今週の1枚(03.01.06)
ESSAY/ 面倒くさい
新年早々妙なことをお聞きします。皆さんは、「面倒くさい」という日本語をいったい何歳くらいのときに覚えましたか?
僕はかなり早い時期に覚えた気がします。「ああ、こういう感情を”面倒くさい”というのか」と。どういうわけか、この言葉を初めて知ったときの記憶があるのですね。周囲の状況は全く覚えてないのですが、「ほお、そう言うのか」と子供心に納得した記憶はあります。なんでそんな記憶が残っているかというと、「おおー、こんな便利な言葉があるのか!」と感動して、強く印象に残ったのかもしれません。
以来、この「面倒くさい」という言葉は、常に僕の横を歩いていました。家族よりも、恋人よりも、長く、親しく行動を共にしてきたといって過言ではありません。面倒臭さを感じなかった日など一日もありませんでした。あなたもそうではないですか?
大体ですね、このエッセイですが、年末年始くらい休みにすればよかったんです。なにも馬鹿正直に12月30日までシコシコ書かんでいいわけです。原稿料が入るわけでもなし。それに、いつも言ってますが、これを書くために土日はブルーになります。今日(日曜)なんかいい天気なんですよね〜。こんな日はどっかのビーチにでも車でひとっ走り行って、ザブンと海に飛び込みたいです。でも、「ああ、エッセイ書かなきゃ」という「宿題の締め切り」が心に重くのしかかっていて、なかなか「よっしゃ」という具合に軽快に物事が進んでいかない。大体そういうときって、非生産的なことで一日が暮れますよね。パソコンに向かいたくない現実逃避の一心で、意味なくテレビつけたり、新聞読んだり、パズルやったり。どうせ仕事しないんだったら、一気に遠出でもすればいいんだけど、そこまでの踏ん切りもつかないという。
だから、「クリスマスと年始のため今週の一枚はお休みします」とトップページを更新しておけばよかったんですよね。その気になったら、3分もあれば出来る仕事です。なんでやらなかったのかというと、仕事熱心だからではなく、その作業が「面倒くさかったから」です。
こういうことってよくありますよね。あなたには無いかもしれないけど、僕にはあります。
目の前の些細なことを面倒くさがってやらないから、後になってその100倍面倒くさい羽目に陥っているという。それはもう「後悔先に立たず」なんてものではなく、後で非常に面倒なことになるのは火を見るよりも明らかで、自分でもよーく理解しているのですが、それでもやらない。ここまで物事がクリアだと、別に「あーあ、やっときゃ良かった」などと後悔もしません。当然起こるべきことが起こってしまっているだけですからね。
桂枝雀さんの落語で不精者に関する話を聞いたことがあります。不精者の親子が、灯明の始末を面倒くさがってやらないうちに、家に火がつきます。さっさと消せばいいのにそれも面倒くさがって「ほっとけほっとけ」とか言ってるうちに焼け死んでしまったという小話。こういう小話もありますな。不精者ばかりが集まって飲んでいて、「どや、せっかくこれだけ不精者が集まってるんだから、不精者の会でも作ろうか」と誰かが発案すると、「邪魔くさいから、やめとけ」と皆に一蹴されるという。
他にも「断るのが面倒くさいから」といって、メチャクチャ面倒くさいことを引き受けてしまう話もあります。これって、わかるなあ。僕と一緒だなあ。
大体「面倒くさい」という感情は、思いっきり大変な作業の場合、つまりすっごく面倒臭そうな場合には逆に湧いてきません。例えば、受験であるとか、オーストラリアの永住権を取るとか、社運を傾けたビッグプロジェクトとか、ヨットで太平洋横断とか、難事業・大事業であればあるほど不思議と面倒くさくないです。
面倒くさいのは、その気になったらすぐに出来ちゃうような些細な事柄です。階段下りて、玄関の鍵がかかってるかどうか見てくるとか。夜中目が醒めて尿意を催しているのだけど、トイレまで行くのが面倒くさいから我慢するとか。ベッドの中で掛け布団と毛布のタテヨコがメチャクチャになって、どうもしっくりいかない、足がはみだしてしまう。一旦「よっこらしょ」と立ち上がって全部やり直せば30秒もかからず出来るのに、それが面倒くさいもんだから、寝ながら掛け布団を持ち上げ空間を作り、その隙に毛布を足で旋回させて整えるなんて難しいことを延々やってるとか。あなたもやったことないですか?
