないです。「横道のそれ方」論。

「なにごともなかった」ように取り繕う恐さ

 言うまでもなく、これまで、そしてこれからもどんどん物事は変わっていきます。20年以上前のバブル期以前の日本からしたら、今の日本は全く違う国、ちょっとした外国くらいに違ってきてます。日本の常識・世界の非常識といいますが、昔の常識・今の非常識です。こっちのケーブルテレビの番組でときどき「ミス・バスター」というのをやってます。"Myth Busters"といって、Discovery Channelでやってます(ココにWEBサイトがある)。ミス(Myth)というのは「神話」です。神話のバスターだから、「神話をぶっ飛ばす奴ら」ということで、「世間ではそう信じられていることが実は大嘘でしたコーナー」ですね。

 それが何か?というと、この20年で日本はミスバスターにボコボコにされているようなものだということです(日本に限らんけど)。雇用神話、土地神話、成長神話、安全神話、、、どんどこ崩壊しています。まあ、長い歴史でみれば、もともとそんな神話自体が嘘っぱちだったと思うのですが。それでもまだ学歴神話や日本の国債安全神話など、多少の神話は残ってますけど、それもまあ、時間の問題かなという気もします。

 で、思うのですが、日本社会の恐さって、表面上「なにごともなかった」かのように取り繕う恐さです。恥の文化の悪い面だと思うのだけど、都合の悪いこと、醜いものは世間様にお見せしない、もう絶対見せない。それは一つの美学であり、いくら足がしびれても、幾ら身体中暑くて汗まみれであろうとも、汗ひとつ見せぬ涼しい顔で、きちんと端座するのが日本の美学だったりします。それが悪い方向に出ると、例えば一族に身障者が出ると、もう一生地下の座敷牢に閉じこめて「なかったこと」にするとか。メンタル障害を負ってる家族が世間にしれたら、「あの家は犬神憑きじゃ、キツネ憑きじゃ」とかいって差別される。だから「絶対に!」知られてはならないと頑張る。頑張る過程でいかに人権が侵害されようが、なんだろうがあらゆる犠牲を払ってでも無かったことにする。人知れず海に流したり、埋めたりということもあったでしょう。そして、心が痛むからお地蔵様を建てたり、道祖神があったり、祠があったり。日本全国津々浦々にあるこれらの”神々”は、日本民族古くからの心の痛みの証のようなものでしょう。だから拝まねばならないのでしょう。かつてあったかもしれない悲しい魂にレスペクトを捧げる。

 その美しくも呪わしい伝統は、今も脈々と流れていて、例えば官僚の世界ではミスを隠す。警察も隠す、大企業も隠す。とにかく「なかったこと」にしようとする。それが発覚してスキャンダルになって大騒動になると、どこからともなく「闇の力」が動いて、豊田商事の会長は刺殺され、オウム真理教のナンバーツーの村井秀夫氏も刺殺され、ホリエモンのライブドアでは元副支社長の野口英昭氏が沖縄のホテルで”自殺”し、捜査は公式に打ちきりになった。有名ではない件でいえば、枚挙に暇がないくらいです。

 この「何でも隠す」文化は、例えば法廷などで証拠開示請求とかで厳しく争われるのですが、もう大変っす。弁護士は公的な調査権がないから、証拠隠されたら終わりです。だから医療過誤などでは民訴法上の証拠保全の手続きを利用して、、抜き打ちで裁判官とカメラマンともども病院に乗り込み、カルテやレセプト、看護記録、レントゲン写真の一件記録を差し押さえにいきます。僕も何度か行ったことあります。大変なんだわ。カルテなんかすぐに改ざんされるから、あとで記録に残るようにコピーだけでは足りず、カメラマンに撮影して貰います。「ここでボールペンの色が違う、筆圧が違う、筆跡が違う」などで証拠改ざんの可能性を論及するためですね。レントゲンやCT写真の”デュープ”(写真の複写)とか、特殊な用語を使ったりして。それでも隠すもんな。口裏合わせるもんな。箝口令は敷かれるし、他の病院の医師さんでも業界の仁義があるから、雑談では「あ、これはミスですよ」「ダメだな、こんなヘタクソじゃ」とか教えてくれるけど、証言してくれと言うと滅多にやってくれない。だからみすみす握りつぶされ、敗訴、敗訴、敗訴、敗訴、、、、ようやくちょっと勝訴、、というのが現場の実情ですわ。銀行だって、「顧客情報ですから」で教えない。警察には教える癖にこっちには教えてくれない。銀行内部のミスになったら、もう雷が落ちても教えてくれない。

