今週の1枚(07.01.08)
ESSAY 292 : 面倒臭くない
写真は、Hunters Hill の歩道。ここは有数のお金持ちエリアなのですが、いかにも佇まいがイギリス風というか、落ち着いています。
「面倒臭い」ということについて、また考えてみたいと思います。
「また」というのは、以前にも「面倒臭い」というタイトルでエッセイを書いてるからです。2003年1月6日の「ESSAY87/面倒臭い」です。ちょうど4年前ですね。しかし、同じ年明けというのが興味深いです。この時期になると同じようなことを考えるのかしら。まあ、前回このテーマになったのも、お正月はエッセイを休みますという告知を出すのが面倒臭くてやらなかったので、その結果正月にもエッセイを書かざるを得なくなったというという経緯があったわけで、やってることは昔と変わりません。成長というものがないですな(^_^)。
当たり前ですけど、4年前の回とは違う視点と内容で書きます。今回は、「最近、あんまり面倒臭くなってきたな」ということであり、「面倒臭いことがイイんだよ」という話です。
「面倒臭い」という感情は、大して面白くもない事をやらなければならないときに生じます。条件は二つ。@面白くないけど&Aやらなければならないってことですね。面白かったら面倒臭いとは思いません。やらなくても良いことだったら最初からやらないでしょうから、面倒臭くもありません。詰まらないけど+やらなきゃいけないってところがミソです。
ところで、ふと気づくと、最近、あんまり面倒臭くなくなってきた、あるいは面倒臭いと思うことが減ってきたなと思うわけです。何でそう思うようになったのかな?と自分で分析してみると、これは二つの理由のがありそうです。一つは、段々頭ごなしにアレをやれとか、コレをしろとか言われる機会が減ってくるからでしょう。これは年を取ってきたメリットの一つですが、別にそんなに他人から指図されることもなくなるわけです(カミさんは別ですけど)。そうなると、「やらねばならない」という事態そのものが減ってくる、だから面倒臭いと感じる機会も減ってくるという理屈です。もう面倒臭かったら、最初からやろうとも思いませんから。
そうはいっても生計を立てねばならないから仕事はしなきゃいけないし、メールが来たら返事しなきゃいけないし、税金の計算や申告、帳簿の管理なんか面倒臭さのカタマリのようなこともしなきゃいけません。生活面においても、やれ朝晩に猫にご飯をやらねばならないし、車の定期点検にも出さねばならないし、年中、家屋のどこかや家財道具が故障/破損するから手当しなきゃならないし、そろそろ庭の芝刈りもしなきゃいけないし、毎日のゴハンの準備もしなければならない。やることは沢山あります。このエッセイだって、毎週書かなきゃならないし。
それでも以前ほど面倒臭いと思う度合いが減ってきたのは、もう一つの原因があると思われます。以前は詰まらなく思えたものでも、最近はそんなに詰まらなく思わなくなったこと、つまり面白いと思う基準が変わってきたという点があるのではないかと思います。
これは、実は昔から考えていたことでもあります。ずっと前、今から10年くらい前、このエッセイでいえば「今週の一枚」の前のシリーズの「シドニー雑記帳」時代に、人生の折り返し地点を通過した感覚、モノの考え方が変わっていくような感覚を書きました。「僕のココロを取り戻すために」という長いシリーズです。あのあたりが転換点だったように思うのですが、それまでは何か目新しいこと、ハデなことをやるのが「面白い」ことだと思っていた傾向がありました。日本にも飽きな、よしオーストラリアだ!みたいな感じ。何か新しい未知のプロジェクトを打ち立てて、ガンガンやっていく、そこでのスリリングな過程や、目に映る新しい風景なんかが面白さの根源、生き甲斐の根源だったりしたわけです。しかし、「そーゆーのって、もういいかも」って段々思えてきたわけです。