この「面倒くさい」の心理構造はどうなっているのでしょうか。ちょっと興味があります。こういうことを考えるのは、そんなに面倒くさくないから不思議ですな。
そこで面倒くさがらずに辞書をひいてみましょう。インターネット国語辞典、大辞林で「面倒くさい」をひいてみますと、「手数がかかってわずらわしいさま」と載っています。ふむ。分かったような分からんような。なんか面倒くさいという言葉をわずらわしいという言葉に置き換えただけのような気がして、本質的な説明になってないような気もします。そこで、「わずらわしい」というのはどういう心理状態なのか、今度は「わずらしい」でひいてみましょう。すると、「心を悩ますことが多くて、気が重い。うんざりする/複雑でめんどうくさい。煩雑である」となってます。なんか循環してますな。「うんざり」というのが新たなヒントなような気がするので、今度は「うんざり」でひいてみます。すると「すっかり飽きていやになるさま」という説明があります。ということで今度は「飽きる」というのはどういうことかとひいてみますと、「同じ物事が何度も続いて、いやになる。いやになって、続ける気がなくなる」となってます。
うーん、要するに、手数がかかって煩雑であったり、反復して飽きたりして、「いやになる」ということですね。でも、なんで煩雑であったり、反復したりすると、「いやになる」のでしょうか?ここなんですよね、本質的なポイントは。だって、プラモデルなんか手数が掛かる方が高級だし、ゲームやパズルなんかメチャクチャ煩雑でしょうに、それでも嬉々として人々はやりますもんね。反復すればイヤになるかというと、呼吸なんか生まれてから片時も休まずやってますけど飽きませんよ。だから、煩雑であったり、反復したりすることが直ちに不愉快な感情を呼び起こすのではなく、煩雑/反復のなかの「何か」が人を不愉快にさせるのでしょう。じゃあ、それってなんなのでしょう?
それを考える糸口として、自分が何を面倒くさいと思い、何を思わないか、その基準はどこにあるのか?を考えていきますと、結局「興味の対象にハマるかどうか」がポイントのような気がします。もっといえば、面白いか/面白くないか、ではないか。煩雑だと不愉快になるのは、手間ヒマばっかりかかるけどちっとも面白くならないのがイヤなのでしょうし、反復するとイヤになるのはパターンが見えて意外性がなくなり面白くなくなるのがイヤなのでしょう。
中間的な結論を言えば、面倒くさいとは、興味も持てず面白さを感じられない事柄を、やらなければいけないときに感じる不快な感情なのでしょう。
さて、もう少し深く考えてみましょう。
自分自身を省みるに、どうも人並み以上の面倒臭がり屋さんのように思われます。「あー、メンドくせ。うっとーしー。ジャマくさ」と年中言ってるような気もします。そしてどうして自分が面倒臭がり屋なのかは、典型的といわれる僕のB型気質とリンクしているように思えます。
血液型が本当に人の性格を正しく言い当てているのかどうかは分かりません。そこには議論の余地もあるでしょうし、例外も山ほどあるでしょう。ここではそれを論じません。血液型判断が正しいかどうかは別として、いわゆる「B型的性格」といわれている性格類型と、僕自身の性格特性は、とても似通っている部分が多いです。それは自他共に認めるところです。
僕なりにB型性格の特性を要約しますと、「生きていく原動力が自分の内部にしかない性格」だと思います。自分の好みだけで何でも決めていこうという性格。これに対して、A型さんやO型さんは自分の外にも原動力があります。「世間ではこういうことになっている」とか「常識だから」とか「それがシキタリだから」ということで、自分の好みや興味以外に、行動するためのエネルギーと指針ソフトウエアがあります。つまりは世間や人目を重んじます。言い方を変えれば、自分の中に世間という外部規範を取り込んでしまっているのでしょう。
でもB型君は、そーゆーことはあまり考えない。世間とか人目とかあまり気にしない。もちろん全く気にしないってことはないですけど、気にする度合いは少ない。行動力の源泉と方向性は、自分が面白いと思うかどうか、です。自分の興味が、たまたま世間の動向と一致してて、自分の行動が受け入れられたり、周囲と美しいハーモニーをもたらすという幸福な瞬間もありますが、全然一致しないことも珍しくありません。そして、一致しないからといって別に焦ったりはしないです。「なんだかやりにくいなあ」とは思うけど、だからといって自分の行動や好みまで変えようとは思わない。