ホームレス対策

 ほんでもって、それがここに来て一層悪い方向に向っているなあって思うのが幾つかあります。
 一つはホームレス、一つは著作権保護に名を借りた一連の規制などなど。

 これからもっともっとホームレスの人々が増えるでしょう。しょうがないよね、景気悪いんだし。それに日本は湯浅氏の表現を借りれば「すべり台社会」だから、失業した途端、ストッパーもブレーキも殆どきかずに、スルスルと奈落の底まで落ちるシステムになってる。オーストラリアは、楽ですよ。低所得者の公的負担はかなり軽いですし、お金をかけずにハッピーになる道筋や方法論、環境が比較的整ってるから、ホームレスも少ない。シェルターとか沢山ありますし。

 でも日本では沢山ホームレスの方々がいるでしょう。それはもう変化があれば犠牲者が出るのは当然のことであり、そんなの居て当然です。ホームレスが出ないような社会システムにしてないんだし。だから、ホームレスの人々は「居る」、そして「増える」ということを当然の前提にして物事を考えていくべきでしょう。だってそう変化してるんだから、そう対応すべきでしょう。あったり前の話じゃないか。

 ほんでも日本の社会は「なかったこと」にしようとするんだわ。公園からは追い立て、駅の構内からは追い立て、とにかく目に付かないようにさせる。視界から消えたらあたかも問題解決のように思うのは、幼児がイタズラを隠すような幼稚極まる発想であり、オストリッチ症候群の最たるものですが、それでもやる。「なんで?」というくらいその発想で進む。おかしいと思わないのか?それは仕方のないことなのか?もしそう思うなら、変化に対応できてないよ。変化があれば、なすべきことはたった一つ。その変化を真っ直ぐ見つめ、その変化率やカーブをビシッと捉え、それに対応する最も適切な対応策を講じること、です。しかないでしょう。

 ホームレス対策は、@ホームレスにならないような施策、Aホームレスになったあとの環境整備の二点に分かれるけど、@については、所得がガクンと減った時点でのあらゆる公租公課の減免。人頭税まがいの住民税の減免、年金、健康保険、NHKの受信料の全ての免除。日本の公租公課は、オーストラリアのそれと比べたら信じられないくらい高いです。国策でワープアを創るのが目的なのか?と思われるくらい高い。年収200万以下だったら給料全部手取りで渡してやれと言いたいですな。それだけでも月数万円の可処分所得の違いになると思うが、この数万はデカいよ。僕も貧乏暮ししてたから分かるけど、このレベルで1万円あるかないかは、心の豊かさに直結するのだ。金持ちに1万円渡しても幸福度の創造には大した効果がないけど、収入が低い場合の幸福創造度は高い。お金というのは幸福を作るためにあるのだから、金の使い方としてはそちらの方がいいでしょう。

 @とAの間としては、簡易住宅の大幅な拡充。要するにこっちでいうバッパーとかシェアのような居住形態。平均年収700万とか、平均世帯資産7000万円というオーストラリアでさえ、ルームシェアだったら週8000円とかで泊まれる、しかも結構楽しく快適な住まいが幾らでもあるのだ。なんで日本にないのだ?購買力平価でいえば、週4000円で人間らしく、しかも楽しく暮らせる住環境があれば、ホームレスは減るでしょう。ゴーストタウンになってる団地とか過疎の村とか幾らでもあるんだから、物件は余ってるじゃないか、それを有効に使えばいいじゃないか。そこで「治安が、、」とか二の足を踏むのだろうが、それはそれでまた何とかすればいいじゃないか。先々のこと、300メートル先に問題が見えるから一歩も進まないのではなく、とにかく300メートルまで歩いてみようよって感じに思わないのかな。思えよ、いい加減。もう乙に澄まして誤魔化して何とかやっていける時代じゃないでしょう?