目新しいから面白い、展開がハデだから面白いってのは、言うならばマンガ的で子供っぽい面白さなのではないかと。こう言うと語弊があるかもしれないけど、初歩的でレベルの低い面白さなんじゃないかと。オーストラリア滞在も数年をかぞえ、すっかり慣れて生活もまったりしてきていました。それでも、その時点で、なんか退屈だなあ、よしまた別の国に行くかとか、何か新しい仕事にチャレンジだ、という具合には中々燃えなくなってきたわけです。何故なら、それこそ結局同じことの繰り返しだからです。格闘マンガの敵キャラのように、どんどんエスカレートしていくしかない。ドラゴンボールみたいに、神様まで持ち出して、さらにもっと凄いキャラを開発しなければならなくなっていく。無間地獄です。どんどんハードになっていくけど、でも基本的には単調なんですよ。
余談ですが、これって最近のアクション映画や音楽なんかに共通する部分があるように思います。アクションやCGのハデさ、音の重低音ハード&ソリッドさは増すけど、ただそれだけの話だという。全然画期的でもないし、新しい地平や次元を開くものでもない。本当に新しいモノというのは、それが登場することによって、皆の歴史認識すらガラっと変えてしまうようなモノです。ロックの神様のジミヘンがなんで凄いかというと、それまではエレキギターの音というのはクリーンなペンペラサウンドが当たり前だったのですね。ディストーションという音の歪みは、ただの「汚れ」として忌み嫌われていたわけです。ところがジミヘンは、その「汚れた音」をアートにまで高めてしまった。ディストーションの掛かった音のエモーショナルな表現力というものをガーンと世界に突きつけた。世界中がのけぞった。以後、エレキサウンドはディストーションが当たり前になります。キリストが生まれることによって、紀元前/紀元後になったように、ジミヘン前/ジミヘン後というくらい時代が変わった。彼によって「ロックの歴史」というモノの見方が生まれた。「歴史認識すら変えてしまう」というのはそういうことです。本当に新しいモノというのはそういうことです。
だから、単純にエスカレートしたり、単に顔ぶれを変えたりという手法では基本的にダメなんだよな、そーじゃないだろうって思えてきたわけです。もっと根本的に変わらないと次に進めないんじゃないかと。そこであーでもない、こーでもないと考えて、結局これという結論は出てこなかったのですが、そのあたりを契機に、考え方や感じ方がナチュラルに変わっていったと思います。
何がどう変わってきたかというと、例えば、何処に行こうが、何をしようが、面白さなんか大気中の酸素のようにどこにでもあるんだって思えるようになったし、そもそも「面白くなくてもいいじゃん、別に」くらいにまで変わりました。ゲームのハデな展開や起承転結の荒筋だけを追い求めてると、抜け落ちてしまうことも沢山あり、ついつい本当に面白いモノを見逃してしまうってことが分かってきたからです。
この感覚はすごく説明しにくいです。分かる人にしか分からないかもしれないなーと思いつつも、幾つかの比喩を用いてトライしてみます。まず、「本当に面白いものはどこにあるのか?」という点。
例えば街の面白さ。
東京に行ったとします。東京タワーに上って、皇居を見て、新宿のビル群を見て、それで東京の面白さは全てわかったか?というと、全然でしょう?大阪に行ったら、通天閣に上って、お好み焼きを食べれば一丁あがりなのか?京都だったら、金閣寺と清水寺を見たらそれでいいのか?シドニーだったら、オペラハウスを眺めてクルーズをすればそれでいいのか?そんなの大して面白くないでしょう。もっともっとディープで面白いことは沢山あります。
しかし、それは何か?というと、これといった明確なアクティビティがあるわけじゃないです。東京、京都、大阪、シドニー全ての都市に住んだことがありますが、それぞれの面白さを味わうには、結局そこに住むしかないです。住んでみて、その都市という生き物の体内に取り込まれ、その一部になってしまうことです。東京の面白さは、今考えると、あの独特のよそよそしい緊張感でしょうか。大都会のカオスと言ってしまえば陳腐だけど、何でもアリ過ぎてしまって全体把握を拒む都市。だから、何処に行っても自分の場所ではないような疎外感がついて廻る。僕が一番東京らしさを感じるのは、夜遅く、人もまばらな地下鉄の長い連絡通路を歩いてるときだったりします。