B型君は、なんでもかんでも必ず一度は自分のフィルターを通します。あまり「お手本」というものがないB型君ですが、それでも誰かの真似をしたり、流行を追いかけたりもします。でも、その場合は、その誰かなり、流行なりが、自分で「いいな」と思ってるからやってるわけで、流行ってるからやってるわけではない。「流行ってるからいいな」と思ってやる場合もあるだろうけど、「流行ってるからいいな」と思うのもあくまで自分です。「ちょっと流行を追ってみるのも面白そうだな」と思ってやってるだけで、「流行から外れると周囲とズレが生じるからイヤだ」と思ってやってるわけではないから、飽きたらいきなり辞めたりします。
とにかく自分のフィルターをカマせてみないと気が済まないから、何事に対しても一家言あります。「全然興味なし」という意見も含めて。そのフィルターのカマせかたは、各B型君なりに「俺のやり方」というのがあり、B型だからといって同じであるわけではない。現場主義、情報主義、帰納型、演繹型それぞれです。ただ、かならず「俺フィルター」はカマす。そして、フィルターをカマす前に、「ああせえ、こうせえ」と他人から指図されると、生理的に反発したりします。
こう書くと、A型、O型さんは、いかにも世間の目ばっかり気にしてる小心翼々たる詰まらない人間であるかのように受け取られるかもしれませんが、それは違います。おそらくAOさんは、周囲とのハーモニーに自らの喜びを感じることが出来、そこに自己実現を感じることが出来る体質なのだと思います。これはB型君だって原理的には同じです。そりゃ皆で楽しく飲んでるときに、誰かひとりだけムッツリ不機嫌だったら気分悪いですよね。やっぱり全員でニコニコしているのはいいです。ハーモニーを奏でる快感と幸福はB型君だって持ってると思います。ただ、AOさんの方がその度合が高く、生理的な快感度が高いのでしょう。B君はそれほど高くはない。逆にAOさんだって、世間と関係なくわが道を行くB型君的な爽快感は等しく感じると思います。ただそのときの快感度は、B型君の方が高いのでしょう。
さて、そのようなB型君の場合、自分が面白いと思ったことには骨惜しみせずにガンガンやりますが、興味を持てない事にはあまり熱心ではありません。誰でもそうだと思うのですが、B型君は特に落差が極端だと思います。詰まらない、意味が感じられない、面白くないと思えば、たとえ世間では当然のこととなっていることでもやろうとしない。
この「面白くないからやりたくない」という心理性向が、「面倒くさい」という感情にコネクトしているのだと思います。面倒くさい事柄というのは、前述のように大体において面白くありません。レシート並べて帳簿つけたり、買い忘れた品物があるのに気付いて、また雨のなか傘を差してスーパーまで出かけていくのは面倒くさいです。こういった事柄は、手間が掛かったりする割には、なんら意外性もないですし、ワクワクするエキサイティングなことではないです。また、音楽や宗教的儀式がそうであるように、反復がリズムを生み、ウェーブを生み、トランス的な快感状態をもたらすというものでもない。快感を伴わない煩雑さと反復。逆に、面白かったら面倒くさくならない。夜目覚めてトイレに行くのはすごく面倒くさいかもしれないけど、どっかで消防車のサイレンの音が聞こえたりすると「火事だ」とガバッと跳ね起きたりします。
一方、面倒くさい事柄というのは、やらなければいけない事柄ではあるのだけど、絶対必要という差し迫ったことでもない。それなりに大変ではあるけど、なにがなんでも今やらなくてもいいこと、それほど重要でもないことだったりします。「これをやらないと間違いなく死ぬ」とかいう事態では人は面倒くさいとは思いません。先ほどの面倒くさがってるうちに焼け死んでしまう落語が面白いのも、そういうことには普通ありえないから、「そんなアホな」と笑いが生じるわけですね。
そしてまた、B型君は、「自分が面白いと思うかどうかが全て」みたいな生き方をしてます。「世間では普通こうやるもの」という強制力もモチベーションも希薄です。「正月には年賀状のやりとりをするもの」という社会慣習の強制力に敏感であり、世間と足並みを合わせて全体にきれいなハーモニーを描くことに快感を感じやすいA・Oさんは、面倒くさくても年賀状を書きます。でもB型君は、興味が湧かなかったらあまりやる気が起きません。「あー、もー、詰まらなーい」と情けない気分になります。だから、すごーく面倒くさく感じるのでしょう。面倒くささが嵩じて、「別に俺一人くらい出さなくたって誰も気付かないのでは?」なんてことを考えたりします。書かなくてもいい理論武装を必死になって考えたりします。虚礼廃止とかやぶから棒に言い出したりします。そんな不毛なこと考えてるくらいならチャッチャと書いてしまえばいいのに、面倒くさがってグズグズしてる。で、結局出さなかったりして、世間に不義理をするのは、統計があるのかどうか知りませんが、なんかB型君が多そうな気がします。