 Aは「快適ホームレス対策」みたいなもので、ホームレスになっても結構快適にやっていけるようなもの。公園から立ち退けなんてとんでもなく、むしろ公園に住めるようにする。その代わり、最初にちゃんと登録して、週に一回ボランティアで公園の清掃業務とかをすれば、無料で指定区域、例えば一畳分くらいの面積を合法に占拠できるようにすればいい。また、「○○町○丁目○番地-1125」のような「住所」を与え、住民表登録も可能にし、郵便物もちゃんと届くようにする。無料ないし1回100円程度で管理棟に入れるようにし、そこではシャワー、洗濯、炊事、電源が自由に使えるようにする。そのあたりはオーストラリアのキャラパー(キャラバンパーク)と同じシステムでもいける。住所もあり、定期的に風呂に入れて、洗濯も出来て、身なりもこざっぱりすれば社会復帰もより容易になる。保証人は相互で、ないし自治体ないし、ボランティアがなる。

 そして、それらの事務運営は基本的にはホームレスの自治に委ねる。彼らの互選で”町長”を選んで貰い、管理委員会を組織し、必要とあれば自警団など警察組織も作る。ホームレスといっても僕らと同じ日本人だし、特にここ数年でそうなった人は、昨日まで第一線でバリバリやってたビジネスマンとか、自営業者とか、優秀な人も多いのだ。彼らに一番大切なのは、虚栄心ではない、本当の意味でのプライドであり、基本的には「信じる」こと。他人から本気で信用された人間だけが本当の意味でのプライドを持つことが出来るし、本当のプライドをもった人間はそうそう変なことはしない。それぞれに一芸に秀でているだろうから、カルチャー講座を開いたり、武道教室をやったりして一般人も参加できるようにすればいい。

 ともあれ、いつかは自分もそうなると思え。自分のことだと思えば身も入るだろうし、「可哀想なホームレスに支援を」という目線の発想も無くなるだろう。それどころか、一生に3か月くらいホームレス生活をすることを、徴兵制の代わりに国民の義務にしても良い。少なくともそれをしなかった人間は国会議員や教師、警察官、高級官僚、大学や病院職員などの公職に就けないようにしたらいい。そこが社会の底辺だというなら、身体で底辺を知った人間でなければ公的なことをやってはイケナイとすればいい。イギリスの王子様だって真冬の氷点下のロンドンでホームレスと一緒に過ごしているのであり、本当の貴族、真のエリートというのはそういうものだ、それが出来ない奴はエリートなんかじゃねえって認識にすればいい。温室育ちのボンボンだけで何とかなるほど世界も時代も甘くはない。ホームレスやったことない人間なんか信用できないね、くらいの感じにしちゃえばいい。

 思うに、「頑張る」ってそういうことじゃないのか、日本復興とかいうのもそういうことじゃないのか。以前にもまして、何事もなかったように、汚い部分、都合の悪い部分を押し隠すのが「復興」なのかよ?「頑張る」ことなのかよ?という。そこに目をふさぎ、なかったことにしようとするから、結局ヤクザとかそのあたりの連中の草刈り場になり、戸籍売買や臓器売買など犯罪の温床にもなるのだ。「腐ったリンゴの方程式」といって、樽に腐ったリンゴがあったら腐敗が伝染するからすぐにそのリンゴは追放すべしという理屈がある。これはこれで正しい(排除したリンゴをその後適正に扱うということを条件にして)。しかし、それは100個のうち1個だけ腐っているような状況においてのみ正しいのであって、もし100個のうち数十個がそうなったらそれは「腐った」という異常事態ではなく、それが正常なのだから、新たに方程式を組み替えないとならない。また樽ごと腐ってきているような状態では、そんなカビの生えた方程式なんぞクソの役にも立たない。もし全部が腐っているなら、それを利用すればいい。アップルビネガーにするとか、林檎酒にするとか、そういう方法を考えればいい。変化に対応するというのはそういうこと、変化ストレスに耐えるというのはそういうことだと思います。

著作権保護や暴力団”えんがちょ”法案

 これに類することは多々あります。昨今、もう意地クソのようになって、ネットでの違法ダウンロードを止めさせようとしている件もそう。無駄無駄無駄無駄!だと思う。IPアドレスがどうのといっても、串カマしたら(プロキシサーバーを変えたら)それで済む。でもそんな技術論はともかく、ネット時代になっているのだから、先陣を切って無人の荒野を突っ走るくらいの気概はないんか。どうしてそんなに「昔のまんま」でいたいのか。昔の方法論を変えようとしなさすぎ。時代が変わるというのは、潮の満ち引きで言えば満潮になって乾いた土地が水浸しになるようなものです。濡れるのがイヤだからといって、防波堤築いたり、水をせっせと掻い出したりしてても限界がある。仮にそれで上手くいったとしても、茫漠たる水面に、なぜかポツンと孤立した穴ぼこが空いているという滑稽な状況になるだけでしょう。潮が満ちて水浸しになれば、水上都市を造ればいいし、また水が満ちることで、船によって容易に水上移動ができることになる。システムの根本原理がガラリと変わる。「変化」というのはそういうことでしょう。