反面、大阪は大都会なんだけどリラックスさせてくれる町です。東京にはない町全体の一体感があり、行き交う人もリラックスしてどっぷり生きてる感じがします。カルチャー的には色々言われているけど、一言でいえば外国みたいな町です。一番日本っぽくないくせに一番リラックスできる町です。アジアの町。京都は、あそこは千年住まないと仲間に入れてもらえないから、最初からすがすがしくよそ者でいられ、逆にそれが気楽です。町はやたらチマチマしてて道路から何から狭いのだけど、寺社仏閣や緑が多く、山の形が綺麗なところ。シドニー(オーストラリア)は、乾燥した空気と強い日射しでとにかくハッと目が覚めたように何もかもがクリアな町。いろんな民族がいるから、小手先のテクニックで人とつきあえず、人間の原点でやっていくことになるので、逆に言えば一番楽な町です。人間の原点から全力で離れて、全てが情報と流行という技巧で成り立ってるような東京とは対極的ですね。
これらは僕の印象に過ぎませんが、それぞれの都市に独特の匂いと、独特の空気感があります。そこにどっぷり存在することが楽しいんですね。温泉みたいなものです。温泉の楽しみ方って、別にそこにお湯が溜まってるという温泉風呂を目撃することではないでしょう?温泉のお湯につかるところにあるわけでしょう。
だから、特別にアレをしなければならないわけでも、コレをするべきでもなく、単にそこに「存在」して、どっぷり浸っている一瞬一瞬が面白いわけですよ。ランドマークのような、スペシャルアイコン的なイベントだけが面白いわけではない。あんなものは分かりやすいシンボルに過ぎない。実体ではない。その分かりやすいシンボル的なものだけピックアップして、それを眺めて、つないで並べて、その起伏や起承転結だけで一喜一憂してたってしょうがないじゃないかってことです。町とか温泉の比喩で述べてきましたけど、なんだって同じことだと思います。
かなり抽象的で、微妙なことを書いてますな。分かりますかね? Are you with me?
分かりにくいから、もう一つ例を挙げますね。例えば恋愛や結婚。
恋愛や結婚して何が楽しいか?その幸福とは何か?といえば、別に結婚式そのものではないでしょう。あれはあれで儀式的、ピーク的、高潮的な感動はあるでしょう。しかしそれだけではない、というかあれは別種のモノでしょう。あんなの毎日やってるわけにはいきませんからね。じゃあ、セックスが良いのかというとか、それはそれで喜びの一つではあるでしょうけど、別にそれだけでもない。何が楽しいの、どういうときに幸せを感じるの?というと、実はすっごく平凡な瞬間だったりしませんか?日曜の朝に一緒にトーストにバター塗ってるときとか、近くのスーパーまでサンダルつっかけて歩いてるとき、コタツで湯豆腐食べてるときとか、夜にふと目覚めて、隣をみるとちゃんとその人が寝てたりとか。何らスペシャルなことではなく、非常に平々凡々たる日常の一コマ一コマでしょう。
それらは、失ってみたら一番分かると思います。縁起でもないけど、もし恋人や配偶者を亡くしたりした場合、あるいは失恋した場合、どういう時に悲しみが襲ってくるか。はたまた最初から独り身である人の場合、どういうときに切なさを感じるか。それって些細な日常の一コマでしょう?いつも二人でやってた日常的なことを、一人でやってるとき。家に帰っても誰もおらず、家に居ても誰も帰ってこない。ご飯を食べるのも一人、買い物に行くのも一人。僕も経験ありますが、こーゆー悲しみというのは、日常のほんとに何気ない瞬間に襲ってくるのですね。いきなり背後から心臓を刺されるような感じ。ついつい付き合っていた頃の習慣で行動してしまい、「あ、そっか、もう別にこんなことしなくてもいいんだ」と気付いたとき、胸にポッカリ大きな穴が空く。不幸にして子供さんを亡くされた方は、よく子供部屋を片付けずにそのままにしておいたりするといいます。ついうっかり一つ余計にご飯をよそってしまい、それに気付いて泣き崩れるとか。気持ちは分かりますよね。