そうかと思うと、「年賀状こそが自己表現の場だ!」と、自分の興味のスコープにハマったりした場合は、つまり「俺フィルター」にハマった場合は、B型君は頑張ります。そりゃもうえらい勢いで張り切っちゃいます。で、人と違ってないと気が済まないタイプが多いB型君の場合、普通にしてたって十分浮いてて他人と違うのだけど、さらに「こんなんじゃありきたりだ」「平凡で詰まらん」と、年賀状本来の社会的機能(とりあえず覚えてまっせという儀礼的確認)を越えて、独自の意義を付け加え、一人で盛り上がってたりします。でもって凝ったおした年賀状が届くという。要するに、見逃し三振か、場外ファールかという感じですね。どっちに転んでも、社会性の乏しさを露呈してしまう、哀しいB型君だったりするわけです。
血液型はさておき、面倒くささの心理構造がなんとなく分かったような気がしますね。ということで、次は応用実践編です。ほんと、こういうこと考えるのは全然面倒くさくないんですよね。
何かの物事に「面倒くさいなー」と感じた場合、その物事にあまり面白さを感じていないのでしょう。確かに実際面白くなくて当然という事柄も沢山あるでしょう。意味の乏しい反復もあるでしょう。うっかり砂糖の壺をぶちまけてしまって、掃除機もってきたりして後始末をしたり、風で飛び散った書類を拾い集めて並べ直したり、手数は掛かるけど意味は乏しいという事柄は沢山あります。
しかし、本来面白い筈のことがいつしか面白くなくなっていくこともあります。
例えば仕事。以前このことは書いたと思いますが、仕事というのは、ある程度やっていれば、その9割方が反復作業になります。同じ仕事を3年以上やって、それで見るもの聞くもの全てが新鮮なんてことは普通無いです。また、そんな具合だったらいつまでたっても新人同然ですから、疲れてしようがないでしょう。だから、大体の仕事というのは、細かく見ていけば概ね反復継続です。だから、次第に新鮮味も薄れてくるし、飽きてもくるでしょう。そして、プロの最大の敵である「面倒くささ」が登場してきます。
ある程度の経験を積んだ仕事人だったら、きちんと準備をして、手順を守ってやっていれば、そうそう失敗はしません。しかし、何千回と繰り返される日常は、ともすれば飽きますし、面倒くさくもなります。しかし、そこで手を抜いてるととんでもない大失敗を招く。仕事とは「面倒くささとの戦い」なのでしょう。これは仕事に限らず、たとえば車の運転なんかでも同じでしょう。徐行して、安全を確認して、、、という作業を、何万回となく繰り返していると、まさに何万回に一回の割合で、面倒くささに負けてついおろそかになってしまう瞬間があり、それに不幸な偶然が積み重なると一生後悔してもしきれないような事故を招く。
だから面倒くささに負けてはいけない、これはもう絶対負けられない局面もあると思います。それはそれで誰しもわかっていることだとは思います。ただ、それでもやっぱり面倒くさいときは面倒くさいです。問題はココですね。どーしよーもなく面倒くさいとき、どうやって戦えばいいか。
思うにその仕事をやってるということは、程度の差こそあれ何がしかの魅力を感じていたのでしょうし、新人の頃はドキドキワクワクしていたでしょうし、それなりに充実もしていたでしょう。つまりは、今は面倒くさいことでも、昔は面白かった時もあった筈です。それがいつしか面白さを感じなくなってきたとしたら、これはやっぱり問題だと思うのです。
料理人がキチンとした一品を調理して食べた人の顔をほころばせること、医者が病に苦しむ人にその苦痛を和らげること、こういった本質的な充実感は、何年経過しようが色褪せないはずです。医師であるあなたが今目の前にしている患者さんは、あなたが医師免許をとってから通算7万7653人目の患者であろうとも、現在目の前にいるこの人のこの症状は、まったく初めてのピカピカに新鮮な初めての患者さんの筈です。それまで何人治療したとか、そういった経過なんか本質的には何の関係もありません。それまで百万回安全確認をし、一旦停止をして運転していようが、次の角で飛び出してくるかもしれない子供は、それは何の関係もない、まったく新しい局面のはずです。