 紅白でも話題になったけど、暴力団の締め付け政策も、多少違うけど、似たような領域にあると思います。
 あれは「えんがちょ法案」と僕は勝手に呼んでるけど、小学校の頃、何の理由もなく可哀想な犠牲者が「エッチ」とか「えんがちょ」とか言われて、そいつに触られた奴もバンパイアみたいに「エッチ」になってしまうという。暴力団を取り締まりたかったら暴力団を直撃すれば良く、暴力団と「つきあった一般人」を取り締まるというのは、スジが違うというか「いじめ」そのものじゃん。戦後のアカ狩り、戦前の隣組や、江戸時代の五人組、さらには村八分や、部落差別の原点になった穢多非人みたいなものだ。めっちゃ陰湿。民主国家を標榜する社会でそんなことするのか?という。「目的のためには手段を問わない」というと非情でカッコいいマキャベリズムな響きがあるけど、これは手段が汚すぎ、カッコ悪すぎ。

 それに暴力団が介在するのは、日本でいえば「横道」社会が多い。いわゆる「正規」ではない、非エリート庶民生活のなかで色々なグラデーションがあるわけだけど、あまりに複雑すぎて正規権力では適正に統治できない領域が常にある。そこを統治するための必要悪として古来発生してきた。芸能社会なんか、昔から河原者と呼ばれ、封建社会の枠外の存在、いわば治外法権社会に生きている連中であり、そこでは伝統的にダークな要素が入り込み、それなりの自治組織があった。それが山口組三代目の神戸芸能社以降、公然たる秘密というか、ほとんど日本の常識みたいに持ちつ持たれつの関係にあった。大相撲もそう。そして何より警察そのものと暴力団とは、ある意味では持ちつ持たれつであり、勿論それで不正なことも多々あったであろうが、それによって犯罪を未然に防いでいるという部分もある。

 暴力団を擁護するわけではないけど、本当に市民に迷惑を掛けるのは暴力団にも入れない奴らで、これが正規のバッジ組の数十倍から数百倍いる。こいつら馬鹿だから鬱陶しいのだ。弁護士やってて、正面から暴力団と対峙することはマレでした。なぜなら彼らはクレバーだから、弁護士と対決しても得にはならないことをよく知ってるし、彼らは大企業や政治家の下請けになったりしてもっと大きく儲ける。面倒なのは、頭の悪いヤカラ(大阪弁でそういう)みたいな連中で、半可通の知識で意味のない短期賃貸借登記をして競売物件に居座ったりして(法的に対抗できない時期にやってるから無意味なんだけど)、あーもー鬱陶しいなって感じでいるのだ。暴力には暴力で、暴力団がみかじめ料を取るのも、この種のうざったい連中が店に迷惑をかけたときに、消防署並の迅速さで駆けつけボコボコにしてくれるというサービスの対価であり、暴力団は何故なくならないかと言えば、我々一般市民というエンドユーザーがいるからです。また、今後どんどん海外のギャング連中が乗り込んだりしたときも、日本の暴力団が防波堤になるという機能もあるでしょう。

 このあたりの実情はリアルタイムで刻々と変わるだろうし、当事者以外詳しいことは分からないだろうけど、要はあっけらかんとしたエリート的なオモテの発想や方法論ではどうにもならない社会があるということです。それは僕ら自身の人格のいい加減さ、曖昧さから発生している、人間の、パステルというかダークというか、よう分らん部分に発している。「愛しているなら結婚すればいいし、愛してなければ離婚すればいい」というのは「理屈」だが、現場では何の役にも立たないのと一緒。人間そんなもんじゃないし、人間の集団である社会も又、そんなもんじゃない。

 それらをひっくるめて思うのは、真正面から事実をありのままに捉えていないことであり、強引に「なかったこと」にしようとする、表面的に綺麗にツルツルしていればそれでいいやという感性です。それは、人間に対する基本的な”畏れ”を欠いている傲慢で恐ろしい発想に思えるし、無理矢理シンプルにしてそれで良いと思える知的レベルの退行であり、さらに「なかったこと」にされた人々の尊厳やその後の人生なんか1ミクロンも考えていそうもない冷酷さです。