要するに幸福や生き甲斐というものは、ベッタと「存在」している事によって生じるのであって、何か突拍子もないトンガったイベントによって生じるものではないということです。ただし、日常的にベッタと存在してるものは、あまりにもありふれているので認識しにくいです。結婚式とか、旅行とか、結婚記念日とか、そういったイベントや儀式は、日頃認識しにくい幸福感を改めて認識するためのモノだとも言えます。もし、結婚式だけが突出して幸福であり、それ以外は退屈極まりないしょーもない日々だとするならば、結婚式だけやって、終わったらとっとと離婚すればいいもんね。
まあ、別に珍しいことを書いているわけではなく、「幸福とは失って初めて分かるもの」とかよく言いますもんね。それです。しかし、自分が幸福であることを知るために、いちいち誰かに死んでもらったり、自分が死んだりしてたら大変です。「失ってから初めて分かるもの」という一般原理はもう分かったんだから、いい加減学べよってことです。分かっていながら、何度も何度も同じミスをするんじゃないよ、と。
そうだよな、いい加減学べよなってことで、何も派手派手しい展開をしたり、分かりやすくも新奇なキャラを持ち出してエスカレートさせていかなくたっていいんだよなって思えてきたということですね。本当に大事なものは、その辺の石ころみたいに普通に転がっているのだ、ただそれを認識するかしないかだと。だから、「面白いことなんか、何処にいっても、何をやっても、大気中の酸素のようにある」「いい加減、それに気付けよ」ってことです。
ところで、ここでもう少し踏み込んで考えてみると、幸福であることと、「楽しい」「面白い」って感情とはちょっと違うように思います。
「楽しい」「面白い」という感情というのは、もうちょっと瞬発的なもので、それまでとは違った状況が生じたときに、「おお」と思うような場合が多いです。図で示すとこんな感じですね→○○○○●○○○○。○が続いているときに、ポンと●が出てくると、「おおっ」と面白く感じたりするわけです。つまり何らかの変化が、人を面白がらせ、楽しませるという。
よく子供相手に「いないいないバア」とかしますよね。英語で言うとピッカブーってやつです。あれも、それまで手で隠れていた顔が突然出現するという「変化」が子供を喜ばせるのでしょう。赤ちゃんのガラガラにせよ、子猫がネコジャラシに飛びつくにせよ、なにかの変化、あるいは動いているものは人(生き物)を楽しませます。子供が電車に乗ると窓にかじりついて外を見ますが、変化が激しい方が面白いのでしょう。なにも子供ばかりではありません。大人だって、喫茶店で待ち合わせしてヒマなとき、他のテーブルの人を観察したり、通りをゆく人々を見たりしますが、これも同じでしょう。
これに対して、幸福というのは、楽しい&面白いことだけで構成されているわけではありません。そういう出来事も、たしかに人を幸福にするかもしれないけど、もっとズシッとして、ディープで、持続性があります。本質的なものは、前述のようなベタッとした日常的な存在から発生するのでしょう。
ここでまた、縁起でもないことを書きますが、今あなたが交通事故かなんかでアッサリ死んでしまったとします。当然、「げっ、もっと生きていたい」と思うでしょう。そこに神様がジャーンと登場して、「可哀想だから、これまで生きてきた時間の中からどれでも10分間だけ再現してあげる。最も戻りたい時間、幸福だった時間を言いなさい。そこに戻してあげる」と言われた場合、どういう10分間を選びますか?おそらく選ぶとしたら、そんなに「楽しい」とか「面白い」時間じゃないと思うのですよ。これまで生きていて、「最高!」と思えた瞬間は沢山ありますが、そういうビッグイベントは選ばないと思う。多分、ごく普通の平穏な日常を選ぶのではないでしょうか?
先ほど、「別にもう面白くなくてもいいんじゃないか?」と書いたのは、こういうことです。別にもう「面白さ」や「楽しさ」だけを柱に人生組み立てていかなくてもいいんじゃないかと。本当に大事なことは、そういう事柄だけにあるわけではない。若いときは、退屈=死んだも同然みたいに思ってたけど、そんなこともないんじゃないかと。
以上、つらつら書いてきましたが、これらのことが、「あんまり面倒臭くなくなった」というもう一つの理由でした。最初の方、覚えてますか(^_^)?