そういう意味では反復継続なんか全然していないです。目の前の現実は、常に新鮮です。かけがえの無い一回性をもって立ち現れてきます。そう思えば、新人の頃のトキメキも充実も常に新たになっていなければ嘘だとも思うのですね。暇つぶしや、興味本位で仕事をしているのでなければ。好きでその仕事や物事をやり始めたのであれば、あなたを惹きつけた魅力は常に常に眼前にあります。ただ、それが見えなくなっているだけではないかと。
なぜ見えなくなっているか?これは簡単だと思います。
@精神(感性と知性)が磨耗している or/and
A肉体が疲労している
のでしょう。
面白さというのは、感性が瑞々しく、ゴムのように弾性をもって張ってないと、感じにくいです。また知性が研ぎ澄まされていなければ、何を見ても見えていないようになってしまうでしょう。知性と感性が張っていれば、どんなことにも新鮮な驚きがあり、新たな発見があり、それに感性が共鳴し、心は不思議な音を鳴らすでしょう。子供は虫をつかまえてきて、一日中飽きもせず眺めています。彼の頭のなかはめまぐるしく廻っており、心は戦慄しているでしょう。「どうしてこんなモノがこの世にいるのだろう」「どうしてこんなに触角が長いのだろう」「どうやって飛ぶのだろう」「どうやってエサを食べるのだろう」「あ、鳴いた!なんて不思議な音だろう。どうやって音を出すのだろう?」、、、、、、。
それがいつしか年をとると、「なんだ、虫か」「きゃー、虫、気持ち悪い!」で終わりになっちゃう。子供時代に比べて、なーんにも見てない。目には映ってるけど、その目は既に節穴状態になってるから、何も見えてない。何も知覚しない。だから発見もないし、感動も無い。虫は「虫」というのっぺりとした抽象的な記号で処理されてしまう。
これが嵩じていけばどうなるかというと、要するに「精神の死」です。何を見ても、なにを聞いても感動しない。知性も感性もたるみきっていて、知覚能力が極端に乏しくなってきて、どんな刺激にも反応しない。そして表情を失い、デスマスクになり、ついには脳死のようになる。これは怖いです。
その前駆症状として、全てが抽象的な記号処理をするようになったらヤバイです。海をみても、「あ、海だ」で終わり。海なんか、場所により、季節により、日により、天候により、時間により、表情を千変万化させます。ひとつとして同じ海など存在しない。感性優れたアーティストなどは、海の表情の微細な違いを汲み取り、心を感応させる。そして、その豊かな表情の美しさを少しでも表現しようとして必死になる。でも、精神が棺桶に片足突っ込んでるような奴は、「ふーん、海だ」で終わりです。それはその人にとってもヤバイことだと思いますし、僕としてもそういう人間に何の魅力も感じない。だって人間から精神をとってしまえば、ただの物体でしかないですから。
あともう一つは単純に肉体の疲労です。特に慢性疲労、過労。精神は体調にビビッドに反映されますから、肉体が弾性を失えば、心もまた弾性を失うのは道理でしょう。また、単純に疲れてるときは運動機能が低下しますから、箸の上げ下げだけでも面倒くさいですよね。立ち上がるという行為自体に苦痛を感じるようになる。面白さを感じるにも一定の体力というのが必要です。だから、やたらなんでも面倒くさく感じられるようになったら、精神にガタがきてるんじゃないかと疑うとともに、肉体もイカれ始めてるんじゃないかと疑ったらいいかと思います。
ところで、面倒くさがり屋の僕としては、面倒くさがりであるだけに、面倒くささにはウルサクなりたいですね。「あ、それは面倒くさくてもイイもの、これは面倒くさく感じたらイケナイもの」とか、そのあたりの審査にはシビアになりたいと思ってます。
なんで僕はこんな事にこだわるのでしょうか。「面倒くさいものは面倒くさい、それでいいじゃん」とご指摘のむきもあるでしょう。だから、それがB型気質なのですね。なんでもかんでも一度は「俺フィルター」を通さないと気が済まない、全てにわたって自分オリジナルな基準をもってないと気が済まないわけです。もう、業みたいなものです。ただ、このフィルターがなければ、これだけ文章を量産できないかもしれませんし、そもそも最初からこんなエッセイなんか書こうと思わないかもしれません。
ともあれ、なにかに「面倒くさいな」と感じられたら、「なんでそんなに面倒くさいのだろう」と心と体のチェックしてみるチャンスなのかもしれません。
写真・文:田村
写真は、South Headからシティ方面を(望遠)で望む。
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