 なんかもう、自分が都合の良いように「無理矢理」やろうとするよね。時代が変わっても知らんぷり、都合の悪いことは無かったことにする、自分が理解できるように物事を歪曲しちゃう、その子供じみた無理矢理な感じが僕には気に食わない。幼児退行した老人みたい。「わしゃ認めんぞ」と吠えれば済むと思ってるような。また吠えれば済んでしまうかのような日本の社会が情けないなかったりするのだけど、少なくとも僕は済ませたくないね。ナベツネみたいなオエライ人が何を吠えようが、「馬鹿はてめえだろ?」と言えるようにありたいし、それが横道に入った人間の特権でもあり、義務でもあると。

量質転換

 さて、話は戻って、質的ストレスです。
 なかなか勝てない質的ストレスにどう対応するかです。

 変わらなければいけないと思っているけど中々重い腰があがらない我々に、ここで新年早々グッドニュースがあります。質的転換ストレスはキツイんだけど、それって「やり始める前までは」という時間限定付きだということです。やり始めてしまえば意外となんとかなる。やる前はすっごい面倒臭くて、すっごいイヤなもんなんだけど、実際に始めてしまえば、意外と面倒臭くもないし、イヤでもない。だから質的面倒臭さの本質は、とどのつまりは脳内的な面倒臭さであって、いわば幻影みたいなものです。

 なぜかというと、例えどんな質的な大変化があり、質的な面倒臭さがあっても、始めてしまった後に目の前に出てくる一つ一つの局面は、質ではなくて「量」だからです。そんな大変化が一瞬に起きるわけではなくて、実際には時系列に沿って段階的に生じる。分割執行されるわけで、それら一つ一つは量的な面倒臭さでしかないです。

 例えば、オーストラリアに行こう!というのは凄い面倒臭いように感じるとは思います。僕も日本で働いているときにそう思ったときは、「月に行く」くらいの非現実性で思ったりしました。しかし実際にやってみると、「へ?」というくらい簡単に出来てしまった。別に行くことに関してはそんなに実労働があるわけでもないのですよね。ビザ取って、航空券買って、飛行機乗るだけですから。「こんなに簡単に来てしまっていいんだろうか?」とさえ思いましたもん。

 むしろ大変なのは日本を離れるときのあれこれの事務作業でした。事務所辞めるときの告げ方とか、残務整理であるとか、永住権取って家を引き払うときはそのダンドリ(つまりは引越的大変さ)がメインで、ほんとその種の量的な面倒臭さの方が圧倒的です。でも、海外に行くこと自体は、飛行機に乗るだけのことで、何が大変かといえば、飛行機内がヒマでヒマで、そのヒマを持て余している(なかなか機内で寝れないタチなので)、それが最大の大変さでした。

 つまりどのような質的変化も、実働においては、微分のようにイッコイッコ分解できてしまい、その全てが量的な面倒臭さに還元されちゃうのです。質的な面倒臭さ=変化ストレスの本体は、「行こう!」と決めるまでの心の中の葛藤なり決断です。心の中で低気圧が発生して、強風波浪注意報が出て、海が時化て、、という大変さであって、肉体労働的なそれではない。イチから十まで脳内世界の出来事です。脳内で大変がってるだけで、それが全てだ、と。

 じゃあ来てからはどうか?というと、これは全部量的ストレスです。現地にいるという状況そのものは変化しないわけですから、変化ストレスは少ない。勿論量的な面倒臭さはありますよ。そりゃもう大変ですけど、もう「やるしかない」から、これも意外とそれほど大変でもなかった。「面白かった」と言ってもいいくらい。何というのか、「やるしかない」ことをやるのって、そんなに苦痛でもないのですよ。状況的にどーしよーもなく「やるしかない」のが明確だから、逆に迷いとか悩みとか、その種の脳内の大変さが少ないのです。

 まーね、でも、僕もそんなエラそなことを言えた義理ではないです。なぜなら、現にこうして質的な面倒臭いストレスに負けて、まるまる一本書いちゃってるわけですから。それもいつもよりも多いくらい。ほんと、量的ストレスなんか対処しやすいんですよね。


文責:田村



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