多分忘れているだろうから、もう一度整理しますね。最近、あまり面倒くささを感じなくなったり、面倒臭いことがイイんだとか思えるようになったような気がするのだけど、その理由は何か?という話でした。「面倒臭い事」というのは、@大して面白くないけど+Aやらねばならないことでした。それがそんなに苦痛にならなくなったということは、@でいえば、「面白い」という基準が変わってきたこと。つまり、目新しく、派手な展開だけが面白いのではなく、些細な日常的な事にも面白さを感じるようになった。それは、本当に面白いことというのは、ディープな日常の生活場面、そこに存在し、その空気感を味合うところにあるのであって、シドニー行ったらオペラハウスだけが面白いみたいな表面的な面白さから一歩深まったこと。これが一点。
もう一つ、Aについていえば、面白くなかろうが、楽しくなかろうが、クソ詰まらないような日常の一コマ一コマが、実はすごい大事なんだってことを、もうちょっと学べよってことですね。「詰まらないけど、それでいいのだ」って。
と、ここまで書いて、読み直してみると、なんというか、枯れに枯れきった禅寺の坊さんみたいなこと書いてますね。渋いというか渋すぎますね、いかん、これは誤解を招くと思って、あわてて微調整をかませます。
僕は、人から「動いてないと死んでしまうサメみたい」と言われたこともあるくらいで、ももともと「落ち着きのない子」です。今は落ち着きのないおっさんです。多動性症候群のようなものですね。気が短いし、チャッチャ場面転換してないと気が済まない。愛知県の広大な明治村だって、1時間ちょっとで見て回ってしまいました。だから、普通だったら一生の仕事として腰を落ち着けて取り組む弁護士の仕事すらも、「もういいや、はい次!」みたいなノリで止めて来ちゃったクチです。メシ食うのも、歩くのも、本を読むのも、喋るのも早いです。枯れてるとか、渋いとかいうのの対極にあるような人格ですね。もともとそういう人間が書いてるってことをご認識いただきたいと思います。
つまり、多少テンポがゆっくりじっくりしようが、それでもまだ平常人よりはチャカチャカしているかもしれません。時々、20歳くらい年下の人の方が僕よりも落ち着いて見えますもんね。だから、「多少はマトモになった」程度のことかもしれません。
それともう一つ。「面倒臭くなくなった」とかいうのも、あくまで過去の自分との比較の話です。当社比ですね。一般人と比較して言ってるわけではないです。また、ハデで変化の多いもの以外にも大事なものがあるとかいうのも、だからといってハデで変化が多いモノが嫌いになったわけではないです。相変わらず、原色バリバリでドハデなものは好きですよ。ただ、守備範囲が広がったってことです。変化に乏しいモノにも面白みを感じるようになったし、また面白くないと死んじゃうってもんでもなくなった、ということです。誤解なきよう。
で、それが何なの?って言われると、まあ、ただそれだけのことなんですけどね。
でも、ある程度は意図的にそう変えようとしている部分はあります。それまでだったら、「ああ、面倒臭い、かったるい」と思ってたことも、「いやいや、待て待て」と思うように努めています。なんでそう思うのかというと、一つは人間の進歩ってそういうものだと思うからです。大体どんなスキルでも、上手になればなるほど原点回帰というか、基本に立ち帰る傾向があります。例えば、ギターだったら、超絶技巧パッセージを弾きこなすことよりも、弦の押さえ方、ピックの持ち方、弦の弾き方というド基礎をいかに洗練させていくか、です。ポーンと一音弾いただけでも、単に音が鳴ってるのではなく、その一音ですでに音楽として成立しているような音の出し方です。それが出来ているかどうかで上手いか下手かが決まる。英語学習でいえば、誰も知らない珍しい単語を知っていることではなく、誰もが知ってる基礎単語の本当の意味をしっかり押さえているか。単に漠然と意味が分かるのではなく、その単語の本質的な概念をキッチリ理解しているかどうか。例えば、talkとspeakなんて初歩単語ですが、その違いは何か?ということを極めているか。あるいは、ABCの発音とい初歩的な部分をいかに研ぎ澄ませているか、です。
生きるということに関していえば、すごい特殊なスキルがあるとか、波瀾万丈の生き方をしているとかいうことよりも、もっともっと超初歩的な部分、つまり、いかに呼吸をするかとか、いかに寝るか、歩くか、食べるかという基本部分を極めていく方が奥が深いのでしょう。もういい年なんだから、そろそろそういうレベルに行けよって自分でも思うのですね。
功成り名を遂げた人とか、使い切れないくらい資産をためた人とか、頂点まで上り詰めた人って、実は質素な生活をしていたりするでしょ。戦国時代に生まれた茶道なんてのも、もともとは武士などの特権階級のものです。権力も資産も腐るほどあるような人達が、わざわざ二畳くらいの狭苦しい茶室に入って、男二人で向かい合ってお茶を飲む。それだけ。死ぬほど贅沢なことも出来るし、現にやってる人達が、なんでわざわざ質素なことをやろうとするのか?です。それは、余計なものを削って削って削り抜いて、基本的なものを極めていこうってことだと思うのですよ。「人と人が接する」というのはどういうことか?とかね。肩書きも世俗のことも全て消去して、単に「主」と「客」というシンプルなスタイルに徹底していくこと。一連の作法も、いかに無駄なく、しかし美しく動くにはどうすればいいか?それを極める。
あれこれ付加していくのではなく、ギリギリまで削ってシンプルにしていくことで、逆に豊かになっていくということです。減らせば減らすほど豊かになるということ。
「ふむ、どうもそういうことらしいな」と思うわけなんですけど、なんせ僕は人間が出来てないから、「なるほどー」とかいっていきなりそれが分かったり、実践できたりするわけではないです。そこまで達観できんわ。「そんなんどーでもいいじゃん」「あー、面倒くせえ」とか今でも思いますよ。もうバリバリ思います。多動性症候群なんだからさ(^_^)。でも、そこでグッと、「いやいや、待て待て」って思ったりするわけですね。出来ないまでも、せめて思おう。常に思うのは無理だけど、10回に一回くらいはそう思おうって。日常生活の局面で、「あー、面倒だな」と思う反面、「こういうことを面倒臭がってるから、お前はダメなんだよ」って。
もう一つは、時代的にそうなっていくんじゃないかってことです。これは何度も書いてることですが、これ以上の飛躍的な成長、分かりやすくも派手な成長ってものが望めなくなっていく時代においては、いかに減らしていくか、いかに減らすことで豊かになるかって発想や技術が大事になると思います。だって、石油資源もあとどれだけ持つか分からんし、気象もどうなるか分からん。エネルギーをバカ遣いして、ガンガンやりましょという、パーティ的なやり方はもう無理があるでしょう。今の景気だって、中国やインドの経済成長という、旧来型のパーティに引っ張られているだけで、本質的な解決になってない。日本などの先進国は、文字通り「先に進」んでいるんだから、次のステージを探すべきでしょう。つまり、エネルギー使って、ドンチャンやって、景気が良くなって、ハッピーというだけではなく、「景気は悪いんだけど、でもハッピー」「資源は枯渇したんだけど、でもハッピー」という。
本気でエネルギーが窮乏したら、車なんか乗ってられません。一回給油しただけで100万円とか掛かるかもしれない。もう歩くしかないですよ。生活圏内も仕事圏も歩いて行けるところしかなくなる。でも、歩くことによって、近所の風景がよく見えるとか、よく歩くから健康になるとか、地元的なコミュニティが豊かになるとか、冷蔵庫もろくすっぽ機能しないから、否が応でも旬で新鮮なモノを食べないとならないとか、そういうこともあるわけです。悲惨で、超面倒臭そうな時代になったとしても、その面倒臭い部分に豊かな価値があるんじゃないの?くらいに発想を転換していかないとダメなんじゃないかってことです。
まあ、こんなことを四六時中考えているわけではないのですよ。ただ、右か左かという漠然とした方向性でいけば、そっち方向なんだろうなって思うわけで、その方向でボチボチ考えたり、実践したりしてもいいんじゃないかってことです。とりあえずの一歩としては、例えば、あんまり面倒臭がらないようにしようと。
文責:田村
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